勇者の名前編 23話 名前が遠い朝
騒がしい一日が明け、オルディアの町には少しだけ静かな朝が訪れる。
昨日まで響いていた歓声は、まだ町のあちこちに残っている。
けれど、その熱の奥で、別の小さな声も確かに息をしていた。
勇者と呼ばれる人。
その名に救われる人々。
そして、その名から少し遠い場所にいる一人の心。
リシアは、まぶしい呼び名の奥に隠れた音へ、もう一度耳を澄ませる。
翌朝、オルディアの町は昨日より少し静かだった。
魔物騒ぎの翌日だからだろう。大通りに飾られた勇者の旗はまだ風に揺れていたが、人々の声には昨日ほどの熱はない。露店も開いている。子どもたちも木剣を持っている。けれど、誰もがどこか遠慮がちだった。
勇者様も休む。
昨日、誰かが口にしたその言葉が、町の中に小さく残っているようだった。
リシアは白角鹿亭の食堂で、温かい粥を食べていた。
向かいの椅子にはシルが座っている。正確には、椅子の上に置いた布の上で丸くなり、木皿に入った豆と格闘していた。
昨日の苦い豆ではない。
宿の女将が気を利かせて、甘く煮た豆を少し分けてくれたのだ。
シルは最初こそ警戒して匂いを嗅いでいたが、一粒食べた瞬間に目を輝かせた。
ちい。
これは許す。
そんな顔だった。
「よかったね」
リシアが笑うと、シルは前足で豆を一粒持ち上げ、しばらく眺めてから口に入れた。
とても大切そうに食べている。
「昨日、苦い豆をこっちに押しつけようとしたの、忘れてないからね」
ちい。
何のことか分からない。
シルはまた知らん顔をした。
リシアは小さく笑ったが、その視線はすぐに食堂の奥へ向かった。
レオンは、まだ姿を見せていない。
昨夜、彼は眠ったとマルセルから聞いた。
久しぶりに。
その言葉が、リシアの胸に残っている。
久しぶりに眠るというのは、本来なら喜ぶべきことではない。眠って、起きて、食べて、また歩く。その当たり前が、レオンには遠くなっていたのだ。
勇者だから。
人類の希望だから。
休む暇がないから。
それを当たり前にしてはいけない。
リシアは粥の器を両手で包み、温かさを感じながら息を吐いた。
その時、食堂の入口が開いた。
入ってきたのはマルセルだった。
彼は昨夜より少しだけ顔色が良く見える。けれど、目元にはまだ疲れが残っていた。
「おはようございます、リシアさん」
「おはようございます。レオンさんは?」
マルセルは少しだけ表情を曇らせた。
「起きられました」
「それなら、よかったです」
「ええ。ですが……」
彼は言葉を切った。
リシアは何となく、その続きを想像してしまった。
レオンが休めたことを喜んでいる。
けれど、何かがうまくいっていない。
「何かありましたか?」
「レオン様が、昨夜のことを気にされています。魔物討伐後にすぐ会談へ戻らなかったことを」
リシアは目を伏せた。
やはり、そうだった。
「休んだことを、悪いことのように?」
「はい」
マルセルの声には苦さがあった。
「町長も神官も、誰も責めていません。むしろ、今朝は皆、無理をなさらないでくださいと仰っています。それなのに、レオン様ご自身が納得されていない」
「勇者だから、ですか」
「おそらく」
マルセルは深く息を吐いた。
「私が止めたことは、間違いではなかったと思っています。けれど、あの方に罪悪感を抱かせてしまった」
「それはマルセルさんのせいではありません」
「分かってはいるのですが」
マルセルは食堂の窓から外を見た。
中庭には朝の光が差している。昨日、リシアがレオンに焼き栗を渡した場所だ。
「あの方は、自分に厳しすぎる。私たちが止めなければ倒れる。でも止めると、今度は自分を責める」
リシアは静かに頷いた。
休むことすら、彼にとっては選択ではなく罪になる。
それはとても苦しい。
シルが豆を食べる手を止め、リシアを見上げた。
ちい。
「うん」
リシアは小さく答えた。
「歌うかどうかは、まだ分からないよ」
マルセルが少し驚く。
「シル殿と会話できるのですか?」
「大体の雰囲気だけです」
ちい。
シルは胸を張った。
通じて当然。
そんな顔である。
リシアは席を立った。
「レオンさんは今、どちらに?」
「中庭です。少し外の空気を吸うと」
「会っても大丈夫でしょうか」
「おそらく。ですが、あまり長くは」
マルセルはそこで言葉を止めた。
そして、少しだけ苦笑した。
「いえ。今の言い方も、結局あの方を予定で縛っていますね」
リシアは首を横に振った。
「予定も必要です。全部をなくせばいいわけではありませんから」
「難しいですね」
「はい」
本当に難しい。
優しさも、責任も、期待も、すべてが悪いわけではない。
ただ、重なりすぎると人を押し潰す。
中庭へ出ると、冷たい朝の空気が頬を撫でた。
レオンは、昨日と同じ木陰のベンチに座っていた。
今日は勇者の外套ではなく、簡素な白いシャツに濃紺の上着を羽織っている。聖剣は腰にあるが、少しだけ遠く見えた。
彼は空を見ていた。
青い空ではない。
薄い雲がかかった、淡い灰色の空。
リシアが近づくと、レオンはすぐに気づいた。
「おはようございます、リシアさん」
「おはようございます。レオンさん」
名前で呼ぶ。
それだけで、レオンの表情がほんの少し緩む。
けれどすぐに、彼は苦笑した。
「その呼び方は、まだ慣れませんね」
「嫌でしたか?」
「いいえ」
レオンは首を横に振った。
「むしろ、懐かしい気がします。変な話ですが、自分の名前なのに」
リシアは彼の隣から少し離れた場所に立った。
勝手に隣へ座るのは、距離を詰めすぎる気がしたからだ。
「座っても?」
「もちろんです」
リシアはベンチの端に腰を下ろした。
シルはリシアの肩から降り、レオンとの間にちょこんと座った。なぜか見張り役のような顔をしている。
レオンはシルを見て、小さく笑った。
「昨日の栗のお礼を、まだちゃんとしていませんでしたね」
シルは前足を差し出した。
リシアは目を丸くする。
「シル?」
レオンも少し驚き、それから吹き出しそうになった。
「お礼を要求されているようですね」
ちい。
シルは堂々と鳴いた。
レオンは懐から小さな包みを取り出した。
「王都の菓子ではありませんが、保存用の木の実です。護衛隊の携行食で、味は保証できません」
シルは包みを受け取ると、匂いを嗅いだ。
少し考えた後、満足そうに頷いた。
「判定、通ったみたいです」
「それはよかった」
レオンは笑った。
ほんの少しだけ、自然な笑みだった。
その時間が、リシアには大切に思えた。
勇者が民を安心させるための笑みではない。
小さなリスにお礼を渡して、思わずこぼれた笑み。
シルは木の実を一粒かじり、すぐにリシアの方へ見せた。
ちい。
「私にもくれるの?」
シルは一瞬固まった。
どうやら見せただけで、分けるつもりはなかったらしい。
レオンが小さく肩を震わせた。
「シル殿は正直ですね」
「食べ物に関しては特に」
リシアがそう言うと、シルは不満そうに鳴いた。
穏やかな空気が流れる。
けれど、それは長く続かなかった。
レオンがふと視線を落とす。
「昨日は、迷惑をかけました」
リシアは彼を見る。
「誰にですか?」
「町の人々に。護衛隊に。あなたにも」
「私は迷惑だとは思っていません」
「でも、私は休んでしまった」
その言い方が、リシアには痛かった。
休んだ、ではない。
休んでしまった。
そこには、はっきりと罪悪感がある。
「休むことは、悪いことでしょうか」
リシアが尋ねると、レオンはすぐには答えなかった。
しばらく空を見上げる。
「悪いことではないと、頭では分かっています」
「はい」
「兵にも休息は必要です。騎士にも、治療師にも、歌術師にも。私だって、他人にはそう言うでしょう」
「自分には?」
レオンは笑った。
困ったような、疲れたような笑い方だった。
「不思議ですね。自分のことになると、急に分からなくなる」
心歌が、静かに聞こえる。
『休めば、誰かが傷つく』
『私が立たなければ』
『誰かが死ぬ』
『だから、眠るのが怖い』
リシアは息を詰めた。
眠るのが怖い。
その言葉は、レオンの疲労の深さを物語っていた。
ただ予定が多いから休めないのではない。
彼の中では、休むことが誰かの死と結びついている。
「レオンさん」
リシアは静かに言った。
「昨日、眠れたことは悪いことではありません」
「そう言われると、少し楽になります」
「でも、それを私が歌にして押しつけたら、きっと苦しくなりますよね」
レオンは驚いたようにリシアを見た。
「押しつけ?」
「はい。休んでいい、眠っていい、大丈夫。そういう言葉も、時には人を追い詰めると思います」
リシアは自分の手元を見る。
「だから、私はまだ歌えません。レオンさんが本当に受け取れる時まで」
レオンは黙っていた。
その沈黙は拒絶ではない。
戸惑いと、少しの安堵が混ざっていた。
「あなたは、変わった歌術師ですね」
「それも、よく言われます」
「普通なら、救おうとしてくれるのでしょうね」
「私も、救いたいとは思っています」
リシアは正直に言った。
「でも、救いたい気持ちだけで歌うのが怖いんです」
レオンはゆっくり瞬きをした。
「なぜですか」
リシアは少し迷った。
自分の過去に触れることになる。
戦場で歌った進軍詩。
歌に励まされて前へ進み、帰らなかった人たち。
アイシャ。
その名が胸の奥で疼く。
けれど、すべてを話す必要はない。
今はまだ。
「昔、励ます歌を歌いました」
リシアは言った。
「怖がっている人たちへ。立てるように。前へ進めるように」
「戦場で?」
「はい」
レオンの表情が静かに変わった。
勇者としてではなく、戦場を知る者として、リシアを見た。
「その歌で、立ち上がった人たちがいました」
「それは」
「でも、帰らなかった人もいました」
言葉にすると、胸が痛んだ。
リシアは膝の上の手を握る。
「だから私は、誰かを立たせる歌が怖いんです。どれほど優しい言葉でも、相手を戦場へ戻してしまうかもしれないから」
レオンは長く黙っていた。
その沈黙の中で、シルも木の実を食べる手を止めていた。
やがて、レオンが言った。
「それでも、あなたは歌うのですね」
「はい」
「怖いのに」
「怖いままです」
リシアはレオンを見る。
「怖くなくなったら、たぶん私はもっと危ない歌い方をしてしまうと思います」
レオンの心歌が、かすかに揺れた。
『怖いまま』
『立っている』
『それでも歌う』
彼は少しだけ目を伏せた。
「私は、怖いと言うのが下手です」
「はい」
「勇者になってから、怖いと言う機会が減りました。言わなくなったのか、言えなくなったのか、もうよく分かりません」
リシアは息を止める。
レオンが初めて、自分の弱さに近い言葉を口にした。
とても小さな一歩。
けれど、大きな一歩だった。
「今、怖いですか」
リシアは慎重に尋ねた。
昨日ミリカに「泣きたいですか」と踏み込みすぎた失敗を思い出しながら、でも今回は問うた。
レオンはしばらく答えない。
拒まれたら、それ以上は聞かないつもりだった。
やがて、彼は小さく頷いた。
「怖いです」
その声は、とても静かだった。
「魔物が怖いわけではありません。戦うことも、傷つくことも、怖くないと言えば嘘になりますが、まだ耐えられる」
「何が怖いのですか」
「自分が止まった時に、誰かが失望することです」
レオンの手が膝の上で握られる。
「勇者様なら大丈夫。勇者様なら勝てる。勇者様なら休まない。そう思ってくれる人たちを、裏切るのが怖い」
リシアの胸が痛む。
「そして、もっと怖いのは」
レオンは言葉を切った。
少しだけ息を吸う。
「私自身が、もうレオンという人間をあまり信じていないことです」
リシアは何も言えなかった。
風が中庭を抜ける。
旗が小さく揺れる。
遠くで露店の準備をする音が聞こえた。
それでも、この一角だけは静かだった。
「勇者なら立てる。勇者なら勝てる。勇者なら迷わない」
レオンは自嘲気味に笑った。
「でも、レオンはどうなのかと聞かれると、分からない。だから私は、勇者でいる方が楽なんです」
それは、休みたいと言いながら休めない理由だった。
勇者という役割は彼を苦しめている。
同時に、彼を支えてもいる。
その役割を急に取り上げれば、レオンは立っていられなくなるかもしれない。
リシアは歌詞帳に触れた。
歌えない。
今はまだ。
この人に必要なのは、勇者を壊すことではない。
勇者という鎧の内側に、レオンという名前がまだあると確認することだ。
「レオンさん」
「はい」
「私は、勇者をやめてくださいとは言いません」
レオンがリシアを見る。
「きっと、勇者であることもあなたの一部です。誰かを守ってきたことも、戦ってきたことも、嘘ではないから」
リシアはゆっくりと言葉を続けた。
「でも、勇者でいるために、レオンさんを消さなくてもいいと思います」
レオンの瞳が揺れた。
「消さなくても」
「はい」
「……そんなことが、できるのでしょうか」
「すぐには無理かもしれません」
リシアは微笑んだ。
「でも、今こうして話しているレオンさんは、ちゃんとここにいます」
その時だった。
中庭の入口から、騎士の声が聞こえた。
「勇者様、王都より急使です!」
空気が一瞬で変わった。
レオンの表情が戻る。
柔らかく揺れていた青い瞳が、すっと整えられていく。
勇者の顔。
リシアはその変化を、目の前で見てしまった。
レオンは立ち上がる。
「すぐ行く」
「レオンさん」
リシアは思わず呼んだ。
レオンは振り返る。
ほんの一瞬、青年の顔が戻った。
リシアは言った。
「さっきの話、消さないでください」
レオンは答えなかった。
だが、わずかに頷いた。
それから彼は、騎士の方へ歩いていった。
リシアとシルも少し遅れて中庭の入口へ向かう。
そこにはマルセルと、王都から来たらしい伝令騎士がいた。伝令騎士は息を切らし、封書を差し出している。
レオンが封を切る。
文面を読んだ瞬間、彼の表情がわずかに硬くなった。
マルセルが尋ねる。
「何が?」
レオンは短く答えた。
「王都到着を一日早めるようにとの命令だ。西方の砦で魔族の動きがあるらしい。王都での祝宴後、すぐに作戦会議へ出る」
マルセルの顔色が変わる。
「祝宴後、すぐにですか。では休息日は」
「なくなった」
レオンの声は静かだった。
あまりにも静かだった。
「出発は?」
「今日の夕刻」
「無茶です。昨日の戦闘の後ですし、レオン様は」
「マルセル」
レオンは穏やかに彼を制した。
「命令だ」
その一言で、マルセルは黙った。
リシアは胸が冷たくなるのを感じる。
やっと、少しだけレオンが自分の言葉を口にした。
怖いと言えた。
レオンを消さなくていいと話せた。
その直後に、また勇者としての命令が彼を連れていく。
しかも祝宴後、すぐに作戦会議。
休む時間はない。
レオンは封書をたたみ、伝令騎士へ頷いた。
「承知したと返してくれ」
「はっ」
伝令騎士が去る。
マルセルはまだ納得していない顔をしていたが、レオンはもう予定の確認を始めていた。
「隊の準備を。負傷者は無理をさせない。代替の馬を手配する。町長には私から説明する」
声は落ち着いている。
判断も早い。
まさに勇者だった。
だが、リシアには聞こえていた。
『やはり』
『休んでいる場合ではなかった』
『眠った分、遅れた』
『取り戻さなければ』
違う。
そう言いたかった。
昨日眠ったことは悪くない。
休んだから命令が来たわけではない。
でも、その言葉を今投げても、届かない気がした。
レオンは再び、自分を勇者の中へ押し込めている。
マルセルが準備のために走り出す。
騎士たちが慌ただしく動き始める。
中庭の穏やかな空気は、あっという間に消えた。
レオンはリシアの方へ歩いてきた。
「すみません。話の途中でしたが」
「謝らないでください」
「王都へ向かいます。リシアさんも王都方面でしたね」
「はい」
「同行を頼むつもりはありません。ただ、道中でまた会うかもしれません」
レオンは微笑んだ。
勇者の笑みだった。
でも、その奥に、ほんの少しだけ先ほどの青年の揺れが残っている。
リシアは言った。
「レオンさん」
「はい」
「私は、あなたを勇者に戻す歌は歌いません」
レオンは黙った。
「でも、レオンさんが自分の名前を忘れそうになった時は、呼びます」
その言葉に、レオンの表情がわずかに崩れた。
ほんの一瞬。
疲れた青年の顔になる。
「それは」
彼は言葉を探した。
「少し、怖いですね」
「はい」
「でも」
レオンは小さく息を吐いた。
「お願いします」
リシアは頷いた。
「はい」
レオンは去っていった。
騎士たちの中心へ。
命令と期待と称賛の中へ。
シルがリシアの肩へ戻り、静かに鳴いた。
ちい。
「うん」
リシアは胸元の歌詞帳に手を添えた。
「まだ、遠いね」
白紙のページが、鞄の中で微かに震えた。
そこに文字が浮かぶ気配があった。
けれど、まだ読めない。
勇者の名前。
レオンの本音。
歌わない勇気。
そのすべてが、まだ一つの歌にはならない。
夕刻、勇者一行は予定を早めてオルディアを出る。
その知らせはすぐに町へ広がり、人々はまた通りへ集まり始めていた。
勇者様を見送るために。
勇者様に声を届けるために。
勇者様へ、期待を渡すために。
リシアはその光景を見つめながら、静かに思った。
次に歌う時が来るなら。
それはきっと、レオンを立たせるためではない。
彼が、自分で立つのか、休むのかを選べるようにするための歌でなければならない。
その歌を見つけるまで、まだ旅は続く。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、レオンが少しだけ「勇者」ではなく「レオン」として本音を語る回でした。
休むことが悪いわけではない。
けれどレオンにとっては、休むことすら誰かを裏切るように感じてしまう。
そんな彼に対して、リシアは無理に歌いませんでした。
勇者をやめさせるのではなく、勇者である彼の中に、レオンという名前を残すこと。
それが今のリシアにできる寄り添い方です。
けれど、王都からの命令により、レオンはまた勇者として立たされてしまいます。
次話では、王都へ向かう中で、レオンを取り巻く期待と、リシアの葛藤がさらに深まっていきます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




