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名前を失う村編 13話 あなたを呼ぶ歌

レクトの名は戻った。

けれど、黒い名簿はまだ村の根に残っている。

名を守る村でありながら、呼ばれなかった名があった。

その痛みを黒譜術に利用されたレムナ村は、次の夜を前に一つの選択を迫られる。

名前は、一人では守れない。


呼ぶ声。

呼ばれる声。

そして、今度こそ迎え入れる声。


リシアは村人たちと共に、失われかけた名前へ歌を届けようとする。


 翌日のレムナ村は、朝から静かな熱を帯びていた。


 騒がしいわけではない。


 誰も浮かれてはいない。


 けれど、昨日までのように、ただ夜を恐れて身を固くしているだけでもなかった。


 名守りの木の下には、朝早くから村人たちが集まっていた。老人も、子どもも、畑仕事の途中で手を止めた者も、羊飼いも、鍛冶屋も、パン焼きの女も、それぞれが自分の木札や家族の木札を見上げている。


 昨夜、リシアたちが地下から戻ったあと、村長オルダは村人たちへすべてを話した。


 戦争中、この村に身重の避難民セフィアがいたこと。


 セフィアが産んだ子に名前をつけようとしていたこと。


 けれど、古い決まりと混乱の中で、その名が正式に刻まれなかったこと。


 その名が、リエナであったこと。


 そして、呼ばれなかった名前の痛みが黒譜術こくふじゅつに利用され、今、村中の名前を揺るがしていること。


 話を聞いた村人たちは、すぐには何も言えなかった。


 何十年も前のことだ。


 その場にいた者は、ほとんど残っていない。


 今を生きる村人たちが直接責められる話ではない。


 それでも、その沈黙はこの村の中に残っていた。


 名を守る村でありながら、呼ばれなかった名がある。


 その事実は、村人たちの胸に重く落ちた。


 リシアは名守りの木の少し離れた場所で、その様子を見ていた。


 胸元には歌詞帳。


 肩にはシル。


 シルは昨夜からほとんど眠っていないはずなのに、いつものように欠伸もしない。名守りの木の根元と、村人たちの顔を交互に見ている。


 リシアは小さく声をかけた。


「シル、眠くない?」


 シルは首を横に振るように尻尾を揺らした。


「そう。……でも、終わったら少し休もうね」


 ちい。


 返事は短い。


 リシアはシルの頭をそっと撫でた。


 今夜が、すべての分かれ目になる。


 黒い名簿は、次の夜を待っている。


 名を食む黒譜。


 名前そのものだけでなく、名前に結びついた記憶や別れの痛みまでも食らおうとする黒譜術。


 レクトは自分の名を取り戻した。


 だが、それによって黒い名簿の核が露出した。


 次の夜、黒譜術は村全体の名前へ手を伸ばす。


 リシア一人の歌では、きっと足りない。


 必要なのは、村全体の声だ。


 誰かを呼ぶ声。


 呼ばれる声。


 呼ばれなかった名を、今度こそ村の中へ迎え入れる声。


 リシアは歌詞帳を開いた。


 名の断章のページには、まだ未完成の言葉が並んでいる。


『名は、呼ばれて初めて震える。


 けれど、呼ぶ声が遅れても、


 そこにいた事実は消えない。』


『名は、ひとりで持つものじゃない。


 呼ぶ声があり、応える息があり、


 その間に、私は立っている。』


『呼ぶだけでは足りない。


 呼ばれた痛みごと、受け止める声がいる。』


 どれも断片だ。


 まだ歌にはなっていない。


 リシアは指先でページをなぞった。


 名前を返すだけでは足りない。


 名前には、喜びも痛みもある。


 呼ばれることは、自分がここにいると確かめられる温かさだ。


 同時に、失った時の痛みを生む。


 だから黒譜術は囁く。


 呼ばなければ、失わずに済む。


 忘れれば、悲しまなくて済む。


 リシアは、その言葉を完全に否定しきれない自分を感じていた。


 だって、呼ぶほどに失う痛みは深くなる。


 アイシャ。


 心の奥で、その名が揺れる。


 呼びたくても返事のない名前。


 もう戻らないと思っている名前。


 その痛みは、今もリシアの中にある。


 忘れられたら楽になるのだろうか。


 呼ばなければ、痛みは薄れるのだろうか。


 そんな弱い考えが、一瞬だけ胸をよぎる。


 けれど、すぐにシルがリシアの頬を前足で叩いた。


 ぺし。


「……痛い」


 ちい。


「今、考えすぎって言った?」


 シルは当然だという顔をしている。


 リシアは苦笑した。


「ありがとう」


 シルは胸を張った。


 名前ではない。


 けれど、シルの声は確かにリシアを呼び戻してくれる。


 誰かを呼ぶ方法は、名前だけではない。


 でも、名前を失っていい理由にもならない。


 リシアは歌詞帳を閉じ、名守りの木へ近づいた。


 木の根元では、レクトが新しい木札を彫っていた。


 まだ本調子ではない。


 顔色も悪い。


 だが、その手は確かだった。


 薄い木片を丁寧に削り、焦げ跡の残る古い木片の文字を見ながら、新しい札へ同じ名を刻んでいく。


『リエナ』


 一文字ずつ。


 ゆっくりと。


 その横で、ノアがじっと父の手を見ていた。


 ミーナも傍らにいる。


 家族三人の間には、昨夜までとは違う空気があった。


 完全に元通りになったわけではない。


 レクトはまだ時折、自分の名を呼ばれると胸を押さえる。痛みは残っているのだろう。


 けれど、逃げない。


 ミーナも、ノアも、呼ぶことを諦めない。


 その姿が、名守りの木の下で小さな灯りのように見えた。


「レクトさん」


 リシアが声をかけると、レクトは顔を上げた。


 少しだけ眉が揺れる。


 まだ名前に痛みがある。


 それでも彼は、穏やかに返事をした。


「ああ、リシアさん」


「具合はどうですか」


「正直に言えば、よくはない」


 レクトは苦く笑った。


「自分の名を取り戻したはずなのに、時々、自分の体に馴染まない服を着ているような感覚になる」


「無理をしなくても」


「いや」


 レクトは首を横に振り、木札へ視線を戻した。


「これは私が彫りたい」


 その声に迷いはなかった。


「リエナの名は、本来ならこの村の誰かが刻むべきだった。なら、今この村で名札を彫る私が刻く。遅すぎるとしても」


 ノアが父の横で言った。


「父さん、さっきより字がきれいになってる」


「そうか?」


「うん。昨日の父さんの字より、父さんっぽい」


 レクトは一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。


「父さんっぽい、か」


「うん」


 ノアは真剣な顔で頷いた。


「僕、その字、好き」


 レクトの手が一瞬止まった。


 そして、もう一度丁寧に刃を入れる。


「なら、しっかり彫らないとな」


 ミーナが目元を押さえた。


 リシアはその光景を見ながら、胸が温かくなるのを感じた。


 名前は、文字だけではない。


 その人の字。


 手の動き。


 誰かが覚えている癖。


 呼び方。


 それらが重なって、名前へ続く道になる。


 レクトが最後の線を彫り終えた。


 木札には、はっきりと名前が刻まれている。


『リエナ』


 村長オルダが、木札を受け取った。


 白髪の老人は、その小さな札を両手で抱えるように持った。


「今夜、日が落ちたら、名守りの木に吊るす」


 オルダは村人たちへ向き直った。


「そして、皆でこの名を呼ぶ。リエナは、この村にいた。たとえ遅れても、我々はその名を記す」


 村人たちの間に、静かなざわめきが広がった。


 誰も軽々しく頷けない。


 それで救われると、簡単に言える者はいない。


 けれど、目を逸らす者も少なかった。


 リシアはその様子を見て、少しだけ安心する。


 夜までに、村人たちは準備を続けた。


 リシアは一人一人に、自分や家族の名前に繋がる記憶を思い出してもらった。


 ただ名前を呼ぶだけではない。


 その名に結びつく小さな記憶を一つ添える。


 たとえば、セーラという女性なら、毎年春に花の形のパンを焼くこと。


 マルクという青年なら、子どもの頃に羊を追いかけて泥だらけになったこと。


 ベルという羊飼いなら、迷子の子羊に全部名前をつけてしまう癖があること。


 オルダなら、昔から説教が長いが、誰よりも村の記録を丁寧に守ってきたこと。


 村人たちは、最初は照れていた。


「そんなことまで言うのか」


「名前だけでいいんじゃないか」


「恥ずかしいよ」


 けれど、リシアは首を横に振った。


「名前だけが消えかけた時、記憶が道になります」


 その言葉を聞いて、村人たちは少しずつ互いのことを話し始めた。


「セーラ、お前のパンは焦げてもなぜかうまい」


「余計なことまで言わなくていいでしょう!」


「マルクは昔、好きな子の前で転んで大泣きしたな」


「それは今言うことじゃない!」


「ベルは羊より羊の名前を覚える方が早い」


「それは褒めてるのかい?」


 緊張の中に、小さな笑いが生まれる。


 その笑いは、戦いの準備としては頼りないものに見えるかもしれない。


 けれどリシアには、それが大切に思えた。


 名前は、荘厳な祈りだけで支えられているわけではない。


 日常の中の笑い。


 癖。


 失敗。


 誰かが覚えていてくれる些細なこと。


 そういうものもまた、名前を温めている。


 リシアは歌詞帳の余白に小さく書き足した。


『名は、祈りだけでなく、日々の笑いにも宿る』


 シルはその横で、村の子どもたちから木の実をもらっていた。


 ただし、リシアの目があるため、勝手に食べずに一度こちらを見る。


「一つだけだよ」


 ちい。


「一つ」


 シルは木の実を一つ受け取って食べた。


 すぐに二つ目へ手を伸ばす。


「シル」


 シルは動きを止めた。


 子どもたちが笑う。


「シルも名前あるよね」


「シル!」


「シル、食べすぎ!」


 子どもたちが口々に呼ぶ。


 シルは不満そうにしながらも、どこか得意げだった。


 リシアは思わず笑った。


 この村に来た時、名前は消えかける怖いものだった。


 けれど今は、子どもたちがシルの名を楽しそうに呼んでいる。


 それだけでも、少しだけ村の空気が変わった気がした。


 やがて、夕暮れが近づいた。


 空が赤く染まり、山の影が村へ伸びてくる。


 名守りの木の下に、村人たちが集まった。


 昨日より多い。


 ほとんど全員と言っていい。


 家で休んでいる病人のそばにも、家族が残り、名前を呼ぶ準備をしているという。


 名守りの木の枝には、これまでの木札が吊るされている。


 その中に、新しい木札が一枚加えられた。


 リエナ。


 レクトが彫った新しい名札。


 オルダがその札を枝に結ぶ。


 村人たちは静かに見守っていた。


 オルダは結び終えると、深く息を吸った。


「リエナ」


 最初に村長が呼んだ。


「遅くなった。だが、君の名をここに刻む」


 風が吹いた。


 木札が揺れる。


 まだ何も起きない。


 続いて、ミーナが呼んだ。


「リエナ」


 ノアも。


「リエナ」


 レクトが、木札を見上げて言った。


「リエナ。君の名を、私は彫った」


 その声に、木札が淡く光った。


 村人たちがざわめく。


 リシアは歌詞帳を開く。


 名の断章のページが、青白く輝いていた。


 日が沈む。


 山の端に最後の光が消えた瞬間、村の空気が変わった。


 昨日と同じ。


 いや、昨日より強い。


 風が止まり、鳥の声が消え、地面の下から冷たい気配が吹き上がってくる。


 名守りの木の根元に、黒い譜面が浮かんだ。


 それは昨夜よりも太く、濃い。


 名簿堂の地下にあった黒い名簿の気配が、地上まで上がってきている。


 木札が一斉に震えた。


 名前の文字が薄れ始める。


 村人たちの間に恐怖が走った。


 しかし、今夜は誰もすぐには逃げなかった。


 オルダが声を張る。


「呼べ!」


 その一言を合図に、村中で名前が呼ばれ始めた。


「セーラ!」


「マルク!」


「ベル!」


「ノア!」


「ミーナ!」


「レクト!」


「オルダ!」


 声が重なる。


 黒い譜面がその声を食おうと広がる。


 リシアは歌い出さなかった。


 まだ。


 まずは村人たち自身の声が必要だった。


 黒譜術はすぐに反撃する。


 木札の名前がさらに薄くなる。


 村人の一人が自分の名を言えなくなり、膝をついた。


「私は……私は……」


 隣の女性がすぐに叫ぶ。


「ベル! あなたはベル! 羊に全部名前をつけるベル!」


 周囲の人たちも続く。


「ベル、去年の春に迷子の子羊を背負って帰ってきた!」


「ベル、歌は下手だけど羊には好かれる!」


 ベルという羊飼いの女性は、涙を流しながら顔を上げた。


「……ベル」


 その名が戻る。


 別の場所で、青年が混乱する。


「俺は、誰を呼んで……」


 友人が肩を掴む。


「マルク! お前はマルク! 昔、好きな子の前で転んで泣いたマルク!」


「それを今言うな!」


 マルクは反射的に叫んだ。


 その瞬間、自分の名を思い出したように目を見開く。


 村人たちの間に、小さな笑いと涙が混ざる。


 リシアはその光景を見て、胸が熱くなった。


 名前は、記憶と声で編まれる。


 まさに今、村人たちは互いを編み直している。


 だが、黒い譜面はさらに強くなった。


 名守りの木の根元から、黒い名簿の影が浮かび上がる。


 実体ではない。


 地下にある核の影だ。


 黒いページが開き、そこに村人たちの名前が浮かんでは消える。


 その中心に、白く浮かぶ一つの名。


『リエナ』


 黒い譜面が、その名前へ食らいつく。


 リシアは息を呑んだ。


 リエナの名が消えれば、村人たちの呼ぶ声は崩れる。


 この村が呼ばなかった名を、再び失うことになる。


 オルダが叫んだ。


「リエナ!」


 ミーナが続く。


「リエナ!」


 ノアも。


「リエナ!」


 だが、黒い名簿の声が響いた。


『その名を呼ぶ者は、誰だ』


『血の繋がりもない』


『記憶もない』


『遅すぎる』


『今さら呼んで、何になる』


 村人たちの声が揺らぐ。


 当然だ。


 彼らはリエナを知らない。


 会ったこともない。


 声も、顔も、笑い方も知らない。


 それでも呼ぶことに意味があるのか。


 黒い声は、そこを突いてくる。


 リシアの胸にも迷いが生まれる。


 知らない名前を呼ぶこと。


 それは本当に、その人を大切にすることになるのか。


 それとも、村の罪悪感を軽くするための行為に過ぎないのか。


 黒い声がリシアにも囁く。


『お前も同じだ』


『会ったことのない痛みを歌にする』


『呼べば救った気になれる』


『美しい歌詞に変えれば、悲しみは役に立ったと思える』


 リシアの喉が詰まった。


 痛いところを突かれている。


 リエナの顔を、リシアは知らない。


 セフィアの最期も、残響で少し見ただけだ。


 その痛みを、自分の歌にしていいのか。


 迷いが歌詞帳の光を弱める。


 シルが肩の上で鋭く鳴いた。


 ちいっ!


 その声で、リシアは現実へ引き戻される。


 違う。


 歌にすることが目的ではない。


 救った気になるためでもない。


 今ここで必要なのは、リエナを美しい物語に変えることではない。


 呼ばれなかった名を、今度こそ空白に戻さないこと。


 リシアは息を吸った。


 まだ歌わない。


 まず、村が答えるべきだ。


 その時、ノアが前へ出た。


 小さな笛を握りしめ、黒い名簿の影を睨む。


「僕は、リエナを知らない!」


 村人たちがノアを見る。


 ノアは震えていた。


 怖いのだ。


 それでも、叫んだ。


「知らないよ! 顔も知らないし、声も知らない! でも、僕は夜に自分の名前が遠くなって、呼ばれないのが怖かった!」


 黒い名簿が揺れる。


「だから、知らないままで呼ぶ! 知らなかったから、これから覚えるために呼ぶ!」


 ノアの声が広場に響いた。


「リエナ!」


 木札が強く光った。


 その光に、ミーナが続く。


「リエナ。私はあなたのお母さんにはなれない。でも、子を持つ母として、セフィアさんがあなたを呼びたかった気持ちを忘れない」


 レクトが声を震わせる。


「リエナ。私はあなたの父ではない。だが、名札職人として、君の名を刻んだ。これからもこの木札を直し続ける」


 オルダが言う。


「リエナ。私は、君を呼ばなかった村の村長だ。だからこそ、これから毎年、名守りの日に君の名を呼ぶ」


 白髪の老婆が一歩前へ出た。


 リシアは初めて見る人だった。


 老婆は杖をつきながら、震える声で言った。


「私は、セフィアさんを覚えている」


 広場が静まる。


 オルダが驚いたように振り返る。


「ヤーナ婆さん……?」


 老婆は頷いた。


「子どもだったから、はっきりとは覚えていない。でも、南の言葉で子守歌を歌っていた女の人がいた。雨の日だった。赤ん坊を抱いて、ずっと何かを呼ぼうとしていた」


 老婆の目に涙が浮かぶ。


「私は怖くて近づかなかった。母に、見てはいけないと言われた。ずっと忘れていた。でも今、思い出したよ」


 老婆は木札を見上げる。


「リエナ。セフィアさんは、あなたを呼びたがっていた。私はそれを聞いていたのに、誰にも言わなかった。ごめんね」


 その謝罪に、リエナの木札がかすかに震えた。


 黒い名簿の影が、大きく歪む。


 村人たちの中から、次々と声が上がった。


「リエナ」


「知らなかった。でも、これから覚える」


「リエナ」


「この村にいた子」


「リエナ」


「セフィアさんの子」


「リエナ」


「名守りの木に刻まれた名前」


 声が増えていく。


 知らない名前を、知ろうとする声。


 遅すぎる呼びかけを、それでも始めようとする声。


 黒い名簿の声が怒りのように響いた。


『遅い』


『失われたものは戻らない』


『呼んでも、母は帰らない』


『子は育たない』


『名を刻んでも、死は消えない』


 リシアは、今度こそ前へ出た。


「その通りです」


 村人たちがリシアを見る。


 リシアは黒い名簿の影を見据えた。


「呼んでも、セフィアさんは帰りません。リエナさんが生き返るわけでもありません。失われた時間も戻りません」


 言葉は残酷だった。


 けれど、避けてはいけない。


「でも、戻らないから呼ばないのではなく、戻らないからこそ呼ぶんです」


 リシアは歌詞帳を開いた。


 名の断章のページが、強く光る。


「名前は、死を消すためのものではありません。悲しみをなかったことにするためのものでもありません」


 リシアの声が、少し震える。


 アイシャの名が胸の奥で疼く。


 それでも、言う。


「そこにいたことを、忘れないための灯です」


 黒い譜面がリシアへ伸びる。


 ページに、リシアの名が浮かぶ。


『リシア・フェルミナ』


 その横に、別の名前がぼんやりと現れかけた。


 アイシャ。


 リシアの息が止まる。


 黒い声が囁く。


『呼べば、痛む』


『呼ばなければ、少しずつ薄れる』


『忘れれば、楽になれる』


 リシアは目を閉じた。


 楽になれるのかもしれない。


 アイシャの名を呼ばなければ。


 思い出さなければ。


 歌で戦場へ向かったのかもしれないあの背中を、見なくて済むのかもしれない。


 けれど。


 忘れたくない。


 痛くても。


 リシアは目を開けた。


「私は、忘れません」


 声は小さかった。


 けれど、はっきりしていた。


「呼ぶと痛い名前があります。それでも、私は呼び続けます」


 シルが肩の上で鳴いた。


 ちい。


 その声が、リシアの背中を支える。


 リシアは歌い始めた。


 今度は、彼女一人の歌ではない。


 村人たちの声の上に、そっと旋律を置く。


 呼び合う名前がばらばらにならないように。


 黒譜術に食われないように。


 呼ばれた名が、痛みごとこの場所に立てるように。


『名前は、ひとりで抱える灯じゃない。


 呼ぶ声があり、応える息があり、


 その間に、私は立っている。


 忘れそうな夜には、


 誰かの声が道になる。


 遠くなった私へ、


 あなたの記憶が橋になる。


 遅れて呼んだ名でもいい。


 涙で震える声でもいい。


 戻らない時間を消すためじゃなく、


 そこにいた光を、もう一度抱くために。


 名は、別れを連れてくる。


 けれど、出会いも連れてくる。


 だから私たちは呼ぶ。


 失う痛みごと、あなたを覚えているために。』


 歌が広場を包む。


 村人たちの声が重なる。


「セーラ!」


「マルク!」


「ベル!」


「ノア!」


「ミーナ!」


「レクト!」


「オルダ!」


「リエナ!」


 名前が次々と響く。


 木札が光る。


 薄れていた文字が、ひとつずつ濃さを取り戻していく。


 黒い名簿の影が暴れる。


 ページがめくれ、番号が浮かぶ。


 一。


 二。


 三。


 名前を奪われた識別番号。


 リシアは歌を止めずに、その番号の奥へ耳を澄ませた。


 残響が流れ込む。


 戦時中、番号にされた人々。


 名前を言う暇もなく運ばれた者。


 意識がなく、名を聞かれなかった者。


 幼すぎて、自分の名を言えなかった者。


 言葉が通じず、番号だけで呼ばれた者。


 黒譜術は、彼らの寂しさと痛みも食っていた。


 リエナだけではない。


 この黒い名簿には、数えきれないほどの名の欠落が詰まっている。


 リシアの歌が揺らぐ。


 重い。


 あまりにも多い。


 全部は呼べない。


 全部の名前を知ることはできない。


 それでも。


 リシアは歌詞を続けた。


『名を知らないあなたにも、


 ここにいた夜があった。


 番号で呼ばれたあなたにも、


 誰かを想う朝があった。


 すべてを知ることはできなくても、


 知らなかったことを忘れない。


 空白のまま置き去りにせず、


 灯の場所を作り続ける。』


 オルダがはっと顔を上げた。


 彼はリシアの歌の意味を理解したのだろう。


「村の記録に、空白の碑を作る!」


 オルダは叫んだ。


「名前が分からなかった者たちを、番号だけで終わらせないために。名を知らぬまま眠った者たちがいたことを、村の記録として残す!」


 村人たちが息を呑む。


 レクトが続いた。


「私が彫る。名が分からないなら、空白の木札を。だが、空白を隠さない。そこに誰かがいた証として」


 黒い名簿の影が大きく裂けた。


 名前のない者たちを、無理に名前で埋めない。


 だが、いなかったことにもしない。


 その選択が、黒譜術の根を揺るがした。


 リシアは歌い続ける。


 ノアが笛を吹いた。


 ぴい。


 まだ拙い。


 けれど、確かに父が作った笛の音。


 その音に合わせて、シルも小さく鳴いた。


 ちい。


 村人たちが名前を呼ぶ。


 リエナ。


 ノア。


 ミーナ。


 レクト。


 オルダ。


 セーラ。


 マルク。


 ベル。


 それぞれの名が、木札を震わせる。


 名守りの木の根元から、黒い譜面が剥がれ始めた。


 地下の黒い名簿の影が、広場に浮かび上がる。


 ページがばらばらと裂ける。


 その中から、黒い外套の人物の幻が一瞬だけ現れた。


 顔は見えない。


 だが、リシアを見ている。


『痛みごと覚えるというのですか』


 リシアは歌の合間に答えた。


「はい」


『人は、そんなに強くありません』


「知っています」


 リシアは声を震わせながら言った。


「だから、一人で持たないんです」


 黒い外套の幻が揺れる。


『歌は、また人を繋げる。繋がれば、また傷つく』


「それでも、繋がらなければ届かないものがあります」


『あなたは、いつかその歌で世界を傷つける』


 リシアは息を呑む。


 星詠みの歌。


 黒譜の民が恐れる歌。


 その影が、また近づく。


 けれど今は、目の前の名を守る。


 リシアは歌詞帳を強く握った。


「その時が来たら、向き合います。でも今は、この村の名前を奪わせません」


 黒い外套の幻は、ふっと消えた。


 黒い名簿の影が最後の抵抗をする。


 地面から黒い譜面が噴き上がり、名守りの木全体を覆おうとした。


 リシアの歌だけでは押し切れない。


 その時、レクトがリエナの木札へ手を伸ばした。


 ノアとミーナも手を重ねる。


 オルダがその横に立つ。


 村人たちも次々と名守りの木へ手を伸ばした。


 木に触れる者。


 木札に触れる者。


 手を伸ばせない者は、その場で誰かの名前を呼ぶ。


 村全体が、名守りの木を支える。


「リエナ!」


 全員が呼んだ。


 その声は、完璧には揃っていなかった。


 早い者もいる。


 遅れる者もいる。


 泣いて声が詰まる者もいる。


 けれど、それでよかった。


 ばらばらの声が、ひとつの村の声になった。


 リシアは最後の歌詞を歌った。


『あなたを呼ぶ声がある。


 私を呼ぶ声がある。


 名は、消えない約束ではなく、


 消えそうな夜に灯す火。


 だから今日も、明日も、


 私たちは呼び合う。


 忘れないためだけじゃない。


 出会えたことを、もう一度選ぶために。』


 名守りの木が青白く光った。


 その光は根元から枝先へ広がり、吊るされた木札すべてを包み込む。


 黒い譜面が音もなく砕けていく。


 地面の下から、重い本が閉じるような音がした。


 黒い名簿の影が消える。


 夜風が戻った。


 木札が揺れる。


 そこには、名前があった。


 薄れていない。


 はっきりと。


 ノア・リント。


 ミーナ・リント。


 レクト・リント。


 オルダ。


 セーラ。


 マルク。


 ベル。


 そして。


 リエナ。


 村人たちは、しばらく声を出せなかった。


 誰かが泣き出した。


 誰かが隣の人の名を呼んだ。


 呼ばれた人が、泣きながら返事をした。


 レクトはリエナの木札を見上げ、深く頭を下げた。


「リエナ。遅くなった」


 ノアが父の手を握る。


「父さん」


 レクトはノアを見る。


 今度は、迷わなかった。


「ノア」


 少年は涙をこぼした。


 ミーナが二人を抱きしめる。


「レクト。ノア」


「ミーナ」


 三人の名が、夜の中で温かく響く。


 リシアはその光景を見て、歌を終えた。


 喉が痛い。


 足元も少しふらつく。


 けれど、倒れるほどではない。


 シルが肩に戻ってきて、リシアの頬を前足で触った。


「大丈夫」


 リシアは微笑む。


「今回は、本当に大丈夫」


 シルは疑うように見ていたが、やがて小さく鳴いた。


 その声は、リシアを呼ぶいつもの音だった。


 翌朝。


 レムナ村には、静かな光が差していた。


 名守りの木の木札は、朝日に照らされている。


 昨夜のように揺れてはいない。


 名前も消えていない。


 完全にすべてが元通りになったわけではなかった。


 地下の黒い名簿は、リシアたちが確認した時には黒い力を失い、ただの古い記録として残っていた。そこには番号で管理された人々の記録が残っている。名前が分からない者も多い。


 オルダは、それを隠さないと決めた。


 村の名簿堂に、新しく「名を知られなかった人々の記録棚」を作るという。


 そこには、分からない名前を無理に作って刻むのではなく、空白のまま、確かに誰かがいたことを記す。


 レクトはそのための木札を作ることになった。


 空白の木札。


 名前はない。


 でも、存在しなかったことにはしないための札。


「妙な仕事だな」


 レクトは苦笑した。


 リシアは首を横に振った。


「大切な仕事だと思います」


「ああ。私も、そう思う」


 レクトは自分の名札を手に取った。


 そこには、はっきりと『レクト・リント』と刻まれている。


「まだ、たまに痛む」


「名前がですか」


「ああ。だが、痛むたびに思い出す。これは私の名だ。私が生きてきた分だけ、良いことも悪いことも刻まれている」


 彼はノアを見た。


 ノアは少し離れた場所で、シルに笛の音を聞かせようとしている。シルは真面目な顔をしているが、実際にはノアのポケットに入った木の実を気にしているようだった。


「ノアが呼んでくれるなら、私は戻れる」


 レクトの声は穏やかだった。


 ミーナも隣で頷く。


「私も呼び続けます。しつこいくらいに」


「それは少し怖いな」


「忘れたらもっと呼びます」


「それは本当に怖い」


 二人のやり取りに、リシアは笑った。


 重い夜を越えた後だからこそ、その何気ない会話が尊く感じられた。


 ノアが走ってくる。


「リシアさん!」


「はい」


「聞いて!」


 ノアは笛を口元に当てた。


 ぴい、と音が出る。


 昨日より少しだけ澄んでいた。


「上手になりましたね」


「本当?」


「はい」


 シルがちい、と鳴いた。


 ノアは嬉しそうに笑う。


「シルも褒めてくれた?」


「たぶん」


 リシアは笑った。


「ただ、ポケットの木の実も気にしていると思います」


 ノアは慌ててポケットを押さえた。


 シルは目を逸らす。


「シル!」


 ノアが笑い、ミーナもレクトも笑う。


 その笑い声の中で、名守りの木が朝風に揺れた。


 リエナの木札も、ほかの木札と同じように枝に揺れている。


 特別に輝くわけではない。


 奇跡のような音を立てるわけでもない。


 ただ、そこにある。


 そのことが大切なのだと、リシアは思った。


 出発の前、オルダがリシアに小さな木札を渡した。


「これは?」


「旅人用の名札だ」


 木札には、丁寧な文字で名前が刻まれている。


『リシア』


 その下に、小さく『シル』とも刻まれていた。


 シルが驚いたように目を丸くする。


 オルダは少し笑った。


「君たちがこの村にいたことを、村は覚えている」


 リシアは木札を両手で受け取った。


 胸が熱くなる。


「ありがとうございます」


「礼を言うのはこちらだ。だが、忘れないでほしい」


 オルダの表情が少しだけ真剣になる。


「黒譜の民は、名前を奪おうとした。だが、その言葉の中には、人が痛みを恐れる理由もあった。あれをただの悪として忘れてしまえば、また同じことが起きる」


「はい」


 リシアは頷いた。


「分かっています」


 黒譜の民は間違っている。


 でも、彼らの言葉のすべてが空虚な悪意ではない。


 痛みを消したい。


 傷つかないようにしたい。


 失わないように、最初から持たないようにしたい。


 その気持ちは、人の弱さから生まれている。


 だからこそ、向き合う必要がある。


 リシアは歌詞帳を開いた。


 名の断章のページには、昨夜の歌詞が刻まれていた。


『名前は、ひとりで抱える灯じゃない。


 呼ぶ声があり、応える息があり、


 その間に、私は立っている。


 忘れそうな夜には、


 誰かの声が道になる。


 遠くなった私へ、


 あなたの記憶が橋になる。


 遅れて呼んだ名でもいい。


 涙で震える声でもいい。


 戻らない時間を消すためじゃなく、


 そこにいた光を、もう一度抱くために。


 名は、別れを連れてくる。


 けれど、出会いも連れてくる。


 だから私たちは呼ぶ。


 失う痛みごと、あなたを覚えているために。


 あなたを呼ぶ声がある。


 私を呼ぶ声がある。


 名は、消えない約束ではなく、


 消えそうな夜に灯す火。


 だから今日も、明日も、


 私たちは呼び合う。


 忘れないためだけじゃない。


 出会えたことを、もう一度選ぶために。』


 ページの端には、小さな木札の印が浮かんでいた。


 火の断章。


 沈黙の断章。


 名の断章。


 三つ目の欠片が、歌詞帳に刻まれた。


 リシアはページを閉じる。


 その時、挟んでいた七つ星の栞がかすかに光った。


 火。


 沈黙。


 名。


 七つの断章のうち、三つ。


 まだ半分にも届いていない。


 旅は長い。


 そして、黒譜の民は確実に近づいている。


 村の入口で、ノアが手を振った。


「リシアさん! シル!」


 シルが肩の上で胸を張る。


 ノアは笑って言った。


「また来てね!」


 リシアは手を振り返した。


「はい。また」


 ノアは少し照れたように、けれどはっきりと言った。


「僕は、ノア・リント! 忘れないから!」


 リシアは笑った。


「私も、忘れません」


 シルがちい、と鳴く。


 ノアも真似をして「ちい」と言い、シルが不満そうに尻尾を振った。


 村人たちの笑い声が、朝の空気に溶ける。


 リシアはレムナ村を後にした。


 道は北東へ続いている。


 山の向こうには、まだ知らない町がある。










 けれど、リシアの胸には新しい木札がある。


 リシア。


 シル。


 この村が覚えてくれた名前。


 リシアはそれを鞄に大切にしまった。


 そして、心の奥で、もう一つの名を呼ぶ。


 アイシャ。


 痛みは消えない。


 返事もない。


 それでも、リシアはその名を忘れなかった。


 忘れないことが、いつか自分を傷つけるとしても。


 それでも、呼び続けると決めた。


 肩の上で、シルが小さく鳴く。


 ちい。


 リシアは微笑んだ。


「うん。行こう」


 旅する歌魔術師と銀色のリスは、朝の光の中を歩き出した。


 名を失う夜を越えた村の声が、いつまでも背中を温かく押していた。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


「名前を失う村編」は、今回でひとつの区切りとなります。


夜になると名前を忘れてしまう村、レムナ。

自分の名前が遠くなっていく少年ノア。

自分の名を奪われた木札職人レクト。

そして、かつて誰にも呼ばれなかった名前、リエナ。


この編でリシアが向き合ったのは、名前というものの重さでした。


名前は、ただの文字ではありません。

誰かに呼ばれ、覚えられ、そこにいたことを確かめるための灯りです。


けれど、名前があるからこそ、失った時に痛みも生まれます。

だから黒譜術こくふじゅつは、その痛みに付け込みました。


「呼ばなければ、失わずに済む」

「忘れれば、悲しまなくて済む」


けれどリシアと村人たちは、痛みを消すために名前を手放すのではなく、痛みごと呼び合うことを選びます。


この編で、リシアの歌詞帳に刻まれた「名の断章」は


『名前は、ひとりで抱える灯じゃない。

 呼ぶ声があり、応える息があり、

 その間に、私は立っている。


 忘れそうな夜には、

 誰かの声が道になる。

 遠くなった私へ、

 あなたの記憶が橋になる。


 遅れて呼んだ名でもいい。

 涙で震える声でもいい。

 戻らない時間を消すためじゃなく、

 そこにいた光を、もう一度抱くために。


 名は、別れを連れてくる。

 けれど、出会いも連れてくる。

 だから私たちは呼ぶ。

 失う痛みごと、あなたを覚えているために。


 あなたを呼ぶ声がある。

 私を呼ぶ声がある。

 名は、消えない約束ではなく、

 消えそうな夜に灯す火。


 だから今日も、明日も、

 私たちは呼び合う。

 忘れないためだけじゃない。

 出会えたことを、もう一度選ぶために。』


火の断章。

沈黙の断章。

そして、名の断章。


リシアの歌詞帳には、三つ目の欠片が刻まれました。


けれど、旅はまだ続きます。

黒譜のこくふのたみは、リシアの旅を確かに見ています。

そして、星詠みの歌の謎も、少しずつ深まっていきます。


リシアとシルが次に出会うのは、どんな想いなのか。

続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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