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白雪町セレスタ編 第16話 凍った涙の下で



 白雪町セレスタの朝は、静かだった。


 窓の外には、昨夜から降り続いた雪が薄く積もっている。屋根も、道も、広場の雪像も、すべて白く覆われていた。朝日が雲の向こうから弱く差し込み、町全体を青白く照らしている。


 美しい朝だった。


 けれど、リシアはその美しさに胸を締めつけられていた。


 この町の雪は、ただ積もっているだけではない。


 何かを隠している。


 涙になる前に凍りついた悲しみ。

 泣くことを禁じられた声。

 静かにすることでしか生き延びられなかった人々の記憶。


 それらが雪の下に重なり、町全体を白く覆っているように感じた。


 リシアは窓辺に立ち、遠くの北側の通りを見つめた。


 そこだけ、他の場所より雪が深い。


 町の人々は近づかない。


 道は雪かきされず、家々の跡らしい低い影が、白い丘のように残っている。


 十二年前の大雪崩で呑まれた通り。


 リシアの耳には、昨夜聞こえた心歌がまだ残っている。


『泣かないで』


『重くなるから』


『静かにして』


『まだ、下にいる』


 まだ、下にいる。


 その言葉の意味が分からない。


 遺体がまだ見つかっていないのか。


 思い出が埋まっているのか。


 それとも、悲しみそのものが凍ったまま残っているのか。


 リシアは胸元の歌詞帳を開いた。


 白紙のページには、昨日浮かんだ二行が残っている。


『雪は、涙を隠すために降るのではない。

 けれど、溶かせばいいとも限らない。』


 その文字は、昨日より少し濃くなっている。


 まるで、町に一晩滞在したことで、言葉が雪の冷たさを吸ったかのようだった。


 肩の上のシルが、小さくくしゃみをした。


 ちいっ。


 正確には鳴き声なのか、くしゃみなのか分からない音だった。


 リシアは振り返る。


「寒い?」


 シルは布に包まったまま、目だけで抗議した。


 寒いに決まっている。


 そんな顔だ。


「暖炉のところへ行こうか」


 その言葉に、シルはすぐ頷いた。


 白灯亭の一階へ下りると、すでに暖炉には火が入っていた。


 宿の女将エラが薪を足している。暖炉の前には、昨夜泊まった旅人が二人、黙って朝食を食べていた。パンとスープの湯気がゆっくり立ち上っている。


 リシアが降りてくると、エラが顔を上げた。


「おはようございます。眠れましたか」


「はい。ありがとうございます」


「朝食をお持ちしますね」


 エラの動きは手慣れていた。


 暖かいスープ、硬めの黒パン、少しのチーズ。雪国らしい素朴な朝食だった。


 シルは暖炉の近くに置かれた小さな椅子の上へ移動し、布に包まったまま火を見つめている。完全にくつろいでいた。


 エラはそれを見て、わずかに目元を緩めた。


「本当に賢い子ですね」


「食べ物と暖かい場所には特に賢いです」


 シルが抗議するように鳴く。


 エラは小さく笑いかけた。


 けれど、その笑いはすぐに消えた。


 まるで笑ったことに気づいて、急いでしまい込んだように。


 リシアはそれを見逃さなかった。


 この町では、笑うことすら控えめだ。


 泣くことだけではない。


 心が大きく動くこと全般が、雪崩を呼ぶもののように扱われている。


 リシアはスープを一口飲んだ。


 温かさが喉を通り、冷えた体に染みていく。


「エラさん」


「はい」


「北側の通りへ行くことはできますか」


 その瞬間、エラの手が止まった。


 宿の中の空気が少し硬くなる。


 朝食を食べていた旅人たちも、ちらりとこちらを見た。


 エラはゆっくりとリシアを見た。


「あそこへ行くのですか」


「見ておきたいんです」


「観光する場所ではありません」


「分かっています」


 リシアは静かに頷いた。


「だからこそです」


 エラはすぐには答えなかった。


 暖炉の火が、ぱちりと音を立てる。


 その音ですら、宿の中では大きく響いた。


「町の者は、あまり近づきません」


 エラは低く言った。


「雪崩の跡です。今は危険な斜面ではありませんが、雪が深い。足元も悪い。それに……」


「それに?」


「あそこには、思い出が多すぎます」


 エラの心歌が、薄い氷越しに聞こえる。


『行きたくない』


『でも、忘れたわけじゃない』


『あの通りに、妹の家があった』


 リシアは息を呑んだ。


 エラも、あの雪崩で誰かを失っている。


「エラさんの妹さんが?」


 思わず口にした瞬間、エラの表情が凍った。


 リシアは自分の失敗に気づいた。


 心歌から拾ったものを、相手の許可なく言葉にしてしまった。


「すみません」


 リシアはすぐに頭を下げた。


「今のは、踏み込みすぎました」


 エラはしばらく黙っていた。


 怒ってもおかしくなかった。


 だが、彼女は静かに首を横に振った。


「……歌術師は、そういうものが聞こえるのですね」


「はい。でも、聞こえたからといって、勝手に触れていいわけではありません。本当にすみません」


 エラは暖炉の火へ視線を移した。


「妹がいました。アリサといいます。北側の通りで、夫と小さな娘と暮らしていました」


 リシアは黙って聞いた。


 今度は急がない。


 エラが話す分だけを受け止める。


「雪崩の夜、アリサは家にいました。夫は助け出されましたが、妹と娘は……」


 エラの言葉が途切れた。


 涙は出ない。


 声も震えない。


 けれど、心歌の奥で氷が軋む音がした。


『泣くな』


『十二年も前だ』


『もう受け入れたはず』


『受け入れたはずなのに』


 リシアは手を伸ばしかけて、止めた。


 今、慰める言葉をかけるべきか。


 でも、それはエラの氷を無理に割ることになるかもしれない。


 リシアはただ、静かに言った。


「話してくださって、ありがとうございます」


 エラは少し驚いたようにリシアを見た。


「泣いていい、とは言わないのですね」


 リシアの胸が痛む。


「言った方がいい時もあると思います。でも、今のエラさんに私が言うことではない気がしました」


「……そうですか」


 エラはほんの少しだけ息を吐いた。


 安心したのかもしれない。


 あるいは、落胆したのかもしれない。


 リシアには分からなかった。


「北側へ行くなら、カイル先生に案内を頼むといいでしょう。あの人は定期的に見回っています」


「見回りを?」


「ええ。雪崩跡に近づく子どもや旅人がいないか確認しています。あとは……」


 エラは言葉を選ぶように少し黙った。


「ミリカの様子も」


「ミリカさんが、北側へ?」


「時々、行ってしまうのです」


 リシアはミリカの顔を思い出した。


 白い花を握りしめ、泣かないと言った少女。


 十二年前の雪崩で母親を失い、奇跡的に生まれた子。


「なぜでしょう」


「おそらく、母親が眠っている場所だからでしょう」


 エラの声は静かだった。


「でも、あの子は泣きません。ただ雪を見ているだけです」


 その言葉が、リシアの胸に重く残った。


 朝食を終えた後、リシアはシルを肩に乗せ、白灯亭を出た。


 外は昨夜より寒い。


 雪は止んでいたが、空はまだ重く曇っている。道を歩く人々は皆、足早だ。余計な会話は少なく、必要なことだけを短く交わしていく。


 中央広場を通ると、昨日の葬儀で見た白い花が、雪像のそばにいくつか供えられていた。


 その前に、老女が立っている。


 昨日、棺の後ろを歩いていた女性だ。


 四十年連れ添った夫を失った人。


 老女は花の前に立ち、ただ静かに手を合わせていた。


 涙はない。


 リシアは通り過ぎようとした。


 今は踏み込まない。


 そう思った。


 けれど、シルが肩の上で小さく鳴いた。


 ちい。


 リシアは足を止める。


 老女がこちらに気づいた。


「旅の方ですね」


「はい。リシアと申します」


「昨日、広場にいらしたでしょう」


「はい」


 老女は白い花を見下ろしたまま言った。


「夫は、雪像を作るのが好きでした」


 リシアは少し驚いた。


 老女の方から話しかけてきた。


「この白い鳥は、夫が毎年作っていた形です。昨日、近所の者たちが作ってくれました」


 広場の雪像の一つ。


 羽を広げた白い鳥。


 リシアはそれを見る。


 美しく、今にも飛び立ちそうだった。


「素敵ですね」


「ええ。あの人は手先が器用でした。雪を固める時も、まるで木を彫るみたいに丁寧で」


 老女の心歌が、ゆっくり聞こえる。


『あの人の手』


『冷たい手なのに、いつも温かかった』


『もう握れない』


『言ってはいけない』


『取り乱してはいけない』


 リシアは老女の横に静かに立った。


「ご主人のお名前を伺ってもいいですか」


「トーマスです」


 老女はすぐに答えた。


「トーマス・ベルン。頑固で、朝が弱くて、雪像を作り始めると食事も忘れる人でした」


 少しだけ、声に温度が宿る。


 老女はそれに気づいたのか、すぐ口を閉ざした。


 リシアは優しく言った。


「素敵な方だったんですね」


「……ええ」


 老女は頷く。


 その目に涙はない。


 けれど、心の奥に小さな水音が聞こえた気がした。


 凍った湖の下で、わずかに水が動く音。


「私は、泣きませんよ」


 老女は突然言った。


 リシアは彼女を見る。


「泣けと言われても困ります」


「言いません」


「そう」


 老女は少しだけ目を細めた。


「昨日から、皆、私を見ているのです。夫を亡くした妻が泣くかどうか。私が取り乱せば、ああ、やはり悲しみは人を壊すのだと思われる。私が泣かなければ、立派だと言われる」


 声は平らだった。


 でも、その奥に疲れが滲んでいた。


「どちらも、少し違う気がします」


 リシアは慎重に言った。


「泣くか泣かないかだけで、悲しみの形は決まらないと思います」


 老女はリシアを見た。


 長い沈黙。


 やがて、老女は小さく笑った。


 本当に小さく。


「歌術師にしては、急かさないのですね」


「昨日、急ぎすぎて失敗しました」


「ミリカに?」


 リシアは頷いた。


「はい」


「そうですか」


 老女は白い鳥の雪像へ視線を戻した。


「あの子は、かわいそうな子です」


「ミリカさんが?」


「この町では、誰もが何かを失いました。でも、あの子は生まれる前から失ったことにされている」


 リシアは息を呑む。


「生まれる前から」


「ええ。皆、ミリカを見ると、十二年前を思い出す。泣けなかった夜を、凍ったままの悲しみを、奇跡のように生まれた命を」


 老女の声は静かだった。


「でも、あの子自身は、ただの子どもです。祖父を亡くして悲しいはずの、ただの子どもです」


 その言葉に、リシアの胸が締めつけられた。


 そうだ。


 ミリカは町の象徴ではない。


 雪崩の生き証人でも、悲しみを背負うために生まれた子でもない。


 祖父を亡くした、一人の少女だ。


 リシアはその当たり前のことを、改めて突きつけられた気がした。


「ありがとうございます」


 リシアが言うと、老女は不思議そうに首を傾げた。


「何がですか」


「大切なことを教えていただきました」


 老女は少し黙り、それから白い花を一輪、リシアへ差し出した。


「北側へ行くなら、これを持っていってください」


「よろしいんですか」


「夫が好きだった花です。あの人なら、雪崩跡にも一輪くらい花があった方がいいと言うでしょう」


 リシアは花を受け取った。


 冷たい花。


 けれど、老女の手から渡されたその花は、どこか温かかった。


「トーマスさんへ、何か伝えたいことはありますか」


 老女は答えなかった。


 けれど、心歌が一瞬だけ震えた。


『置いていかないで』


 それを言葉にはしない。


 リシアも、聞こえたとは言わない。


 老女はただ、白い鳥の雪像を見つめていた。


「いいえ」


 老女は静かに言った。


「まだ、言葉にできません」


「分かりました」


 リシアは頷く。


「言葉にできる時が来たら、その時でいいと思います」


 老女はリシアを見た。


 その目に、ほんのわずかに水の光が宿った。


 涙ではない。


 まだ、涙にはならない。


 けれど、完全な氷でもなかった。


「……ありがとう」


 老女はそう言った。


 リシアは深く頭を下げ、広場を後にした。


 町の治療院は、中央通りから少し外れた場所にあった。


 白い石造りの小さな建物で、入口には薬草の束が吊るされている。扉を叩くと、中からカイルの声がした。


「開いている」


 中へ入ると、薬草の匂いが強く漂っていた。


 棚には瓶や包帯、木箱が整然と並んでいる。部屋の奥では小さな火鉢が赤く光り、机の上には町の地図が広げられていた。


 カイルは椅子に座り、薬を調合しているところだった。


「歌術師か」


「リシアです」


「名前は覚えている」


 カイルは手を止めずに言った。


「北側へ行きたいのだろう」


 リシアは少し驚いた。


「エラさんから?」


「いや。あなたの顔を見れば分かる」


 カイルは乾いた薬草をすり潰しながら続けた。


「この町に来る歌術師や祈祷師は、だいたいあそこへ行きたがる。雪崩跡に悲しみが残っていると思ってな」


「実際、残っています」


「だろうな」


 カイルの声は冷静だった。


「だからといって、掘り返していいとは限らない」


「分かっています」


「本当に?」


 カイルの手が止まった。


 彼はリシアを見る。


「歌術師は、聞こえた声に答えようとする。聞こえてしまったものを、放っておくのが苦手だ」


 リシアは返答に詰まった。


 当たっている。


 聞こえたら、動きたくなる。


 助けたいと思う。


 でも、それがいつも正しいとは限らない。


「私は、急ぎません」


「昨日、ミリカに泣きたいか聞いたそうだな」


 リシアは胸が痛んだ。


「はい。失敗でした」


「ミリカは昨夜、熱を出した」


「え」


 リシアは顔を上げる。


「大事には至っていない。疲れと葬儀の緊張だ。あなたの一言だけが原因ではない」


 カイルはそう言ったが、リシアの胸は重くなった。


 自分の問いが、ミリカに負担をかけたかもしれない。


「すみません」


「私に謝ることではない」


「でも」


「謝るなら、本人にだ。ただし、謝ることであなたが楽になるためなら、やめた方がいい」


 リシアは言葉を失った。


 厳しい言葉だった。


 だが、必要な言葉でもあった。


 謝罪もまた、相手のためではなく自分の罪悪感を軽くするためになることがある。


 カイルは薬を瓶に移しながら言った。


「あの子は今、祖母の家にいる。祖父を亡くしたばかりだ。そっとしておくべきか、話を聞くべきか、私にも分からない」


「カイルさんにも?」


「私は治療師だ。体の熱なら測れる。薬も出せる。だが、心の雪の厚さまでは分からない」


 カイルは窓の外を見た。


「この町の者は、泣かないことに慣れすぎている。泣けと言われても困る。だが泣かないままでも、内側で凍傷を起こしている」


「凍傷……」


「見た目はきれいだ。痛みも鈍る。けれど、そのまま放っておけば感覚が死ぬ」


 その言葉は、セレスタそのものを表しているようだった。


 カイルは椅子から立ち上がり、壁に掛けた外套を取った。


「北側へ行くなら案内する。ただし約束しろ」


「何をですか」


「あそこで歌わないこと」


 リシアはすぐには答えられなかった。


 カイルの目は真剣だった。


「あそこには、多すぎる。誰か一人の悲しみではない。町中の悲しみが積もっている。あなたが不用意に歌えば、止めていたものが一気に動く」


「分かりました」


 リシアは頷いた。


「今は歌いません」


「今は、か」


「必要になった時まで、歌わないという意味です」


 カイルは少しだけ眉を寄せた。


 だが、それ以上は追及しなかった。


「いいだろう。来い」


 リシアはシルを肩に乗せ直し、カイルについて治療院を出た。


 北側の通りへ向かう道は、途中から急に人通りが減った。


 中央通りの店先には人がいたが、北へ進むにつれ、家の窓は閉ざされ、雪かきの跡も少なくなっていく。


 道の脇には、古い標識が立っていた。


『北通り跡地。立入注意』


 その下に、小さく別の文字。


『静かに祈ること』


 カイルは雪を踏みしめながら言った。


「ここから先は、昔の北通りだ。今は住む者はいない」


「復興はしなかったのですか」


「できなかった。地盤も悪くなったし、何より誰も住みたがらなかった」


 リシアは周囲を見渡した。


 雪の下に、家の基礎らしい石が見える。折れた柵、半分埋もれた井戸、崩れた壁の跡。すべてが雪に覆われ、白く丸められている。


 美しく見える。


 でも、その下には暮らしがあった。


 声があった。


 食事の匂い。


 子どもの足音。


 喧嘩。


 笑い声。


 そして、雪崩の夜に奪われたもの。


 リシアは心歌へ耳を澄ませた。


 すぐに後悔した。


 声が多すぎる。


『こっちだ』


『早く』


『雪が』


『息が』


『名前を呼ぶな、雪が落ちる』


『でも、ここにいる』


『助けて』


『静かに』


『寒い』


『泣かないで』


『重くなる』


 無数の残響が雪の下から滲み出している。


 リシアは足を止めた。


 頭がくらむ。


 残響歌ざんきょうかとして受け取るには、多すぎる。


 恐怖、寒さ、混乱、祈り、諦め。


 十二年前の夜が、雪の下でまだ凍っている。


 シルが頬を叩いた。


 ちいっ!


 リシアは息を吸う。


 自分の感情を保つ。


 これは私の恐怖ではない。


 これは過去の残響。


 私はリシア。


 今ここにいる。


 そう心の中で繰り返す。


 カイルが振り返った。


「聞こえたのか」


「……はい」


「だから言った。多すぎる」


 リシアは頷いた。


「ここで歌うのは危険です」


「分かったならいい」


 カイルはさらに奥へ進んだ。


 やがて、雪の丘のような場所に出た。


 そこには小さな慰霊碑が建っている。


 名前は刻まれていない。


 ただ、一文だけ。


『雪に眠るすべての人へ』


 リシアはその碑を見つめた。


 レムナの空白の木札を思い出す。


 名を知られなかった人々。


 空白を隠さないための札。


 この慰霊碑も、それに似ている。


 けれど、何かが違う。


 ここでは、名前を刻まないことで静けさを保とうとしているように見えた。


「名前は刻まないのですか」


 リシアが尋ねると、カイルは静かに答えた。


「かつては刻む予定だった」


「でも、刻まなかった」


「名前を刻めば、家族が毎日ここへ来て泣く。そう言った者がいた。だから、まとめて祈る形にした」


「誰が決めたのですか」


 カイルはしばらく黙った。


「当時の町長、神官、そして生き残った者たちだ」


「カイルさんも?」


「私は当時、まだ若い見習い治療師だった。決定権はなかった」


 リシアはカイルの心歌へ触れた。


 すぐに、凍った痛みが返ってくる。


『反対したかった』


『でも、言えなかった』


『泣いている人たちをこれ以上苦しませたくなかった』


『静かにすれば、皆が壊れずに済むと思った』


 カイルもまた、あの時の選択を背負っている。


 リシアは慰霊碑の前に立ち、老女から受け取った白い花を置いた。


「トーマスさんの奥様からです」


 カイルが少し驚いた顔をした。


「彼女が?」


「はい。ご主人が好きだった花だそうです」


 カイルは目を伏せた。


「そうか」


 その時だった。


 雪の丘の向こうに、小さな人影が見えた。


 ミリカだった。


 灰色の外套を着て、一人で雪の上に立っている。


 手には白い花。


 昨日と同じ花。


 リシアが声をかける前に、カイルが低く言った。


「ミリカ」


 少女は振り返った。


 表情は変わらない。


 熱があると聞いたが、顔色は確かに少し悪い。


「カイル先生」


「一人で来るなと言っただろう」


「ごめんなさい」


 謝罪の声も平らだった。


 リシアは一歩下がった。


 今度は急がない。


 カイルが近づき、ミリカの額に手を当てる。


「まだ熱がある」


「大丈夫です」


「大丈夫かどうかは、私が見る」


「はい」


 ミリカは素直に頷いた。


 その様子は、良い子に見えた。


 けれど、良い子であろうとしすぎている。


 カイルはため息をついた。


「祖母は?」


「寝ています。疲れているから」


「黙って出てきたのか」


「はい」


 カイルが眉をひそめる。


 ミリカは慰霊碑を見た。


「おじいちゃんに、お花を置きたくて」


「トーマスさんの墓はここではない。昨日、墓地に」


「知っています」


 ミリカは花を握りしめた。


「でも、おじいちゃんは、ここにも来た方がいいって言うと思ったから」


 リシアは胸が痛んだ。


 昨日、老女も同じようなことを言っていた。


 トーマスなら、雪崩跡にも花があった方がいいと言うだろう、と。


 ミリカは祖父のことをよく分かっている。


 ちゃんと悲しんでいる。


 それなのに、涙だけが出ない。


 ミリカはリシアに気づいた。


 表情が少し硬くなる。


「昨日の歌術師さん」


「リシアです。昨日はごめんなさい」


 リシアはゆっくり頭を下げた。


 カイルがこちらを見る。


 リシアは続けた。


「急に、泣きたいですかって聞いてしまいました。ミリカさんの気持ちを考えずに、踏み込みすぎました」


 ミリカは黙っていた。


 謝罪を受け取るべきか迷っているのかもしれない。


 あるいは、謝られてもどうしていいか分からないのかもしれない。


 リシアはそれ以上言わなかった。


 自分が楽になるために謝り続けてはいけない。


 ミリカが小さく言った。


「泣きたいかどうか、分かりません」


 リシアは顔を上げた。


「はい」


「みんな、悲しい時は泣きたいものだって思ってる。でも、この町では泣いちゃだめだって言われる。だから、私はどっちが本当なのか分かりません」


 ミリカの声は淡々としていた。


 だが、心歌の奥で氷が揺れている。


『おじいちゃん』


『おばあちゃんが静かだから、私も静かにする』


『でも、胸が冷たい』


『これが悲しいなの?』


『泣かないと、悲しくないの?』


 リシアは胸を締めつけられた。


 ミリカは、悲しみ方を知らない。


 泣くことを禁じられたせいで、自分が悲しいのかどうかすら分からなくなっている。


 カイルは静かに目を伏せた。


 彼もそれを知っているのだろう。


 でも、どうすればいいか分からない。


「ミリカさん」


 リシアは慎重に言った。


「今は、泣きたいかどうか分からなくてもいいと思います」


 ミリカがリシアを見る。


「いいの?」


「はい。分からない気持ちを、急いで決めなくてもいいです」


「泣かなくても?」


「泣かなくても」


 リシアは頷く。


「ただ、胸が冷たいとか、苦しいとか、よく分からないとか、そういうことをなかったことにしなくてもいいと思います」


 ミリカは白い花を見つめた。


「よく分からない、でもいいの?」


「はい」


 ミリカはしばらく黙っていた。


 やがて、慰霊碑の前に花を置いた。


「おじいちゃんが死んだって、分かります」


「はい」


「でも、昨日の朝みたいに、また雪像を作ってる気もします」


「はい」


「おばあちゃんが泣かないから、私も泣かない方がいいと思いました」


「はい」


「でも、おばあちゃんの手、昨日ずっと震えてました」


 ミリカの声が、ほんの少しだけ揺れた。


「それを見たら、胸がぎゅっとなりました」


 リシアは頷いた。


「それも、悲しみの一つかもしれません」


「一つ?」


「悲しみには、いろんな形があります。涙になるものもあります。怒りになるものもあります。胸が冷たくなるものも、何も感じないように思えるものもあります」


 ミリカは小さく呟いた。


「何も感じないのも?」


「はい。心が自分を守ろうとして、感じることを少し止める時もあります」


 カイルが静かにリシアを見た。


 何も言わない。


 だが、止めもしない。


 ミリカはしばらく考えた。


 そして、ぽつりと言った。


「じゃあ、私は悪い子じゃない?」


 リシアは息を呑む。


 その問いは、あまりにも小さく、あまりにも痛かった。


「もちろんです」


 リシアははっきり答えた。


「泣けなくても、悲しみ方が分からなくても、悪い子ではありません」


 ミリカの唇がかすかに震えた。


 涙は出ない。


 それでも、氷の表面に小さなひびが入ったように、心歌が揺れた。


 その瞬間。


 慰霊碑の下の雪が、かすかに沈んだ。


 ほんの少し。


 しかし、カイルがすぐに反応した。


「離れろ!」


 カイルはミリカを抱き寄せ、リシアも後ろへ下がった。


 シルが鋭く鳴く。


 雪の下から、低い音がした。


 地鳴りではない。


 歌でもない。


 凍った何かが、内側から軋む音。


 慰霊碑の前の雪面に、細い亀裂が走った。


 リシアの歌詞帳が激しく震える。


 黒譜術。


 今度は、はっきり分かった。


 雪そのものに絡みつくような黒い譜面が、亀裂の奥に一瞬だけ見えた。


 カイルも見えたらしい。


 顔色を変える。


「今のは何だ」


「黒譜術です」


 リシアは息を整えながら答えた。


「この町の悲しみに、何かが絡みついています」


 ミリカはカイルの腕の中で、慰霊碑を見つめていた。


「私が悪いの?」


「違う!」


 カイルが強い声で言った。


 ミリカが驚く。


 カイルは自分でも声を荒げたことに驚いたようだった。


 この町では珍しい、感情の出た声。


 彼は少し息を整え、それからもう一度言った。


「君のせいではない。絶対に」


 ミリカは目を見開いたまま、カイルを見ていた。


 リシアはその言葉を聞いて、胸の奥が温かくなった。


 カイルもまた、凍った町の中で感情を抑え込んできた人だ。


 だが今、ミリカに「君のせいではない」と伝えるために、声を荒げた。


 それは必要な熱だった。


 しかし、雪の亀裂は完全には消えていない。


 亀裂の奥から、心歌が漏れ出す。


『泣くな』


『声を出すな』


『また落ちる』


『静かに』


『静かに』


 そして、そのさらに奥に。


『寒いよ』


 小さな声。


 子どもの声。


 リシアは息を呑んだ。


 ミリカも何かを感じたのか、慰霊碑を見つめている。


「今、誰か……」


 カイルが眉をひそめる。


「何か聞こえたのか」


 ミリカは首を横に振りかけ、止まった。


「分からない。でも、寒いって」


 リシアはミリカを見る。


 ミリカにも聞こえた。


 心歌ではないはずだ。


 彼女は歌術師ではない。


 だが、この町の悲しみの中心にいるミリカだからこそ、雪の下の声に触れてしまったのかもしれない。


 リシアは亀裂へ近づきかけた。


 カイルが止める。


「近づくな」


「でも」


「今、歌うな。近づくな。分かっているな?」


 リシアは唇を噛んだ。


 分かっている。


 ここで無理をすれば危険だ。


 雪の下の黒譜術を刺激するだけかもしれない。


 ミリカを巻き込むかもしれない。


 リシアは一歩下がった。


「はい。今は戻りましょう」


 ミリカがリシアを見る。


「寒いって言った子は?」


 リシアはすぐには答えられなかった。


 聞こえた声が誰なのか分からない。


 十二年前に埋もれた子どもの残響か。


 ミリカ自身の凍った悲しみが、子どもの声になっているのか。


 あるいは、黒譜術が誘っているのか。


 今は分からない。


「その声が何なのか、ちゃんと確かめます」


 リシアは言った。


「でも、急に掘り返したり、歌ったりはしません」


 ミリカは不安そうだった。


「置いていくの?」


 その言葉に、リシアの胸が痛んだ。


 寒いと言う声を、置いていく。


 それは確かに残酷に聞こえる。


 でも、助けようとして雪を崩すこともまた残酷だ。


 カイルがミリカの肩に手を置いた。


「置いていくんじゃない。準備をするんだ」


 ミリカはカイルを見た。


「準備?」


「そうだ。助けるために近づくなら、まず安全を確かめる。薬を用意する。人を集める。雪の状態を見る。泣きながら飛び込むだけが、助けることじゃない」


 リシアはカイルの言葉に深く頷いた。


 この町の「静かにすること」は、すべてが間違いではない。


 雪国で生きる知恵でもある。


 ただ、それが心まで凍らせてしまった。


 なら必要なのは、静けさを壊すことではなく、静けさの中に温度を戻すことなのかもしれない。


 ミリカは小さく頷いた。


「分かった」


 その声は頼りなかった。


 けれど、昨日より少しだけ、自分の気持ちに近いところから出ているように聞こえた。


 町へ戻る道で、誰もほとんど話さなかった。


 カイルはミリカを支えながら歩き、リシアは少し後ろをついていく。


 シルは肩の上で、ずっと北側の雪崩跡を見つめていた。


 白灯亭へ戻ると、エラが心配そうに出迎えた。


「ミリカ!」


「少し熱がある。祖母の家へ送る前に、ここで温める」


 カイルがそう言うと、エラはすぐに暖炉の前へ椅子を用意した。


 ミリカは黙って座る。


 シルが少し迷った後、ミリカの膝の近くへ降りた。


 布に包まったまま、ちょこんと座る。


 ミリカはシルを見た。


「シルも寒い?」


 ちい。


「私も、寒い」


 その言葉に、エラの手が止まった。


 ミリカが自分の感覚を言葉にした。


 ただそれだけ。


 でも、この町では大きな一歩だった。


 リシアはそっと見守る。


 カイルも何も言わない。


 ミリカはシルの布の端を少し整えた。


「寒い時は、暖かいところにいた方がいいね」


 シルが頷くように鳴く。


 ミリカはほんの少しだけ表情を緩めた。


 笑顔と呼ぶにはまだ遠い。


 でも、完全な無表情ではなかった。


 その夜、リシアは白灯亭の部屋で歌詞帳を開いた。


 雪の断章のページには、新しい言葉が浮かんでいた。


『凍った涙の下にも、

 まだ消えない声がある。


 溶かすのではなく、

 砕くのでもなく、

 まずは手の温度を思い出す。』


 リシアはその文字を見つめる。


 まだ歌にはならない。


 けれど、方向は少し見えた。


 雪を無理に溶かさない。


 でも、雪の下の声を置き去りにしない。


 静けさを壊すのではなく、静けさの中に温度を戻す。


 それが、この町でリシアが探すべき歌なのかもしれない。


 窓の外では、また雪が降っている。


 北側の通りは、白い闇の中に沈んでいた。


 その奥から、かすかな声が聞こえる。


『寒いよ』


 リシアは歌わなかった。


 ただ、窓の前に立ち、両手を胸の前で重ねた。


「聞こえています」


 小さく、そう呟いた。


「でも、急ぎません。ちゃんと、迎えに行きます」


 答えはなかった。


 ただ、雪が静かに降り続けている。


 その静けさの中で、リシアの歌詞帳は淡く光り続けていた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、白雪町セレスタの奥にある悲しみへ、リシアが少しずつ近づいていく回でした。


この町では、誰も泣きません。

けれどそれは、悲しみがないからではありません。


十二年前の大雪崩。

失われた家族。

雪の下に残された記憶。

そして、泣けばまた何かが崩れてしまうかもしれないという恐れ。


セレスタの人々は、悲しみを凍らせることで、どうにか日々を生きてきました。


リシアも今回、すぐに歌うことはしませんでした。

聞こえた声にすぐ応えたい気持ちはあっても、雪を無理に溶かせば、下にあるものまで崩れてしまうかもしれない。


だからこそ今回は、歌うより先に、聞くこと、待つこと、そして急がないことを選んでいます。


ミリカは、自分が悲しいのかどうかも分からないまま、ずっと泣かない子でいようとしていました。

けれど、泣けないことも、悲しみ方が分からないことも、悪いことではありません。


そして雪の下から聞こえた声。


『寒いよ』


それは十二年前の残響なのか。

ミリカ自身の凍った悲しみなのか。

それとも、黒譜術こくふじゅつが利用している何かなのか。


雪の断章は、まだ完成していません。


『凍った涙の下にも、

 まだ消えない声がある。


 溶かすのではなく、

 砕くのでもなく、

 まずは手の温度を思い出す。』


リシアがこの町で見つけるべき歌は、少しずつ形を取り始めています。


次話では、雪の下に眠る声の正体と、セレスタの人々が凍らせてきた本当の悲しみに、さらに踏み込んでいきます。

続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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