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14話 歌を憎む少女



 レムナ村を出てから、四日が過ぎた。


 道は少しずつ北東へ傾き、風の匂いも変わってきた。ラグナの炉の熱も、エルネの水路の湿り気も、レムナの名守りの木の青い葉も、今は遠い。


 代わりに、空気の中には冷たさが混じり始めていた。


 朝の草には白い霜が降り、遠くの山肌には薄く雪が残っている。街道沿いの木々は葉を落とし、枝先が空へ細く伸びていた。


 リシアは白い息を吐きながら、肩の上のシルを見た。


「寒くない?」


 シルは丸い尻尾を自分の体に巻きつけ、ちい、と鳴いた。


 寒い。


 でも歩くのはリシアだから、文句は言わない。


 そんな顔だった。


「その顔、ちょっと不公平じゃない?」


 シルは目を逸らした。


 リシアは苦笑する。


 鞄の中には、レムナ村で受け取った小さな木札が入っている。


『リシア』


 その下に、小さく『シル』。


 村が二人を覚えている証。


 旅人にとって、名前を残してもらえることは少ない。多くの町や村を通り過ぎ、事件が終わればまた歩き出す。感謝されることもある。恨まれることもある。忘れられることもある。


 それでも、あの村はリシアとシルの名を木札に刻んでくれた。


 その重みは、思った以上に胸に残っていた。


 リシアは歌詞帳を開く。


 火の断章。


 沈黙の断章。


 名の断章。


 三つの歌詞が、ページの中に静かに並んでいる。


 どれも、リシア一人の歌ではない。


 ガルドの炉。


 エマの一音。


 ノアやレクト、リエナの名前。


 そこに生きていた人たちの想いが、歌詞として刻まれている。


 リシアは指先でページをなぞった。


「三つ、集まったね」


 シルが歌詞帳を覗き込む。


 ちい。


「うん。まだ三つ、でもある」


 七つ星の栞が、ページの間でかすかに光った。


 火。


 沈黙。


 名。


 残る断章は、雪、境界、記憶、星。


 どこへ向かえばいいのか、はっきり分かっているわけではない。けれど不思議と、道はいつも次の場所へ繋がっている。


 今もそうだった。


 北東の山間には、冬が長く続く町があるという。


 旅人たちはそこを、白雪町セレスタと呼んでいた。


 雪の降る町。


 冬の間、町全体が白く沈み、春が来ても一部の通りだけ雪が溶けないと言われている。


 ただの気候ならいい。


 けれど、道中で出会った荷馬車の男は、少し妙なことを言っていた。


『あの町じゃ、誰も泣かないんだ』


 良い町なのかと尋ねると、男は首を横に振った。


『良い町ならいいんだがな。葬式でも、別れでも、子どもが迷子になっても、誰も泣かない。笑いもしない。雪みたいに静かな顔をしてる』


 リシアはその言葉を聞いた時、胸元の歌詞帳がわずかに震えたのを感じた。


 雪の断章。


 そう決めるには早い。


 けれど、無関係とも思えなかった。


 街道はやがて、古い石造りの祠へ続いていた。


 旅人たちが休むために作られた小さな休憩所だ。屋根は低く、壁には白い石が積まれている。入口には風よけの布が垂れ、横には馬を繋ぐための木柵があった。


 祠の前には、すでに何台かの荷馬車が停まっていた。


 商人らしき男たちが荷を点検し、旅人たちが火を囲んでいる。寒さのせいか、皆の表情は少し硬い。けれど、危険な気配はない。


 リシアは少し安心した。


「ここで休もうか」


 シルがすぐに頷いた。


 たぶん、休みたいというより、誰かが食べ物を持っていると見抜いたのだろう。


「勝手にもらっちゃ駄目だよ」


 ちい。


「返事が軽い」


 リシアが祠へ近づいた時、突然、鋭い悲鳴が響いた。


「フィン!」


 荷馬車の陰で、子どもが倒れていた。


 八歳くらいの少年だ。積み荷を固定していた縄が切れ、木箱が崩れたのだろう。少年は足を押さえ、痛みに顔を歪めている。幸い、木箱そのものは直撃していないようだが、足首を強く捻ったらしい。


 母親らしき女性が駆け寄り、少年を抱きしめた。


「大丈夫、大丈夫だから、泣かないで」


 少年は必死に涙をこらえていた。


 けれど痛みは強いのだろう。唇が震え、目に涙が溜まっている。


 周囲の大人たちも慌てて集まってきた。


「水を!」


「布を持ってこい!」


「誰か治癒術を使える者は?」


 その中の一人が、リシアの胸元の徽章に気付いた。


歌術師かじゅつしだ!」


 視線が一斉にリシアへ向く。


「頼む、歌で痛みを取ってやってくれ!」


「泣き止ませてくれ!」


 リシアは一歩踏み出しかけた。


 もちろん、見捨てるつもりはない。


 けれど、歌で痛みを消すことが正しいのかは、すぐには分からなかった。


 少年の怪我はまず確認が必要だ。骨が折れているなら、動かしてはいけない。痛みは体からの知らせでもある。それを無理に消せば、かえって悪化するかもしれない。


 何より、少年は泣きたいのを必死に我慢している。


 母親は励ましているつもりなのだろう。


 でも、「泣かないで」という言葉が、少年の痛みの出口を塞いでいるようにも見えた。


 リシアが口を開こうとした時だった。


「泣かせてあげなさい」


 澄んだ声が、場の空気を切った。


 人々が振り返る。


 祠の影から、一人の少女が歩いてきた。


 いや、年齢はリシアより少し下くらいだろう。二十二歳前後。淡い青色の髪を肩の少し下で切り揃え、黒に近い濃紺の外套を羽織っている。瞳は冷たい灰青色。整った顔立ちだが、表情には柔らかさが少ない。


 その手には、小さな薬箱があった。


 少女は少年の前に膝をつくと、母親へ静かに言った。


「痛い時に泣くのは、悪いことではありません。泣かないことを褒める前に、どこが痛いか聞いてください」


 母親は一瞬、言葉を失った。


「で、でも」


「大丈夫と言われ続けると、痛いと言えなくなります」


 少女は少年へ視線を向けた。


「痛い?」


 少年は涙をこらえたまま頷いた。


「どこが一番痛い?」


「足……ここ」


「触るわ。痛かったら痛いと言って」


 少年はまた頷いた。


 少女は手際よく足首を確認した。指先の動きは慣れている。強く押さず、少年の反応を見ながら腫れの位置を確かめ、布で固定していく。


 リシアはその様子を見つめていた。


 治癒術ではない。


 歌でもない。


 ただ、きちんと痛みを見ている。


 少女は薬草の軟膏を薄く塗り、木片と布で足首を固定した。


「骨は大丈夫そう。でも今日は歩かない方がいい。馬車に乗せて。冷やせるものがあれば冷やして。明日になって腫れがひどくなるなら、町で治療師に見せて」


 母親は何度も頷いた。


「あ、ありがとうございます」


 少女は淡々と薬箱を閉じた。


「礼はいりません。それより、泣かないことを強さだと教えないで」


 少年の母親がはっとする。


 少年は、我慢していた涙をぽろぽろとこぼした。


「痛かった……」


 母親は少年を抱きしめた。


「ごめんね。痛かったね」


 少年はようやく声を上げて泣いた。


 その泣き声を聞いて、周囲の大人たちは少し気まずそうに目を伏せる。


 リシアは胸の奥が静かに痛むのを感じた。


 泣くことを許す。


 それもまた、救いの一つなのだろう。


 その時、少年がリシアを見た。


「お姉ちゃん……歌術師なの?」


 リシアは膝をついた。


「はい。リシアといいます」


「歌ったら、痛くなくなる?」


 周囲がまたリシアを見る。


 リシアは少しだけ考えてから、正直に答えた。


「少しだけ、呼吸は楽になるかもしれません。でも、今は痛みを全部消さない方がいいと思います」


 少年は涙で濡れた目を瞬かせた。


「どうして?」


「痛みは、あなたの体が『ここを大事にして』って教えてくれている声でもあるからです」


「痛いのに?」


「うん。嫌な声だけど、大切な声です」


 少年は足首を見る。


「じゃあ、歌わないの?」


「痛いって言えるようにする歌なら、少しだけ」


 リシアは歌詞帳を開かなかった。


 大きな歌ではない。


 断章でもない。


 ただ、少年が泣くことを怖がらないように、短い旋律を置く。


『痛いと泣いたその声は、

 弱さじゃなくて道しるべ。


 ここを守って、ここを見て、

 体がそっと呼んでいる。


 泣いてもいいよ、止まっていいよ。

 明日また歩くために。』


 歌は静かに少年の周りへ落ちた。


 痛みは消えない。


 少年はまだ泣いている。


 けれど、泣くことを責める空気は薄れた。


 母親も、少年の背中を撫でながら一緒に涙ぐんでいる。


 リシアは歌を止めた。


 それでよかった。


 今日の歌は、それ以上踏み込まない方がいい。


 けれど、隣から冷たい声がした。


「優しい歌ですね」


 リシアが振り向く。


 淡い青髪の少女が、リシアを見ていた。


 その表情は穏やかではない。


 怒りとも違う。


 もっと深い、凍ったような拒絶があった。


「痛みを消さないと言いながら、痛みに意味を与える」


 少女は静かに言った。


歌術師かじゅつしは、いつもそうです」


 リシアは言葉を失った。


 その声を聞いた瞬間、シルが肩の上で身を固くした。


 毛が逆立っている。


 明らかな警戒。


 リシアは少女を見つめた。


「あなたは……」


「通りすがりです」


 少女は薬箱を閉じ、立ち上がった。


「少なくとも今は」


 その言い方に、リシアの胸元の歌詞帳がかすかに震えた。


 黒譜術の気配。


 強くはない。


 だが、確かにある。


 リシアは周囲を見た。


 少年と母親、旅人たち、商人たち。


 ここで不用意に問い詰めれば、場を危険に巻き込むかもしれない。


 少女もそれを分かっているのだろう。


 彼女はリシアへ近づき、すれ違いざまに小さく言った。


「あとで、祠の裏へ」


 そして、何事もなかったように歩き去った。


 リシアはその背中を見送る。


 シルが鋭く鳴いた。


 ちいっ。


「分かってる。危ない人かもしれない」


 ちい。


「でも、話さないわけにはいかない」


 シルは不満げに尻尾を叩いた。


 リシアは少年の母親に足の固定の確認だけしてから、祠の外へ出た。


 空は曇り始めていた。


 山の方から冷たい風が吹いてくる。


 祠の裏には、古い石碑がいくつか並んでいた。旅の安全を祈るためのものだろう。その一番奥、落葉した木の下に、青髪の少女が立っていた。


 彼女は振り返らずに言った。


「来ると思っていました」


「あなたは黒譜のこくふのたみですか」


 リシアはまっすぐ尋ねた。


 少女は少しだけ笑った。


 笑顔と呼ぶには、あまりに冷たい表情だった。


「随分と早いですね。火の断章、沈黙の断章、名の断章。三つも触れれば、さすがに分かるようになりますか」


 リシアは息を呑んだ。


「なぜ、それを知っているんですか」


「私たちは見ていますから」


「私たち?」


「黒譜の民です」


 少女はようやく振り返った。


「もっとも、すべての黒譜の民が同じ考えというわけではありません。あなたが会った者と、私が同じ答えを持っているとは限らない」


 リシアは少女の瞳を見た。


 冷たい。


 けれど、空っぽではない。


 その奥に、深い怒りと痛みが沈んでいる。


 リシアは心歌を聞こうとした。


 しかし、聞こえなかった。


 拒絶されている。


 ただ心を閉ざしているだけではない。黒譜術で、自分の内側へ届く音をすべて消している。


 完全拒絶。


 心歌が届かない条件の一つ。


 リシアは無理に聞くのをやめた。


 少女はそれを見抜いたように言う。


「聞かないのですか。人の心を歌にする歌魔術師うたまじゅつしなのに」


「拒まれている心を、無理に聞くつもりはありません」


「便利な言い方ですね」


 少女の声が少し鋭くなる。


「聞ける時は聞く。届かない時は、相手が拒んだからと言う。歌術師はいつも、自分の優しさが傷つけた可能性を相手の拒絶に変えてしまう」


 リシアは胸を刺されたような痛みを覚えた。


 反論したい。


 けれど、簡単にはできなかった。


 歌が届かない時、それは相手が拒んだからだと考えることがある。


 確かにある。


 しかし本当は、リシアが誤解している場合もある。相手が本音を認められない場合もある。歌そのものが痛みになる場合もある。


 少女の言葉は、悪意だけではなかった。


「あなたは、歌術師を憎んでいるんですね」


 リシアが言うと、少女は静かに目を細めた。


「ええ」


 はっきりした答えだった。


「私は歌が嫌いです。歌術師はもっと嫌いです」


「なぜですか」


「それを聞いて、歌にしますか」


 リシアは首を横に振った。


「しません」


「信じられません」


「それでも、しません」


 少女はリシアを見つめた。


 風が二人の間を抜ける。


 シルはリシアの肩の上で、少女から目を離さない。


 やがて少女は、低く言った。


「歌は命令より残酷です」


 その言葉に、リシアは息を止めた。


「命令なら、従わされたと分かる。抗えなかったと言える。誰かのせいにできる。でも歌は違う」


 少女は自分の胸元に手を当てた。


「歌は、人に『自分で選んだ』と思わせる。立ち上がれと歌われれば、自分の意志で立ち上がったと思う。大丈夫だと歌われれば、本当は大丈夫ではないのに、自分は大丈夫なのだと思い込む」


 リシアの脳裏に、戦場の記憶がよみがえる。


 進軍詩。


 騎士たちの背中。


 高揚した声。


 戻らなかった人々。


 アイシャ。


 リシアは拳を握った。


 少女は続ける。


「励まされた人は、歌を責められません。自分で選んだのだから。自分が弱かったのだから。自分が間違えたのだから。そうして、痛みの矛先は自分へ向かう」


「……それは」


 リシアは声が掠れた。


「間違っていると、言い切れません」


 少女の表情がわずかに動いた。


 驚きに似ていた。


 リシアは続ける。


「私も、自分の歌が誰かを追い詰めたかもしれないと思っています。励ましたつもりで、戻れない場所へ背中を押したかもしれない。だから、今も怖いです」


「なら、なぜ歌うのですか」


 少女の声が低くなる。


「怖いなら、歌わなければいい。あなたの歌が人を傷つける可能性を知っているなら、その口を閉じればいい」


 リシアはすぐには答えられなかった。


 その問いは、何度も自分に投げかけてきたものだった。


 歌わなければ、誰も傷つけないかもしれない。


 リシアの歌で誰かが誤った道へ進むこともない。


 自分の罪悪感も増えない。


 でも。


 歌わなければ届かない瞬間もあった。


 ガルドの炉。


 エマの一音。


 レムナの名前。


 歌わなかったら、消えていたものもある。


「歌わない方がいい時はあります」


 リシアはゆっくり言った。


「でも、歌わなければ届かない時もあります」


「それを決めるのは誰ですか」


 少女はすぐに問う。


「あなたですか。歌術師であるあなたが、相手に必要だと思えば歌うのですか」


 リシアの胸が痛む。


「違います」


「本当に?」


「私は、相手の代わりに決めないようにしています」


「ように、ですか」


 少女は小さく笑った。


「完璧ではないと自覚しているのですね」


「はい」


 リシアは認めた。


「私は間違えます。歌も届かないことがあります。相手の心を聞き違えることもあります」


「それでも歌う」


「はい」


 少女の灰青色の瞳が、さらに冷たくなる。


「傲慢ですね」


 その一言は、鋭くリシアへ突き刺さった。


 シルが怒ったように鳴く。


 ちいっ!


 リシアはそっとシルを撫でた。


「大丈夫」


 それから、少女へ向き直る。


「そうかもしれません」


 少女は眉をひそめた。


「認めるのですか」


「歌で人の心に触れることは、傲慢と隣り合わせです。私はそれを忘れたくありません」


 リシアは胸元の徽章に触れた。


「だからこそ、怖がりながら歌います。歌わない選択も持ったまま、歌う時は相手の前に立ちます」


 少女は黙った。


 風が冷たくなる。


 しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。


 やがて少女は、小さく言った。


「あなたは、私が思っていた歌術師とは少し違う」


 その声には、好意はない。


 だが、単なる敵意でもなかった。


「でも、だからこそ危うい」


「危うい?」


「自分が間違えると分かっている人間ほど、いつか大きな過ちを犯します。迷いながら、それでも進むからです」


 リシアは少女の言葉を受け止めた。


「あなたは、私に歌うなと言いたいんですか」


「いいえ」


 少女は首を横に振った。


「歌わないで済むなら、あなたはとっくに歌っていないでしょう」


 その言葉に、リシアは息を呑んだ。


 見抜かれている。


 少女はリシアを責めているだけではない。


 理解もしている。


 だから余計に苦しい。


「私は、あなたが歌った先に何があるのか見たい」


 少女は静かに言った。


「そして、その歌がまた誰かを傷つけるなら、私が止めます」


 シルが低く鳴いた。


 リシアは少女を見つめる。


「あなたの名前を聞いてもいいですか」


 少女は少しの間、答えなかった。


 拒むかと思った。


 だが、やがて彼女は言った。


「ノエル」


 風が止まる。


「ノエル・ヴァイス」


 その名を聞いた瞬間、歌詞帳が小さく震えた。


 ノエルはそれを見て、わずかに目を細める。


「私の名前まで歌詞帳に刻むつもりですか」


「いいえ」


 リシアはすぐに言った。


「あなたが望まないなら、刻みません」


「望むことはありません」


 ノエルははっきり言った。


「私には歌わないでください」


 その言葉は、拒絶というより、境界線だった。


 リシアは頷く。


「分かりました」


 ノエルは少しだけ驚いた顔をした。


 リシアは続ける。


「あなたが望まない限り、私はあなたに歌いません」


「……簡単に約束するのですね」


「簡単ではありません」


 リシアは静かに言った。


「でも、大切なことです」


 ノエルはリシアを見つめた。


 その目の奥に、一瞬だけ何かが揺れた。


 悲しみか。


 怒りか。


 それとも、遠い記憶か。


 しかしすぐに、彼女は表情を閉ざした。


「北東へ向かうのでしょう」


「白雪町セレスタへ」


「やはり」


 ノエルは小さく息を吐いた。


「あの町では、誰も泣きません」


「聞きました」


「泣けないのです」


 リシアは目を見開く。


 ノエルは続けた。


「悲しみを凍らせた町。誰も取り乱さず、誰も叫ばず、誰も泣かない。とても静かで、とても正しい町です」


「正しい?」


「少なくとも、あの町の人々はそう思っています」


 ノエルの声には、皮肉のようなものが混じっていた。


「悲しみは人を壊す。ならば凍らせればいい。涙は足を止める。ならば流さなければいい。そうしてあの町は、冬の中で止まっています」


 リシアの歌詞帳が強く震えた。


 雪の断章。


 今度こそ、その言葉が胸に浮かぶ。


「黒譜術が関わっているんですね」


「さあ」


 ノエルは曖昧に笑った。


「私たち黒譜の民が、すべての悲しみを作っていると思わない方がいい。人は、自分の手で自分の心を凍らせることもあります」


 リシアは言葉を失った。


 それは事実だ。


 黒譜術がなくても、人は痛みから自分を守るために心を閉ざす。


 泣かないようにする。


 感じないようにする。


 忘れようとする。


 黒譜術は、その弱さにつけ込むだけなのかもしれない。


「あなたは、なぜそれを私に教えるんですか」


 リシアが尋ねると、ノエルは少しだけ目を伏せた。


「あなたが進むからです」


「止めたいのでは?」


「止めたいですよ」


 ノエルは即答した。


「星詠みの歌は完成させてはいけない。断章を集める旅は、いずれ多くの人を巻き込む。だから本当なら、ここであなたを止めるべきです」


 シルが身構える。


 リシアも歌詞帳へ手を添えた。


 しかしノエルは動かなかった。


「でも、今日のあなたは、痛がる子どもに『泣いていい』と歌った」


 ノエルは祠の方を見た。


「痛みを消すのではなく、痛みを言葉にする余地を残した。……それが本物かどうか、私はまだ見極めたい」


 リシアはノエルの横顔を見る。


「ノエルさんは、歌に何をされたんですか」


 問いを口にした瞬間、空気が凍った。


 シルが息を呑むように動きを止める。


 ノエルの周囲に、黒い譜面が一瞬浮かんだ。


 冷たい。


 鋭い。


 拒絶。


 リシアはすぐに頭を下げた。


「すみません。踏み込みすぎました」


 ノエルは何も言わない。


 ただ、黒い譜面はしばらく消えなかった。


 やがて彼女は低く言った。


「母は、歌に救われたと言って死にました」


 リシアは顔を上げた。


 ノエルの表情は読めない。


「それだけです」


 リシアはそれ以上聞けなかった。


 その一言だけで、十分に重かった。


 歌に救われたと言って死んだ母。


 そこに何があったのかは分からない。


 けれど、ノエルが歌を憎む理由の一端は、確かにそこにある。


 ノエルは外套を翻した。


「セレスタへ行くなら、覚えておいてください」


「何をですか」


「泣けない人に、泣けと言うこともまた暴力になります」


 リシアは息を呑んだ。


 ノエルは続ける。


「涙を取り戻すことが救いだと、決めつけないことです」


「……はい」


「あなたがその町で何を歌うのか、見ています」


 ノエルはそう言って歩き出した。


 リシアは呼び止める。


「ノエルさん」


 ノエルは振り返らない。


「いつか、あなたともう一度話せますか」


 しばらく沈黙があった。


 やがて、ノエルは少しだけ顔を横へ向けた。


「話すだけなら」


 それは拒絶ではなかった。


 受け入れでもない。


 ほんのわずかな隙間。


「でも、私には歌わないでください」


「約束します」


 ノエルはそれ以上何も言わず、森の方へ歩いていった。


 その姿は、木々の影の中へ溶けるように消えた。


 残されたのは、冷たい風と、かすかな黒譜術の残響だけ。


 シルがリシアの肩の上で小さく鳴いた。


 ちい。


「うん」


 リシアは息を吐いた。


「怖い人だったね」


 シルは頷くように尻尾を揺らした。


「でも、ただ怖いだけじゃなかった」


 リシアはノエルが消えた森を見つめる。


 歌を憎む少女。


 黒譜の民。


 リシアを止める者。


 けれど、痛みを見ようとしない人ではなかった。


 少年に泣いていいと言った。


 手当てをした。


 痛みを誤魔化さなかった。


 彼女は歌を憎んでいる。


 でも、人の痛みを軽んじているわけではない。


 だからこそ、リシアにとって厄介な相手だった。


 悪として切り捨てられない。


 言葉を無視できない。


 リシアは歌詞帳を開いた。


 白紙のページに、ゆっくりと文字が浮かぶ。


『雪は、涙を隠すために降るのではない』


 リシアはその一行を見つめた。


 雪の断章。


 まだ始まりにすぎない。


 祠の方から、少年フィンの泣き声が聞こえた。


 痛みで泣いている。


 けれど、その横で母親が優しく声をかけている。


「痛かったね。ちゃんと言えてえらかったね」


 リシアは小さく微笑んだ。


 泣けること。


 泣けないこと。


 どちらにも意味がある。


 どちらか一方を救いだと決めつけてはいけない。


 セレスタの町で、リシアはきっとそれを問われる。


 リシアは歌詞帳を閉じた。


「行こう、シル」


 ちい。


「うん。今度は雪の町だね」


 シルは寒そうに体を丸めた。


「……ちゃんと防寒の布、買おうね」


 その言葉に、シルは少しだけ安心したように鳴いた。


 リシアは祠へ戻り、旅人たちに別れを告げた。


 少年フィンは涙の跡を残した顔で、リシアに手を振った。


「歌のお姉ちゃん、ありがとう」


「足、大事にしてくださいね」


「うん。痛かったら痛いって言う」


「それがいいです」


 少年は少し照れたように笑った。


 その笑顔を見て、リシアは胸の中に小さな温かさを感じた。


 ノエルの言葉は重い。


 歌は命令より残酷。


 その言葉は、きっとこれからもリシアの中に残る。


 けれど、だからこそ忘れてはいけない。


 歌は万能ではない。


 歌は優しさだけではない。


 歌うことは、いつも相手の心に触れる危うさを持っている。


 それでも、リシアは歩く。


 歌う勇気と、歌わない勇気を抱えたまま。


 北東の空には、白い雲が低く垂れ込めていた。


 その向こうに、雪の町セレスタがある。


 誰も泣かない町。


 悲しみを凍らせた町。


 リシアとシルは、冷たい風の中へ歩き出した。


 背後の祠では、少年の泣き声がようやく落ち着き、母親の優しい声がそれを包んでいる。


 そして前方の森の奥では、淡い青髪の少女が一人、誰にも聞こえない声で呟いていた。


「リシア・エルフィーネ」


 その声には、憎しみだけではない何かが混じっていた。


「あなたの歌が本当に人を救うのか、見せてもらいます」


 風が吹く。


 最初の雪が、一粒だけ街道に落ちた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、黒譜のこくふのたみの一人、ノエル・ヴァイスが本格的に登場する回でした。


ノエルは、リシアにとってただの敵ではありません。

歌を憎み、歌術師かじゅつしを疑い、リシアの歌そのものに問いを突きつけてくる存在です。


「歌は命令より残酷です」


この言葉は、リシアにとってかなり重いものになりました。


励ます歌。

背中を押す歌。

悲しみを意味あるものに変える歌。


それらは優しさである一方で、相手に「自分で選んだ」と思わせてしまう危うさも持っています。


リシア自身も、かつて戦場で進軍詩を歌いました。

その歌に励まされて前へ進み、帰らなかった人たちがいる。

だからこそ、ノエルの言葉をただ否定することはできませんでした。


けれど、リシアはそれでも歌を捨てません。

歌うことの怖さを知ったうえで、歌わない選択も持ちながら、それでも必要な時には人の心の前に立つ。


今回の出会いは、リシアにとって大きな転機の一つになると思います。


そして、次に向かうのは白雪町セレスタ。

誰も泣かない町。

悲しみを凍らせた町。


ノエルが残した言葉の通り、泣けない人に「泣いていい」と言うことが、本当に救いになるのか。

リシアは次の町で、その問いに向き合うことになります。


リシアとシルの旅を、次話も読んでいただけたら嬉しいです。

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