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白雪町セレスタ編 第18話 雪解けを急がない歌

 翌朝、セレスタの町には、鐘が鳴らなかった。


 いつもなら夜明けを告げる小さな鐘が、町の中央広場に一度だけ響く。それを合図に店が開き、雪かきが始まり、子どもたちが家の前へ出てくる。


 けれど、その朝だけは違った。


 鐘は鳴らなかった。


 代わりに、人々は静かに北側の通り跡へ集まり始めていた。


 大きな声はない。


 騒ぎもない。


 ただ、皆が何かを抱えていた。


 毛布。

 花。

 古い玩具。

 小さな灯り。

 誰かの名前が書かれた木札。

 湯気の立つ薬湯を入れた瓶。


 雪の下で待つ声へ、何を持っていけばいいのか。


 誰にも正解は分からない。


 それでも、手ぶらでは行けないと、それぞれが思ったのだろう。


 白灯亭の前で、リシアは外套の紐を結び直していた。胸元には歌詞帳。腰にはいつもの小さな鞄。肩には、淡い青の布に包まったシルがいる。


 シルはいつもより口数が少なかった。


 もちろん、普段も「ちい」と鳴くだけだ。


 それでも、今日は明らかに違う。


 干し果物を見ても飛びつかず、暖炉から離れる時も文句を言わなかった。琥珀色の目は、ずっと北側の空を見ている。


「シル」


 リシアが呼ぶと、シルは顔だけこちらへ向けた。


「怖い?」


 ちい。


 短い返事だった。


 怖い。


 でも行く。


 そう言っているように聞こえた。


「私も怖い」


 リシアは静かに言った。


「でも、行こう」


 シルは小さく頷いた。


 そこへ、宿の女将エラが出てきた。


 彼女は厚い外套を着て、両手に布包みを抱えていた。中には毛布と、温めた石、それから小さな木箱が入っている。


 木箱の中には、昨日見つかった白い鳥の木彫りが収められていた。


「エラさん」


「準備はできています」


 エラの声は、いつもと同じように静かだった。


 けれど、昨日までと少し違う。


 悲しみを閉じ込めるための静けさではない。


 崩れないように、慎重に抱えている静けさだった。


「無理はしないでください」


 リシアがそう言うと、エラは小さく頷いた。


「ええ。泣けるかどうかも、分かりません」


「それでいいと思います」


「でも、逃げないようにはします」


 その言葉に、リシアはゆっくり頷いた。


 しばらくして、カイルが治療院の方から歩いてきた。


 彼は道具袋を背負い、支え木や縄を持った男たちを連れている。顔には疲れが残っていたが、目ははっきりしていた。


「雪室の入口に支えを組む。中へ入るのは、私とリシアさん、それからエラだけだ」


 カイルは周囲にそう告げた。


 男たちの一人が不安そうに言う。


「俺たちは?」


「入口の補強と、外での待機だ。中で崩落があれば、外に人手が必要になる」


「分かった」


 その近くに、ミリカと祖母ハンナが立っていた。


 ミリカは昨日と同じ灰色の外套を着ている。手には白い布。小さな子どもの肩にかけるには少し大きいが、大人用の毛布よりは小さい。


 ハンナが用意したものだろう。


 ミリカはリシアを見ると、少しだけ近づいてきた。


「リシアさん」


「はい」


「これ、ルカちゃんに持っていってください」


 ミリカは白い布を差し出した。


 その布には、端の方に小さな白い鳥の刺繍があった。少しいびつで、まだ習いたての針運びだと分かる。


「これは、ミリカさんが?」


 ミリカは頷いた。


「昨日、少しだけ縫いました。鳥には見えないかもしれないけど」


「見えます」


 リシアは丁寧に受け取った。


「きっと、分かります」


 ミリカの表情がわずかに緩む。


 けれど、すぐに不安が混ざった。


「私は、中に入れないんですよね」


 カイルが答える前に、リシアは膝を折り、ミリカと目線を合わせた。


「今日は入らない方がいいです。危険だから」


「子どもだから?」


「それもあります。でも、それだけではありません」


 リシアは少し言葉を選んだ。


「ミリカさんは、もう十分に近くまで来てくれました。昨日、ルカさんに『暖かい布を持ってくる』って言ってくれたでしょう」


「はい」


「その言葉は、ちゃんと届いています。だから今日は、外で待っていてください。待つことも、迎えに行くことの一つだと思います」


 ミリカは布を渡した手を胸の前で握った。


「待つことも?」


「はい。寒い場所から帰ってくる人を、外で待つ人が必要です」


 ミリカは少し考え、やがて頷いた。


「分かりました。待っています」


 ハンナがミリカの肩を抱いた。


 その手は震えていた。


 けれど、ミリカから目を逸らしてはいなかった。


 北側の通り跡へ向かう道は、昨日よりも踏み固められている。


 多くの人が同じ場所へ歩いたからだ。


 慰霊碑の前には、町長ヨナスが立っていた。彼は昨夜のうちに北通りで家族を失った人々へ説明をしたらしい。全員ではないが、かなりの人数が集まっている。


 泣いている者はいない。


 叫ぶ者もいない。


 だが、誰も完全に無表情ではなかった。


 口を結んでいる者。

 手袋の中で拳を握っている者。

 足元の雪を見つめている者。

 古い木札を胸に抱いている者。


 それぞれの中で、凍った何かが少しずつ軋んでいる。


 ヨナスはリシアたちを迎えると、深く頷いた。


「支え木の準備はできている。入口は昨夜より広がってはいない」


「黒譜術の反応は?」


 カイルが尋ねる。


「見える者はいないが、近づくと寒気が強くなる」


 リシアは慰霊碑の方へ目を向けた。


 昨日、雪が崩れ、半分だけ姿を現した共同雪室の入口。そこには支え木が組まれ、縄が張られていた。入口の石は古く、ところどころ砕けている。


 その隙間から、黒い譜面が薄く滲んでいた。


 黒譜術はまだある。


 けれど昨日より、少し弱くなっているように見えた。


 町の人々が、聞こえた声に背を向けなかったからだろうか。


 エラが木箱を胸に抱き、入口の前に立つ。


 顔色は悪い。


 それでも、足は引いていなかった。


「行きましょう」


 リシアは頷いた。


「はい」


 中へ入る前に、リシアは歌詞帳を開いた。


 ページには、昨日の言葉が残っている。


『雪の下で待つ声は、

 涙を求めているのではない。

 寒かったと、言ってもよい場所を求めている。』


 その下は、まだ白紙だった。


 リシアはそっとページに触れた。


「まだ、歌にはしない」


 シルが肩の上で小さく鳴く。


 カイルが灯り石を掲げた。


「入るぞ」


 共同雪室の中は、想像していたよりも狭かった。


 入口をくぐると、すぐに冷たい空気が肌を刺した。外も寒いはずなのに、ここは別の種類の寒さだった。風がない。音もない。閉じ込められた冷気が、十二年間そのまま残っているようだった。


 壁は石造りで、古い木の棚がいくつも倒れている。かつては野菜や肉、薬草や保存食が置かれていたのだろう。今はすべて朽ち、凍り、形を失っている。


 灯り石の光が、白い霜に反射した。


 リシアは足元に気をつけながら進む。


 シルは肩の上で体を硬くしていた。


 ちい。


「うん。黒譜術が濃い」


 雪室の奥から、細い黒い線が壁を這っている。譜面のような文様が、石の隙間に染み込み、霜の上を走っていた。


 それは、歌を閉じ込めるための譜面ではない。


 声を小さくし、感情を眠らせ、悲しみを凍らせる譜面。


 リシアはその気配に触れた瞬間、胸が詰まった。


『泣くな』


『静かに』


『声を出すな』


『雪が落ちる』


『悲しみを納めろ』


 町の言葉。


 この十二年、セレスタが自分たちに言い聞かせてきた言葉。


 それが黒譜術に変わり、雪室の奥へ流れ込んでいる。


 カイルが低く言った。


「奥に空間がある」


 崩れた棚の向こう、石壁が一部落ちている。そこに小さな隙間があった。


 大人が通るには狭い。


 だが、子どもなら入り込める。


 エラの息が止まった。


 彼女は木箱を強く抱きしめる。


「ルカ……」


 リシアは一歩前へ出た。


「私が先に見ます」


「私も」


 エラが言った。


 カイルは厳しい顔をした。


「危険だ」


「分かっています。でも、ここまで来て、後ろで待つことはできません」


 エラの声は静かだったが、動かなかった。


 カイルは短く息を吐く。


「なら、私の後ろに。石に触れるな。足元を見ろ」


 三人は慎重に隙間の奥へ進んだ。


 小さな空間だった。


 共同雪室の奥に作られた、さらに小さな保管場所。低い天井。壁際に倒れた籠。割れた瓶。凍りついた布。


 その中央に、小さな外套があった。


 幼い子ども用の外套。


 色はほとんど失われている。


 けれど、胸元の紐に、何かが結ばれていた跡がある。


 エラが崩れるように膝をついた。


 声は出なかった。


 涙も出なかった。


 ただ、喉の奥で空気が詰まったような音がする。


 リシアは胸が痛くて、しばらく動けなかった。


 ルカはここにいた。


 十二年前、雪崩の夜に。


 誰にも見つけられないまま。


 寒いと言い続けたまま。


 カイルは目を伏せた。


 治療師である彼は、何かを確認しようとして、けれどやめた。


 今この場で必要なのは、事実を乱暴に確かめることではない。


 ここにいたということを、受け止めることだった。


 エラは震える手で木箱を開けた。


 中の白い鳥の木彫りを取り出し、小さな外套のそばに置く。


「ルカ」


 声は掠れていた。


「鳥さん、見つかったよ」


 その瞬間、雪室の奥の空気が揺れた。


 リシアの耳に、残響歌が流れ込む。


 幼い足音。


 雪を叩く音。


 母親の声。


『ルカ、こっちへ。雪室の奥にいて。すぐ迎えに来るから』


『お母さんは?』


『大丈夫。すぐ戻るわ。鳥さんを持って、静かにしていて』


『うん。ルカ、静かにする』


 轟音。


 揺れる地面。


 棚が倒れる音。


 暗闇。


『お母さん?』


 返事はない。


『静かにする』


 小さな声。


『雪が落ちるから』


 時間が過ぎる。


 どれほど過ぎたのか、幼い子には分からない。


『寒いよ』


 鳥の木彫りを握る手。


『鳥さん、飛んで』


『お母さんに言って』


『ルカ、ここにいるよって』


 リシアは口元を押さえた。


 感情が流れ込んでくる。


 寒さ。

 恐怖。

 母を待つ気持ち。

 声を出してはいけないと思う我慢。

 それでも助けてほしい願い。


 残響が濃すぎる。


 リシア自身の感情と混ざりそうになる。


 これは私の記憶ではない。


 これはルカの残響。


 私はリシア。


 今ここにいる。


 そう繰り返したが、胸の奥が凍りついていく。


 リシアは思わず歌いそうになった。


 大丈夫。


 もう寒くない。


 迎えに来たよ。


 そんな言葉を、すぐに歌にしたくなった。


 けれど、その瞬間、ノエルの声が頭をよぎる。


『痛みに意味を与える』


 リシアは唇を噛んだ。


 大丈夫なんて、言えない。


 ルカは大丈夫ではなかった。


 寒かった。


 怖かった。


 待っていた。


 それを、優しい歌で包んでしまっていいはずがない。


 エラが外套の前に座り込んだまま、ゆっくり口を開いた。


「ごめんね」


 その言葉は、雪室の中に小さく落ちた。


「ごめんね、ルカ」


 リシアはエラを見る。


 エラの顔は歪んでいた。


 それでも涙は出ない。


 出ないまま、彼女は言葉を続けた。


「寒くなかったって、思おうとした。寂しくなかったって、思おうとした。もう眠っているから大丈夫だって、そう思おうとした」


 声が震える。


「でも、寒かったよね。寂しかったよね。待ってたよね」


 黒い譜面が壁を走った。


『泣くな』


『悲しむな』


『静かに納めろ』


 その声が、エラの言葉を押し潰そうとする。


 リシアは歌詞帳を開いた。


 歌うのではない。


 まず、守る。


 エラが自分の言葉でルカに触れようとしている。


 その声を黒譜術に奪わせない。


 リシアは短く守護詩を紡いだ。


「凍れる音の下に、消えぬ声よ。

 今だけ、誰かの手を拒まないで」


 青白い光が、エラの周囲に広がる。


 黒い譜面が少し退く。


 しかし、完全には消えない。


 むしろ奥で膨らむように濃くなった。


 カイルが叫ぶ。


「リシアさん、壁が!」


 石壁から黒い譜面が伸び、リシアの歌詞帳へ絡みつこうとした。


 リシアは身を引く。


 シルが肩から飛び出し、黒い譜面の前で鋭く鳴いた。


 ちいっ!


 その鳴き声に、黒い譜面が一瞬だけ怯んだ。


 リシアは目を見開く。


 シルの体が淡く光っていた。


 ほんの一瞬。


 銀色の毛並みの奥に、星のような小さな光が走った。


「シル……?」


 シルは何も答えない。


 ただ、いつもより真剣な目で黒い譜面を睨んでいる。


 リシアの胸がざわめいた。


 けれど、今は考えている暇はない。


 雪室の奥で、ルカの残響が揺れている。


『静かにしなきゃ』


『でも寒いよ』


『泣いちゃだめ』


『でも、お母さん』


 相反する感情が、黒譜術に縛られて繰り返される。


 リシアは歌詞帳を強く握った。


 これは、リシア一人の歌では届かない。


 ルカを待っている人は、外にもいる。


「カイルさん」


 リシアは言った。


「外の人たちに、声を届けたいです」


「どうする」


「静律結界を逆に使います。恐怖を止めるのではなく、今ここで聞こえている声が、外へ届くように一瞬だけ静けさを整えます」


 カイルの顔が険しくなる。


「危険は?」


「あります。私が聞きすぎれば、残響に引き込まれます」


「やめろと言ったら?」


「でも、必要です」


 リシアはカイルを見る。


「町の人たちが、聞かなければいけない声です。私が代わりに歌うだけでは、また同じになります」


 カイルは歯を食いしばった。


 だが、止めなかった。


「倒れそうになったら引き戻す」


「お願いします」


 リシアは目を閉じた。


 歌ではなく、呼吸を整える。


 雪室の冷たさを感じる。


 ルカの残響を、すべて自分の中へ入れない。


 ただ、閉じ込めている壁に小さな窓を作る。


 リシアは低く唱えた。


「静けさよ、閉じるためでなく、聞くために。

 凍れる部屋の声を、外の手へ渡して」


 青白い光が雪室に広がった。


 次の瞬間、雪室の外で待っていた人々にも、かすかな声が届いた。


『寒いよ』


 外がざわめいた。


 しかし、悲鳴ではなかった。


 誰も逃げなかった。


 ミリカが入口の外で息を呑む。


 ハンナが彼女の肩を抱く。


 ヨナス町長が、慰霊碑の前で目を閉じる。


 北通りで家族を失った人々が、それぞれ持ってきた花や木札を握りしめる。


『鳥さん、飛んで』


 ルカの声が、もう一度響いた。


 小さい。


 とても小さい。


 だが、確かに届いた。


 エラは雪室の奥で、木彫りの鳥へミリカの白い布をかけた。


「ルカ。遅くなってごめん」


 今度は、エラ一人ではなかった。


 外から、ハンナの声が届いた。


「ルカ。トーマスが、ずっと白い鳥を作っていたわ」


 続いて、ミリカの声。


「ルカちゃん。これ、私が縫った布です。鳥さん、ちょっと変だけど、持ってきました」


 町長ヨナスの声も聞こえた。


「北通りの名を、記録に戻す。見つからなかった者たちを、まとめてではなく、一人ずつ記す」


 別の女性の声。


「アリサ、あなたの家の窓辺にあった花鉢、私が預かっていたの。ごめんね、言えなくて」


 男の声。


「兄さん。雪崩の夜、俺だけ助かって、ずっと言えなかった。悔しかった。怖かった」


 町の人々が、ぽつりぽつりと声を出し始める。


 泣き叫ぶのではない。


 感情を爆発させるのでもない。


 だが、確かに言葉が生まれている。


 ずっと凍らせてきた名前。

 言えなかった後悔。

 思い出すと崩れそうで触れられなかった記憶。


 それらが、静かな雪の上に一つずつ置かれていく。


 黒い譜面が激しく揺れた。


『泣くな』


『声を出すな』


『悲しみは雪を重くする』


 その声に、ノエルのものとは違う響きが混ざる。


 黒譜術の声だ。


 けれど、その根にあるのは、町自身の恐れだった。


 リシアはそれを聞きながら、痛いほど理解した。


 黒譜術がすべてを作ったわけではない。


 セレスタの人々は、本当に怖かったのだ。


 泣けば崩れる。


 叫べばまた雪が落ちる。


 悲しみに触れれば、自分たちが壊れてしまう。


 だから、静かにした。


 だから、納めた。


 だから、凍らせた。


 それは間違いだけではない。


 生き延びるために必要だった時間もある。


 でも、十二年たった今も、その言葉に縛られ続ける必要はない。


 リシアは歌詞帳を開いた。


 白紙だった部分に、文字が浮かび始める。


 今なら歌える。


 泣かせる歌ではない。


 立ち上がれと励ます歌でもない。


 寒かったと言っていい場所を作る歌。


 泣けなくても、悲しめなくても、それでも手を伸ばしていいと伝える歌。


 リシアは息を吸った。


 歌えば、きっとリシア自身も痛む。


 ルカの寒さを、町の後悔を、エラの罪悪感を、ミリカの分からなさを、すべて受けることになる。


 けれど、これは進軍詩ではない。


 誰かを前へ押し出す歌ではない。


 誰かを無理に泣かせる歌でもない。


 ただ、閉じ込められた声のそばに灯す歌だ。


 リシアは歌った。


『雪よ、まだ溶けなくていい。

 涙よ、まだ流れなくていい。


 寒かったと告げる声を、

 誰も責めない場所がある。


 泣けない朝も、

 震えない唇も、

 悲しみを知らない証ではない。


 凍ったままの心にも、

 小さな手の温度は届く。


 急がなくていい。

 崩れなくていい。

 それでも、忘れたふりをしなくていい。


 白い雪の下に眠る声よ、

 あなたは痛みだけではなかった。


 鳥を待った夜も、

 母を呼べなかった息も、

 寒いと震えた時間も、

 ここにいたあなたの証。


 涙にならない悲しみも、

 声にならない祈りも、

 消えたわけではない。


 だから今、手を伸ばす。

 遅すぎる手でも、

 震える手でも、

 あなたを忘れないために。


 雪解けを急がない。

 春を押しつけない。

 ただ、凍えた名のそばに、

 小さな灯を置いていく。


 寒かったね。

 待っていたね。

 もう、聞こえないふりはしない。


 泣いてもいい。

 泣けなくてもいい。

 それでも私たちは、

 あなたのいた場所へ帰ってくる。』


 歌声が雪室の中に満ちた。


 黒い譜面が震える。


 最初は抵抗するように、壁や霜にしがみついていた。


 だが、外から町の人々の声が重なる。


「ルカ」


「アリサ」


「兄さん」


「母さん」


「トーマス」


「北通りのみんな」


 名前が呼ばれる。


 まとめてではなく、一人ずつ。


 知っている人は、思い出とともに。

 知らない人は、知らなかったことを認めながら。


 ミリカの声が、最後に届いた。


「私は、ミリカです」


 リシアは歌いながら、その声を聞いた。


「ルカちゃんの代わりじゃありません。でも、ルカちゃんを忘れない子になります」


 その言葉に、黒い譜面が大きく裂けた。


 雪室の奥で、白い鳥の木彫りが淡く光る。


 リシアの歌詞帳から、雪のような白い光が溢れた。


 火の断章の時のような熱ではない。


 沈黙の断章のような音の広がりでもない。


 名の断章のような呼び合う光でもない。


 これは、冷たさの中に残る温度だった。


 凍った手を握る時の、ゆっくりと戻る血の温かさ。


 黒い譜面が解けていく。


 破壊されたのではない。


 薄くなり、ほどけ、雪に吸い込まれるように消えていく。


 そして、雪室の奥に、小さな残響が現れた。


 幼い少女の影。


 輪郭は薄く、はっきりとは見えない。


 けれど、胸には白い鳥を抱えている。


 ルカ。


 エラが息を呑んだ。


「ルカ……」


 少女の残響は、エラを見た。


 そして、ほんの少し笑ったように見えた。


『鳥さん、帰ってきた』


 声は、もう寒さだけではなかった。


 エラが手を伸ばす。


 触れることはできない。


 それでも、彼女は手を伸ばした。


「帰ってきたよ」


 ルカの残響は、次に外の方を向いた。


 ハンナの声が届く。


「トーマスに伝えるわ。あなたの鳥は、ちゃんと飛んだって」


 ミリカの声も続く。


「ルカちゃん。寒かったって言っていいよ」


 少女の残響は、木彫りの鳥を抱きしめる。


『寒かった』


 その一言が、雪室の中に落ちる。


 誰も否定しなかった。


 誰も「もう大丈夫」と急がなかった。


 誰も「悲しまなくていい」と言わなかった。


 ただ、その言葉を受け止める。


 寒かった。


 そう言ってよかったのだと、町全体が初めて認める。


 エラの頬を、何かが伝った。


 一粒だけ。


 涙だった。


 エラ自身も驚いたように目を見開く。


 その涙はすぐに冷たい空気の中で消えそうになった。


 けれど、確かに流れた。


「ごめんね」


 エラは言った。


「それから……帰ってきてくれて、ありがとう」


 ルカの残響は、白い鳥を胸に抱いたまま、ゆっくり薄れていく。


 消えるというより、凍った場所から解放され、雪の中へ静かに溶けていくようだった。


 最後に、小さな声が聞こえた。


『鳥さん、飛んだよ』


 白い光が舞った。


 雪室の霜が、少しだけ輝く。


 リシアの歌が終わる。


 途端に、体から力が抜けた。


 膝が崩れそうになる。


 カイルがすぐに支えた。


「無理をしすぎだ」


「……すみません」


「謝る元気があるなら立てるな」


 言い方は厳しい。


 だが、支える手はしっかりしていた。


 シルがリシアの肩へ戻り、頬を何度も叩いた。


 ちい、ちいっ。


「うん。大丈夫」


 リシアは小さく笑う。


「ちょっと、聞きすぎただけ」


 シルは不満そうに鳴いた。


 それは大丈夫ではない、という顔だった。


 雪室の外へ出ると、町の人々が静かに待っていた。


 誰も大声で泣いてはいない。


 だが、何人かは目元を押さえていた。


 涙が出ない者もいた。


 ただ立ち尽くしている者もいた。


 それでも、昨日までとは違っている。


 泣けるかどうかではない。


 自分の中の悲しみに、少しだけ顔を向けている。


 それだけで、雪の空気が変わっているように感じた。


 ミリカが駆け寄ってきた。


「リシアさん」


「待っていてくれて、ありがとう」


 リシアはミリカへ白い布を返そうとして、手を止めた。


 布は、木彫りの鳥と一緒にルカのそばへ置いてきた。


「布、ルカさんのところへ置いてきました」


 ミリカは頷いた。


「はい」


「鳥の刺繍、ちゃんと見てくれたと思います」


 ミリカの表情が、ほんの少し揺れた。


「泣けません」


「はい」


「でも、胸が痛いです」


「はい」


「これが悲しいなら、私は今、悲しいです」


 リシアはそっと頷いた。


「それでいいと思います」


 ミリカはハンナの方を見た。


「おばあちゃんも?」


 ハンナはミリカを抱き寄せた。


「私も、悲しいわ」


 その声は震えていた。


「トーマスがいなくて悲しい。ルカが寒かったと知って悲しい。アリサに会いたくて悲しい」


 涙はまだ流れていない。


 でも、ハンナは自分の悲しみを口にした。


「でも、あなたがいてくれて嬉しい」


 ミリカの目が大きく開く。


 ハンナは続けた。


「あなたは誰かの代わりじゃない。ミリカは、ミリカよ」


 ミリカは祖母の胸に顔を埋めた。


 泣き声は聞こえない。


 けれど、その小さな肩が、初めて子どもらしく震えていた。


 町長ヨナスが慰霊碑の前に立った。


 彼はしばらく沈黙し、それから町の人々へ向かって言った。


「北通りの記録を改める」


 人々が顔を上げる。


「見つかった者、見つからなかった者、名を残せなかった者。そのすべてを、できる限り一人ずつ記す。慰霊碑にも、まとめてではなく、名前を刻む場所を作る」


 ざわめきが広がった。


 反対の声もあるかもしれない。


 名前を刻めば、悲しみが戻る。


 毎日その名を見ることになる。


 けれど、ヨナスは続けた。


「悲しみは、雪を重くするだけではなかった。忘れたふりをすることもまた、重かったのだと、今日分かった」


 その言葉に、誰もすぐには答えなかった。


 だが、一人の男が持っていた木札を慰霊碑の前に置いた。


 続いて、別の女性が花を置いた。


 また一人。


 また一人。


 人々が持ってきたものを、慰霊碑の前へ置いていく。


 泣く者もいた。


 泣けない者もいた。


 どちらも、誰にも責められない。


 リシアはその様子を見つめながら、胸元の歌詞帳を開いた。


 ページには、白い光を帯びた文字が浮かんでいる。


『雪の断章』


 その下に、先ほど歌った歌詞が、静かに刻まれていた。


 リシアは指でそっとなぞる。


 雪の断章。


 四つ目の断章。


 だが、手に入れたという感覚はあまりなかった。


 むしろ、預かったのだと思った。


 ルカの声。

 エラの涙。

 ミリカの「悲しい」。

 ハンナの言葉。

 町の人々の、まだ形にならない悼み。


 そのすべてを、一節として預かったのだ。


 その時、背後から声がした。


「泣かせなかったのですね」


 リシアは振り返った。


 少し離れた雪道に、ノエル・ヴァイスが立っていた。


 淡い青の髪に雪がかかっている。黒譜の民の装束をまとい、静かな目でこちらを見ていた。


 シルがすぐに身構える。


 リシアは歌詞帳を閉じた。


「泣くことを目的にはしませんでした」


「でも、泣いた人はいました」


「はい」


「それを救いだと思いますか」


 ノエルの問いは鋭い。


 けれど、以前のようにただ刺すだけではなかった。


 確かめているようにも聞こえた。


 リシアは少し考えて答えた。


「分かりません」


 ノエルの目がわずかに細くなる。


「分からない?」


「はい。エラさんが流した涙が救いなのか、痛みなのか、私には決められません」


「では、あなたは何をしたのですか」


「寒かったという声を、寒かったまま受け止める場所を作ろうとしました」


 リシアはノエルを見る。


「それが正しかったかは、まだ分かりません。でも、聞こえないふりはしたくなかった」


 ノエルはしばらく黙っていた。


 雪が二人の間に舞い落ちる。


 やがて、彼女は言った。


「あなたは、歌を疑いながら歌うのですね」


「疑わずに歌うのが、怖いんです」


「それで救えると思っているのですか」


「救えるとは言い切れません」


 リシアは正直に答えた。


「でも、傷つけるかもしれないと知っているからこそ、歌わない選択も持っていたい。歌う時は、その怖さごと引き受けたい」


 ノエルの表情は変わらなかった。


 けれど、心歌はほとんど聞こえないまま、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。


 遠い過去の残響。


『お母さん』


 それだけが、かすかに触れた。


 リシアは踏み込まなかった。


 約束したからだ。


 ノエルが望まない限り、彼女には歌わない。


 ノエルはリシアから視線を外し、慰霊碑の前の人々を見た。


「セレスタは、黒譜術だけで凍っていたわけではありません」


「分かっています」


「人は、自分で自分の痛みを凍らせます。時に、それは必要です」


「はい」


「だから、すべての氷を溶かそうとしないでください」


「しません」


 ノエルは再びリシアを見た。


「その言葉を、忘れないで」


 そう言って、彼女は背を向けた。


 リシアは追わなかった。


 今追いかけても、彼女は答えないだろう。


 ノエルの背中は、降り始めた雪の中へ消えていった。


 夕方、セレスタには久しぶりに鐘が鳴った。


 それは朝を告げる鐘ではない。


 葬送の鐘でもない。


 町長ヨナスが決めた、新しい鐘だった。


 北通りで失われた人々の名を記録し直すための、始まりの鐘。


 高く、澄んだ音が一度だけ町に響く。


 人々は顔を上げた。


 泣く者もいる。


 泣けない者もいる。


 けれど誰も、そのどちらかを責めなかった。


 リシアは白灯亭の前に立ち、その音を聞いていた。


 シルは肩の上で、ようやく干し果物をかじっている。


「食欲、戻ったね」


 ちい。


 当たり前だ。


 そんな返事だった。


 リシアは小さく笑う。


 その笑い声は、雪の中に静かに溶けた。


 セレスタの雪は、まだ溶けない。


 明日も、明後日も、この町には雪が降るだろう。


 悲しみも、すぐには消えない。


 エラの涙も、ハンナの痛みも、ミリカの分からなさも、町の人々の後悔も、簡単に癒えるものではない。


 それでいいのだと思った。


 雪解けを急がなくていい。


 春を押しつけなくていい。


 ただ、寒かったと告げる声を、もう聞こえないふりはしない。


 リシアは胸元の歌詞帳に手を添えた。


 火、沈黙、名、雪。


 四つの断章が、静かに重なっている。






 けれど、今日リシアは一つだけ確かめた。


 歌は涙を命じるものではない。


 歌は春を押しつけるものでもない。


 歌はただ、凍えた声のそばに置く小さな灯になれるかもしれない。


 その灯を、どう受け取るかは、その人自身が決める。


 白い雪が、まだ降っている。明日も、明後日も、この町に春は来ないだろう。それでいい、とリシアは思った。雪解けを急がない歌を、四つ目の断章として預かったのだから。


 ――ただ、ひとつだけ。


 雪室で黒い譜面を睨んだとき、シルの毛並みの奥を走った星のような光。あれが何だったのか、シルは肩の上で素知らぬ顔をして、干し果物をかじっている。


 火、沈黙、名、雪。集まるほどに、隣にいる相棒のことが、少しだけ分からなくなっていく。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、白雪町セレスタ編のクライマックスでした。


十二年前の大雪崩で見つからなかった少女ルカ。

雪の下に残されていた「寒いよ」という声。

そして、その声を聞かないようにしてきた町の人々。


リシアは今回、誰かを無理に泣かせる歌ではなく、悲しみを急いで溶かさない歌を選びました。


泣いてもいい。

泣けなくてもいい。

けれど、寒かったという声を、もう聞こえないふりはしない。


この出来事によって、歌詞帳には新たに「雪の断章」が刻まれました。


今回手に入れた歌詞は


『雪よ、まだ溶けなくていい。

 涙よ、まだ流れなくていい。


 寒かったと告げる声を、

 誰も責めない場所がある。


 泣けない朝も、

 震えない唇も、

 悲しみを知らない証ではない。


 雪解けを急がない。

 春を押しつけない。


 寒かったね。

 待っていたね。

 もう、聞こえないふりはしない。』


火、沈黙、名に続き、リシアは四つ目の断章を手にしました。

次回からは、セレスタを離れ、また新たな旅へ進んでいきます。


続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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