夢の残り火編 2話 森に残った小さな声
北の森へ向かう道は、町の裏手から細く伸びていた。
かつては薪を運ぶために使われていた道らしい。荷車が通れるだけの幅はあるが、今は雑草が伸び、所々でぬかるんでいる。道の脇には切り倒された古い丸太が積まれたまま放置され、その表面には苔が薄く広がっていた。
空はまだ明るい。
けれど森の入口は、昼の光を拒むように暗かった。
木々が高く枝を伸ばし、葉が重なり合って空を隠している。風が通るたび、枝葉がざわめき、その奥から何かがこちらを見ているような気配がした。
リシアは足を止め、胸元の徽章に触れた。
王国騎士団直属歌術隊の証。
その冷たい感触が、今は少しだけ自分を現実に繋ぎ止めてくれる。
「怖いのか」
横からカイルが言った。
彼はガルドから受け取った短槍を握っている。慣れない武器なのだろう。手元は落ち着かず、指が何度も柄を握り直していた。
リシアは森から目を逸らさずに答えた。
「怖いです」
カイルは虚を突かれたようにリシアを見た。
「……そこは、歌術師なんだから平気です、とか言うところじゃないのか」
「言ってほしいですか?」
「いや、別に」
「なら、言いません」
リシアがそう返すと、カイルは少しだけ口をへの字に曲げた。
笑うほどではない。
けれど、張り詰めていた表情がわずかに緩んだ。
森へ入ることになったのは三人だった。
カイル。
リシア。
そして、町の森番をしているドランという中年の男。
ドランは四十代半ばほどで、細身だが足取りはしっかりしている。弓と鉈を持ち、腰には獣除けの鈴を下げていた。戦争には行かなかったらしい。だがそれは幸運だったからではなく、若い頃に足を悪くして徴兵を免れたからだと、町の人々の心歌が小さく囁いていた。
ドランは森の入口で膝をつき、泥に残った跡を確認している。
「影狼は二、いや三体はいるな。柵の近くをうろついていたのは一体だけだが、森の奥に群れがいるかもしれん」
「トマは?」
カイルが食い気味に尋ねる。
「子どもの足跡はあった。小さい。北の沢へ向かったように見える」
「だったら早く―」
「待ってください」
リシアはカイルの袖を掴んだ。
カイルの肩が跳ねる。
「また止めるのかよ」
「止めます。森へ入る前に、確認しなければいけないことがあります」
「確認してる間にトマが死んだらどうする!」
カイルの怒鳴り声が、森の入口に響いた。
木々の奥で鳥が飛び立つ。
リシアは一瞬だけ目を伏せた。
焦りは分かる。
むしろ、分かりすぎるほどだった。
カイルの心歌は、強く荒れている。
―急げ。
―早く行け。
―考えてる暇なんかない。
―また遅れたら。
―また守れなかったら。
その音は、リシア自身の胸まで急かしてくる。
今すぐ走れ。
歌え。
励ませ。
カイルを前へ出せ。
かつて戦場で何度も聞いた、進軍の前の心歌に似ていた。
リシアは唇を引き結ぶ。
ここでカイルを勇気づける歌を歌えば、彼は走るだろう。
恐怖を押し殺し、後悔に背中を押され、森の奥へ飛び込む。
でも、それは救助ではない。
自分を罰するための突撃だ。
「カイルさん」
リシアは静かに言った。
「あなたはトマくんを助けたいんですよね」
「当たり前だ!」
「なら、助けるために動いてください」
「動こうとしてるだろ!」
「いいえ。今のあなたは、死にに行こうとしています」
短槍の柄を握るカイルの手が止まった。
ドランも息を呑む。
リシアはカイルから目を逸らさなかった。
「トマくんを助けたい気持ちは本物です。でも、同時にあなたは、自分が許せない。昨日、ミラさんを抱えて逃げたことを、トマくんの手を掴めなかったことを、ずっと責めている」
「……分かったような口を」
「分かってはいません」
リシアはすぐに首を振った。
「私は、あなたの痛みを全部分かったとは言えません。でも、聞こえます。あなたが自分に向けている怒りが」
カイルは歯を食いしばった。
「だったら何だよ。怒っちゃ駄目なのか」
「怒っていいです。怖がってもいい。後悔してもいい。でも、その全部を持ったまま、トマくんを助けに行くんです。あなたが死んだら、トマくんは帰れません」
「……」
「私は、あなたに立てとは歌いません」
リシアは少しだけ声を落とした。
「でも、止まって考える時間を守る歌なら、歌えます」
カイルの目が揺れた。
彼が何か言い返す前に、肩の上のシルが、ちい、と鳴いた。
リシアの耳元で、まるで賛成するように。
カイルはシルを見た。
「……そのリス、分かったみたいな顔するな」
シルは木の実を抱えたまま、ふん、と胸を張った。
「今のはたぶん、分かった顔です」
「腹立つな」
「時々、私もそう思います」
リシアがそう言うと、シルは不服そうに尻尾でリシアの頬を叩いた。
緊迫した空気の中で、ドランが小さく咳払いをした。
「……急ぐのは確かだが、歌術師さんの言うことも間違っちゃいない。森で慌てた奴から獣に食われる」
カイルは悔しそうに俯いた。
だが、すぐに短槍を握り直した。
「分かった。走らない。勝手に飛び出さない。だから早く行こう」
「はい」
リシアは頷いた。
まず一つ。
暴走は止められた。
けれど、それは解決ではない。
森の奥には、まだ幼い心歌がか細く震えている。
―お姉ちゃん。
その声は、時間と共に薄くなっている気がした。
三人は森へ入った。
足元の土は柔らかく、踏むたびに湿った音を立てる。木の根が複雑に絡み、焦って走ればすぐに足を取られそうだった。ドランは先頭で足跡を読み、リシアは中央、カイルは後ろにつく。
カイルは何度も前へ出そうになった。
そのたび、短槍の柄を握る手に力が入る。
けれど、踏みとどまっていた。
リシアはその背中を横目で見ながら、耳を澄ませる。
森には、音が多かった。
葉擦れ。
小鳥の羽音。
遠くの沢の水音。
獣の匂い。
折れた枝。
そして、人の残した想い。
昨日、この森で何があったのか。
折れた剣から見た残響は断片的だった。
だが、森そのものにもまだ痕跡が残っているはずだ。
リシアは歩きながら、ゆっくりと息を整えた。
残響歌を無理に聞こうとすれば、過去の恐怖に呑まれる。
だから、深く沈みすぎないように、表面をなぞる。
すると、足元の土から微かな音が上がった。
―走って。
―こっち。
―痛い。
―トマ、隠れて。
ミラの声。
カイルの息。
トマの泣き声。
リシアは眉を寄せる。
心歌でも記憶でもなく、森に落ちた感情の欠片。
それが、細切れの歌のように漂っている。
「右です」
リシアは言った。
ドランが振り返る。
「足跡は沢の方だ」
「分かっています。でも、一度右へ逸れています。たぶん、魔物から逃げるために」
ドランは足元を見た。
最初は半信半疑だったが、少し先の低木の枝に布の切れ端を見つけると、顔つきが変わった。
「ミラの服だ」
カイルが息を詰める。
「昨日、枝に引っかけたんだ……」
リシアはその布へ手を伸ばしかけ、止めた。
残響が強い。
触れれば、昨日の恐怖が流れ込んでくる。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、ここで避けては先へ進めない。
「シル。少しだけ支えて」
肩の上のシルが、リシアの髪を小さく掴んだ。
「髪は痛い」
ちい。
「分かった。支えてくれてるんだね」
リシアは苦笑し、布の切れ端に指を触れた。
瞬間、森が揺れた。
視界の奥に、昨日の光景が滲む。
走るミラ。
後ろを振り返るカイル。
トマを抱き寄せようとする手。
影。
黒い獣の眼。
爪が土を抉る。
トマが泣く。
『火、やだ……!』
リシアははっとした。
火。
ミラが町で言っていた。
トマは火が怖い。昔、工房で火傷しかけてから。
だから森の中で火を見れば逃げるはず。
いや、そもそも森の中に火などあるのか。
残響はさらに続く。
トマの小さな手が、何かを握っている。
丸いもの。
焼き栗。
ミラが持たせたものだろうか。
その香ばしい匂いに、影狼が反応する。
いや、違う。
影狼が反応したのは焼き栗ではない。
もっと別の匂い。
焦げた鉄。
古い炉。
煤。
リシアは胸を押さえた。
「大丈夫か」
カイルが駆け寄る。
「大丈夫です。ただ……トマくんは火を怖がっている」
「そんなのミラが言ってただろ」
「はい。でも、それだけじゃない気がします。火の匂いに近づいているようにも感じました」
「怖いのに近づくわけないだろ」
「私もそう思います」
リシアは布から手を離した。
指先が冷たい。
「だから、何かがおかしいんです」
ドランが森の奥を見る。
「北の沢の先に、古い炭焼き小屋がある。戦前までは使っていたが、今はほとんど誰も近づかん。炉跡が残っているから、火の匂いがするならそこかもしれない」
「トマがそこへ?」
「隠れる場所は多い。子どもなら入り込める隙間もある」
カイルはすぐに歩き出そうとした。
だが、今度は自分で足を止めた。
それから、リシアを見た。
「……行くぞ。だけど、勝手には走らない」
「はい」
リシアは頷いた。
少しだけ、カイルの音が変わった。
焦りは消えていない。
後悔も消えていない。
けれど、その中に細い理性の糸が戻っている。
それを守らなければならない。
三人は森の奥へ進んだ。
進むにつれて、空気が重くなる。
木々の間に霧のようなものが漂い始めた。普通の霧ではない。灰を水に溶かしたような、わずかに黒ずんだ気配。
シルが肩の上で身を低くした。
尻尾の毛が少し膨らんでいる。
「シル?」
リシアが声をかけても、シルは返事をしなかった。
ただ、森の奥を睨む。
その反応に、リシアの背筋が冷えた。
シルは普通の危険にも反応する。
けれど、こんなふうに静かになる時は、たいてい歌詞帳や残響歌、あるいはもっと古い何かに関わる場所だった。
リシアは腰のポーチに触れた。
歌詞帳が、わずかに震えている。
まただ。
火の印。
星詠みの歌の欠片かもしれない何か。
それが、この森の奥に反応している。
「ドランさん」
「何だ」
「この森に、昔から何か言い伝えはありますか」
「言い伝え?」
「歌や、火や、星に関わるようなものです」
ドランは不思議そうな顔をした。
「この町は鍛冶町だから、火の言い伝えなら山ほどある。炉の火を絶やすなとか、初火には祈りを捧げろとか。だが、星となると……」
彼は少し考えた。
「昔、炭焼き小屋の近くに小さな祠があった。炉の火を見守る星の神様だとか、古い職人たちは言っていたな。戦争中に壊れて、そのままだが」
「星の神様……」
リシアの胸の奥で、何かが小さく鳴った。
星詠みの歌。
失われた伝説の歌。
それと、この町の炉に残る火がどう繋がるのかは分からない。
けれど、偶然ではない気がした。
リシアがさらに聞こうとした時、カイルが低く言った。
「止まれ」
その声に、全員が足を止めた。
前方の茂みが揺れている。
風ではない。
リシアは息を殺した。
黒い影が、木々の間から現れた。
狼に似ている。
だが、普通の狼ではない。体は一回り大きく、毛並みは夜を固めたように黒い。目だけが灰色に光り、口元からは薄い靄のようなものが漏れている。
影狼。
一体。
いや、奥にもう一つの気配。
「二体だ」
ドランが弓を構える。
カイルも短槍を前に出した。
だが、手が震えている。
リシアは歌うべきか迷った。
静律結界は、人や場の恐怖を鎮める術だ。魔物そのものを止める力ではない。影狼の動きを止めることはできない。
なら、守護詩か。
カイルの恐怖に潰されないよう、一歩を選ぶ時間を作る歌。
けれど、今歌えばカイルを戦わせることになる。
進軍詩とは違う。
それでも、恐怖の中で武器を握らせる歌であることに変わりはない。
リシアの喉が強張る。
影狼が唸った。
低い音が森を震わせる。
カイルの心歌が乱れる。
―まただ。
―剣が折れる。
―ミラが倒れる。
―トマが連れていかれる。
―俺が。
―俺が。
影狼が跳んだ。
「カイル!」
ドランが矢を放つ。
矢は影狼の肩を掠めたが、止まらない。
カイルが短槍を突き出す。
動きは悪くない。
けれど力が入りすぎていた。影狼は槍先を避け、横からカイルへ飛びかかる。
リシアは咄嗟に歌った。
短い旋律。
進ませる歌ではない。
止める歌でもない。
恐怖に飲まれる心の周りに、薄い膜を張るような歌。
「――息を、ひとつ」
声が森に溶ける。
カイルの肩が一瞬だけ落ちた。
力が抜ける。
そのわずかな変化で、彼は横へ転がることができた。影狼の爪が空を切り、木の幹を削る。
「今です!」
リシアが叫ぶ。
ドランの二射目が影狼の後脚に刺さった。
影狼が吠える。
カイルは転がった体勢から短槍を振り、影狼の鼻先を払った。
致命傷ではない。
だが、距離は取れた。
もう一体の影狼が、リシアの方へ回り込む。
シルが肩の上で鋭く鳴いた。
リシアは後退する。
戦えない。
剣も槍も扱えない。
それでも、逃げるだけでは駄目だ。
リシアは影狼の目を見た。
その奥に、わずかな違和感があった。
普通の魔物の怒りではない。
何かに追い立てられている。
いや、引き寄せられている。
影狼の喉元に、黒い線のようなものが見えた。
楽譜。
いや、譜面に似た傷。
黒く滲む、歪んだ音の印。
「黒譜……?」
呟いた瞬間、影狼が跳んだ。
「リシア!」
カイルの叫びが飛ぶ。
リシアは動けなかった。
影狼の爪が迫る。
その直前、シルが肩から飛び出した。
「シル!」
銀色の小さな体が、影狼の顔の前を横切る。
影狼は反射的に首を振った。
その隙に、リシアは後ろへ倒れ込むように転がった。爪がローブの端を裂き、淡い青の布が宙を舞う。
シルは近くの枝へ飛び移り、影狼に向かって威嚇するように尻尾を膨らませた。
小さな体。
ふわふわの尻尾。
だが、その目には明らかな怒りがあった。
「シル、危ない!」
リシアが叫ぶ。
影狼が枝へ飛びかかろうとする。
その瞬間、カイルが横から短槍を突き入れた。
今度は焦りに任せた突きではなかった。
影狼の動きを見て、肩を狙い、距離を保つ。
短槍の先が影狼の体を打ち、黒い靄が散った。
ドランの矢がさらに飛ぶ。
二体の影狼は低く唸り、森の奥へ退いていった。
完全に倒したわけではない。
追い払っただけだ。
だが、今はそれで十分だった。
カイルは荒い息を吐きながら、リシアを見た。
「大丈夫か!」
「はい。シルが助けてくれました」
枝の上のシルは、当然だと言わんばかりに胸を張っていた。
だが、すぐに足元が滑り、枝から落ちかける。
「あっ」
リシアが慌てて両手を伸ばすと、シルはぽすんとその腕の中に落ちた。
「格好つけたのに、最後が惜しい」
シルは不満そうに鳴いた。
その様子に、カイルが小さく笑った。
本当に小さな笑いだった。
けれど、さっきまでの彼にはなかった音だった。
リシアはほっとしかけたが、すぐに表情を引き締めた。
影狼の喉元。
黒い譜面のような傷。
あれはただの魔物ではない。
誰かが影狼をこの森へ引き寄せているのか。
あるいは、トマを狙わせているのか。
「リシア」
カイルが呼んだ。
「さっきの歌……あれ、何だ」
「守護詩に近いものです」
「俺を無理やり動かしたのか」
その問いには、警戒があった。
当然だ。
カイルもまた、歌に背中を押されることを怖がっているのだ。
リシアは首を横に振った。
「違います。あなたの代わりに動きを決めたわけではありません。ただ、恐怖で体が固まりきる前に、一呼吸置けるようにしただけです」
「……一呼吸」
「はい。動くか、避けるか、止まるか。それを選ぶ時間を作る歌です」
カイルは自分の手を見た。
「俺、避けたんだな」
「はい」
「突っ込まなかった」
「はい」
カイルは短槍を握り直した。
「……なら、いい」
それだけ言って、彼は前を向いた。
リシアは胸を撫で下ろす。
歌が拒絶されなかったわけではない。
けれど、カイルは今の歌を自分で受け止めた。
それは小さな変化だった。
森の奥へ進むと、やがて沢の音が近くなった。
細い水流が石の間を流れ、その向こうに朽ちかけた小屋が見えた。木造の壁は傾き、屋根の一部は崩れている。隣には古い炭焼き窯があり、黒い石で組まれた丸い入口がぽっかりと口を開けていた。
その周囲だけ、空気が濃い。
火の匂い。
煤の匂い。
そして、何かを封じたような黒い気配。
リシアの歌詞帳が、はっきりと震えた。
「ここです」
リシアは囁いた。
ドランが周囲を確認する。
「足跡がある。子どものものだ。窯の方へ……いや、途中で乱れてる」
カイルが小屋へ走り出そうとした。
だが、また踏みとどまる。
「トマ!」
彼は叫ぶ代わりに、声を抑えて呼んだ。
「トマ、いるか!」
返事はない。
リシアは耳を澄ませた。
心歌を探る。
けれど、森の音が邪魔をする。
沢の音。
影狼の残した黒い気配。
炭焼き窯に染み付いた古い火の残響。
それらが重なり、トマの小さな心歌が見つからない。
リシアは焦った。
聞こえない。
さっきまでは聞こえていたのに。
―お姉ちゃん。
あの声が、今は遠い。
リシアは小屋の前に膝をつき、地面に落ちていた小さな靴を拾った。
片方だけ。
泥に汚れ、紐が切れている。
ミラが言っていた靴だろう。
リシアは手の中の靴を見つめた。
残響を聞く。
でも、怖い。
さっきの影狼との戦いで、心が揺れている。ここで強い残響に触れれば、今度こそ呑まれるかもしれない。
それでも、時間はない。
「リシア?」
カイルの声が不安げに揺れる。
リシアは小さく息を吸った。
「少しだけ、見ます」
靴を両手で包む。
次の瞬間、冷たい恐怖が胸を突き抜けた。
暗い。
狭い。
息が苦しい。
トマの視界だ。
地面が近い。
足が痛い。
靴が脱げた。
でも拾えない。
後ろで影狼が唸る。
怖い。
怖い。
お姉ちゃん。
カイル兄ちゃん。
誰か。
リシアの喉が詰まる。
子どもの恐怖は、あまりにも生々しかった。
戦場で聞いた兵士の恐怖とは違う。
理屈も覚悟もない、ただ助けを求める小さな心。
その中に、火の匂いが混ざる。
トマは炭焼き窯へ逃げた。
暗い入口。
煤の匂い。
でも、中には入らなかった。
なぜなら、奥に小さな赤い光があったから。
火。
怖い。
トマは泣きながら後ずさる。
その時、どこかから歌が聞こえた。
リシアははっとした。
歌。
子守唄のような、古い旋律。
けれど、それは優しい歌ではなかった。
音が歪んでいる。
歌の形をした黒い糸が、トマの心を窯の奥へ引こうとしている。
―おいで。
―火は怖くない。
―眠ればいい。
―全部、忘れればいい。
「違う……」
リシアは呻いた。
これは心歌ではない。
残響でもない。
誰かが、歌を使っている。
けれど、普通の歌魔術ではない。
黒い譜面を重ねたような歪み。
黒譜術。
トマの心歌が弱くなっていたのは、恐怖だけが理由ではない。
この黒い歌が、彼の声を覆っている。
「リシア!」
カイルの声で、リシアは現実に引き戻された。
気付けば、膝をついたまま大きく震えていた。靴を握る手に力が入りすぎ、指先が白くなっている。
シルがリシアの腕を前足で叩いていた。
ちい、ちい、と必死に鳴いている。
「……大丈夫」
リシアは息を整えた。
「トマくんは炭焼き窯の近くにいます。でも、中ではないかもしれません。火を怖がって、途中で逃げた」
「どこへ!」
「分かりません。ただ、黒い歌が……心歌を覆っています」
「黒い歌?」
カイルが眉をひそめる。
説明している時間はない。
リシアは立ち上がり、炭焼き窯の周囲を見た。
窯の奥には確かに赤い光が見える。
自然に残った火ではない。
古い炉に残る火でもない。
黒い譜面のような術式が、火の形をして揺れている。
トマを誘い込むための偽の火。
リシアは唇を噛んだ。
ミラは言っていた。
トマは火が怖い。
だからリシアは、火から離れた場所を探すべきだと思っていた。
でも、それは半分だけ正しかった。
トマは火を怖がって逃げた。
だが、黒い歌はその恐怖を利用して、彼の心を混乱させている。
怖いものから逃げるうちに、どこへ向かっているのか分からなくなるように。
リシアは自分の判断が遅れたことに気付いた。
火が怖い。
その情報に引っ張られすぎた。
心歌も残響も、聞いた瞬間に答えになるわけではない。
解釈を間違えれば、道を誤る。
「すみません」
リシアは小さく呟いた。
カイルが焦れたように言う。
「謝ってる場合かよ」
「はい。だから、今から取り戻します」
リシアは歌詞帳を開いた。
ページが勝手にめくれる。
火の印が浮かんだページで止まり、その端が黒く滲んでいた。
シルが低く唸る。
黒譜術の影響。
歌詞帳の白い紙に、墨を落としたような線が広がっていく。
その線は音符の形をしていた。
リシアの歌を遮るように。
「歌えないのか」
カイルが言う。
「普通に歌えば、たぶん届きません」
「じゃあどうする」
リシアは窯の奥の黒い火を見た。
そこから聞こえる歪んだ歌。
トマの心を眠らせようとする歌。
それを打ち消すには、強い歌が必要だ。
でも、励ましの歌では駄目。
進ませる歌でも駄目。
トマは怖がっている。
火も、森も、影狼も、全部怖い。
その恐怖を消してはいけない。
怖くなくなる歌ではなく、怖いまま声を出せる歌。
リシアは目を閉じた。
心歌を探す。
トマの声。
ミラの言葉。
カイルの後悔。
ガルドの閉じた炉。
消えかけた町の残り火。
それらが胸の中で混ざる。
強すぎる感情に、自分の心が引っ張られそうになる。
―助けたい。
―間に合わなかったら。
―また、私のせいで。
それはリシア自身の声だった。
アイシャの影がよぎる。
戦場。
進軍詩。
帰ってこなかった幼なじみ。
喉が震える。
歌えば、誰かをまた傷つけるかもしれない。
歌わなければ、今ここでトマの声は黒い歌に呑まれるかもしれない。
シルがリシアの手に前足を乗せた。
小さく、温かい重み。
リシアは目を開けた。
「……歌います」
カイルが息を呑む。
「でも、トマくんを立ち上がらせる歌じゃありません。ここにいるよ、と返事をしてもらうための歌です」
リシアは炭焼き窯に向き直った。
黒い火が揺れる。
それに合わせて、歪んだ旋律が強くなる。
リシアは歌い出した。
最初の一音は、とても小さかった。
森に吸い込まれそうなほど。
けれど、その音はまっすぐだった。
怖くないよ、とは歌わない。
泣かないで、とも歌わない。
大丈夫だと決めつけない。
ただ、呼びかける。
―怖いなら、怖いままでいい。
―泣いているなら、その声を隠さなくていい。
―小さな声でも、消えていないなら。
―ここへ返して。
黒い歌がリシアの旋律に絡みつく。
喉に痛みが走った。
まるで歌そのものを削られているようだった。
無音領域ほど完全ではない。
けれど、黒譜術がリシアの歌を歪ませようとしている。
音が外れる。
息が乱れる。
リシアの中に、トマの恐怖が流れ込む。
暗い。
怖い。
火が怖い。
狼が怖い。
お姉ちゃんが泣くのが怖い。
カイル兄ちゃんが怒るのが怖い。
自分のせいで皆が傷つくのが怖い。
リシアの目から涙が落ちた。
それでも歌を止めなかった。
ここで綺麗な言葉に逃げてはいけない。
トマは勇敢な子ではない。
泣き虫で、暗いところが苦手で、火も怖い。
でも、それでいい。
怖いまま助けを呼ぶことは、弱さではない。
リシアは旋律を変えた。
共鳴詩ではない。
まだトマだけの歌詞には届いていない。
けれど、彼の声を返すための反響歌。
「……聞こえたら、返して」
リシアは歌の中で囁いた。
「あなたの声は、まだ消えていない」
黒い火が揺らいだ。
森の奥で、何かが小さく震える。
カイルが息を止める。
ドランが耳を澄ます。
そして、炭焼き窯の裏手。
崩れた石積みのさらに奥から。
小さな声が聞こえた。
「……お姉、ちゃん」
カイルが弾かれたように振り向く。
「トマ!」
「待って!」
リシアが叫ぶ。
その瞬間、炭焼き窯の黒い火が大きく膨らんだ。
影が地面を走る。
窯の裏手から、黒い靄をまとった影狼が現れた。
さっきの二体より大きい。
喉元には、はっきりと黒い譜面の印が刻まれている。
その背後、崩れた石の隙間に、小さな男の子がうずくまっていた。
泥だらけで、片足は裸足。
顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。
でも、生きている。
「トマ!」
カイルが叫ぶ。
影狼が唸り、トマの前に立ちはだかる。
ドランが矢を構えるが、角度が悪い。外せばトマに当たる。
カイルが短槍を握る。
今にも飛び出しそうだった。
リシアは喉の痛みを堪えながら、カイルの背中へ声をかけた。
「カイルさん」
「分かってる!」
カイルは叫んだ。
けれど、走らなかった。
足を止め、短槍を構え、影狼の動きを見ている。
その横顔に、恐怖はある。
怒りもある。
でも、昨日と同じではない。
リシアは歌詞帳を握りしめた。
黒譜術に削られた喉が痛む。
静律結界はもう長く使えない。
反響歌も、トマの声を返すだけで精一杯だった。
それでも、まだできることがある。
リシアはトマを見た。
小さな男の子は、恐怖に震えながらも、こちらを見ている。
声を返してくれた。
なら、次は選ぶ時間を守る。
「トマくん!」
リシアは叫んだ。
「目を閉じないで! 怖いままでいいから、カイルさんの声を聞いて!」
トマの唇が震える。
影狼が一歩踏み出す。
カイルが低く言った。
「トマ。俺を見るな」
トマが泣きながら目を瞬かせる。
「俺じゃなくて、右の石を見るんだ。そう、その割れてる石。そこまで這えるか」
「こわい……」
「怖いよな。俺も怖い」
カイルの声は震えていた。
でも、逃げていなかった。
「でも、お前を連れて帰る。だから、俺が合図したら、右へ動け」
影狼が腰を低くする。
跳ぶ前の姿勢。
リシアは最後の力で、短い守護詩を紡いだ。
カイルにではない。
トマに。
恐怖で潰れそうな小さな心を、ほんの一瞬だけ包むために。
―泣いてもいい。
―震えてもいい。
―それでも、手を伸ばせる。
影狼が跳んだ。
同時に、カイルが前へ出る。
突撃ではない。
影狼の進路を塞ぐための一歩。
短槍が横に払われ、影狼の爪を受け流す。衝撃でカイルの体が傾くが、彼は踏ん張った。
「今!」
トマが泣きながら右へ這う。
ドランの矢が飛ぶ。
影狼の肩に刺さり、黒い靄が弾けた。
リシアはトマへ走った。
戦えない。
でも、手を伸ばすことはできる。
崩れた石の隙間に手を入れ、トマの腕を掴む。
「もう少し!」
トマは泣きながらリシアの手を握った。
その小さな手が、驚くほど冷たい。
リシアは力いっぱい引いた。
シルが肩から飛び降り、トマの服の端を小さな前足で引っ張る。
「シル、それは助けてるの? 応援してるの?」
こんな時なのに、思わず言葉が出た。
シルは必死の顔で、ちい、と鳴いた。
トマの体が石の隙間から抜ける。
その瞬間、影狼がカイルを弾き飛ばした。
「カイル!」
カイルは地面に転がったが、短槍を離さなかった。
影狼が再び跳ぼうとする。
リシアはトマを抱えたまま、歌おうとした。
だが、声が出ない。
黒譜術に削られ、喉が限界だった。
音にならない息だけが漏れる。
まずい。
そう思った時、トマが震える手で、何かを差し出した。
焼き栗だった。
泥だらけになり、半分潰れている。
「これ……お姉ちゃんに、持って帰るの……」
その言葉を聞いた瞬間、リシアの胸の奥で、小さな旋律が生まれた。
怖くても。
泣いても。
火が怖くても。
森が暗くても。
トマは、それを手放さなかった。
ミラへ持って帰るために。
リシアは声にならない声で、そっとその旋律をなぞった。
歌ではない。
ほとんど息。
けれど、確かに音だった。
それに反応したように、歌詞帳が淡く光る。
黒く滲んでいたページの端に、小さな火の線が戻った。
影狼が怯んだ。
黒い譜面の印が、一瞬だけ歪む。
「カイルさん!」
リシアの声は掠れていた。
でも届いた。
カイルは起き上がり、短槍を構え直す。
ドランが最後の矢を放つ。
カイルの短槍が影狼の足元を払う。
影狼は大きく体勢を崩し、黒い靄を散らしながら森の奥へ退いた。
追う余裕はなかった。
三人とも息が上がっている。
トマはリシアの腕の中で泣いていた。
リシアはその小さな背を抱きしめる。
「よく、返事をしてくれました」
「こわかった……」
「はい」
「火、こわかった……狼も、暗いのも……」
「はい」
「でも、焼き栗、落とさなかった……」
トマは震えながら、潰れた焼き栗を握っていた。
リシアは目を細める。
「ミラさん、喜びます」
「怒るかな……」
「たぶん、泣きながら怒ります」
トマは涙で濡れた顔のまま、少しだけ頷いた。
シルがトマの膝に乗り、焼き栗をじっと見た。
リシアはすぐに言った。
「シル、それは駄目」
シルは何もしていないという顔をした。
「見てたよね」
ちい。
「見てただけ、じゃないです」
トマが小さく笑った。
本当に小さな笑いだった。
その笑い声を聞いた時、カイルがその場に膝をついた。
短槍を地面に置き、両手で顔を覆う。
「……よかった」
それだけを何度も繰り返した。
リシアはカイルに声をかけようとして、やめた。
今は、言葉はいらない。
彼が自分で泣けるなら、それを邪魔してはいけない。
ドランが周囲を警戒しながら言った。
「早く戻ろう。影狼がまた来る前に」
「はい」
リシアは頷いた。
だが、立ち上がろうとした時、炭焼き窯の黒い火がふっと消えた。
その奥に、何かが残っている。
リシアはトマをカイルに預け、窯へ近づいた。
「おい、危ないぞ」
「少しだけ」
窯の入口の石に、黒い線が刻まれていた。
譜面のような模様。
リシアが指を近づけると、シルが鋭く鳴いた。
触るな。
そう言われた気がして、リシアは手を止める。
黒い線の中央には、小さな文字のようなものがあった。
普通の文字ではない。
古い歌譜。
それでも、リシアにはなぜか一部だけ読めた。
『火の断章は、まだ眠らせておけ。』
リシアの背筋が冷えた。
火の断章。
歌詞帳に浮かんだ火の印。
星詠みの歌の七つの断章。
それを知る者が、この森に黒譜術を仕掛けたのか。
ただトマを襲わせるためではない。
この町の火に関わる何かを、封じるために。
リシアは歌詞帳を開いた。
火の印の下に、新しい一節が浮かびかけている。
けれど、まだ不完全だった。
文字は淡く、途中で途切れている。
『怖くても、消さなかった小さな火は……』
そこから先が、白紙のまま止まっていた。
まだ歌詞は完成していない。
トマを助けた。
でも、この町の事件は終わっていない。
ガルドの炉。
ミラの後悔。
カイルの折れた剣。
そして、火の断章を封じようとする黒い譜面。
リシアは窯の奥を見つめた。
そこにはもう火はない。
けれど、灰の底で何かが静かに息をしているような気がした。
町へ戻る道で、トマはカイルの背中に負われていた。
小さな手には、まだ潰れた焼き栗が握られている。
カイルは何度も振り返り、リシアを見る。
「さっきの歌……」
「はい」
「俺、少しだけ分かった気がする」
「何をですか」
「あんたの歌は、行けって言う歌じゃなかった」
リシアは黙って聞いた。
「俺が行くかどうかを、俺に戻す歌だった」
リシアの胸が、少しだけ熱くなる。
「……そうありたいと思っています」
「まだ、よく分からないけどな」
「私も、まだ分かりません」
「歌術師なのに?」
「歌術師だから、分からないことが増えました」
カイルは不思議そうにリシアを見た。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「変な人だな」
「最近、よく言われます」
シルが肩の上で、同意するように鳴いた。
「シルは言わなくていいです」
森を抜ける頃、町の鐘が見えた。
遠くから人々の声が聞こえる。
ミラの声もあった。
トマが背中の上で顔を上げる。
「お姉ちゃん……」
カイルの歩幅が少し速くなる。
リシアはその後ろを歩きながら、胸元の歌詞帳に手を添えた。
第一の町で、リシアは一つの命を連れ帰ることができた。
けれど、歌詞はまだ完成していない。
炉の火は、まだ消えかけたままだ。
そして、リシアの歌を封じようとする者が、すでにこの町に影を落としている。
町の入口に立つガルドの姿が見えた。
老人は無言でカイルの背中のトマを見つめている。
その目の奥で、閉ざされていた心歌が、ほんのわずかに軋んだ。
―まだ、打てるのか。
リシアはその音を聞いた。
けれど、すぐには歌わなかった。
ここから先は、ガルド自身が向き合わなければならない火だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
森に残されたトマの小さな声。
リシアは歌魔術師として、その声を聞き取りました。
けれど、ラグナ工房町の火はまだ消えかけたままです。
ガルドが閉ざした炉、そして黒譜術の影。
次話では、この町に残る本当の火へ、リシアがさらに踏み込んでいきます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




