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勇者の名前編 21話 勇者を讃える歌

朝の宿場町は、いつもより早く目を覚ましていた。


通りには花が飾られ、窓辺には旗が揺れ、人々は一人の勇者を待っている。


誰もがその名を希望として呼ぶ。

誰もがその姿に救いを重ねる。


けれど、明るすぎる期待の中で、リシアの耳には別の小さな音が残っていた。


讃える歌は、本当にその人自身へ届いているのか。


リシアは、町を満たしていく歓声の中で、その問いに耳を澄ませる。


 翌朝のオルディアは、夜明け前から騒がしかった。


 宿場町の石畳には、まだ朝露が残っている。空は淡い青灰色で、遠くの山の端に薄い光が滲み始めていた。


 けれど町の人々は、すでに動き出している。


 通りには花飾りが結ばれ、家々の窓には青と白の布が垂らされていた。勇者の紋章が入った旗は、昨日よりも増えている。露店の主人たちは早々に店を開き、勇者饅頭や聖剣型の焼き菓子を並べていた。


 子どもたちは木剣を持って走り回り、大人たちはその後を追いながらも、どこか浮き立った顔をしている。


「勇者様、今日この町を通るんだって!」


「見えるかな。聖剣、光るかな」


「俺、勇者様に手を振る!」


 その声の中を、リシアはシルを肩に乗せて歩いていた。


 シルは昨日買った焼き栗の残りを大切そうに抱えている。食べるつもりなのか、守っているつもりなのかは分からない。


「シル、それ朝ごはんの後だよ」


 ちい。


「今は違うって顔してるけど、今食べようとしてたよね」


 シルは知らん顔をした。


 リシアは小さく笑う。


 けれど、すぐに表情を戻した。


 昨日、中庭で出会った青年。


 勇者レオン・グランツ。


 彼の心歌が、まだ耳に残っている。


『もう、少しだけ休みたい』


 町は彼を待っている。


 人類の希望として。


 魔族を討った英雄として。


 勇者様として。


 だが、リシアが聞いた声は、そのどれとも違っていた。


 人々の期待の熱気は明るい。


 明るすぎるほどに。


 だからこそ、その中で小さく沈んでいた彼の声が、リシアには忘れられなかった。


 白角鹿亭の前に戻ろうとした時、通りの向こうから一人の騎士が歩いてきた。


 濃紺の外套を着た若い騎士だった。胸には王国騎士団の徽章。腰には剣。顔立ちは整っているが、目元には疲労がある。


 彼は道行く人々へ丁寧に頭を下げながら、何かを探しているようだった。


 やがて、リシアの胸元にある青い宝石の徽章に目を留める。


 騎士は少し驚いた顔をし、それからまっすぐリシアへ歩いてきた。


「失礼。あなたは歌術師かじゅつしの方ですか」


「はい。旅の歌魔術師うたまじゅつしです」


 リシアが答えると、騎士はほっとしたように息を吐いた。


「突然申し訳ありません。私は王国騎士団のマルセルと申します。勇者レオン様の護衛隊に同行しております」


 レオンの名が出た瞬間、シルの耳がぴくりと動いた。


 リシアも胸の奥が小さく鳴るのを感じた。


「リシアです。こちらはシルです」


 ちい。


 シルは焼き栗を抱えたまま鳴いた。


 マルセルは一瞬だけ戸惑い、それから礼儀正しく頭を下げる。


「シル殿も、よろしくお願いします」


 シルは満足そうに頷いた。


「それで、私に何か?」


 リシアが尋ねると、マルセルは少し言いにくそうに周囲を見た。


「実は、本日昼に勇者様の歓迎式があります。本来なら王都から随行する歌術師が讃歌を披露する予定でしたが、別の任務で遅れておりまして」


 リシアは嫌な予感がした。


 マルセルは真剣な顔で続ける。


「もし可能であれば、あなたに勇者様を讃える歌をお願いできないかと」


 リシアはすぐに答えられなかった。


 勇者を讃える歌。


 周囲の人々には、きっと自然なことだろう。


 戦いを終えて帰ってきた勇者を称える。


 町の感謝を伝える。


 疲れを癒やし、誇りを示す。


 何もおかしなことではない。


 けれど、リシアの耳には昨日の心歌が残っている。


『もう、少しだけ休みたい』


 もし今、リシアが勇者を讃える歌を歌えば。


 その歌は、レオンに何を背負わせるのだろう。


 あなたは勇者だ。


 あなたは希望だ。


 あなたは立ち続けるべき人だ。


 そんな言葉を、優しい旋律に乗せてしまうことになるのではないか。


「リシアさん?」


 マルセルが不安そうに呼ぶ。


 リシアはゆっくり息を吸った。


「確認させてください。その歌は、勇者様ご本人が望んでいるものですか」


 マルセルは少し驚いたようだった。


「望んでいるか、ですか」


「はい」


「歓迎式ですので、町の者たちのためでもあります。勇者様は、民の想いを大切にされる方です」


「それは、望んでいるということですか」


 リシアの声は強くなかった。


 責めているわけでもない。


 だが、マルセルは答えに詰まった。


「……レオン様は、必要であれば受けると仰るでしょう」


「必要であれば」


「はい。あの方は、そういう方です」


 その言葉に、リシアは胸が痛くなった。


 必要であれば受ける。


 それは、望むこととは違う。


 シルが肩の上で小さく鳴いた。


 ちい。


 焦るな。


 そう言っているようだった。


「申し訳ありません」


 リシアは静かに言った。


「勇者様を戦いへ立たせるような歌なら、私は歌えません」


 マルセルの顔が強張る。


「戦いへ立たせる、ですか。歓迎の歌のつもりでしたが」


「分かっています。町の皆さんに悪意がないことも。マルセルさんが困っていることも」


 リシアは胸元の歌詞帳に手を添えた。


「でも、讃える歌は時に、相手をその役割へ縛ることがあります」


 マルセルは黙った。


 通りの向こうでは、子どもたちが勇者の名を呼んでいる。


 勇者様。


 勇者様。


 その声が明るいほど、リシアには重く聞こえた。


「もし歌うなら、勇者様を讃える歌ではなく、帰ってきた人を迎える歌にしたいです」


 マルセルが顔を上げる。


「帰ってきた人を迎える歌」


「はい。戦え、立て、希望であれ、と歌うのではなく。ただ、帰ってきてくれてよかったと伝える歌です」


 マルセルは難しい顔をした。


 当然だろう。


 歓迎式の場で、勇者を勇者として讃えない歌を歌う。


 それは町の期待とは少しずれる。


 場合によっては、失礼だと受け取られるかもしれない。


 しかし、リシアは譲れなかった。


 ここで安易に勇者を励ます歌を歌えば、自分はまた同じことをしてしまう。


 かつて戦場で歌った進軍詩。


 怖い人たちに「立て」と歌い、前へ進ませた歌。


 もう、あの歌には戻りたくなかった。


 マルセルはしばらく考え込んだ。


 やがて、小さく息を吐く。


「レオン様に確認します」


「お願いします」


「ただ、町の者たちは勇者様を讃える歌を望んでいます。期待と違えば、戸惑いが出るかもしれません」


「それでも構いません」


 リシアは答えた。


「無理に盛り上げるための歌は、歌えません」


 マルセルはリシアをじっと見た。


 その目には、不満よりも迷いがあった。


「あなたは、不思議な歌術師ですね」


「よく言われます」


「歌術師なら、誰かを励ますことが役目だと思っていました」


 リシアは少しだけ微笑んだ。


「私も、昔はそう思っていました」


 マルセルは何かを察したのか、それ以上は聞かなかった。


「では、後ほど宿へ使いを出します」


「はい」


 騎士が去っていく。


 その背中を見送りながら、リシアは息を吐いた。


 シルが肩の上でリシアの頬に前足を当てる。


 ちい。


「うん。少し怖いね」


 ちい。


「でも、歌えないよ。あの人を勇者様に戻す歌は」


 シルはリシアの言葉を聞き、静かに頷いた。


 昼が近づくにつれ、町の熱気はさらに高まった。


 大通りには人が集まり、宿の二階の窓から身を乗り出す者までいる。露店は飛ぶように品物を売り、子どもたちは木剣を掲げてはしゃいでいた。


 リシアは大通りの端に立ち、その様子を見ていた。


 歓迎式は中央広場で行われるらしい。


 仮設の台が作られ、その上には町長と神官、数名の騎士が並んでいる。リシアのためなのか、横には小さな演奏台まで用意されていた。


 シルはリシアの肩の上で、妙に緊張した顔をしている。


「シルも緊張する?」


 ちい。


「焼き栗の時とは違う顔だね」


 ちい。


 当たり前だ。


 そんな声だった。


 やがて、遠くから歓声が上がった。


「来たぞ!」


「勇者様だ!」


「レオン様!」


 大通りの向こうから、騎士たちが歩いてくる。


 先頭には王国旗。


 その後ろに、白馬に乗った数人の騎士。


 そして中央に、一人の青年がいた。


 レオン・グランツ。


 昨日、中庭の木陰で焼き栗を食べていた青年。


 今日は勇者の装いだった。


 白と青を基調にした外套。胸には勇者の紋章。腰には聖剣。金色の髪は整えられ、青い瞳は穏やかに前を見ている。


 美しい姿だった。


 町の人々が憧れるのも分かる。


 まるで絵物語から抜け出した英雄のようだ。


 レオンは微笑み、通りの両側へ丁寧に手を振った。


 歓声がさらに大きくなる。


「勇者様!」


「王国の誇り!」


「魔族を退けた英雄!」


 リシアは心歌へ耳を澄ませた。


 すると、周囲の期待の声が一斉に押し寄せてくる。


『勇者様なら大丈夫』


『勇者様がいれば怖くない』


『勇者様は強い』


『勇者様は負けない』


『勇者様は休まない』


 その中心に、レオンの心歌があった。


 とても小さく、押し潰されそうな声。


『笑え』


『手を振れ』


『背を伸ばせ』


『誰も不安にさせるな』


『私は勇者だ』


 違う。


 リシアは思わず胸元を押さえた。


 彼は自分に言い聞かせている。


 私は勇者だ。


 だから疲れてはいけない。


 だから休みたいと言ってはいけない。


 だから笑わなければならない。


 レオンが広場に着くと、町長が大きな声で歓迎の言葉を述べた。


「勇者レオン・グランツ様! 北方よりのご凱旋、心よりお祝い申し上げます!」


 歓声。


 拍手。


 レオンは完璧な礼を返す。


「温かいお迎え、感謝します。皆さんの平穏こそ、私たちが剣を取る理由です」


 その言葉に、また歓声が上がった。


 だがリシアは、彼の指がほんの一瞬だけ震えたのを見た。


 誰も気づかない。


 騎士たちも、町の人々も、彼の微笑みしか見ていない。


 式は進む。


 花束の贈呈。


 子ども代表からの言葉。


 神官の祈り。


 そして最後に、町長が言った。


「この町に偶然滞在しておられた旅の歌術師、リシア殿より、勇者様へ歌を捧げていただきます」


 広場の視線が、一斉にリシアへ向いた。


 リシアはゆっくり演奏台へ進んだ。


 シルは肩から降りず、リシアのそばにいる。


 レオンの視線もリシアへ向いた。


 ほんの一瞬、彼の目に驚きが浮かぶ。


 昨日の焼き栗の相手だと気づいたのだろう。


 リシアは小さく会釈した。


 勇者にではない。


 昨日、木陰で少しだけ笑った青年に。


 レオンもわずかに目を細めた。


 それは周囲には分からないほど小さな反応だった。


 リシアは深く息を吸った。


 この場で歌うことは怖い。


 町の期待に反するかもしれない。


 勇者を讃える歌を求められている。


 だが、今のリシアに歌えるのは、それではない。


「この歌は、勇者様を戦場へ送り出すための歌ではありません」


 リシアの言葉に、広場が少しざわめいた。


 町長が戸惑った顔をする。


 マルセルも緊張したようにリシアを見る。


 レオンだけが、まっすぐリシアを見ていた。


 リシアは続けた。


「戦いから帰ってきた方へ。ただ、帰ってきてくださってよかったと伝えるための歌です」


 広場のざわめきが少し収まる。


 リシアは歌詞帳を開かなかった。


 この歌は断章ではない。


 星詠みの歌へつながる一節でもない。


 ただ、今この場で必要な小さな歌。


 昨日、焼き栗を受け取った青年へ贈る歌だった。


 リシアは静かに歌い始めた。


『剣を置く手に、花をひとつ。

 泥を払う肩に、風をひとつ。


 遠い道から帰る人よ、

 今だけ名前を急がなくていい。


 勝利の声も、誇りの旗も、

 あなたを飾る光になる。


 けれどその前に、

 ただ帰った足音を聞かせてほしい。


 強かったからではなく、

 倒れなかったからでもなく、

 ここに戻ったあなたへ、

 温かい水を差し出したい。


 今日は少し、息をして。

 今日は少し、空を見て。

 明日の剣は、明日に置いて、

 今はただ、帰ってきた人として。』


 歌は広場に静かに広がった。


 大きな感動を呼ぶ歌ではなかった。


 勇ましい旋律でもない。


 聖剣を讃える華やかな調べでもない。


 それは、旅人を宿の灯りへ迎えるような歌だった。


 最初、人々は戸惑っていた。


 勇者様を讃える歌にしては、あまりに静かだったからだ。


 だが、歌が進むにつれ、広場の空気が少しずつ変わっていく。


 子どもたちは木剣を下ろした。


 露店の主人は声を止める。


 町長は戸惑いながらも、やがて静かに目を伏せた。


 レオンは動かなかった。


 ただ、リシアの歌を聞いている。


 完璧な勇者の微笑みは、いつの間にか消えていた。


 代わりに、彼の表情に小さな空白が生まれている。


 どう反応していいか分からない。


 そんな顔だった。


 心歌が聞こえる。


『立たなくていい?』


『今だけ?』


『名前を急がなくていい?』


 その声は混乱していた。


 けれど、拒絶ではなかった。


 リシアは最後の一節を、さらに柔らかく歌った。


『あなたが勇者と呼ばれる前に、

 誰かが呼んだ名があった。


 その名を忘れないために、

 今日はただ、帰ってきた人へ。


 おかえりなさい。』


 歌が終わった。


 広場は静まり返っていた。


 拍手はすぐには起きない。


 リシアはその沈黙を怖いとは思わなかった。


 この歌は、すぐに盛り上がるための歌ではない。


 考えるための間が必要な歌だった。


 最初に拍手をしたのは、シルだった。


 正確には、リシアの肩の上で小さな前足をぱちぱちと合わせただけだ。


 ちい。


 その音が妙に場違いで、何人かの子どもが小さく笑った。


 続いて、一人の老人が拍手した。


 それから、旅人の女性が。


 露店の主人が。


 町長が。


 やがて、広場に穏やかな拍手が広がった。


 歓声ではない。


 勇者を熱狂的に称える声でもない。


 だが、温かい拍手だった。


 レオンはリシアを見ていた。


 長い沈黙の後、彼は静かに頭を下げた。


「……ありがとう」


 その声は、勇者としてのものではなかった。


 昨日、焼き栗を受け取った青年の声に近かった。


 リシアは胸が熱くなる。


 けれど、歌が届いたと決めつけてはいけない。


 これは救いではない。


 ただ、少しだけ息をする場所を置いただけだ。


 式が終わると、レオンはすぐに騎士たちに囲まれた。


 次の予定があるのだろう。


 町長との会談。


 神官からの祈祷。


 王都への出発準備。


 彼が休む時間は、やはり少ない。


 リシアは演奏台を降りた。


 シルが肩の上で得意げに鳴く。


「シルの拍手、助かったよ」


 ちい。


 当然。


 シルは満足そうだった。


 そこへ、マルセルが近づいてきた。


 彼の表情は複雑だった。


「正直、驚きました」


「申し訳ありません。町の期待とは少し違ったかもしれません」


「いえ」


 マルセルは首を横に振った。


「たぶん、必要な歌でした」


 リシアは彼を見る。


 マルセルは遠くのレオンを見つめていた。


「私は、レオン様に何度も言ってきました。あなたなら大丈夫です、と」


 その声には、後悔が滲んでいた。


「励ますつもりでした。支えているつもりでした。でも、もしかしたら、それもまた重荷だったのかもしれない」


「分かりません」


 リシアは静かに言った。


「励ましが救いになる時もあります。支えになる時もあります。ただ、相手が休みたい時に立たせる言葉になってしまうこともある。それだけだと思います」


 マルセルは小さく頷いた。


「……難しいですね」


「はい。とても」


 その時、マルセルの背後から声がした。


「リシアさん」


 振り返ると、レオンが立っていた。


 騎士たちから少しだけ離れたのだろう。マルセルが驚き、すぐに姿勢を正す。


「レオン様」


「少しだけ、彼女と話しても?」


 マルセルは一瞬迷ったが、頷いた。


「はい。ただ、次のご予定まであまり時間が」


「分かっている」


 レオンは穏やかに答えた。


 その穏やかさが、リシアには少し痛かった。


 時間がないことを、彼は当然のように受け入れている。


 レオンはリシアの前に立った。


 近くで見ると、やはり疲れている。


 笑ってはいるが、目の奥に深い影がある。


「昨日は、栗をありがとう。正確には、君の相棒に礼を言うべきかもしれないけれど」


 シルが胸を張る。


 ちい。


 レオンは小さく笑った。


「今日の歌も、ありがとう」


「勝手な歌を歌いました」


「そうだね」


 レオンは少しだけ肩の力を抜いた。


「勇者を讃える歌ではなかった」


「はい」


「でも、久しぶりに、息の仕方を思い出した気がした」


 リシアは何も言えなかった。


 レオンはすぐに表情を整える。


 また勇者の顔に戻ろうとしているのが分かった。


「ただ、あまり私を甘やかさない方がいい」


 その言葉は、冗談のように軽く言われた。


 だが、心歌は違っていた。


『甘えたら、戻れなくなる』


『休んだら、立てなくなる』


『勇者が弱くてはいけない』


 リシアは胸が痛む。


「休むことは、甘えでしょうか」


 レオンの目がわずかに揺れた。


「勇者には、休む時間があまりない」


「レオンさんには?」


 その問いに、レオンは動きを止めた。


 リシアは今、彼を勇者様ではなく名前で呼んだ。


 周囲の騎士たちは気づかなかったかもしれない。


 だが、レオン本人には届いた。


 彼の心歌が、一瞬だけ震えた。


『レオン』


 自分の名前を、遠くから聞いたような声だった。


 レオンは小さく息を吸う。


 しかし、答える前に、遠くから別の騎士が呼んだ。


「勇者様! 町長がお待ちです!」


 レオンの表情が戻る。


 完璧な勇者の微笑み。


「行かなければ」


「はい」


 リシアはそれ以上、引き止めなかった。


 レオンは一歩進みかけ、ふと足を止めた。


「リシアさん」


「はい」


「次に会う時も、できればその名前で呼んでほしい」


 リシアは静かに頷いた。


「はい。レオンさん」


 レオンはほんの少しだけ笑った。


 それは勇者の笑みではなく、一人の青年の笑みだった。


 だが、それもすぐに消えた。


 彼は騎士たちの方へ歩いていく。


 人々はまた歓声を上げる。


「勇者様!」


「レオン様!」


「人類の希望!」


 その声の中で、リシアは立ち尽くしていた。


 シルが肩の上で、そっとリシアの頬に触れる。


 ちい。


「うん」


 リシアは小さく頷いた。


「まだ、始まったばかりだね」


 勇者を励ます歌は歌わなかった。


 けれど、それで彼が救われたわけではない。


 レオンはまだ、勇者様という光の中にいる。


 その光は温かくもあり、同時に彼自身の影を濃くしている。


 リシアは胸元の歌詞帳に手を添えた。


 今度の歌は、断章ではないかもしれない。


 けれど、リシアにとって大切な歌になる。


 人は名前で呼ばれなくなる時、どこから自分を失っていくのか。


 そして、その人を役割から少しだけ取り戻すために、歌は何ができるのか。


 広場に残った拍手の余韻の中で、リシアは静かに息を吸った。


 勇者様ではなく。


 人類の希望ではなく。


 レオンという名の青年へ。


 まだ届ききらない歌を、これから探さなければならない。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、勇者レオンを讃える歓迎式の回でした。


町の人々は、レオンを「勇者様」「人類の希望」として迎えます。

けれどリシアは、彼を戦場へ押し戻すような歌ではなく、ただ「帰ってきた人」を迎える歌を選びました。


勇者としてではなく、一人の青年として。

勝利を讃える前に、まず帰ってきたことを受け止める。


その歌によって、レオンはほんの少しだけ、自分の名前を思い出します。


けれど、彼はまだ勇者という役割の中にいます。

休みたいと思っても、立ち続けなければならない。

そんな彼に、リシアがどこまで寄り添えるのか。


次話では、勇者レオンの抱える重さへ、さらに近づいていきます。


続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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