旅路小休止編 9話 木漏れ日の市と銀色の盗み食い
水鈴町エルネを離れたリシアとシルは、木漏れ日の市ルメルへ辿り着く。
そこにあるのは、黒い鐘でも、閉ざされた炉でも、声を奪う呪いでもない。
焼き菓子の甘い匂い。
市に響く人々の笑い声。
そして、食いしん坊な銀色のリスの盗み食い。
重い歌を預かり続けてきたリシアは、この町で思い出す。
誰かの人生を変えなくてもいい。
ただ、その場を少しだけ温かくする歌もあるのだと。
エルネの町を出てから、三日が過ぎた。
水鈴町の風鈴の音は、今もリシアの耳の奥に残っている。
ちりん、と澄んだ音。
けれど、その音を思い出すたび、同時に黒い鐘の重い響きも胸の奥で揺れた。
人の声を奪う黒譜術。
ハルクが遺した鳴らない風鈴。
そして、エマが自分で選んだ一音。
あの町で得た沈黙の断章は、リシアの歌詞帳に確かに刻まれている。火の断章に続く、二つ目の欠片。
旅は進んでいる。
星詠みの歌へと、少しずつ近づいている。
それは分かっているのに、リシアの足取りはどこか重かった。
歌詞帳が重いのではない。
そこに刻まれた想いの重さを、リシア自身がまだ受け止めきれていないのだ。
ラグナの火。
エルネの沈黙。
どちらも、誰かの人生の痛みだった。
それを歌詞として預かるということは、綺麗な言葉を集めることではない。
人の後悔や悲しみや、ようやく選んだ小さな願いを、旅の中へ持っていくということだった。
朝の森道を歩きながら、リシアは無意識に胸元へ手を添えていた。
そこには、旧王国騎士団直属歌術隊の徽章がある。
青い宝石が、木漏れ日の下でかすかに光る。
肩の上では、シルが大きなあくびをした。
銀色のリスは、リシアの深刻な気配などまるで気にしていないように、尻尾をふわりと膨らませている。
いや、正確には、気にしていないふりをしている。
リシアが黙り込む時間が長くなると、シルはわざと耳元で鳴いたり、尻尾で頬を撫でたり、鞄の紐を引っ張ったりする。
今もそうだった。
シルはリシアの肩から胸元へ移動し、歌詞帳の入ったポーチを前足で軽く叩いた。
「開けないよ」
リシアは小さく言った。
ちい。
「今は見ない」
ちい。
「気になるのは分かるけど、歩きながら読むと転ぶから」
シルは少し考えたあと、今度はリシアの頬を前足でぺしぺし叩いた。
「……もしかして、歌詞帳じゃなくて、私の顔が暗いって言いたい?」
シルは、そうだと言うように胸を張った。
リシアは苦笑した。
「分かりやすいね、シルは」
ちい。
「褒めてるよ」
シルは満足げに鼻を鳴らした。
リシアは森道の先を見る。
木々の間から、柔らかな光が差し込んでいる。道は緩やかに下り、遠くに小さな町の屋根が見え始めていた。赤茶色の屋根。白い煙突。町の周りには畑が広がり、森沿いには露店らしき布屋根がいくつも並んでいる。
風に乗って、焼き菓子の甘い匂いが届いた。
その瞬間、シルの耳がぴんと立った。
「反応が早い」
ちいっ。
「まだ遠いよ」
シルはリシアの肩から頭の上へ登り、町の方をじっと見つめた。
まるで見張り台に立つ騎士のような顔だ。
ただし見張っているのは敵ではなく、たぶん食べ物である。
リシアは思わず笑った。
その笑いが、自分でも少し久しぶりに感じられた。
「今日は少し休もうか」
シルが勢いよく鳴いた。
「分かりやすいなあ」
道端の小さな標識には、丸い文字で町の名が刻まれていた。
木漏れ日の市、ルメル。
森で採れた木の実や蜂蜜、薬草、手作りの布小物、焼き菓子などを売る小さな市場町らしい。標識の下には、色とりどりの木札が吊るされている。
『本日、市の日』
『旅人歓迎』
『焼き栗蜜菓子、今年初売り』
最後の文字を見た瞬間、シルがリシアの髪を引っ張った。
「痛い痛い。分かった、分かったから」
シルはもう完全に町へ行く気だった。
リシアは苦笑しながら、足を速める。
ルメルの町は、ラグナやエルネとはまるで違っていた。
町の入口からすぐに小さな広場があり、そこに市が開かれている。木の台に並ぶ果物。籠に山盛りの木の実。色とりどりの布。丸い瓶に入った蜂蜜。香草を束ねた飾り。子どもたちが走り回り、商人たちが明るい声で客を呼んでいる。
空気が軽い。
誰かの痛みがないわけではない。
どんな町にも、人の暮らしがある以上、悩みも後悔もあるだろう。
けれど、ここには今、黒い譜面の冷たさも、戦争の残響も強くは感じられなかった。
ただ、日常があった。
朝に焼いたパンを売る人。
値段交渉をするおばさん。
転んだ子どもを笑いながら助け起こす父親。
蜂蜜の瓶を光に透かして眺める旅人。
そんな当たり前の光景が、リシアには少し眩しく見えた。
「歌詞帳に刻まれるほどの事件がなくても、人は生きているんだよね」
リシアがぽつりと言うと、シルが肩の上で首を傾げた。
「ううん。何でもない」
リシアは首を横に振った。
その時、広場の奥から甘く香ばしい匂いが強くなった。
焼き栗。
蜂蜜。
バター。
そして、ほんの少し焦げた砂糖。
シルが消えた。
「え?」
今の今まで肩にいたはずの銀色の姿が、忽然と消えている。
リシアは目を瞬かせた。
次の瞬間、露店の方から女性の声が上がった。
「あらまあ!」
嫌な予感がした。
リシアは声のした方へ急ぐ。
そこには、木の実菓子を売る小さな露店があった。店番をしているのは、丸眼鏡をかけたふくよかな老婦人だ。白い前掛けをつけ、髪を後ろでまとめている。
その店台の上に、シルがいた。
銀色のリスは、焼き栗蜜菓子が山盛りになった籠の前で、ぴたりと固まっている。
前足には、すでに一つ。
「シル」
リシアは低い声で呼んだ。
シルはゆっくり振り返った。
口元に、蜂蜜がついている。
「食べたね」
ちい。
「今の返事は、食べてません、じゃなくて、見つかりました、の鳴き方だよね」
シルは視線を逸らした。
老婦人は目を丸くした後、ころころと笑い始めた。
「あらあら、ずいぶん可愛いお客さんだこと」
「すみません!」
リシアは慌てて頭を下げた。
「うちの相棒が勝手に……。ちゃんとお支払いします」
「いいのよ、一つくらい」
「いえ、そういうわけには」
「でも、その子、ちゃんと選んで食べたみたいね」
老婦人は籠を覗き込み、感心したように言った。
「一番焼き加減のいいところを持っていったわ」
シルが胸を張った。
「褒められてないからね」
リシアが言うと、老婦人はまた笑った。
「旅の方かい?」
「はい。リシアといいます。こちらはシルです」
シルは焼き栗蜜菓子を抱えたまま、ちい、と鳴いた。
「まあ、礼儀正しいのね」
「食べ物を持ったまま挨拶している時点で、礼儀正しいかは少し怪しいです」
「あら、いいじゃない。食べることは生きることよ」
老婦人はそう言って、焼き栗蜜菓子をもう一つ紙に包んだ。
「はい、これはお嬢さんに」
「私にですか?」
「その子だけ食べたら、不公平でしょう」
リシアは一瞬戸惑った。
けれど、老婦人の笑顔があまりに自然だったので、断る方が失礼な気がした。
「ありがとうございます。お代は」
「代わりに一つ頼まれてくれるかい?」
リシアは少し身構えた。
頼み事。
旅先でそう言われると、どうしても事件の匂いを探してしまう。
心歌に耳を澄ませかけて、リシアはふと自分に気付いた。
また、身構えている。
誰かの頼みを、傷や事件の入り口のように見ている。
けれど、老婦人の顔には深刻さはなかった。
ただ、楽しそうだった。
「何でしょうか」
「店先で、一曲歌ってくれないかい」
リシアは固まった。
「歌、ですか」
「ああ。胸の徽章を見れば分かるよ。あんた、歌術師だろう?」
老婦人の声に、周囲の客が少し反応した。
何人かがリシアを見る。
リシアは無意識に胸元の徽章を押さえた。
歌術師。
その言葉に、まだ少しだけ胸が痛む。
老婦人はすぐに表情を和らげた。
「ああ、無理にとは言わないよ。市の日には、旅芸人や楽士がよく歌うんだけどね。今日は来られなくなってしまって、少し寂しかったんだ」
「寂しい、ですか」
「そう。市は賑やかだけど、歌がないと少しだけ味気ないのさ」
老婦人は店台の菓子を整えながら言った。
「誰かを泣かせるような立派な歌じゃなくていい。子どもが足を止めて、お腹を空かせた旅人が少し笑うような歌でいいんだよ」
リシアは言葉を失った。
誰かを泣かせる歌ではなく。
心の傷へ踏み込む歌でもなく。
事件を解決する歌でもなく。
ただ、市の昼下がりに流れる歌。
そんな歌を、自分は歌えるのだろうか。
かつては歌っていた気がする。
戦争の前。
まだ王都で歌術の勉強をしていた頃。
仲間たちと練習の合間に、意味もなく鼻歌を歌っていた。アイシャがそれに合わせて机を叩き、下手な合いの手を入れて、セレナに叱られた。
あの頃の歌は、誰かを救うためでも、励ますためでもなかった。
ただ、そこにいる時間を少し明るくするためのものだった。
リシアは胸が少し苦しくなった。
シルが店台からリシアの肩へ戻ってくる。
前足には、まだ蜜菓子を持っている。
そして、それを半分に割り、片方をリシアの口元へ差し出した。
「くれるの?」
ちい。
「珍しいね」
シルは得意げに胸を張る。
リシアはその半分を受け取り、口に入れた。
甘い。
焼き栗の香ばしさと、蜂蜜の柔らかな甘み。ほんの少し焦げた砂糖の苦みが、後から広がる。
おいしい。
ただ、それだけで胸が緩む。
難しいことを考えなくても、温かいものは温かい。
リシアは小さく息を吐いた。
「一曲だけなら」
老婦人の顔がぱっと明るくなった。
「本当かい」
「はい。でも、すごい歌は歌えません」
「すごくなくていいんだよ」
その言葉に、リシアは少し救われた。
老婦人は店先の小さな木箱を裏返し、簡易の台にしてくれた。周囲にいた子どもたちが興味津々で集まってくる。
「歌だって!」
「お姉ちゃん、歌うの?」
「リスも歌う?」
最後の言葉に、シルがびくっとした。
リシアは笑う。
「シルは歌わないかな」
ちい。
「今、ちょっと安心したよね」
子どもたちが笑った。
笑い声。
明るい。
リシアは胸の中に溜まっていた重さが、ほんの少しだけ軽くなるのを感じた。
彼女は木箱の上に立たず、その横に腰を下ろした。
高いところから歌う気分ではなかった。
子どもたちと同じ目線。
市場の人たちと同じ場所。
そこから歌いたかった。
リシアは歌詞帳を開かない。
魔力を強く乗せる必要もない。
心歌を聞き取る必要もない。
ただ、目の前の市の音を聞いた。
野菜を並べる音。
籠を動かす音。
子どもたちの足音。
焼き栗が弾ける小さな音。
蜂蜜の瓶を置く音。
シルが蜜菓子をかじる音。
どれも、日常の音だ。
リシアは静かに歌い始めた。
それは短い歌だった。
戦場の歌ではない。
失われた断章を呼ぶ歌でもない。
木漏れ日と、市の日と、焼き菓子の甘い匂いのための歌。
『森から届いた朝の実を、
小さな手のひらにひとつ。
分けたら少し減るけれど、
笑った分だけ、甘くなる。
急がなくてもいい日には、
風もゆっくり歩いてる。
今日の小さな幸せを、
ポケットに入れて帰ろう。』
歌い終えたあと、奇跡は起きなかった。
誰かが劇的に泣き崩れることもない。
黒い霧が晴れることもない。
失われた声が戻ることもない。
ただ、子どもたちがぱちぱちと手を叩いた。
老婦人が嬉しそうに笑った。
通りがかった青年が足を止め、少しだけ口元を緩めた。
買い物袋を抱えた女性が、「いい歌ね」と言った。
それだけだった。
それだけ。
けれど、リシアの胸には、不思議なくらい温かいものが残った。
歌っても、誰かの人生を変えなくていい。
歌っても、誰かを前へ進ませなくていい。
歌っても、重い答えを出さなくていい。
ただ、その場にいる人たちの時間を、少しだけ柔らかくする歌があってもいい。
リシアは初めて、そのことを思い出した気がした。
「お姉ちゃん、もう一回!」
子どもの一人が言った。
「もう一回?」
「今の歌、リスのところがなかった!」
リシアは目を瞬かせた。
「リスのところ?」
「リスが出てくる歌にして!」
子どもたちが一斉に頷く。
「リス!」
「銀色のリス!」
「お菓子を食べるリス!」
シルが蜜菓子をかじる動きを止めた。
リシアは口元を押さえた。
「確かに、シルにぴったりの歌かもしれないね」
シルは嫌な予感がしたのか、リシアの肩の後ろに隠れようとした。
しかし、子どもたちは期待の目で見ている。
老婦人まで楽しそうだ。
「もう一曲、お願いできるかい?」
「では、短く」
リシアはシルを見る。
「主役だよ」
シルは、ちい、と抗議した。
だがリシアはにっこり笑い、二曲目を歌った。
『銀のしっぽが揺れたなら、
甘い匂いにご用心。
ひとつの栗を見つけたら、
ふたつめ探して右左。
叱られたって知らんぷり、
でも半分こは忘れない。
小さな前足いっぱいに、
今日の幸せ抱えてる。』
今度は、子どもたちが声を上げて笑った。
シルは明らかに不満そうだった。
けれど、歌の最後にリシアが蜜菓子を半分差し出すと、あっさり受け取った。
「ほら、半分こは忘れない」
シルはそっぽを向きながら蜜菓子を食べる。
その様子にまた笑いが起こった。
笑い声が、市場に広がっていく。
明るく、軽く、何気ない笑い。
リシアは歌い終えてから、しばらくその場に座っていた。
いつもなら、歌の後は相手の心歌の変化を気にしてしまう。
届いたのか。
届きすぎていないか。
傷つけていないか。
でも、今は違った。
子どもたちはすぐに別の露店へ駆け出した。
老婦人は焼き菓子を売り始めた。
客たちは日常へ戻っていく。
リシアの歌は、彼らの人生を劇的に変えなかった。
ただ、昼下がりの一場面になった。
それでよかった。
「こういう歌も、いいんだね」
リシアが呟くと、シルが肩の上で小さく鳴いた。
ちい。
「シルは、自分の歌を作られたのが不満?」
シルは少し考えたあと、もう一度鳴いた。
不満だが、お菓子はもらえたので許す。
そんな顔だった。
「分かりやすい」
老婦人が紙袋を差し出してきた。
「はい、歌のお礼」
中には焼き栗蜜菓子がいくつも入っている。
「こんなにいただけません」
「いいのよ。市が明るくなったからね」
「でも」
「それに、その子がまた盗み食いしないように、ちゃんと持たせておいた方が安全だろう?」
シルが目を逸らした。
リシアは申し訳なさとおかしさが混ざった顔で、紙袋を受け取った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。久しぶりにいい歌を聞いたよ」
老婦人はそう言ってから、少しだけ目を細めた。
「あんた、歌うのが怖いのかい?」
リシアは固まった。
老婦人の声は優しい。
心歌を聞かなくても、その言葉が悪意から出たものではないと分かる。
「……少し」
リシアは正直に答えた。
「歌は、人の心に触れます。触れ方を間違えると、傷つけてしまうこともあります」
「そうだろうね」
老婦人はあっさり頷いた。
「包丁だってそうさ。料理を作ることもできるし、手を切ることもある」
「歌と包丁ですか」
「似たようなものよ。大事なのは、持つ手が乱れていないかどうか。あとは、切ったものをちゃんと見ることだね」
リシアは老婦人を見る。
「ちゃんと見る……」
「傷つけてしまうのが怖いから、何も切らない。何も作らない。それも一つの選び方だよ。でも、お腹を空かせた子が目の前にいるなら、怖くても包丁を持つ日がある」
老婦人は笑った。
「もちろん、無理に豪華な料理を作らなくてもいい。今日みたいに、半分こできる焼き菓子で十分な日もある」
リシアの胸に、その言葉がゆっくり染み込んだ。
歌も同じ。
いつも誰かの人生を変えるほどの歌を歌わなくていい。
大きな歌だけが歌ではない。
半分こできる焼き菓子のような歌もある。
「ありがとうございます」
リシアが頭を下げると、老婦人は手をひらひら振った。
「お礼を言うのはこっちだよ。さあ、旅人さん。せっかくの市なんだから、少し見ておいき」
「はい」
リシアは紙袋を抱え、シルと共に市場を歩き始めた。
その後の時間は、驚くほど穏やかだった。
シルが木の実細工の店で、リスの形をした飾りを見つけて固まった。
店主が「似てるねえ」と笑うと、シルはなぜか少し得意げになった。
布小物の店では、青い小さなリボンが目に留まった。シルの首元につけるには少し大きいが、リシアの鞄につけるにはちょうどいい。
「これ、いいかも」
リシアが手に取ると、店番の少女が言った。
「お姉さんの髪留めと同じ色ですね」
「そうかな」
「うん。青い目にも合ってる」
リシアは少し照れた。
褒められることに、まだ慣れていない。
戦時中は、歌術師として称えられることはあった。
けれど、それは役目に対する言葉だった。
今のように、ただ髪留めや目の色を褒められると、どう反応していいか分からない。
シルがリシアの肩で、ちい、と鳴く。
「何、その顔」
まるで、照れている、と言われた気がした。
「照れてないよ」
ちい。
「本当だよ」
店番の少女がくすくす笑う。
リシアは結局、その青いリボンを買った。
鞄の持ち手に結ぶと、旅装の淡い青とよく馴染んだ。
シルはしばらくそれを眺めた後、前足でちょんと触れた。
「気に入った?」
ちい。
短い返事。
気に入ったらしい。
広場の端では、小さな舞台が組まれていた。
旅芸人が来られなくなったと言っていた場所だろう。今は誰も使っておらず、子どもたちが上って遊んでいる。
リシアはそこを見ながら、ふと考えた。
いつか、自分は何のためでもなく歌えるだろうか。
歌術師としてではなく。
罪を償うためでもなく。
星詠みの歌を探すためでもなく。
ただ、歌いたいから歌う。
そんな日が来るだろうか。
すぐには分からない。
けれど、今日の歌は嫌ではなかった。
怖さはあった。
でも、それだけではなかった。
胸の奥に、小さな灯りが残っている。
その灯りを、リシアは今すぐ歌詞帳に刻むつもりはなかった。
これは断章ではない。
大きな物語の欠片でもない。
ただ、旅の途中で拾った木漏れ日のような時間。
それはそれで、大切にしていい気がした。
昼過ぎ、市場の人波が少し落ち着いた頃。
リシアは広場の隅にある古道具の露店へ立ち寄った。
古いランプ、ひびの入った皿、錆びた鍵、誰かが使わなくなった羽ペン、擦り切れた旅用の地図。
雑多な品が並ぶ中で、シルが一枚の木札に興味を示した。
それは栞だった。
薄い木を削って作られ、表面に星の模様が彫られている。古びているが、丁寧に磨かれていたのだろう。指で触れると、柔らかな手触りがある。
「これが気になるの?」
シルはじっと栞を見ている。
食べ物ではない。
それなのに、かなり真剣だ。
リシアは栞を手に取った。
星の模様。
七つの小さな点。
それを繋ぐ線。
胸元の歌詞帳が、ほんのわずかに震えた。
リシアの表情が変わる。
強い反応ではない。
黒譜術の冷たさもない。
けれど、星詠みの歌に関わるものへ触れた時の、あの微かな感覚があった。
露店の主は、麦わら帽子をかぶった痩せた老人だった。
「おや、それが気になるかい」
「この栞は?」
「古いものだよ。どこで仕入れたか……たしか、北の旅商人からだったかな」
「北の旅商人」
「ああ。山向こうの村々を回っている商人さ。珍しい木工品をよく持ってくる」
リシアは栞の星を見つめた。
「この模様に心当たりはありますか」
「星の模様だろう? 旅のお守りとしてはよくある」
「七つの星が繋がっています」
老人は目を細める。
「そう言われれば、そうだな。だが詳しくは知らんよ。ただ、その旅商人が妙なことを言っていたのは覚えている」
「妙なこと?」
老人は周囲を見回し、少し声を落とした。
「北の方に、夜になると名前を忘れる村があるらしい」
リシアの指が止まった。
「名前を忘れる?」
「ああ。昼間は普通に暮らしている。けれど夜になると、自分の名前や、家族の名前を思い出せなくなる者がいるそうだ。朝になると戻るらしいが、最近は戻らない者も出始めたとか」
シルが低く鳴いた。
リシアは栞を握る。
名前を忘れる村。
それはただの噂かもしれない。
旅商人の作り話かもしれない。
けれど、歌詞帳が反応している。
七つの星。
星詠みの歌。
そして、名前を失うという現象。
重い事件の匂いがした。
しかし、リシアはすぐに歌詞帳を開かなかった。
今日は、小休止の日だ。
この町の穏やかな時間まで、次の不安に塗り替えたくなかった。
「この栞、買います」
「おや、ありがたいね」
老人は値段を告げた。
リシアは支払いを済ませ、栞を歌詞帳に挟んだ。
その瞬間、ページの奥で小さな星の光が瞬いたような気がした。
だが、それ以上は何も起きない。
まだ、次の町へ向かう合図ではない。
ただの予感。
旅の先に待つ、次の物語の影。
「シル」
リシアは肩の相棒に言った。
「もう少しだけ、この町で休もう」
シルはリシアを見た。
珍しく、急かさなかった。
それから、紙袋の中の焼き栗蜜菓子を一つ取り出し、リシアへ差し出す。
「また半分こ?」
ちい。
「ありがとう」
リシアは菓子を半分に割った。
片方をシルへ。
片方を自分へ。
甘い香りが、午後の木漏れ日に溶けていく。
その夕方、リシアは町外れの小さな丘に座っていた。
ルメルの町が見える。
市は片付けに入り、露店の布屋根が一つずつ畳まれていく。子どもたちの声も少し遠くなり、家々から夕食の匂いが漂い始めていた。
シルはリシアの膝の上で丸くなっている。
食べすぎたらしい。
お腹のあたりが少しふっくらしている。
「明日は歩くからね」
ちい。
「歩く気ない返事だね」
シルは目を閉じた。
リシアは苦笑し、歌詞帳を開いた。
火の断章。
沈黙の断章。
その次の白紙のページに、今日買った星の栞を挟む。
ページは静かだった。
何かを催促するような光はない。
だから、リシアはその前の余白に、小さく今日の歌を書き留めることにした。
断章ではない。
旅の記録。
シルと市場の歌。
リシアは羽ペンを取り出し、丁寧に文字を綴った。
『森から届いた朝の実を、
小さな手のひらにひとつ。
分けたら少し減るけれど、
笑った分だけ、甘くなる。』
書きながら、リシアはふっと笑った。
こんな歌を歌詞帳に残していいのだろうか。
星詠みの歌を探すための大切な歌詞帳に、焼き菓子の歌なんて。
以前の自分なら、そう思ったかもしれない。
でも今は違う。
失われた星詠みの歌が、本当に人々の想いを集める歌なら。
そこには、悲しみや後悔だけでなく、こういう小さな幸せも必要なはずだ。
恐怖。
沈黙。
後悔。
そして、半分こした甘い焼き菓子。
人の想いは、重いものだけでできているわけではない。
リシアはページを撫でた。
「歌は、人を救うためだけじゃなくて……」
言葉にしかけて、少し考える。
シルが片目を開けた。
「ううん。まだうまく言えない」
リシアは微笑んだ。
「でも、今日の歌は嫌いじゃなかった」
シルは満足そうに目を閉じた。
夕陽が沈む。
町に柔らかな灯りがともり始める。
遠くの市場から、老婦人の笑い声が聞こえた気がした。
リシアは歌詞帳を閉じる。
その表紙に手を置き、深く息を吸った。
明日になれば、また旅が始まる。
北の方には、名前を忘れる村があるという。
その噂が本当なら、リシアはきっと向かうことになる。
心歌を聞き、残響を拾い、誰かの痛みに触れることになる。
黒譜の民の影も、また現れるかもしれない。
でも、今夜だけは。
今夜だけは、木漏れ日の市で歌った小さな歌を胸に置いて眠ろう。
重い歌詞帳を、少しだけ温かくしてくれた一日のことを忘れないように。
リシアは空を見上げた。
暮れかけた空に、一番星が光っている。
その星を見た瞬間、歌詞帳に挟んだ木の栞が、ほんのわずかに温かくなった。
リシアは気付いた。
だが、すぐには開かなかった。
代わりに、膝の上のシルをそっと撫でる。
「今日は、もう少しだけ休もう」
シルは眠そうに、ちい、と鳴いた。
その声は、市場の喧騒よりも小さく、風鈴の音よりも頼りなく、けれどリシアにとっては何より近い音だった。
木漏れ日の市、ルメル。
そこでは、世界を揺るがす事件は起きなかった。
誰かの過去が大きく救われたわけでもない。
ただ、歌が一曲流れた。
銀色のリスが焼き菓子を半分こした。
旅の歌魔術師が、少しだけ歌を好きになれた。
それだけの一日だった。
けれど、その一日は確かに、リシアの旅に必要な一音だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、少しだけほのぼのした小休止回でした。
ラグナの火。
エルネの沈黙。
重い想いに触れる旅が続いたリシアにとって、木漏れ日の市ルメルでの一日は、久しぶりに穏やかな時間になりました。
シルの盗み食い未遂。
焼き栗蜜菓子の半分こ。
市場で歌った小さな歌。
今回リシアが歌ったのは、誰かを救うための大きな歌ではありません。
事件を解決する歌でも、心の傷へ深く踏み込む歌でもありませんでした。
ただ、その場にいる人たちが少し笑って、少しだけ今日を好きになれるような歌。
リシアにとっても、歌は重いものだけではないと少し思い出せた一日だったのかもしれません。
けれど、旅の先には新たな噂が待っています。
北にある、夜になると名前を忘れる村。
そして、七つの星が刻まれた古い栞。
リシアとシルの旅は、次の物語へ続きます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




