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名前を失う村編 12話 名を食む黒譜

夜明け前のレムナ村で、村人たちは互いの名前を呼び合っていた。

忘れられていた名、リエナ。

その名前を呼んだことで、村を覆う黒譜術の一部は弱まった。

けれど、レクトの名前はまだ戻っていない。

名簿堂のさらに奥には、名前を食む黒い譜面が根を張っている。

名前を失う闇の正体へ、リシアはもう一歩踏み込んでいく。

 夜明け前のレムナ村は、眠っていなかった。


 家々の窓には灯りが残り、広場の名守りの木の下には、まだ何人もの村人が集まっている。誰も大声では話さない。けれど、互いの名を確かめるような小さな声が、夜明けの冷たい空気に何度も落ちていた。


「セーラ」


「……うん。私はセーラ」


「マルク」


「ここにいる」


「ベル」


「大丈夫、覚えている」


 消えかけたものを、指先でなぞるような声だった。


 名守りの木に吊るされた木札は、まだ完全には戻っていない。いくつかの名前は薄く、夜露に濡れた墨のように頼りない。けれど昨夜のように、今にも白く消えてしまいそうな危うさは少しだけ収まっていた。


 リエナ。


 長い間、誰にも呼ばれなかった名前。


 その名を村長オルダが呼び、ミーナが呼び、ノアが呼び、レクトが呼んだことで、名簿堂を覆っていた黒譜術こくふじゅつの一部は弱まった。


 だが、解けたわけではない。


 むしろ、奥にあるものがようやく姿を現しただけだった。


 リシアは広場の端にある石段に腰を下ろし、夜明けの空を見上げていた。


 東の空が少しずつ白んでいる。山の稜線の向こうに淡い光が滲み、星が一つ、また一つと消えていく。


 膝の上では、シルが丸くなっていた。


 普段なら眠っていてもおかしくない時間だ。けれど、シルは眠っていなかった。金色の目を薄く開け、名守りの木の根元をじっと見ている。


 その下に、名簿堂がある。


 さらに、その奥に、昨夜現れたもう一つの階段がある。


 黒譜術の根。


 レクトの名前を奪っているもの。


 リシアは無意識に、歌詞帳を抱える手に力を込めていた。


 昨夜から何度も、あの声が胸の奥に残っている。


『では、お前の名は誰が呼ぶ』


 黒譜術の声。


 けれど、それは単なる敵意ではなかった。


 リシアの一番柔らかい傷を、正確に突いてきた言葉だった。


 自分の名を呼ぶ声。


 今のリシアには、シルがいる。セレナもいる。旅で出会った人たちも、リシアと呼んでくれた。


 それでも、心の奥で一番呼んでほしい声は、もう二度と届かないと思っている。


 アイシャ。


 その名を思い浮かべた瞬間、胸の奥が痛む。


 リシアは目を閉じた。


 だめだ。


 今は、自分の痛みに沈んではいけない。


 この村では名前が奪われている。レクトはまだ、自分の名を自分のものとして掴めていない。ノアも夜になると不安定になる。村人たちの名前も完全には戻っていない。


 リシアが揺らげば、歌も揺らぐ。


 シルが膝の上で身じろぎし、リシアの手の甲を前足で叩いた。


「……分かってる」


 リシアは小さく笑った。


「考え込みすぎだよね」


 ちい。


「うん。少し休む」


 そう言った直後、リシアのお腹が小さく鳴った。


 シルが顔を上げた。


 その目が、今の音を聞き逃さなかったと言っている。


「……違うよ」


 ちい。


「お腹が空いたわけじゃなくて」


 ちい。


「そんなに見ないで」


 シルは、やれやれというように尻尾を揺らし、リシアの鞄を前足で叩いた。昨日ルメルで買った焼き栗蜜菓子の残りが入っている。


「今?」


 シルは真剣な顔で頷いた。


 リシアは少し迷った末、紙袋を取り出した。


 残りは二つ。


 一つを半分に割り、片方をシルへ渡す。シルは当然のように受け取り、もう片方をリシアの手へ押し戻した。


「はいはい。半分こだね」


 口に入れると、蜂蜜の甘さが広がった。


 夜明け前の冷たい空気の中で、その甘さは思った以上に体へ染みた。


 リシアは息を吐く。


 世界が重い謎と痛みだけでできていたら、きっと人は立っていられない。


 半分こした焼き菓子。


 シルの小さな前足。


 誰かが名前を呼ぶ声。


 そういうものがあるから、痛みの奥へ進むことができる。


「ありがとう、シル」


 シルは蜜菓子をかじりながら、得意げに胸を張った。


 その時、広場の向こうからノアが歩いてきた。


 眠っていないのだろう。目元が少し赤く、手には父レクトに作ってもらった木の笛を握っている。


「リシアさん」


「ノアさん。少しは休めましたか」


 ノアは首を横に振った。


「眠るのが怖くて」


「名前を忘れそうだから?」


「うん」


 ノアはリシアの隣に座った。


 シルが少しだけ場所を空ける。ノアはその仕草を見て、ほんの少し笑った。


「シル、優しいね」


 シルはそっぽを向いた。


 褒められて照れたのだろう。


 リシアは紙袋から残りの蜜菓子を一つ取り出し、ノアへ差し出した。


「食べますか?」


「いいの?」


「はい。シルが全部食べる前に」


 シルが抗議するように鳴いた。


 ノアは小さく笑い、蜜菓子を受け取った。


「ありがとう」


 しばらく、三人は黙って朝の広場を見ていた。


 ノアは小さく菓子をかじったあと、ぽつりと言った。


「父さん、まだ戻らない」


「はい」


「母さんが何度も呼んでる。僕も呼んでる。でも、自分の名前だけ遠いって」


 リシアは頷いた。


 レクトはミーナやノアの名前を一時的に思い出した。父さんと呼ばれることにも反応した。木札職人としての手も残っている。


 それでも、自分自身の名だけが戻らない。


 それは黒譜術が最も深く食い込んでいる証だった。


「父さん、言ってた」


 ノアは手の中の笛を見る。


「自分の名前が遠いと、自分が立っている場所も遠くなるみたいだって。でも、僕の笛の音は少し分かるって」


「笛の音」


「うん。父さんが作ってくれた笛だから」


 ノアは笛を握りしめた。


「名前じゃなくても、届くものはあるのかな」


「あります」


 リシアはすぐに答えた。


「名前はとても大切です。でも、名前だけがその人へ届く道ではありません。声、匂い、手触り、音、思い出。いろいろなものが、その人を呼ぶ道になります」


「じゃあ、父さんの名前も、そういう道から戻れる?」


「可能性はあります」


 リシアは言葉を選んだ。


「ただ、黒譜術は名前そのものだけでなく、名前に繋がる思い出や痛みまで食べようとしているように見えます。だから、無理に引っ張れば傷が広がるかもしれません」


 ノアは黙った。


 幼い顔に、不安と焦りが浮かんでいる。


「でも、待ってるだけだと、父さんが遠くに行っちゃう気がする」


「はい」


「リシアさんも、そう思う?」


 リシアはノアの横顔を見た。


 正直に言えば、そう思う。


 時間をかけすぎれば、レクトの名前はさらに黒譜術に食われるかもしれない。


 けれど、焦って踏み込めば、レクト自身が壊れてしまうかもしれない。


 エマの時と同じだ。


 救いたいという気持ちが、相手を追い詰めることもある。


「思います」


 リシアは答えた。


「だから、今日もう一度、名簿堂の奥へ行きます」


 ノアが顔を上げた。


「僕も行く」


「それは」


「行く」


 ノアの声は震えていたが、はっきりしていた。


「父さんの名前のことだから。僕、怖いけど、行きたい」


 リシアはすぐには答えなかった。


 ノアを連れていくのは危険だ。


 黒譜術の根は、彼の名前にも干渉している。地下の奥へ行けば、またノアの名が薄れる可能性がある。


 だが、完全に遠ざければ、彼は何も選べない。


 リシアはノアの目を見る。


「行くなら、約束があります」


「何?」


「苦しくなったら、すぐ言うこと。名前が遠くなったら、笛を吹くこと。自分で歩けないと思ったら、引き返すこと」


 ノアは唇を噛んだ。


「途中で戻るのは、逃げること?」


「違います」


 リシアは首を横に振った。


「戻ると決めるのも、自分を守るための選択です」


 ノアは少し考え、それから頷いた。


「分かった」


 シルがノアの膝に前足を置いた。


 ちい。


「シルも来てくれる?」


 シルは当然だと言う顔をした。


 ノアは少しだけ笑った。


 夜が明けた後、村は一度だけ落ち着きを取り戻した。


 完全に安心したわけではない。だが、太陽が昇るにつれて、薄れていた名前の多くは少しずつ戻り始めた。


 名守りの木に吊るされた木札も、昼の光を浴びると文字の輪郭を取り戻していく。昨夜呼び続けた村人たちは、疲れた顔で互いを確認し合っていた。


 ただし、戻らないものもあった。


 レクトの名札。


 村長オルダが名簿堂から持ち帰った仮の木片には、リエナの名が刻まれていた。こちらは朝になっても消えていない。


 だが、レクト自身の名は、村の記録の中で薄いままだった。


 リシアは村長の家で、オルダ、ミーナ、レクト、ノアと向き合っていた。


 机の上には、レクトの名札と、リエナの木片、そして村の古い名簿の写しが置かれている。


 レクトは椅子に座り、手を膝の上で組んでいた。


 昨日より顔色は悪い。


 けれど、目は逃げていなかった。


「私は、下へ行く」


 彼は静かに言った。


 ミーナがすぐに顔を上げる。


「あなた、無理よ。昨日だって」


「分かっている」


 レクトは自分の胸に手を当てた。


「私の名は、まだ私の中で遠い。レクトと呼ばれると痛む。まるで、誰か別の人間の名を押しつけられているように感じる」


 ミーナの顔が悲しみに歪む。


 レクトは続けた。


「だが、ノアの名を削ろうとした手の感触は残っている。名札職人として、あれが何を意味するか分かる。黒譜術は、私の手を使って村の名を削ろうとしている」


 リシアは黙って聞いていた。


 その通りだと思った。


 レクトはこの村で多くの名を刻んできた職人だ。


 名守りの木の木札、家の名札、旅立つ者の札、死者の記録札。


 彼の手は、村の名前を形にしてきた。


 だからこそ、黒譜術は彼を深く侵した。


 名前を守る手を、名前を削る手へ変えるために。


「だから、私が行かなければならない」


 レクトは言った。


「自分の名を思い出すためだけではない。私の手を、取り戻すために」


 ノアが父を見つめる。


「父さん」


 レクトはその呼び方には反応した。


 苦しそうではあるが、温かいものも混じっている。


「ノア。お前は」


「僕も行く」


「駄目だ」


 即答だった。


 ノアは唇を噛む。


「でも」


「駄目だ。危険すぎる」


「父さんだって危険だよ」


「私は大人だ」


「名前を忘れるのに、大人も子どもも関係ないよ!」


 ノアの声が部屋に響いた。


 ミーナが息を呑む。


 レクトも言葉を失った。


 ノアは震えていた。


「僕、怖いよ。夜になって名前が遠くなるのも怖い。でも、父さんが僕を守るために遠くへ行って、そのまま戻らなくなる方がもっと怖い」


 レクトの手が震える。


「ノア……」


「僕は足手まといかもしれない。でも、父さんを呼ぶ声になれるなら、一緒に行きたい」


 リシアは、その言葉を聞きながら胸の奥が痛んだ。


 呼ぶ声。


 レクトの名が遠いなら、彼を呼び戻す道は名前だけではない。


 父さん。


 笛を作ってくれた人。


 木札を彫ってくれた手。


 それを一番知っているのは、ノアかもしれない。


 ミーナは目を伏せていた。


 そして、静かに言った。


「私も行きます」


 レクトが驚く。


「ミーナ」


「あなたの名前を呼ぶのは、私の役目でもあるでしょう」


「しかし」


「私も怖いわ」


 ミーナは震える声で言った。


「あなたが私の名前を思い出せなくなるかもしれない。ノアの名前を忘れるかもしれない。自分の名前が戻らないまま、どこかへ行ってしまうかもしれない。それが怖くてたまらない」


 彼女はレクトの手を握った。


「でも、呼ばずに待つだけはもう嫌。苦しませるかもしれなくても、私はあなたを呼びたい」


 レクトは何も言えなかった。


 リシアは三人を見つめる。


 危険だ。


 本当は、全員を連れていくべきではない。


 だが、この村の答えは、おそらくリシア一人が見つけるものではない。


 名前は、呼ばれて初めて震える。


 なら、レクトを呼ぶ者たちが必要だ。


 リシアはオルダを見た。


 村長は静かに頷いた。


「私も行く。村の名簿を預かる者として、最後まで見る」


 リシアは深く息を吸った。


「分かりました」


 全員の視線が集まる。


「ただし、下へ行く人数は絞ります。私、シル、レクトさん、ミーナさん、ノアさん、オルダさん。これ以上は危険です」


「警備の者は?」


 オルダが尋ねる。


「入口に待機してもらってください。黒譜術の影響下では、人数が多いほど心歌が乱れます。名前が欠けた心歌が重なると、私も支えきれません」


 オルダは頷いた。


「分かった」


 リシアはレクトへ向き直った。


「レクトさん」


 その名を呼んだ瞬間、レクトの眉がわずかに歪んだ。


 痛み。


 拒絶。


 リシアはすぐに言葉を柔らかくする。


「無理に返事をしなくて大丈夫です」


「……すまない」


「謝らなくていいです。今は、名前が痛みになっているだけです」


 レクトは静かに目を伏せた。


「名前が痛みになる、か」


「はい」


「なら、私はその痛みごと取り戻さなければならないのだな」


 リシアは答えなかった。


 それを決めるのは、レクト自身だ。


 ただ、レクトはすでに分かっているようだった。


 昼の間に、準備が進められた。


 村人たちは広場に集まり、名守りの木の下で互いの名前を確認する練習をした。練習という言い方は少し変だが、他に言葉がなかった。


 誰かの名が揺らいだ時、責めず、慌てず、そばで呼ぶ。


 自分の名が分からなくなった者には、名前だけでなく、その人との思い出を一つ添える。


「セーラ。昨日、パンを焼きすぎて隣に配ってくれたセーラ」


「ベル。羊を数えるのが誰より早いベル」


「マルク。転んだ子をすぐ助けるマルク」


 最初は照れくさそうだった村人たちも、次第に真剣になった。


 名前だけがその人を支えるのではない。


 その名前に結びついた記憶が、呼ぶ声を強くする。


 リシアはその様子を見ながら、歌詞帳に短く書き留めた。


『名は、記憶と声で編まれる』


 まだ歌詞にはならない。


 けれど、名の断章へ近づく言葉だった。


 夕刻。


 再び日が山の端へ沈み始める。


 村全体が緊張に包まれた。


 昨夜と同じように、鳥の声が消え、風が止まり、名守りの木に吊るされた木札がかすかに震え始める。


 リシアたちは木の根元に立っていた。


 入口の石板は、すでに開いている。


 地下へ続く階段から、冷たい空気が吹き上がっていた。


 ミーナはノアの手を握り、もう片方の手でレクトの袖を掴んでいる。レクトは自分の名札を胸に当てていた。薄れているが、まだ消えてはいない。


 オルダは古い名簿の写しを抱えている。


 シルはリシアの肩で身を低くしていた。


「行きましょう」


 リシアが言うと、全員が頷いた。


 階段を下りる。


 昨夜と同じ道。


 しかし、空気はさらに重かった。


 名簿堂へ入ると、昨日呼んだリエナの名は名簿に残っていた。中央の名簿の空欄だった場所に、まだ薄いが確かに『リエナ』と記されている。


 その名を見て、オルダが小さく頭を下げた。


「リエナ。今夜も、君の名を呼ばせてほしい」


 名簿堂の棚が、かすかに鳴った。


 返事のように。


 リシアは中央の石台の奥へ向かう。


 昨日現れた、さらに下へ続く階段。


 そこから黒い譜面が薄い霧のように漂っている。


 シルが低く鳴いた。


「ここから先が、本当の根ですね」


 オルダが喉を鳴らす。


「この下に何があるのか、私は知らない」


「村の記録にも?」


「ない」


 リシアはランタンを掲げた。


「なら、消された記録なのかもしれません」


 階段を下りる。


 こちらは名簿堂までの階段よりも古く、狭かった。壁は木ではなく黒い石でできている。ところどころに、削り取られた文字の痕があった。


 名前が彫られていたのだろうか。


 それとも番号か。


 リシアは壁に触れないように進む。


 下りるほど、心歌が薄くなっていった。


 普通なら、場所に残る残響が増えていくはずだ。


 しかしここには、逆に音がない。


 奪われた後の空洞だけがある。


 ノアが不安そうに笛を握った。


「リシアさん」


「はい」


「僕の名前、まだある?」


 リシアは彼を見る。


 心歌へそっと耳を澄ます。


『僕は、ノア』


『父さんを呼ぶ』


『でも、怖い』


 名前はまだある。


 少し揺れているが、消えてはいない。


「あります。ノアさんは、ここにいます」


 ノアはほっと息を吐いた。


 ミーナも小さく頷き、ノアの手を握り直した。


 レクトは黙っている。


 彼の心歌は、ほとんど聞こえなかった。


 ただ、時折、木を削る音のようなものが響く。


 しゃり。


 しゃり。


 それが、彼自身を繋ぎ止める唯一の音のようだった。


 階段の先には、低い天井の部屋があった。


 名簿堂とはまるで違う場所だった。


 祈りも温かさもない。


 壁には古い棚が並んでいるが、そこにあるのは木札ではなく、薄い金属板だった。金属板には文字が刻まれている。


 いや、名前ではない。


 番号。


 一、二、三。


 さらにその横に、出身地、年齢、状態を示す短い記号。


 リシアは息を呑んだ。


「これは……」


 オルダが震える手で一枚の金属板を取った。


「戦時中の避難者識別板だ」


「識別板?」


「名簿に書ききれないほど多くの避難民が来た時、一時的に番号で管理したと聞いたことがある。だが、現物が残っていたとは……」


 ミーナが顔を青くする。


「名前ではなく、番号で?」


「混乱していたのだ」


 オルダの声は苦しかった。


「名前が分からない者も多かった。意識がない者、幼い子、言葉の通じない者。まず数を把握し、食料を配り、病人を分けるために」


「必要だったんですね」


 リシアは言った。


 オルダがリシアを見る。


 リシアは金属板を見つめながら続けた。


「でも、必要だったことと、傷つかなかったことは別です」


 オルダは何も言えなかった。


 部屋の中央には、黒い箱のようなものが置かれていた。


 箱というより、古い記録台だろうか。


 その上に、一冊の黒い名簿が開かれている。


 黒い表紙。


 黒い紙。


 そこに白い文字が浮かんでいた。


 名前ではない。


 番号の列。


 その中に、いくつか名前らしきものが黒く塗り潰されている。


 シルが鋭く鳴いた。


 リシアはすぐに歌詞帳を開く。


 黒い名簿から、強い黒譜術の気配が流れ出していた。


「これが根です」


 声に出した瞬間、黒い名簿のページが勝手にめくれた。


 ばらばらと音を立て、やがて一つのページで止まる。


 そこには、薄い白文字で一つの名前があった。


『レクト・リント』


 レクトの体が大きく震えた。


 ミーナが彼を支える。


「あなた」


 黒い名簿の文字が滲む。


『レクト・リント』


 その名前の周りを、黒い譜面が食むように囲んでいた。


 リシアは理解した。


 レクトの名前は、完全に奪われたのではない。


 この黒い名簿に食われ続けている。


 だから、本人の中で遠いのだ。


 レクトは苦しげに自分の胸を押さえた。


「それが……私の名なのか」


 ノアが叫ぶ。


「そうだよ! 父さんはレクト! レクト・リント!」


 黒い名簿が震える。


 ページの端から黒い線が伸び、ノアの足元へ向かった。


 リシアはすぐに守護詩を歌おうとした。


 だが、それより早くシルが飛び出した。


 小さな銀色の体が黒い線の上へ跳び、前足で弾く。


 黒い線が一瞬散る。


「シル!」


 シルは床に着地し、威嚇するように尻尾を膨らませた。


 しかし黒い線はすぐに再生する。


 リシアは短い守護詩を重ねた。


 青い光がノアの周囲に薄く広がる。


 黒い線はその外側で止まった。


 だが、リシアの喉に痛みが走る。


 ここは黒譜術の中心だ。


 長く歌えば、確実に削られる。


 黒い名簿から声が響いた。


『名を呼ぶな』


『呼べば、失う』


『名を持つ者は、奪われる』


『名を持たぬ者は、失わない』


 ノアが震えた。


 ミーナが彼を抱き寄せる。


 オルダが前に出る。


「それは違う」


 黒い名簿の声が止まる。


「名を持たなかったリエナは、失わなかったのではない。呼ばれる機会を奪われたのだ」


 オルダは震える声で言った。


「我々の村が、それをした。だからこそ、今度は呼ばなければならない」


 黒い譜面が彼の足元へ伸びる。


 リシアは歌を強めようとした。


 だが、レクトが手を上げて制した。


「待ってくれ」


 リシアは驚いて振り返る。


 レクトは苦しそうだった。


 それでも、黒い名簿を見つめている。


「私は、あれに触れなければならない気がする」


「危険です」


「分かっている」


「名前をさらに奪われるかもしれません」


「それでも」


 レクトは手の中の名札を見た。


 薄くなった『レクト・リント』の文字。


「これは私の名だと、皆が言う。ミーナも、ノアも、村長も。だが、私自身だけが遠い」


 彼は静かに息を吐いた。


「自分の名が戻るのを、ただ待つだけでは駄目なのだろう。私は、自分が何を刻んできたのか見なければならない」


 リシアは言葉を失った。


 それは危険な選択だ。


 でも、レクト自身の選択でもある。


 エマの時と同じ。


 ノアの時と同じ。


 選ぶことを奪ってはいけない。


「分かりました」


 リシアは頷いた。


「ただし、私が歌で支えます。ミーナさん、ノアさん、レクトさんを呼び続けてください。名前だけでなく、思い出も」


 ミーナは涙をこらえて頷いた。


「はい」


 ノアも笛を握る。


「僕も」


 レクトは黒い名簿へ歩き出した。


 一歩。


 また一歩。


 黒い譜面が足元に絡みつく。


 リシアは歌う。


 レクトを前へ進ませる歌ではない。


 彼が自分で選んだ足を、黒譜術に奪わせないための歌。


 ミーナが呼ぶ。


「レクト。あなたは、私の夫。ノアの父親。初めて私に木の櫛を作ってくれた人」


 黒い名簿が震える。


 ノアが続く。


「父さん。僕の笛を作ってくれた人。下手でも笑わずに、指の置き方を教えてくれた人」


 レクトの足が止まりかける。


 だが、また進む。


 オルダも言った。


「レクト。村の名札を守ってきた職人。旅立つ者の名も、亡くなった者の名も、丁寧に刻んできた手の持ち主」


 レクトの目から涙が落ちた。


「それは……私なのか」


 ミーナが答える。


「そうよ」


 ノアも。


「父さんだよ」


 レクトは黒い名簿の前に立った。


 そして、震える手を伸ばす。


 指先が黒いページに触れた瞬間、部屋のすべての音が消えた。


 リシアの歌も。


 ミーナの呼び声も。


 ノアの息も。


 シルの鳴き声も。


 完全な無音。


 その中で、リシアは見た。


 残響歌が、強制的に開かれる。


 戦時中の名簿堂。


 避難民で溢れた広場。


 泣く子ども。


 傷ついた兵士。


 名前を叫ぶ母親。


 返事のない父親。


 記録係が叫ぶ。


『名前が分からない者は番号で!』


『次!』


『生存確認!』


『死亡者は別名簿へ!』


 人を救うための作業。


 だが、そこでは名前が次々と記号に置き換わっていく。


 必要だから。


 時間がないから。


 混乱を抑えるためだから。


 その中に、若い記録係の姿がある。


 オルダの祖父だろうか。


 彼は疲れ切った顔で、セフィアの申し出を聞いている。


『この子の名を……』


『七日を越えてからです』


 違う。


 彼は悪意で拒んだのではない。


 自分も泣きそうな顔をしていた。


 でも、規則を守った。


 規則に縋らなければ、壊れてしまいそうだった。


 残響が変わる。


 もっと後の時代。


 幼いレクトが名簿堂で木札を見ている。


 父らしき職人が言う。


『名札は、丁寧に彫れ。名前はその人そのものではないが、その人へ帰る道になる』


 幼いレクトは頷く。


 そして、大人になったレクトが名札を彫る。


 村人たちの名前。


 ノアの名前。


 旅立つ者の名前。


 死者の名前。


 その手は優しい。


 けれど、ある日。


 彼は名簿堂の奥で、黒い名簿を見つけた。


 黒い外套の人物が立っている。


 顔は見えない。


 声だけが響く。


『あなたは名を刻む者』


『なら、知っているはずです』


『名を刻むほど、失った時の痛みは深くなる』


 レクトは抵抗する。


『名前は、人を繋ぐものだ』


『繋がるから、引き裂かれる』


 黒い外套の人物は、黒い名簿を開く。


『この村には、呼ばれなかった名がある。名を与えられず、名簿から外され、誰にも呼ばれず眠った名がある』


 リエナ。


 その名が、黒いページに浮かぶ。


『名は救いですか。それとも呪いですか』


 レクトの心が揺れる。


 彼は名札職人だ。


 名前を大切にしてきた。


 だからこそ、呼ばれなかったリエナの痛みが深く刺さった。


 その迷いに、黒譜術が入り込んだ。


『名を奪えば、失う痛みも奪える』


 レクトが首を横に振る。


 だが、黒い譜面が彼の手に絡みつく。


『あなたの手なら、名を削れる』


 残響が弾けた。


 リシアは現実に戻った。


 レクトは黒い名簿に手を置いたまま、膝をついていた。


 黒い譜面が彼の腕に絡みついている。


 ミーナが叫ぶ。


「レクト!」


 ノアも叫ぶ。


「父さん!」


 レクトは苦しげに顔を上げた。


 その目には、ようやく自分の名前へ戻ろうとする光と、黒譜術に食われる闇が同時にあった。


「ミーナ……ノア……」


 名前が出た。


 だが、自分の名はまだ言えない。


 黒い名簿がさらに開く。


 ページに、次々と名前が浮かぶ。


『ノア・リント』


『ミーナ・リント』


『オルダ』


 そして。


『リシア・フェルミナ』


 リシアの心臓が跳ねた。


 なぜ、自分の名が。


 黒い譜面がリシアへ伸びる。


 歌詞帳が強く震える。


 シルが鋭く鳴いた。


 黒い名簿から声が響く。


『お前も名を持つ』


『呼ばれたい名がある』


『呼ばれなかった名もある』


 リシアの脳裏に、アイシャの声がよぎる。


『リシア』


 明るく、笑う声。


『リシアの歌、私は好きだよ』


 やめて。


 今、聞かせないで。


 黒い譜面がリシアの足元へ絡む。


 リシアは自分の名を心の中で唱えようとした。


 リシア。


 リシア。


 だが、黒い名簿に書かれた文字が揺らぐ。


『リ■■・・フ■■ミナ』


 自分の名前が欠ける。


 リシアの息が止まった。


 ここで自分の名を見失えば、歌が崩れる。


 レクトを支えるどころではない。


 ミーナとノアの声も遠ざかる。


 その時、シルがリシアの胸元へ飛びついた。


 小さな前足で、歌術隊の徽章を叩く。


 ちいっ!


 鋭い声。


 それから、もう一度。


 ちいっ!


 まるで呼んでいるようだった。


 名前ではない。


 でも、リシアを呼ぶ音。


 シルだけの呼び方。


 リシアははっと息を吸った。


「……私は、リシア」


 声に出す。


「リシア・フェルミナ」


 黒い譜面が揺れる。


「旅の歌魔術師。シルの相棒」


 シルが強く鳴いた。


 ちい!


 その声が、リシアの名を支える。


 リシアは歌詞帳を開いた。


 ページに浮かぶ文字は、まだ不安定だ。


 けれど、歌える。


 今なら。


 リシアは声を絞り出した。


『名は、ひとりで持つものじゃない。

 呼ぶ声があり、応える息があり、

 その間に、私は立っている。』


 青い光が広がる。


 黒い譜面が一歩退く。


 完全ではない。


 だが、レクトを包んでいた黒い線がわずかに緩んだ。


「今です!」


 リシアは叫んだ。


「呼んでください!」


 ミーナが泣きながら叫ぶ。


「レクト!」


 ノアも。


「父さん! レクト・リント!」


 オルダも。


「レクト! 名札職人レクト・リント!」


 声が重なる。


 しかし、黒い名簿は最後の抵抗を始めた。


 ページに浮かんだレクトの名が、黒く塗り潰されていく。


 レクトの口が動く。


「私は……」


 言えない。


 自分の名が出てこない。


 リシアは歌を強めようとした。


 だが、その時、レクトがリシアを見た。


 苦しそうに、しかしはっきりと首を横に振った。


「まだ……私の代わりに、呼ばないでくれ」


 リシアは歌を止めかける。


「でも」


「私が……言う」


 レクトは黒い名簿に手を置いたまま、震える声で続けた。


「痛くても……私が、自分で言う」


 リシアは喉まで出かけた歌を飲み込んだ。


 彼の選択だ。


 ここでリシアが歌で押し上げれば、戻るかもしれない。


 でも、それはレクト自身の名ではなくなる。


 レクトは目を閉じた。


 ミーナが呼ぶ。


「レクト」


 ノアが泣きながら呼ぶ。


「父さん。レクト」


 オルダが呼ぶ。


「レクト・リント」


 リシアは歌を支えに変える。


 押さない。


 引かない。


 ただ、レクトが自分の名を掴むまで、その場を守る。


 シルも黒い名簿の前に立ち、尻尾を膨らませている。


 レクトの唇が震える。


「レ……」


 黒い譜面が腕に食い込む。


 レクトは苦悶の声を漏らす。


 ミーナが駆け寄ろうとするが、リシアが手で制した。


 今は、彼自身が越えようとしている。


「レク……」


 ノアが笛を吹いた。


 ぴい。


 頼りない音。


 けれど、レクトがかつて作った笛の音。


 その音を聞いた瞬間、レクトの目に光が戻る。


 彼は涙を流しながら、ようやく言った。


「レクト」


 黒い名簿が大きく震えた。


「私は、レクト・リント」


 その瞬間、黒い名簿に浮かんでいた『レクト・リント』の文字が白く光った。


 だが、次の瞬間。


 名簿の奥から、黒い手のようなものが伸びた。


 レクトの名だけではない。


 ノア、ミーナ、オルダ、リシア。


 部屋にいる全員の名前へ、黒い譜面が一斉に食らいつく。


 リシアは咄嗟に守護詩を広げる。


 しかし、黒譜術の勢いが強すぎる。


 レクトが自分の名を取り戻したことで、黒い名簿の核が露出したのだ。


 ここからが本当の対決。


 黒い名簿のページがめくれ続ける。


 そこに、数えきれないほどの名前と番号が浮かんでは消える。


 呼ばれなかった者。


 番号にされた者。


 戦争の混乱で記録だけになった者。


 失われた名の残響が、黒譜術に食われ、怪物のように膨らんでいる。


 リシアの歌詞帳が強く光った。


 ページに文字が浮かぶ。


『名を食む黒譜』


 その下に、もう一行。


『呼ぶだけでは足りない。

 呼ばれた痛みごと、受け止める声がいる。』


 リシアは息を呑んだ。


 歌うべき歌の形が、少しだけ見えた。


 名前を返す歌ではない。


 呼ばれた名が持つ喜びも痛みも、村全体で受け止めるための歌。


 だが、今はまだ足りない。


 地上の村人たちの声が必要だ。


 名守りの木に吊るされたすべての木札。


 村に刻まれた名前。


 呼ぶ者と呼ばれる者。


 その全てが必要になる。


 黒い譜面が部屋を包む。


 リシアは全力で守護詩を張りながら叫んだ。


「地上へ戻ります!」


 ベクトが立ち上がる。


 今度は、自分の足で。


「分かった」


 その声には、さっきまでとは違う芯があった。


 ミーナが涙を拭いながら頷く。


 ノアは笛を握りしめる。


 オルダは黒い名簿を見つめ、震える声で言った。


「これは、村全体で向き合うべきものだ」


「はい」


 リシアは頷いた。


「次の夜が来る前に、村の人たち全員へ伝えてください。名前を呼ぶだけではなく、その名前に繋がる記憶も一緒に呼ぶ必要があります」


「分かった」


「そして、リエナの名も」


 オルダははっとする。


「村全体で呼ばなければなりません」


 オルダは深く頷いた。


「必ず」


 リシアたちは階段へ向かった。


 背後では黒い名簿が音を立ててめくれ続けている。


 そのページから、黒い声が追いかけてきた。


『名を返せば、別れも返る』


『呼べば、失う痛みも戻る』


『それでも呼ぶのか』


 リシアは振り返らずに答えた。


「それでも、呼びます」


 声は震えていた。


 けれど、逃げなかった。


「失う痛みを消すために、出会った喜びまで奪わせない」


 黒い譜面が一瞬、静まった。


 その沈黙の奥で、誰かが小さく笑った気がした。


 黒譜の民の術者か。


 名を食む黒譜そのものか。


 それとも、もっと別の誰かか。


 分からない。


 地上へ戻る頃には、夜は深くなっていた。


 名守りの木の下では、村人たちが不安げに待っていた。木札の名前はまた薄れ始めている。


 だが、リシアたちが戻ると、最初にノアが声を上げた。


「父さんの名前、戻った!」


 村人たちがざわめく。


 レクトは少し照れたように、しかし確かに言った。


「私は、レクト・リントだ」


 その名が広場に落ちた瞬間、名守りの木が大きく揺れた。


 レクトの木札の文字が濃くなる。


 村人たちの間に、安堵の波が広がる。


 けれど、リシアは知っている。


 まだ終わっていない。


 黒い名簿は、むしろ本当の姿を現した。


 次に失われるのは、レクト一人の名ではない。


 村全体の名前だ。


 リシアは広場の中央へ進み、村人たちへ向き合った。


「皆さん。聞いてください」


 村人たちが静まる。


 リシアは歌詞帳を胸に抱え、ゆっくりと言った。


「黒譜術の核は、まだ地下にあります。次の夜、皆さんの名前は今まで以上に強く揺らぐかもしれません」


 不安が広がる。


 しかし、リシアは続けた。


「でも、ただ怖がって待つ必要はありません。名前は一人で守るものではありません。誰かが呼ぶ声と、その名前に繋がる記憶が必要です」


 オルダが前へ出た。


「そして、我々の村には呼ばなければならない名がある」


 彼は村人たちを見回した。


「リエナ」


 その名を聞いて、村人たちは戸惑う。


 知らない名だ。


 長く記録されなかった名。


 しかし、オルダは続けた。


「かつてこの村で生まれ、名を刻まれなかった子の名だ。村はその名を呼ばなかった。その沈黙が、黒譜術に利用されている」


 村人たちが息を呑む。


 レクトが木片を掲げた。


「この名を、今度こそ木札に刻む。そして村全体で呼ぶ」


 ノアが声を張った。


「リエナも、この村にいたんだ!」


 その言葉に、名守りの木の木札が小さく鳴った。


 風もないのに。


 リシアは空を見上げた。


 星が出ている。


 その中の七つの星が、ほんのわずかに歌詞帳の中の栞と響き合った気がした。


 名の断章は、まだ完成していない。


 けれど、形は見えてきた。


 名前は、ただ取り戻すものではない。


 呼ばれる喜びと、失う痛みの両方を抱えながら、それでも誰かと繋がるための灯。


 次の夜。


 この村は、それを選べるだろうか。


 リシアは胸の奥で、自分の名をそっと呼んだ。


 リシア。


 すると肩の上で、シルが小さく鳴いた。


 ちい。


 名前ではない。


 でも、確かにリシアを呼ぶ音だった。


 リシアは微笑む。


「ありがとう」


 夜のレムナ村で、名守りの木が静かに揺れている。


 その根の下で、黒い名簿はまだ開いている。


 名を食む黒譜は、次の夜を待っていた。




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