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勇者の名前編 20話 勇者様の通る道

雪の峠を越えると、景色は少しずつ春の色を取り戻していく。


白い町で受け取った歌を胸に、リシアとシルは王都へ続く街道を進む。


その道中で耳にしたのは、一人の勇者の噂だった。


誰もがその名を希望として語る。

けれど、たくさんの期待を背負う者の心は、誰に聞かれているのだろう。


リシアは、まだ会ったことのないその人の名に、小さな違和感を覚える。


 峠を越えると、雪は少しずつ薄くなっていった。


 山肌を覆っていた白は、道を下るにつれて斑になり、やがて土の色が見え始める。木々の枝に残る雪も少なくなり、代わりに冷たい風の中に、かすかな春の匂いが混ざっていた。


 リシアは荷馬車の端に腰を下ろし、膝の上の歌詞帳をそっと撫でた。


 火、沈黙、名、雪。


 四つの断章は、ページの奥で静かに眠っている。


 セレスタで得た雪の断章は、まだ胸の奥に冷たく残っていた。けれどそれは、痛みだけではない。


 寒かったと告げる声を、誰も責めない場所。


 その一節は、リシア自身にも必要なものだった。


 荷馬車が小さく揺れる。


 シルは干し草の上で丸くなっていたが、時々リシアの鞄へ視線を向けている。そこにはミリカからもらった焼き菓子の残りと、エラが持たせてくれた保存食が入っている。


「シル」


 リシアが呼ぶと、シルはびくりとした。


「今、鞄を開けようとしてなかった?」


 ちい。


 していない。


 とても堂々とした返事だった。


 だが、前足が鞄の留め具にかかっている。


「説得力がないよ」


 ちい。


 シルはそっと前足を離した。


 御者台の商人バルモが、それを見て大きく笑う。


「いやあ、見事な相棒だねえ。商人に向いているよ、その子は」


「商人ですか?」


「欲しい物を見極める目がある。しかも、怒られそうになると知らん顔ができる。これは大事な才能だ」


 シルが胸を張った。


「褒められてるのかな、それ」


 リシアが呟くと、護衛の若者も笑った。


 シルは気分を良くしたのか、干し草の上でくるりと一回転しようとして、足を滑らせた。


 ころん、と小さな銀色の毛玉が転がる。


 リシアは思わず手を伸ばして受け止めた。


「大丈夫?」


 ちい。


 予定通り。


 そんな顔だった。


「絶対違うよね」


 荷馬車の上に、穏やかな笑い声が広がった。


 セレスタを出たばかりの時、リシアの胸にはまだ重い余韻があった。けれど、シルが食べ物を狙い、転がり、何事もなかったような顔をするたびに、その重さは少しずつ和らいでいく。


 悲しい出来事を忘れるわけではない。


 ただ、悲しみだけで旅を続けることはできない。


 焼き菓子の甘さも、荷馬車の揺れも、シルの妙な誇らしげな顔も、全部がリシアを今へ戻してくれる。


 昼過ぎ、荷馬車は宿場町オルディアへ入った。


 王都へ続く大街道の手前にある町で、旅人や商人、騎士団関係者がよく立ち寄る場所らしい。町の入口には大きな木製の門があり、その両脇に青と白の旗が飾られていた。


 旗には、剣と光輪の紋章。


 勇者の紋章だ。


 町の中は賑わっていた。


 雪国の静けさに慣れた後だったから、リシアには余計に騒がしく感じられた。通りには露店が並び、焼きたてのパンや串焼き、甘い豆菓子の匂いが混ざっている。子どもたちは小さな木剣を振り回し、商人たちは声を張り上げ、宿屋の前には旅人たちが列を作っていた。


 あちこちに、同じ言葉が貼り出されている。


『勇者様、凱旋間近!』

『人類の希望、レオン・グランツ様を讃えよう!』

『魔族残党討伐記念、大祝祭準備中!』


 リシアは立ち止まり、その貼り紙を見つめた。


「ずいぶん賑やかですね」


 バルモは荷馬車を停めながら頷いた。


「王都まであと二日ほどの場所だからね。勇者様の凱旋行列が通るかもしれないってことで、町全体が浮き立っているんだよ」


「ここを通るんですか?」


「予定では明日の朝か昼だそうだ。まあ、勇者様ほどの方なら、道中で予定が変わることもあるだろうけどね」


 護衛の若者が興奮気味に言った。


「見られたらすごいですよ。聖剣の輝きは太陽みたいだって聞きました」


 リシアは曖昧に微笑んだ。


 勇者。


 人類の希望。


 聖剣の担い手。


 その言葉は、どれも眩しい。


 けれど眩しすぎるものは、時に人の顔を見えなくする。


 荷馬車を降りたシルは、すぐに露店の方へ鼻を向けた。


 ちい。


「はいはい。まず宿を探してから」


 ちい。


「だめ。先に食べ物だと、絶対に宿探しを忘れるから」


 シルは不満そうに尻尾を揺らした。


 バルモが笑いながら、リシアに小さな紙袋を渡した。


「これ、道中のお礼だよ」


「え、そんな」


「いいからいいから。中身は焼き栗だ。相棒殿にも分けてやってくれ」


 シルの目が輝いた。


 リシアは苦笑しながら受け取る。


「ありがとうございます」


「こちらこそ、道中が楽しかったよ。王都方面へ行くなら、またどこかで会うかもしれないね」


 バルモと護衛の若者に別れを告げ、リシアは町の通りへ歩き出した。


 宿場町オルディアは、どこも勇者の話でいっぱいだった。


「勇者様の凱旋に合わせて、花飾りを増やせ!」


「勇者饅頭、今なら二つで一つおまけだよ!」


「聖剣型の木剣はいかがですか。お子様に大人気!」


 リシアは思わず足を止めた。


 露店の一つに、小さな木剣が並んでいる。確かに聖剣を模したものらしいが、刃の部分が妙に太く、持ち手には金色の塗料がべったり塗られている。


 その横には、勇者の顔を模したらしい饅頭が積まれていた。


 勇者饅頭。


 顔は、かなり丸い。


 シルがじっと見ている。


「それは栗じゃないよ」


 ちい。


「勇者様のお顔だよ、たぶん」


 シルは首を傾げた。


 食べ物なら同じ。


 そう思っていそうだった。


 店主がリシアに気づき、にこやかに声をかける。


「お嬢さん、一つどうだい? 勇者様のご加護があるかもしれないよ」


「勇者様のご加護が、饅頭に?」


「気持ちの問題だよ、気持ちの!」


 店主は豪快に笑った。


 リシアもつられて笑いそうになったが、隣の子どもが真剣な顔で母親に言っているのを聞いて、少し胸が引っかかった。


「僕も勇者様みたいになる。魔族を全部やっつけるんだ」


 母親は笑って答えた。


「頼もしいわね。勇者様みたいに強くなるのよ」


 悪い会話ではない。


 子どもが憧れを持つことも、母親がそれを微笑ましく見ることも、自然なことだ。


 けれどリシアの耳には、その言葉の奥にかすかな硬さが聞こえた。


『強くなりなさい』


『怖がらないで』


『勇者様のように』


『誰かを守る人に』


 期待の心歌。


 明るく、温かく、けれど少し重い。


 リシアは胸元の歌詞帳に触れた。


 ノエルの言葉が、ふとよみがえる。


『歌は命令より残酷です。自分の意思で選んだと思わせるから』


 なら、憧れはどうなのだろう。


 賞賛は。


 期待は。


 誰かを勇者と呼び続ける声は、その人に何を背負わせるのだろう。


 リシアはまだ会ったことのないレオン・グランツを思った。


 町中が彼を待っている。


 人類の希望として。


 魔族を討つ英雄として。


 勇者様として。


 その中に、彼自身の名前はどれほど残っているのだろう。


 シルがリシアの頬を前足で叩いた。


 ちい。


「ん? あ、ごめん。考え込んでた」


 シルは焼き栗の紙袋を指差す。


 今は食べる時間。


 そう言っている。


 リシアは小さく笑った。


「そうだね。考えすぎる前に、少し休もうか」


 宿は、町の中央にある「白角鹿亭」に決めた。


 ちょうど一部屋だけ空いていたらしい。凱旋見物の旅人でほとんど満室とのことで、女将は「運がよかったねえ」と笑った。


 部屋に荷物を置いた後、リシアは中庭のベンチで焼き栗を広げた。


 シルは待ちきれず、両前足を膝に乗せている。


「熱いから、少し冷ましてから」


 ちい。


「急ぐと舌を火傷するよ」


 ちい。


 シルは不満そうだったが、火傷は嫌らしく、おとなしく待った。


 リシアは栗の皮をむき、小さく割ってシルへ渡す。


 シルは大切そうに受け取り、幸せそうにかじった。


 その顔を見ているだけで、リシアの肩の力も抜けていく。


「おいしい?」


 ちい。


「よかった」


 リシアも一つ食べた。


 ほくほくとして、ほんのり甘い。


 雪道で冷えた体に、素朴な温かさが広がった。


 中庭には、他にも数人の旅人がいた。


 皆、勇者の話をしている。


「北方戦線でまた大功を立てたらしい」


「勇者様がいれば、魔王軍も恐れることはないな」


「王都では盛大な祝宴になるそうだ」


「休む暇もないな、勇者様は」


「それが勇者というものだろう」


 リシアは栗を持つ手を止めた。


 休む暇もない。


 それが勇者というもの。


 その言葉は、あまりにも簡単に口にされた。


 シルも栗をかじるのをやめ、耳を立てている。


 その時だった。


 中庭の片隅。


 目立たない木陰のベンチに、一人の青年が座っていることにリシアは気づいた。


 旅人用の地味な外套をまとい、フードを深くかぶっている。年齢は二十代半ばほどだろうか。体格は引き締まっているが、威圧感はない。むしろ、ひどく疲れて見えた。


 彼は誰とも話さず、手元の木杯を見つめている。


 人目を避けているようだった。


 リシアが見たのは、ほんの偶然だった。


 だが、その瞬間、心歌が聞こえた。


『少しだけ』


 とても小さな声だった。


『もう、少しだけ休みたい』


 リシアの胸が、強く鳴った。


 周囲の旅人たちは勇者の話をしている。


 勇者様はすごい。


 勇者様なら大丈夫。


 勇者とは、休む暇もないものだ。


 その声の中で、木陰の青年の心歌だけが、深く沈んでいた。


『名前を呼ばれたい』


『でも、呼ばれたら立たなきゃいけない』


『勇者様ではなく』


『少しだけでいい』


 リシアは息を呑んだ。


 青年が、ゆっくり顔を上げる。


 フードの影から、青い瞳が覗いた。


 疲れきっているのに、どこか澄んだ目。


 そして、外套の隙間から一瞬だけ見えた剣の柄。


 青銀の装飾。


 勇者の紋章。


 リシアは立ち上がりかけて、止まった。


 呼んではいけない。


 そう直感した。


 今ここで「勇者様」と呼べば、この人はまた立たなければならない。


 周囲の期待の中心へ戻らなければならない。


 だからリシアは、歌わなかった。


 声もかけなかった。


 ただ、焼き栗の紙袋を見下ろし、少し考えた。


 そして、シルに小さく囁く。


「シル。ひとつ、届けられる?」


 シルはリシアを見た。


 それから青年を見て、栗を見て、少しだけ名残惜しそうな顔をした。


「あとでシルの分はちゃんとあげるから」


 ちい。


 約束。


 シルは小さく鳴き、焼き栗を一つ抱えてベンチを降りた。


 中庭の端をちょこちょこと進み、木陰の青年の足元まで行く。


 青年は驚いたようにシルを見た。


 シルは焼き栗を差し出した。


 青年はしばらく固まっていたが、やがて困ったように小さく笑った。


「……くれるのか?」


 シルが頷く。


 青年は焼き栗を受け取った。


「ありがとう」


 その声は、ひどく普通だった。


 勇者の声ではない。


 人類の希望の声でもない。


 ただ、疲れた青年が小さなリスに礼を言っただけの声だった。


 リシアはその声を聞いて、胸が少し痛くなる。


 青年は焼き栗を一口食べた。


 そして、本当にわずかに表情を緩めた。


「甘いな」


 シルは誇らしげに胸を張った。


 自分が作ったわけでもないのに。


 青年はそれを見て、また小さく笑った。


 その笑みは一瞬で消えたが、それでも確かに笑っている。


 リシアは遠くから、軽く会釈だけした。


 青年も、誰にも気づかれないほど小さく会釈を返した。


 その時、中庭の外から騎士の声が響いた。


「レオン様! こちらにいらっしゃいますか!」


 青年の表情が消えた。


 ほんの一瞬で、先ほどの柔らかさが閉じられる。


 彼は焼き栗の残りを手の中に隠し、ゆっくり立ち上がった。


 そして、フードを外す。


 金色の髪が、午後の光を受けて輝いた。


 周囲の旅人たちが一斉に息を呑む。


「勇者様……?」


「レオン・グランツ様だ!」


 声が広がる。


 中庭の空気が一瞬で変わった。


 先ほどまで静かに座っていた青年は、もういない。


 そこに立っているのは、人類の希望。


 現代の勇者。


 レオン・グランツ。


 人々の視線と称賛が、彼へ集まっていく。


 レオンは穏やかに微笑んだ。


 完璧な勇者の笑みだった。


「ご心配をおかけしました。少し風に当たっていただけです」


 その声も、先ほどとは違っていた。


 明るく、落ち着いていて、誰もが安心する声。


 だがリシアには、心歌が聞こえていた。


『もう少しだけ』


 消えそうなほど小さな声。


『名前を呼ばないで』


 リシアは焼き栗の紙袋を握りしめた。


 シルが静かに戻ってくる。


 その小さな前足には、青年が返してくれたのだろう、栗の欠片が少しだけ握られていた。


 リシアは何も言わず、シルを抱き上げる。


 中庭では、人々が勇者を讃えていた。


 レオンは微笑んでいる。


 誰よりも正しく、誰よりも眩しく。


 そして、誰よりも疲れているように見えた。


 リシアは胸元の歌詞帳に手を添えた。


 ページは開いていない。


 それでも、奥で小さく震えている。


 新しい断章の気配ではない。


 もっと別のもの。


 人が名前ではなく役割で呼ばれ続ける時、心のどこが削れていくのか。


 その問いが、静かにリシアの旅路へ入り込んできた。


 勇者レオン・グランツ。


 人類の希望。


 聖剣の担い手。


 けれどリシアが最初に聞いた彼の心歌は、たった一つだった。


『もう、少しだけ休みたい』


 その声を、リシアは忘れられなかった。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、勇者レオン・グランツが初めて登場する回でした。


町の人々にとって、彼は「勇者様」であり、「人類の希望」です。

けれどリシアが最初に聞いた彼の心歌は、とても小さなものでした。


『もう、少しだけ休みたい』


称賛され、期待され、誰もが彼を必要としている。

その中で、レオン自身の名前や本音は少しずつ見えにくくなっています。


リシアは今回、彼に歌いませんでした。

勇者を励まして立たせる歌ではなく、まず一人の青年として見つめることを選びます。


次回から、勇者と呼ばれる青年の心に少しずつ近づいていきます。

続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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