白雪町セレスタ編 第18話 雪解けを急がない歌
翌朝、セレスタの町には、鐘が鳴らなかった。
いつもなら夜明けを告げる小さな鐘が、町の中央広場に一度だけ響く。それを合図に店が開き、雪かきが始まり、子どもたちが家の前へ出てくる。
けれど、その朝だけは違った。
鐘は鳴らなかった。
代わりに、人々は静かに北側の通り跡へ集まり始めていた。
大きな声はない。
騒ぎもない。
ただ、皆が何かを抱えていた。
毛布。
花。
古い玩具。
小さな灯り。
誰かの名前が書かれた木札。
湯気の立つ薬湯を入れた瓶。
雪の下で待つ声へ、何を持っていけばいいのか。
誰にも正解は分からない。
それでも、手ぶらでは行けないと、それぞれが思ったのだろう。
白灯亭の前で、リシアは外套の紐を結び直していた。胸元には歌詞帳。腰にはいつもの小さな鞄。肩には、淡い青の布に包まったシルがいる。
シルはいつもより口数が少なかった。
もちろん、普段も「ちい」と鳴くだけだ。
それでも、今日は明らかに違う。
干し果物を見ても飛びつかず、暖炉から離れる時も文句を言わなかった。琥珀色の目は、ずっと北側の空を見ている。
「シル」
リシアが呼ぶと、シルは顔だけこちらへ向けた。
「怖い?」
ちい。
短い返事だった。
怖い。
でも行く。
そう言っているように聞こえた。
「私も怖い」
リシアは静かに言った。
「でも、行こう」
シルは小さく頷いた。
そこへ、宿の女将エラが出てきた。
彼女は厚い外套を着て、両手に布包みを抱えていた。中には毛布と、温めた石、それから小さな木箱が入っている。
木箱の中には、昨日見つかった白い鳥の木彫りが収められていた。
「エラさん」
「準備はできています」
エラの声は、いつもと同じように静かだった。
けれど、昨日までと少し違う。
悲しみを閉じ込めるための静けさではない。
崩れないように、慎重に抱えている静けさだった。
「無理はしないでください」
リシアがそう言うと、エラは小さく頷いた。
「ええ。泣けるかどうかも、分かりません」
「それでいいと思います」
「でも、逃げないようにはします」
その言葉に、リシアはゆっくり頷いた。
しばらくして、カイルが治療院の方から歩いてきた。
彼は道具袋を背負い、支え木や縄を持った男たちを連れている。顔には疲れが残っていたが、目ははっきりしていた。
「雪室の入口に支えを組む。中へ入るのは、私とリシアさん、それからエラだけだ」
カイルは周囲にそう告げた。
男たちの一人が不安そうに言う。
「俺たちは?」
「入口の補強と、外での待機だ。中で崩落があれば、外に人手が必要になる」
「分かった」
その近くに、ミリカと祖母ハンナが立っていた。
ミリカは昨日と同じ灰色の外套を着ている。手には白い布。小さな子どもの肩にかけるには少し大きいが、大人用の毛布よりは小さい。
ハンナが用意したものだろう。
ミリカはリシアを見ると、少しだけ近づいてきた。
「リシアさん」
「はい」
「これ、ルカちゃんに持っていってください」
ミリカは白い布を差し出した。
その布には、端の方に小さな白い鳥の刺繍があった。少しいびつで、まだ習いたての針運びだと分かる。
「これは、ミリカさんが?」
ミリカは頷いた。
「昨日、少しだけ縫いました。鳥には見えないかもしれないけど」
「見えます」
リシアは丁寧に受け取った。
「きっと、分かります」
ミリカの表情がわずかに緩む。
けれど、すぐに不安が混ざった。
「私は、中に入れないんですよね」
カイルが答える前に、リシアは膝を折り、ミリカと目線を合わせた。
「今日は入らない方がいいです。危険だから」
「子どもだから?」
「それもあります。でも、それだけではありません」
リシアは少し言葉を選んだ。
「ミリカさんは、もう十分に近くまで来てくれました。昨日、ルカさんに『暖かい布を持ってくる』って言ってくれたでしょう」
「はい」
「その言葉は、ちゃんと届いています。だから今日は、外で待っていてください。待つことも、迎えに行くことの一つだと思います」
ミリカは布を渡した手を胸の前で握った。
「待つことも?」
「はい。寒い場所から帰ってくる人を、外で待つ人が必要です」
ミリカは少し考え、やがて頷いた。
「分かりました。待っています」
ハンナがミリカの肩を抱いた。
その手は震えていた。
けれど、ミリカから目を逸らしてはいなかった。
北側の通り跡へ向かう道は、昨日よりも踏み固められている。
多くの人が同じ場所へ歩いたからだ。
慰霊碑の前には、町長ヨナスが立っていた。彼は昨夜のうちに北通りで家族を失った人々へ説明をしたらしい。全員ではないが、かなりの人数が集まっている。
泣いている者はいない。
叫ぶ者もいない。
だが、誰も完全に無表情ではなかった。
口を結んでいる者。
手袋の中で拳を握っている者。
足元の雪を見つめている者。
古い木札を胸に抱いている者。
それぞれの中で、凍った何かが少しずつ軋んでいる。
ヨナスはリシアたちを迎えると、深く頷いた。
「支え木の準備はできている。入口は昨夜より広がってはいない」
「黒譜術の反応は?」
カイルが尋ねる。
「見える者はいないが、近づくと寒気が強くなる」
リシアは慰霊碑の方へ目を向けた。
昨日、雪が崩れ、半分だけ姿を現した共同雪室の入口。そこには支え木が組まれ、縄が張られていた。入口の石は古く、ところどころ砕けている。
その隙間から、黒い譜面が薄く滲んでいた。
黒譜術はまだある。
けれど昨日より、少し弱くなっているように見えた。
町の人々が、聞こえた声に背を向けなかったからだろうか。
エラが木箱を胸に抱き、入口の前に立つ。
顔色は悪い。
それでも、足は引いていなかった。
「行きましょう」
リシアは頷いた。
「はい」
中へ入る前に、リシアは歌詞帳を開いた。
ページには、昨日の言葉が残っている。
『雪の下で待つ声は、
涙を求めているのではない。
寒かったと、言ってもよい場所を求めている。』
その下は、まだ白紙だった。
リシアはそっとページに触れた。
「まだ、歌にはしない」
シルが肩の上で小さく鳴く。
カイルが灯り石を掲げた。
「入るぞ」
共同雪室の中は、想像していたよりも狭かった。
入口をくぐると、すぐに冷たい空気が肌を刺した。外も寒いはずなのに、ここは別の種類の寒さだった。風がない。音もない。閉じ込められた冷気が、十二年間そのまま残っているようだった。
壁は石造りで、古い木の棚がいくつも倒れている。かつては野菜や肉、薬草や保存食が置かれていたのだろう。今はすべて朽ち、凍り、形を失っている。
灯り石の光が、白い霜に反射した。
リシアは足元に気をつけながら進む。
シルは肩の上で体を硬くしていた。
ちい。
「うん。黒譜術が濃い」
雪室の奥から、細い黒い線が壁を這っている。譜面のような文様が、石の隙間に染み込み、霜の上を走っていた。
それは、歌を閉じ込めるための譜面ではない。
声を小さくし、感情を眠らせ、悲しみを凍らせる譜面。
リシアはその気配に触れた瞬間、胸が詰まった。
『泣くな』
『静かに』
『声を出すな』
『雪が落ちる』
『悲しみを納めろ』
町の言葉。
この十二年、セレスタが自分たちに言い聞かせてきた言葉。
それが黒譜術に変わり、雪室の奥へ流れ込んでいる。
カイルが低く言った。
「奥に空間がある」
崩れた棚の向こう、石壁が一部落ちている。そこに小さな隙間があった。
大人が通るには狭い。
だが、子どもなら入り込める。
エラの息が止まった。
彼女は木箱を強く抱きしめる。
「ルカ……」
リシアは一歩前へ出た。
「私が先に見ます」
「私も」
エラが言った。
カイルは厳しい顔をした。
「危険だ」
「分かっています。でも、ここまで来て、後ろで待つことはできません」
エラの声は静かだったが、動かなかった。
カイルは短く息を吐く。
「なら、私の後ろに。石に触れるな。足元を見ろ」
三人は慎重に隙間の奥へ進んだ。
小さな空間だった。
共同雪室の奥に作られた、さらに小さな保管場所。低い天井。壁際に倒れた籠。割れた瓶。凍りついた布。
その中央に、小さな外套があった。
幼い子ども用の外套。
色はほとんど失われている。
けれど、胸元の紐に、何かが結ばれていた跡がある。
エラが崩れるように膝をついた。
声は出なかった。
涙も出なかった。
ただ、喉の奥で空気が詰まったような音がする。
リシアは胸が痛くて、しばらく動けなかった。
ルカはここにいた。
十二年前、雪崩の夜に。
誰にも見つけられないまま。
寒いと言い続けたまま。
カイルは目を伏せた。
治療師である彼は、何かを確認しようとして、けれどやめた。
今この場で必要なのは、事実を乱暴に確かめることではない。
ここにいたということを、受け止めることだった。
エラは震える手で木箱を開けた。
中の白い鳥の木彫りを取り出し、小さな外套のそばに置く。
「ルカ」
声は掠れていた。
「鳥さん、見つかったよ」
その瞬間、雪室の奥の空気が揺れた。
リシアの耳に、残響歌が流れ込む。
幼い足音。
雪を叩く音。
母親の声。
『ルカ、こっちへ。雪室の奥にいて。すぐ迎えに来るから』
『お母さんは?』
『大丈夫。すぐ戻るわ。鳥さんを持って、静かにしていて』
『うん。ルカ、静かにする』
轟音。
揺れる地面。
棚が倒れる音。
暗闇。
『お母さん?』
返事はない。
『静かにする』
小さな声。
『雪が落ちるから』
時間が過ぎる。
どれほど過ぎたのか、幼い子には分からない。
『寒いよ』
鳥の木彫りを握る手。
『鳥さん、飛んで』
『お母さんに言って』
『ルカ、ここにいるよって』
リシアは口元を押さえた。
感情が流れ込んでくる。
寒さ。
恐怖。
母を待つ気持ち。
声を出してはいけないと思う我慢。
それでも助けてほしい願い。
残響が濃すぎる。
リシア自身の感情と混ざりそうになる。
これは私の記憶ではない。
これはルカの残響。
私はリシア。
今ここにいる。
そう繰り返したが、胸の奥が凍りついていく。
リシアは思わず歌いそうになった。
大丈夫。
もう寒くない。
迎えに来たよ。
そんな言葉を、すぐに歌にしたくなった。
けれど、その瞬間、ノエルの声が頭をよぎる。
『痛みに意味を与える』
リシアは唇を噛んだ。
大丈夫なんて、言えない。
ルカは大丈夫ではなかった。
寒かった。
怖かった。
待っていた。
それを、優しい歌で包んでしまっていいはずがない。
エラが外套の前に座り込んだまま、ゆっくり口を開いた。
「ごめんね」
その言葉は、雪室の中に小さく落ちた。
「ごめんね、ルカ」
リシアはエラを見る。
エラの顔は歪んでいた。
それでも涙は出ない。
出ないまま、彼女は言葉を続けた。
「寒くなかったって、思おうとした。寂しくなかったって、思おうとした。もう眠っているから大丈夫だって、そう思おうとした」
声が震える。
「でも、寒かったよね。寂しかったよね。待ってたよね」
黒い譜面が壁を走った。
『泣くな』
『悲しむな』
『静かに納めろ』
その声が、エラの言葉を押し潰そうとする。
リシアは歌詞帳を開いた。
歌うのではない。
まず、守る。
エラが自分の言葉でルカに触れようとしている。
その声を黒譜術に奪わせない。
リシアは短く守護詩を紡いだ。
「凍れる音の下に、消えぬ声よ。
今だけ、誰かの手を拒まないで」
青白い光が、エラの周囲に広がる。
黒い譜面が少し退く。
しかし、完全には消えない。
むしろ奥で膨らむように濃くなった。
カイルが叫ぶ。
「リシアさん、壁が!」
石壁から黒い譜面が伸び、リシアの歌詞帳へ絡みつこうとした。
リシアは身を引く。
シルが肩から飛び出し、黒い譜面の前で鋭く鳴いた。
ちいっ!
その鳴き声に、黒い譜面が一瞬だけ怯んだ。
リシアは目を見開く。
シルの体が淡く光っていた。
ほんの一瞬。
銀色の毛並みの奥に、星のような小さな光が走った。
「シル……?」
シルは何も答えない。
ただ、いつもより真剣な目で黒い譜面を睨んでいる。
リシアの胸がざわめいた。
けれど、今は考えている暇はない。
雪室の奥で、ルカの残響が揺れている。
『静かにしなきゃ』
『でも寒いよ』
『泣いちゃだめ』
『でも、お母さん』
相反する感情が、黒譜術に縛られて繰り返される。
リシアは歌詞帳を強く握った。
これは、リシア一人の歌では届かない。
ルカを待っている人は、外にもいる。
「カイルさん」
リシアは言った。
「外の人たちに、声を届けたいです」
「どうする」
「静律結界を逆に使います。恐怖を止めるのではなく、今ここで聞こえている声が、外へ届くように一瞬だけ静けさを整えます」
カイルの顔が険しくなる。
「危険は?」
「あります。私が聞きすぎれば、残響に引き込まれます」
「やめろと言ったら?」
「でも、必要です」
リシアはカイルを見る。
「町の人たちが、聞かなければいけない声です。私が代わりに歌うだけでは、また同じになります」
カイルは歯を食いしばった。
だが、止めなかった。
「倒れそうになったら引き戻す」
「お願いします」
リシアは目を閉じた。
歌ではなく、呼吸を整える。
雪室の冷たさを感じる。
ルカの残響を、すべて自分の中へ入れない。
ただ、閉じ込めている壁に小さな窓を作る。
リシアは低く唱えた。
「静けさよ、閉じるためでなく、聞くために。
凍れる部屋の声を、外の手へ渡して」
青白い光が雪室に広がった。
次の瞬間、雪室の外で待っていた人々にも、かすかな声が届いた。
『寒いよ』
外がざわめいた。
しかし、悲鳴ではなかった。
誰も逃げなかった。
ミリカが入口の外で息を呑む。
ハンナが彼女の肩を抱く。
ヨナス町長が、慰霊碑の前で目を閉じる。
北通りで家族を失った人々が、それぞれ持ってきた花や木札を握りしめる。
『鳥さん、飛んで』
ルカの声が、もう一度響いた。
小さい。
とても小さい。
だが、確かに届いた。
エラは雪室の奥で、木彫りの鳥へミリカの白い布をかけた。
「ルカ。遅くなってごめん」
今度は、エラ一人ではなかった。
外から、ハンナの声が届いた。
「ルカ。トーマスが、ずっと白い鳥を作っていたわ」
続いて、ミリカの声。
「ルカちゃん。これ、私が縫った布です。鳥さん、ちょっと変だけど、持ってきました」
町長ヨナスの声も聞こえた。
「北通りの名を、記録に戻す。見つからなかった者たちを、まとめてではなく、一人ずつ記す」
別の女性の声。
「アリサ、あなたの家の窓辺にあった花鉢、私が預かっていたの。ごめんね、言えなくて」
男の声。
「兄さん。雪崩の夜、俺だけ助かって、ずっと言えなかった。悔しかった。怖かった」
町の人々が、ぽつりぽつりと声を出し始める。
泣き叫ぶのではない。
感情を爆発させるのでもない。
だが、確かに言葉が生まれている。
ずっと凍らせてきた名前。
言えなかった後悔。
思い出すと崩れそうで触れられなかった記憶。
それらが、静かな雪の上に一つずつ置かれていく。
黒い譜面が激しく揺れた。
『泣くな』
『声を出すな』
『悲しみは雪を重くする』
その声に、ノエルのものとは違う響きが混ざる。
黒譜術の声だ。
けれど、その根にあるのは、町自身の恐れだった。
リシアはそれを聞きながら、痛いほど理解した。
黒譜術がすべてを作ったわけではない。
セレスタの人々は、本当に怖かったのだ。
泣けば崩れる。
叫べばまた雪が落ちる。
悲しみに触れれば、自分たちが壊れてしまう。
だから、静かにした。
だから、納めた。
だから、凍らせた。
それは間違いだけではない。
生き延びるために必要だった時間もある。
でも、十二年たった今も、その言葉に縛られ続ける必要はない。
リシアは歌詞帳を開いた。
白紙だった部分に、文字が浮かび始める。
今なら歌える。
泣かせる歌ではない。
立ち上がれと励ます歌でもない。
寒かったと言っていい場所を作る歌。
泣けなくても、悲しめなくても、それでも手を伸ばしていいと伝える歌。
リシアは息を吸った。
歌えば、きっとリシア自身も痛む。
ルカの寒さを、町の後悔を、エラの罪悪感を、ミリカの分からなさを、すべて受けることになる。
けれど、これは進軍詩ではない。
誰かを前へ押し出す歌ではない。
誰かを無理に泣かせる歌でもない。
ただ、閉じ込められた声のそばに灯す歌だ。
リシアは歌った。
『雪よ、まだ溶けなくていい。
涙よ、まだ流れなくていい。
寒かったと告げる声を、
誰も責めない場所がある。
泣けない朝も、
震えない唇も、
悲しみを知らない証ではない。
凍ったままの心にも、
小さな手の温度は届く。
急がなくていい。
崩れなくていい。
それでも、忘れたふりをしなくていい。
白い雪の下に眠る声よ、
あなたは痛みだけではなかった。
鳥を待った夜も、
母を呼べなかった息も、
寒いと震えた時間も、
ここにいたあなたの証。
涙にならない悲しみも、
声にならない祈りも、
消えたわけではない。
だから今、手を伸ばす。
遅すぎる手でも、
震える手でも、
あなたを忘れないために。
雪解けを急がない。
春を押しつけない。
ただ、凍えた名のそばに、
小さな灯を置いていく。
寒かったね。
待っていたね。
もう、聞こえないふりはしない。
泣いてもいい。
泣けなくてもいい。
それでも私たちは、
あなたのいた場所へ帰ってくる。』
歌声が雪室の中に満ちた。
黒い譜面が震える。
最初は抵抗するように、壁や霜にしがみついていた。
だが、外から町の人々の声が重なる。
「ルカ」
「アリサ」
「兄さん」
「母さん」
「トーマス」
「北通りのみんな」
名前が呼ばれる。
まとめてではなく、一人ずつ。
知っている人は、思い出とともに。
知らない人は、知らなかったことを認めながら。
ミリカの声が、最後に届いた。
「私は、ミリカです」
リシアは歌いながら、その声を聞いた。
「ルカちゃんの代わりじゃありません。でも、ルカちゃんを忘れない子になります」
その言葉に、黒い譜面が大きく裂けた。
雪室の奥で、白い鳥の木彫りが淡く光る。
リシアの歌詞帳から、雪のような白い光が溢れた。
火の断章の時のような熱ではない。
沈黙の断章のような音の広がりでもない。
名の断章のような呼び合う光でもない。
これは、冷たさの中に残る温度だった。
凍った手を握る時の、ゆっくりと戻る血の温かさ。
黒い譜面が解けていく。
破壊されたのではない。
薄くなり、ほどけ、雪に吸い込まれるように消えていく。
そして、雪室の奥に、小さな残響が現れた。
幼い少女の影。
輪郭は薄く、はっきりとは見えない。
けれど、胸には白い鳥を抱えている。
ルカ。
エラが息を呑んだ。
「ルカ……」
少女の残響は、エラを見た。
そして、ほんの少し笑ったように見えた。
『鳥さん、帰ってきた』
声は、もう寒さだけではなかった。
エラが手を伸ばす。
触れることはできない。
それでも、彼女は手を伸ばした。
「帰ってきたよ」
ルカの残響は、次に外の方を向いた。
ハンナの声が届く。
「トーマスに伝えるわ。あなたの鳥は、ちゃんと飛んだって」
ミリカの声も続く。
「ルカちゃん。寒かったって言っていいよ」
少女の残響は、木彫りの鳥を抱きしめる。
『寒かった』
その一言が、雪室の中に落ちる。
誰も否定しなかった。
誰も「もう大丈夫」と急がなかった。
誰も「悲しまなくていい」と言わなかった。
ただ、その言葉を受け止める。
寒かった。
そう言ってよかったのだと、町全体が初めて認める。
エラの頬を、何かが伝った。
一粒だけ。
涙だった。
エラ自身も驚いたように目を見開く。
その涙はすぐに冷たい空気の中で消えそうになった。
けれど、確かに流れた。
「ごめんね」
エラは言った。
「それから……帰ってきてくれて、ありがとう」
ルカの残響は、白い鳥を胸に抱いたまま、ゆっくり薄れていく。
消えるというより、凍った場所から解放され、雪の中へ静かに溶けていくようだった。
最後に、小さな声が聞こえた。
『鳥さん、飛んだよ』
白い光が舞った。
雪室の霜が、少しだけ輝く。
リシアの歌が終わる。
途端に、体から力が抜けた。
膝が崩れそうになる。
カイルがすぐに支えた。
「無理をしすぎだ」
「……すみません」
「謝る元気があるなら立てるな」
言い方は厳しい。
だが、支える手はしっかりしていた。
シルがリシアの肩へ戻り、頬を何度も叩いた。
ちい、ちいっ。
「うん。大丈夫」
リシアは小さく笑う。
「ちょっと、聞きすぎただけ」
シルは不満そうに鳴いた。
それは大丈夫ではない、という顔だった。
雪室の外へ出ると、町の人々が静かに待っていた。
誰も大声で泣いてはいない。
だが、何人かは目元を押さえていた。
涙が出ない者もいた。
ただ立ち尽くしている者もいた。
それでも、昨日までとは違っている。
泣けるかどうかではない。
自分の中の悲しみに、少しだけ顔を向けている。
それだけで、雪の空気が変わっているように感じた。
ミリカが駆け寄ってきた。
「リシアさん」
「待っていてくれて、ありがとう」
リシアはミリカへ白い布を返そうとして、手を止めた。
布は、木彫りの鳥と一緒にルカのそばへ置いてきた。
「布、ルカさんのところへ置いてきました」
ミリカは頷いた。
「はい」
「鳥の刺繍、ちゃんと見てくれたと思います」
ミリカの表情が、ほんの少し揺れた。
「泣けません」
「はい」
「でも、胸が痛いです」
「はい」
「これが悲しいなら、私は今、悲しいです」
リシアはそっと頷いた。
「それでいいと思います」
ミリカはハンナの方を見た。
「おばあちゃんも?」
ハンナはミリカを抱き寄せた。
「私も、悲しいわ」
その声は震えていた。
「トーマスがいなくて悲しい。ルカが寒かったと知って悲しい。アリサに会いたくて悲しい」
涙はまだ流れていない。
でも、ハンナは自分の悲しみを口にした。
「でも、あなたがいてくれて嬉しい」
ミリカの目が大きく開く。
ハンナは続けた。
「あなたは誰かの代わりじゃない。ミリカは、ミリカよ」
ミリカは祖母の胸に顔を埋めた。
泣き声は聞こえない。
けれど、その小さな肩が、初めて子どもらしく震えていた。
町長ヨナスが慰霊碑の前に立った。
彼はしばらく沈黙し、それから町の人々へ向かって言った。
「北通りの記録を改める」
人々が顔を上げる。
「見つかった者、見つからなかった者、名を残せなかった者。そのすべてを、できる限り一人ずつ記す。慰霊碑にも、まとめてではなく、名前を刻む場所を作る」
ざわめきが広がった。
反対の声もあるかもしれない。
名前を刻めば、悲しみが戻る。
毎日その名を見ることになる。
けれど、ヨナスは続けた。
「悲しみは、雪を重くするだけではなかった。忘れたふりをすることもまた、重かったのだと、今日分かった」
その言葉に、誰もすぐには答えなかった。
だが、一人の男が持っていた木札を慰霊碑の前に置いた。
続いて、別の女性が花を置いた。
また一人。
また一人。
人々が持ってきたものを、慰霊碑の前へ置いていく。
泣く者もいた。
泣けない者もいた。
どちらも、誰にも責められない。
リシアはその様子を見つめながら、胸元の歌詞帳を開いた。
ページには、白い光を帯びた文字が浮かんでいる。
『雪の断章』
その下に、先ほど歌った歌詞が、静かに刻まれていた。
リシアは指でそっとなぞる。
雪の断章。
四つ目の断章。
だが、手に入れたという感覚はあまりなかった。
むしろ、預かったのだと思った。
ルカの声。
エラの涙。
ミリカの「悲しい」。
ハンナの言葉。
町の人々の、まだ形にならない悼み。
そのすべてを、一節として預かったのだ。
その時、背後から声がした。
「泣かせなかったのですね」
リシアは振り返った。
少し離れた雪道に、ノエル・ヴァイスが立っていた。
淡い青の髪に雪がかかっている。黒譜の民の装束をまとい、静かな目でこちらを見ていた。
シルがすぐに身構える。
リシアは歌詞帳を閉じた。
「泣くことを目的にはしませんでした」
「でも、泣いた人はいました」
「はい」
「それを救いだと思いますか」
ノエルの問いは鋭い。
けれど、以前のようにただ刺すだけではなかった。
確かめているようにも聞こえた。
リシアは少し考えて答えた。
「分かりません」
ノエルの目がわずかに細くなる。
「分からない?」
「はい。エラさんが流した涙が救いなのか、痛みなのか、私には決められません」
「では、あなたは何をしたのですか」
「寒かったという声を、寒かったまま受け止める場所を作ろうとしました」
リシアはノエルを見る。
「それが正しかったかは、まだ分かりません。でも、聞こえないふりはしたくなかった」
ノエルはしばらく黙っていた。
雪が二人の間に舞い落ちる。
やがて、彼女は言った。
「あなたは、歌を疑いながら歌うのですね」
「疑わずに歌うのが、怖いんです」
「それで救えると思っているのですか」
「救えるとは言い切れません」
リシアは正直に答えた。
「でも、傷つけるかもしれないと知っているからこそ、歌わない選択も持っていたい。歌う時は、その怖さごと引き受けたい」
ノエルの表情は変わらなかった。
けれど、心歌はほとんど聞こえないまま、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。
遠い過去の残響。
『お母さん』
それだけが、かすかに触れた。
リシアは踏み込まなかった。
約束したからだ。
ノエルが望まない限り、彼女には歌わない。
ノエルはリシアから視線を外し、慰霊碑の前の人々を見た。
「セレスタは、黒譜術だけで凍っていたわけではありません」
「分かっています」
「人は、自分で自分の痛みを凍らせます。時に、それは必要です」
「はい」
「だから、すべての氷を溶かそうとしないでください」
「しません」
ノエルは再びリシアを見た。
「その言葉を、忘れないで」
そう言って、彼女は背を向けた。
リシアは追わなかった。
今追いかけても、彼女は答えないだろう。
ノエルの背中は、降り始めた雪の中へ消えていった。
夕方、セレスタには久しぶりに鐘が鳴った。
それは朝を告げる鐘ではない。
葬送の鐘でもない。
町長ヨナスが決めた、新しい鐘だった。
北通りで失われた人々の名を記録し直すための、始まりの鐘。
高く、澄んだ音が一度だけ町に響く。
人々は顔を上げた。
泣く者もいる。
泣けない者もいる。
けれど誰も、そのどちらかを責めなかった。
リシアは白灯亭の前に立ち、その音を聞いていた。
シルは肩の上で、ようやく干し果物をかじっている。
「食欲、戻ったね」
ちい。
当たり前だ。
そんな返事だった。
リシアは小さく笑う。
その笑い声は、雪の中に静かに溶けた。
セレスタの雪は、まだ溶けない。
明日も、明後日も、この町には雪が降るだろう。
悲しみも、すぐには消えない。
エラの涙も、ハンナの痛みも、ミリカの分からなさも、町の人々の後悔も、簡単に癒えるものではない。
それでいいのだと思った。
雪解けを急がなくていい。
春を押しつけなくていい。
ただ、寒かったと告げる声を、もう聞こえないふりはしない。
リシアは胸元の歌詞帳に手を添えた。
火、沈黙、名、雪。
四つの断章が、静かに重なっている。
けれど、今日リシアは一つだけ確かめた。
歌は涙を命じるものではない。
歌は春を押しつけるものでもない。
歌はただ、凍えた声のそばに置く小さな灯になれるかもしれない。
その灯を、どう受け取るかは、その人自身が決める。
白い雪が、まだ降っている。明日も、明後日も、この町に春は来ないだろう。それでいい、とリシアは思った。雪解けを急がない歌を、四つ目の断章として預かったのだから。
――ただ、ひとつだけ。
雪室で黒い譜面を睨んだとき、シルの毛並みの奥を走った星のような光。あれが何だったのか、シルは肩の上で素知らぬ顔をして、干し果物をかじっている。
火、沈黙、名、雪。集まるほどに、隣にいる相棒のことが、少しだけ分からなくなっていく。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、白雪町セレスタ編のクライマックスでした。
十二年前の大雪崩で見つからなかった少女ルカ。
雪の下に残されていた「寒いよ」という声。
そして、その声を聞かないようにしてきた町の人々。
リシアは今回、誰かを無理に泣かせる歌ではなく、悲しみを急いで溶かさない歌を選びました。
泣いてもいい。
泣けなくてもいい。
けれど、寒かったという声を、もう聞こえないふりはしない。
この出来事によって、歌詞帳には新たに「雪の断章」が刻まれました。
今回手に入れた歌詞は
『雪よ、まだ溶けなくていい。
涙よ、まだ流れなくていい。
寒かったと告げる声を、
誰も責めない場所がある。
泣けない朝も、
震えない唇も、
悲しみを知らない証ではない。
雪解けを急がない。
春を押しつけない。
寒かったね。
待っていたね。
もう、聞こえないふりはしない。』
火、沈黙、名に続き、リシアは四つ目の断章を手にしました。
次回からは、セレスタを離れ、また新たな旅へ進んでいきます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




