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夢の残り火編 2話 森に残った小さな声

 北の森へ向かう道は、町の裏手から細く伸びていた。


 かつては薪を運ぶために使われていた道らしい。荷車が通れるだけの幅はあるが、今は雑草が伸び、所々でぬかるんでいる。道の脇には切り倒された古い丸太が積まれたまま放置され、その表面には苔が薄く広がっていた。


 空はまだ明るい。


 けれど森の入口は、昼の光を拒むように暗かった。


 木々が高く枝を伸ばし、葉が重なり合って空を隠している。風が通るたび、枝葉がざわめき、その奥から何かがこちらを見ているような気配がした。


 リシアは足を止め、胸元の徽章に触れた。


 王国騎士団直属歌術隊の証。


 その冷たい感触が、今は少しだけ自分を現実に繋ぎ止めてくれる。


「怖いのか」


 横からカイルが言った。


 彼はガルドから受け取った短槍を握っている。慣れない武器なのだろう。手元は落ち着かず、指が何度も柄を握り直していた。


 リシアは森から目を逸らさずに答えた。


「怖いです」


 カイルは虚を突かれたようにリシアを見た。


「……そこは、歌術師なんだから平気です、とか言うところじゃないのか」


「言ってほしいですか?」


「いや、別に」


「なら、言いません」


 リシアがそう返すと、カイルは少しだけ口をへの字に曲げた。


 笑うほどではない。


 けれど、張り詰めていた表情がわずかに緩んだ。


 森へ入ることになったのは三人だった。


 カイル。


 リシア。


 そして、町の森番をしているドランという中年の男。


 ドランは四十代半ばほどで、細身だが足取りはしっかりしている。弓と鉈を持ち、腰には獣除けの鈴を下げていた。戦争には行かなかったらしい。だがそれは幸運だったからではなく、若い頃に足を悪くして徴兵を免れたからだと、町の人々の心歌が小さく囁いていた。


 ドランは森の入口で膝をつき、泥に残った跡を確認している。


「影狼は二、いや三体はいるな。柵の近くをうろついていたのは一体だけだが、森の奥に群れがいるかもしれん」


「トマは?」


 カイルが食い気味に尋ねる。


「子どもの足跡はあった。小さい。北の沢へ向かったように見える」


「だったら早く―」


「待ってください」


 リシアはカイルの袖を掴んだ。


 カイルの肩が跳ねる。


「また止めるのかよ」


「止めます。森へ入る前に、確認しなければいけないことがあります」


「確認してる間にトマが死んだらどうする!」


 カイルの怒鳴り声が、森の入口に響いた。


 木々の奥で鳥が飛び立つ。


 リシアは一瞬だけ目を伏せた。


 焦りは分かる。


 むしろ、分かりすぎるほどだった。


 カイルの心歌は、強く荒れている。


 ―急げ。


 ―早く行け。


 ―考えてる暇なんかない。


 ―また遅れたら。


 ―また守れなかったら。


 その音は、リシア自身の胸まで急かしてくる。


 今すぐ走れ。


 歌え。


 励ませ。


 カイルを前へ出せ。


 かつて戦場で何度も聞いた、進軍の前の心歌に似ていた。


 リシアは唇を引き結ぶ。


 ここでカイルを勇気づける歌を歌えば、彼は走るだろう。


 恐怖を押し殺し、後悔に背中を押され、森の奥へ飛び込む。


 でも、それは救助ではない。


 自分を罰するための突撃だ。


「カイルさん」


 リシアは静かに言った。


「あなたはトマくんを助けたいんですよね」


「当たり前だ!」


「なら、助けるために動いてください」


「動こうとしてるだろ!」


「いいえ。今のあなたは、死にに行こうとしています」


 短槍の柄を握るカイルの手が止まった。


 ドランも息を呑む。


 リシアはカイルから目を逸らさなかった。


「トマくんを助けたい気持ちは本物です。でも、同時にあなたは、自分が許せない。昨日、ミラさんを抱えて逃げたことを、トマくんの手を掴めなかったことを、ずっと責めている」


「……分かったような口を」


「分かってはいません」


 リシアはすぐに首を振った。


「私は、あなたの痛みを全部分かったとは言えません。でも、聞こえます。あなたが自分に向けている怒りが」


 カイルは歯を食いしばった。


「だったら何だよ。怒っちゃ駄目なのか」


「怒っていいです。怖がってもいい。後悔してもいい。でも、その全部を持ったまま、トマくんを助けに行くんです。あなたが死んだら、トマくんは帰れません」


「……」


「私は、あなたに立てとは歌いません」


 リシアは少しだけ声を落とした。


「でも、止まって考える時間を守る歌なら、歌えます」


 カイルの目が揺れた。


 彼が何か言い返す前に、肩の上のシルが、ちい、と鳴いた。


 リシアの耳元で、まるで賛成するように。


 カイルはシルを見た。


「……そのリス、分かったみたいな顔するな」


 シルは木の実を抱えたまま、ふん、と胸を張った。


「今のはたぶん、分かった顔です」


「腹立つな」


「時々、私もそう思います」


 リシアがそう言うと、シルは不服そうに尻尾でリシアの頬を叩いた。


 緊迫した空気の中で、ドランが小さく咳払いをした。


「……急ぐのは確かだが、歌術師さんの言うことも間違っちゃいない。森で慌てた奴から獣に食われる」


 カイルは悔しそうに俯いた。


 だが、すぐに短槍を握り直した。


「分かった。走らない。勝手に飛び出さない。だから早く行こう」


「はい」


 リシアは頷いた。


 まず一つ。


 暴走は止められた。


 けれど、それは解決ではない。


 森の奥には、まだ幼い心歌がか細く震えている。


 ―お姉ちゃん。


 その声は、時間と共に薄くなっている気がした。


 三人は森へ入った。


 足元の土は柔らかく、踏むたびに湿った音を立てる。木の根が複雑に絡み、焦って走ればすぐに足を取られそうだった。ドランは先頭で足跡を読み、リシアは中央、カイルは後ろにつく。


 カイルは何度も前へ出そうになった。


 そのたび、短槍の柄を握る手に力が入る。


 けれど、踏みとどまっていた。


 リシアはその背中を横目で見ながら、耳を澄ませる。


 森には、音が多かった。


 葉擦れ。


 小鳥の羽音。


 遠くの沢の水音。


 獣の匂い。


 折れた枝。


 そして、人の残した想い。


 昨日、この森で何があったのか。


 折れた剣から見た残響は断片的だった。


 だが、森そのものにもまだ痕跡が残っているはずだ。


 リシアは歩きながら、ゆっくりと息を整えた。


 残響歌を無理に聞こうとすれば、過去の恐怖に呑まれる。


 だから、深く沈みすぎないように、表面をなぞる。


 すると、足元の土から微かな音が上がった。


 ―走って。


 ―こっち。


 ―痛い。


 ―トマ、隠れて。


 ミラの声。


 カイルの息。


 トマの泣き声。


 リシアは眉を寄せる。


 心歌でも記憶でもなく、森に落ちた感情の欠片。


 それが、細切れの歌のように漂っている。


「右です」


 リシアは言った。


 ドランが振り返る。


「足跡は沢の方だ」


「分かっています。でも、一度右へ逸れています。たぶん、魔物から逃げるために」


 ドランは足元を見た。


 最初は半信半疑だったが、少し先の低木の枝に布の切れ端を見つけると、顔つきが変わった。


「ミラの服だ」


 カイルが息を詰める。


「昨日、枝に引っかけたんだ……」


 リシアはその布へ手を伸ばしかけ、止めた。


 残響が強い。


 触れれば、昨日の恐怖が流れ込んでくる。


 怖くないと言えば嘘になる。


 けれど、ここで避けては先へ進めない。


「シル。少しだけ支えて」


 肩の上のシルが、リシアの髪を小さく掴んだ。


「髪は痛い」


 ちい。


「分かった。支えてくれてるんだね」


 リシアは苦笑し、布の切れ端に指を触れた。


 瞬間、森が揺れた。


 視界の奥に、昨日の光景が滲む。


 走るミラ。


 後ろを振り返るカイル。


 トマを抱き寄せようとする手。


 影。


 黒い獣の眼。


 爪が土を抉る。


 トマが泣く。


『火、やだ……!』


 リシアははっとした。


 火。


 ミラが町で言っていた。


 トマは火が怖い。昔、工房で火傷しかけてから。


 だから森の中で火を見れば逃げるはず。


 いや、そもそも森の中に火などあるのか。


 残響はさらに続く。


 トマの小さな手が、何かを握っている。


 丸いもの。


 焼き栗。


 ミラが持たせたものだろうか。


 その香ばしい匂いに、影狼が反応する。


 いや、違う。


 影狼が反応したのは焼き栗ではない。


 もっと別の匂い。


 焦げた鉄。


 古い炉。


 煤。


 リシアは胸を押さえた。


「大丈夫か」


 カイルが駆け寄る。


「大丈夫です。ただ……トマくんは火を怖がっている」


「そんなのミラが言ってただろ」


「はい。でも、それだけじゃない気がします。火の匂いに近づいているようにも感じました」


「怖いのに近づくわけないだろ」


「私もそう思います」


 リシアは布から手を離した。


 指先が冷たい。


「だから、何かがおかしいんです」


 ドランが森の奥を見る。


「北の沢の先に、古い炭焼き小屋がある。戦前までは使っていたが、今はほとんど誰も近づかん。炉跡が残っているから、火の匂いがするならそこかもしれない」


「トマがそこへ?」


「隠れる場所は多い。子どもなら入り込める隙間もある」


 カイルはすぐに歩き出そうとした。


 だが、今度は自分で足を止めた。


 それから、リシアを見た。


「……行くぞ。だけど、勝手には走らない」


「はい」


 リシアは頷いた。


 少しだけ、カイルの音が変わった。


 焦りは消えていない。


 後悔も消えていない。


 けれど、その中に細い理性の糸が戻っている。


 それを守らなければならない。


 三人は森の奥へ進んだ。


 進むにつれて、空気が重くなる。


 木々の間に霧のようなものが漂い始めた。普通の霧ではない。灰を水に溶かしたような、わずかに黒ずんだ気配。


 シルが肩の上で身を低くした。


 尻尾の毛が少し膨らんでいる。


「シル?」


 リシアが声をかけても、シルは返事をしなかった。


 ただ、森の奥を睨む。


 その反応に、リシアの背筋が冷えた。


 シルは普通の危険にも反応する。


 けれど、こんなふうに静かになる時は、たいてい歌詞帳や残響歌、あるいはもっと古い何かに関わる場所だった。


 リシアは腰のポーチに触れた。


 歌詞帳が、わずかに震えている。


 まただ。


 火の印。


 星詠みの歌の欠片かもしれない何か。


 それが、この森の奥に反応している。


「ドランさん」


「何だ」


「この森に、昔から何か言い伝えはありますか」


「言い伝え?」


「歌や、火や、星に関わるようなものです」


 ドランは不思議そうな顔をした。


「この町は鍛冶町だから、火の言い伝えなら山ほどある。炉の火を絶やすなとか、初火には祈りを捧げろとか。だが、星となると……」


 彼は少し考えた。


「昔、炭焼き小屋の近くに小さな祠があった。炉の火を見守る星の神様だとか、古い職人たちは言っていたな。戦争中に壊れて、そのままだが」


「星の神様……」


 リシアの胸の奥で、何かが小さく鳴った。


 星詠みの歌。


 失われた伝説の歌。


 それと、この町の炉に残る火がどう繋がるのかは分からない。


 けれど、偶然ではない気がした。


 リシアがさらに聞こうとした時、カイルが低く言った。


「止まれ」


 その声に、全員が足を止めた。


 前方の茂みが揺れている。


 風ではない。


 リシアは息を殺した。


 黒い影が、木々の間から現れた。


 狼に似ている。


 だが、普通の狼ではない。体は一回り大きく、毛並みは夜を固めたように黒い。目だけが灰色に光り、口元からは薄い靄のようなものが漏れている。


 影狼。


 一体。


 いや、奥にもう一つの気配。


「二体だ」


 ドランが弓を構える。


 カイルも短槍を前に出した。


 だが、手が震えている。


 リシアは歌うべきか迷った。


 静律結界は、人や場の恐怖を鎮める術だ。魔物そのものを止める力ではない。影狼の動きを止めることはできない。


 なら、守護詩か。


 カイルの恐怖に潰されないよう、一歩を選ぶ時間を作る歌。


 けれど、今歌えばカイルを戦わせることになる。


 進軍詩とは違う。


 それでも、恐怖の中で武器を握らせる歌であることに変わりはない。


 リシアの喉が強張る。


 影狼が唸った。


 低い音が森を震わせる。


 カイルの心歌が乱れる。


 ―まただ。


 ―剣が折れる。


 ―ミラが倒れる。


 ―トマが連れていかれる。


 ―俺が。


 ―俺が。


 影狼が跳んだ。


「カイル!」


 ドランが矢を放つ。


 矢は影狼の肩を掠めたが、止まらない。


 カイルが短槍を突き出す。


 動きは悪くない。


 けれど力が入りすぎていた。影狼は槍先を避け、横からカイルへ飛びかかる。


 リシアは咄嗟に歌った。


 短い旋律。


 進ませる歌ではない。


 止める歌でもない。


 恐怖に飲まれる心の周りに、薄い膜を張るような歌。


「――息を、ひとつ」


 声が森に溶ける。


 カイルの肩が一瞬だけ落ちた。


 力が抜ける。


 そのわずかな変化で、彼は横へ転がることができた。影狼の爪が空を切り、木の幹を削る。


「今です!」


 リシアが叫ぶ。


 ドランの二射目が影狼の後脚に刺さった。


 影狼が吠える。


 カイルは転がった体勢から短槍を振り、影狼の鼻先を払った。


 致命傷ではない。


 だが、距離は取れた。


 もう一体の影狼が、リシアの方へ回り込む。


 シルが肩の上で鋭く鳴いた。


 リシアは後退する。


 戦えない。


 剣も槍も扱えない。


 それでも、逃げるだけでは駄目だ。


 リシアは影狼の目を見た。


 その奥に、わずかな違和感があった。


 普通の魔物の怒りではない。


 何かに追い立てられている。


 いや、引き寄せられている。


 影狼の喉元に、黒い線のようなものが見えた。


 楽譜。


 いや、譜面に似た傷。


 黒く滲む、歪んだ音の印。


「黒譜……?」


 呟いた瞬間、影狼が跳んだ。


「リシア!」


 カイルの叫びが飛ぶ。


 リシアは動けなかった。


 影狼の爪が迫る。


 その直前、シルが肩から飛び出した。


「シル!」


 銀色の小さな体が、影狼の顔の前を横切る。


 影狼は反射的に首を振った。


 その隙に、リシアは後ろへ倒れ込むように転がった。爪がローブの端を裂き、淡い青の布が宙を舞う。


 シルは近くの枝へ飛び移り、影狼に向かって威嚇するように尻尾を膨らませた。


 小さな体。


 ふわふわの尻尾。


 だが、その目には明らかな怒りがあった。


「シル、危ない!」


 リシアが叫ぶ。


 影狼が枝へ飛びかかろうとする。


 その瞬間、カイルが横から短槍を突き入れた。


 今度は焦りに任せた突きではなかった。


 影狼の動きを見て、肩を狙い、距離を保つ。


 短槍の先が影狼の体を打ち、黒い靄が散った。


 ドランの矢がさらに飛ぶ。


 二体の影狼は低く唸り、森の奥へ退いていった。


 完全に倒したわけではない。


 追い払っただけだ。


 だが、今はそれで十分だった。


 カイルは荒い息を吐きながら、リシアを見た。


「大丈夫か!」


「はい。シルが助けてくれました」


 枝の上のシルは、当然だと言わんばかりに胸を張っていた。


 だが、すぐに足元が滑り、枝から落ちかける。


「あっ」


 リシアが慌てて両手を伸ばすと、シルはぽすんとその腕の中に落ちた。


「格好つけたのに、最後が惜しい」


 シルは不満そうに鳴いた。


 その様子に、カイルが小さく笑った。


 本当に小さな笑いだった。


 けれど、さっきまでの彼にはなかった音だった。


 リシアはほっとしかけたが、すぐに表情を引き締めた。


 影狼の喉元。


 黒い譜面のような傷。


 あれはただの魔物ではない。


 誰かが影狼をこの森へ引き寄せているのか。


 あるいは、トマを狙わせているのか。


「リシア」


 カイルが呼んだ。


「さっきの歌……あれ、何だ」


「守護詩に近いものです」


「俺を無理やり動かしたのか」


 その問いには、警戒があった。


 当然だ。


 カイルもまた、歌に背中を押されることを怖がっているのだ。


 リシアは首を横に振った。


「違います。あなたの代わりに動きを決めたわけではありません。ただ、恐怖で体が固まりきる前に、一呼吸置けるようにしただけです」


「……一呼吸」


「はい。動くか、避けるか、止まるか。それを選ぶ時間を作る歌です」


 カイルは自分の手を見た。


「俺、避けたんだな」


「はい」


「突っ込まなかった」


「はい」


 カイルは短槍を握り直した。


「……なら、いい」


 それだけ言って、彼は前を向いた。


 リシアは胸を撫で下ろす。


 歌が拒絶されなかったわけではない。


 けれど、カイルは今の歌を自分で受け止めた。


 それは小さな変化だった。


 森の奥へ進むと、やがて沢の音が近くなった。


 細い水流が石の間を流れ、その向こうに朽ちかけた小屋が見えた。木造の壁は傾き、屋根の一部は崩れている。隣には古い炭焼き窯があり、黒い石で組まれた丸い入口がぽっかりと口を開けていた。


 その周囲だけ、空気が濃い。


 火の匂い。


 煤の匂い。


 そして、何かを封じたような黒い気配。


 リシアの歌詞帳が、はっきりと震えた。


「ここです」


 リシアは囁いた。


 ドランが周囲を確認する。


「足跡がある。子どものものだ。窯の方へ……いや、途中で乱れてる」


 カイルが小屋へ走り出そうとした。


 だが、また踏みとどまる。


「トマ!」


 彼は叫ぶ代わりに、声を抑えて呼んだ。


「トマ、いるか!」


 返事はない。


 リシアは耳を澄ませた。


 心歌を探る。


 けれど、森の音が邪魔をする。


 沢の音。


 影狼の残した黒い気配。


 炭焼き窯に染み付いた古い火の残響。


 それらが重なり、トマの小さな心歌が見つからない。


 リシアは焦った。


 聞こえない。


 さっきまでは聞こえていたのに。


 ―お姉ちゃん。


 あの声が、今は遠い。


 リシアは小屋の前に膝をつき、地面に落ちていた小さな靴を拾った。


 片方だけ。


 泥に汚れ、紐が切れている。


 ミラが言っていた靴だろう。


 リシアは手の中の靴を見つめた。


 残響を聞く。


 でも、怖い。


 さっきの影狼との戦いで、心が揺れている。ここで強い残響に触れれば、今度こそ呑まれるかもしれない。


 それでも、時間はない。


「リシア?」


 カイルの声が不安げに揺れる。


 リシアは小さく息を吸った。


「少しだけ、見ます」


 靴を両手で包む。


 次の瞬間、冷たい恐怖が胸を突き抜けた。


 暗い。


 狭い。


 息が苦しい。


 トマの視界だ。


 地面が近い。


 足が痛い。


 靴が脱げた。


 でも拾えない。


 後ろで影狼が唸る。


 怖い。


 怖い。


 お姉ちゃん。


 カイル兄ちゃん。


 誰か。


 リシアの喉が詰まる。


 子どもの恐怖は、あまりにも生々しかった。


 戦場で聞いた兵士の恐怖とは違う。


 理屈も覚悟もない、ただ助けを求める小さな心。


 その中に、火の匂いが混ざる。


 トマは炭焼き窯へ逃げた。


 暗い入口。


 煤の匂い。


 でも、中には入らなかった。


 なぜなら、奥に小さな赤い光があったから。


 火。


 怖い。


 トマは泣きながら後ずさる。


 その時、どこかから歌が聞こえた。


 リシアははっとした。


 歌。


 子守唄のような、古い旋律。


 けれど、それは優しい歌ではなかった。


 音が歪んでいる。


 歌の形をした黒い糸が、トマの心を窯の奥へ引こうとしている。


 ―おいで。


 ―火は怖くない。


 ―眠ればいい。


 ―全部、忘れればいい。


「違う……」


 リシアは呻いた。


 これは心歌ではない。


 残響でもない。


 誰かが、歌を使っている。


 けれど、普通の歌魔術ではない。


 黒い譜面を重ねたような歪み。


 黒譜術。


 トマの心歌が弱くなっていたのは、恐怖だけが理由ではない。


 この黒い歌が、彼の声を覆っている。


「リシア!」


 カイルの声で、リシアは現実に引き戻された。


 気付けば、膝をついたまま大きく震えていた。靴を握る手に力が入りすぎ、指先が白くなっている。


 シルがリシアの腕を前足で叩いていた。


 ちい、ちい、と必死に鳴いている。


「……大丈夫」


 リシアは息を整えた。


「トマくんは炭焼き窯の近くにいます。でも、中ではないかもしれません。火を怖がって、途中で逃げた」


「どこへ!」


「分かりません。ただ、黒い歌が……心歌を覆っています」


「黒い歌?」


 カイルが眉をひそめる。


 説明している時間はない。


 リシアは立ち上がり、炭焼き窯の周囲を見た。


 窯の奥には確かに赤い光が見える。


 自然に残った火ではない。


 古い炉に残る火でもない。


 黒い譜面のような術式が、火の形をして揺れている。


 トマを誘い込むための偽の火。


 リシアは唇を噛んだ。


 ミラは言っていた。


 トマは火が怖い。


 だからリシアは、火から離れた場所を探すべきだと思っていた。


 でも、それは半分だけ正しかった。


 トマは火を怖がって逃げた。


 だが、黒い歌はその恐怖を利用して、彼の心を混乱させている。


 怖いものから逃げるうちに、どこへ向かっているのか分からなくなるように。


 リシアは自分の判断が遅れたことに気付いた。


 火が怖い。


 その情報に引っ張られすぎた。


 心歌も残響も、聞いた瞬間に答えになるわけではない。


 解釈を間違えれば、道を誤る。


「すみません」


 リシアは小さく呟いた。


 カイルが焦れたように言う。


「謝ってる場合かよ」


「はい。だから、今から取り戻します」


 リシアは歌詞帳を開いた。


 ページが勝手にめくれる。


 火の印が浮かんだページで止まり、その端が黒く滲んでいた。


 シルが低く唸る。


 黒譜術の影響。


 歌詞帳の白い紙に、墨を落としたような線が広がっていく。


 その線は音符の形をしていた。


 リシアの歌を遮るように。


「歌えないのか」


 カイルが言う。


「普通に歌えば、たぶん届きません」


「じゃあどうする」


 リシアは窯の奥の黒い火を見た。


 そこから聞こえる歪んだ歌。


 トマの心を眠らせようとする歌。


 それを打ち消すには、強い歌が必要だ。


 でも、励ましの歌では駄目。


 進ませる歌でも駄目。


 トマは怖がっている。


 火も、森も、影狼も、全部怖い。


 その恐怖を消してはいけない。


 怖くなくなる歌ではなく、怖いまま声を出せる歌。


 リシアは目を閉じた。


 心歌を探す。


 トマの声。


 ミラの言葉。


 カイルの後悔。


 ガルドの閉じた炉。


 消えかけた町の残り火。


 それらが胸の中で混ざる。


 強すぎる感情に、自分の心が引っ張られそうになる。


 ―助けたい。


 ―間に合わなかったら。


 ―また、私のせいで。


 それはリシア自身の声だった。


 アイシャの影がよぎる。


 戦場。


 進軍詩。


 帰ってこなかった幼なじみ。


 喉が震える。


 歌えば、誰かをまた傷つけるかもしれない。


 歌わなければ、今ここでトマの声は黒い歌に呑まれるかもしれない。


 シルがリシアの手に前足を乗せた。


 小さく、温かい重み。


 リシアは目を開けた。


「……歌います」


 カイルが息を呑む。


「でも、トマくんを立ち上がらせる歌じゃありません。ここにいるよ、と返事をしてもらうための歌です」


 リシアは炭焼き窯に向き直った。


 黒い火が揺れる。


 それに合わせて、歪んだ旋律が強くなる。


 リシアは歌い出した。


 最初の一音は、とても小さかった。


 森に吸い込まれそうなほど。


 けれど、その音はまっすぐだった。


 怖くないよ、とは歌わない。


 泣かないで、とも歌わない。


 大丈夫だと決めつけない。


 ただ、呼びかける。


 ―怖いなら、怖いままでいい。


 ―泣いているなら、その声を隠さなくていい。


 ―小さな声でも、消えていないなら。


 ―ここへ返して。


 黒い歌がリシアの旋律に絡みつく。


 喉に痛みが走った。


 まるで歌そのものを削られているようだった。


 無音領域ほど完全ではない。


 けれど、黒譜術がリシアの歌を歪ませようとしている。


 音が外れる。


 息が乱れる。


 リシアの中に、トマの恐怖が流れ込む。


 暗い。


 怖い。


 火が怖い。


 狼が怖い。


 お姉ちゃんが泣くのが怖い。


 カイル兄ちゃんが怒るのが怖い。


 自分のせいで皆が傷つくのが怖い。


 リシアの目から涙が落ちた。


 それでも歌を止めなかった。


 ここで綺麗な言葉に逃げてはいけない。


 トマは勇敢な子ではない。


 泣き虫で、暗いところが苦手で、火も怖い。


 でも、それでいい。


 怖いまま助けを呼ぶことは、弱さではない。


 リシアは旋律を変えた。


 共鳴詩ではない。


 まだトマだけの歌詞には届いていない。


 けれど、彼の声を返すための反響歌。


「……聞こえたら、返して」


 リシアは歌の中で囁いた。


「あなたの声は、まだ消えていない」


 黒い火が揺らいだ。


 森の奥で、何かが小さく震える。


 カイルが息を止める。


 ドランが耳を澄ます。


 そして、炭焼き窯の裏手。


 崩れた石積みのさらに奥から。


 小さな声が聞こえた。


「……お姉、ちゃん」


 カイルが弾かれたように振り向く。


「トマ!」


「待って!」


 リシアが叫ぶ。


 その瞬間、炭焼き窯の黒い火が大きく膨らんだ。


 影が地面を走る。


 窯の裏手から、黒い靄をまとった影狼が現れた。


 さっきの二体より大きい。


 喉元には、はっきりと黒い譜面の印が刻まれている。


 その背後、崩れた石の隙間に、小さな男の子がうずくまっていた。


 泥だらけで、片足は裸足。


 顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。


 でも、生きている。


「トマ!」


 カイルが叫ぶ。


 影狼が唸り、トマの前に立ちはだかる。


 ドランが矢を構えるが、角度が悪い。外せばトマに当たる。


 カイルが短槍を握る。


 今にも飛び出しそうだった。


 リシアは喉の痛みを堪えながら、カイルの背中へ声をかけた。


「カイルさん」


「分かってる!」


 カイルは叫んだ。


 けれど、走らなかった。


 足を止め、短槍を構え、影狼の動きを見ている。


 その横顔に、恐怖はある。


 怒りもある。


 でも、昨日と同じではない。


 リシアは歌詞帳を握りしめた。


 黒譜術に削られた喉が痛む。


 静律結界はもう長く使えない。


 反響歌も、トマの声を返すだけで精一杯だった。


 それでも、まだできることがある。


 リシアはトマを見た。


 小さな男の子は、恐怖に震えながらも、こちらを見ている。


 声を返してくれた。


 なら、次は選ぶ時間を守る。


「トマくん!」


 リシアは叫んだ。


「目を閉じないで! 怖いままでいいから、カイルさんの声を聞いて!」


 トマの唇が震える。


 影狼が一歩踏み出す。


 カイルが低く言った。


「トマ。俺を見るな」


 トマが泣きながら目を瞬かせる。


「俺じゃなくて、右の石を見るんだ。そう、その割れてる石。そこまで這えるか」


「こわい……」


「怖いよな。俺も怖い」


 カイルの声は震えていた。


 でも、逃げていなかった。


「でも、お前を連れて帰る。だから、俺が合図したら、右へ動け」


 影狼が腰を低くする。


 跳ぶ前の姿勢。


 リシアは最後の力で、短い守護詩を紡いだ。


 カイルにではない。


 トマに。


 恐怖で潰れそうな小さな心を、ほんの一瞬だけ包むために。


 ―泣いてもいい。


 ―震えてもいい。


 ―それでも、手を伸ばせる。


 影狼が跳んだ。


 同時に、カイルが前へ出る。


 突撃ではない。


 影狼の進路を塞ぐための一歩。


 短槍が横に払われ、影狼の爪を受け流す。衝撃でカイルの体が傾くが、彼は踏ん張った。


「今!」


 トマが泣きながら右へ這う。


 ドランの矢が飛ぶ。


 影狼の肩に刺さり、黒い靄が弾けた。


 リシアはトマへ走った。


 戦えない。


 でも、手を伸ばすことはできる。


 崩れた石の隙間に手を入れ、トマの腕を掴む。


「もう少し!」


 トマは泣きながらリシアの手を握った。


 その小さな手が、驚くほど冷たい。


 リシアは力いっぱい引いた。


 シルが肩から飛び降り、トマの服の端を小さな前足で引っ張る。


「シル、それは助けてるの? 応援してるの?」


 こんな時なのに、思わず言葉が出た。


 シルは必死の顔で、ちい、と鳴いた。


 トマの体が石の隙間から抜ける。


 その瞬間、影狼がカイルを弾き飛ばした。


「カイル!」


 カイルは地面に転がったが、短槍を離さなかった。


 影狼が再び跳ぼうとする。


 リシアはトマを抱えたまま、歌おうとした。


 だが、声が出ない。


 黒譜術に削られ、喉が限界だった。


 音にならない息だけが漏れる。


 まずい。


 そう思った時、トマが震える手で、何かを差し出した。


 焼き栗だった。


 泥だらけになり、半分潰れている。


「これ……お姉ちゃんに、持って帰るの……」


 その言葉を聞いた瞬間、リシアの胸の奥で、小さな旋律が生まれた。


 怖くても。


 泣いても。


 火が怖くても。


 森が暗くても。


 トマは、それを手放さなかった。


 ミラへ持って帰るために。


 リシアは声にならない声で、そっとその旋律をなぞった。


 歌ではない。


 ほとんど息。


 けれど、確かに音だった。


 それに反応したように、歌詞帳が淡く光る。


 黒く滲んでいたページの端に、小さな火の線が戻った。


 影狼が怯んだ。


 黒い譜面の印が、一瞬だけ歪む。


「カイルさん!」


 リシアの声は掠れていた。


 でも届いた。


 カイルは起き上がり、短槍を構え直す。


 ドランが最後の矢を放つ。


 カイルの短槍が影狼の足元を払う。


 影狼は大きく体勢を崩し、黒い靄を散らしながら森の奥へ退いた。


 追う余裕はなかった。


 三人とも息が上がっている。


 トマはリシアの腕の中で泣いていた。


 リシアはその小さな背を抱きしめる。


「よく、返事をしてくれました」


「こわかった……」


「はい」


「火、こわかった……狼も、暗いのも……」


「はい」


「でも、焼き栗、落とさなかった……」


 トマは震えながら、潰れた焼き栗を握っていた。


 リシアは目を細める。


「ミラさん、喜びます」


「怒るかな……」


「たぶん、泣きながら怒ります」


 トマは涙で濡れた顔のまま、少しだけ頷いた。


 シルがトマの膝に乗り、焼き栗をじっと見た。


 リシアはすぐに言った。


「シル、それは駄目」


 シルは何もしていないという顔をした。


「見てたよね」


 ちい。


「見てただけ、じゃないです」


 トマが小さく笑った。


 本当に小さな笑いだった。


 その笑い声を聞いた時、カイルがその場に膝をついた。


 短槍を地面に置き、両手で顔を覆う。


「……よかった」


 それだけを何度も繰り返した。


 リシアはカイルに声をかけようとして、やめた。


 今は、言葉はいらない。


 彼が自分で泣けるなら、それを邪魔してはいけない。


 ドランが周囲を警戒しながら言った。


「早く戻ろう。影狼がまた来る前に」


「はい」


 リシアは頷いた。


 だが、立ち上がろうとした時、炭焼き窯の黒い火がふっと消えた。


 その奥に、何かが残っている。


 リシアはトマをカイルに預け、窯へ近づいた。


「おい、危ないぞ」


「少しだけ」


 窯の入口の石に、黒い線が刻まれていた。


 譜面のような模様。


 リシアが指を近づけると、シルが鋭く鳴いた。


 触るな。


 そう言われた気がして、リシアは手を止める。


 黒い線の中央には、小さな文字のようなものがあった。


 普通の文字ではない。


 古い歌譜。


 それでも、リシアにはなぜか一部だけ読めた。


 『火の断章は、まだ眠らせておけ。』


 リシアの背筋が冷えた。


 火の断章。


 歌詞帳に浮かんだ火の印。


 星詠みの歌の七つの断章。


 それを知る者が、この森に黒譜術を仕掛けたのか。


 ただトマを襲わせるためではない。


 この町の火に関わる何かを、封じるために。


 リシアは歌詞帳を開いた。


 火の印の下に、新しい一節が浮かびかけている。


 けれど、まだ不完全だった。


 文字は淡く、途中で途切れている。


 『怖くても、消さなかった小さな火は……』


 そこから先が、白紙のまま止まっていた。


 まだ歌詞は完成していない。


 トマを助けた。


 でも、この町の事件は終わっていない。


 ガルドの炉。


 ミラの後悔。


 カイルの折れた剣。


 そして、火の断章を封じようとする黒い譜面。


 リシアは窯の奥を見つめた。


 そこにはもう火はない。


 けれど、灰の底で何かが静かに息をしているような気がした。


 町へ戻る道で、トマはカイルの背中に負われていた。


 小さな手には、まだ潰れた焼き栗が握られている。


 カイルは何度も振り返り、リシアを見る。


「さっきの歌……」


「はい」


「俺、少しだけ分かった気がする」


「何をですか」


「あんたの歌は、行けって言う歌じゃなかった」


 リシアは黙って聞いた。


「俺が行くかどうかを、俺に戻す歌だった」


 リシアの胸が、少しだけ熱くなる。


「……そうありたいと思っています」


「まだ、よく分からないけどな」


「私も、まだ分かりません」


「歌術師なのに?」


「歌術師だから、分からないことが増えました」


 カイルは不思議そうにリシアを見た。


 それから、ほんの少しだけ笑った。


「変な人だな」


「最近、よく言われます」


 シルが肩の上で、同意するように鳴いた。


「シルは言わなくていいです」


 森を抜ける頃、町の鐘が見えた。


 遠くから人々の声が聞こえる。


 ミラの声もあった。


 トマが背中の上で顔を上げる。


「お姉ちゃん……」


 カイルの歩幅が少し速くなる。


 リシアはその後ろを歩きながら、胸元の歌詞帳に手を添えた。


 第一の町で、リシアは一つの命を連れ帰ることができた。


 けれど、歌詞はまだ完成していない。


 炉の火は、まだ消えかけたままだ。


 そして、リシアの歌を封じようとする者が、すでにこの町に影を落としている。


 町の入口に立つガルドの姿が見えた。


 老人は無言でカイルの背中のトマを見つめている。


 その目の奥で、閉ざされていた心歌が、ほんのわずかに軋んだ。


 ―まだ、打てるのか。


 リシアはその音を聞いた。


 けれど、すぐには歌わなかった。


 ここから先は、ガルド自身が向き合わなければならない火だった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


森に残されたトマの小さな声。

リシアは歌魔術師うたまじゅつしとして、その声を聞き取りました。


けれど、ラグナ工房町の火はまだ消えかけたままです。

ガルドが閉ざした炉、そして黒譜術こくふじゅつの影。


次話では、この町に残る本当の火へ、リシアがさらに踏み込んでいきます。

続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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