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旅路小休止編 19話 雪道と焼き栗と小さな相棒

戦争が終わった朝から、この物語は始まる。


勝利を祝うはずの広場で、ひとりの歌魔術師は歌えなくなる。


人を励まし、救うはずだった歌は、本当に誰かの明日になっていたのか。

それとも、誰かの痛みを見えなくしていただけなのか。


これは、リシアが自分の歌と向き合い、歌にならなかった想いを聞きに行く旅のはじまりである。




 白雪町セレスタを出る朝、雪は降っていなかった。


 空は薄い灰色だったが、昨日まで町を覆っていた重さは少しだけ和らいでいる。屋根に積もった雪は相変わらず白く、北側の山も静かに町を見下ろしていた。


 けれど、その静けさはもう、ただ凍りついたものではない。


 中央広場では、数人の町人が慰霊碑へ刻む名前について話し合っていた。声は小さい。涙も多くはない。それでも、誰もその場から目を逸らしてはいなかった。


 リシアは白灯亭の前で、旅支度を整えていた。


 肩にはシル。


 胸元には歌詞帳。


 腰の鞄には、エラが持たせてくれた保存食が入っている。


「本当に、こんなにいただいていいんですか?」


 リシアが困ったように尋ねると、宿の女将エラは穏やかに笑った。


「ええ。雪道は体力を使いますから」


「でも、これは少し多い気がします」


 リシアは鞄の中を見た。


 黒パン。干し肉。乾燥果物。硬いチーズ。小瓶に入った蜂蜜。さらに布で包まれた焼き菓子まである。


 明らかに一人旅用の量ではない。


 シルが鞄の口から中を覗き込み、琥珀色の目を輝かせた。


 ちい。


 今すぐ食べよう。


 そう言っている。


「シル、まだ朝ごはん食べたばかりでしょ」


 ちい。


 別腹。


 そんな顔だった。


 エラは小さく笑った。


 その笑いは、昨日までより少しだけ自然だった。


「シルさんの分も入っています」


 ちいっ。


 シルはすぐに胸を張った。


「だからって全部シルの分じゃないからね」


 リシアが念を押すと、シルは目を逸らした。


 それは分からない。


 と言いたげだった。


 エラはリシアに小さな布袋を差し出した。


「これは、ミリカからです」


「ミリカさんから?」


「ええ。朝早く来たのですが、直接渡すのは恥ずかしいと言って」


 リシアは布袋を受け取った。


 中には、小さな白い鳥の刺繍が入った布切れと、丸い焼き菓子が二つ入っていた。焼き菓子は少し形がいびつで、端が焦げている。


 添えられていた紙には、子どもの文字でこう書かれていた。


『リシアさんへ

 シルと半分こしてください。

 雪がふっても、あたたかいものを食べてください。

 ミリカ』


 リシアはしばらくその文字を見つめた。


 胸の奥が、柔らかく温かくなる。


 泣けないと言っていた少女。


 悲しいという感覚を、少しずつ自分の言葉で取り戻し始めた少女。


 そのミリカが、暖かいものを食べてくださいと書いてくれた。


「……ありがとう」


 リシアは小さく呟いた。


 シルが焼き菓子をじっと見ている。


「これはあとで。ちゃんと半分こ」


 ちい。


 シルは納得したような顔をした。


 ただし、納得したふりだけかもしれない。


 その証拠に、尻尾がじりじりと布袋へ近づいている。


「尻尾で取ろうとしない」


 ちい。


 シルは慌てて尻尾を引っ込めた。


 エラがまた笑った。


 その笑い声を聞いて、リシアは少し安心した。


 この町はすぐには変わらない。


 セレスタの雪は、今日もまだ深い。


 悲しみも、すぐには消えない。


 それでも、笑い声が一つ戻った。


 それだけでも、旅立つ理由には十分だった。


 町の門まで、カイルが見送りに来てくれた。


 相変わらず表情は硬いが、以前ほどリシアを警戒している様子はない。


「北の道はまだ雪が残っている。昼前には峠を越えた方がいい」


「分かりました」


「途中の山小屋に薬草茶を置いてある。冷えたら飲め」


「ありがとうございます」


 カイルは少し黙り、それから言った。


「無理をしすぎるな」


 リシアは苦笑した。


「みんなに言われます」


「言われるだけのことをしているからだ」


「……はい」


 反論できなかった。


 シルも隣で強く頷いている。


 ちい。


「シルまで」


 カイルはシルを見て、少しだけ口元を緩めた。


「その相棒の言うことは聞いた方がいい」


 シルは満足げに胸を張った。


 リシアはため息をつく。


「最近、シルの味方が増えている気がします」


「賢いからだろう」


 ちい。


 当然。


 シルの顔はそう言っていた。


 町の門の外へ出ると、白い街道が北へ伸びていた。


 リシアは一度だけ振り返る。


 セレスタの屋根。白い煙。遠くに見える北通り跡。


 昨日、鐘が鳴った町。


 まだ泣けない人たちが、それでも名前を刻もうと決めた町。


「また、いつか来ます」


 リシアがそう言うと、カイルは静かに頷いた。


「その時は、もう少し騒がしい町になっているかもしれない」


「それは楽しみです」


「騒がしすぎるのも困るがな」


 そう言ったカイルの声は、少しだけ柔らかかった。


 リシアは深く頭を下げ、歩き出した。


 雪道は歩きづらかった。


 足を踏み出すたび、靴が沈む。固まった雪の上に乗れたと思えば、次の瞬間には膝近くまで埋まりそうになる。


 シルは最初、肩の上で得意げに景色を眺めていた。


 しかし、しばらくすると、ふと何を思ったのか雪の上へ飛び降りた。


「あ、シル」


 ちいっ。


 シルは雪の上に着地した。


 そして、そのまま腹まで埋まった。


 銀色の小さな体が、白い雪の中にすっぽり入っている。


 見えているのは、頭と尻尾だけだ。


 リシアは思わず笑った。


「だから言ったのに」


 ちいっ、ちいっ。


 シルは必死にもがいた。


 だが、足が短いせいで、なかなか抜け出せない。


 尻尾だけが左右に揺れている。


 リシアはしゃがみ込み、シルをそっと持ち上げた。


 シルの体には雪がたっぷりついていた。


「雪だるまみたい」


 ちい。


 不本意。


 そんな顔である。


 リシアは手袋でシルの雪を払った。


「自分で歩きたかったの?」


 シルは少し考え、視線を逸らした。


 どうやら、格好よく雪道を歩く予定だったらしい。


「大丈夫。今のも十分かわいかったよ」


 ちいっ。


 かわいいではない。


 格好いいと言え。


 たぶん、そう言っている。


 リシアは笑いながら、シルを肩へ戻した。


「はいはい。格好よかったです」


 シルは満足そうに頷いた。


 けれど、すぐに震え始めた。


「やっぱり寒いんじゃない」


 リシアは鞄から布を取り出し、シルを包んだ。


 シルは文句を言わずにその中へ収まった。


 そのまま少し進むと、街道脇に小さな山小屋が見えた。


 木で作られた簡素な休憩所で、雪国の旅人が使うためのものらしい。扉の横には薪が積まれており、中には小さな炉があった。


 リシアはそこで休むことにした。


 炉に火を入れると、凍えた空気が少しずつ緩んでいく。


 シルは当然のように炉の前を陣取り、布の中から顔だけ出した。


 リシアはカイルが置いてくれた薬草茶を見つけ、小鍋で温めた。


 湯気が立ち上る。


 薬草の香りは少し苦いが、体を温めるには良さそうだった。


「シルは飲めないからね」


 ちい。


 分かっている。


 そう返事をしつつ、シルは蜂蜜の小瓶を見ていた。


「蜂蜜も、少しだけ」


 ちいっ。


 少しだけ、という言葉が不満らしい。


 リシアは黒パンを薄く切り、蜂蜜をほんの少し塗った。さらにミリカからもらった焼き菓子を一つ取り出す。


「半分こ、だったよね」


 リシアは焼き菓子を割った。


 少し焦げた香りがする。


 でも、甘くて素朴な匂いだった。


 シルは自分の分を両前足で受け取り、目を輝かせた。


 ちい。


「いただきます」


 リシアも一口食べる。


 外側は少し硬い。


 中はほろりとしていて、干し果物の甘みが広がった。


 きっと、ミリカが一生懸命作ってくれたのだろう。


 少し焦げているところも、なんだか愛おしい。


「おいしいね」


 ちい。


 シルは頷いた。


 それから、リシアの手元を見た。


「これは私の半分」


 ちい。


「だめ」


 ちい。


「かわいい顔してもだめ」


 シルはさらに目を潤ませた。


 リシアは少しだけ揺れた。


「……少しだけだよ」


 シルは勝利した顔で、リシアの焼き菓子をほんの欠片だけ受け取った。


「シル、こういう時だけ演技が上手だよね」


 ちい。


 何のことか分からない。


 そんな顔だった。


 炉の火が小さく揺れる。


 外では雪風が山小屋の壁を撫でていた。


 リシアは薬草茶を飲み、ほっと息を吐いた。


 セレスタでの出来事は、まだ胸の中に残っている。


 ルカの声。


 エラの涙。


 ミリカの「私は今、悲しいです」という言葉。


 どれも簡単に忘れられるものではない。


 けれど、今ここには温かい火がある。


 半分こした焼き菓子がある。


 隣には、食いしん坊の小さな相棒がいる。


 それもまた、旅の中にある大切な時間だった。


 誰かの悲しみに触れ続けるだけでは、リシア自身の心が凍ってしまう。


 だから、こういう時間が必要なのだと思う。


 何かを救うためではない歌。


 誰かを立ち上がらせるためでもない歌。


 ただ、温かいものを温かいと感じるための、小さな歌。


 リシアは小さく鼻歌を歌った。


『雪道歩けば、靴は重たい。

 肩の相棒、なぜか偉そう。


 焼き菓子半分、もう半分。

 気づけば欠片も狙われる。


 寒い日だから、火を囲もう。

 急がぬ旅にも、歌はある。』


 シルが顔を上げた。


 ちい。


「え? 今の歌、気に入らない?」


 ちい、ちい。


「偉そうってところ?」


 シルは強く頷いた。


「じゃあ、勇ましい相棒?」


 シルは満足げに胸を張る。


 リシアは笑った。


「じゃあ、次からそうするね」


 山小屋でしばらく休んだ後、リシアは再び街道へ出た。


 雪道はまだ続く。


 だが、体は温まっていた。


 シルも先ほどの失敗で懲りたのか、今度は肩から降りようとしない。かわりに、布の中から顔だけ出して景色を眺めている。


 峠へ近づくにつれ、遠くの空が少しずつ明るくなった。


 山の向こうに、次の街道が見える。


 セレスタの雪はまだ背後にある。


 けれど、旅は前へ進んでいる。


 その時、峠の向こうから一台の荷馬車がやってきた。


 荷台には木箱が積まれ、御者台には丸顔の商人らしき男が座っている。後ろには護衛らしい若者が一人。


 商人はリシアを見ると、にこやかに手を振った。


「おや、旅の歌術師かじゅつしさんかい。こんな雪道を一人旅とは大変だねえ」


「こんにちは」


 リシアは会釈した。


 商人はシルを見て、目を丸くする。


「おお、銀のリスとは珍しい。しかも布にくるまっている」


 シルは少し得意げに鳴いた。


 商人は笑った。


「よかったら、峠の下まで乗っていくかい? 荷台は少し狭いが、歩くよりは楽だよ」


「よろしいんですか?」


「もちろん。ちょうど話し相手がほしかったところだ」


 リシアはありがたく申し出を受けた。


 荷台の端に座ると、木箱の間から干し草の匂いがした。シルは干し草の上を気に入り、すぐに丸くなる。


 商人の名はバルモというらしい。


 ルメルと王都方面を行き来しながら、食品や日用品を運んでいるという。


「セレスタから来たのかい?」


「はい」


「じゃあ、昨日の鐘も聞いたかな」


 リシアは少し驚いた。


「もうご存じなんですか」


「商人は噂が命だからね。セレスタで久しぶりに慰霊の鐘が鳴ったって、途中の宿場で聞いたよ」


「そうですか」


「いいことだと思うよ。あの町は、少し静かすぎたからね」


 バルモは手綱を操りながら、遠くを見た。


「静かなのが悪いわけじゃない。だが、静かすぎると、人は自分の声まで忘れる」


 リシアはその言葉を胸にしまった。


 この商人も、旅の中で色々な町を見てきたのだろう。


 しばらく穏やかな会話が続いた。


 天気の話。


 最近よく売れる保存食の話。


 シルが干し果物の箱に近づきすぎて、リシアに止められる話。


 商人はよく笑った。


 護衛の若者も、最初は無口だったが、シルが干し草に埋もれてくしゃみをしたところで笑いを堪えきれなくなった。


 ちいっ。


 シルは不満そうに鳴いた。


 リシアも笑った。


 こういう時間は、やはり必要だ。


 重い物語の合間に、心が息をする時間。


 リシアはそう思った。


 やがて馬車が峠を下り始めた頃、バルモがふと思い出したように言った。


「そういえば、王都方面へ行くなら、しばらく道が混むかもしれないよ」


「何かあったんですか?」


「勇者様が王都へ戻るらしい」


 リシアの手が、わずかに止まった。


「勇者様……」


「現代の勇者、レオン・グランツ様だよ。北方戦線で魔族の残党を退けたとかで、王都では凱旋の準備が進んでいるらしい」


 護衛の若者が目を輝かせた。


「勇者様はすごいですよね。聖剣を持って、一人で魔物の群れを切り開いたって聞きました」


 バルモも頷く。


「人類の希望だからねえ。休む暇もないだろうが、勇者様なら大丈夫だろう」


 リシアは黙っていた。


 人類の希望。


 休む暇もない。


 勇者様なら大丈夫。


 どれも、称賛の言葉だった。


 けれど、なぜか胸に小さな違和感が残った。


 シルも干し草の上で顔を上げていた。


 琥珀色の目が、リシアを見ている。


 リシアは小さく息を吐いた。


 まだ、ただの噂だ。


 会ったこともない。


 その人がどんな心でいるのかも分からない。


 それでも、歌詞帳がかすかに震えた気がした。


 バルモの馬車は、雪の峠をゆっくり下っていく。


 白い世界の向こうには、王都へ続く街道が伸びていた。


 リシアは胸元の歌詞帳に手を添える。


 火、沈黙、名、雪。


 四つの断章を抱えた旅は、また次の場所へ向かっている。


 けれど今はまだ、ほんの少しだけ。


 シルと半分こした焼き菓子の甘さを、忘れずにいたかった。







ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、白雪町セレスタ編を終えたあとの旅路小休止回でした。


重い出来事の後なので、リシアとシルが雪道を歩き、焼き菓子を半分こし、少しだけ穏やかに息をつく時間になっています。


シルが雪に埋まったり、焼き菓子を狙ったりと、久しぶりにほのぼのした雰囲気も多めの回でした。


一方で、終盤では現代の勇者レオン・グランツの噂が登場しました。

「人類の希望」と呼ばれる彼が、どんな想いを抱えているのか。


次回以降、リシアの旅は少しずつ勇者の物語へ近づいていきます。


続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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