名前を失う村編 10話 夜に名前を忘れる村
木漏れ日の市ルメルで、リシアは少しだけ歌を好きになれた。
誰かを救うためでも、事件を解決するためでもない。
ただ、笑顔を分け合うための小さな歌。
その温かさを胸に、リシアとシルは次の旅路へ向かう。
北にあるというのは、夜になると名前を忘れる村。
名前とは、その人がその人であるための大切な音。
その音を失う村で、リシアは新たな断章の気配に触れることになる。
木漏れ日の市ルメルを出た翌朝、リシアはいつもより少しだけ軽い足取りで北へ向かっていた。
森道は緩やかに続いている。木々の葉は朝露を含み、差し込む光を細かく砕いて道へ落としていた。鳥の声が枝から枝へ渡り、小川のせせらぎが遠くから聞こえてくる。
旅は続く。
それは変わらない。
黒譜の民の影も、星詠みの歌の謎も、歌詞帳に刻まれた断章も、リシアの胸元に確かにある。
けれど昨日、市場で歌った小さな歌は、リシアの中に思った以上に温かく残っていた。
誰かを救うためではない歌。
事件を解決するためではない歌。
ただ、焼き栗蜜菓子を半分こして、子どもたちが笑うための歌。
あんな歌も、歌ってよかった。
その事実が、リシアの胸に小さな灯りを置いている。
「ねえ、シル」
リシアは肩の上の相棒へ声をかけた。
「昨日の歌、そんなに嫌だった?」
シルは目を閉じたまま、ちい、と鳴いた。
嫌だったというより、勝手に歌にされたのは不満。
でも焼き菓子をもらえたから、少しだけ許す。
そんな返事に聞こえた。
「やっぱり食べ物基準なんだね」
シルは片目を開けて、抗議するように尻尾を揺らした。
リシアは笑う。
シルの首元には、新しく買った青い小さなリボンが結ばれていた。本人は少し気にしているようだが、外そうとはしない。どうやら気に入っているらしい。
鞄の持ち手にも同じ色のリボンが揺れている。
それだけで、旅装が少し明るくなった気がした。
リシアは歩きながら、歌詞帳に挟んだ木の栞のことを思い出す。
七つの星が彫られた古い栞。
北の旅商人が持ち込んだという品。
そして、その旅商人が残した噂。
北の方に、夜になると名前を忘れる村がある。
昼間は普通に暮らしている。
けれど夜になると、自分の名前や家族の名前を思い出せなくなる者がいる。
朝になれば戻る。
ただし最近は、戻らない者も出始めている。
ただの噂ならいい。
リシアはそう思った。
けれど、栞に触れた時、歌詞帳はわずかに震えた。
火の断章、沈黙の断章。
それに続くものがあるとしたら、次は名に関わる何かかもしれない。
名前。
人が人を呼ぶためのもの。
自分が自分だと確かめるためのもの。
歌術師であるリシアにとって、名前は軽いものではない。心歌を聞く時、その人の名は大切な錨になる。名前があるから、心の奥で響く想いが誰のものなのか見失わずに済む。
もし、それが欠けたら。
リシアは思わず胸元の歌詞帳へ手を添えた。
シルが肩で小さく鳴く。
「大丈夫」
リシアは言った。
「まだ、何も起きてないから」
ちい。
「そうだね。何か起きてから慌てるより、起きる前に気をつけた方がいいよね」
シルは満足げに頷いた。
その仕草が妙に人間めいていて、リシアは少し笑った。
道は森を抜け、やがて小高い丘へ出た。
その先に、北の村が見えた。
村の名は、レムナ。
ルメルの古道具屋から聞いた名だった。
山裾に寄り添うような小さな村で、家々は木造の平屋が多い。屋根には薄い灰色の石板が並び、煙突からは白い煙が上がっている。村の周囲には麦畑と小さな果樹園があり、遠くには羊の群れが見えた。
第一印象は、静かな村だった。
けれど、エルネのような重苦しい沈黙ではない。
昼のレムナは、ごく普通に見えた。
村の入口には木製の門があり、そこに村の名が彫られている。
『レムナ村』
文字ははっきりしている。
消えてもいない。
黒い譜面の気配も、今は感じない。
「噂だけ、だったらいいんだけど」
リシアが呟くと、シルが首を傾げた。
その時、門の近くで遊んでいた子どもたちがリシアに気付いた。
「あ、旅人さんだ!」
「リスだ!」
「銀色だ!」
数人の子どもたちが駆け寄ってくる。
シルは一瞬だけ身構えたが、子どもたちの手に木の実があるのを見ると、少しだけ態度を和らげた。
「シル、知らない人からすぐにもらわない」
リシアが言うと、子どもたちはきょとんとした。
「シルっていうの?」
「うん。私の相棒」
「かわいい!」
「触っていい?」
シルはリシアの肩の上で堂々としている。
触っていいとは言っていないが、褒められて悪い気はしていないらしい。
リシアは苦笑した。
「シルが嫌がらなければね。急に手を出すとびっくりするから、ゆっくり」
子どもたちが慎重に手を伸ばす。
その中で、一人の少年だけが少し離れて立っていた。
十歳くらいだろうか。
柔らかそうな黒髪に、丸い緑の瞳。手には木で作った小さな笛を持っている。服は少し大きめで、袖を何度か折っていた。
彼はシルを見ているが、近づこうとはしない。
リシアはその少年へ視線を向けた。
「こんにちは」
少年は少し驚いたように目を瞬かせ、それから小さく頭を下げた。
「こんにちは」
「君も、シルに木の実をくれるの?」
リシアが尋ねると、少年は手元を見た。
そこには木の実ではなく、小さな笛だけがある。
「僕は、木の実を持ってないから」
「そっか」
リシアは笑った。
「その笛は君の?」
「うん。父さんが作ってくれた」
「いい笛だね」
少年の顔が少し明るくなった。
「まだ上手く吹けないけど」
「練習中?」
「うん。夜に吹くと、母さんに怒られるから、昼だけ」
夜に。
その言葉に、リシアはわずかに反応した。
けれど、少年の声に深い影はない。
普通の子どもの話し方だ。
リシアは優しく尋ねた。
「君の名前を聞いてもいい?」
「ノア」
少年はすぐに答えた。
「ノア・リント」
はっきりした声。
迷いはない。
リシアは心の中でその名を繰り返す。
ノア。
彼の名は、今は確かにある。
「私はリシア。よろしくね、ノア」
「うん。リシアさん」
ノアはそう言ってから、シルを見た。
「その子、本当に賢そう」
シルが胸を張る。
「褒めるとすぐ調子に乗るよ」
ノアが少し笑った。
その笑顔は、年相応に柔らかかった。
子どもたちの騒ぎを聞きつけて、村の大人が近づいてきた。
長い栗色の髪を後ろで結んだ女性だ。三十代前半くらいだろう。仕事用の前掛けをしており、手には洗濯物の籠を抱えている。
「こら、みんな。旅の方を囲まないの」
子どもたちが口々に言う。
「だってリス!」
「銀色なんだよ!」
「名前、シルだって!」
女性はリシアへ申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。村に旅の方が来るのは珍しくて」
「いえ、大丈夫です。リシアといいます」
「私はミーナです。ご案内しましょうか?」
「ありがとうございます。宿はありますか?」
「小さな宿ならあります。旅商人さんが使うところですが」
ミーナの表情は穏やかだった。
けれど、リシアが心歌へ意識を向けると、その奥にかすかな不安があった。
『今日も夜が来る』
『この人は日暮れ前に事情を知るべきかしら』
『でも、怖がらせたくない』
『ノアは今日は大丈夫だろうか』
ノア。
その名が心歌に混じった瞬間、ほんのわずかに音が揺らいだ。
切れかけた糸のように。
リシアはミーナを見た。
この人は、ノアの母親だろうか。
しかし今は、ここで踏み込みすぎる場面ではない。
「村長さんにお会いできますか」
「ええ。こちらです」
ミーナは歩き出した。
ノアも一緒についてくる。
「ノアも来るの?」
リシアが尋ねると、ノアは少し恥ずかしそうに答えた。
「母さんが村長の家に行くなら、僕も」
やはりミーナは母親らしい。
ミーナは少し困ったように笑った。
「この子、最近私からあまり離れたがらなくて」
「そうなんですか」
「ええ。夜になると少し心細くなるみたいで」
夜。
またその言葉。
リシアはそれ以上尋ねず、村の中を歩いた。
レムナ村は、昼間だけ見れば本当に穏やかな村だった。
家の扉には、それぞれ木札が掛かっている。
『リント家』
『セーラとマルク』
『鍛冶屋トルグ』
『羊飼いベル』
家名や住んでいる人の名前が丁寧に彫られていた。
村の中央には、小さな広場がある。
そこには大きな楡の木が立ち、その根元に無数の木札が吊るされていた。風に揺れる木札には、一つ一つ名前が刻まれている。
リシアは足を止めた。
「これは?」
ミーナが振り返る。
「ああ、名守りの木です」
「名守りの木」
「この村では、子どもが生まれると名前を木札に刻んで、この木に吊るすんです。村の皆でその子の名前を呼んで、健やかに育つよう祈ります」
「素敵な風習ですね」
「昔からあるんです。村を出ていった人の木札も、しばらくは残します。どこにいても、この村が名前を覚えているように」
リシアは木札を見上げた。
たくさんの名前。
生まれた子。
旅立った人。
亡くなった人もいるのかもしれない。
ここでは、名前が村の記憶として守られている。
それなのに、夜になると名前を忘れる。
何かが、この村の一番大切なものに触れている。
リシアの歌詞帳が、腰のポーチの中で小さく震えた。
シルも名守りの木をじっと見ている。
ノアがリシアの横へ来た。
「僕のもあるよ」
「どれ?」
ノアは木札の中から一つを指差した。
『ノア・リント』
小さな文字だが、丁寧に彫られている。
木札の端には、小さな笛の模様が刻まれていた。
「父さんが彫ってくれたんだ」
「お父さんは木工職人さん?」
「うん。笛とか、名札とか、椅子とか、何でも作る」
ノアの声には誇らしさがあった。
しかし、その直後、ミーナの心歌に影が差した。
『あの人は今夜も自分の名前を覚えていられるかしら』
リシアはそっと息を呑んだ。
ノアだけではない。
父親にも異変が起きている。
村長の家は、広場のすぐ近くにあった。
他の家より少し大きいが、飾り気はない。玄関の横には古い鐘が吊るされている。村の集まりを知らせるためのものだろう。
ミーナが扉を叩くと、中から白髪の老人が出てきた。
背は低いが、目はしっかりしている。手には木札を削る小刀を持っていた。
「ミーナか。そちらは?」
「旅の歌魔術師のリシアさんです」
村長の目がリシアの胸元の徽章へ向いた。
「歌術師か」
声に警戒はあった。
だが、敵意ではない。
むしろ、助けを求めるかどうか迷っているような響きだった。
「リシアと申します。突然お邪魔してすみません」
「いや、旅人を拒む村ではない。私は村長のオルダだ。中へ」
リシアは家の中へ通された。
室内には木の香りが満ちている。壁には大小さまざまな木札が掛けられていた。名前が刻まれたもの、まだ白紙のもの、途中まで彫られたもの。
机の上には、古い帳面が何冊も積まれている。
そのうち一冊が開かれていた。
中には村人の名前がびっしりと書かれている。
リシアはそれを見た瞬間、胸の奥に冷たい感覚を覚えた。
帳面の一部の文字が、薄い。
墨がかすれたように見える。
村長オルダはリシアの視線に気付き、静かに帳面を閉じた。
「噂を聞いて来たのかね」
リシアは少し迷い、正直に頷いた。
「北に、夜になると名前を忘れる村があると聞きました」
ミーナが顔を伏せる。
ノアは母の手を握った。
オルダは深く息を吐いた。
「隠しても仕方あるまい。噂になっているなら、もう外へ漏れているのだろう」
「本当なのですか」
「本当だ」
オルダは椅子に座り、リシアにも席を勧めた。
「始まったのは、ひと月ほど前だ。最初は老人が孫の名を間違えた。ただの物忘れだと思った。次に、若い母親が夜だけ子どもの名を思い出せなくなった。朝になれば戻ったので、疲れだろうと考えた」
村長の声は重い。
「だが、少しずつ増えた。夜になると、誰かの名を呼べなくなる。家の木札の文字が薄れる。名守りの木に吊るした木札から、名前が消えかける」
「朝には戻るのですか」
「多くは戻る。だが、戻りが遅くなっている者もいる」
ミーナの手がノアの肩に置かれた。
ノアは俯いている。
リシアは静かに尋ねた。
「ノアさんも?」
ミーナが唇を噛む。
ノアは少しだけ肩を震わせた。
「僕は……昼は覚えてる」
彼は小さく言った。
「僕の名前は、ノア・リント。父さんはレクト。母さんはミーナ。ちゃんと分かる」
「はい」
「でも、夜になると……」
ノアは笛を握りしめた。
「自分の名前が、変な感じになる」
「変な感じ?」
「知ってるはずなのに、遠くなる。誰かが僕を呼んでも、僕のことだって分からなくなる時がある」
ミーナの目に涙が滲んだ。
「昨夜は、私が何度呼んでも反応しなくて」
リシアは胸が痛んだ。
名前を呼んでも届かない。
それは、声が奪われるのとはまた違う恐ろしさだ。
呼ぶ側にとっても、呼ばれる側にとっても。
オルダが続けた。
「さらに深刻なのは、レクトだ」
「ノアさんのお父さんですね」
「そうだ。レクトは村で名札を彫る職人だ。子どもが生まれた時の木札も、旅立つ者の名札も、亡くなった者の記録札も、彼が多くを彫ってきた」
リシアは名守りの木を思い出す。
ノアの木札も、父が彫ったと言っていた。
「レクトさんに何が?」
ミーナが代わりに答えた。
「夫は、昨夜から自分の名前を思い出せなくなりました」
部屋の空気が静まり返る。
「朝になっても、戻りません」
リシアは言葉を失った。
夜だけではない。
異変は昼へ侵食し始めている。
「今、レクトさんはどちらに?」
「工房です。起きてはいます。でも、自分の名を聞くと苦しそうにするので、今日は誰も呼んでいません」
「呼ばない方が楽なのですか」
「分かりません」
ミーナは苦しげに首を横に振った。
「呼ばないと、本当に遠くへ行ってしまう気がする。でも、呼ぶと苦しませてしまう」
リシアはエルネのエマを思い出した。
声を戻すことが救いとは限らない。
名前を呼ぶことも、同じなのかもしれない。
相手を繋ぎ止めるために呼ぶ。
でも、その名が痛みになっているなら。
どう向き合えばいいのか。
「リシアさん」
オルダが言った。
「歌術で、原因を探ることはできるか」
「できるかもしれません。ただ、すぐに解決できるとは言えません」
「それでもいい。もう村の中だけではどうにもならん」
村長の心歌がリシアへ触れた。
『名を守る村で、名が消える』
『私が守れなかった』
『次は誰だ』
『自分の名も、いつか』
リシアは息を整えた。
この村でも、また恐怖が広がっている。
ただしエルネのように一人へ向かっているわけではない。
ここでは、皆が自分自身を失うことを恐れている。
「まず、名守りの木と、レクトさんの工房を見せていただけますか」
「もちろんだ」
オルダは立ち上がった。
その時、外から鐘の音がした。
夕刻を知らせる鐘だった。
ごん。
普通の鐘の音。
黒い響きではない。
けれど、その音を聞いた瞬間、ノアの顔が強張った。
ミーナも息を呑む。
村長オルダは窓の外を見た。
太陽が山の端に近づいている。
「日が暮れる」
その言葉に、部屋の空気が一気に変わった。
昼の村が終わる。
名前が揺らぐ夜が来る。
リシアはノアを見た。
少年は必死に自分の名を呟いていた。
「ノア。ノア・リント。僕はノア。父さんはレクト。母さんはミーナ」
何度も。
何度も。
その声は、祈りのようだった。
リシアは膝をつき、ノアと目線を合わせた。
「ノアさん」
少年の目が揺れる。
「今は、覚えていますか」
「うん」
「なら、一緒に確かめましょう」
「確かめる?」
「はい。忘れないように無理に掴むのではなく、今ここにある名前を、一緒に置いておくんです」
リシアは歌詞帳を開いた。
ただ、白紙の端に羽ペンで文字を書く。
『ノア・リント』
少年はその文字を見た。
「僕の名前」
「はい」
「でも、夜になったら、それを見ても分からなくなるかもしれない」
「その時は、その時のあなたに合わせて考えます」
「忘れたら、僕じゃなくなる?」
リシアは胸を突かれた。
子どもの問いは、とてもまっすぐだった。
そして、とても深い。
名前を忘れたら、自分ではなくなるのか。
リシアは簡単に「そんなことはない」と言いたかった。
けれど、それではノアの恐怖を軽く扱ってしまう気がした。
「名前は、とても大切です」
リシアはゆっくり言った。
「でも、名前だけがあなたの全部ではありません」
ノアは黙って聞いている。
「笛を大事に持っていること。お母さんの手を握っていること。シルを見て少し笑ったこと。お父さんが作ってくれたものを誇らしそうに話したこと。それも、あなたです」
ノアの目が少し潤む。
「でも、名前がないと、呼んでもらえない」
「だから、私たちは呼びます」
リシアは言った。
「あなたが忘れても、誰かが覚えている。あなたが反応できなくても、呼ぶことを諦めない。それが、名前のもう一つの形だと思います」
ミーナが口元を押さえた。
ノアはリシアの書いた文字をじっと見ていた。
そして、小さく頷いた。
「僕、夜が来るの怖い」
「はい」
「でも、リシアさんがいてくれるなら、少しだけ大丈夫かも」
「私も、できることをします」
シルがノアの足元へ降りた。
そして、前足でノアの靴をちょんと叩く。
ノアは驚いて、少し笑った。
「シルも?」
ちい。
「ありがとう」
ノアの手がシルへ伸びる。
シルは少し迷った後、その手に自分の前足を乗せた。
リシアはその光景を見て、胸が少し温かくなった。
しかし、その温かさは長く続かなかった。
窓の外で、夕陽が山の向こうへ沈んだ。
その瞬間、村全体の空気が変わった。
風が止む。
鳥の声が消える。
遠くで犬が一度吠え、それきり黙る。
リシアの歌詞帳が、強く震えた。
シルの毛が逆立つ。
村長オルダが低く言う。
「始まった」
リシアは窓の外を見た。
広場の名守りの木。
そこに吊るされた木札が、風もないのに揺れている。
一枚、また一枚。
木札に刻まれた名前の一部が、薄くなっていく。
ノアが息を呑んだ。
自分の名前を刻んだ木札を見たのだろう。
彼は慌てて口を開く。
「僕は……」
そこで止まった。
リシアは振り返る。
ノアの顔から血の気が引いている。
「僕は……ノ……」
少年は喉を押さえた。
声は出ている。
だが、名前が続かない。
「ノアさん」
リシアが呼ぶ。
ノアはリシアを見る。
その目に、一瞬、迷いが浮かんだ。
まるで、自分を呼ばれたことが分からないように。
ミーナが震える声で言う。
「ノア」
少年は反応しない。
「ノア、母さんよ。分かる?」
ノアはミーナを見る。
母親だとは分かっている。
だが、自分が呼ばれたのか分からない。
そんな顔だった。
リシアの胸が締めつけられる。
心歌を聞こうとした。
ノアの心にそっと耳を澄ませる。
すると、聞こえた。
途切れ途切れの幼い心歌が。
『僕は、■■』
『母さんが呼んでるのは、誰?』
『僕はここにいるのに』
『ここにいるのに、名前が遠い』
名前の部分が、黒く塗り潰されている。
音がないのではない。
そこだけが奪われている。
リシアの背筋に冷たいものが走った。
黒譜術だ。
ただし、エルネのように声を封じるものではない。
火を忘れさせるものでもない。
名前に宿る響きだけを、削り取っている。
村長の家の扉が乱暴に叩かれた。
「村長!」
外から男の声。
「また木札が消え始めた!」
「レクトが工房から出てきたぞ!」
ミーナの顔が真っ青になる。
「夫が?」
リシアはすぐに立ち上がった。
「行きましょう」
外へ出ると、村は昼間とは別の場所のようになっていた。
家々の扉に掛けられた木札の文字が薄れている。
『リント家』の札は、『リ■■家』のように欠けていた。
広場では村人たちが集まり、不安げに名守りの木を見上げている。子どもを抱きしめる母親。自分の名前を繰り返し呟く老人。夫婦で互いの名前を呼び合う者。
その声のあちこちで、名前だけが途切れる。
「セー……セー……あれ、君の名前は」
「しっかりして、私はセーラよ!」
「僕の札がない!」
「違う、薄れてるだけだ!」
「おじいちゃん、僕だよ、■■だよ!」
呼び声が欠けていく。
リシアの耳には、村中の心歌が押し寄せた。
『私は■■を待っている』
『■■、どこにいるの』
『私の名は、何だった』
『呼ばれたい』
『呼べない』
『忘れたくない』
名前だけが黒く抜け落ちた心歌。
その欠落が、リシアの中にまで入り込もうとする。
危ない。
心歌を聞きすぎると、自分の感情と混ざる。
今は名前の欠落まで引き込んではいけない。
リシアは胸元の徽章を握り、意識を自分の名前へ戻した。
リシア。
私はリシア。
旅の歌魔術師。
シルの相棒。
歌詞帳を持つ者。
リシア。
何度も心の中で確かめる。
その時、シルが肩へ駆け上がり、耳元で鳴いた。
ちいっ。
「うん。大丈夫」
リシアは息を整えた。
広場の向こう、木工工房の前に一人の男が立っていた。
ノアの父、レクトだろう。
痩せた長身の男で、手には彫りかけの木札を持っている。目は虚ろで、周囲の呼びかけに反応していない。
ミーナが叫んだ。
「レクト!」
男はぴくりと肩を震わせた。
だが、振り返らない。
「レクト、私よ!」
男はゆっくりとこちらを見た。
その顔には、ひどい混乱が浮かんでいる。
「レクト……」
彼は自分の名を聞いて苦しげに眉を寄せた。
「それは……誰の名だ」
ミーナが足を止めた。
ノアが震えながら母の手を握る。
リシアはレクトの心歌を聞こうとした。
深く入りすぎないよう、慎重に。
聞こえたのは、削れた木の音。
小刀が木札をなぞる音。
誰かに名を刻む喜び。
そして、黒い声。
『名など、失うためにある』
『呼ばれるから縛られる』
『名があるから、失った時に苦しむ』
『ならば、忘れればいい』
リシアは目を見開いた。
黒譜の民の思想。
まただ。
痛みを避けるために、痛みの元ごと奪おうとする。
声を奪う。
火を眠らせる。
名前を削る。
優しいようで、残酷な術。
レクトの手の中の木札に、黒い譜面が浮かんでいた。
彫られているのは、途中までの名前。
『ノア・リ』
その先がない。
リシアは息を呑んだ。
ノアの名札だ。
新しく彫り直そうとしていたのか。
それとも、黒譜術に操られて削り取ろうとしていたのか。
レクトは木札へ小刀を当てる。
残った文字を削ろうとしている。
「止めて!」
ミーナが叫ぶ。
リシアは反射的に走った。
だが、黒い譜面が足元に広がる。
名前を欠いた心歌が、波のように押し寄せる。
『■■』
『■■』
『■■』
リシアの中で、自分の名が一瞬揺らいだ。
リシア。
リシア。
私は。
誰。
足が止まりかける。
シルが肩の上で強く鳴いた。
ちいっ!
その声で、リシアは意識を取り戻す。
「ありがとう、シル!」
リシアは歌詞帳を開いた。
だが、まだ歌えない。
ノアの名前を守るために歌うべきなのか。
それとも、レクトの手を止めるべきなのか。
名前が奪われる原因が分からないまま強く歌えば、黒譜術が反発してノアをさらに傷つけるかもしれない。
迷った一瞬。
ノアが母の手を離した。
「父さん!」
少年は叫んだ。
その声に、レクトの手が止まる。
ノアは続けようとした。
「僕は……」
だが、自分の名前が出てこない。
唇が震える。
「僕は……僕は……」
レクトの目が揺れた。
父として、息子の声に反応したのだ。
名前は分からなくても。
ノアは涙を浮かべながら、笛を握りしめた。
そして、震える手でそれを口元へ持っていく。
上手く吹けないと言っていた笛。
夜に吹くと母に怒られるから、昼だけ練習していた笛。
その笛から、かすれた音が出た。
ぴい。
短く、頼りない音。
けれど、レクトの表情が変わった。
「その音……」
レクトの手から小刀が落ちた。
木札はまだ削られていない。
リシアはその瞬間を逃さなかった。
歌ではなく、言葉で叫ぶ。
「ミーナさん、呼んでください!」
ミーナが涙を浮かべながら声を張る。
「ノア!」
少年ははっとした。
「あなたはノア! ノア・リント! 私とレクトの息子!」
広場の名守りの木が大きく揺れた。
ノアの木札の文字が、一瞬だけ濃くなる。
しかし、黒い譜面がすぐに絡みつく。
リシアはここでようやく歌った。
強い歌ではない。
名を取り戻す歌でもない。
呼ばれた名を、その場に留めるための短い守護詩。
「ノア」
リシアは歌の中でその名を呼んだ。
ただし、自分のものとしてではなく。
ミーナが呼んだ名を、ノア自身へ返すように。
「ノア・リント」
歌詞帳が青白く光る。
黒い譜面がわずかに退いた。
レクトの木札に刻まれた途中までの文字。
『ノア・リ』
そこに、薄く続きが浮かぶ。
『ント』
完全ではない。
でも、消えてはいない。
ノアは息を震わせた。
「ノア……」
彼は自分の名を口にした。
小さく。
不確かに。
それでも、自分へ向けて。
「僕は、ノア」
広場の空気が少しだけ変わった。
村人たちが息を呑む。
ミーナがノアを抱きしめる。
レクトはその場に膝をつき、頭を抱えた。
「ノア……ミーナ……」
名前が戻ったのか。
いや、完全ではない。
レクトの目はまだ揺れている。
自分の名は思い出せていない。
けれど、妻と息子の名が一瞬だけ戻った。
リシアはほっと息を吐きかけた。
その瞬間、広場の名守りの木の根元から、黒い線が走った。
木の幹に、譜面のような模様が浮かび上がる。
吊るされた木札が一斉に震えた。
村人たちの悲鳴。
リシアは名守りの木を見上げる。
木札に刻まれた名前が、いくつも薄れている。
そして、木の根元に古い石板があることに気付いた。
昼間は木の影に隠れて見えなかったもの。
そこには、かすれた文字が刻まれている。
『名簿堂』
村の名前を守る場所。
その入口が、名守りの木の下にある。
リシアの歌詞帳が開いた。
白紙のページに、黒ではなく青い文字が浮かび上がる。
『名前を奪ったのは、忘却ではない』
リシアは息を呑む。
次の断章の手がかり。
名の断章。
そう直感した。
だが、その瞬間、名守りの木の下から冷たい風が吹き上がった。
村人たちが一斉に黙る。
いや、黙ったのではない。
声を出そうとして、自分が誰を呼ぼうとしていたのか分からなくなっている。
ノアがリシアを見上げた。
「リシアさん」
呼ばれた。
その声に、リシアは少し安心した。
だが、次の言葉で胸が凍った。
「僕の名前……もう一回、呼んで」
ノアの目には涙があった。
「忘れそう」
リシアはすぐに答えた。
「ノア」
少年の手が震える。
「ノア・リント」
ミーナも続く。
「ノア」
レクトも、苦しげに。
「ノア……」
シルが小さく鳴く。
ちい。
その小さな声も、まるで名を支える一音のように響いた。
しかし、名守りの木の下で、黒い譜面は静かに広がり続けている。
夜はまだ始まったばかりだった。
リシアは歌詞帳を握りしめる。
この村では、名前が消えようとしている。
けれど、名前は一人で守るものではない。
誰かが呼ぶことで、初めて形を取り戻すものなのかもしれない。
リシアは広場の中央に立ち、名守りの木を見上げた。
木札が揺れている。
たくさんの名前が、夜の中で薄れていく。
そして、その奥で。
誰かの黒い心歌が、低く囁いた。
『呼ばなければ、失わずに済む』
リシアは静かに息を吸った。
その言葉に、まだ答えは出せない。
けれど、一つだけ分かる。
呼ばなければ失わない、という考えは、優しさに似ている。
でも、それは人を誰からも呼ばれない場所へ閉じ込める。
リシアはノアの名を書いたページを見た。
そこには、まだはっきりと文字が残っている。
『ノア・リント』
その下に、歌詞帳が新たな一行を浮かべた。
『名は、呼ばれて初めて震える』
まだ歌詞ではない。
けれど、確かな始まりだった。
リシアは顔を上げた。
「今夜は、誰も一人にしないでください」
村人たちがリシアを見る。
「名前を忘れそうな人がいたら、責めないでください。無理に思い出せと追い詰めないでください。ただ、そばで呼んでください。何度でも。怖がらせないように、でも諦めないで」
村長オルダが頷いた。
「分かった」
リシアは名守りの木の根元へ目を向ける。
「私は、名簿堂を調べます」
ミーナが不安げに言う。
「今からですか」
「はい。夜にしか現れないものがあるなら、今見なければいけません」
シルが肩の上で低く鳴いた。
反対しているのか。
それとも、警戒しているのか。
リシアは小さく頷く。
「大丈夫。無理はしない」
シルは信じていないような顔をした。
「本当だよ」
ちい。
「……できるだけ」
シルはため息のように鳴いた。
名守りの木の下で、黒い譜面が蠢く。
夜のレムナ村に、名前を呼ぶ声が少しずつ広がり始めた。
「ノア」
「セーラ」
「マルク」
「ベル」
「母さん」
「父さん」
「私の名前は、オルダ」
呼ぶ声。
確かめる声。
震える声。
その中で、リシアは名簿堂の入口へ近づいた。
木の根元にある石板が、ゆっくりとずれていく。
地下へ続く古い階段が現れた。
冷たい空気が上がってくる。
その奥から、名前のない心歌が聞こえた。
『私は、誰にも呼ばれなかった』
リシアは足を止めた。
今までの黒譜術とは少し違う。
その声には、冷たい悪意だけではなく、深い寂しさがあった。
シルが肩の上で身を固くする。
リシアは歌詞帳を胸に抱いた。
「行こう、シル」
ちい。
二人は、名守りの木の下へ続く階段を下り始めた。
背後では、村人たちが互いの名を呼び続けている。
夜の村で、名前が消えていく。
けれど同時に、名前を呼ぶ声もまた、確かに灯り始めていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回から「名前を失う村編」が始まりました。
リシアとシルが訪れたのは、北の小さな村レムナ。
昼間は穏やかな村ですが、夜になると人々は名前を忘れてしまいます。
自分の名前。
家族の名前。
大切な人を呼ぶための名前。
名前は、ただの記号ではありません。
誰かに呼ばれ、自分が自分であることを確かめるための大切なものです。
ノアは、自分の名前を忘れそうになりながらも、母や父、そしてリシアに呼ばれることで、かろうじて自分を繋ぎ止めました。
けれど、名守りの木の下には、まだ大きな謎が眠っています。
『私は、誰にも呼ばれなかった』
その名前のない心歌は、何を意味しているのか。
そして、名簿堂に隠されたものとは何なのか。
次話では、リシアが名守りの木の下へ踏み込み、名前を奪う黒譜術の正体へ近づいていきます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




