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名前を失う村編 11話 呼ばれなかった名前

夜のレムナ村で、村人たちは互いの名を呼び続けていた。

名前が消えていく闇の中で、誰かを忘れないために。

自分が自分であることを、手放さないために。

その声を背に、リシアとシルは名守りの木の下へ続く階段を下りる。

地下に眠っていたのは、村の名を記した古い名簿堂。

そして、そこには誰にも呼ばれなかった名前が残されていた。

 名守りの木の下へ続く階段は、思っていたよりも深かった。


 石で組まれた細い階段が、村の広場の真下へ向かって続いている。壁には古い灯皿が等間隔で並んでいたが、火は入っていない。リシアが持つ小さなランタンだけが、暗闇の中で頼りなく揺れていた。


 足音が、低く反響する。


 こつ。


 こつ。


 その音が、名前を呼ぶ声のように聞こえて、リシアは何度か振り返りそうになった。


 背後の地上からは、村人たちの声がかすかに届いている。


「ノア」


「ミーナ」


「レクト」


「セーラ」


「マルク」


 互いの名を呼び合う声。


 それはまだ弱く、震えている。途中で途切れる声もある。呼んだ相手が反応できず、泣きそうになる声もある。


 けれど、呼び続けている。


 名前が薄れていく夜の中で、村人たちはそれぞれの声を頼りに、互いを繋ぎ止めようとしていた。


 リシアはその声を背に受けながら、一段ずつ下りていく。


 肩の上のシルは、いつになく静かだった。


 銀色の小さな体を低く伏せ、尻尾を膨らませ、暗闇の奥を睨んでいる。普段なら、狭い場所や暗い場所でも好奇心が勝つことが多い。けれど今は、明らかに警戒していた。


「シル」


 リシアは小声で呼んだ。


「嫌な感じがする?」


 シルは短く鳴いた。


 ちい。


 その返事には、肯定以上の緊張があった。


 リシアは胸元の歌詞帳に手を添える。


 歌詞帳は、ずっと震えている。


 大きな反応ではない。


 けれど、ページの奥から細い糸を引かれているような感覚がある。


 名の断章。


 まだそう刻まれたわけではない。


 だが、リシアには分かり始めていた。


 この村で起きていることは、ただの記憶喪失ではない。


 名前に宿る想いを削り、呼ばれることと呼ぶことの繋がりを断とうとしている。


 火を眠らせる黒譜術こくふじゅつ


 声を封じる黒譜術。


 そして今度は、名を奪う黒譜術。


 黒譜の民は、人が痛みに触れる前に、その痛みを生むものごと消そうとしている。


 夢があるから失う。


 声があるから傷つく。


 名前があるから別れが苦しい。


 ならば、消せばいい。


 忘れればいい。


 呼ばなければいい。


 それは、優しさに似た残酷さだった。


 階段の終わりに、古い木の扉があった。


 分厚い扉だ。表面には、無数の名前が彫られている。もう読めないほど古びたものもあれば、比較的新しいものもある。


 その中心に、村の紋章が刻まれていた。


 楡の木。


 その枝に吊るされた木札。


 木の根元に、小さな灯。


 リシアは扉の前で足を止めた。


 扉の向こうから、心歌が聞こえる。


『私は、誰にも呼ばれなかった』


 先ほどと同じ声。


 幼いようにも、老いているようにも聞こえる。


 男でも女でもない。


 それは声というより、名前になる前にこぼれ落ちた息のようだった。


 リシアは息を整える。


 この声にすぐ引き込まれてはいけない。


 誰にも呼ばれなかったという痛みは、深い。


 その痛みに不用意に触れれば、リシア自身の中にある「呼べなかった名前」まで引きずり出される。


 アイシャ。


 その名が胸の奥で揺れた。


 リシアは唇を噛む。


 死んだと思っている幼なじみ。


 呼びたくても、もう返事がないと思っている名前。


 慰霊の丘で刻まれた石碑。


 自分の歌で戦場へ向かったのかもしれない人。


 だめ。


 今はそこへ沈んではいけない。


 リシアは自分の名を心の中で確かめた。


 リシア。


 リシア・フェルミナ。


 旅の歌魔術師。


 人の想いを歌にする者。


 シルの相棒。


 名前は、まだここにある。


 シルがリシアの頬へ小さな前足を当てた。


「大丈夫」


 リシアは小さく頷く。


「行こう」


 扉に手を触れる。


 冷たい。


 木のはずなのに、石のような冷たさが指先から伝わってきた。


 扉には鍵がかかっていなかった。


 押すと、低い音を立てて開いた。


 その音は、まるで長い間呼ばれなかった名前が、ようやく誰かの口に上った時のように、ぎこちなく軋んだ。


 名簿堂の中は、広い円形の部屋だった。


 地下にあるとは思えないほど天井が高い。壁一面には棚が並び、その棚に無数の木札と帳面が収められている。中央には丸い石台があり、その上に分厚い一冊の名簿が置かれていた。


 古い。


 だが、ただ古いだけではない。


 長い年月、人々がここへ名前を預けてきた重みがあった。


 生まれた子の名。


 結ばれた夫婦の名。


 旅立った者の名。


 戻らなかった者の名。


 亡くなった者の名。


 名前が、記録としてだけでなく、祈りとして積もっている場所。


 リシアは思わず息を呑んだ。


 だが、その神聖さの上に、黒いものが絡みついていた。


 棚の一部に黒い譜面が浮かんでいる。


 木札の名前が、ところどころ削られたように欠けている。


 帳面の文字も、いくつかのページだけ墨を吸い取られたように薄い。


 そして中央の石台の上。


 分厚い名簿の表紙に、黒い譜面の印が刻まれていた。


 シルが喉を鳴らすように低く鳴いた。


「うん」


 リシアは慎重に歩き出した。


「ここが中心みたい」


 名簿堂に入った瞬間から、耳に届く心歌が変わっていた。


 地上の村人たちの心歌ではない。


 もっと古い声。


 もっと小さな声。


 名前を刻まれた木札や帳面に残った残響歌ざんきょうか


『生まれてきてくれてありがとう』


『この子の名は、リナ』


『どうか健やかに』


『遠くへ行っても、君の名を忘れない』


『帰ってきたら、また呼んでくれ』


『父さん、僕の木札を残しておいて』


『戦に行くけれど、名前を消さないでくれ』


 リシアは胸が詰まった。


 この場所には、たくさんの想いが眠っている。


 名前は、ただ人を区別するための印ではない。


 誰かが誰かを思った証。


 そこにいたことを忘れないための灯。


 だからこそ、黒譜術はここを狙った。


 名前を消せば、想いの繋がりが途切れる。


 痛みも薄れる。


 けれど、喜びも、愛しさも、待つ気持ちも、共に薄れてしまう。


 リシアは中央の名簿へ近づいた。


 表紙に手を伸ばしかけた時、背後で扉が軋んだ。


 振り返ると、村長オルダが立っていた。


 その後ろには、ミーナとノアもいる。


 さらに少し遅れて、ノアの父レクトが壁に手をつきながら下りてきた。


「どうして……」


 リシアは驚いて言った。


「ここは危険です。地上で名前を呼び合っていてくださいと」


 オルダは苦い顔で首を横に振った。


「ここは村の名を預かる場所だ。村長である私が地上に残るわけにはいかん」


 ミーナはノアの手を握りしめている。


「ノアが、ここへ来ると言って聞かなくて」


 ノアは俯いたまま、小さく言った。


「僕の名前、父さんが作ってくれた木札にあるから。ここに何かあるなら、僕も見たい」


 リシアはノアを見つめた。


 怖がっている。


 けれど、逃げていない。


 エマと同じだ。


 怖いまま、自分で選んでいる。


 レクトはその後ろで、片手に木札を持っていた。


 途中まで削られかけたノアの名札。


『ノア・リント』


 文字はまだ薄いが、消えてはいない。


「私は……」


 レクトは苦しげに額を押さえた。


「自分の名はまだ遠い。だが、この子の名を削ろうとしたことは覚えている」


 ミーナが悲しそうに彼を見る。


「レクト」


 その名を呼ばれると、レクトの顔が歪む。


 痛むのだ。


 自分の名が、自分のものとして戻らず、傷のように響いている。


 リシアは静かに言った。


「無理に思い出さなくていいです」


 レクトがリシアを見る。


「でも、呼ばれることから逃げなくてもいい」


「……それは、難しいな」


「はい。難しいです」


 リシアは頷いた。


「名前は、優しいだけのものではありませんから」


 レクトの目が揺れた。


 その言葉に、何か思い当たるものがあったのかもしれない。


 オルダが名簿を見て息を呑んだ。


「これは……」


 彼は石台へ近づき、震える手で表紙に触れようとした。


 リシアが止める。


「待ってください。黒譜術がかかっています」


「この名簿は、村で最も古いものだ。最初に村を開いた人々の名前から、すべて記されている」


「すべて?」


「ああ。生まれた者、移ってきた者、出ていった者、亡くなった者。名守りの木に吊るす木札も、最後はここへ記録する」


 リシアは名簿を見下ろした。


 村の名の中心。


 それが黒譜術に侵されている。


「この名簿に、何か特別な名前はありますか」


 オルダは眉をひそめる。


「特別な名前?」


「誰にも呼ばれなかった名前。あるいは、記録から外された名前」


 その瞬間、オルダの顔色が変わった。


 ミーナも、レクトも、意味が分からないという顔をしている。


 しかし村長だけは、明らかに何かを知っていた。


「村長さん」


 リシアは静かに言った。


「ここへ下りる時、声が聞こえました」


 オルダの喉が動く。


「どんな声だ」


「『私は、誰にも呼ばれなかった』と」


 名簿堂の空気が、一段冷えた。


 棚に並ぶ木札が、かすかに震える。


 黒い譜面が名簿の表紙で蠢いた。


 オルダは目を閉じた。


「……古い話だ」


「聞かせてください」


「今ここで?」


「今だからです」


 リシアの声は穏やかだったが、譲らなかった。


「この場所の黒譜術は、その名前のない声に絡みついています。村が忘れてきたものがあるなら、そこに原因があります」


 オルダは長い沈黙の後、重く口を開いた。


「レムナ村には昔、一つの決まりがあった。子どもが生まれたら、七日目の朝に名守りの木の下で名を呼ぶ。それまでは仮名で呼び、本当の名は木札に刻まない」


「なぜ七日目なのですか」


「昔は、産まれてすぐに亡くなる子も多かった。七日を越えられたら、村の一員として名を刻む。そういう風習だった」


 ミーナがノアの手を強く握った。


 ノアは不安そうに村長を見ている。


 オルダは続けた。


「だが、戦争中、その風習は歪んだ」


 戦争。


 また、その影。


 リシアは唇を引き結んだ。


「多くの避難民がこの村へ来た。戸籍もなく、家族を失い、自分の村も焼かれた人々だ。名前を確認する必要があった。誰が生きているのか。誰が死んだのか。誰をどこへ送るのか」


 オルダは中央の名簿を見た。


「名簿堂は、人を守るための場所から、人を数える場所になった」


 リシアはエルネの警鐘を思い出した。


 風鈴が警鐘になったように。


 名簿堂もまた、祈りの場所から戦争の管理場所へ変わった。


 必要だったのかもしれない。


 だが、必要だったからといって、傷が残らないわけではない。


「その頃、一人の女が村にたどり着いた」


 オルダの声が低くなる。


「身重だった。名は……」


 そこでオルダは口を閉ざした。


 名前が出てこないのではない。


 言うことをためらっている。


 リシアは待った。


 無理に急かさない。


 やがてオルダは言った。


「セフィア」


 その名が名簿堂に落ちた瞬間、棚の木札が大きく揺れた。


 黒い譜面が反応する。


 リシアの歌詞帳も震えた。


「セフィアさん」


「そうだ。彼女は夫を戦で亡くし、故郷も失っていた。村は彼女を受け入れた。だが、当時は混乱していた。食料も足りず、避難民も多く、名前の確認も追いついていなかった」


 オルダは苦しげに息を吐く。


「セフィアはこの村で子を産んだ」


 ノアが息を呑む。


「その子の名前は?」


 オルダは首を横に振った。


「刻まれなかった」


 名簿堂の空気が、さらに重くなる。


「産まれてすぐ、母子ともに危険な状態だった。セフィアは子に名をつけたがっていた。何度も言おうとしたらしい。だが、周囲の者は止めた」


「どうして」


 ミーナが震える声で尋ねた。


 オルダは答えた。


「名をつければ、失った時につらくなるからだ」


 リシアの胸が冷えた。


 黒譜の民の言葉と同じだ。


 名があるから失った時に苦しむ。


 なら、呼ばなければいい。


「その子は?」


「七日を待たずに亡くなった」


 誰も声を出せなかった。


 オルダは拳を握る。


「セフィアも、すぐ後を追うように亡くなった。彼女が最後まで子の名を呼ぼうとしていたことは、記録に残っている。だが、正式な名として名簿には刻まれなかった。七日を越えなかったから。戦時中の混乱で、記録係もそう処理した」


「その記録係は……」


「私の祖父だ」


 オルダの声は、かすれていた。


「祖父は晩年までそのことを悔いていた。だが、村の古い決まりに従っただけだとも言っていた。名を刻まなかったのは、母親を余計に苦しませないためだった、と」


 リシアは目を伏せた。


 優しさだったのかもしれない。


 決まりだったのかもしれない。


 混乱の中で、そうするしかなかったのかもしれない。


 けれど、一つの名前が呼ばれなかった。


 それは消えなかった。


 この名簿堂の奥に、ずっと残っていた。


 リシアの耳に、再び心歌が届く。


『私は、誰にも呼ばれなかった』


 それは赤子の声ではない。


 その名を呼べなかった母の想いと、呼ばれることなく消えた命の残響が混ざり合った声だった。


 そして、それに黒譜術が絡みついている。


 名を持たなかった痛みを利用して、村中の名前を削っている。


 リシアは名簿へ視線を戻した。


「その子の名は、本当に分からないのですか」


 オルダは首を横に振った。


「記録にはない。祖父の日記にも、セフィアが名を言おうとしていたとしか書かれていなかった」


 レクトが突然、顔を上げた。


「いや……」


 全員が彼を見る。


 レクトは額を押さえながら、ふらつく足で棚へ近づいた。


「私は……この場所で、古い木片を見たことがある」


「レクト?」


 ミーナが支えようとする。


 レクトは苦しげに首を振った。


「思い出せない。自分の名前は遠いままだ。でも、手が覚えている。古い木片。名札になれなかった木片。半分焦げていて……」


 彼は棚の下段を探り始めた。


 シルがリシアの肩から降り、床を走る。


 そして、一つの棚の前で止まった。


 小さな前足で、木箱を叩く。


 ちい。


「そこ?」


 リシアが近づく。


 棚の奥に、古い木箱があった。


 埃をかぶっている。


 箱には何も書かれていない。


 レクトが震える手で蓋を開けた。


 中には、割れた木札や彫り損じの名札がいくつも入っていた。


 その一番下に、小さな木片があった。


 焦げ跡がある。


 文字は、ほとんど読めない。


 けれど、かすかに線が残っている。


 リシアはそれを手に取った。


 触れた瞬間、残響が流れ込む。


 暗い部屋。


 外では雨。


 遠くで戦の鐘。


 弱った女性の声。


『お願い……この子の名を……』


 周囲の人々の声。


『まだ刻めません』


『七日を越えてからです』


『名をつけてしまえば、あなたが苦しむ』


『今は休んで』


 女性が泣いている。


 腕の中の小さな命を抱いて。


『苦しんでもいい』


 彼女は言う。


『この子が、ここにいたことを……呼んであげたいの』


 残響が乱れる。


 誰かが木片を差し出す。


 おそらく、若い記録係。


 正式な木札ではない。


 ただの端材。


『正式には刻めません。でも、あなたが呼ぶためだけなら』


 女性の手が、震えながら木片に触れる。


 声が小さくなる。


 リシアは耳を澄ませる。


 名前。


 その子の名前。


 セフィアが呼ぼうとした名。


『……リ……』


 聞こえない。


 黒い譜面が残響に絡みつく。


 名前の部分だけが削られる。


 リシアはさらに深く聞こうとしてしまった。


 その瞬間、黒い声が割り込んだ。


『呼ばなければ、失わずに済む』


 冷たい声。


 黒譜術の声。


 リシアの胸に痛みが走る。


 残響の中で、木片が暗闇へ落ちる。


 セフィアの声が遠ざかる。


『呼んで……』


『誰か……』


『この子を……』


 リシアは現実に引き戻された。


 膝をついている。


 額には汗が滲んでいた。


 シルが必死にリシアの袖を引っ張っている。


「大丈夫……」


 リシアは息を整えた。


「大丈夫です」


 ミーナが心配そうに言う。


「何が見えたんですか」


「セフィアさんは、子どもに名をつけようとしていました」


 リシアは木片を見つめる。


「正式な名札ではありません。でも、誰かが端材を渡してくれた。その木片に、名前を残そうとしたんです」


「名前は?」


 ノアが尋ねる。


 リシアは首を横に振った。


「黒譜術に削られていて、聞き取れませんでした。最初の音だけ……リ、のように聞こえました」


 オルダが顔を歪める。


「リ……」


 その時、中央の名簿が勝手に開いた。


 ばさり、と重い音。


 ページが高速でめくれていく。


 古い記録。


 戦時中の記録。


 避難者名簿。


 死者名簿。


 出生記録。


 ページがある場所で止まった。


 そこには、セフィアの名があった。


『セフィア・アルム。南方より避難。夫戦死。妊娠中』


 その下。


 空欄。


 子の名を書くはずだった場所が、空白のまま残っている。


 黒い譜面が、その空欄から湧き出していた。


 ノアが震える声で言った。


「ここに、名前がない」


 リシアは頷いた。


「はい」


 黒い譜面が空白から伸び、周囲のページへ広がっていく。


 村人たちの名前が、少しずつ薄れていく。


 リシアは歌詞帳を開いた。


 だが、すぐに歌えなかった。


 分からない名前を、勝手に呼んでいいのか。


 セフィアがつけようとした名を、リシアが推測で埋めていいのか。


 それは違う。


 名前は誰かが勝手に与えていいものではない。


 しかし、空白のままにしておけば、黒譜術はその空白を使って村中の名を削り続ける。


 どうする。


 リシアは迷った。


 その時、レクトが木片を見つめながら言った。


「この木片……私が修復できるかもしれない」


 ミーナが驚く。


「あなた、無理よ。まだ自分の名前も」


「自分の名は遠い」


 レクトは苦しげに笑った。


「だが、手は覚えている。木の目を読むこと。刃を入れる角度。消えかけた彫り跡をなぞること。それはまだ、私の中に残っている」


 リシアはレクトを見た。


 名前を忘れても、技が残っている。


 ノアに言ったことが、ここにも繋がる。


 名前だけが、その人の全部ではない。


 レクトは木札職人だ。


 自分の名が遠くても、誰かの名を残す手はまだ残っている。


「お願いします」


 リシアは木片を差し出した。


「ただし、無理はしないでください」


 レクトは頷き、石台の隅に木片を置いた。


 腰の道具袋から、小さな刃を取り出す。


 その手は震えていた。


 けれど、木片に触れた瞬間、震えが少しだけ収まる。


 職人の手になった。


 ノアが父のそばに寄る。


「父さん」


 レクトは一瞬、苦しそうにした。


 だが、ノアを見て、かすかに微笑んだ。


「その呼び方は……分かる」


 自分の名はまだ思い出せなくても。


 父さんという呼び方は届いた。


 ノアは涙をこらえて頷いた。


 レクトは木片の焦げ跡を慎重になぞった。


「古い。かなり削れている。だが、線が残っている」


 リシアは歌詞帳を開いたまま、周囲の黒い譜面を見張る。


 黒譜術は、木片の復元を邪魔しようとしていた。


 細い黒線が床を這い、レクトの手元へ向かう。


 シルがその前に立ちはだかった。


 小さな体で毛を逆立て、ちいっ、と鋭く鳴く。


 黒線が一瞬止まる。


 リシアは短い守護詩を歌った。


 レクトの手を守るため。


 名前を呼び戻すためではなく、誰かが名を残そうとする手を邪魔されないようにするための歌。


 黒い線が青い光に触れ、わずかに退く。


 だが完全には消えない。


 名簿の空欄から、あの声が響いた。


『呼ばれなかった』


『呼ばれなかった』


『呼ばれなかった』


 その声は、だんだん強くなる。


 ノアが耳を塞ぐ。


 ミーナが彼を抱きしめる。


 オルダは膝をつき、名簿を見つめている。


「すまない」


 彼は震える声で言った。


「私たちの村は、君を呼ばなかった」


 黒い声が一瞬止まる。


 リシアは村長を見た。


 オルダは名簿の空欄へ向かって、深く頭を下げていた。


「古い決まりだった。戦の混乱だった。そう言えば、許されると思っていたのかもしれない。だが、君がここにいたことを、村は記さなかった」


 空欄から、冷たい風が吹く。


 オルダは逃げずに続けた。


「すまなかった」


 その謝罪は、誰に届くのか分からない。


 セフィアか。


 名も刻まれなかった子か。


 あるいは、長い年月をかけてこの村に染み込んだ後悔そのものか。


 しかし、黒譜術の動きが一瞬鈍った。


 レクトがその隙に木片をなぞる。


「見えた……」


 全員が息を呑む。


 レクトの刃先が、焦げた木片の上に残ったわずかな溝を追っていく。


「最初は、リ」


 リシアの胸が高鳴る。


「次は……エ」


 木片の上に、文字が浮かび上がる。


 リ。


 エ。


 そして、最後の一文字。


 レクトの手が止まった。


「分からない……」


 黒い譜面が再び強くなる。


 空欄から声が響く。


『呼ばないで』


『どうせ失う』


『呼ばなければ、悲しまない』


 レクトの手が震える。


 刃が木片から離れそうになる。


 その時、ノアが父の手に自分の手を重ねた。


「父さん」


 レクトが目を見開く。


「僕、夜になると自分の名前が遠くなる。でも、母さんが呼んでくれた。リシアさんも呼んでくれた。シルも……たぶん呼んでくれた」


 シルがちい、と鳴いた。


 ノアは少しだけ笑い、すぐに真剣な顔に戻る。


「呼ばれるの、怖い時もある。忘れてるのに呼ばれると、苦しくなる。でも、呼ばれなかったら、もっと遠くに行っちゃう気がした」


 その言葉に、名簿堂の空気が震えた。


「だから」


 ノアは木片を見る。


「その子も、呼んでほしかったんだと思う」


 黒い声が止まる。


 完全にではない。


 だが、耳を澄ますような沈黙が落ちる。


 リシアは胸の奥が熱くなった。


 ノアの言葉は、歌ではない。


 でも、確かに届いている。


 名前を忘れかけた少年だからこそ言える言葉だった。


 レクトは目を閉じた。


 そして、もう一度木片に刃を当てる。


「最後は……」


 刃先が細い溝をなぞる。


 焦げ跡の下から、かすかな曲線が見える。


「ナ」


 レクトが呟いた。


「リエナ」


 その名が名簿堂に響いた瞬間、木片が淡く光った。


 リシアの歌詞帳も強く震える。


 名簿の空欄に、薄い文字が浮かび上がった。


『リエナ』


 その文字を見た瞬間、黒い譜面が激しく暴れた。


 空欄から黒い線が溢れ、名簿堂の棚へ走る。


 木札の名前が次々と薄れ始める。


 呼ばれなかった名が見つかったのに、なぜ。


 リシアは一瞬戸惑った。


 だが、すぐに分かった。


 名前を見つけただけでは足りない。


 呼ばれなかった痛みを、黒譜術は長い年月かけて歪めている。


 リエナという名前をただ名簿へ書き足すだけでは、終わらない。


 呼ぶ必要がある。


 誰かが、その名を呼ばなければならない。


 しかし、誰が。


 母セフィアはもういない。


 家族もいない。


 村は長い間、その名を忘れていた。


 リシアが呼んでもいいのか。


 旅人である自分が。


 この村の過ちを知らず、セフィアの悲しみも今初めて知った自分が。


 迷いが生まれる。


 その迷いに、黒い譜面が絡みつく。


『お前が呼ぶのか』


『また他人の痛みを歌にするのか』


『美しい名前にして、救った気になるのか』


 リシアの喉が詰まる。


 黒譜の民の言葉がよみがえる。


 声がある者の優しさ。


 歌が痛みを美しくしてしまう危うさ。


 今、リシアが勝手に歌えば、本当にそうなるかもしれない。


 その時、オルダが立ち上がった。


「私が呼ぶ」


 リシアは振り返る。


「村長さん」


「この村の名簿を預かる者として。かつて呼ばなかった村の、今の村長として。私が呼ばなければならん」


 オルダの声は震えている。


 怖いのだ。


 長く隠されていた痛みに向き合うことが。


 それでも彼は名簿の前へ立った。


 ミーナがノアの手を握りながら続く。


「私も呼びます。この村で子どもを育てる母親として」


 ノアが一歩前へ出る。


「僕も。名前が遠くなるのが怖いから、呼ぶ」


 レクトは木片を持ち上げた。


「私も……木札職人として。いや」


 彼は苦しげに笑った。


「父として、呼ぶ」


 リシアは胸が震えるのを感じた。


 これは、リシア一人の歌ではない。


 村が呼ぶべき名前だ。


 ならばリシアの役割は、その声を支えること。


 奪われないように守ること。


 呼ばれた名が、黒譜術に飲み込まれないように。


「分かりました」


 リシアは歌詞帳を開いた。


「私は、皆さんの声を守ります」


 黒い譜面が名簿堂を包み始める。


 棚の木札が揺れ、帳面のページが乱れ飛ぶ。


 名前が削られる音。


 紙を擦る音。


 遠い泣き声。


 そのすべてが混ざり合う。


 リシアは短く息を吸い、守護詩を歌い始めた。


 今回は、名前を直接歌わない。


 名を呼ぶのは村人たちだ。


 リシアの歌は、ただ場所を作る。


 呼ぶ声が届くための場所。


 呼ばれなかった名前が、今度こそ誰かの声で震えるための場所。


 オルダが最初に口を開いた。


「リエナ」


 名簿堂の空気が震えた。


 ミーナが続く。


「リエナ」


 ノアも、少し声を震わせながら。


「リエナ」


 レクトが木片を胸に当てる。


「リエナ」


 四つの声が重なる。


 黒い譜面が激しく抵抗する。


『遅い』


『もう誰もいない』


『呼んでも戻らない』


 その声に、オルダは涙を浮かべながら言った。


「遅い。それでも呼ぶ」


 ミーナが続ける。


「戻らなくても、呼ぶ」


 ノアが叫ぶ。


「ここにいたって、呼ぶ!」


 レクトが震える声で言った。


「名札を作る。君がここにいたことを、今度こそ刻む」


 木片が光る。


 名簿の空欄に、『リエナ』の文字が濃く浮かんだ。


 しかし、その瞬間、地下のさらに奥から強い黒い気配が吹き上がった。


 リシアの歌が乱れる。


 黒い譜面の奥に、別の意志がある。


 リエナの残響だけではない。


 それを利用している術者の痕跡。


 黒譜の民。


 声が響く。


『名を呼べば、失う痛みも戻る』


『それでも呼ぶのか』


 リシアは歌の合間に答えた。


「痛みだけが戻るわけではありません」


 黒い気配が揺れる。


「呼ばれた喜びも、戻ります」


 その言葉が正しいかどうか、リシアには分からない。


 リエナ本人がどう感じるか、もう確かめることはできない。


 けれど、セフィアは言っていた。


 苦しんでもいい。


 この子がここにいたことを、呼んであげたい。


 その願いだけは、確かに残っていた。


 リシアは歌を強めた。


 名簿堂の中央に青い光が広がる。


 木札が震える。


 薄れかけていた名前が、少しずつ濃さを取り戻していく。


 地上からも声が聞こえた。


 村人たちが、互いの名前を呼び続けている。


「ノア!」


「ミーナ!」


「レクト!」


「オルダ!」


「セーラ!」


「ベル!」


「マルク!」


 その声が名簿堂へ流れ込む。


 地下と地上が、名守りの木を通じて繋がっていく。


 リエナ。


 ノア。


 ミーナ。


 レクト。


 オルダ。


 名前が重なる。


 呼び合う声が、黒い譜面を押し返す。


 だが、リシアは気付いた。


 レクトの名前だけが、まだ薄い。


 ミーナやノアが呼んでも、彼自身の中へ完全に戻っていない。


 自分の名前を取り戻すには、別の何かが必要だ。


 この回では、まだ解決しきれない。


 リシアはそう直感した。


 今できるのは、リエナの名を呼び、村全体の名前が消える流れを一度止めること。


 黒譜術の根は、さらに奥にある。


 名簿堂の下。


 あるいは、名守りの木の根の奥。


 リシアの歌詞帳に、新しい文字が浮かび上がる。


『名は、呼ばれて初めて震える。

 けれど、呼ぶ声が遅れても、

 そこにいた事実は消えない。』


 まだ歌詞の断片。


 完成ではない。


 リシアは歌を終えた。


 黒い譜面は完全には消えていない。


 しかし、名簿の空欄に『リエナ』の名が残った。


 木片にも、薄く同じ名が浮かんでいる。


 名簿堂の空気は少しだけ温かくなった。


 どこかで、赤子の泣き声のような小さな音がした気がした。


 いや、もしかすると、それはセフィアの安堵だったのかもしれない。


 オルダはその場に膝をついた。


「リエナ……」


 彼はもう一度、その名を呼んだ。


 今度は、謝罪ではなく、記録として。


 村が長く呼ばなかった名前を、今、村長が呼んだ。


 ノアはほっとしたように息を吐いた。


 ミーナも涙を拭っている。


 だが、レクトだけは立ったまま、空っぽの目で自分の胸に手を当てていた。


「私は……」


 ミーナがすぐに彼を呼ぶ。


「レクト」


 レクトは顔を歪める。


 その名は届いている。


 だが、自分のものとして掴めない。


「それは、私の名なのか」


 ミーナが泣きそうに頷く。


「そうよ。あなたはレクト。レクト・リント」


 ノアも言う。


「父さん。レクト。僕の父さん」


 レクトは目を閉じる。


 苦しげに。


 けれど、逃げなかった。


「すまない。まだ、遠い」


 リシアは胸が痛んだ。


 リエナの名を呼ぶことで、村全体の名前の消失は一時的に弱まった。


 だが、最も深く侵されているレクトはまだ戻らない。


 名札職人である彼が、なぜここまで深く名前を奪われたのか。


 それはおそらく、彼が名を刻む者だからだ。


 この村で、名前を形にする手を持つ者だから。


 黒譜術はその手を通じて、村の名を削ろうとしている。


 シルが名簿堂の奥へ向かって低く鳴いた。


 リシアはランタンを持ち上げる。


 中央の石台の後ろ。


 棚と棚の隙間に、さらに下へ続く細い階段があった。


 さっきまでは見えなかった。


 リエナの名が呼ばれたことで、隠されていたものが現れたのだ。


 オルダが顔を上げる。


「そんな階段は知らない」


 リシアは階段の奥を見つめた。


 そこから、黒い声が聞こえる。


『名など、いらない』


『呼ばれなければ、奪われない』


『忘れれば、失わない』


 その奥に、もう一つの声。


 レクトの心歌に似た、削れた音。


『私は、誰の名を刻いていた?』


 リシアは理解した。


 黒譜術の本当の根は、まだ下にある。


 レクトの名を取り戻すには、そこへ行かなければならない。


 だが、今のレクトを連れていくのは危険すぎる。


 ノアもミーナも疲弊している。


 リシア自身も、残響歌と守護詩でかなり消耗していた。


 ここで無理をすれば、黒譜術に呑まれる。


 リシアは一度、深く息を吐いた。


「今夜は、ここまでです」


 ノアが驚いたように見る。


「下に行かないの?」


「行きたいです。でも、今すぐ行けば危険です」


「父さんの名前は?」


「必ず探します」


 リシアはノアの目をまっすぐ見た。


「でも、焦って失敗したら、レクトさんだけでなく、村の名前も危なくなります」


 ノアは唇を噛んだ。


 納得しきれていない顔だった。


 当然だ。


 父の名前がまだ戻っていないのだから。


 リシアは膝をつき、ノアの手を取った。


「今夜、ノアさんにお願いがあります」


「お願い?」


「レクトさんを呼び続けてください。ただし、無理やり思い出させようとするのではなく、そばにいるために」


 ノアは父を見る。


 レクトは疲れ切った顔で、木片を握っている。


「呼んでも、父さんが苦しそうだったら?」


「その時は、呼び方を変えてもいいです。レクトさん。父さん。木札を作ってくれた人。笛を作ってくれた人。あなたが覚えているお父さんを、少しずつ呼んでください」


 ノアの目に涙が浮かぶ。


「名前だけじゃなくて?」


「はい」


 リシアは頷いた。


「名前は大切です。でも、名前へ戻る道は一つではありません」


 ノアはしばらく黙っていた。


 やがて、小さく頷く。


「分かった」


 ミーナがノアの肩を抱いた。


「一緒に呼ぼう」


 レクトは二人を見る。


 その目には迷いがある。


 だが、先ほどより少しだけ、人の温度が戻っていた。


 オルダは名簿に刻まれたリエナの名へ向かって、もう一度頭を下げた。


「地上へ戻ろう。村人たちに、リエナの名を伝えなければならん」


「はい」


 リシアは名簿堂を見回した。


 まだ黒い譜面は残っている。


 棚の奥。


 さらに下へ続く階段。


 そこから漂う冷たい気配。


 この村の夜は、まだ終わっていない。


 リシアは歌詞帳を閉じた。


 その表紙に手を添える。


 ページの中で、名の断章の断片が静かに震えていた。


 名は、呼ばれて初めて震える。


 けれど、呼ばれなかった名も、消えたわけではない。


 誰かが遅れてでも呼ぶなら。


 そこにいた事実は、もう一度この世界に戻ってこられるのかもしれない。


 地上へ戻る階段を上る前に、リシアは一度だけ振り返った。


 名簿堂の奥。


 下へ続く階段の暗闇で、黒い譜面がかすかに光っている。


 そして、その奥から小さく囁く声がした。


『では、お前の名は誰が呼ぶ』


 リシアの足が止まった。


 その声は、黒譜術のものだった。


 けれど、同時にリシア自身の胸の奥を突いてきた。


 リシア。


 その名を呼ぶ人はいる。


 シルがいる。


 セレナがいる。


 旅で出会った人たちがいる。


 けれど、彼女が一番呼んでほしかった声は。


 アイシャ。


 その名を思い出した瞬間、リシアの胸が痛んだ。


 黒い譜面が、わずかに笑ったように揺れる。


 シルが鋭く鳴いた。


 ちいっ!


 その声で、リシアは我に返った。


「……大丈夫」


 リシアは小さく言った。


 誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。


 地上では、まだ村人たちが互いの名前を呼び合っている。


 その声を頼りに、リシアは階段を上った。


 夜はまだ深い。


 レクトの名前は戻っていない。


 名簿堂の下には、さらに深い黒譜術の根がある。


 けれど今夜、村は一つの忘れられた名前を呼んだ。


 リエナ。


 呼ばれなかった名前が、ようやく村の夜に灯った。


 それは小さな灯りだった。


 けれど、名前を失う闇の中で、確かに消えずに揺れていた。






ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、リシアが名守りの木の下にある名簿堂へ踏み込む回でした。


レムナ村で名前が失われていく原因。

それは、ただの忘却ではありませんでした。


かつて戦争の混乱の中で、名前を刻まれなかった小さな命。

母セフィアが呼びたかった、けれど村が呼ばなかった名前。


『リエナ』


その名がようやく呼ばれたことで、村に残っていた沈黙の一部がほどけ始めます。


けれど、すべてが解決したわけではありません。

ノアの父レクトは、まだ自分の名前を取り戻せていません。

そして名簿堂のさらに奥には、名前を奪う黒譜術こくふじゅつの根が残っています。


名前は、ただの文字ではありません。

誰かに呼ばれ、覚えられ、そこにいたことを確かめるための灯りです。


次話では、レクトの失われた名前と、名簿堂の奥に潜む黒譜術の正体へ、リシアがさらに踏み込んでいきます。

続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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