14話 歌を憎む少女
レムナ村を出てから、四日が過ぎた。
道は少しずつ北東へ傾き、風の匂いも変わってきた。ラグナの炉の熱も、エルネの水路の湿り気も、レムナの名守りの木の青い葉も、今は遠い。
代わりに、空気の中には冷たさが混じり始めていた。
朝の草には白い霜が降り、遠くの山肌には薄く雪が残っている。街道沿いの木々は葉を落とし、枝先が空へ細く伸びていた。
リシアは白い息を吐きながら、肩の上のシルを見た。
「寒くない?」
シルは丸い尻尾を自分の体に巻きつけ、ちい、と鳴いた。
寒い。
でも歩くのはリシアだから、文句は言わない。
そんな顔だった。
「その顔、ちょっと不公平じゃない?」
シルは目を逸らした。
リシアは苦笑する。
鞄の中には、レムナ村で受け取った小さな木札が入っている。
『リシア』
その下に、小さく『シル』。
村が二人を覚えている証。
旅人にとって、名前を残してもらえることは少ない。多くの町や村を通り過ぎ、事件が終わればまた歩き出す。感謝されることもある。恨まれることもある。忘れられることもある。
それでも、あの村はリシアとシルの名を木札に刻んでくれた。
その重みは、思った以上に胸に残っていた。
リシアは歌詞帳を開く。
火の断章。
沈黙の断章。
名の断章。
三つの歌詞が、ページの中に静かに並んでいる。
どれも、リシア一人の歌ではない。
ガルドの炉。
エマの一音。
ノアやレクト、リエナの名前。
そこに生きていた人たちの想いが、歌詞として刻まれている。
リシアは指先でページをなぞった。
「三つ、集まったね」
シルが歌詞帳を覗き込む。
ちい。
「うん。まだ三つ、でもある」
七つ星の栞が、ページの間でかすかに光った。
火。
沈黙。
名。
残る断章は、雪、境界、記憶、星。
どこへ向かえばいいのか、はっきり分かっているわけではない。けれど不思議と、道はいつも次の場所へ繋がっている。
今もそうだった。
北東の山間には、冬が長く続く町があるという。
旅人たちはそこを、白雪町セレスタと呼んでいた。
雪の降る町。
冬の間、町全体が白く沈み、春が来ても一部の通りだけ雪が溶けないと言われている。
ただの気候ならいい。
けれど、道中で出会った荷馬車の男は、少し妙なことを言っていた。
『あの町じゃ、誰も泣かないんだ』
良い町なのかと尋ねると、男は首を横に振った。
『良い町ならいいんだがな。葬式でも、別れでも、子どもが迷子になっても、誰も泣かない。笑いもしない。雪みたいに静かな顔をしてる』
リシアはその言葉を聞いた時、胸元の歌詞帳がわずかに震えたのを感じた。
雪の断章。
そう決めるには早い。
けれど、無関係とも思えなかった。
街道はやがて、古い石造りの祠へ続いていた。
旅人たちが休むために作られた小さな休憩所だ。屋根は低く、壁には白い石が積まれている。入口には風よけの布が垂れ、横には馬を繋ぐための木柵があった。
祠の前には、すでに何台かの荷馬車が停まっていた。
商人らしき男たちが荷を点検し、旅人たちが火を囲んでいる。寒さのせいか、皆の表情は少し硬い。けれど、危険な気配はない。
リシアは少し安心した。
「ここで休もうか」
シルがすぐに頷いた。
たぶん、休みたいというより、誰かが食べ物を持っていると見抜いたのだろう。
「勝手にもらっちゃ駄目だよ」
ちい。
「返事が軽い」
リシアが祠へ近づいた時、突然、鋭い悲鳴が響いた。
「フィン!」
荷馬車の陰で、子どもが倒れていた。
八歳くらいの少年だ。積み荷を固定していた縄が切れ、木箱が崩れたのだろう。少年は足を押さえ、痛みに顔を歪めている。幸い、木箱そのものは直撃していないようだが、足首を強く捻ったらしい。
母親らしき女性が駆け寄り、少年を抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だから、泣かないで」
少年は必死に涙をこらえていた。
けれど痛みは強いのだろう。唇が震え、目に涙が溜まっている。
周囲の大人たちも慌てて集まってきた。
「水を!」
「布を持ってこい!」
「誰か治癒術を使える者は?」
その中の一人が、リシアの胸元の徽章に気付いた。
「歌術師だ!」
視線が一斉にリシアへ向く。
「頼む、歌で痛みを取ってやってくれ!」
「泣き止ませてくれ!」
リシアは一歩踏み出しかけた。
もちろん、見捨てるつもりはない。
けれど、歌で痛みを消すことが正しいのかは、すぐには分からなかった。
少年の怪我はまず確認が必要だ。骨が折れているなら、動かしてはいけない。痛みは体からの知らせでもある。それを無理に消せば、かえって悪化するかもしれない。
何より、少年は泣きたいのを必死に我慢している。
母親は励ましているつもりなのだろう。
でも、「泣かないで」という言葉が、少年の痛みの出口を塞いでいるようにも見えた。
リシアが口を開こうとした時だった。
「泣かせてあげなさい」
澄んだ声が、場の空気を切った。
人々が振り返る。
祠の影から、一人の少女が歩いてきた。
いや、年齢はリシアより少し下くらいだろう。二十二歳前後。淡い青色の髪を肩の少し下で切り揃え、黒に近い濃紺の外套を羽織っている。瞳は冷たい灰青色。整った顔立ちだが、表情には柔らかさが少ない。
その手には、小さな薬箱があった。
少女は少年の前に膝をつくと、母親へ静かに言った。
「痛い時に泣くのは、悪いことではありません。泣かないことを褒める前に、どこが痛いか聞いてください」
母親は一瞬、言葉を失った。
「で、でも」
「大丈夫と言われ続けると、痛いと言えなくなります」
少女は少年へ視線を向けた。
「痛い?」
少年は涙をこらえたまま頷いた。
「どこが一番痛い?」
「足……ここ」
「触るわ。痛かったら痛いと言って」
少年はまた頷いた。
少女は手際よく足首を確認した。指先の動きは慣れている。強く押さず、少年の反応を見ながら腫れの位置を確かめ、布で固定していく。
リシアはその様子を見つめていた。
治癒術ではない。
歌でもない。
ただ、きちんと痛みを見ている。
少女は薬草の軟膏を薄く塗り、木片と布で足首を固定した。
「骨は大丈夫そう。でも今日は歩かない方がいい。馬車に乗せて。冷やせるものがあれば冷やして。明日になって腫れがひどくなるなら、町で治療師に見せて」
母親は何度も頷いた。
「あ、ありがとうございます」
少女は淡々と薬箱を閉じた。
「礼はいりません。それより、泣かないことを強さだと教えないで」
少年の母親がはっとする。
少年は、我慢していた涙をぽろぽろとこぼした。
「痛かった……」
母親は少年を抱きしめた。
「ごめんね。痛かったね」
少年はようやく声を上げて泣いた。
その泣き声を聞いて、周囲の大人たちは少し気まずそうに目を伏せる。
リシアは胸の奥が静かに痛むのを感じた。
泣くことを許す。
それもまた、救いの一つなのだろう。
その時、少年がリシアを見た。
「お姉ちゃん……歌術師なの?」
リシアは膝をついた。
「はい。リシアといいます」
「歌ったら、痛くなくなる?」
周囲がまたリシアを見る。
リシアは少しだけ考えてから、正直に答えた。
「少しだけ、呼吸は楽になるかもしれません。でも、今は痛みを全部消さない方がいいと思います」
少年は涙で濡れた目を瞬かせた。
「どうして?」
「痛みは、あなたの体が『ここを大事にして』って教えてくれている声でもあるからです」
「痛いのに?」
「うん。嫌な声だけど、大切な声です」
少年は足首を見る。
「じゃあ、歌わないの?」
「痛いって言えるようにする歌なら、少しだけ」
リシアは歌詞帳を開かなかった。
大きな歌ではない。
断章でもない。
ただ、少年が泣くことを怖がらないように、短い旋律を置く。
『痛いと泣いたその声は、
弱さじゃなくて道しるべ。
ここを守って、ここを見て、
体がそっと呼んでいる。
泣いてもいいよ、止まっていいよ。
明日また歩くために。』
歌は静かに少年の周りへ落ちた。
痛みは消えない。
少年はまだ泣いている。
けれど、泣くことを責める空気は薄れた。
母親も、少年の背中を撫でながら一緒に涙ぐんでいる。
リシアは歌を止めた。
それでよかった。
今日の歌は、それ以上踏み込まない方がいい。
けれど、隣から冷たい声がした。
「優しい歌ですね」
リシアが振り向く。
淡い青髪の少女が、リシアを見ていた。
その表情は穏やかではない。
怒りとも違う。
もっと深い、凍ったような拒絶があった。
「痛みを消さないと言いながら、痛みに意味を与える」
少女は静かに言った。
「歌術師は、いつもそうです」
リシアは言葉を失った。
その声を聞いた瞬間、シルが肩の上で身を固くした。
毛が逆立っている。
明らかな警戒。
リシアは少女を見つめた。
「あなたは……」
「通りすがりです」
少女は薬箱を閉じ、立ち上がった。
「少なくとも今は」
その言い方に、リシアの胸元の歌詞帳がかすかに震えた。
黒譜術の気配。
強くはない。
だが、確かにある。
リシアは周囲を見た。
少年と母親、旅人たち、商人たち。
ここで不用意に問い詰めれば、場を危険に巻き込むかもしれない。
少女もそれを分かっているのだろう。
彼女はリシアへ近づき、すれ違いざまに小さく言った。
「あとで、祠の裏へ」
そして、何事もなかったように歩き去った。
リシアはその背中を見送る。
シルが鋭く鳴いた。
ちいっ。
「分かってる。危ない人かもしれない」
ちい。
「でも、話さないわけにはいかない」
シルは不満げに尻尾を叩いた。
リシアは少年の母親に足の固定の確認だけしてから、祠の外へ出た。
空は曇り始めていた。
山の方から冷たい風が吹いてくる。
祠の裏には、古い石碑がいくつか並んでいた。旅の安全を祈るためのものだろう。その一番奥、落葉した木の下に、青髪の少女が立っていた。
彼女は振り返らずに言った。
「来ると思っていました」
「あなたは黒譜の民ですか」
リシアはまっすぐ尋ねた。
少女は少しだけ笑った。
笑顔と呼ぶには、あまりに冷たい表情だった。
「随分と早いですね。火の断章、沈黙の断章、名の断章。三つも触れれば、さすがに分かるようになりますか」
リシアは息を呑んだ。
「なぜ、それを知っているんですか」
「私たちは見ていますから」
「私たち?」
「黒譜の民です」
少女はようやく振り返った。
「もっとも、すべての黒譜の民が同じ考えというわけではありません。あなたが会った者と、私が同じ答えを持っているとは限らない」
リシアは少女の瞳を見た。
冷たい。
けれど、空っぽではない。
その奥に、深い怒りと痛みが沈んでいる。
リシアは心歌を聞こうとした。
しかし、聞こえなかった。
拒絶されている。
ただ心を閉ざしているだけではない。黒譜術で、自分の内側へ届く音をすべて消している。
完全拒絶。
心歌が届かない条件の一つ。
リシアは無理に聞くのをやめた。
少女はそれを見抜いたように言う。
「聞かないのですか。人の心を歌にする歌魔術師なのに」
「拒まれている心を、無理に聞くつもりはありません」
「便利な言い方ですね」
少女の声が少し鋭くなる。
「聞ける時は聞く。届かない時は、相手が拒んだからと言う。歌術師はいつも、自分の優しさが傷つけた可能性を相手の拒絶に変えてしまう」
リシアは胸を刺されたような痛みを覚えた。
反論したい。
けれど、簡単にはできなかった。
歌が届かない時、それは相手が拒んだからだと考えることがある。
確かにある。
しかし本当は、リシアが誤解している場合もある。相手が本音を認められない場合もある。歌そのものが痛みになる場合もある。
少女の言葉は、悪意だけではなかった。
「あなたは、歌術師を憎んでいるんですね」
リシアが言うと、少女は静かに目を細めた。
「ええ」
はっきりした答えだった。
「私は歌が嫌いです。歌術師はもっと嫌いです」
「なぜですか」
「それを聞いて、歌にしますか」
リシアは首を横に振った。
「しません」
「信じられません」
「それでも、しません」
少女はリシアを見つめた。
風が二人の間を抜ける。
シルはリシアの肩の上で、少女から目を離さない。
やがて少女は、低く言った。
「歌は命令より残酷です」
その言葉に、リシアは息を止めた。
「命令なら、従わされたと分かる。抗えなかったと言える。誰かのせいにできる。でも歌は違う」
少女は自分の胸元に手を当てた。
「歌は、人に『自分で選んだ』と思わせる。立ち上がれと歌われれば、自分の意志で立ち上がったと思う。大丈夫だと歌われれば、本当は大丈夫ではないのに、自分は大丈夫なのだと思い込む」
リシアの脳裏に、戦場の記憶がよみがえる。
進軍詩。
騎士たちの背中。
高揚した声。
戻らなかった人々。
アイシャ。
リシアは拳を握った。
少女は続ける。
「励まされた人は、歌を責められません。自分で選んだのだから。自分が弱かったのだから。自分が間違えたのだから。そうして、痛みの矛先は自分へ向かう」
「……それは」
リシアは声が掠れた。
「間違っていると、言い切れません」
少女の表情がわずかに動いた。
驚きに似ていた。
リシアは続ける。
「私も、自分の歌が誰かを追い詰めたかもしれないと思っています。励ましたつもりで、戻れない場所へ背中を押したかもしれない。だから、今も怖いです」
「なら、なぜ歌うのですか」
少女の声が低くなる。
「怖いなら、歌わなければいい。あなたの歌が人を傷つける可能性を知っているなら、その口を閉じればいい」
リシアはすぐには答えられなかった。
その問いは、何度も自分に投げかけてきたものだった。
歌わなければ、誰も傷つけないかもしれない。
リシアの歌で誰かが誤った道へ進むこともない。
自分の罪悪感も増えない。
でも。
歌わなければ届かない瞬間もあった。
ガルドの炉。
エマの一音。
レムナの名前。
歌わなかったら、消えていたものもある。
「歌わない方がいい時はあります」
リシアはゆっくり言った。
「でも、歌わなければ届かない時もあります」
「それを決めるのは誰ですか」
少女はすぐに問う。
「あなたですか。歌術師であるあなたが、相手に必要だと思えば歌うのですか」
リシアの胸が痛む。
「違います」
「本当に?」
「私は、相手の代わりに決めないようにしています」
「ように、ですか」
少女は小さく笑った。
「完璧ではないと自覚しているのですね」
「はい」
リシアは認めた。
「私は間違えます。歌も届かないことがあります。相手の心を聞き違えることもあります」
「それでも歌う」
「はい」
少女の灰青色の瞳が、さらに冷たくなる。
「傲慢ですね」
その一言は、鋭くリシアへ突き刺さった。
シルが怒ったように鳴く。
ちいっ!
リシアはそっとシルを撫でた。
「大丈夫」
それから、少女へ向き直る。
「そうかもしれません」
少女は眉をひそめた。
「認めるのですか」
「歌で人の心に触れることは、傲慢と隣り合わせです。私はそれを忘れたくありません」
リシアは胸元の徽章に触れた。
「だからこそ、怖がりながら歌います。歌わない選択も持ったまま、歌う時は相手の前に立ちます」
少女は黙った。
風が冷たくなる。
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
やがて少女は、小さく言った。
「あなたは、私が思っていた歌術師とは少し違う」
その声には、好意はない。
だが、単なる敵意でもなかった。
「でも、だからこそ危うい」
「危うい?」
「自分が間違えると分かっている人間ほど、いつか大きな過ちを犯します。迷いながら、それでも進むからです」
リシアは少女の言葉を受け止めた。
「あなたは、私に歌うなと言いたいんですか」
「いいえ」
少女は首を横に振った。
「歌わないで済むなら、あなたはとっくに歌っていないでしょう」
その言葉に、リシアは息を呑んだ。
見抜かれている。
少女はリシアを責めているだけではない。
理解もしている。
だから余計に苦しい。
「私は、あなたが歌った先に何があるのか見たい」
少女は静かに言った。
「そして、その歌がまた誰かを傷つけるなら、私が止めます」
シルが低く鳴いた。
リシアは少女を見つめる。
「あなたの名前を聞いてもいいですか」
少女は少しの間、答えなかった。
拒むかと思った。
だが、やがて彼女は言った。
「ノエル」
風が止まる。
「ノエル・ヴァイス」
その名を聞いた瞬間、歌詞帳が小さく震えた。
ノエルはそれを見て、わずかに目を細める。
「私の名前まで歌詞帳に刻むつもりですか」
「いいえ」
リシアはすぐに言った。
「あなたが望まないなら、刻みません」
「望むことはありません」
ノエルははっきり言った。
「私には歌わないでください」
その言葉は、拒絶というより、境界線だった。
リシアは頷く。
「分かりました」
ノエルは少しだけ驚いた顔をした。
リシアは続ける。
「あなたが望まない限り、私はあなたに歌いません」
「……簡単に約束するのですね」
「簡単ではありません」
リシアは静かに言った。
「でも、大切なことです」
ノエルはリシアを見つめた。
その目の奥に、一瞬だけ何かが揺れた。
悲しみか。
怒りか。
それとも、遠い記憶か。
しかしすぐに、彼女は表情を閉ざした。
「北東へ向かうのでしょう」
「白雪町セレスタへ」
「やはり」
ノエルは小さく息を吐いた。
「あの町では、誰も泣きません」
「聞きました」
「泣けないのです」
リシアは目を見開く。
ノエルは続けた。
「悲しみを凍らせた町。誰も取り乱さず、誰も叫ばず、誰も泣かない。とても静かで、とても正しい町です」
「正しい?」
「少なくとも、あの町の人々はそう思っています」
ノエルの声には、皮肉のようなものが混じっていた。
「悲しみは人を壊す。ならば凍らせればいい。涙は足を止める。ならば流さなければいい。そうしてあの町は、冬の中で止まっています」
リシアの歌詞帳が強く震えた。
雪の断章。
今度こそ、その言葉が胸に浮かぶ。
「黒譜術が関わっているんですね」
「さあ」
ノエルは曖昧に笑った。
「私たち黒譜の民が、すべての悲しみを作っていると思わない方がいい。人は、自分の手で自分の心を凍らせることもあります」
リシアは言葉を失った。
それは事実だ。
黒譜術がなくても、人は痛みから自分を守るために心を閉ざす。
泣かないようにする。
感じないようにする。
忘れようとする。
黒譜術は、その弱さにつけ込むだけなのかもしれない。
「あなたは、なぜそれを私に教えるんですか」
リシアが尋ねると、ノエルは少しだけ目を伏せた。
「あなたが進むからです」
「止めたいのでは?」
「止めたいですよ」
ノエルは即答した。
「星詠みの歌は完成させてはいけない。断章を集める旅は、いずれ多くの人を巻き込む。だから本当なら、ここであなたを止めるべきです」
シルが身構える。
リシアも歌詞帳へ手を添えた。
しかしノエルは動かなかった。
「でも、今日のあなたは、痛がる子どもに『泣いていい』と歌った」
ノエルは祠の方を見た。
「痛みを消すのではなく、痛みを言葉にする余地を残した。……それが本物かどうか、私はまだ見極めたい」
リシアはノエルの横顔を見る。
「ノエルさんは、歌に何をされたんですか」
問いを口にした瞬間、空気が凍った。
シルが息を呑むように動きを止める。
ノエルの周囲に、黒い譜面が一瞬浮かんだ。
冷たい。
鋭い。
拒絶。
リシアはすぐに頭を下げた。
「すみません。踏み込みすぎました」
ノエルは何も言わない。
ただ、黒い譜面はしばらく消えなかった。
やがて彼女は低く言った。
「母は、歌に救われたと言って死にました」
リシアは顔を上げた。
ノエルの表情は読めない。
「それだけです」
リシアはそれ以上聞けなかった。
その一言だけで、十分に重かった。
歌に救われたと言って死んだ母。
そこに何があったのかは分からない。
けれど、ノエルが歌を憎む理由の一端は、確かにそこにある。
ノエルは外套を翻した。
「セレスタへ行くなら、覚えておいてください」
「何をですか」
「泣けない人に、泣けと言うこともまた暴力になります」
リシアは息を呑んだ。
ノエルは続ける。
「涙を取り戻すことが救いだと、決めつけないことです」
「……はい」
「あなたがその町で何を歌うのか、見ています」
ノエルはそう言って歩き出した。
リシアは呼び止める。
「ノエルさん」
ノエルは振り返らない。
「いつか、あなたともう一度話せますか」
しばらく沈黙があった。
やがて、ノエルは少しだけ顔を横へ向けた。
「話すだけなら」
それは拒絶ではなかった。
受け入れでもない。
ほんのわずかな隙間。
「でも、私には歌わないでください」
「約束します」
ノエルはそれ以上何も言わず、森の方へ歩いていった。
その姿は、木々の影の中へ溶けるように消えた。
残されたのは、冷たい風と、かすかな黒譜術の残響だけ。
シルがリシアの肩の上で小さく鳴いた。
ちい。
「うん」
リシアは息を吐いた。
「怖い人だったね」
シルは頷くように尻尾を揺らした。
「でも、ただ怖いだけじゃなかった」
リシアはノエルが消えた森を見つめる。
歌を憎む少女。
黒譜の民。
リシアを止める者。
けれど、痛みを見ようとしない人ではなかった。
少年に泣いていいと言った。
手当てをした。
痛みを誤魔化さなかった。
彼女は歌を憎んでいる。
でも、人の痛みを軽んじているわけではない。
だからこそ、リシアにとって厄介な相手だった。
悪として切り捨てられない。
言葉を無視できない。
リシアは歌詞帳を開いた。
白紙のページに、ゆっくりと文字が浮かぶ。
『雪は、涙を隠すために降るのではない』
リシアはその一行を見つめた。
雪の断章。
まだ始まりにすぎない。
祠の方から、少年フィンの泣き声が聞こえた。
痛みで泣いている。
けれど、その横で母親が優しく声をかけている。
「痛かったね。ちゃんと言えてえらかったね」
リシアは小さく微笑んだ。
泣けること。
泣けないこと。
どちらにも意味がある。
どちらか一方を救いだと決めつけてはいけない。
セレスタの町で、リシアはきっとそれを問われる。
リシアは歌詞帳を閉じた。
「行こう、シル」
ちい。
「うん。今度は雪の町だね」
シルは寒そうに体を丸めた。
「……ちゃんと防寒の布、買おうね」
その言葉に、シルは少しだけ安心したように鳴いた。
リシアは祠へ戻り、旅人たちに別れを告げた。
少年フィンは涙の跡を残した顔で、リシアに手を振った。
「歌のお姉ちゃん、ありがとう」
「足、大事にしてくださいね」
「うん。痛かったら痛いって言う」
「それがいいです」
少年は少し照れたように笑った。
その笑顔を見て、リシアは胸の中に小さな温かさを感じた。
ノエルの言葉は重い。
歌は命令より残酷。
その言葉は、きっとこれからもリシアの中に残る。
けれど、だからこそ忘れてはいけない。
歌は万能ではない。
歌は優しさだけではない。
歌うことは、いつも相手の心に触れる危うさを持っている。
それでも、リシアは歩く。
歌う勇気と、歌わない勇気を抱えたまま。
北東の空には、白い雲が低く垂れ込めていた。
その向こうに、雪の町セレスタがある。
誰も泣かない町。
悲しみを凍らせた町。
リシアとシルは、冷たい風の中へ歩き出した。
背後の祠では、少年の泣き声がようやく落ち着き、母親の優しい声がそれを包んでいる。
そして前方の森の奥では、淡い青髪の少女が一人、誰にも聞こえない声で呟いていた。
「リシア・エルフィーネ」
その声には、憎しみだけではない何かが混じっていた。
「あなたの歌が本当に人を救うのか、見せてもらいます」
風が吹く。
最初の雪が、一粒だけ街道に落ちた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、黒譜の民の一人、ノエル・ヴァイスが本格的に登場する回でした。
ノエルは、リシアにとってただの敵ではありません。
歌を憎み、歌術師を疑い、リシアの歌そのものに問いを突きつけてくる存在です。
「歌は命令より残酷です」
この言葉は、リシアにとってかなり重いものになりました。
励ます歌。
背中を押す歌。
悲しみを意味あるものに変える歌。
それらは優しさである一方で、相手に「自分で選んだ」と思わせてしまう危うさも持っています。
リシア自身も、かつて戦場で進軍詩を歌いました。
その歌に励まされて前へ進み、帰らなかった人たちがいる。
だからこそ、ノエルの言葉をただ否定することはできませんでした。
けれど、リシアはそれでも歌を捨てません。
歌うことの怖さを知ったうえで、歌わない選択も持ちながら、それでも必要な時には人の心の前に立つ。
今回の出会いは、リシアにとって大きな転機の一つになると思います。
そして、次に向かうのは白雪町セレスタ。
誰も泣かない町。
悲しみを凍らせた町。
ノエルが残した言葉の通り、泣けない人に「泣いていい」と言うことが、本当に救いになるのか。
リシアは次の町で、その問いに向き合うことになります。
リシアとシルの旅を、次話も読んでいただけたら嬉しいです。




