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白雪町セレスタ編 17話 雪の下で待つ声

雪は止んだ。

けれど、白雪町セレスタを包む静けさは、まだほどけない。

昨夜、リシアのもとへ届いた小さな声。

その声が誰のものなのか、まだ答えは見えない。

溶かせばいいのか。

砕けばいいのか。

それとも、ただ待つべきなのか。

雪の下に残る声へ、リシアは静かに耳を澄ませる。


 翌朝、白雪町セレスタには、重たい雲が低く垂れ込めていた。


 雪は止んでいる。


 けれど空は白く濁り、山の稜線も、町を囲む石壁も、薄い霧の向こうにぼやけて見えた。まるで町全体が、まだ眠りの中に閉じ込められているようだった。


 白灯亭の暖炉の前で、リシアは歌詞帳を開いていた。


 昨夜浮かんだ言葉は、ページの中で静かに光っている。


『凍った涙の下にも、

 まだ消えない声がある。


 溶かすのではなく、

 砕くのでもなく、

 まずは手の温度を思い出す。』


 リシアはその文字を何度も読み返した。


 歌詞のようで、まだ歌詞ではない。


 答えのようで、まだ答えではない。


 セレスタでリシアがすべきことは、少しずつ見えてきている。だが、まだ肝心な部分が欠けていた。


 雪の下から聞こえた声。


『寒いよ』


 あれは誰の声なのか。


 十二年前に雪崩で亡くなった誰かの残響なのか。


 ミリカの内側に凍った悲しみなのか。


 それとも、黒譜術こくふじゅつが町の恐れを利用して作り出した偽物の声なのか。


 確かめないまま歌うことはできない。


 リシアは歌詞帳を閉じた。


 暖炉の前では、シルが布にくるまって丸くなっている。雪国に入ってから、シルは暖炉のそばを自分の陣地だと決めたらしい。宿の女将エラもそれを分かっていて、シル用に小さな木皿まで置いてくれていた。


 木皿には、砕いた干し果物が少しだけ入っている。


 シルはそれを大切そうに両前足で抱え、一粒ずつ食べていた。


「シル」


 リシアが呼ぶと、シルは顔だけ上げる。


「今日は北側の通りをもう一度調べることになると思う」


 ちい。


「うん。危ないのは分かってる」


 ちい。


「だから、歌わない。少なくとも、今は」


 シルはじっとリシアを見た。


 疑っている。


 リシアは苦笑した。


「本当だよ。聞こえたからって、すぐ歌わない」


 シルはまだ疑っていたが、やがて小さく鳴いた。


 それならいい。


 そう言っているようだった。


 その時、白灯亭の扉が開いた。


 入ってきたのは、治療師カイルだった。


 黒い外套に薄く雪をつけ、手袋を外しながら暖炉の方へ歩いてくる。昨夜あまり眠っていないのだろう。目の下に疲れが見えた。


 エラが厨房から顔を出す。


「カイル先生。朝食は?」


「あとでいい」


 カイルはリシアへ視線を向けた。


「リシアさん。時間はあるか」


「はい」


「昨夜の亀裂を確認してきた」


 リシアは立ち上がった。


「どうでしたか」


「広がってはいない。だが、自然にできた亀裂ではない。雪の下の古い石畳までひびが入っている」


 エラの顔が曇る。


「石畳まで?」


「ああ」


 カイルは暖炉の火で手を温めながら続けた。


「場所は慰霊碑のすぐ前だ。あそこは十二年前、北通りの中央広場だった。雪崩の後、慰霊碑を建てるために雪をならしたが、地下の構造までは詳しく調べられていない」


「地下の構造?」


 リシアが聞き返す。


 カイルは頷いた。


「セレスタの古い家には、雪室がある」


「雪室、ですか」


「食料や薬草を保存するための地下倉庫だ。雪国では珍しくない。北通りにも、いくつかあったはずだ」


 リシアは胸の奥がざわつくのを感じた。


 雪の下。


 地下。


 寒いよ、という声。


「まさか、その中に」


「分からない」


 カイルはすぐに言った。


「分からないから、軽々しく言うべきではない。だが、十二年前の記録には『未確認の地下室あり』という記述が残っている」


 エラの手から、布巾が落ちた。


「そんな話、聞いたことがありません」


 カイルは苦い顔をした。


「私も、昨日改めて記録を見直して気づいた。事故直後の記録は混乱している。死亡確認、行方不明、救助済み、再雪崩の危険。あまりに多くの情報が入り乱れていた」


「それで、見落とされていたのですか」


 リシアの声は思わず硬くなった。


 カイルは目を伏せる。


「そうかもしれない。あるいは、誰かが気づいていて、あえて触れなかったのかもしれない」


 宿の中が静まり返った。


 暖炉の火だけが、ぱちぱちと鳴っている。


 エラが低い声で言った。


「誰かが、まだ下にいるかもしれないということですか」


「遺体という意味なら、可能性はある」


 カイルは慎重に答えた。


「ただし、十二年前だ。生きている者がいるはずはない」


「分かっています」


 エラはそう言った。


 しかし、その声の奥で、心歌が震えていた。


『アリサ』


『ルカ』


『もし、あの子たちが』


『まだ、寒い場所に』


 リシアは息を呑んだ。


 アリサ。


 エラの妹。


 そして、ルカ。


 それが、アリサの娘の名前なのだろうか。


 昨日、エラは妹とその娘を雪崩で失ったと言っていた。


 リシアは今度こそ、聞こえた心歌を勝手に口にしなかった。


 代わりに、静かに尋ねる。


「エラさん。ルカさんというのは……」


 エラの目が揺れた。


 彼女はすぐには答えなかった。


 けれど、リシアがそれ以上踏み込まずに待っていると、やがて小さく頷いた。


「妹の娘です。私の姪でした」


「おいくつだったのですか」


「五歳でした」


 エラの声は平らだった。


 長い年月をかけて、そう話せるように整えた声。


「雪が好きな子でした。白い鳥の雪像を作るのが好きで、トーマスさんに作り方を教わっていました」


 リシアは昨日の広場を思い出す。


 トーマスが毎年作っていた白い鳥の雪像。


 それを近所の者たちが葬儀の日に作っていた。


 白い鳥。


 ルカという少女。


 十二年前の雪崩。


 繋がりが、少しずつ見え始める。


「ルカさんは、見つかったのですか」


 リシアが尋ねると、エラは首を横に振った。


「アリサは見つかりました。でも、ルカは最後まで見つかりませんでした」


 カイルも黙っている。


 エラは暖炉の火を見つめた。


「でも、町はすぐに慰霊碑を建てました。行方不明の者も、亡くなった者として祈るしかなかった。そうしないと、誰も先へ進めなかったから」


 その言葉には、責める響きはなかった。


 ただ、静かな疲れがあった。


「私は、それでいいと思いました。思おうとしました。ルカは雪の中で眠っている。寒くない。寂しくない。そう思わないと、耐えられなかった」


 リシアは胸が痛んだ。


 寒いよ。


 あの声がもし、ルカの残響だとしたら。


 エラが十二年間、自分に言い聞かせてきた言葉とは正反対だ。


 寒くない。


 寂しくない。


 そのはずだった。


 なのに、雪の下から聞こえた声は、寒いと言った。


 カイルは重い沈黙を破るように言った。


「町長と神官にも話す。北側の雪を調べるには、人手と道具が必要だ。ただし、町全体に伝えるのは慎重にしたい」


「なぜですか」


 リシアが尋ねると、カイルは厳しい顔をした。


「十二年前の行方不明者がまだ雪の下にいるかもしれない。そう伝えれば、町は揺れる。家族を失った者たちが一斉に北側へ向かうかもしれない」


「危険ですね」


「ああ。雪面も不安定だ。黒譜術が絡んでいるなら、なおさらだ」


 エラが両手を握りしめた。


「でも、隠すのですか」


 その問いに、カイルは答えられなかった。


 リシアも、すぐには何も言えなかった。


 隠せば、町は一時的に静かでいられる。


 だが、それはこれまでと同じだ。


 悲しみを凍らせ、見ないようにすること。


 でも、何も準備せずに伝えれば、町全体が崩れるかもしれない。


 セレスタで必要なのは、急に雪を溶かすことではない。


 けれど、雪の下の声をなかったことにもしないこと。


 リシアは静かに言った。


「まず、分かる範囲で記録を確かめませんか」


 カイルがリシアを見る。


「記録?」


「十二年前、北通りのどこに誰が住んでいたのか。雪室がどこにあったのか。行方不明者の中に、まだ見つかっていない方が何人いたのか」


 リシアはエラを見た。


「それを確かめてから、町の人たちへ伝える方がいいと思います」


 エラは小さく頷いた。


「記録なら、旧役場の書庫にあるはずです」


 カイルは息を吐いた。


「町長に話を通す。だが、時間はかけられない。あの亀裂が広がれば、地下に何かあるとしても崩れるかもしれない」


 リシアは頷いた。


「私も手伝います」


 シルが暖炉の前から顔を上げた。


 明らかに、外に出るのかという顔をしている。


「シルも」


 ちい。


 不満そうな声だった。


「あとで温かいもの、探そうね」


 ちい。


 少しだけ納得したらしい。


 午前のうちに、リシアたちは旧役場の書庫へ向かった。


 旧役場は、中央広場の北寄りにある石造りの建物だった。今は集会所として使われているが、地下に古い記録が保管されているという。


 町長への説明はカイルが行った。


 町長は痩せた初老の男性で、名をヨナスといった。白髪交じりの髪をきっちり撫でつけ、厚い羊毛の上着を着ている。話を聞く間、彼の表情はほとんど動かなかった。


 だが、心歌は違った。


『今さら』


『なぜ今さら』


『町がまた乱れる』


『でも、もし本当に』


『見なかったことにはできない』


 ヨナスもまた、この町の人間だった。


 悲しみを凍らせることで秩序を保ってきた人。


 その秩序が揺らぐことを恐れている。


 だが、完全に拒んだわけではなかった。


「記録の確認は許可する」


 ヨナスは言った。


「ただし、町民へ広く知らせるのは待ってほしい。まずは事実を確認する」


 カイルは頷いた。


「そのつもりです」


 書庫は地下にあった。


 古い紙と乾いた木の匂いがする。棚には分厚い帳面や地図が並び、ところどころに雪崩後の復興計画らしい巻物もあった。


 リシア、カイル、エラ、そして町長ヨナス。


 四人で記録を調べ始めた。


 シルはリシアの肩から棚へ飛び移り、埃をかぶった箱を器用に避けながら歩いている。時折、妙な紙束を引っ張り出してはリシアの前へ落とした。


「シル、それは関係あるの?」


 ちい。


 シルは自信満々だった。


 リシアが紙束を開くと、それは十二年前の北通りの住民台帳だった。


「……すごい」


 シルは胸を張った。


 カイルが小さく呟く。


「そのリス、本当に何者だ」


「相棒です」


 リシアは答えた。


 シルは当然という顔をした。


 住民台帳には、北通りに暮らしていた家族の名前が並んでいた。


 雪崩当時の家屋配置図。


 救助記録。


 行方不明者一覧。


 死亡確認済み。


 負傷者。


 救助者。


 再雪崩で亡くなった救助隊の記録。


 文字は整っている。


 だが、ページのところどころに滲みがあった。


 インクの滲みか。


 涙の跡か。


 今となっては分からない。


 エラが一冊の帳面を開いて、手を止めた。


「ありました」


 リシアとカイルが覗き込む。


 そこには、エラの妹家族の名前が記されていた。


『アリサ・ノルン 死亡確認』

『エリオ・ノルン 負傷後救助』

『ルカ・ノルン 行方不明』


 エラの指が、ルカの名前の上で止まる。


 声は出なかった。


 涙も出ない。


 ただ、指先だけが震えていた。


 リシアは何も言わなかった。


 カイルも、ヨナスも黙っている。


 エラはしばらくして、震える息を吐いた。


「ここに、あったんですね」


 その声には、驚きすらあった。


「この名前を、私はずっと見ないようにしていた」


 リシアは胸が締めつけられた。


 忘れたわけではない。


 けれど、見ないようにしていた。


 その名前を見れば、寒い雪の下にいる姪を想像してしまうから。


 カイルが別の記録を開いた。


「北通りの雪室配置図だ」


 古い地図には、家々の下にいくつかの地下倉庫が記されていた。


 そのうち一つが、慰霊碑の近くにある。


「ノルン家の隣です」


 エラが言った。


「共同雪室。近所の家で食料を保管していました」


 カイルが眉をひそめる。


「救助記録には、この雪室の確認が完了したとは書かれていない」


 ヨナスが硬い声で言った。


「どういうことだ」


「二度目の雪崩で、北側斜面が再び不安定になった。救助は途中で打ち切られています。その後、雪が固まり、春まで近づけなかった。春になった時には、もう……」


 カイルは言葉を切った。


 もう、生存者がいるとは考えられなかった。


 だから確認しきれなかった場所があっても、町は慰霊碑を建てて祈るしかなかった。


 リシアは地図を見つめる。


 慰霊碑の下。


 共同雪室。


 未確認。


 そこから聞こえた、寒いよ、という声。


 可能性は高い。


 ルカの残響。


 あるいは、共同雪室に避難しようとした誰かの声。


 その時、シルが突然、棚の奥へ走った。


「シル?」


 シルは古い木箱の前で止まり、強く鳴いた。


 ちいっ!


 リシアが箱を引き出す。


 蓋には、薄く文字が書かれていた。


『北通り遺留品』


 エラの顔色が変わる。


 ヨナスが小さく息を呑んだ。


「これは……保管されていたのか」


 カイルが蓋を開ける。


 中には、小さな物がいくつも入っていた。


 焦げた木片。


 割れたマグカップ。


 雪に濡れて固まったリボン。


 錆びた鍵。


 子ども用の手袋。


 そして、白い鳥の形をした木彫りの小さな飾り。


 エラの手が、震えながらその飾りへ伸びた。


「これ……」


「知っているんですか」


 リシアが尋ねる。


 エラは頷いた。


「トーマスさんが、ルカに作ってくれたものです。雪像の白い鳥を、木で彫ってくれたんです。ルカはいつも外套の紐につけていました」


 リシアは木彫りの白い鳥を見つめた。


 小さな翼。


 丸い体。


 幼い子が喜びそうな、温かい形。


 エラはそれを両手で包んだ。


 その瞬間、リシアの耳に残響歌が流れ込んできた。


 白い雪。


 小さな手。


 笑い声。


『トーマスおじちゃん、鳥さん作って』


『ほら、羽をこうやって』


『ルカも作る!』


 場面が切り替わる。


 夜。


 轟音。


 誰かの叫び。


 雪が窓を叩く音。


 子どもの泣き声。


『お母さん!』


 暗い場所。


 狭い。


 冷たい。


 小さな手が木彫りの鳥を握りしめている。


『寒いよ』


 リシアは思わず息を詰めた。


 間違いない。


 少なくとも、この木彫りにはルカの残響が残っている。


 だが、その残響の奥に、黒い譜面が絡みついていた。


『泣かないで』


『声を出さないで』


『雪が重くなる』


『静かにしていれば、痛くない』


 黒譜術は、ルカの残響を利用している。


 いや、それだけではない。


 エラの後悔、町の恐怖、カイルの沈黙、ミリカの泣けない心。


 すべてを雪の下で結び、凍らせている。


 リシアは現実へ戻った。


 足元がふらつく。


 シルがすぐに肩へ戻り、頬を叩いた。


「大丈夫……」


 声が少し震えた。


 カイルがリシアを見る。


「見えたのか」


「ルカさんの残響が、ありました」


 エラが息を止める。


「ルカは……」


 彼女はそこで言葉を失った。


 聞きたい。


 でも聞きたくない。


 その葛藤が、顔に出ていた。


 リシアは慎重に言葉を選んだ。


「この木彫りに、ルカさんの声が残っています。ただ、それが最期の瞬間なのか、途中の記憶なのかは分かりません」


 エラは木彫りを握りしめた。


「寒いと、言っていましたか」


 リシアは沈黙した。


 答えたくなかった。


 でも、ここで誤魔化すことは、また雪をかぶせることになる。


「はい」


 エラの目が大きく揺れた。


 涙は出ない。


 だが、唇が震えた。


「そう……」


 それだけだった。


 けれど、その一言の重さに、リシアは胸が苦しくなった。


 ヨナス町長が低く言った。


「このことを町に伝える必要がある」


 カイルが頷く。


「ただし、伝え方を間違えれば混乱する」


「分かっている。だが、もう隠すべきではない」


 ヨナスの声は、昨日よりも少しだけ変わっていた。


 まだ硬い。


 けれど、恐れだけではない。


「この町は、静かにすることで生き延びてきた。だが、静かにすることと、見ないことは同じではない」


 リシアはその言葉に、少し驚いた。


 町長もまた、揺れ始めている。


 カイルは地図を指差した。


「まずは慰霊碑周辺の安全確認だ。雪を掘るにしても、無闇にはできない。黒譜術の影響もある。リシアさん、あなたは残響を聞ける。どこが危険か、分かるか」


「やってみます。ただし、深く聞きすぎると危険です」


「それでいい。こちらも雪の状態を見る」


 エラが木彫りの鳥を見つめながら言った。


「私も行きます」


 カイルがすぐに首を横に振る。


「危険だ」


「ルカのものです」


 エラの声は静かだった。


 しかし、今度は引かなかった。


「十二年間、私は見ないようにしてきました。寒くないと思おうとしてきました。もう、それだけではいられません」


「エラ」


「泣くかどうかは分かりません。泣けるかも分かりません。でも、寒いと言っているなら、せめて暖かい布を持っていきたい」


 その言葉に、リシアは胸を突かれた。


 ルカはもう生きていない。


 布を持っていっても、体を温めることはできない。


 それでも。


 寒いと聞こえた声に、暖かい布を持っていきたい。


 その想いは、確かに人を悼む形だった。


 カイルはしばらくエラを見つめ、やがて短く息を吐いた。


「無理はするな」


「ええ」


 ヨナスは言った。


「私は町の者たちへ最低限の説明をする。今夜、広場に集まってもらう。全員ではなく、まずは北通りで家族を失った者たちを中心に」


「ミリカは?」


 リシアが尋ねると、カイルの表情が曇った。


「本来なら休ませたい」


「でも、あの子は聞こえています」


 リシアは言った。


「雪の下の声を。私ほどではなくても、確かに何かを感じています」


「だから危険だ」


「はい」


 リシアは頷く。


「でも、何も知らせずに遠ざければ、あの子は自分のせいだと思うかもしれません」


 カイルは黙った。


 昨日、亀裂が入った瞬間、ミリカは言った。


 私が悪いの?


 あの問いを、もう一度繰り返させてはいけない。


「ミリカさんには、ちゃんと大人がそばについた状態で説明した方がいいと思います」


 エラも頷いた。


「あの子の祖母にも話します」


 カイルは迷っていた。


 だが、やがて頷いた。


「分かった。私からも話す」


 その日の午後、セレスタの空はさらに重くなった。


 雪は降っていない。


 だが、空気は湿り、山の斜面から冷たい風が下りてくる。


 北側の通り跡には、カイル、リシア、エラ、町長ヨナス、そして数人の雪かきに慣れた男たちが集まった。彼らは皆、無言で道具を持っている。


 その少し後ろに、ミリカと祖母がいた。


 祖母の名は、ハンナというらしい。


 昨日夫トーマスを送ったばかりの老女。


 ハンナはミリカの肩に手を置き、静かに立っている。


 その顔には涙はない。


 だが、昨日よりもずっと疲れて見えた。


 エラはハンナに木彫りの白い鳥を見せた。


 ハンナはそれを見た瞬間、目を見開いた。


「これは……」


「トーマスさんが、ルカに作ってくれたものです」


 ハンナの手が震える。


「そう。あの人、ずっと探していたのよ」


 リシアはハンナを見る。


「探していた?」


 ハンナは白い鳥を見つめたまま言った。


「雪崩の後、あの人は何度も言っていた。ルカの鳥が見つからない、と。あの子はいつも身につけていたから、鳥が見つかれば、ルカの手がかりになるかもしれないって」


「それで、毎年白い鳥の雪像を?」


 ハンナは頷いた。


「ええ。あの人は、ルカに帰り道を教えるためだと言っていたわ」


 リシアの胸が震えた。


 トーマスは、泣かなかったかもしれない。


 取り乱さなかったかもしれない。


 でも、ずっと呼んでいたのだ。


 白い鳥の形で。


 ルカが帰ってこられるように。


 ミリカが木彫りの鳥を見つめている。


「ルカちゃん……」


 彼女の声は小さかった。


「おばあちゃん、ルカちゃんって?」


 ハンナはミリカの髪を撫でた。


「昔、この町にいた女の子よ。あなたより少し小さい子だった」


「雪の下にいるの?」


 誰もすぐには答えられなかった。


 ハンナは深く息を吸った。


「分からないわ。でも、もし寂しがっているなら、私たちはもう一度、ちゃんと探さなければいけない」


 ミリカは花を握りしめる。


「泣かないで探すの?」


 その問いに、ハンナは固まった。


 泣かないで。


 静かに。


 それがこの町の決まりだった。


 しかしハンナは、長い沈黙の後、ゆっくり首を横に振った。


「泣くかどうかは、まだ分からない」


 ミリカが祖母を見上げる。


「でも、泣かないために探すのではないわ」


 ハンナの声が、ほんの少し震えた。


「忘れないために、探すの」


 ミリカはその言葉をじっと聞いていた。


 リシアは胸元の歌詞帳が温かく震えるのを感じた。


 それは、雪を溶かす熱ではない。


 凍えた手に、そっと触れるような温度だった。


 作業が始まった。


 カイルが雪の状態を確認し、男たちが慎重に雪を掘る。


 大きな音を立てない。


 急がない。


 リシアは慰霊碑の前に立ち、残響へ耳を澄ませる。


 深く入りすぎない。


 黒譜術の気配に引き込まれないよう、シルが肩の上で時折リシアの頬を叩く。


 ちい。


「大丈夫。聞きすぎない」


 リシアは小さく答える。


 雪の下から、声が聞こえる。


『寒いよ』


『鳥さん』


『お母さん』


『静かにしなきゃ』


『雪が落ちるから』


『でも、寒いよ』


 リシアは胸が苦しくなる。


 ルカの残響だ。


 完全な意識ではない。


 十二年前の最後の感覚が、黒譜術に絡め取られ、何度も何度も繰り返されている。


 寒い。


 静かにしなきゃ。


 助けてほしい。


 でも、声を出してはいけない。


 その矛盾の中で凍っている。


 リシアは歌いたかった。


 大丈夫だと。


 もう声を出していいと。


 寒くないように迎えに来たと。


 けれど、歌わなかった。


 今はまだ。


 今リシアが歌えば、雪の下の黒譜術が一気に動く。


 それに、これはリシア一人が迎えに行くべき声ではない。


 エラがいる。


 ハンナがいる。


 ミリカがいる。


 町の人々がいる。


 この町が、自分たちの凍らせた悲しみへ向き合わなければならない。


 リシアは静かに言った。


「右ではなく、少し左です。古い石壁の残響があります」


 カイルが作業員に指示を出す。


 雪を掘る音が続く。


 しばらくして、金属の道具が何か硬いものに当たった。


「石だ」


 男の一人が言った。


 雪を払うと、古い石の縁が現れた。


 地下へ続く入口の一部。


 共同雪室だ。


 エラが口元を押さえる。


 ハンナも目を閉じた。


 ミリカは花を握りしめている。


 カイルが慎重に調べる。


「崩れているが、隙間がある。中は空洞かもしれない」


「入れるのですか」


 リシアが尋ねると、カイルは首を横に振った。


「すぐには無理だ。支えを組まなければ危険すぎる」


 その時、石の隙間から冷たい風が吹いた。


 リシアの歌詞帳が強く震える。


 シルが毛を逆立てる。


 黒い譜面が、石の隙間から滲み出した。


 カイルが叫ぶ。


「下がれ!」


 作業員たちが後ろへ下がる。


 黒い譜面は雪の上を這い、白い地面に細い線を描いた。


 その線は、まるで凍った涙の跡のように、慰霊碑へ向かって伸びていく。


 ミリカが息を呑んだ。


 黒い譜面がミリカの足元へ近づく。


 リシアは歌詞帳を開きかけた。


 しかし、その前にハンナがミリカの前に立った。


 老いた体で、震えながら。


「この子のせいにしないで」


 ハンナの声が、雪の中に響いた。


 町の人々が驚いて彼女を見る。


 ハンナは黒い譜面を睨んでいる。


「この子は何も悪くない。ミリカは、私たちの悲しみを背負うために生まれた子じゃない」


 ミリカの目が大きく開かれた。


 ハンナの声は震えていた。


 だが、止まらなかった。


「ルカも、アリサも、トーマスも、みんな大切だった。でも、だからといって、ミリカが泣けない子でいなければならない理由にはならない」


 リシアは胸が熱くなるのを感じた。


 ハンナが、言った。


 ずっと凍らせてきた言葉を。


 ミリカは唇を震わせている。


「おばあちゃん……」


 ハンナは振り返り、ミリカの頬に手を添えた。


「泣けなくてもいい。泣いてもいい。分からなくてもいい。でも、あなたが悪いわけではない」


 その瞬間、黒い譜面が激しく揺れた。


 リシアは守護詩を短く歌った。


 強い歌ではない。


 ハンナとミリカの間に生まれた言葉を、黒譜術に奪わせないための歌。


 青い光が二人を包む。


 黒い譜面が少し退く。


 だが、完全には消えない。


 石の隙間の奥から、あの声が聞こえた。


『寒いよ』


 今度は、リシアだけではない。


 エラも、ハンナも、ミリカも、カイルも。


 その場にいた全員が、かすかにその声を聞いた。


 エラが息を呑む。


「ルカ……?」


 黒い譜面が、まるで返事をするように震えた。


 しかし、次の瞬間、その声を覆うように別の声が響いた。


『泣くな』


『静かにしろ』


『悲しみを動かすな』


『雪は重くなる』


 町の言葉だ。


 十二年間、セレスタが唱え続けてきた言葉。


 それが黒譜術に変わり、ルカの残響を縛っている。


 リシアは奥歯を噛んだ。


 黒譜術は外からこの町に悲しみを植えたのではない。


 町が自分たちを守るために選んだ言葉が、黒譜術に利用されている。


 泣くな。


 静かにしろ。


 悲しみを納めろ。


 その言葉が、ルカの「寒い」を十二年間閉じ込めてきた。


 エラが一歩前へ出た。


 カイルが止めようとする。


「エラ、危険だ」


「分かっています」


 エラは木彫りの白い鳥を胸に抱えていた。


 そして、石の隙間へ向かって言った。


「ルカ」


 その名を呼んだ瞬間、雪が小さく揺れた。


 リシアは息を呑む。


 エラの声は震えていない。


 でも、氷の下で水が動いている。


「寒かったね」


 たった一言。


 それだけで、エラの顔が崩れそうになった。


 だが涙は出ない。


 まだ出ない。


 それでも、彼女は続けた。


「寒くないって、私は思おうとしていた。そう思わないと、耐えられなかった。でも……寒かったよね」


 石の隙間から、冷たい風が吹く。


 黒い譜面が薄くなる。


 代わりに、小さな白い光が見えた。


 木彫りの鳥が、エラの手の中でかすかに温かく光る。


 ミリカが一歩前へ出た。


「ルカちゃん」


 ハンナが止めようとしたが、ミリカは首を横に振った。


「私、ミリカ」


 自分の名前を言った。


 その声は小さかったが、はっきりしていた。


「私は、泣けるか分からない。でも、寒いのは分かる」


 ミリカは自分の手袋を外した。


 そして、エラの持つ木彫りの鳥へそっと触れる。


「私も、寒い時は暖炉の前にいる。シルも、寒いと布にくるまる」


 シルが小さく鳴いた。


 ちい。


 場違いなほど小さな音。


 けれど、その音が、張りつめた空気を少しだけ柔らかくした。


 ミリカは続けた。


「だから、ルカちゃんにも暖かい布を持ってくる」


 エラが小さく息を詰めた。


 ハンナが口元を押さえる。


 リシアは歌詞帳を握りしめた。


 これだ。


 涙ではない。


 叫びでもない。


 でも、確かな温度。


 悲しみを溶かすのではなく、凍えた声に手を伸ばす温度。


 雪の断章の形が、少し見えた。


 その時、黒い譜面が急に広がった。


 まるで、温度が戻ることを拒むように。


 石の隙間から黒い線が噴き上がり、慰霊碑を包み込む。


 雪面に亀裂が走る。


 作業員たちが悲鳴を上げる。


 カイルが叫んだ。


「全員下がれ! 崩れる!」


 リシアは咄嗟に静律結界を張ろうとした。


 怒りや恐怖を消すのではなく、一瞬だけ止める結界。


 だが、ここで感情を止めすぎれば、また町の悲しみを凍らせることになるかもしれない。


 一瞬だけ。


 本当に、一呼吸だけ。


 リシアは短い静律結界を歌った。


 空気が止まる。


 雪の崩れも、悲鳴も、黒い譜面の動きも、ほんの一瞬だけ遅くなる。


「今のうちに!」


 カイルが人々を下がらせる。


 ハンナがミリカを抱き、エラも後ろへ引かれる。


 リシアの額に汗が滲んだ。


 長く使ってはいけない。


 抑えた恐怖が戻る時、もっと大きくなる。


 リシアは結界を解いた。


 その瞬間、雪が大きく崩れる。


 だが、人は巻き込まれなかった。


 慰霊碑の前の雪が沈み、古い石の入口が半分だけ姿を現した。


 共同雪室の入口。


 その奥は暗い。


 黒い譜面が、入口の縁に絡みついている。


 そして、奥から聞こえた。


『鳥さん、飛んで』


 小さな声。


 ルカの声。


 エラが膝をつきそうになる。


 カイルが支える。


 リシアの歌詞帳が開いた。


 ページに新しい文字が浮かぶ。


『雪の下で待つ声は、

 涙を求めているのではない。

 寒かったと、言ってもよい場所を求めている。』


 リシアはその文字を見つめる。


 これは、まだ完成ではない。


 でも、もう逃げられない。


 共同雪室の入口が開いた。


 そこに、ルカの残響がある。


 そして、町が十二年間凍らせてきた悲しみの核も。


 カイルはリシアの隣に立った。


「今日はここまでだ」


「はい」


 リシアは頷いた。


 今すぐ中へ入れば危険だ。


 支えを組み、灯りを準備し、黒譜術への対策も必要だ。


 だが、入口は見つかった。


 声も、町の人々へ届いた。


 もう、なかったことにはできない。


 エラが木彫りの鳥を抱きしめながら、雪室の入口を見つめていた。


 涙はまだ出ない。


 けれど、彼女は小さく呟いた。


「明日、迎えに行くから」


 ミリカも隣で頷く。


「暖かい布、持ってくる」


 ハンナはミリカの肩を抱きながら、空を見上げた。


「トーマス。あなたの鳥、見つかったわ」


 その声は震えていた。


 けれど、静かな町に確かに響いた。


 遠くで、風が吹く。


 雪が舞う。


 その中に、一瞬だけ淡い青髪の少女の姿が見えた気がした。


 ノエル。


 彼女は町外れの木陰から、こちらを見ていた。


 リシアと目が合う。


 ノエルの表情は読めない。


 けれど、唇だけがわずかに動いた。


『泣かせるのですか』


 声は聞こえなかった。


 でも、リシアにはそう言っているように見えた。


 リシアは小さく首を横に振る。


 泣かせるためではない。


 凍えた声を迎えに行くためだ。


 そう答えるように。


 ノエルはしばらくリシアを見つめ、やがて雪の向こうへ姿を消した。


 北側の通り跡に、夜が近づいている。


 共同雪室の暗い入口は、明日を待つように静かに口を開けていた。


 その奥から、もう一度だけ小さな声が聞こえた。


『寒いよ』


 今度は、リシアだけではない。


 エラも、ミリカも、ハンナも、カイルも。


 その場にいた誰もが、その声に背を向けなかった。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、白雪町セレスタに隠されていた十二年前の大雪崩の記憶と、雪の下から聞こえる声の正体に近づく回でした。


見つからなかった少女ルカ。

白い鳥の木彫り。

そして、町の人々が長い間聞かないようにしてきた「寒いよ」という声。


セレスタの人々は、悲しみを凍らせることで日々を守ってきました。

けれど今回は、エラ、ハンナ、ミリカたちが少しずつその悲しみに向き合い始めています。


リシアも、すぐに歌で解決するのではなく、聞こえた声をどう受け止めるべきかを慎重に選んでいます。

この編で大切なのは、「泣かせること」ではなく、「悲しみをなかったことにしないこと」です。


今後の文字数については、基本的に一話あたり八千〜一万字前後を目安に進めていく予定です。

ただし、クライマックス回や大きな転機の回は少し長めになり、小休止回はやや短めになる場合があります。


次話では、共同雪室の奥へ踏み込み、雪の断章に関わる核心へ近づいていきます。

続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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