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勇者の名前編 24話 勇者様を見送る声

夕暮れのオルディアに、人々の声が集まっていく。


感謝の声。

祈る声。

どうか無事でと願う声。


それはきっと、誰かを支えるための優しさだった。


けれど、たくさんの想いを背負う人の心は、その声をどんな重さで受け取るのだろう。


リシアは、見送る声の中に混ざる小さな揺らぎへ耳を澄ませる。


 夕刻のオルディアは、朝とは違う熱を帯びていた。


 西へ傾いた太陽が、家々の屋根を橙色に染めている。大通りには青と白の旗が並び、昼よりも多くの人々が集まっていた。


 本来なら、勇者一行は翌朝出立する予定。


 町の人々も、もう一晩だけ勇者様が滞在すると聞いていた。だからこそ、急な出発の知らせは町を驚かせた。


 けれど、人々は責めない。


 むしろ、急いで見送ろうとした。


「勇者様が王都へ向かわれるぞ!」


「王国のためだ!」


「お気をつけて!」


「どうか、魔族を退けてください!」


 その声は温かい。


 温かく、まっすぐで、そして重い。


 リシアは白角鹿亭の入口に立ち、通りの向こうを見つめていた。


 勇者一行の馬が並んでいる。騎士たちは荷をまとめ、伝令が慌ただしく行き来し、マルセルは出発前の確認に追われていた。


 その中心に、レオンがいる。


 白と青の外套をまとい、聖剣を腰に帯び、町の人々へ穏やかに応えている。


 少し前まで中庭で、「怖い」と言った青年。


 自分がもうレオンという人間を信じていないと、苦しそうに笑った人。


 その人は今、また勇者の顔をしていた。


 リシアの肩の上で、シルが小さく鳴く。


 ちい。


「うん」


 リシアは小さく答えた。


「戻るのが早いね」


 レオンは、自分の中の弱さを完全に隠すのが上手い。


 上手すぎる。


 人々はその顔を見て安心する。勇者様は大丈夫だと思う。だからまた、願いを預ける。


 その願いに悪意はない。


 だからこそ、切り捨てることもできない。


 宿の前で、マルセルがこちらへ歩いてきた。


 彼はかなり忙しそうだったが、リシアの前で足を止める。


「リシアさん」


「はい」


「王都方面へ向かわれるのでしたね」


「そのつもりです」


「もしよろしければ、途中の宿駅まで同行しませんか」


 リシアは少し驚いた。


「私が、ですか?」


「はい。護衛としてではありません。こちらがあなたを守る形になります」


 マルセルは少しだけ言いにくそうに続けた。


「それと……レオン様が、あなたが近くにいることを拒まれませんでした」


「レオンさんが?」


「はい。同行を頼むつもりはない、と仰っていました。ですが、あなたが同じ道を行くなら、無理に離す理由もない、と」


 リシアは通りの向こうのレオンを見る。


 レオンはこちらに気づいていない。


 いや、気づいていても、今は見ないようにしているのかもしれない。


 町の人々の前で、彼は勇者様でいなければならないから。


「ご迷惑でなければ、お願いします」


 リシアが答えると、マルセルは少し安心したように頷いた。


「助かります。正直に言うと、私もあなたに近くにいてほしい」


「歌のためですか?」


「いいえ」


 マルセルは首を横に振った。


「歌わないためにも、です」


 その言葉に、リシアは目を瞬かせた。


 マルセルは苦笑する。


「昨日までは、歌術師なら歌って助けるものだと思っていました。ですが今は、あの方が受け取れない時に歌わないでいてくれる人がいることも、必要なのだと思っています」


 リシアは胸が少し温かくなった。


「分かりました。同行させていただきます」


「ありがとうございます」


 マルセルは礼をして、すぐに隊の方へ戻っていった。


 出発の準備が整う頃、町長がレオンの前へ進み出た。


 町長は深く頭を下げる。


「勇者様。短い滞在ではありましたが、この町にお越しいただき、誠にありがとうございました」


「こちらこそ、温かく迎えていただき感謝します」


 レオンは穏やかに答えた。


「東門の件も、皆さんが落ち着いて行動してくださったおかげで被害を抑えられました」


 その言葉に、町の人々が少しざわめいた。


 勇者様が自分たちの行動を認めてくれた。


 そう感じたのだろう。


 リシアはその様子を見て、わずかに息を吐いた。


 レオンはちゃんと分かっている。


 人々をただ守られる側に置かない。


 それでも、最後にはすべて自分の背に戻してしまう。


 町長の後ろから、一人の少年が進み出た。


 昨日、レオンに「僕も勇者様みたいになりたい」と言っていた少年だった。


 少年は緊張した顔で、小さな布袋を差し出す。


「勇者様。これ、僕が作りました」


 レオンは膝を折り、少年と目線を合わせた。


「ありがとう。見てもいいかな」


「はい!」


 布袋の中には、小さな木札が入っていた。


 そこには子どもの字でこう刻まれていた。


『ぜったいにかってください』


 周囲の大人たちが微笑む。


 少年は真剣だった。


「勇者様なら、絶対に勝てますよね」


 レオンは木札を手にしたまま、ほんの一瞬だけ止まった。


 それは、周囲には分からないほど短い間だった。


 けれどリシアには、その心歌が聞こえた。


『絶対』


『また』


『勝たなければ』


『そう言えば、この子は安心する』


 レオンは微笑んだ。


「ありがとう。大切にするよ」


 少年は嬉しそうに笑った。


 それでよかったのだと思う。


 その子に悪意はない。


 ただ、大好きな勇者様に勝ってほしいだけだ。


 けれどリシアの胸は痛んだ。


 絶対に勝ってください。


 その言葉は、応援であり、祈りであり、同時に鎖にもなる。


 レオンは木札を懐へしまった。


 そして、馬へ向かう。


 その時、リシアと目が合った。


 リシアは何も言わなかった。


 代わりに、小さく唇だけを動かす。


 レオンさん。


 声にはしなかった。


 人々の前で彼を揺らすべきではないと思ったからだ。


 それでも、レオンは気づいた。


 彼の表情がほんの少しだけ変わる。


 勇者の笑みの奥で、レオンという青年が一瞬だけ息をした。


 出発の号令がかかった。


 勇者一行は、オルディアの町を出る。


 人々が道の両側に並び、手を振る。


「勇者様!」


「どうか王都をお守りください!」


「魔族に負けないで!」


「レオン様!」


 歓声が夕暮れの街道に響いた。


 レオンは馬上から手を振った。


 背筋は伸びている。


 表情は穏やかだ。


 だが、リシアは彼の背中が昨日より少し遠く見えた。


 勇者様を見送る声が、彼を前へ押していく。


 それは歌ではない。


 けれど、歌と同じように人を動かす力を持っている。


 リシアは馬車の端に座り、シルを抱えた。


 シルは珍しく食べ物に気を取られていない。じっとレオンの背中を見つめている。


「シル」


 ちい。


「うん。今は、まだ歌わない」


 リシアは小さく言った。


「でも、呼び続ける」


 夕暮れの街道を、一行は王都へ向かって進んだ。


 オルディアの町が背後に遠ざかっていく。


 最初は賑やかだった見送りの声も、やがて風に薄れていった。


 隊列は、思っていたより静かだった。


 騎士たちは急な出発で疲れている。馬の蹄の音と、車輪の軋む音だけが一定の調子で響いていた。


 リシアは隊列の後方に用意された荷馬車に乗っていた。


 同じ荷馬車には補給品が積まれている。シルはその中の干し果物の箱を見つけ、じわじわと近づこうとしていた。


「シル」


 ちい。


「それは騎士団の補給品」


 ちい。


「私たちのじゃない」


 シルはとても残念そうに箱から離れた。


 少しして、マルセルが馬を寄せてきた。


「シル殿には、あとで許可を取って木の実を渡します」


 シルがぱっと顔を上げた。


「甘やかさなくていいですよ」


「士気管理です」


「誰の士気ですか」


「主にシル殿の」


 リシアは思わず笑ってしまった。


 マルセルも少しだけ笑う。


 その横顔は、昨日より少し柔らかかった。


「マルセルさんも、少し変わりましたね」


「そうでしょうか」


「はい。冗談を言う方だとは思っていませんでした」


「私も、自分がそういうことを言うとは思っていませんでした」


 マルセルは前方のレオンを見た。


 レオンは隊列の先頭近くにいる。


 伝令や騎士から次々に報告を受けながら、短く指示を出していた。


 休めと言われても、結局こうなる。


 マルセルの横顔に、苦いものが浮かぶ。


「レオン様は、昔からああでした」


「昔から?」


「勇者に選ばれる前から、誰かの期待に応えようとする方でした」


 リシアはマルセルを見る。


「昔のレオンさんをご存じなのですね」


「同じ騎士学校にいました。年は私の方が少し上ですが、彼は入学当初から目立っていました」


「強かったから?」


「強かったです。でも、それだけではありません」


 マルセルは少し懐かしそうに目を細めた。


「誰かが訓練で失敗すると、必ず最後まで付き合う。下級生が困っていれば声をかける。自分の課題が残っていても、他人を優先する。そういう人でした」


「優しい方だったんですね」


「ええ」


 マルセルは頷いた。


「ただ、優しすぎたのだと思います」


 その言葉は、リシアの胸にも刺さった。


 優しいことは美徳だ。


 でも、優しすぎる人は、自分を後回しにする。


 そして周囲も、その優しさに慣れていく。


「勇者に選ばれた時、皆が納得しました。レオンなら、と」


「マルセルさんも?」


「はい」


 マルセルは正直に答えた。


「私も思いました。レオンなら、聖剣に選ばれて当然だと。彼なら人類の希望になれると」


「今は?」


「今も、そう思っています」


 マルセルは少し苦しそうに言った。


「だからこそ、苦しいのです。彼が勇者であることは間違いではない。けれど、勇者であることが彼を削っている」


 リシアは前方のレオンを見た。


 勇者であることも彼の一部。


 けれど、それが彼のすべてになってはいけない。


 中庭で彼に言った言葉が、胸の中でよみがえる。


「マルセルさんは、レオンさんを何と呼んでいたんですか」


 リシアが尋ねると、マルセルは少し驚いた。


「昔ですか?」


「はい。騎士学校の頃」


 マルセルは少し考え、苦笑した。


「レオン、と。普通に呼び捨てでした」


「今は?」


「今は、レオン様です」


「戻せませんか」


 マルセルはすぐには答えなかった。


 馬の歩く音が続く。


 夕日が道の先を赤く染めている。


「難しいですね」


「なぜですか」


「立場があります。彼は勇者で、私は護衛隊の一員です。人前で呼び捨てにはできません」


「人前でなくても?」


 マルセルの手が手綱を握り直した。


「……それは」


 リシアは急かさなかった。


 マルセルはしばらく黙っていた。


 やがて、静かに言った。


「私自身が、怖いのかもしれません」


「怖い?」


「レオンと呼んだ時、彼が本当に疲れた顔をしたら。弱音を吐いたら。私はそれを受け止められるのかと」


 リシアは息を呑んだ。


 マルセルもまた、怖かったのだ。


 レオンを勇者様として見ている方が楽なのかもしれない。


 勇者様なら大丈夫。


 勇者様なら耐えられる。


 でも、レオンと呼べば、その向こうにいる一人の青年の痛みを見なければならなくなる。


「それを聞けただけでも、大切だと思います」


 リシアは言った。


「私は、今まで聞かないふりをしていたのかもしれません」


 マルセルの声は重かった。


 リシアは首を横に振る。


「でも、今日から聞くことはできます」


 マルセルは小さく頷いた。


「……そうですね」


 その時、隊列の前方が止まった。


 急な停止ではない。


 予定された休憩のようだった。


 街道脇に小さな石の祠があり、馬を休ませるための広場がある。王都へ向かう旅人がよく使う場所なのだろう。


 空はすでに暗くなり始めていた。


 騎士たちは手際よく休憩の準備を始める。


 水を配る者。

 馬の状態を見る者。

 簡単な食事を準備する者。

 周辺を警戒する者。


 レオンはその中心で、また指示を出していた。


「西側の林に二名。馬は交代で水を。負傷者は先に食事を取らせてください」


 疲れているはずなのに、動きに乱れはない。


 それがまた、リシアには痛々しかった。


 マルセルが馬を降り、レオンの方へ向かおうとする。


 その背中を見て、リシアは言った。


「マルセルさん」


 彼が振り返る。


「名前を呼ぶのは、今じゃなくてもいいと思います」


「はい」


「でも、呼ぶ時は、きっとレオンさんにも届きます」


 マルセルは少しだけ迷い、それから頷いた。


「ありがとうございます」


 休憩中、リシアは荷馬車のそばでシルに水を飲ませていた。


 シルは騎士団から正式に配給された木の実を抱えて、かなり機嫌が良い。


「よかったね、正式な支給品だよ」


 ちい。


「盗んでない木の実はおいしい?」


 ちいっ。


 シルは少しだけ怒った顔をした。


 盗んだことなどない、と言いたげ。


 リシアは笑いながら、その頭を撫でた。


 そこへ、レオンが一人で歩いてきた。


 珍しく、周囲に騎士を連れていない。


 といっても、遠くではマルセルがこちらを見ている。完全に一人というわけではない。


「少し、いいですか」


 レオンが言った。


「はい」


 リシアは立ち上がる。


 レオンは祠の横に立ち、沈みかけた空を見た。


「出発前に、あなたが口を動かしたのが見えました」


 リシアは少し驚いた。


「声には出していなかったのですが」


「見えました」


 レオンは静かに言った。


「レオンさん、と言っていましたね」


「はい」


「助かりました」


 その言葉は意外だった。


 リシアはレオンを見る。


「助かった、ですか?」


「はい。あの時、少年から木札をもらいました。絶対に勝ってください、と」


 レオンは懐に手を当てた。


 木札はそこにあるのだろう。


「嬉しかったのです。本当に。あの子の気持ちは、疑いようもなくまっすぐでした」


「はい」


「でも、同時に苦しくなった。絶対に、という言葉は強いですね」


 リシアは静かに頷く。


「その時、あなたが私の名前を呼んだ。声にはなっていませんでしたが」


 レオンは少しだけ笑った。


「勇者様ではなく、レオンさんと。それで、少しだけ息ができた」


 リシアの胸が温かくなった。


 歌わなかった。


 声にも出さなかった。


 それでも、届くものがある。


「それなら、よかったです」


「ただ」


 レオンの表情が曇る。


「名前を呼ばれると、怖くもなります」


「なぜですか」


「レオンとして返事をしたら、勇者でいられなくなる気がする」


 その声は小さかった。


 リシアはすぐに否定しなかった。


 違います、と言うのは簡単だ。


 でも、レオンにとっては本当にそう感じられるのだろう。


「レオンさんは、勇者でいられなくなりたいですか?」


 レオンは少し考えた。


 そして、首を横に振った。


「いいえ」


 その答えは、はっきりしていた。


「私は、守りたい。魔物に襲われる人を見れば助けたい。魔族の脅威があるなら止めたい。聖剣に選ばれたことを、呪っているわけではありません」


「はい」


「ただ、ずっと勇者でいるのは、息が苦しい」


 リシアはその言葉を胸に受け止めた。


 それが、レオンの抱える核心に近い気がした。


 勇者をやめたいわけではない。


 でも、ずっと勇者でいるのは苦しい。


 なら必要なのは、勇者から引きずり下ろす歌ではない。


 勇者でありながら、レオンとして息をする場所。


 その場所を作る歌だ。


「レオンさん」


「はい」


「今は、答えを出さなくていいと思います」


 レオンは少しだけ意外そうにリシアを見る。


「勇者を続けるのか、休むのか。立つのか、座るのか。きっとすぐには選べません」


「ええ」


「でも、選べないことを、なかったことにしないでください」


 リシアはゆっくりと言った。


「苦しいと思ったことを、勇者にふさわしくないと思わないでください」


 レオンは黙って聞いていた。


 その横顔に、夕闇が落ちる。


「リシアさんは、いつも難しいことを言いますね」


「すみません」


「いいえ。簡単な言葉ばかり聞いてきたので、少し新鮮です」


 レオンは笑った。


 疲れた笑みではあったが、どこか本音に近い笑みだった。


「勇者様なら大丈夫。勇者様なら勝てる。勇者様なら迷わない」


 彼はゆっくり言った。


「どれも、きっと優しさなのでしょう」


「はい」


「でも、たまに思います」


 レオンは祠の石に手を置いた。


「勇者様なら、と言われるたびに、レオンという名前が遠くなる」


 リシアの歌詞帳が、鞄の中でかすかに震えた。


 レオンもそれに気づいたのか、視線を向ける。


「今、何か?」


「歌詞帳が反応しました」


「断章ですか」


「まだ分かりません」


 リシアは鞄から歌詞帳を取り出した。


 白紙のページに、薄く文字が浮かびかけている。


『呼ばれるほど、遠くなる名がある』


 リシアはその一文を見つめた。


 レオンも横から覗き込み、静かに息を呑んだ。


「私のことですね」


「たぶん」


「名の断章とは違うのですか」


 リシアは少し考えた。


「レムナで得た名の断章は、失われそうな名前を呼び合う歌でした。でも、今回は少し違います」


「違う?」


「レオンさんの名前は、誰も忘れていません。むしろ皆、レオン・グランツ様と呼んでいます」


「ええ」


「でも、その名が役割と結びつきすぎて、本人の手から離れている」


 レオンは黙った。


 その沈黙は、とても深かった。


「名前が遠くなる」


 彼は自分で呟いた。


「それは、しっくり来ます」


 リシアはページを閉じた。


「まだ歌にはなりません」


「そうですか」


 レオンは少し残念そうに、そして少し安心したように言った。


「はい。今歌うと、たぶん急ぎすぎます」


「あなたは、本当に急ぎませんね」


「急いで失敗したことが、何度もありますから」


 リシアは苦笑した。


 ミリカに泣きたいかと聞いてしまったこと。


 エマの声へ踏み込みそうになったこと。


 ガルドの後悔を、歌で整えようとしてしまったこと。


 その失敗が、今のリシアを止めている。


 失敗は痛い。


 でも、無駄ではない。


 その時、遠くでマルセルの声がした。


「レオン様、そろそろ出発準備を」


 レオンは顔を上げる。


 また勇者の時間が来た。


 けれど、今度はすぐに表情を完全には戻さなかった。


 ほんの少しだけ、レオンのまま息をしてから、彼は頷いた。


「分かった」


 マルセルがこちらへ歩いてくる。


 近づくにつれ、少し迷ったような顔になった。


 そして、レオンの前で足を止める。


「レオン様」


 いつもの呼び方。


 しかし、その後に続けて、彼は小さく言った。


「無理はするな、レオン」


 リシアは息を止めた。


 レオンも動きを止める。


 マルセル自身も、自分が言った言葉に驚いているようだった。


 その場に、短い沈黙が落ちた。


 風が祠の周りを抜ける。


 シルが、ちい、と小さく鳴く。


 レオンはマルセルを見た。


 長い時間に感じた。


 やがて、レオンは小さく笑った。


「……その呼び方は、久しぶりだな」


 マルセルは少し気まずそうに視線を逸らす。


「失礼しました」


「いや」


 レオンは首を横に振った。


「ありがとう、マルセル」


 その声は、勇者のものではなかった。


 騎士学校の頃に戻ったような、ほんのわずかに懐かしさの混じった声だった。


 マルセルの顔が少しだけ歪む。


 泣くほどではない。


 けれど、何かを堪えた顔だった。


「出発準備は整っています」


「分かった」


 レオンは馬の方へ歩き出した。


 その背中はまだ勇者のものだった。


 けれど、ほんの少しだけ違って見えた。


 誰かに名前を呼ばれた背中。


 それだけで、鎧の重さが消えるわけではない。


 しかし、完全に閉じていた隙間に、小さな風が通ったようだった。


 リシアは歌詞帳を胸に抱えた。


 ページの中で、先ほどの一文が淡く残っている。


『呼ばれるほど、遠くなる名がある』


 その下に、新しい文字が浮かんだ。


『それでも、近くで呼ぶ声があれば』


 そこで文字は途切れた。


 続きはまだない。


 リシアはページを閉じる。


 歌はまだ完成しない。


 でも、少しだけ進んだ。


 レオンを変えたのは、リシアの歌ではなかった。


 マルセルが名前を呼んだこと。


 レオンがその名を受け取ったこと。


 その小さな出来事が、歌になる前の一節を生んだ。


 勇者一行は再び王都へ向かって進み始めた。


 夜の街道に、馬の蹄の音が響く。


 遠く、王都の灯りがまだ見えない先で、黒い雲が低く垂れ込めていた。


 リシアは荷馬車の上から、その空を見つめる。


 胸元の歌詞帳が、もう一度だけ震えた。


 そして、風の中にかすかな不協和音が混ざった。


 黒譜術。


 シルが毛を逆立てる。


 ちいっ。


 リシアも息を呑んだ。


 前方の闇のどこかで、誰かが歌を歪めている。


 それはまだ遠い。


 けれど確かに、勇者一行の進む先にあった。


 王都へ向かう道は、もうただの凱旋路ではない。


 レオンの名前を遠ざける声と、黒い譜面の気配が、夜の向こうで静かに待っていた。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、勇者一行がオルディアを出発し、王都へ向かう回でした。


レオンは「勇者様」として見送られますが、その声が温かいほど、彼自身の名前は遠くなっていきます。


そんな中で、リシアは歌うのではなく、ただ「レオンさん」と呼び続けることを選びました。


そしてマルセルもまた、久しぶりに彼を「レオン」と呼びます。


リシアの歌ではなく、誰かが名前を呼ぶこと。

それもまた、レオンを支える小さな一歩になりました。


しかし、王都へ向かう先には黒譜術の気配が現れます。


次話では、勇者レオンを巡る問題が、さらに不穏な形で動き始めます。


続きも読んでいただけたら嬉しいです。


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