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勇者の名前編 22話 休めない人

歓迎の拍手が終わっても、勇者の一日は終わらない。


向けられる感謝。

重ねられる期待。

求められ続ける言葉。


誰もが優しさでその人を呼び、誰もが希望としてその背中を見つめている。


けれど、休むことさえ忘れられた人の心は、どこで息をつけばいいのか。


リシアは、まぶしい称賛の影に残る小さな疲れへ耳を澄ませる。


 歓迎式が終わっても、レオン・グランツの一日は終わらなかった。


 むしろ、そこからが本番だった。


 中央広場での拍手が落ち着くと、彼は町長との会談に呼ばれた。北方戦線の状況を聞きたい者、魔族残党の噂を確かめたい商人、行程を確認したい騎士団の使者。誰もが、レオンの言葉を求めた。


 子どもたちは勇者に握手を求め、老人は守られた礼を伝え、若い兵士たちは憧れの目で彼を見つめた。


 その一つ一つに、レオンは丁寧に応じた。


 笑顔を崩さず、背筋を伸ばし、相手の目を見て言葉を返す。


「皆さんの支えがあってこそです」


「王都までの道も、気を抜かず進みます」


「怖い時は、一人で抱え込まないでください」


「君も、大切な誰かを守れる人になるよ」


 どの言葉も優しかった。


 どの仕草も正しかった。


 だからこそ、リシアには苦しかった。


 白角鹿亭の二階の廊下から、彼女は広場へ戻る人の流れを眺めていた。隣ではシルが窓枠に座り、焼き栗の最後の欠片を抱えている。


 レオンの姿は、宿場町のどこにいても目立つ。


 金色の髪。

 白と青の外套。

 聖剣の紋章。

 人々が自然と道を空ける存在感。


 けれど、リシアの耳にはずっと別の音が届いていた。


『大丈夫』


『まだ歩ける』


『次は町長』


『その次は神官』


『子どもが見ている』


『疲れた顔をするな』


『私は勇者だ』


 彼の心歌は、まるで自分に命令を重ねるようだった。


 誰かに命じられているわけではない。


 それでも彼は、自分で自分に言い続けている。


 勇者ならこうあるべきだ。


 人々を安心させるべきだ。


 弱さを見せるべきではない。


 リシアは胸元の歌詞帳に手を添えた。


 歌いたいと思った。


 少しだけ休んでもいいと。


 もう十分だと。


 今は座ってもいいと。


 けれど、その言葉を歌にしてしまえば、それもまた彼への押しつけになるかもしれない。


 レオンが本当に望んでいるのか。


 ただ、リシアが彼を休ませたいと思っているだけではないのか。


 答えが出ない。


 シルが窓枠からリシアの肩へ飛び移り、頬に前足を当てた。


 ちい。


「分かってる」


 リシアは小さく頷く。


「焦らない」


 焦らない。


 セレスタで学んだことだ。


 泣けない人に、泣けと言わない。


 なら、休めない人に、休めと言うこともまた、時には暴力になるのかもしれない。


 それでも、見ているだけでは苦しい。


 夕方になっても、レオンは解放されない。


 宿場町オルディアでは、急きょ小さな晩餐会が用意された。王都へ向かう前に、町として感謝を伝えたいという名目だった。


 リシアは招かれていなかったが、白角鹿亭の食堂にいると、晩餐会の喧騒が中庭越しに聞こえてきた。


 笑い声。

 杯の触れ合う音。

 勇者を讃える声。


 食堂の端でリシアは温かいスープを飲んでいた。


 向かいの椅子では、シルが木皿の上の豆をひとつずつ選別している。好きなものから食べるのではなく、嫌いなものをリシアの皿へ押し出そうとしていた。


「シル」


 ちい。


「それ、苦手な豆をこっちに移してるよね」


 ちい。


「ばれてないと思った?」


 シルは少しだけ固まった。


 それから、何事もなかったように豆をひとつ口に入れた。


 すごく苦そうな顔をした。


 リシアは思わず笑う。


「無理しなくてもいいよ」


 シルは涙目でこちらを見た。


 苦い。


 非常に苦い。


 そんな顔だった。


 リシアは自分の皿から甘い煮豆をひとつ渡した。


「これは特別」


 シルはすぐに元気を取り戻した。


 こういうやり取りに、リシアは救われている。


 重い心歌を聞き続けていると、いつの間にか自分の感情まで相手の痛みに染まってしまう。だからシルの食いしん坊な仕草や、少しわがままな鳴き声が、リシアをリシアのままにしてくれる。


 その時、食堂の扉が開いた。


 入ってきたのはマルセルだった。


 彼はリシアを見つけると、少し申し訳なさそうに歩いてきた。


「リシアさん。お食事中にすみません」


「大丈夫です。何かありましたか?」


 マルセルは迷うように言葉を探した。


「レオン様が、あなたに礼を伝えたいと」


「先ほど、もういただきました」


「それとは別に、少し話したいと仰っています。ただ、今は晩餐会の途中でして……」


 リシアはマルセルの顔を見る。


 疲れているのは彼も同じだった。


 レオンの護衛隊として、一日中予定に追われているのだろう。


「抜け出せないのですね」


「はい。勇者様がお席を外されると、皆が心配します」


 勇者様がお席を外すと、心配する。


 それは、誰も悪意のない言葉だった。


 だが、レオン本人にとっては鎖になる。


「レオンさんは、今、休めていますか?」


 リシアが尋ねると、マルセルは答えに詰まった。


「……晩餐会ですので、座ってはおられます」


「それは休むこととは違います」


 マルセルは苦い顔をした。


「分かっています」


 その声には、はっきりとした疲れと悔しさがあった。


「ですが、レオン様は断りません。誰かが会いたいと言えば会う。礼を言いたいと言えば聞く。励ましてほしいと言われれば言葉をかける。こちらが止めても、民の気持ちを無下にはできないと」


「マルセルさんは、止めているんですね」


「止めています。けれど、私はあの方に命令できる立場ではありません」


 マルセルは拳を握った。


「それに、私自身もどこかで思っているんです。レオン様なら大丈夫だと。あの方なら、きっと耐えられると」


 リシアは何も言えなかった。


 それは責められることではない。


 人は強い者に頼りたくなる。


 自分では受け止めきれない不安を、誰かの背中に預けたくなる。


 勇者という存在は、そのために作られているのかもしれない。


 だが、預けられ続けた背中もまた、痛む。


 マルセルは深く息を吐いた。


「すみません。あなたに言うことではありませんでした」


「いいえ」


 リシアは首を横に振る。


「話してくださってありがとうございます」


 マルセルは小さく頷き、去ろうとした。


 その時、外から大きな音がした。


 食堂にいた者たちが一斉に顔を上げる。


 続いて、誰かの叫び声。


「魔物だ!」


「東門の外に魔物が出た!」


 空気が一瞬で変わった。


 食堂の客たちが立ち上がる。椅子が床を引きずり、皿が揺れた。


 マルセルの顔が鋭くなる。


「東門?」


 外へ飛び出すと、町の通りは騒然としていた。


 東門の方から人々が走ってくる。荷物を抱えた商人、泣きそうな子ども、顔色を変えた門番。


 情報はすぐに混ざった。


「魔狼が出たらしい」


「いや、黒い角の魔物だって聞いたぞ」


「荷馬車が襲われた」


「勇者様を呼べ!」


「勇者様ならすぐ倒してくださる!」


 その声に、リシアの胸が冷えた。


 勇者様を呼べ。


 迷いのない声。


 誰もが当然のようにそう言う。


 危険な時、人々が強い者を頼るのは当然だ。責めることではない。


 けれど、さっきまで晩餐会で笑顔を求められていたレオンは、今度は剣を求められる。


 休む暇は、やはりない。


 中庭の奥からレオンが現れた。


 外套の前を整え、腰にはすでに聖剣を帯びている。彼の顔には、疲れも迷いも見えなかった。


 完璧だった。


「状況は?」


 レオンが短く尋ねる。


 マルセルがすぐに報告を受ける。


「東門外、街道脇に小型の魔物が数体。荷馬車一台が立ち往生。負傷者がいる可能性あり」


「行く」


 レオンは即座に言った。


 即座すぎた。


 自分の疲れを考える間もないほどに。


 リシアは思わず一歩前へ出た。


「レオンさん」


 レオンが振り返る。


 一瞬だけ、彼の瞳にさきほどの青年の色が戻った。


 だが、すぐに勇者の顔になる。


「リシアさん、町の人たちをお願いします。あなたの歌なら、混乱を抑えられる」


 その言葉に、リシアは胸を突かれた。


 彼は自然に役割を振り分けた。


 自分は戦う。


 リシアは人々を落ち着かせる。


 正しい判断だ。


 現場としては、きっと間違っていない。


 だが、彼自身の心はどこにも入っていない。


「私は、あなたを戦場へ送り出す歌は歌いません」


 リシアは静かに言った。


 周囲の騎士たちが驚いた顔をする。


 マルセルも息を呑む。


 レオンは一瞬だけ目を見開いた。


「分かっています」


 彼は穏やかに答えた。


「だから、私ではなく町の人々へ歌ってください」


「レオンさん」


「今は行かせてください」


 その声は、勇者の命令ではなかった。


 頼みだった。


 リシアは言葉を止める。


 ここで無理に引き止めることはできない。


 魔物が出ている。


 負傷者がいるかもしれない。


 彼は行くことを選んだ。


 たとえ、それが役割に押された選択だとしても、今この場でリシアが否定できるものではない。


 ただ、ひとつだけ言わなければならないと思った。


「帰ってきてください」


 レオンの表情が揺れた。


「勝ってください、ではなく?」


「はい」


 リシアはまっすぐ彼を見る。


「帰ってきてください。レオンさん」


 レオンは少しだけ息を止めた。


 そして、ほんのわずかに笑った。


「分かりました」


 彼は東門へ向かって走り出した。


 マルセルと数名の騎士が続く。


 町人たちはその背中を見て歓声を上げた。


「勇者様!」


「お願いします!」


「魔物を倒してください!」


 リシアはその声の中に立っていた。


 歌詞帳を握る手に力が入る。


 彼を送り出す歌は歌わない。


 でも、町の混乱を放っておくわけにもいかない。


 リシアはシルを見る。


「シル、手伝って」


 ちい。


 シルは真剣な顔で頷いた。


 東門へ押し寄せようとする人々を、門番たちが必死に止めていた。


 不安で近づこうとする者。

 家族の乗った荷馬車かもしれないと叫ぶ者。

 勇者を見ようとする子ども。

 露店を片付けようとして荷車を倒す商人。


 人々の心歌が混ざり合う。


『怖い』


『見に行かなきゃ』


『あの荷馬車はうちのものかもしれない』


『勇者様なら大丈夫』


『でも、もし』


『逃げたい』


『動けない』


 リシアは深く息を吸った。


 静律結界を張るべきか。


 だが、恐怖を止めすぎれば反動が来る。


 セレスタで学んだ。


 感情は消すものではない。


 ただ、一瞬だけ、呼吸を取り戻す隙間を作る。


 リシアは歌った。


『足を止めて、息をひとつ。

 怖い心を、捨てなくていい。


 走る前に、手を握って。

 叫ぶ前に、名を呼んで。


 あなたの不安は、悪くない。

 でも今は、道を空けよう。


 助けに向かう人のために、

 帰る人のために、

 ここで灯りを守ろう。』


 歌声は広場ほど大きくない。


 だが、東門の前に集まった人々へ静かに届いた。


 押し合っていた人々の足が止まる。


 泣きそうだった子どもが母親の手を握る。


 荷車を倒した商人が、慌てていた手を止めて周囲を確認する。


 門番が息をつく。


 リシアはさらに声を重ねた。


「負傷者を迎える場所を作りましょう。水と布を用意してください。子どもたちは門から離れて。荷車は道の端へ」


 歌だけではない。


 言葉で動線を作る。


 町の人々が少しずつ動き始める。


 宿の女将が水桶を運び、商人が布を出し、神官が治療場所を整える。


 リシアはその中を歩きながら、心歌を聞きすぎないよう注意した。


 恐怖はある。


 不安もある。


 でも、動ける。


 ただ勇者を待つだけではなく、自分たちにもできることがある。


 それだけで、町の空気は少し変わる。


 しばらくして、東門の外から剣戟の音が聞こえた。


 金属の響き。


 魔物の唸り声。


 騎士の叫び。


 そして、一度だけ強い光が走った。


 聖剣の光だろう。


 人々が歓声を上げかける。


 リシアは胸がざわついた。


 その光は美しい。


 だが、同時に痛々しくも見えた。


 誰かが叫ぶ。


「勇者様が倒したぞ!」


 歓声が広がる。


 やがて、東門の外から騎士たちが戻ってきた。


 先頭はマルセル。


 彼の鎧には土と血がついているが、歩けている。


 続いて負傷した商人たちを支える騎士。


 そして最後に、レオンがいた。


 聖剣を鞘に収め、いつものように背筋を伸ばしている。


 人々が歓声を上げた。


「勇者様!」


「さすがです!」


「やっぱり勇者様がいれば安心だ!」


 レオンは微笑んだ。


 だが、リシアには見えた。


 彼の右手が震えている。


 聖剣を握っていた手。


 指先がわずかに痙攣していた。


 それを隠すように、彼は外套の内側へ手を入れる。


 心歌が聞こえる。


『見せるな』


『大丈夫』


『まだ立てる』


『次は負傷者の確認』


『笑え』


『勇者だ』


 リシアは足を踏み出した。


 だがその前に、町の少年がレオンへ駆け寄った。


「勇者様! すごかったです! 僕も勇者様みたいになりたい!」


 レオンは膝をつき、少年の目線に合わせた。


「君ならなれるよ」


 優しい声。


 完璧な言葉。


 少年は嬉しそうに笑った。


 けれど、レオンが立ち上がる時、ほんの一瞬だけ膝が揺れた。


 リシアの胸が締めつけられる。


 マルセルも気づいたらしく、さりげなく近づいた。


「レオン様、負傷者はこちらで」


「私も見る」


「ですが」


「大丈夫だ」


 その言葉が、リシアには痛かった。


 大丈夫。


 彼は何度その言葉を使ってきたのだろう。


 誰かを安心させるために。


 自分を黙らせるために。


 リシアはレオンの前に立った。


 周囲の視線が集まる。


「リシアさん?」


 レオンが穏やかに呼ぶ。


 その顔は勇者のものだった。


 リシアは静かに言った。


「今、歌ってもいいですか」


 レオンの目が一瞬だけ揺れる。


 周囲の町人たちは期待したようにざわめいた。


 勇者を癒す歌。


 勇者を励ます歌。


 きっとそう思ったのだろう。


 リシアはそれを感じながら、言葉を続けた。


「戦うための歌ではありません。立たせるための歌でもありません」


 レオンは黙っている。


「ただ、手の震えを隠さなくていい場所を作る歌です」


 レオンの表情が止まった。


 マルセルが息を呑む。


 周囲の人々も静かになる。


 レオンは少しだけ笑おうとした。


「私は」


「大丈夫、と言わなくていいです」


 リシアは遮った。


 強い声ではない。


 けれど、逃がさない声だった。


「今だけでいいです。勇者様ではなく、レオンさんとして聞いてください」


 レオンの唇がわずかに開いた。


 心歌が揺れる。


『聞きたい』


『でも』


『聞いたら』


『崩れる』


 リシアは歌詞帳を開かない。


 これは断章ではない。


 ましてや、彼を治療する歌でもない。


 ただ、一瞬だけ彼が自分の疲れを否定しなくていいようにする歌。


 しかし、レオンは目を伏せた。


「……今は、まだ」


 その声は小さかった。


 けれど、確かな拒絶だった。


 リシアは胸が痛んだ。


 でも、すぐに頷いた。


「分かりました」


 周囲が戸惑う。


 リシアは歌わなかった。


 レオンが拒んだのだから。


 今ここで歌えば、それはリシアの優しさではなく押しつけになる。


 レオンは一瞬だけ、申し訳なさそうな顔をした。


「すみません」


「謝らないでください」


 リシアは静かに言った。


「歌わないことも、選べます」


 レオンは目を見開いた。


 その言葉は、彼の中の何かに触れたようだった。


 マルセルがすぐに前へ出る。


「負傷者の手当てを優先します。レオン様は一度、宿へ」


「だが」


「これは護衛隊長としての判断です」


 マルセルの声は固かった。


 だが、震えてもいた。


「あなたが倒れれば、もっと多くの者が不安になります。どうか、今だけ従ってください」


 レオンはマルセルを見る。


 長い沈黙。


 やがて、彼は小さく頷いた。


「分かった」


 町人たちは驚いていた。


 勇者が休むことに、少し戸惑っている。


 だが、先ほどリシアの歌で落ち着いた人々は、誰も強く引き止めなかった。


 宿の女将がすぐに道を空ける。


「部屋を用意します。温かい湯も」


 商人が布を差し出す。


「これを」


 少年の母親が子どもを引き寄せる。


「勇者様も、お休みが必要なのよ」


 その言葉を聞いた少年は、少し不思議そうにしながらも頷いた。


「勇者様も?」


「ええ。きっと」


 リシアはその会話を聞いて、少しだけ息をついた。


 小さな変化だ。


 でも、大切な変化。


 レオンは宿へ向かう前に、リシアを見た。


「歌わないでくれて、ありがとう」


 その言葉は、小さかった。


 周囲の歓声に紛れて、ほとんど誰にも聞こえなかっただろう。


 けれど、リシアには届いた。


「はい」


 リシアは頷いた。


「また、必要な時に」


 レオンはほんの少しだけ笑った。


 今度の笑みは、勇者のものではなかった。


 疲れた青年が、ほんの一瞬だけ安心したような笑みだった。


 夜。


 オルディアの町は、昼の騒ぎが嘘のように静まっていた。


 負傷者の手当ては終わり、魔物の脅威も去った。


 人々は勇者の活躍を語りながらも、いつもより少しだけ声を落としていた。


 白角鹿亭の二階、廊下の奥の部屋にはレオンが休んでいる。


 見張りにはマルセルが立っていた。


 リシアはその前を通りかかった時、マルセルに軽く会釈した。


「容態は?」


「眠っています。たぶん、久しぶりに」


 マルセルの声には安堵があった。


「よかったです」


「あなたが歌わなかったおかげかもしれません」


 リシアは首を横に振る。


「マルセルさんが止めたからです」


「私は、今まで止めきれませんでした」


「今日は止めました」


 マルセルは少し黙り、それから小さく頷いた。


「はい」


 リシアはそれ以上何も言わず、自分の部屋へ戻った。


 シルはすでに寝台の上で丸くなっている。


 今日一日緊張していたせいか、焼き栗の袋を抱えたまま眠りかけていた。


「シル、食べながら寝ないで」


 ちい。


 寝ていない。


 そう鳴いた直後、目が閉じた。


 リシアはそっと焼き栗の袋を取り、机の上に置く。


 そして歌詞帳を開いた。


 新しい断章は浮かんでいない。


 けれど、白紙のページに小さな一文が現れていた。


『歌わない勇気もまた、歌術師の選ぶ道』


 リシアはその文字を見つめた。


 今日は歌わなかった。


 レオンを癒すことも、励ますことも、休ませることもできなかった。


 けれど、歌わないことで守れたものがある。


 彼が拒む権利。


 彼自身が、まだ受け取れないと言う権利。


 それを尊重できたことは、きっと無意味ではない。


 リシアは窓の外を見た。


 遠くで、王都へ続く街道が月明かりに照らされている。


 勇者レオンの旅は、明日も続く。


 称賛も、期待も、戦いも、まだ彼を離さない。


 それでも今日、彼は一度だけ眠った。


 ほんの少しだけでも。


 リシアはそれを、小さな始まりだと思うことにした。


 窓の外から冷たい風が入り、カーテンが揺れる。


 リシアは静かに歌詞帳を閉じた。


 勇者を立たせる歌ではなく。


 勇者を休ませる歌ですらなく。


 彼が自分で立つか、休むかを選べるようにするための歌。


 その歌を見つけるには、まだ時間が必要だった。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、勇者レオンが「休めない人」であることがはっきり見える回でした。


歓迎され、讃えられ、魔物が出ればすぐに求められる。

レオンは誰かに強制されているわけではなく、自分自身に「勇者であれ」と言い聞かせ続けています。


リシアは今回、彼を癒す歌を歌おうとしました。

けれど、レオンが「今はまだ」と拒んだため、歌いませんでした。


歌うことだけが歌術師かじゅつしの役目ではない。

相手が受け取れない時に、歌わないことも大切な選択です。


今回、歌詞帳には新たな断章ではなく、


『歌わない勇気もまた、歌術師の選ぶ道』


という言葉が浮かびました。


次回では、レオン自身が「勇者」と「レオン」の間で揺れる姿を、さらに描いていきます。


続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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