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名前を失う村編 10話 夜に名前を忘れる村

木漏れ日の市ルメルで、リシアは少しだけ歌を好きになれた。

誰かを救うためでも、事件を解決するためでもない。

ただ、笑顔を分け合うための小さな歌。

その温かさを胸に、リシアとシルは次の旅路へ向かう。

北にあるというのは、夜になると名前を忘れる村。

名前とは、その人がその人であるための大切な音。

その音を失う村で、リシアは新たな断章の気配に触れることになる。

 木漏れ日の市ルメルを出た翌朝、リシアはいつもより少しだけ軽い足取りで北へ向かっていた。


 森道は緩やかに続いている。木々の葉は朝露を含み、差し込む光を細かく砕いて道へ落としていた。鳥の声が枝から枝へ渡り、小川のせせらぎが遠くから聞こえてくる。


 旅は続く。


 それは変わらない。


 黒譜のこくふのたみの影も、星詠みの歌の謎も、歌詞帳に刻まれた断章も、リシアの胸元に確かにある。


 けれど昨日、市場で歌った小さな歌は、リシアの中に思った以上に温かく残っていた。


 誰かを救うためではない歌。


 事件を解決するためではない歌。


 ただ、焼き栗蜜菓子を半分こして、子どもたちが笑うための歌。


 あんな歌も、歌ってよかった。


 その事実が、リシアの胸に小さな灯りを置いている。


「ねえ、シル」


 リシアは肩の上の相棒へ声をかけた。


「昨日の歌、そんなに嫌だった?」


 シルは目を閉じたまま、ちい、と鳴いた。


 嫌だったというより、勝手に歌にされたのは不満。


 でも焼き菓子をもらえたから、少しだけ許す。


 そんな返事に聞こえた。


「やっぱり食べ物基準なんだね」


 シルは片目を開けて、抗議するように尻尾を揺らした。


 リシアは笑う。


 シルの首元には、新しく買った青い小さなリボンが結ばれていた。本人は少し気にしているようだが、外そうとはしない。どうやら気に入っているらしい。


 鞄の持ち手にも同じ色のリボンが揺れている。


 それだけで、旅装が少し明るくなった気がした。


 リシアは歩きながら、歌詞帳に挟んだ木の栞のことを思い出す。


 七つの星が彫られた古い栞。


 北の旅商人が持ち込んだという品。


 そして、その旅商人が残した噂。


 北の方に、夜になると名前を忘れる村がある。


 昼間は普通に暮らしている。


 けれど夜になると、自分の名前や家族の名前を思い出せなくなる者がいる。


 朝になれば戻る。


 ただし最近は、戻らない者も出始めている。


 ただの噂ならいい。


 リシアはそう思った。


 けれど、栞に触れた時、歌詞帳はわずかに震えた。


 火の断章、沈黙の断章。


 それに続くものがあるとしたら、次は名に関わる何かかもしれない。


 名前。


 人が人を呼ぶためのもの。


 自分が自分だと確かめるためのもの。


 歌術師かじゅつしであるリシアにとって、名前は軽いものではない。心歌しんかを聞く時、その人の名は大切な錨になる。名前があるから、心の奥で響く想いが誰のものなのか見失わずに済む。


 もし、それが欠けたら。


 リシアは思わず胸元の歌詞帳へ手を添えた。


 シルが肩で小さく鳴く。


「大丈夫」


 リシアは言った。


「まだ、何も起きてないから」


 ちい。


「そうだね。何か起きてから慌てるより、起きる前に気をつけた方がいいよね」


 シルは満足げに頷いた。


 その仕草が妙に人間めいていて、リシアは少し笑った。


 道は森を抜け、やがて小高い丘へ出た。


 その先に、北の村が見えた。


 村の名は、レムナ。


 ルメルの古道具屋から聞いた名だった。


 山裾に寄り添うような小さな村で、家々は木造の平屋が多い。屋根には薄い灰色の石板が並び、煙突からは白い煙が上がっている。村の周囲には麦畑と小さな果樹園があり、遠くには羊の群れが見えた。


 第一印象は、静かな村だった。


 けれど、エルネのような重苦しい沈黙ではない。


 昼のレムナは、ごく普通に見えた。


 村の入口には木製の門があり、そこに村の名が彫られている。


『レムナ村』


 文字ははっきりしている。


 消えてもいない。


 黒い譜面の気配も、今は感じない。


「噂だけ、だったらいいんだけど」


 リシアが呟くと、シルが首を傾げた。


 その時、門の近くで遊んでいた子どもたちがリシアに気付いた。


「あ、旅人さんだ!」


「リスだ!」


「銀色だ!」


 数人の子どもたちが駆け寄ってくる。


 シルは一瞬だけ身構えたが、子どもたちの手に木の実があるのを見ると、少しだけ態度を和らげた。


「シル、知らない人からすぐにもらわない」


 リシアが言うと、子どもたちはきょとんとした。


「シルっていうの?」


「うん。私の相棒」


「かわいい!」


「触っていい?」


 シルはリシアの肩の上で堂々としている。


 触っていいとは言っていないが、褒められて悪い気はしていないらしい。


 リシアは苦笑した。


「シルが嫌がらなければね。急に手を出すとびっくりするから、ゆっくり」


 子どもたちが慎重に手を伸ばす。


 その中で、一人の少年だけが少し離れて立っていた。


 十歳くらいだろうか。


 柔らかそうな黒髪に、丸い緑の瞳。手には木で作った小さな笛を持っている。服は少し大きめで、袖を何度か折っていた。


 彼はシルを見ているが、近づこうとはしない。


 リシアはその少年へ視線を向けた。


「こんにちは」


 少年は少し驚いたように目を瞬かせ、それから小さく頭を下げた。


「こんにちは」


「君も、シルに木の実をくれるの?」


 リシアが尋ねると、少年は手元を見た。


 そこには木の実ではなく、小さな笛だけがある。


「僕は、木の実を持ってないから」


「そっか」


 リシアは笑った。


「その笛は君の?」


「うん。父さんが作ってくれた」


「いい笛だね」


 少年の顔が少し明るくなった。


「まだ上手く吹けないけど」


「練習中?」


「うん。夜に吹くと、母さんに怒られるから、昼だけ」


 夜に。


 その言葉に、リシアはわずかに反応した。


 けれど、少年の声に深い影はない。


 普通の子どもの話し方だ。


 リシアは優しく尋ねた。


「君の名前を聞いてもいい?」


「ノア」


 少年はすぐに答えた。


「ノア・リント」


 はっきりした声。


 迷いはない。


 リシアは心の中でその名を繰り返す。


 ノア。


 彼の名は、今は確かにある。


「私はリシア。よろしくね、ノア」


「うん。リシアさん」


 ノアはそう言ってから、シルを見た。


「その子、本当に賢そう」


 シルが胸を張る。


「褒めるとすぐ調子に乗るよ」


 ノアが少し笑った。


 その笑顔は、年相応に柔らかかった。


 子どもたちの騒ぎを聞きつけて、村の大人が近づいてきた。


 長い栗色の髪を後ろで結んだ女性だ。三十代前半くらいだろう。仕事用の前掛けをしており、手には洗濯物の籠を抱えている。


「こら、みんな。旅の方を囲まないの」


 子どもたちが口々に言う。


「だってリス!」


「銀色なんだよ!」


「名前、シルだって!」


 女性はリシアへ申し訳なさそうに頭を下げた。


「すみません。村に旅の方が来るのは珍しくて」


「いえ、大丈夫です。リシアといいます」


「私はミーナです。ご案内しましょうか?」


「ありがとうございます。宿はありますか?」


「小さな宿ならあります。旅商人さんが使うところですが」


 ミーナの表情は穏やかだった。


 けれど、リシアが心歌へ意識を向けると、その奥にかすかな不安があった。


『今日も夜が来る』


『この人は日暮れ前に事情を知るべきかしら』


『でも、怖がらせたくない』


『ノアは今日は大丈夫だろうか』


 ノア。


 その名が心歌に混じった瞬間、ほんのわずかに音が揺らいだ。


 切れかけた糸のように。


 リシアはミーナを見た。


 この人は、ノアの母親だろうか。


 しかし今は、ここで踏み込みすぎる場面ではない。


「村長さんにお会いできますか」


「ええ。こちらです」


 ミーナは歩き出した。


 ノアも一緒についてくる。


「ノアも来るの?」


 リシアが尋ねると、ノアは少し恥ずかしそうに答えた。


「母さんが村長の家に行くなら、僕も」


 やはりミーナは母親らしい。


 ミーナは少し困ったように笑った。


「この子、最近私からあまり離れたがらなくて」


「そうなんですか」


「ええ。夜になると少し心細くなるみたいで」


 夜。


 またその言葉。


 リシアはそれ以上尋ねず、村の中を歩いた。


 レムナ村は、昼間だけ見れば本当に穏やかな村だった。


 家の扉には、それぞれ木札が掛かっている。


『リント家』


『セーラとマルク』


『鍛冶屋トルグ』


『羊飼いベル』


 家名や住んでいる人の名前が丁寧に彫られていた。


 村の中央には、小さな広場がある。


 そこには大きな楡の木が立ち、その根元に無数の木札が吊るされていた。風に揺れる木札には、一つ一つ名前が刻まれている。


 リシアは足を止めた。


「これは?」


 ミーナが振り返る。


「ああ、名守りの木です」


「名守りの木」


「この村では、子どもが生まれると名前を木札に刻んで、この木に吊るすんです。村の皆でその子の名前を呼んで、健やかに育つよう祈ります」


「素敵な風習ですね」


「昔からあるんです。村を出ていった人の木札も、しばらくは残します。どこにいても、この村が名前を覚えているように」


 リシアは木札を見上げた。


 たくさんの名前。


 生まれた子。


 旅立った人。


 亡くなった人もいるのかもしれない。


 ここでは、名前が村の記憶として守られている。


 それなのに、夜になると名前を忘れる。


 何かが、この村の一番大切なものに触れている。


 リシアの歌詞帳が、腰のポーチの中で小さく震えた。


 シルも名守りの木をじっと見ている。


 ノアがリシアの横へ来た。


「僕のもあるよ」


「どれ?」


 ノアは木札の中から一つを指差した。


『ノア・リント』


 小さな文字だが、丁寧に彫られている。


 木札の端には、小さな笛の模様が刻まれていた。


「父さんが彫ってくれたんだ」


「お父さんは木工職人さん?」


「うん。笛とか、名札とか、椅子とか、何でも作る」


 ノアの声には誇らしさがあった。


 しかし、その直後、ミーナの心歌に影が差した。


『あの人は今夜も自分の名前を覚えていられるかしら』


 リシアはそっと息を呑んだ。


 ノアだけではない。


 父親にも異変が起きている。


 村長の家は、広場のすぐ近くにあった。


 他の家より少し大きいが、飾り気はない。玄関の横には古い鐘が吊るされている。村の集まりを知らせるためのものだろう。


 ミーナが扉を叩くと、中から白髪の老人が出てきた。


 背は低いが、目はしっかりしている。手には木札を削る小刀を持っていた。


「ミーナか。そちらは?」


「旅の歌魔術師うたまじゅつしのリシアさんです」


 村長の目がリシアの胸元の徽章へ向いた。


歌術師かじゅつしか」


 声に警戒はあった。


 だが、敵意ではない。


 むしろ、助けを求めるかどうか迷っているような響きだった。


「リシアと申します。突然お邪魔してすみません」


「いや、旅人を拒む村ではない。私は村長のオルダだ。中へ」


 リシアは家の中へ通された。


 室内には木の香りが満ちている。壁には大小さまざまな木札が掛けられていた。名前が刻まれたもの、まだ白紙のもの、途中まで彫られたもの。


 机の上には、古い帳面が何冊も積まれている。


 そのうち一冊が開かれていた。


 中には村人の名前がびっしりと書かれている。


 リシアはそれを見た瞬間、胸の奥に冷たい感覚を覚えた。


 帳面の一部の文字が、薄い。


 墨がかすれたように見える。


 村長オルダはリシアの視線に気付き、静かに帳面を閉じた。


「噂を聞いて来たのかね」


 リシアは少し迷い、正直に頷いた。


「北に、夜になると名前を忘れる村があると聞きました」


 ミーナが顔を伏せる。


 ノアは母の手を握った。


 オルダは深く息を吐いた。


「隠しても仕方あるまい。噂になっているなら、もう外へ漏れているのだろう」


「本当なのですか」


「本当だ」


 オルダは椅子に座り、リシアにも席を勧めた。


「始まったのは、ひと月ほど前だ。最初は老人が孫の名を間違えた。ただの物忘れだと思った。次に、若い母親が夜だけ子どもの名を思い出せなくなった。朝になれば戻ったので、疲れだろうと考えた」


 村長の声は重い。


「だが、少しずつ増えた。夜になると、誰かの名を呼べなくなる。家の木札の文字が薄れる。名守りの木に吊るした木札から、名前が消えかける」


「朝には戻るのですか」


「多くは戻る。だが、戻りが遅くなっている者もいる」


 ミーナの手がノアの肩に置かれた。


 ノアは俯いている。


 リシアは静かに尋ねた。


「ノアさんも?」


 ミーナが唇を噛む。


 ノアは少しだけ肩を震わせた。


「僕は……昼は覚えてる」


 彼は小さく言った。


「僕の名前は、ノア・リント。父さんはレクト。母さんはミーナ。ちゃんと分かる」


「はい」


「でも、夜になると……」


 ノアは笛を握りしめた。


「自分の名前が、変な感じになる」


「変な感じ?」


「知ってるはずなのに、遠くなる。誰かが僕を呼んでも、僕のことだって分からなくなる時がある」


 ミーナの目に涙が滲んだ。


「昨夜は、私が何度呼んでも反応しなくて」


 リシアは胸が痛んだ。


 名前を呼んでも届かない。


 それは、声が奪われるのとはまた違う恐ろしさだ。


 呼ぶ側にとっても、呼ばれる側にとっても。


 オルダが続けた。


「さらに深刻なのは、レクトだ」


「ノアさんのお父さんですね」


「そうだ。レクトは村で名札を彫る職人だ。子どもが生まれた時の木札も、旅立つ者の名札も、亡くなった者の記録札も、彼が多くを彫ってきた」


 リシアは名守りの木を思い出す。


 ノアの木札も、父が彫ったと言っていた。


「レクトさんに何が?」


 ミーナが代わりに答えた。


「夫は、昨夜から自分の名前を思い出せなくなりました」


 部屋の空気が静まり返る。


「朝になっても、戻りません」


 リシアは言葉を失った。


 夜だけではない。


 異変は昼へ侵食し始めている。


「今、レクトさんはどちらに?」


「工房です。起きてはいます。でも、自分の名を聞くと苦しそうにするので、今日は誰も呼んでいません」


「呼ばない方が楽なのですか」


「分かりません」


 ミーナは苦しげに首を横に振った。


「呼ばないと、本当に遠くへ行ってしまう気がする。でも、呼ぶと苦しませてしまう」


 リシアはエルネのエマを思い出した。


 声を戻すことが救いとは限らない。


 名前を呼ぶことも、同じなのかもしれない。


 相手を繋ぎ止めるために呼ぶ。


 でも、その名が痛みになっているなら。


 どう向き合えばいいのか。


「リシアさん」


 オルダが言った。


「歌術で、原因を探ることはできるか」


「できるかもしれません。ただ、すぐに解決できるとは言えません」


「それでもいい。もう村の中だけではどうにもならん」


 村長の心歌がリシアへ触れた。


『名を守る村で、名が消える』


『私が守れなかった』


『次は誰だ』


『自分の名も、いつか』


 リシアは息を整えた。


 この村でも、また恐怖が広がっている。


 ただしエルネのように一人へ向かっているわけではない。


 ここでは、皆が自分自身を失うことを恐れている。


「まず、名守りの木と、レクトさんの工房を見せていただけますか」


「もちろんだ」


 オルダは立ち上がった。


 その時、外から鐘の音がした。


 夕刻を知らせる鐘だった。


 ごん。


 普通の鐘の音。


 黒い響きではない。


 けれど、その音を聞いた瞬間、ノアの顔が強張った。


 ミーナも息を呑む。


 村長オルダは窓の外を見た。


 太陽が山の端に近づいている。


「日が暮れる」


 その言葉に、部屋の空気が一気に変わった。


 昼の村が終わる。


 名前が揺らぐ夜が来る。


 リシアはノアを見た。


 少年は必死に自分の名を呟いていた。


「ノア。ノア・リント。僕はノア。父さんはレクト。母さんはミーナ」


 何度も。


 何度も。


 その声は、祈りのようだった。


 リシアは膝をつき、ノアと目線を合わせた。


「ノアさん」


 少年の目が揺れる。


「今は、覚えていますか」


「うん」


「なら、一緒に確かめましょう」


「確かめる?」


「はい。忘れないように無理に掴むのではなく、今ここにある名前を、一緒に置いておくんです」


 リシアは歌詞帳を開いた。


 ただ、白紙の端に羽ペンで文字を書く。


『ノア・リント』


 少年はその文字を見た。


「僕の名前」


「はい」


「でも、夜になったら、それを見ても分からなくなるかもしれない」


「その時は、その時のあなたに合わせて考えます」


「忘れたら、僕じゃなくなる?」


 リシアは胸を突かれた。


 子どもの問いは、とてもまっすぐだった。


 そして、とても深い。


 名前を忘れたら、自分ではなくなるのか。


 リシアは簡単に「そんなことはない」と言いたかった。


 けれど、それではノアの恐怖を軽く扱ってしまう気がした。


「名前は、とても大切です」


 リシアはゆっくり言った。


「でも、名前だけがあなたの全部ではありません」


 ノアは黙って聞いている。


「笛を大事に持っていること。お母さんの手を握っていること。シルを見て少し笑ったこと。お父さんが作ってくれたものを誇らしそうに話したこと。それも、あなたです」


 ノアの目が少し潤む。


「でも、名前がないと、呼んでもらえない」


「だから、私たちは呼びます」


 リシアは言った。


「あなたが忘れても、誰かが覚えている。あなたが反応できなくても、呼ぶことを諦めない。それが、名前のもう一つの形だと思います」


 ミーナが口元を押さえた。


 ノアはリシアの書いた文字をじっと見ていた。


 そして、小さく頷いた。


「僕、夜が来るの怖い」


「はい」


「でも、リシアさんがいてくれるなら、少しだけ大丈夫かも」


「私も、できることをします」


 シルがノアの足元へ降りた。


 そして、前足でノアの靴をちょんと叩く。


 ノアは驚いて、少し笑った。


「シルも?」


 ちい。


「ありがとう」


 ノアの手がシルへ伸びる。


 シルは少し迷った後、その手に自分の前足を乗せた。


 リシアはその光景を見て、胸が少し温かくなった。


 しかし、その温かさは長く続かなかった。


 窓の外で、夕陽が山の向こうへ沈んだ。


 その瞬間、村全体の空気が変わった。


 風が止む。


 鳥の声が消える。


 遠くで犬が一度吠え、それきり黙る。


 リシアの歌詞帳が、強く震えた。


 シルの毛が逆立つ。


 村長オルダが低く言う。


「始まった」


 リシアは窓の外を見た。


 広場の名守りの木。


 そこに吊るされた木札が、風もないのに揺れている。


 一枚、また一枚。


 木札に刻まれた名前の一部が、薄くなっていく。


 ノアが息を呑んだ。


 自分の名前を刻んだ木札を見たのだろう。


 彼は慌てて口を開く。


「僕は……」


 そこで止まった。


 リシアは振り返る。


 ノアの顔から血の気が引いている。


「僕は……ノ……」


 少年は喉を押さえた。


 声は出ている。


 だが、名前が続かない。


「ノアさん」


 リシアが呼ぶ。


 ノアはリシアを見る。


 その目に、一瞬、迷いが浮かんだ。


 まるで、自分を呼ばれたことが分からないように。


 ミーナが震える声で言う。


「ノア」


 少年は反応しない。


「ノア、母さんよ。分かる?」


 ノアはミーナを見る。


 母親だとは分かっている。


 だが、自分が呼ばれたのか分からない。


 そんな顔だった。


 リシアの胸が締めつけられる。


 心歌を聞こうとした。


 ノアの心にそっと耳を澄ませる。


 すると、聞こえた。


 途切れ途切れの幼い心歌が。


『僕は、■■』


『母さんが呼んでるのは、誰?』


『僕はここにいるのに』


『ここにいるのに、名前が遠い』


 名前の部分が、黒く塗り潰されている。


 音がないのではない。


 そこだけが奪われている。


 リシアの背筋に冷たいものが走った。


 黒譜術だ。


 ただし、エルネのように声を封じるものではない。


 火を忘れさせるものでもない。


 名前に宿る響きだけを、削り取っている。


 村長の家の扉が乱暴に叩かれた。


「村長!」


 外から男の声。


「また木札が消え始めた!」


「レクトが工房から出てきたぞ!」


 ミーナの顔が真っ青になる。


「夫が?」


 リシアはすぐに立ち上がった。


「行きましょう」


 外へ出ると、村は昼間とは別の場所のようになっていた。


 家々の扉に掛けられた木札の文字が薄れている。


『リント家』の札は、『リ■■家』のように欠けていた。


 広場では村人たちが集まり、不安げに名守りの木を見上げている。子どもを抱きしめる母親。自分の名前を繰り返し呟く老人。夫婦で互いの名前を呼び合う者。


 その声のあちこちで、名前だけが途切れる。


「セー……セー……あれ、君の名前は」


「しっかりして、私はセーラよ!」


「僕の札がない!」


「違う、薄れてるだけだ!」


「おじいちゃん、僕だよ、■■だよ!」


 呼び声が欠けていく。


 リシアの耳には、村中の心歌が押し寄せた。


『私は■■を待っている』


『■■、どこにいるの』


『私の名は、何だった』


『呼ばれたい』


『呼べない』


『忘れたくない』


 名前だけが黒く抜け落ちた心歌。


 その欠落が、リシアの中にまで入り込もうとする。


 危ない。


 心歌を聞きすぎると、自分の感情と混ざる。


 今は名前の欠落まで引き込んではいけない。


 リシアは胸元の徽章を握り、意識を自分の名前へ戻した。


 リシア。


 私はリシア。


 旅の歌魔術師。


 シルの相棒。


 歌詞帳を持つ者。


 リシア。


 何度も心の中で確かめる。


 その時、シルが肩へ駆け上がり、耳元で鳴いた。


 ちいっ。


「うん。大丈夫」


 リシアは息を整えた。


 広場の向こう、木工工房の前に一人の男が立っていた。


 ノアの父、レクトだろう。


 痩せた長身の男で、手には彫りかけの木札を持っている。目は虚ろで、周囲の呼びかけに反応していない。


 ミーナが叫んだ。


「レクト!」


 男はぴくりと肩を震わせた。


 だが、振り返らない。


「レクト、私よ!」


 男はゆっくりとこちらを見た。


 その顔には、ひどい混乱が浮かんでいる。


「レクト……」


 彼は自分の名を聞いて苦しげに眉を寄せた。


「それは……誰の名だ」


 ミーナが足を止めた。


 ノアが震えながら母の手を握る。


 リシアはレクトの心歌を聞こうとした。


 深く入りすぎないよう、慎重に。


 聞こえたのは、削れた木の音。


 小刀が木札をなぞる音。


 誰かに名を刻む喜び。


 そして、黒い声。


『名など、失うためにある』


『呼ばれるから縛られる』


『名があるから、失った時に苦しむ』


『ならば、忘れればいい』


 リシアは目を見開いた。


 黒譜の民の思想。


 まただ。


 痛みを避けるために、痛みの元ごと奪おうとする。


 声を奪う。


 火を眠らせる。


 名前を削る。


 優しいようで、残酷な術。


 レクトの手の中の木札に、黒い譜面が浮かんでいた。


 彫られているのは、途中までの名前。


『ノア・リ』


 その先がない。


 リシアは息を呑んだ。


 ノアの名札だ。


 新しく彫り直そうとしていたのか。


 それとも、黒譜術に操られて削り取ろうとしていたのか。


 レクトは木札へ小刀を当てる。


 残った文字を削ろうとしている。


「止めて!」


 ミーナが叫ぶ。


 リシアは反射的に走った。


 だが、黒い譜面が足元に広がる。


 名前を欠いた心歌が、波のように押し寄せる。


『■■』


『■■』


『■■』


 リシアの中で、自分の名が一瞬揺らいだ。


 リシア。


 リシア。


 私は。


 誰。


 足が止まりかける。


 シルが肩の上で強く鳴いた。


 ちいっ!


 その声で、リシアは意識を取り戻す。


「ありがとう、シル!」


 リシアは歌詞帳を開いた。


 だが、まだ歌えない。


 ノアの名前を守るために歌うべきなのか。


 それとも、レクトの手を止めるべきなのか。


 名前が奪われる原因が分からないまま強く歌えば、黒譜術が反発してノアをさらに傷つけるかもしれない。


 迷った一瞬。


 ノアが母の手を離した。


「父さん!」


 少年は叫んだ。


 その声に、レクトの手が止まる。


 ノアは続けようとした。


「僕は……」


 だが、自分の名前が出てこない。


 唇が震える。


「僕は……僕は……」


 レクトの目が揺れた。


 父として、息子の声に反応したのだ。


 名前は分からなくても。


 ノアは涙を浮かべながら、笛を握りしめた。


 そして、震える手でそれを口元へ持っていく。


 上手く吹けないと言っていた笛。


 夜に吹くと母に怒られるから、昼だけ練習していた笛。


 その笛から、かすれた音が出た。


 ぴい。


 短く、頼りない音。


 けれど、レクトの表情が変わった。


「その音……」


 レクトの手から小刀が落ちた。


 木札はまだ削られていない。


 リシアはその瞬間を逃さなかった。


 歌ではなく、言葉で叫ぶ。


「ミーナさん、呼んでください!」


 ミーナが涙を浮かべながら声を張る。


「ノア!」


 少年ははっとした。


「あなたはノア! ノア・リント! 私とレクトの息子!」


 広場の名守りの木が大きく揺れた。


 ノアの木札の文字が、一瞬だけ濃くなる。


 しかし、黒い譜面がすぐに絡みつく。


 リシアはここでようやく歌った。


 強い歌ではない。


 名を取り戻す歌でもない。


 呼ばれた名を、その場に留めるための短い守護詩。


「ノア」


 リシアは歌の中でその名を呼んだ。


 ただし、自分のものとしてではなく。


 ミーナが呼んだ名を、ノア自身へ返すように。


「ノア・リント」


 歌詞帳が青白く光る。


 黒い譜面がわずかに退いた。


 レクトの木札に刻まれた途中までの文字。


『ノア・リ』


 そこに、薄く続きが浮かぶ。


『ント』


 完全ではない。


 でも、消えてはいない。


 ノアは息を震わせた。


「ノア……」


 彼は自分の名を口にした。


 小さく。


 不確かに。


 それでも、自分へ向けて。


「僕は、ノア」


 広場の空気が少しだけ変わった。


 村人たちが息を呑む。


 ミーナがノアを抱きしめる。


 レクトはその場に膝をつき、頭を抱えた。


「ノア……ミーナ……」


 名前が戻ったのか。


 いや、完全ではない。


 レクトの目はまだ揺れている。


 自分の名は思い出せていない。


 けれど、妻と息子の名が一瞬だけ戻った。


 リシアはほっと息を吐きかけた。


 その瞬間、広場の名守りの木の根元から、黒い線が走った。


 木の幹に、譜面のような模様が浮かび上がる。


 吊るされた木札が一斉に震えた。


 村人たちの悲鳴。


 リシアは名守りの木を見上げる。


 木札に刻まれた名前が、いくつも薄れている。


 そして、木の根元に古い石板があることに気付いた。


 昼間は木の影に隠れて見えなかったもの。


 そこには、かすれた文字が刻まれている。


『名簿堂』


 村の名前を守る場所。


 その入口が、名守りの木の下にある。


 リシアの歌詞帳が開いた。


 白紙のページに、黒ではなく青い文字が浮かび上がる。


『名前を奪ったのは、忘却ではない』


 リシアは息を呑む。


 次の断章の手がかり。


 名の断章。


 そう直感した。


 だが、その瞬間、名守りの木の下から冷たい風が吹き上がった。


 村人たちが一斉に黙る。


 いや、黙ったのではない。


 声を出そうとして、自分が誰を呼ぼうとしていたのか分からなくなっている。


 ノアがリシアを見上げた。


「リシアさん」


 呼ばれた。


 その声に、リシアは少し安心した。


 だが、次の言葉で胸が凍った。


「僕の名前……もう一回、呼んで」


 ノアの目には涙があった。


「忘れそう」


 リシアはすぐに答えた。


「ノア」


 少年の手が震える。


「ノア・リント」


 ミーナも続く。


「ノア」


 レクトも、苦しげに。


「ノア……」


 シルが小さく鳴く。


 ちい。


 その小さな声も、まるで名を支える一音のように響いた。


 しかし、名守りの木の下で、黒い譜面は静かに広がり続けている。


 夜はまだ始まったばかりだった。


 リシアは歌詞帳を握りしめる。


 この村では、名前が消えようとしている。


 けれど、名前は一人で守るものではない。


 誰かが呼ぶことで、初めて形を取り戻すものなのかもしれない。


 リシアは広場の中央に立ち、名守りの木を見上げた。


 木札が揺れている。


 たくさんの名前が、夜の中で薄れていく。


 そして、その奥で。


 誰かの黒い心歌が、低く囁いた。


『呼ばなければ、失わずに済む』


 リシアは静かに息を吸った。


 その言葉に、まだ答えは出せない。


 けれど、一つだけ分かる。


 呼ばなければ失わない、という考えは、優しさに似ている。


 でも、それは人を誰からも呼ばれない場所へ閉じ込める。


 リシアはノアの名を書いたページを見た。


 そこには、まだはっきりと文字が残っている。


『ノア・リント』


 その下に、歌詞帳が新たな一行を浮かべた。


『名は、呼ばれて初めて震える』


 まだ歌詞ではない。


 けれど、確かな始まりだった。


 リシアは顔を上げた。


「今夜は、誰も一人にしないでください」


 村人たちがリシアを見る。


「名前を忘れそうな人がいたら、責めないでください。無理に思い出せと追い詰めないでください。ただ、そばで呼んでください。何度でも。怖がらせないように、でも諦めないで」


 村長オルダが頷いた。


「分かった」


 リシアは名守りの木の根元へ目を向ける。


「私は、名簿堂を調べます」


 ミーナが不安げに言う。


「今からですか」


「はい。夜にしか現れないものがあるなら、今見なければいけません」


 シルが肩の上で低く鳴いた。


 反対しているのか。


 それとも、警戒しているのか。


 リシアは小さく頷く。


「大丈夫。無理はしない」


 シルは信じていないような顔をした。


「本当だよ」


 ちい。


「……できるだけ」


 シルはため息のように鳴いた。


 名守りの木の下で、黒い譜面が蠢く。


 夜のレムナ村に、名前を呼ぶ声が少しずつ広がり始めた。


「ノア」


「セーラ」


「マルク」


「ベル」


「母さん」


「父さん」


「私の名前は、オルダ」


 呼ぶ声。


 確かめる声。


 震える声。


 その中で、リシアは名簿堂の入口へ近づいた。


 木の根元にある石板が、ゆっくりとずれていく。


 地下へ続く古い階段が現れた。


 冷たい空気が上がってくる。


 その奥から、名前のない心歌が聞こえた。


『私は、誰にも呼ばれなかった』


 リシアは足を止めた。


 今までの黒譜術とは少し違う。


 その声には、冷たい悪意だけではなく、深い寂しさがあった。


 シルが肩の上で身を固くする。


 リシアは歌詞帳を胸に抱いた。


「行こう、シル」


 ちい。


 二人は、名守りの木の下へ続く階段を下り始めた。


 背後では、村人たちが互いの名を呼び続けている。


 夜の村で、名前が消えていく。


 けれど同時に、名前を呼ぶ声もまた、確かに灯り始めていた。




ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回から「名前を失う村編」が始まりました。


リシアとシルが訪れたのは、北の小さな村レムナ。

昼間は穏やかな村ですが、夜になると人々は名前を忘れてしまいます。


自分の名前。

家族の名前。

大切な人を呼ぶための名前。


名前は、ただの記号ではありません。

誰かに呼ばれ、自分が自分であることを確かめるための大切なものです。


ノアは、自分の名前を忘れそうになりながらも、母や父、そしてリシアに呼ばれることで、かろうじて自分を繋ぎ止めました。


けれど、名守りの木の下には、まだ大きな謎が眠っています。


『私は、誰にも呼ばれなかった』


その名前のない心歌は、何を意味しているのか。

そして、名簿堂に隠されたものとは何なのか。


次話では、リシアが名守りの木の下へ踏み込み、名前を奪う黒譜術こくふじゅつの正体へ近づいていきます。


続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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