白雪町セレスタ編 15話 泣かない雪の町
雪は、音を吸う。
白雪町セレスタへ向かう道に入ってから、リシアは何度もそう感じていた。
山道は細く、街道と呼ぶには少し頼りない。踏み固められた土の上に薄い雪が重なり、歩くたびに靴底の下で小さく鳴った。周囲の木々は白く縁取られ、枝先に積もった雪が風に揺れるたび、粉のように舞い落ちる。
空は低い。
雲は厚く、太陽の位置も分からない。
世界全体が薄い布を被せられたように、静かだった。
リシアは外套の前をかき合わせた。
ルメルで買った防寒用の布を首元に巻いているが、それでも冷気は隙間から入り込んでくる。息を吐けば白くなり、まつ毛の先まで冷たくなる。
肩の上のシルは、丸い尻尾を体に巻きつけ、ほとんど毛玉のようになっていた。
「シル、大丈夫?」
ちい。
返事はあった。
だが、いつもの元気はない。
寒い。
とにかく寒い。
そんな声だった。
「だから、昨日もう一枚布を買おうって言ったのに」
ちい。
「『荷物が増える』って顔したの、シルだよね」
シルは目を逸らした。
リシアは小さく笑い、鞄から布を一枚取り出してシルの背にかけた。銀色の小さな体に淡い青の布が乗ると、まるで旅人というより、雪国の小さな王様のように見える。
「似合ってるよ」
シルは少しだけ胸を張った。
寒さで元気がなくても、褒め言葉は聞き逃さないらしい。
リシアは苦笑しながら、前方へ視線を向けた。
道の先に、町が見えてきた。
白雪町セレスタ。
山間の盆地に作られた町で、遠目にはまるで雪の中に沈んだ絵のようだった。尖った屋根の家々が並び、屋根には厚く雪が積もっている。煙突から上がる煙は灰色の空へまっすぐ伸び、町を囲む石壁にも白い雪がへばりついていた。
美しい町だった。
静かで、整っていて、冬の絵本の一場面のように見える。
けれど、リシアの胸は少しも軽くならなかった。
町へ近づくほど、歌詞帳がかすかに震えている。
火の断章の時のような熱ではない。
沈黙の断章の時のような重い鐘でもない。
名の断章の時のような削られる感覚でもない。
これは、冷たさだった。
歌詞帳の奥にある言葉が、薄い氷の下へ閉じ込められているような感覚。
リシアは胸元に手を添えた。
「雪の断章……なのかな」
シルが首だけ動かして、リシアを見る。
ちい。
「まだ分からない。でも、何かある」
ノエルの言葉が、頭の奥でよみがえる。
『泣けない人に、泣けと言うこともまた暴力になります』
白雪町セレスタ。
誰も泣かない町。
悲しみを凍らせた町。
もし本当に、町の人々が泣けないのだとしたら。
リシアは、そこで何を歌えばいいのだろう。
泣いていいと歌うのか。
泣かなくていいと歌うのか。
涙を取り戻すことが救いなのか。
涙を流さずにいられることもまた救いなのか。
答えはまだなかった。
リシアは足元の雪を見つめながら、ゆっくりと町の門へ向かった。
門番は二人いた。
厚手の外套を着込み、手袋をしている。片方は若い男、もう片方は年配の女性だった。どちらも旅人慣れしているようで、リシアを見ると軽く会釈した。
「ようこそ、白雪町セレスタへ」
年配の女性が言った。
声は丁寧だ。
ただ、不思議なくらい平らだった。
歓迎しているようにも、していないようにも聞こえない。
「旅の方ですね」
「はい。リシアと申します。こちらはシルです」
シルは布をかぶったまま、ちい、と鳴いた。
若い門番が一瞬だけ目を細める。
「銀色のリスとは珍しい」
普通なら、ここで少し笑いが起きてもよさそうなものだった。
だが、門番たちはそれ以上表情を動かさなかった。
「宿をお探しなら、中央通りの白灯亭へ。馬車の停留所の向かいです」
「ありがとうございます」
リシアは町の中へ入ろうとして、ふと足を止めた。
門の内側に、小さな看板が立っている。
そこには、丁寧な文字でこう書かれていた。
『涙は雪を重くする。
悲しみは静かに納めること。』
リシアは看板を見つめた。
ただの標語ではない。
町の決まりのようにも見える。
「これは……」
リシアが呟くと、年配の門番が答えた。
「古くからの言葉です」
「涙は雪を重くする、ですか」
「ええ。この町では、取り乱すことはあまり好まれません。雪国では、感情が乱れると判断が遅れますから」
説明は理屈として通っている。
吹雪の中で取り乱せば、命に関わることもあるだろう。
けれど、リシアにはそれだけではない何かを感じた。
「悲しい時も、ですか」
リシアが尋ねると、門番は少しだけ首を傾げた。
「悲しい時ほど、でしょう」
その言葉に、リシアは胸が冷えるのを感じた。
若い門番が静かに続ける。
「泣いても雪は溶けません。失った人も戻りません。ならば、静かに仕事をする方がいい」
声に冷たさはなかった。
むしろ、長く信じてきた当たり前のことを言っているだけだった。
リシアは何も言えなかった。
セレスタの中へ入る。
町は美しかった。
石畳の道はきれいに雪かきされており、家々の窓には暖かな灯りがともっている。店先には干した果物や燻製肉、毛織物が並び、広場には雪像がいくつも作られていた。白い鳥、鹿、花、そして町の守り神らしき女性像。
人通りもある。
完全に寂れた町ではない。
子どもたちもいる。
けれど、リシアはすぐに違和感に気付いた。
声が少ない。
人々は必要な会話はする。売り買いの言葉も、挨拶もある。子どもたちも走っている。
でも、笑い声がほとんどない。
泣き声もない。
感情の起伏が、雪の下に押し込められているようだった。
心歌へ意識を向ける。
すると、リシアの耳に、町の内側の声が届いた。
『今日も雪が静かだ』
『泣くな』
『取り乱すな』
『冷たくしていれば、痛みは動かない』
『大丈夫。悲しくない』
『悲しくないはず』
同じような言葉が、町のあちこちに沈んでいる。
悲しみがないのではない。
悲しみを凍らせている。
リシアは胸元の歌詞帳を押さえた。
シルも肩の上で小さく身じろぎする。
この町は、静かすぎる。
そう思った時、広場の向こうから鐘の音が響いた。
高く、澄んだ音。
葬送の鐘だった。
リシアは足を止めた。
町の人々は一斉に広場の中央へ向かっていく。
だが、誰一人として慌てていない。
悲鳴もない。
すすり泣きもない。
ただ、決められた儀式へ向かうように、静かに歩いていく。
リシアもその流れに従った。
広場の中央には、白い布に包まれた棺が置かれていた。
棺の周囲には白い花。
そのそばに、老いた女性が一人立っている。亡くなった人の家族だろう。背筋を伸ばし、手を胸元で組んでいる。
その顔に、涙はなかった。
棺の前に立つ神官らしき男が、静かに祈りの言葉を述べる。
「雪はすべてを静かに包む。悲しみも、怒りも、悔いも、やがて白く納められる。故人の旅路が穏やかでありますように」
町人たちは頭を垂れた。
誰も泣かない。
誰も声を震わせない。
棺の横に立つ老女ですら、まばたき一つ乱さない。
リシアはその心歌を聞いてしまった。
『泣くな』
『あの人が安心して眠れるように』
『泣くな』
『泣けば、皆に迷惑をかける』
『泣くな』
『もう四十年も一緒にいたのだから、十分だったはず』
『十分だったはず』
『十分だったはずなのに』
その奥で、凍りついた悲鳴が震えていた。
『置いていかないで』
リシアは息を呑んだ。
老女の顔は少しも崩れていない。
けれど心の奥では、叫んでいる。
泣きたい。
取り乱したい。
棺にすがりたい。
だが、それを許さない町の空気と、自分自身の長年の癖が、彼女を氷の中へ閉じ込めている。
リシアは一歩踏み出しかけた。
何か言わなければ。
そう思った。
しかし、足が止まる。
ノエルの声が蘇る。
『泣けない人に、泣けと言うこともまた暴力になります』
今、リシアがあの老女へ「泣いていい」と言ったら。
それは救いになるのか。
それとも、必死に保っているものを壊してしまうのか。
老女は泣きたいのかもしれない。
けれど、ここで泣けば、町人たちの視線に晒される。
四十年連れ添った人を失った痛みを、他人の前に引きずり出すことになる。
リシアは、歌わなかった。
ただ、胸元の歌詞帳を握る。
シルが肩の上で不安そうに鳴いた。
ちい。
「分かってる」
リシアは小さく呟いた。
「でも、今はまだ」
儀式は静かに進んだ。
棺は町外れの墓地へ運ばれていくという。
町人たちは列を作り、雪道を歩き出した。老女は棺のすぐ後ろを歩いている。
その横に、小さな少女がいた。
十歳くらいだろうか。
淡い金色の髪を三つ編みにし、灰色の外套を着ている。手には白い花を持っていた。
少女も泣いていない。
だが、花を握る手は真っ赤になるほど強く握りしめられていた。
リシアはその少女の心歌を聞いた。
『おじいちゃん』
『どうして寝てるの』
『おばあちゃんが泣かないから、私も泣いちゃだめ』
『泣いたら、雪が重くなる』
『泣いたら、悪い子』
リシアの胸が痛んだ。
子どもまで。
この町では、悲しみ方まで教え込まれている。
葬列が通り過ぎた後、広場には静けさが戻った。
人々は何事もなかったかのように、それぞれの仕事へ戻っていく。店の前の雪を掃く者、荷物を運ぶ者、買い物を再開する者。
リシアは広場の端に立ったまま、しばらく動けなかった。
その時、足元に何かが転がってきた。
白い花だった。
先ほどの少女が持っていたものと同じ。
リシアが拾い上げると、近くにその少女が立っていた。
葬列から抜けてきたのか、あるいは墓地へ向かう途中で戻されたのか。
少女はリシアの手元の花を見て、淡々と言った。
「それ、私のです」
「はい。どうぞ」
リシアは花を差し出した。
少女は受け取った。
その動作も、やはり静かだった。
「ありがとうございます」
「お葬式の途中では?」
「子どもは最後まで行かなくていいと言われました。寒いから」
「そうですか」
少女は頷く。
そして、リシアの肩のシルを見た。
「リス」
シルが布の中から顔を出す。
ちい。
少女は少しだけ目を丸くした。
「鳴いた」
「シルといいます」
「シル」
少女は名前を繰り返した。
その声には、少しだけ柔らかさがあった。
「私はミリカです」
「リシアです」
「旅の人?」
「はい」
「歌術師?」
リシアは胸元の徽章へ視線を落とした。
「はい。そうです」
ミリカは少し黙った。
それから、ぽつりと言った。
「歌わない方がいいです」
リシアは驚いた。
「どうして?」
「歌うと、心が動くから」
ミリカは広場の雪像へ視線を向けた。
「心が動くと、涙が出ます。涙が出ると、雪が重くなります」
「誰にそう教わったんですか」
「みんな」
あまりにも自然な答えだった。
リシアは膝をつき、ミリカと目線を合わせる。
「ミリカさんは、泣きたいですか」
問いを口にした瞬間、ミリカの表情が固まった。
心歌が凍る。
届きかけた小さな声が、氷の中へ閉じ込められる。
リシアはすぐに自分の失敗を悟った。
踏み込みすぎた。
泣きたいかどうかを、真正面から聞かれること自体が、この子には苦しいのだ。
ミリカは花を握りしめた。
「泣きません」
「すみません。聞き方が悪かったです」
「泣きません」
ミリカはもう一度言った。
自分に言い聞かせるように。
「おばあちゃんも泣いてないから。私も泣きません。おじいちゃんも、静かな方がいいから」
「ミリカさん」
「泣いたら、雪が重くなる」
その言葉を最後に、ミリカはリシアへ背を向けた。
小さな背中が、雪の中を歩いていく。
リシアは追いかけなかった。
追いかけてはいけないと思った。
今の自分は、あの子の心へ踏み込むには焦りすぎている。
リシアは立ち上がり、深く息を吐いた。
シルが頬へ前足を当てる。
ちい。
「……うん。失敗した」
リシアは認めた。
「泣いていいって言えば救えるわけじゃない。分かってたはずなのに」
ノエルの言葉が胸に残っている。
泣けない人に、泣けと言うこともまた暴力。
セレスタに来てすぐ、その意味を突きつけられた。
リシアは白い花が落ちていた場所を見つめる。
心歌を聞きすぎれば、相手の奥へ踏み込みたくなる。
苦しんでいると分かれば、助けたくなる。
でも、助けたい気持ちは時に相手の速度を無視する。
今のミリカが求めていたのは、「泣きたいですか」と問われることではなかった。
たぶん、ただ花を拾って返してもらうことだけでよかったのだ。
リシアは唇を結んだ。
この町では、急いではいけない。
雪を無理に溶かせば、下に閉じ込められたものが一気に溢れてしまう。
だが、放っておけば凍ったままだ。
どうすればいいのか。
答えはまだない。
まずは、この町を知る必要がある。
リシアは中央通りへ向かった。
白灯亭は、すぐに見つかった。
木造二階建ての宿で、入口には白い灯籠が吊るされている。中に入ると、暖炉の熱が体を包んだ。
外の冷たさに慣れかけていたせいか、その暖かさに思わず肩の力が抜ける。
シルも布の中から顔を出し、暖炉を見つけた瞬間、目を輝かせた。
「火の前に行く?」
ちい。
返事は早かった。
宿の女将は、ふくよかな中年女性だった。
名はエラというらしい。
笑顔で迎えてくれたが、その笑顔もやはりどこか抑えられている。
「旅の方ですね。一泊ですか」
「できれば数日お願いしたいです」
「セレスタに数日とは珍しいですね。今は雪も深いですし、何もありませんよ」
「少し、町を見たいと思って」
エラはリシアの胸元を見た。
「歌術師さんですか」
「はい」
「それなら、なおさら気をつけた方がいいですね」
リシアは荷物を下ろしながら尋ねた。
「歌術師は歓迎されませんか」
「嫌われているわけではありません。ただ、この町では歌はあまり好まれません」
「心が動くから、ですか」
エラの手が一瞬止まった。
それから、彼女は静かに頷いた。
「ええ。歌は心を揺らします。雪国では、心を揺らしすぎると危ないのです」
「それは、昔から?」
「昔からと言えば昔からです。でも、強くなったのは十二年前からでしょうね」
十二年前。
リシアはその数字に反応した。
「何があったのですか」
エラは少し迷った。
だが、宿帳を開きながら答えた。
「大雪崩です」
暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
「山の上の雪が崩れ、北側の通りが丸ごと呑まれました。家も、人も、家畜も。たくさん失いました」
エラの声は静かだった。
悲しげではない。
けれど、心歌の奥には薄い氷が張っている。
『あの夜を思い出すな』
『泣くな』
『泣いたら、また雪が落ちる』
『静かにしていれば、雪は眠る』
リシアは胸元の歌詞帳を握った。
大雪崩。
悲しみを凍らせた町。
その始まりは、そこにある。
「その時から、泣かないようになったのですか」
「いえ」
エラは首を横に振った。
「最初は皆、泣きました。叫びました。家族を探して、雪を掘って、何日も泣きながら名前を呼び続けました」
リシアはレムナ村の名前を呼ぶ声を思い出す。
だが、エラの声はそこで冷えた。
「けれど、二度目の雪崩が起きたのです」
「二度目?」
「救助の最中でした。泣き叫ぶ声、鐘の音、掘る音、祈りの歌。それらが雪を揺らしたのだと、当時の人々は考えました」
「本当にそれが原因だったのですか」
「分かりません」
エラは淡々と言った。
「でも、二度目の雪崩で救助に出ていた人たちまで失われました。だから町は決めたのです。悲しみは静かに納める。大声で泣かない。歌わない。鐘も必要最低限にする」
合理的にも聞こえる。
山間の雪国なら、大きな音や振動を恐れるのは自然だ。
だが、それが十二年続いた結果、町は悲しみそのものを凍らせた。
「今も、雪崩の危険が?」
「北の斜面は危険です。ですが町の中心部は安全です」
「それでも、泣かない」
エラは宿帳にリシアの名を書きながら言った。
「泣かない方が、皆、落ち着いていられます」
その声の奥で、心歌が震えた。
『泣き始めたら、止まらない』
『止まらなかったら、私は立っていられない』
リシアはエラを見た。
この人もまた、泣けないのではない。
泣き始めたら崩れてしまうことを恐れている。
「部屋は二階です。暖炉の前は自由に使ってください。リスさんも、火傷しない距離ならどうぞ」
シルが嬉しそうに鳴いた。
エラはほんの少しだけ目元を緩めた。
「かわいい子ですね」
「ありがとうございます」
リシアは鍵を受け取った。
その時、宿の扉が開いた。
冷たい風とともに、一人の男が入ってくる。
背の高い、痩せた男性だった。年齢は三十代半ばくらい。黒髪に白い雪を積もらせ、厚手の外套を着ている。手には薬草の束と、布に包まれた荷物。
エラが彼を見る。
「カイル先生。今日は早いですね」
カイルと呼ばれた男は、軽く頷いた。
「墓地で冷えた人が何人かいた。温める薬を置いていく」
「助かります」
医師か治療師だろうか。
リシアが会釈すると、カイルは彼女の胸元の徽章に目を留めた。
「旅の歌術師か」
「リシアと申します」
「カイル・スノウベル。町の治療師をしている」
「よろしくお願いします」
カイルはリシアをしばらく見つめていた。
その目には警戒がある。
しかし、敵意ではない。
「この町では、歌は控えた方がいい」
リシアは今日、何度目か分からない同じ言葉を聞いた。
「はい。無理に歌うつもりはありません」
「ならいい」
カイルはそれだけ言って、薬をエラに渡した。
だが、宿を出る直前、立ち止まった。
「今日の葬儀にいた子どもと話していたな」
「ミリカさんですか」
「そうだ」
「少しだけ」
カイルの顔がわずかに曇る。
「あの子には、あまり踏み込まない方がいい」
リシアは息を呑む。
「なぜですか」
「祖父を亡くしたばかりだから、というだけではない」
カイルは扉へ手をかけたまま言った。
「ミリカは、十二年前の雪崩で両親を失った子だ」
リシアの胸が強く痛んだ。
ミリカは十歳ほどに見えた。
十二年前なら、生まれる前ではないのか。
その疑問が顔に出たのだろう。
カイルは静かに続けた。
「正確には、母親は身重のまま雪崩に巻き込まれた。救助された時、母親は亡くなっていたが、腹の子だけが奇跡的に助かった」
リシアは言葉を失った。
「それがミリカだ」
暖炉の火が、ぱちりと音を立てる。
「彼女は生まれた時から、町の悲しみを背負わされている。皆が泣けなかった夜に生き残った子だからな」
リシアは、ミリカが白い花を握りしめていた姿を思い出した。
おじいちゃん。
泣いちゃだめ。
おばあちゃんが泣かないから。
泣いたら、雪が重くなる。
「ミリカさんは、そのことを知っているのですか」
「知っている」
カイルの声は低かった。
「そして、自分が泣けば、亡くなった人たちの悲しみまで崩れると思っている」
リシアの指先が冷たくなる。
町の悲しみ。
十二年前の雪崩。
泣かない決まり。
その中心に、ミリカがいる。
カイルは最後に言った。
「歌術師。あなたが何をしに来たのかは知らない。だが、この町の雪は簡単に溶かさない方がいい。溶けた下に何が埋まっているか、誰にも分からない」
そう言って、彼は宿を出ていった。
扉が閉まる。
宿の中に、暖炉の音だけが残る。
リシアはしばらく動けなかった。
シルが肩の上で小さく鳴く。
「……うん」
リシアは小さく答えた。
「これは、思っていたよりずっと深いね」
泣けない町。
その言葉だけでは足りない。
セレスタは、悲しみを凍らせることで生き延びてきた町だ。
泣かないことは、ただの抑圧ではない。
町が壊れないための術だった。
けれど、その術が長く続きすぎて、人々の心を凍らせている。
そしてミリカは、その象徴のような存在になってしまっている。
リシアは歌詞帳を開いた。
白紙のページに、先ほど浮かんだ一行が残っている。
『雪は、涙を隠すために降るのではない』
その下に、新しい文字がゆっくりと浮かび上がった。
『けれど、溶かせばいいとも限らない』
リシアはその一行を見つめた。
ノエルの言葉。
カイルの警告。
ミリカの凍った心歌。
すべてが一つの問いへ繋がっていく。
泣かせることが救いではない。
泣かないことも、必ずしも間違いではない。
では、リシアは何をすればいいのか。
歌は、どこに置けばいいのか。
外では、雪がまた降り始めていた。
窓の向こう、白い粒が静かに落ちていく。
音もなく。
涙の代わりのように。
リシアは窓辺へ近づいた。
遠く、町の北側に、雪で閉ざされた通りが見える。
誰も近づかない場所。
そこだけ、他の通りより雪が深く、白く盛り上がっていた。
その雪の奥から、かすかな心歌が聞こえた。
『泣かないで』
『重くなるから』
『静かにして』
『まだ、下にいる』
リシアは息を呑んだ。
下にいる。
誰が。
何が。
十二年前の雪崩で、まだ何かが埋まっているのか。
それとも、町の人々が埋めた悲しみそのものなのか。
シルが窓枠へ飛び移り、北側の通りを見つめる。
毛が逆立っていた。
黒譜術の気配は、まだはっきりしない。
だが、歌詞帳は確かに震えている。
雪の断章は、この町にある。
リシアは窓の外の白い通りを見つめながら、静かに呟いた。
「急いじゃだめだ」
雪を無理に溶かしてはいけない。
でも、雪の下にある声を、聞かないままにもできない。
リシアは歌詞帳を閉じた。
その夜、白雪町セレスタには静かに雪が降り続けた。
町の人々は泣かない。
ミリカも泣かない。
老女も泣かない。
けれど、雪の下で何かが震えている。
それは涙になる前に凍りついた、長い長い悲しみの音だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回から「白雪町セレスタ編」が始まりました。
リシアとシルが訪れたのは、雪に包まれた美しい町、セレスタ。
けれどその町では、誰も泣きません。
葬儀でも、別れの場でも、悲しみの中でも、人々は涙を流さない。
それは冷たい町だからではなく、かつて大雪崩で多くのものを失った町が、これ以上壊れないために選んだ生き方でもありました。
泣かないことは、本当に悪いことなのか。
泣けるようにすることは、本当に救いなのか。
今回、リシアはその問いに直面します。
ミリカに「泣きたいですか」と尋ねてしまった場面は、リシアにとって小さな失敗でもありました。
相手の心が悲鳴を上げていると分かっても、すぐに踏み込めばいいわけではない。
ノエルの言葉が、ここでリシアに重く響いています。
そして、町の治療師カイルから語られた十二年前の大雪崩。
ミリカが背負わされている過去。
雪の下から聞こえた、かすかな心歌。
『雪は、涙を隠すために降るのではない』
『けれど、溶かせばいいとも限らない』
この町でリシアが歌うべき歌は、まだ見えていません。
次話では、泣かない町セレスタの奥に凍りついた悲しみへ、リシアがさらに近づいていきます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




