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序章 歌を閉じた朝

『人の想いを歌にする歌魔術師は、失われた星詠みの歌を探している』を読んでいただき、本当にありがとうございます。


この物語は、誰かを倒す強さだけではなく、人の想いに耳を傾け、その想いを歌へと紡いでいく旅の物語。


嬉しい日も、苦しい日も、遠回りした日々も、いつか誰かの心を支える一節になるかもしれない。


そんな物語になれたら嬉しい。


それでは、リシアたちの旅へ。


王都に春が戻った朝、リシアは歌うことができなかった。


 空はよく晴れていた。


 戦争の終わりを祝うには、あまりにもふさわしい青だった。雲は薄く、王都中央広場に張られた白い幕は、風を受けてやわらかく揺れている。石畳には花びらが撒かれ、広場を囲む建物の窓には小さな旗が飾られていた。


 誰もが笑っていた。


 少なくとも、遠目にはそう見えた。


 花売りの少女は籠いっぱいの花を抱え、帰還兵の胸に一輪ずつ差して回っている。露店では蜂蜜菓子が焼かれ、子どもたちは焼きたての甘い匂いに誘われて、親の手を引っ張っていた。広場の中央には即席の舞台が組まれ、王国騎士団の紋章と、歌術隊の青い旗が並んで掲げられている。


 その旗を見上げた瞬間、リシアの胸元にある小さな徽章が、急に重くなった気がした。


 王国騎士団直属歌術隊。


 戦場で兵士を励まし、傷ついた者を癒やし、亡くなった者に鎮魂の歌を捧げる者たち。


 かつては、その名を誇りに思っていた。


 今は、胸に刺さったまま抜けない棘のように感じる。


「リシア」


 背後から呼ばれ、リシアは振り返った。


 淡い青の歌術隊外套を羽織った女性が立っていた。セレナ・アーヴェルト。王国騎士団直属歌術隊隊長であり、リシアに歌術の基礎を叩き込んだ人だった。


 四十五歳になった今も背筋はまっすぐで、厳しい眼差しは変わらない。けれど、その目元には、戦前にはなかった疲れが細かく刻まれている。


「顔色が悪い。無理なら、今日の歌は私が代わる」


「大丈夫です」


 リシアは反射的に答えた。


 その声が、自分でも驚くほど薄かった。


 セレナは何も言わなかった。ただ、リシアの顔をじっと見る。その沈黙が、下手な慰めよりずっと痛かった。


「……本当に、大丈夫です」


「そうか」


 セレナは短く答えた。


 信じたわけではない。


 けれど、止めもしない。


 彼女はいつもそうだった。手を伸ばせば支えてくれる。だが、リシアが自分で立とうとするなら、その足を代わりに動かすことはしない。


 舞台の方から、式典係の声が聞こえた。


「歌術隊、リシア・フェルミナ様。ご準備をお願いいたします」


 名前を呼ばれた瞬間、広場のあちこちから視線が集まった。


 英雄を見る目。


 感謝する目。


 期待する目。


 そして、そのどれでもない目。


 リシアは胸元の徽章に指を添え、息を吸った。


 広場に立つ人々の心から、かすかな旋律が聞こえてくる。


 それは言葉ではない。


 はっきりとした思考でもない。


 ただ、胸の奥に沈んでいる願いや悲しみが、細い音となってリシアの中へ届く。


 ――生きて帰ってきた。


 ――あの子にも、この景色を見せたかった。


 ――もう戦わなくていいんだよな。


 ――本当に終わったのか。


 ――父さんは、どうして帰ってこないの。


 無数の心歌が混ざり合い、リシアの耳の奥で震えた。


 春の広場は明るい。


 けれど、その下には、まだ乾いていない涙がある。


 リシアは舞台へ上がった。


 拍手が起こった。


 大きく、温かく、まぶしい拍手だった。


 それなのに、リシアには、その音が遠く聞こえた。


 舞台の上から見える王都は、戦争の傷跡を必死に隠していた。焼けた外壁には新しい白い布が掛けられ、崩れた塔には花飾りが巻かれている。失ったものの上に、春を置いているようだった。


 式典係の男が、やや緊張した声で告げる。


「これより、王国騎士団直属歌術隊リシア・フェルミナ様による、祝勝と慰霊の歌を――」


 祝勝。


 その言葉が、胸の奥で鈍く響いた。


 戦争は終わった。


 魔物の大軍は退けられ、国境を越えて広がっていた戦火も鎮まった。王国は勝利し、人々は生き残った。だから、祝うべきなのだろう。


 けれど。


 本当に、祝っていいのだろうか。


 リシアは唇を開いた。


 選んだのは、鎮魂の歌だった。


 けれど最初の一音を紡ぐ前に、広場の奥から幼い声が上がった。


「進軍詩を歌って!」


 子どもの声だった。


 悪気などない、無邪気な声。


「父さんが言ってた! リシア様の進軍詩を聞いたら、怖くなくなったって!」


 ざわめきが広がった。


 何人かの帰還兵が、懐かしそうに顔を上げた。


「ああ、あの歌か」


「最後の砦で歌ってくれたやつだ」


「俺も聞いた。あれがなきゃ、足が動かなかった」


 リシアの指先が冷たくなった。


 進軍詩。


 戦場で恐怖に震える兵士たちを立ち上がらせた歌。


 逃げ出しかけた者の足を止め、剣を握れなくなった手にもう一度力を戻し、絶望の中で「まだ守れる」と思わせた歌。


 あの歌で、確かに救われた人がいた。


 逃げ遅れた民を守るため、最後の一線を支えた騎士たちがいた。


 でも。


 あの歌を聞いて、帰ってこなかった人もいた。


 リシアの脳裏に、ひとりの少女の笑顔が浮かんだ。


 金色の髪を風に揺らし、剣の柄を肩に担ぎながら笑う幼なじみ。


『リシアの歌ってさ、不思議だよね。怖いのに、怖くないって思える』


 アイシャ。


 リシアに初めて「あなたの歌が好き」と言ってくれた少女。


 最後の戦いの日、彼女はリシアの進軍詩を聞いて、前へ出た。


 そして、帰ってこなかった。


 遺体も見つからなかった。


 ただ、戦死したと記録された。


「リシア様!」


 広場から声が上がる。


「歌ってください!」


「また、あの歌を!」


「みんなが生きて帰れた歌を!」


 期待の声が膨らんでいく。


 リシアは動けなかった。


 胸の奥で、別の心歌が聞こえた。


 それは帰還兵の中からだった。


 片腕を布で吊った青年が、顔を真っ青にして立っている。周囲の歓声の中で、彼だけが歯を食いしばり、震えていた。


 ――やめてくれ。


 その心歌は、悲鳴に近かった。


 ――あの歌を聞いたら、また行かなきゃいけなくなる。


 リシアの視線が、青年に吸い寄せられる。


 彼は広場の人々に囲まれていた。誰も彼の震えに気付いていない。英雄として拍手され、勇敢な帰還兵として笑顔を向けられている。けれど、彼の心はまだ戦場にいた。


 ――もう立てない。


 ――でも、立たなきゃ。


 ――あの歌を聞いたら、俺はまた、自分が怖いって言えなくなる。


 リシアの喉が震えた。


 今、歌えば。


 たぶん、多くの人が喜ぶ。


 王国は美しい物語を手に入れるだろう。戦争を支えた歌術隊の英雄譚。恐怖に勝った騎士たち。民を守った勇気。明日へ向かう希望。


 けれど、その希望の光が、誰かの痛みを照らさずに焼くこともある。


 リシアは、ゆっくりと息を吐いた。


 そして、歌わなかった。


 広場のざわめきが、波のように揺れた。


 式典係が慌ててリシアを見る。セレナも舞台袖で目を細めた。群衆の期待が、戸惑いへ変わっていくのが分かった。


 リシアは舞台を降りた。


「リシア様?」


「どこへ……?」


 人々の間を進む。


 足が震えていた。


 でも、止まらなかった。


 リシアは片腕の青年の前まで歩き、膝をついた。


 青年が驚いたように目を見開く。


「……ごめんなさい」


 リシアは言った。


 広場中に聞こえるような声ではなかった。目の前の一人にだけ届けばいい声だった。


「今のあなたに、あの歌は歌えません」


 青年の唇が震えた。


「俺は……俺は、勇敢なんかじゃありません」


 絞り出すような声だった。


 周囲の人々が静まり返る。


「最後の戦いで、俺は逃げようとしたんです。足が動いて、勝手に後ろへ行こうとした。そこに、あなたの歌が聞こえた。怖くないって思った。まだ行けるって思った。だから、前へ出た。仲間も、前へ出た」


 青年は吊った腕を見た。


「でも、隣にいた奴は死にました。俺を庇って。あいつは笑ってた。あなたの歌を口ずさんで……俺を押して……それで」


 言葉が途切れた。


 春の広場に、彼の嗚咽だけが落ちた。


「俺、あの歌が嫌いじゃないんです。あの歌がなきゃ、俺は民を置いて逃げていたかもしれない。だけど……だけど、今聞いたら、俺はまた、怖いって言えなくなる」


 リシアは答えられなかった。


 肯定も、否定もできなかった。


 歌は彼を救った。


 同時に、彼の痛みを縛っていた。


 リシアはそっと手を伸ばし、青年の震える拳に触れた。


「怖かったんですね」


 それだけを言った。


 青年の顔が歪んだ。


「……怖かった」


 その一言が広場に落ちた瞬間、彼の心歌がほどけるのをリシアは感じた。


 勇ましい旋律ではなかった。


 勝利の歌でもなかった。


 泥と血に濡れ、何度も途切れ、それでも消えずに残った、か細い音だった。


 リシアは歌わなかった。


 ただ、そこにいた。


 やがて広場のあちこちから、別の声が漏れた。


「俺も……怖かった」


「私も、息子を待つのが怖かった」


「帰ってきたのに、夜になるとまだ砦の鐘が聞こえる」


 祝勝の広場が、少しずつ慰霊の場へ変わっていく。


 誰かが泣いた。


 誰かが肩を抱いた。


 花売りの少女が、籠の花を一輪、青年の足元に置いた。


 リシアはその光景を見つめながら、胸の奥が痛むのを感じていた。


 これでよかったのかは分からない。


 歌わなかったことが正しかったのかも分からない。


 ただ、少なくとも今この瞬間、あの青年に進軍詩を聞かせてはいけなかった。


 それだけは、分かった。


 式典は予定とは違う形で終わった。


 王国の役人たちは渋い顔をしていたが、広場の人々は大きな混乱もなく散っていった。誰もが笑顔だったわけではない。泣き腫らした目のまま家路につく者もいた。


 けれど、それでいいのかもしれないと、リシアは思った。


 戦争が終わった日に、無理に笑わなくてもいい。


 生き残ったことを喜びながら、帰らなかった人を想って泣いてもいい。


 それを許す歌があるなら。


 あるいは、それを邪魔しない沈黙があるなら。


 自分は、どちらを選べる歌術師になりたいのだろう。


 その答えは、まだ見えなかった。


 夕方。


 リシアは王都の外れにある慰霊の丘へ向かった。


 丘の上には、戦争で亡くなった者たちの名を刻んだ石碑が並んでいる。すべての遺体が帰ってきたわけではない。名前だけが戻ってきた人も多い。


 アイシャの名も、その一つだった。


 リシアは石碑の前で足を止めた。


 アイシャ・リーヴェルト。


 刻まれた文字を指でなぞる。


 冷たい石の感触が、指先から胸の奥まで染みていった。


「……今日、歌えなかったよ」


 誰に聞かせるでもなく呟いた。


 風が吹き、丘に咲いた白い花が揺れる。


「みんなは、私の歌を覚えていてくれた。救われたって言ってくれた。でも、怖いって言えなくなった人もいた。ねえ、アイシャ」


 リシアは石碑の前に膝をついた。


「あなたも、そうだったのかな」


 返事はない。


 当然だった。


 死者は答えない。


 それでも、リシアには耳を澄ませてしまう癖があった。


 石碑に残された想い。


 丘に染み込んだ祈り。


 花を供えた誰かの後悔。


 残響歌と呼ぶには、まだ形にならないほど微かな音が、彼女の奥で揺れる。


 ――ありがとう。


 ――帰れなくて、ごめん。


 ――覚えていて。


 ――忘れてくれ。


 いくつもの残響が重なり、はっきりした言葉にはならない。


 その中で、リシアはひときわ懐かしい音を探してしまう。


 アイシャの声。


 アイシャの笑い方。


 アイシャが好きだと言ってくれた、自分の歌。


 けれど、どれだけ耳を澄ませても、そこにアイシャの心歌はなかった。


 死んだから聞こえないのか。


 それとも、リシアには聞き取れないだけなのか。


 分からない。


「私、まだ歌術師でいていいのかな」


 問いかけは、風にほどけた。


 その時だった。


 背後で、かさり、と草が鳴った。


 リシアは振り返る。


 そこに、銀色のリスがいた。


 普通のリスより少しふっくらしていて、尻尾が大きい。夕陽を受けた毛並みは淡い銀に輝き、首元には、なぜか青い小さなリボンが結ばれていた。


 リスは前足に木の実を抱え、リシアをじっと見ていた。


「……え?」


 リシアは目を瞬かせた。


 王都の慰霊の丘にリスがいること自体は、不思議ではない。けれど、青いリボンをつけた銀色のリスなど、そうそういるものではない。


「あなた、どこから来たの?」


 リスは答えない。


 当然だ。


 リスなのだから。


 けれどその目は、妙に人の話を聞いているように見えた。


 リシアが手を伸ばすと、リスは警戒するどころか、とことこと近づいてきた。そして、当然のように彼女の膝の上へ乗る。


「あの、近いんだけど」


 リスは木の実を抱えたまま、リシアの膝の上で丸くなった。


 まるで、そこが昔から自分の場所だったかのように。


 リシアは困ったように笑った。


「慰めてくれてるの?」


 リスは尻尾を一度だけ揺らした。


 その仕草があまりに自然で、リシアは少しだけ息を漏らした。


 笑ったのは、今日初めてだった。


「変な子」


 リシアがそう言うと、リスは不満そうに頬をふくらませたように見えた。もちろん、本当にふくらませたわけではない。たぶん。けれど、そう見えた。


「ごめん。変じゃないね。……ええと、銀色だから、シル?」


 リスは顔を上げた。


 淡い金色の目が、リシアを見つめる。


「嫌?」


 リスは木の実をかじった。


「嫌じゃないんだ」


 リシアは少し笑った。


「じゃあ、シル」


 その名を呼んだ瞬間、胸の奥でかすかな音が鳴った。


 心歌ではない。


 残響歌でもない。


 もっと古く、もっと遠い、星の光が水面に落ちたような音。


 リシアは思わず息を呑んだ。


 シルは木の実をかじるのをやめ、リシアの胸元をじっと見た。いや、正確には胸元の徽章ではなく、その内側にしまってある小さな歌詞帳を見ているようだった。


 リシアは鞄から歌詞帳を取り出した。


 革表紙の古い帳面。


 戦争が始まる前、アイシャがくれたものだった。


『リシア、歌ってすぐ消えるのもったいないよ。ちゃんと書いて残しなよ。いつか、リシアの歌でいっぱいの本にしてさ』


 その時のアイシャは、未来を疑っていなかった。


 戦争が終われば、二人で旅をしようと言っていた。


 リシアが各地で歌い、アイシャが護衛をする。美味しいものを食べて、知らない街で迷って、夜には焚き火の前で新しい歌を作る。


 そんな、他愛のない夢。


 歌詞帳の最初のページには、アイシャの字で短い言葉が書いてある。


『リシアの歌が、誰かの明日になりますように』


 リシアはその文字を見るたび、胸が痛んだ。


 誰かの明日。


 その明日に、アイシャはいない。


 歌詞帳を開くと、風もないのにページがめくれた。


「……え?」


 リシアは慌てて押さえようとした。


 けれどページは勝手に動き、まだ何も書かれていないはずの白紙のページで止まる。


 シルが、ぴんと尻尾を立てた。


 白紙の中央に、淡い光が滲む。


 それはインクではなかった。


 歌詞でもなかった。


 文字のようで、音符のようで、星の欠片のようなもの。


 やがて、短い一節が浮かび上がった。


 ――閉じた歌は、まだ終わりではない。


 リシアは息を止めた。


 手が震える。


「何、これ……」


 書いた覚えはない。


 魔力を込めた覚えもない。


 そもそも、この歌詞帳に術式を刻んだことなど一度もなかった。


 シルが小さく鳴いた。


 ちい、と。


 それはただの鳴き声のはずなのに、リシアの胸には妙に深く響いた。


 まるで、まだ閉じるな、と言われたような気がした。


 リシアは歌詞帳を閉じた。


 でも、胸の震えは収まらなかった。


 その夜、リシアは歌術隊の宿舎に戻った。


 部屋は片付いている。


 もともと荷物は少ない方だった。戦場を転々としていた頃から、持ち物はすぐ運べる量にしていたからだ。着替え数枚、羽ペン、インク、薬草袋、旅用の外套。アイシャのくれた歌詞帳。


 そして、今日からなぜか増えた銀色のリス。


 シルは当然のように机の上へ登り、リシアの干し果物の袋を引っ張り出そうとしていた。


「それは駄目」


 リシアが取り上げると、シルは信じられないものを見るような顔をした。


「そんな顔しても駄目。あなた、さっき木の実食べてたでしょ」


 シルは机の上で丸くなり、ぷいと横を向いた。


「怒った?」


 返事はない。


 けれど尻尾だけは、ちらちらとこちらを見ている。


 リシアは小さく笑い、干し果物を一欠片だけ机に置いた。


「これだけね」


 シルは一瞬で振り向き、両前足で干し果物を抱えた。


「現金な子」


 久しぶりに、部屋に穏やかな空気が流れた。


 けれど、それは長く続かなかった。


 扉が叩かれた。


「リシア。入るぞ」


 セレナだった。


 返事を待たずに入ってくるあたり、いつも通りだ。けれどその視線は、机の上のシルで止まった。


「……リスか」


「拾いました」


「人は犬や猫を拾うものだと思っていたが」


「私もそう思ってました」


 シルは干し果物を抱えたまま、セレナをじっと見た。


 セレナもまた、シルを見返す。


 わずかな沈黙。


 リシアには、その空気がただの人間とリスの対面には見えなかった。


「そのリス、どこで拾った」


「慰霊の丘です。アイシャの石碑の前で」


 セレナの表情が、ほんの少しだけ変わった。


 リシアはそれを見逃さなかった。


「隊長、何か知っているんですか」


 セレナは答えなかった。


 代わりに、部屋の椅子へ腰を下ろした。その仕草に、いつもの鋭さはなく、どこか疲れて見えた。


「今日の式典のことだ」


 話題を変えられた。


 リシアは分かっていたが、追及しなかった。


「王宮から苦情が来た」


「でしょうね」


「祝勝式典で進軍詩を求められ、歌わずに舞台を降りた。役人たちは顔を潰されたと騒いでいる」


「すみません」


「謝る相手が違う」


 セレナの声は静かだった。


「お前は、あの場で歌わないことを選んだ。それは歌術師の判断だ。なら、まず自分の判断に対して立て」


 リシアは唇を噛んだ。


「でも、私は逃げたのかもしれません。進軍詩を歌うのが怖くて、あの人を理由にして逃げただけかもしれない」


「そうかもしれない」


 セレナは容赦なく言った。


 リシアは胸を刺されたように顔を上げる。


「だが、それだけではない。お前は、あの兵士の心歌を聞いた。今の彼に進軍詩は届かないと判断した。それも事実だ」


「……私の歌は、届くんでしょうか」


 ずっと胸にあった問いが、こぼれた。


「戦場で、私は歌いました。怖がっている人たちに、まだ立てるって。守れるって。帰ろうって。私は、本当にそう思っていました。でも、その歌で前に出て、帰ってこなかった人たちがいる」


 リシアは歌詞帳を握りしめた。


「アイシャも、私の歌を聞いていました。最後まで笑っていました。私が歌わなければ、あの子は……」


「リシア」


 セレナの声が、鋭く遮った。


「死者の選択を、お前一人の歌に閉じ込めるな」


 リシアは息を呑んだ。


「歌に罪がないとは言わない。私たちは戦場で歌った。王国も騎士団も、歌術隊を利用した。私も、お前の歌を戦場へ運んだ。その責任はある」


 セレナは自分の手を見た。


 その手もまた、多くの歌を送り出してきた手だった。


「だが、すべての死をお前の歌だけのせいにするな。それは、死んだ者たちの意志まで奪うことになる」


「意志……」


「アイシャは、お前の歌に操られて剣を握ったのか」


 リシアは答えられなかった。


 アイシャの顔が浮かぶ。


 明るくて、真っ直ぐで、少し無茶で。


 怖がっているくせに、誰かの前では必ず笑う少女。


『リシアの歌を聞くとさ、私が何を守りたいのか思い出せるんだ』


 あの日の言葉が、胸の奥で蘇る。


 リシアは目を伏せた。


「分かりません」


 それが、今の本音だった。


「私は、もう分からないんです。私の歌が、人を救ったのか。人を縛ったのか。希望だったのか、呪いだったのか」


 シルが干し果物を食べる手を止めた。


 小さな金色の目が、リシアを見ている。


「王都にいれば、私はまた英雄の歌を求められます。戦争は美しかった。騎士は勇敢だった。歌術隊は希望だった。そういう歌を」


 リシアは胸元の徽章に触れた。


「でも私は、今日、怖いって言った兵士の声を聞きました。祝勝の花の下に、まだ泣けていない人たちの心歌を聞きました。きっと王都の外にも、そういう人がいる。歌に救われた人も、歌に傷ついた人も。何も言えないまま、戦争が終わったことにされている人も」


 セレナは黙って聞いていた。


「だから、私は行きたいです」


 リシアは顔を上げた。


 声はまだ震えていた。


 けれど、逃げる声ではなかった。


「私の歌が本当に人を救えるのか、知りたい。救えないなら、何ができるのか知りたい。歌わない方がいい時があるなら、それも知りたい。誰かの人生を、王国の美談じゃなく、その人自身の歌として聞きたい」


 それは旅立ちの決意というには、あまりに不格好だった。


 希望に満ちた宣言ではない。


 胸を張れる夢でもない。


 ただ、分からないから歩きたいという、迷いだらけの言葉だった。


 セレナは長く黙った。


 やがて、深く息を吐いた。


「お前なら、そう言うと思っていた」


「止めないんですか」


「止めてほしいのか」


「……少しだけ」


「なら、少しだけ止めてやる」


 セレナは立ち上がり、リシアの額を指で軽く弾いた。


「痛っ」


「旅は甘くない。人の心に踏み込むなら、感謝より拒絶の方が多い日もある。歌えば救えるなどと思うな。心歌が聞こえるからといって、人の心を理解したつもりになるな。お前の優しさは、時に相手を追い詰める。綺麗な言葉に逃げれば、歌は簡単に嘘になる」


「……はい」


「それでも行くなら、行け」


 セレナは腰の小袋から、古い羽ペンを取り出した。


 青い軸に、細い銀の装飾が入っている。


「これは?」


「歌術隊に入った時、私が師から受け取ったものだ。もう私には必要ない」


「そんな大事なもの、受け取れません」


「大事だから渡すんだ」


 セレナはリシアの手に羽ペンを握らせた。


「歌いに行くな。聞きに行け。人の声を。沈黙を。怒りを。歌にならなかったものを」


 リシアの目の奥が熱くなる。


「セレナさん……」


「それから、進軍詩はしばらく歌うな」


 リシアは小さく頷いた。


「歌えません」


「違う。歌えないのではなく、歌わないと決めろ。逃げて封じるのと、選んで封じるのは違う」


 その言葉は、胸の奥に深く沈んだ。


 逃げることと、選ぶこと。


 同じ沈黙でも、そこには違いがある。


 リシアは羽ペンを握りしめた。


「はい。私は、今の進軍詩を歌いません」


「いつか歌う日が来るかもしれない」


 セレナの言葉に、リシアは顔を上げた。


「ただし、その時は昔の歌では駄目だ。兵士を死地へ向かわせる歌ではなく、恐怖の中でも自分で選ぶための歌でなければならない」


「そんな歌が、私に作れるでしょうか」


「知らん」


 あまりにもあっさりした答えだった。


 リシアは思わず目を丸くする。


 セレナは少しだけ口元を緩めた。


「だから旅に出るんだろう」


 その夜、リシアは眠れなかった。


 荷物をまとめ終えた部屋で、机に向かい、歌詞帳を開く。


 シルは歌詞帳の横で丸くなっていた。時々薄目を開けて、リシアの手元を確認している。まるで見張っているようだった。


「そんなに見なくても、干し果物はもうないよ」


 シルは不満そうに尻尾を動かした。


「違うの?」


 シルは歌詞帳を前足で軽く叩いた。


 リシアは苦笑する。


「あなた、本当にただのリス?」


 もちろん返事はない。


 リシアは羽ペンをインクに浸した。


 何を書けばいいのか分からなかった。


 旅立ちの決意。


 そんな立派な言葉は似合わない。


 王都を出る理由。


 それも一つではない。


 歌が怖い。


 でも、歌を捨てられない。


 アイシャのことを知りたい。


 でも、本当は知るのが怖い。


 誰かの心歌を聞きたい。


 でも、聞いてしまうことが相手を傷つけるかもしれない。


 迷いばかりだった。


 だからリシアは、迷いのまま書いた。


『私は、歌が人を救えるのか分からない。

 だから、歌にならなかった想いを聞きに行く。

 歌うためだけではなく、歌わないためにも。』


 書き終えた瞬間、ページの端が淡く光った。


 リシアは息を呑む。


 文字の下に、見覚えのない細い線が浮かんだ。楽譜のような、道のような、星座のような線。


 その先に、小さな火の印が灯る。


 シルが立ち上がった。


 尻尾の毛がわずかに膨らんでいる。


「……何?」


 リシアが指で火の印に触れようとした瞬間、胸の奥に微かな旋律が響いた。


 熱い鉄を打つ音。


 燃え尽きた炉の奥に残る、小さな火。


 誰かの後悔。


 誰かの夢。


 そして、子どもの泣き声。


 断片的な音が一瞬だけ流れ込み、すぐに消えた。


 リシアは椅子から立ち上がった。


 心臓が早鐘を打っている。


 歌詞帳の火の印は、もう淡い染みのようになっていた。


「今の……」


 シルは歌詞帳をじっと見ている。


 その横顔は、さっきまで干し果物を抱えていた小動物とは思えないほど静かだった。


 リシアはページに残った線を見つめる。


 それは王都の西門から伸びる街道に似ていた。


 西には、古い鍛冶の町がある。


 戦争中、多くの武器を作り、今は炉の火が落ちかけている町。


 名を、ラグナ工房町という。


 リシアはその名を知っていた。


 戦場で使われた剣の多くが、そこから届いていたからだ。


 翌朝。


 王都の西門には、まだ朝霧が残っていた。


 大きな門の上では衛兵が交代の挨拶を交わし、荷馬車がゆっくりと街道へ出ていく。商人たちは眠そうにあくびをし、旅人たちは外套の襟を立てて歩き出していた。


 リシアは門の前で立ち止まった。


 白を基調とした旅装に、淡い青のショートローブ。腰には歌詞帳を入れたポーチと、セレナから受け取った羽ペンのケース。茶色の編み上げブーツは新品ではないが、長旅にはまだ十分耐えられる。


 胸元には、歌術隊の徽章。


 外そうか迷った。


 けれど、外さなかった。


 誇りだけではない。


 傷でもある。


 それでも、自分がそこにいた事実をなかったことにはできない。


 シルはリシアの肩に乗っていた。


 最初からそこが定位置だと決めているらしい。大きな尻尾がリシアの首元にふわふわ当たって、少しくすぐったい。


「重くはないけど、くすぐったい」


 シルは聞こえないふりをした。


 その前足には、いつの間にか小さな木の実が握られている。


「それ、どこから持ってきたの?」


 シルは空を見た。


「ごまかした」


 リシアが呆れると、シルは木の実を大事そうに抱え直した。


 その仕草に、少しだけ緊張がほどける。


「行こうか、シル」


 リシアは西門の外へ一歩踏み出した。


 王都の石畳が終わり、土の街道が始まる。


 その一歩は、英雄の旅立ちには見えなかった。


 誰かに見送られる凱旋でもない。


 世界を救う使命を授けられたわけでもない。


 ただ、一人の歌魔術師が、自分の歌の答えを探すために歩き出しただけだった。


 門を出てしばらく進んだところで、リシアはふと立ち止まった。


 風の中に、微かな心歌が混ざっていた。


 王都の方ではない。


 街道の先。


 まだ見ぬ町の方から。


 それは弱く、途切れそうな旋律だった。


 ――夢は、燃え尽きたら終わりなのか。


 リシアは胸元の歌詞帳に手を添えた。


 ページの奥で、小さな火が揺れた気がした。


 シルが肩の上で、ちい、と鳴いた。


 まるで、急げと言うように。


 リシアは小さく頷き、歩き出す。


 歌は人を救えるのか。


 その答えはまだ、どこにもない。


 けれど、歌にならなかった想いが、どこかで彼女を待っている。


 だからリシアは旅に出る。


 歌うために。


 歌わないために。


 そしていつか、誰かの心に残った小さな火を、未来へ渡すために。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


リシアの旅は、ここから始まります。

彼女が出会う人々の想い、そして歌が本当に人を救えるのかという問いを、少しずつ描いていければと思います。


次話も読んでいただけたら嬉しいです。

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