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夢の残り火編 1話 火の消えかけた町

 ラグナ工房町に近づくにつれて、空の色が少しずつ灰色を帯びていった。


 雨雲が出ているわけではない。


 西の山並みから吹いてくる風に、鉄と煤の匂いが混じっているのだ。


 かつて王国でも有数の鍛冶町として知られたラグナは、戦争中、昼夜を問わず炉に火を入れ続けたという。騎士の剣、兵士の槍、馬具、鎧の留め具、矢じり。戦場で必要とされるものの多くが、この町の炉から生まれた。


 その名残なのだろう。


 町へ続く街道沿いには、古い荷車の轍が深く残っている。道端には使われなくなった鉄くずや割れた木箱が積まれ、ところどころに黒く焦げた石が転がっていた。


 リシアは歩きながら、胸元の歌詞帳にそっと触れた。


 王都を出る前の夜、白紙のページに浮かんだ小さな火の印。


 あれが示した先が、この町であることは、ほとんど疑いようがなかった。


 けれど、何を求められているのかは分からない。


 誰かを助けに来たのか。


 失われた歌詞を拾いに来たのか。


 それとも、自分の歌がまだ誰かに届くのか試されているのか。


 リシアはそのどれにも、はっきりと答えられなかった。


「シル。そろそろ町に着くよ」


 肩の上に声をかける。


 銀色のリス、シルは、リシアの肩を定位置と決め込んでいた。今も大きな尻尾をリシアの首元に巻きつけ、前足にはどこから取り出したのか分からない木の実を抱えている。


「それ、また拾ったの?」


 シルは、ちい、と短く鳴いた。


 まるで、道に落ちていたものを拾って何が悪い、とでも言いたげだった。


「食べすぎると、お腹が重くなって歩けなくなるよ」


 シルはリシアの肩の上で、ぴたりと動きを止めた。


 それから、ゆっくりとリシアを見る。


 自分は歩かない、とでも言いたげな顔だった。


「……そうだね。歩くのは私だね」


 リシアがため息交じりに笑うと、シルは満足したように木の実をかじった。


 そんな何でもないやり取りに、少しだけ胸が軽くなる。


 旅に出たばかりのリシアには、まだ慣れないものが多かった。


 王都の外の空気。


 誰も自分を歌術隊のリシアとして見ない道。


 朝になれば次の行き先を自分で決め、夜になれば見知らぬ宿で眠る日々。


 そして、誰かに歌を求められていない沈黙。


 その沈黙が、心地よい時もある。


 けれど時々、とても恐ろしくなる。


 歌わなくていいということは、歌わなくても誰も困らないということなのではないか。


 自分は本当に旅に出る必要があったのか。


 そんな考えが胸に落ちかけた時、風に乗って微かな音が届いた。


 心歌だった。


 遠い。


 だが、確かに聞こえる。


 ――まだ、終われない。


 リシアは足を止めた。


 シルも木の実をかじるのをやめ、同じ方向を見た。


 町の門が見える。


 石と木材で作られた質素な門だ。上には鉄製の看板が掲げられている。


 ラグナ工房町。


 その文字は古びていたが、かつて誇りをもって掲げられたものだと分かる。鉄板には火と槌を組み合わせた紋様が刻まれていた。


 けれど、門の向こうから聞こえてくる音は、リシアが想像していた鍛冶町のものではなかった。


 槌が鉄を打つ響きがない。


 炉の火が唸る音もない。


 代わりに聞こえるのは、人々の苛立った声と、戸板が乱暴に閉められる音。そして、どこか張り詰めた沈黙だった。


「……静かすぎる」


 リシアは呟いた。


 戦後で仕事が減ったのだとしても、鍛冶町なら生活の音があるはずだった。釘を打つ音、鍋を直す音、馬具を調整する音。鉄を扱う町には、独特の呼吸がある。


 だが、この町にはそれがない。


 まるで、大きな獣が息を潜めているようだった。


 門をくぐった瞬間、いくつもの視線がリシアに向いた。


 旅人を見る視線。


 歌術師の外套を見る視線。


 胸元の徽章を見る視線。


 好奇心だけではない。


 警戒と、疲れと、ほんの少しの期待。


 そして、その期待を持ってしまった自分をすぐに恥じるような諦め。


 リシアの耳に、いくつもの心歌がかすかに触れた。


 ――歌術師か。


 ――今さら何をしに来た。


 ――戦争の時は、あれだけ炉を焚かされたのに。


 ――もう剣なんて見たくない。


 ――でも、炉が消えたら、この町は終わる。


 音が重なりすぎて、はっきりとは聞き取れない。


 リシアは深追いしなかった。


 心歌は、無理に聞こうとすると相手の心に土足で踏み込むようなものになる。


 それを、旅立ちの前にセレナから何度も言われた。


 歌いに行くな。聞きに行け。


 その言葉を思い出し、リシアは肩の力を抜いた。


「まずは宿を探そうか」


 シルに言うと、シルは鼻をひくひく動かした。


「焼き菓子の匂い?」


 シルの尻尾がぴんと立つ。


「宿が先」


 尻尾が少し下がった。


「あとでね」


 すると、シルはリシアの頬に尻尾をぺし、と当てた。


「今の、返事?」


 シルは知らん顔で前を向いた。


 町の中央通りは、古い工房が並んでいた。


 看板にはそれぞれ槌や剣、鍋、馬蹄の絵が描かれている。だが、その多くは扉を閉ざしていた。開いている店も、品物は少ない。軒先に並ぶ鍋や包丁は、どれも丁寧に作られているが、人の手に取られた形跡はあまりなかった。


 通りの奥には、大きな炉の煙突が見えた。


 町の共同炉だろう。


 ラグナの象徴とも言えるもののはずだった。


 だが、煙が上がっていない。


 その煙突を見た時、リシアの歌詞帳が腰のポーチの中で小さく震えた。


「……」


 リシアは足を止めそうになったが、すぐには近づかなかった。


 先に町の空気を知る必要がある。


 そう思った時、通りの向こうから怒鳴り声が響いた。


「だから、直してくれって言ってるだろ!」


 若い男の声だった。


 それに続いて、何か硬いものが地面に置かれる音がする。


 人々がざわめき、何人かがそちらへ足を向けた。


 リシアも声の方を見る。


 通りの角に、一軒だけ古い工房があった。


 看板は煤で黒ずみ、文字は半分読めない。だが、扉の上に掲げられた鉄の紋章だけは、今も不思議な存在感を放っていた。


 槌と小さな炎。


 その工房の前で、若い冒険者らしい青年が、折れた剣を抱えて立っていた。


 年は十八か十九ほどだろう。赤茶色の髪を乱し、革鎧はあちこち傷んでいる。左頬には浅い切り傷があり、目には怒りと焦りが浮かんでいた。


 彼の前には、ひとりの老人が立っている。


 背は高くない。


 だが、腕は太く、肩は岩のようにがっしりとしていた。白髪混じりの髭を伸ばし、煤の染みた前掛けをつけている。いかにも鍛冶師という姿だが、その目には火がなかった。


「何度来ても同じだ、カイル」


 老人は低い声で言った。


「俺はもう剣を打たん」


「新しく打てなんて言ってない! 直してくれって言ってるだけだ!」


「直してどうする」


 老人の声は冷たかった。


「また森へ行くのか。魔物を斬りに。誰かを守るためだと言いながら、折れた剣を握って」


「行くしかないだろ! トマがまだ森にいるんだ!」


 その名が出た瞬間、周囲の空気が変わった。


 リシアはそっと息を呑む。


 トマ。


 心歌の中で、いくつもの音がその名前に反応した。


 ――まだ見つからない。


 ――昨日の夕方からだ。


 ――森には魔物が出る。


 ――でも、ガルドが剣を直さない。


 ――あの子は、ミラの弟なのに。


 リシアは視線を青年、カイルの手元へ向けた。


 折れた剣。


 柄と刀身の根元だけが残り、先は半分ほど失われている。刃こぼれもひどく、手入れが悪いというより、無理に使い続けた結果のようだった。


 その剣を見た瞬間、リシアの胸奥にひどく鋭い音が走った。


 残響歌。


 鉄に残った想いが、かすかに鳴っている。


 ――守る。


 ――守れなかった。


 ――もう一度だけ。


 リシアは思わず一歩踏み出した。


 シルが肩の上で身じろぎする。


 だが、その前に老人が言った。


「剣など持つな」


 カイルの顔が歪む。


「ふざけるなよ」


「ふざけてなどいない」


「トマが死んでもいいのか!」


 老人の眉がわずかに動いた。


 それでも声は変わらない。


「森へ入ったところで、お前も死ぬだけだ」


「それでも行かなきゃいけないんだよ!」


 カイルが折れた剣を握りしめた。


「ミラは動けない。町の連中は誰も森へ行こうとしない。俺が行くしかないだろ!」


 ミラ。


 また一つ、名前が心歌に触れた。


 ――あの子の足が。


 ――冒険者になるはずだったのに。


 ――あの剣が折れなければ。


 ――ガルドのせいだ。


 ――いや、違う。戦争のせいだ。


 声にならない責めと後悔が、町の空気の下に沈んでいる。


 リシアはようやく分かった。


 この町は、ただ炉の火が消えかけているのではない。


 何かが折れている。


 剣だけではなく、人の心の中で。


「どいてください」


 リシアは静かに言った。


 周囲の人々が振り返る。


 カイルも、老人も、初めてリシアを見た。


「誰だ、あんた」


 カイルの声には警戒が混じっていた。


「旅の歌魔術師です。リシアといいます」


 歌魔術師。


 その言葉に、周囲がまたざわめく。


 老人の目が、リシアの胸元の徽章に向いた。


 旧王国騎士団直属歌術隊の証。


 その瞬間、老人の心歌が鋭く閉じた。


 まるで、炉の扉を乱暴に閉めたように。


「歌術師が、鍛冶場に何の用だ」


 老人の声は低かった。


 敵意ではない。


 もっと硬いもの。


 長く冷えた鉄のような拒絶。


 リシアはそれを感じながらも、視線を逸らさなかった。


「その剣を、少し見せていただけますか」


「剣を見て何が分かる」


「分からないかもしれません。でも、何かが残っています」


 カイルが眉をひそめる。


「何かって何だよ」


「想いです」


 そう言った瞬間、カイルの表情が強張った。


 周囲の何人かが気まずそうに目を伏せる。


 老人だけが、リシアを睨むように見た。


「綺麗な言葉で済ませるな」


 その言葉は、リシアの胸に刺さった。


「想いだの、祈りだの、歌だの。そういうもので鉄は繋がらん。折れた剣は折れた剣だ。死んだ者は戻らん」


「……はい」


 リシアは頷いた。


「戻りません」


 老人の目がわずかに揺れた。


 リシアは続ける。


「だからこそ、残ったものを聞きたいんです。戻すためではなく、これ以上、間違えないために」


 カイルが迷うように剣を見る。


 それから、乱暴にリシアへ差し出した。


「見るだけなら勝手にしろ。でも、歌で直るとか言うならやめてくれ。俺はそんな慰めが欲しいんじゃない」


「言いません」


 リシアは剣を受け取った。


 思っていたより重い。


 刃は折れ、柄の革紐は血と汗で固くなっている。使い手が必死に握り続けた痕があった。


 リシアは目を閉じる。


 心歌ではない。


 これは残響だ。


 人ではなく、物に残った過去の想い。


 鉄の冷たさの奥に、微かな熱がある。


 リシアは深く息を吸った。


 途端に、景色が変わった。


 目の前に森が広がる。


 実際に見ているわけではない。残響歌が見せる断片だ。


 暗い森。


 湿った土。


 走る足音。


 誰かの荒い息。


 少女の声が聞こえる。


『カイル、右!』


 剣が振られる。


 魔物の爪が火花を散らす。


 次の瞬間、幼い男の子の泣き声。


『姉ちゃん、怖いよ!』


『大丈夫、トマ。私たちがいるから』


 少女が笑う。


 膝が震えているのに、笑っている。


 その横でカイルが剣を構える。


 まだ若い。


 怖くてたまらない。


 けれど、守ろうとしている。


 リシアの胸に熱い痛みが広がった。


 残響はさらに流れ込む。


 魔物が跳ぶ。


 少女が弟を庇う。


 カイルが剣を振る。


 刃が魔物の骨に食い込み、嫌な音を立てた。


 剣に亀裂が入る。


 それでもカイルは押し込む。


『折れるな……!』


 心の叫びが響く。


『今だけでいい、折れるな!』


 しかし次の瞬間、鉄が割れた。


 鋭い音。


 少女の悲鳴。


 血。


 転がる木の実。


 小さな手が、森の奥へ引きずられていく。


『トマ!』


 そこで残響が途切れた。


「っ……!」


 リシアは膝をつきかけた。


 シルが肩から飛び降り、リシアの腕にしがみつく。


 周囲がざわめいた。


「おい、大丈夫か」


 カイルが思わず手を伸ばす。


 リシアは息を整えながら頷いた。


「大丈夫です」


 嘘だった。


 残響歌は、ただ過去を知るだけの力ではない。


 そこに残った恐怖や痛みを、一瞬だけ自分の中に通す。


 今も手の中に、剣が折れた瞬間の絶望が残っていた。


 リシアは折れた剣を見つめた。


「この剣は……最後まで折れまいとしていました」


 カイルの目が見開かれる。


「何を……」


「あなたも、ミラさんも、トマくんを守ろうとしていた。でも、剣は折れた。ミラさんは怪我をして、トマくんは森に取り残された」


「見たのか」


 カイルの声が震えた。


「……少しだけ」


「じゃあ分かるだろ!」


 カイルが叫んだ。


「俺が行かなきゃいけないんだ! あいつはまだ森にいる! 泣いてたんだ、俺に手を伸ばしてた! なのに俺は、ミラを抱えて逃げるしかなかった!」


 心歌があふれた。


 ――俺が弱かった。


 ――剣が折れたからじゃない。


 ――俺が、守れなかった。


 リシアは、その音を聞き取った。


 表に出ている怒りとは違う。


 カイルの本音は、老人への怒りだけではなかった。


 自分への怒り。


 助けられなかった後悔。


 もう一度森へ行くことが、償いになると思い込んでいる。


 それは、かつてリシアが戦場で何度も聞いた音に似ていた。


 怖い。


 でも、行かなければならない。


 自分が行かなければ、自分には価値がない。


 リシアの喉が小さく震えた。


 ここで励ましてはいけない。


 立てる、行ける、あなたなら助けられる。


 そんな歌は、今のカイルを森へ走らせるだけだ。


 けれど、止めるだけでも届かない。


 トマは本当に森にいる。


 外側の事件は、今も続いている。


 リシアは顔を上げ、老人を見た。


「ガルドさん」


 老人が眉を動かす。


「なぜ名前を」


「心歌の中で、皆さんがそう呼んでいました」


「気味の悪い力だな」


「そうかもしれません」


 リシアは否定しなかった。


 その返事に、ガルドは一瞬だけ言葉を失った。


「でも、今はそれでも聞かせてください。あなたは本当に、もう剣を直せないんですか」


「直せないのではない」


 ガルドは言った。


「直さない」


「なぜですか」


「剣は人を殺す」


「剣は人を守ることもあります」


「その言葉は、戦場を知らない者の言葉だ」


 ガルドの声が低くなる。


 リシアは胸元の徽章に触れた。


「私は戦場にいました」


 周囲が静まる。


「剣を握る人たちに歌いました。怖くても立てるように。守りたいものを思い出せるように。だから、あなたの言葉が間違っているとは言えません。剣も、歌も、人を守ることがあります。でも、人を死地へ向かわせることもあります」


 リシアは折れた剣をガルドへ差し出した。


「それでも、今この剣を直すことが、トマくんを助けるために必要なら。あなたは、本当に何もしないんですか」


 ガルドの心歌は聞こえない。


 完全に閉じている。


 けれど、その沈黙の奥で何かが軋んでいるのを、リシアは感じた。


「……旅の歌術師」


 ガルドは低く言った。


「お前は、俺にまた剣を打たせたいのか」


「いいえ」


 リシアは首を横に振った。


「私は、あなたの代わりに決めることはできません」


「なら、何をしに来た」


「止まっているものが何なのか、聞きに来ました」


 その言葉に、ガルドの顔が険しくなる。


「聞いてどうする」


「必要なら、歌います」


「歌などいらん」


 即座に返ってきた拒絶。


 鋭く、迷いのない言葉だった。


 リシアの胸が少し痛む。


 歌が拒まれることには慣れていないわけではない。


 だが、慣れるものでもなかった。


 それでもリシアは頷いた。


「分かりました。今は歌いません」


 ガルドがわずかに目を細める。


「今は?」


「はい。歌わないことが必要なら、歌いません。でも、歌うことが必要になった時、私は逃げません」


 カイルが苛立ったように口を挟む。


「そんな話をしてる場合かよ! トマが森にいるんだぞ!」


 その時だった。


 町の奥から、少女の声が聞こえた。


「カイル!」


 皆が振り向く。


 通りの向こうから、ひとりの少女が杖をつきながら歩いてきた。


 年はカイルと同じくらいだろう。栗色の髪を後ろで結び、動きやすそうな服を着ている。だが、右足には厚く包帯が巻かれ、歩くたびに顔を歪めていた。


「ミラ、何してるんだ!」


 カイルが駆け寄る。


「寝てろって言っただろ!」


「寝てたら、トマが帰ってくるの?」


 ミラの声は震えていた。


 けれど、目はまっすぐだった。


「私も行く」


「無理だ!」


「無理でも行く!」


 ミラは杖を握りしめた。


「トマは私の弟だよ! 私が守るって言ったの! なのに……私が足をやられて、手を離したから……」


 その瞬間、リシアの耳に、ミラの心歌が流れ込んだ。


 ――お姉ちゃんだから。


 ――泣いちゃ駄目。


 ――痛いなんて言ってる場合じゃない。


 ――私が守れなかった。


 カイルと同じだ。


 二人とも、自分だけを責めている。


 トマを助けたい気持ちは本物だ。


 けれど、その奥にあるのは、助けるための冷静な決意ではなく、自分を罰するための衝動に近かった。


 リシアは一歩前へ出た。


「ミラさん」


「誰ですか」


「リシアです。旅の歌魔術師です」


 ミラの表情が変わった。


 警戒。


 それから、怒り。


「歌術師……」


 その言葉には、町の人々とは違う鋭さがあった。


「歌ならいりません」


 リシアは静かに頷いた。


「はい」


「励ましもいりません。大丈夫なんて言われたくない。私は大丈夫じゃない」


「はい」


「トマは森にいるの。怖がりで、暗いところが嫌いで、夜になるといつも私の服を掴んで寝る子なの。なのに、私はここで寝てろって言われてる。そんなの無理に決まってるでしょう!」


 ミラの叫びに、通りの空気が震えた。


 リシアは、その痛みを受け止めるように黙って聞いた。


 歌わない。


 言葉を急がない。


 けれど、ただ見守るだけでも足りない。


 トマが森にいるのなら、時間がない。


 リシアは町の人々を見回した。


「森には、どんな魔物が出るんですか」


 答えたのは、近くにいた中年の女性だった。


「影狼です。昔は奥の森にしか出なかったのに、最近は町の近くまで来るようになって……」


「数は?」


「昨日、カイルたちが見たのは三体。でも、群れならもっといるかもしれない」


「町に自警団は?」


 その質問に、人々は気まずそうに沈黙した。


 カイルが悔しそうに言う。


「戦争で、若い奴らはほとんどいなくなった。残ってるのは怪我人か、炉を守ってきた年寄りばかりだ」


 ガルドが目を伏せる。


 その沈黙にも、重い意味があった。


 この町は戦争中、武器を打ち続けた。


 けれど、その武器を持って帰ってきた者は少ない。


 リシアは深く息を吸った。


 状況は悪い。


 トマは森に取り残されている。


 カイルは折れた剣で行こうとしている。


 ミラは怪我をしたまま動こうとしている。


 町の人々は恐怖と罪悪感で動けない。


 ガルドは剣を直すことを拒んでいる。


 そして、リシアに戦闘力はない。


 敵を倒す主人公ではない。


 けれど、何もできないわけではない。


「まず、森へ入る人を決めましょう」


 リシアは言った。


 カイルが顔を上げる。


「俺が行く」


「一人では駄目です」


「じゃあ誰が行くんだよ!」


「私も行きます」


 周囲がどよめいた。


 カイルも、ミラも、ガルドも、同時にリシアを見た。


「あんたが?」


「はい」


「歌術師だろ。魔物と戦えるのか」


「戦えません」


「なら足手まといだ!」


「かもしれません」


 リシアは否定しなかった。


「でも、森に残ったトマくんの心歌や、昨日の残響を拾えるかもしれません。闇雲に探すより、見つけられる可能性があります」


 ミラが息を呑む。


「トマの……声が、聞こえるの?」


「確実ではありません。心を閉ざしていたり、距離が遠すぎたり、恐怖が強すぎると聞き取れないこともあります。でも、試す価値はあります」


「だったら、私も」


「ミラさんは駄目です」


 リシアは初めて、はっきりと遮った。


 ミラの目が怒りに染まる。


「どうして!」


「足の怪我が悪化します。それに、あなたが倒れたら、カイルさんはトマくんを探すよりあなたを守ることを選びます」


 ミラが言葉に詰まった。


「あなたの気持ちは止めません。弟さんを助けたい気持ちを、間違いだとは言いません。でも、その気持ちのまま森に入れば、助けるためではなく、自分を罰するために動いてしまう」


「……分かったようなことを言わないで」


 ミラの声は低かった。


 拒絶が返ってくる。


 共鳴詩を紡ごうとする前から、痛みが胸に跳ね返ったような気がした。


 リシアは一瞬、言葉を失いかけた。


 踏み込みすぎた。


 そう感じた。


 だが、ここで引き下がれば、ミラは本当に森へ向かう。


 リシアは胸の痛みを飲み込み、静かに頭を下げた。


「すみません。今のは、私が踏み込みすぎました」


 ミラの表情が揺れる。


「でも、お願いです。ここにいてください。あなたにしかできないことがあります」


「私に?」


「トマくんが好きなもの、怖がるもの、隠れそうな場所。あなたが知っていることを教えてください。それが、森で彼を見つける手がかりになります」


 ミラは杖を握りしめたまま、唇を噛んだ。


 行きたい。


 でも、動けない。


 その苦しみが、心歌としてリシアに届く。


 やがてミラは、震える声で言った。


「……トマは、狭いところに隠れる癖がある。怖いことがあると、木の根元とか、樽の陰とか。あと、火が怖い。昔、工房で火傷しかけてから」


「好きなものは?」


「甘い焼き栗」


 その言葉に、シルが肩の上でぴくりと反応した。


 リシアは横目でシルを見る。


「シル、今はあなたの話じゃないよ」


 シルは少しだけ不服そうに鳴いた。


 その小さなやり取りに、張り詰めていた周囲の空気がほんの少し緩む。


 ミラも、涙を堪えた顔のまま、かすかに目を瞬かせた。


「……そのリス、何?」


「相棒です」


「魔獣?」


「たぶん、リスです」


「たぶん?」


 シルが得意げに胸を張る。


 その姿を見て、カイルが呆れたように言った。


「本当に大丈夫なのかよ、この人」


「正直、私も少し不安です」


 リシアがそう答えると、カイルは一瞬ぽかんとした。


 それから、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


 だが、時間はない。


 リシアはすぐに表情を引き締める。


「カイルさん。森へはあなたと私、それから森に詳しい人が一人。最低でも三人で行きます。折れた剣のままでは危険です。代わりの武器はありますか」


 カイルは苦々しく首を振った。


「まともなのは、この剣だけだ。町に剣はある。でも、誰も出したがらない」


 町の人々が目を逸らした。


 戦争で剣を作り、戦争で人を失った町。


 剣を持つことそのものが、傷になっている。


 リシアはガルドを見た。


「ガルドさん」


「俺は打たん」


「打たなくていいです。直さなくてもいい。ただ、森で身を守れるものを貸してください」


「ない」


「本当に?」


 ガルドは答えない。


 その沈黙は、否定ではなかった。


 リシアは工房の奥を見る。


 閉ざされた扉。


 煤けた窓。


 その向こうに、眠っている鉄の気配がある。


 完全に消えた火ではない。


 灰の下に残った火。


 それが、リシアにはかすかに聞こえた。


 ――まだ、終われない。


 町へ入る前に聞いた心歌と同じ音だった。


 この音は、誰のものだろう。


 カイルか。


 ミラか。


 ガルドか。


 それとも、この町そのものか。


 リシアがもう一度口を開こうとした時、町の北側から鐘の音が鳴った。


 一度。


 二度。


 三度。


 それはただの時を告げる鐘ではなかった。


 人々の顔色が一斉に変わる。


「森番の鐘だ!」


 誰かが叫んだ。


 次の瞬間、門の方から一人の男が走ってきた。息を切らし、顔を青ざめさせている。


「影狼だ! 北の柵の近くに出た!」


 通りが騒然となった。


 ミラが杖を落としかける。


 カイルが折れた剣を握り直した。


「トマは?」


 ミラが叫ぶ。


「トマは見つかったの!?」


 森番の男は苦しそうに首を振った。


「分からない。ただ……柵の近くに、子どもの靴が落ちていた」


 ミラの顔から血の気が引いた。


 カイルが走り出そうとする。


 リシアは咄嗟にその腕を掴んだ。


「待ってください!」


「離せ!」


「そのまま行ったら死にます!」


「離せって言ってるだろ!」


 カイルの怒りが爆ぜた。


 周囲の恐怖も連鎖する。


 ざわめきが膨らみ、人々が我先にと家へ戻ろうとする。誰かが泣き出し、誰かが怒鳴る。ミラは足を引きずってでも北へ向かおうとしている。


 空気が崩れる。


 恐怖が、町全体を押し流そうとしていた。


 リシアの胸の奥で、無数の心歌が混ざり合う。


 ――子どもが。


 ――また失う。


 ――森へ行け。


 ――行くな。


 ――剣なんて。


 ――でも助けなきゃ。


 音が多すぎる。


 感情が重なり、リシア自身の心まで引きずられそうになる。


 怖い。


 焦る。


 今すぐ動かなければ。


 でも、動けば壊れる。


 どれが自分の感情で、どれが誰かの心歌なのか、一瞬分からなくなる。


 シルがリシアの肩で強く鳴いた。


 ちいっ!


 その声で、リシアは我に返った。


 ここで必要なのは、励ます歌ではない。


 勇気を与える歌でもない。


 ただ、一呼吸。


 暴走しかけた場に、ほんの少しの空白を作ること。


 リシアはカイルの腕を離し、胸元の徽章に手を添えた。


「静律結界を張ります」


 誰に告げたわけでもない。


 それでも、シルだけが小さく頷いたように見えた。


 リシアは息を吸った。


 歌うのは怖い。


 今も怖い。


 けれど、この歌は人を死地へ向かわせるためのものではない。


 止めるための歌。


 選ぶ時間を作るための歌。


 リシアは低く、短い旋律を紡いだ。


 それは大きな歌ではなかった。


 通りに響き渡るような華やかな歌でもない。


 けれど、リシアの声が空気に触れた瞬間、騒ぎがわずかに沈んだ。


 風が止まったように。


 泣き声も、怒号も、足音も、ほんの一拍だけ遅れる。


 町の人々が息を呑む。


 カイルの足が止まる。


 ミラの手が杖を掴み直す。


 ガルドの目が、驚いたようにリシアを見た。


 静律結界。


 怒りや恐怖を消す術ではない。


 暴走する心に、一呼吸分の空白を作るだけの歌。


 それでも今は、その一呼吸が必要だった。


「聞いてください」


 リシアは声を張った。


 長くは持たない。


 抑えた感情は戻ってくる。


 だから、短く、はっきり伝える必要がある。


「トマくんを助けるために動きます。でも、ばらばらに走れば、助ける人が増えるだけです。森へ入る人、町を守る人、ミラさんから情報を聞く人。今すぐ分けます」


 カイルが荒い息を吐く。


 まだ怒りはある。


 恐怖もある。


 だが、足は止まっている。


 リシアは彼を見た。


「カイルさん。あなたは行く。でも、一人では行かせません」


「……分かった」


「ミラさん。トマくんが隠れそうな場所を全部教えてください」


 ミラは涙をこぼしながら頷いた。


「ガルドさん」


 リシアは最後に老人を見た。


「町を守るための道具を貸してください。剣でなくてもいい。槍でも、斧でも、鉄の杖でもいい。人を殺すためではなく、子どもを連れ帰るために」


 ガルドは答えなかった。


 静律結界の薄い旋律が、リシアの喉に負担をかける。


 長くは持たない。


 早く。


 リシアは祈るようにガルドを見た。


 やがて、ガルドは工房の扉へ向かった。


 重い鍵を外し、扉を開ける。


 中は暗かった。


 けれど、完全な闇ではなかった。


 奥の壁に、布をかけられた武器棚がある。


 ガルドはその布を乱暴に剥ぎ取った。


 そこには、何本もの武器が眠っていた。


 剣。


 槍。


 鉈。


 鉄を巻いた杖。


 戦場へ出せなかったもの。


 あるいは、出さなかったもの。


 ガルドはその中から一本の短槍を取り、カイルへ投げた。


「剣ではない」


 低い声だった。


「だが、影狼の爪を払うくらいはできる」


 カイルは短槍を受け止め、言葉を失った。


「ガルド……」


「礼はトマを連れて帰ってから言え」


 その瞬間、リシアの歌詞帳が強く震えた。


 腰のポーチの中で、熱を持ったように。


 同時に、工房の奥から、微かな火の音が聞こえた。


 消えたはずの炉。


 灰に埋もれていた残り火。


 リシアは振り返る。


 工房の奥、冷えた炉の中に、小さな赤い光が一つだけ灯っていた。


 誰も火を入れていないはずなのに。


 シルがリシアの肩で、低く鳴いた。


 ただのリスとは思えない、警戒を含んだ声だった。


 そしてリシアの耳に、またあの心歌が届く。


 ――まだ、終われない。


 けれど今度は、その声に別の音が重なっていた。


 幼い子どもの泣き声。


 遠く、森の奥から。


 ――お姉ちゃん。


 リシアは息を呑んだ。


 トマは生きている。


 だが、その心歌は今にも黒い森に呑まれそうなほど弱かった。


 リシアは顔を上げる。


「急ぎましょう」


 カイルが短槍を握る。


 ミラが震えながらトマの隠れそうな場所を告げる。


 町の人々が、恐怖を抱えたまま動き出す。


 ガルドは冷えた炉を見つめたまま、何かを堪えるように拳を握っていた。


 リシアは歌詞帳に触れ、森の方を見る。


 旅に出て最初の町。


 そこで彼女を待っていたのは、優しい歌を求める人々ではなかった。


 折れた剣。


 消えかけた炉。


 助けを呼ぶ子どもの心歌。


 そして、歌を拒む鍛冶師。


 リシアは小さく息を吸った。


 歌は、答えではない。


 けれど今、答えを探すために動かなければならない。


 肩の上で、シルが木の実をぎゅっと抱えた。


「シル」


 リシアは静かに言った。


「行こう」


 銀色のリスは、今度は茶化すような仕草をしなかった。


 ただ、森の奥を見つめていた。


 まるでそこに、リシアにはまだ聞こえない何かを見ているように。


 北の森の向こうで、影狼の遠吠えが響いた。


 それは、消えかけた町の残り火を吹き消そうとする、夜の始まりの声だった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


リシアとシルの旅が本格的に始まりました。

最初に辿り着いたのは、火の消えかけた鍛冶の町ラグナ。


歌魔術師うたまじゅつしとして、リシアがこの町の残り火にどう向き合うのか。

次話も読んでいただけたら嬉しいです。

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