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星降りの窪地編 84話 返事を求めない祈り

リシアとシルは、エリュナ旧道を進み、星見の石橋へたどり着いた。

その橋は、声が返らない場所だった。

橋守のオルザは、昔そこが返事を求めない祈りを置く場所だったと語る。

だが最近は、橋へ投げた声が自分の中へ戻らず、呼んだ名前まで欠けてしまうことがあるという。

橋の上では、ラウナという名を呼びかけた若い男が、その名を喉の奥で失いかけていた。

リシアは大きな歌ではなく、彼の呼吸を手元の石へ戻すための短い歌を使い、彼自身がもう一度ラウナの名を呼べるよう支えた。

橋を渡った先には、古い石碑があった。

そこには、「声を閉じるな。ただ、返ることを求めるな」と刻まれていた。

リシアはその言葉を胸に、エリュナの落星跡へ続く白い道を進む。


 星見の石橋を越えると、世界は少しだけ白くなった。


 空の色が変わったわけではない。


 雲が増えたわけでもない。


 けれど、道の両側に生える草の先や、石畳の割れ目に残る砂が、どこか淡い光を含んでいる。昼の光を受けているだけなのに、地面そのものが遠い星明かりを覚えているようだった。


 リシアは歩きながら、何度も足元を見た。


 石の欠片に銀の粒が混じっている。


 星見の石橋と同じ石だ。


 踏むと硬い。


 けれど足音は、まだ少し薄い。


 橋の上ほどではないが、自分の音が遅れて帰ってこない。歩いたという証だけが、足の裏に静かに残る。


 シルは肩の上で、薄い焼き菓子の包みを抱えていた。


 石橋で一枚を割ってしまってから、彼はずっと不満そうにしている。


 橋の上で食べると決めていた。


 けれど橋は、焼き菓子が割れる音さえまともに返してくれなかった。


 シルにとって、それはかなり許しがたいことだったらしい。


「そろそろ食べる?」


 リシアが尋ねると、シルは包みを見下ろした。


 少し考える。


 それから首を横に振る。


「まだ?」


 ちい。


 今度は、ただの「あとで」ではなかった。


 どこで食べれば音がちゃんと聞こえるのか、見極めている顔だった。


「食べ物にも場所を選ぶんだね」


 シルは真剣に頷いた。


 リシアは小さく笑った。


 その笑い声も、道の上ではすぐに薄くなる。


 白紙市では、声が綴じられ、破られ、封じられようとしていた。


 星見台では、欲しい声が返ってきた。


 けれどここでは、声が返らない。


 同じ「声」をめぐる場所なのに、どれも違う。


 リシアは胸元の歌詞帳に手を添えた。


 歌詞帳は、橋を越えてから静かに震え続けている。


 強く何かを求めているというより、道の先にあるものへ耳を澄ませているような震えだった。


 しばらく進むと、道の右手に小さな石場が見えてきた。


 円形に石が並べられ、その中央に低い台がある。台の上には、手のひらに収まるほどの丸石がいくつも置かれていた。


 白い石。


 灰色の石。


 星の粒を含んだ石。


 名前が刻まれたものもあれば、何も刻まれていないものもある。


 その奥に、古い木札が立っていた。


 返事を求めない祈りは、石へ置け。


 名を呼ぶなら、相手を引くためではなく、手放さぬために。


 リシアは木札の前で足を止めた。


「ここが、祈りを置く場所……」


 橋守オルザが言っていた。


 昔は、返事を求めない祈りを置く場所だった、と。


 死者に返事を求めない。


 遠くへ行った人に、言葉を押しつけない。


 それでも、忘れないために石を置く。


 リシアは、白紙市の未読箱を思い出した。


 読まれない紙。


 開けないと決めた記録。


 持ち主が望むまで待つもの。


 それと少し似ている。


 けれど、ここにある石は紙よりもずっと重い。


 濡れても破れない。


 燃やしても簡単には消えない。


 誰かが置いた祈りが、ずっとそこに座っているようだった。


「旅の方ですか」


 声をかけられ、リシアは顔を上げた。


 石場の奥、小さな屋根の下に少女がいた。


 年は十六か十七ほどだろう。淡い灰色の髪を後ろでまとめ、作業用の前掛けをつけている。手には細い彫り針があり、膝の上には丸石が一つ乗っていた。


 彼女はリシアの胸元の徽章を見て、少しだけ目を細めた。


「歌魔術師さん?」


「はい。リシア・フェルミナです」


「私はネリオ。祈り石の番をしています」


「祈り石」


 ネリオは膝の上の石を撫でる。


「ここへ来る人が置いていく石です。名前を刻む人もいますし、何も刻まない人もいます。私は、石を選ぶのを手伝ったり、刻むのが難しい人の代わりに字を入れたりしています」


「石を置くと、何かが返ってくるんですか」


 そう尋ねた瞬間、ネリオの表情が少しだけ曇った。


「本当は、返ってきてはいけないんです」


 彼女は低い声で言った。


「ここは、返事をもらうための場所じゃありません。返事がなくても置いていくための場所です」


「でも、最近は違う?」


 ネリオは驚いたようにリシアを見た。


「橋守のオルザさんに聞きました」


「ああ……」


 ネリオは少し視線を落とした。


「最近、夜になると石が鳴るんです」


「鳴る?」


「音はしません。でも、胸の中で鳴るんです。置いた人だけに分かるみたいに。返事が来た、と思って戻ってくる人が増えました」


 リシアは周囲の石を見た。


 静かだ。


 昼の今は、どの石もただそこに置かれているだけに見える。


「本当に返事なんですか」


「分かりません」


 ネリオの声が小さくなる。


「でも、返事だと思いたい人には、返事に聞こえるみたいです」


 星見台の返り声とは違う。


 あれは、欲しい声を形にして返していた。


 ここでは、音さえない。


 けれど、人の胸の内側で何かが鳴る。


 返事を求めないはずの祈りを、返事へ変えようとしている。


 リシアの胸に、薄い不安が広がった。


「夜だけですか」


「はい。特に、星がよく見える夜に」


 ネリオはそう言って、丸石を両手で包んだ。


 その石には、まだ何も刻まれていない。


「それは、誰かの石ですか」


 リシアが尋ねると、ネリオの指が止まった。


「私のです」


「あなたの?」


「正確には、母のための石です」


 リシアは何も言わなかった。


 続きを急がせない。


 ネリオは丸石を見つめたまま、ぽつりと語る。


「母は、三年前に落星跡へ行ったまま戻りませんでした。星の石を調べる人でした。声が返らない場所には、声を閉じない石があるはずだって、ずっと言っていました」


「声を閉じない石」


 リシアの歌詞帳が、胸元でかすかに震えた。


 ネリオはそれに気づかず続ける。


「私は、ずっと母の返事を待っていました。でも、ここは返事を求めない祈りを置く場所だから。母に、もう返事をしなくていいと置くつもりでした」


 彼女の声は落ち着いていた。


 落ち着きすぎていた。


 リシアの耳に、ほんの短い心歌が触れる。


『返事を待っていると思われたくない』


 リシアはその一音だけを聞いた。


 それ以上は踏み込まない。


 ネリオは自分の悲しみを、石のようにきれいに丸めようとしている。


 けれど、丸くなった石の中には、まだ熱が残っている。


「まだ刻んでいないんですね」


「刻めませんでした」


 ネリオは苦笑した。


「母の名前を書こうとすると、手が止まるんです。もう返事はいらないって、ちゃんと思っているはずなのに」


 ちゃんと。


 その言葉が、リシアの胸に小さく引っかかった。


 悲しみや未練を、ちゃんとした形にしようとする時、人は時々、自分の声を押し込めてしまう。


 白紙市で見た未読箱もそうだった。


 誰かの前で、正しい言葉に整えられないからこそ、白紙のまま預ける場所が必要だった。


 ネリオにも、まだ白紙のまま置いていい場所が必要なのかもしれない。


 リシアが口を開こうとした時、石場の入口から足音がした。


 さっき橋で会った若い男だった。


 ラウナの名を失いかけた男。


 オルザに支えられていたはずだが、今は一人で歩いている。


 顔色は悪い。


 けれど、手には丸い石を持っていた。


 そこには、ラウナの名が刻まれている。


 ネリオが立ち上がった。


「ユアンさん」


 そこで初めて、リシアは彼の名を知った。


 ユアンはリシアに気づくと、少し気まずそうに頭を下げた。


「さっきは、ありがとうございました」


「もう歩いて大丈夫なんですか」


「橋守さんに止められました。でも、置いていかないと、また呼びに行きそうで」


 彼は手の中の石を見た。


 ラウナ。


 その名を撫でる指が震えている。


 ネリオは静かに言った。


「今日は、やめてもいいんですよ」


「やめたら、また明日来るだけだと思います」


 ユアンは苦笑した。


「ラウナは、妹でした」


 妹。


 リシアは息を止めた。


「病気で亡くなったんです。もう一年になる。返事がないことなんて分かっていたのに、ずっと、どこかでまだ呼べば返ってくる気がしていました」


 ユアンは石を胸に当てる。


「今日、橋で名を失いかけて、怖くなりました。諦めたいわけじゃなかった。忘れたいわけでもなかった。ただ、もう妹に返事を求めるのをやめたいだけだったんです」


 ネリオは黙って聞いている。


 その顔に、自分のことを言われたような痛みが浮かんでいた。


 ユアンは祈り石の台へ近づいた。


 石を置こうとする。


 だが、その直前で手が止まった。


 彼の喉が小さく動く。


 何かを言おうとしている。


 リシアは見守った。


 急かさない。


 止めない。


 ユアンは長く息を吸い、かすれた声で言った。


「ラウナ。返事はいらない」


 石場の空気が、ほんの少しだけ冷える。


 石が鳴った。


 音はしなかった。


 けれど、リシアの胸の奥で、ぽん、と小さな空洞が叩かれたような感覚があった。


 ユアンの顔が歪む。


 彼の心歌が乱れる。


『本当は、一度だけでいいから返事がほしい』


 石が淡く光りかけた。


 リシアは一歩踏み出しかけて、止まった。


 ここで歌えば、ユアンの代わりに返事を作ってしまうかもしれない。


 星見台で見た、欲しい声の罠。


 あれと同じことを、リシア自身がしてしまうかもしれない。


 ネリオが小さく息を呑む。


「やっぱり、鳴った……」


 ユアンは石を置けずにいた。


 石を手放せば、妹への最後の呼びかけが終わってしまう。


 でも、持ち続ければ、また返事を待ってしまう。


 その間で、手が震えている。


 リシアはユアンのそばに膝をついた。


「返事がほしいと思っても、いいと思います」


 ユアンが顔を上げる。


「でも、返事はいらないって……そう言わないと」


「言わないと、置けない気がしましたか」


 ユアンは答えられなかった。


 その沈黙が答えだった。


 リシアは続ける。


「返事がほしい気持ちを消してからでないと祈れないわけではないと思います。返事がほしいまま、それでも相手に返事を強いない。そういう祈りでも、いいのではないでしょうか」


 ネリオが、胸の前で丸石を握りしめた。


 ユアンは石を見下ろす。


「そんな中途半端で、いいんですか」


「人の気持ちは、たぶん最初から中途半端です」


 リシアは少しだけ笑った。


「綺麗に全部そろってから置こうとすると、いつまでも置けなくなります」


 ユアンの目に涙が浮かんだ。


 リシアは歌詞帳を開かなかった。


 歌わなくても、今は言葉だけで足りる。


 けれど、石の鳴りはまだ胸の奥に残っている。


 ユアンだけではない。


 周囲の祈り石も、ほんのわずかに震えていた。


 返事を求めない場所に置かれた祈りたちが、夜を待たずに揺れている。


 ネリオの石も、彼女の手の中で淡く光っていた。


 リシアはそこで初めて、歌詞帳へ手を置いた。


 大きな歌はいらない。


 返事を作る歌はいらない。


 ただ、返事がほしい気持ちと、返事を強いない選択が、同じ胸にあっていいと支えるための短い歌なら。


 リシアは声を低くした。


「返ってきてほしい夜も、


 返さなくていいと告げる朝も、


 同じ手の中に置いていい。


 願いは、相手を引く鎖ではなく、


 忘れないための小さな石でいい。」


 歌は石場に静かに落ちた。


 石橋の時とは違い、すぐには消えない。


 だが、返ってもこない。


 石の間に置かれ、淡い光のように広がる。


 ユアンの手の中で、ラウナの石がゆっくり温かさを失っていった。


 冷たくなったのではない。


 熱すぎたものが、手で持てる温度へ戻ったようだった。


 ユアンは震える手で石を台に置いた。


「ラウナ」


 今度の名は、石へ落ちた。


 返事はない。


 けれど、彼は崩れなかった。


「返事は……ほしい。でも、しなくていい」


 彼は涙をこぼしながら言った。


「兄ちゃんは、覚えてる」


 石は鳴らなかった。


 音も、胸の内側の叩き返しもない。


 ただ、そこにあった。


 ネリオはその様子を見ていた。


 自分の石を抱えたまま、ずっと動けずにいる。


 リシアは彼女へ振り向く。


「ネリオさん」


「私は……」


 ネリオの声はかすれていた。


「私は、母に返事をしなくていいって言いたいんです。母は戻れなかった。きっと理由があった。私はそれを分かっているって、伝えたい」


「はい」


「でも」


 彼女の指が石に食い込む。


「本当は、怒っています」


 その言葉は、石場に落ちた。


 ネリオ自身が一番驚いた顔をした。


 続けて、心歌がほどける。


『置いていかないって言ったのに』


 リシアはそれを聞いた。


 でも、歌にはしなかった。


 ネリオ自身が、もう声にし始めている。


「母は、星の石を見に行くって言いました。すぐ戻るって言いました。私は、返事を待たない良い娘になろうとしていました。母の仕事を分かっている娘になろうとしていました」


 ネリオの目から涙が落ちる。


「でも、本当は、怒ってる。どうして戻ってこなかったのって。どうして私より石を選んだのって。そんなこと、祈り石には刻めない」


 リシアは静かに首を横に振った。


「刻まなくても、置けます」


「そんな石、汚いです」


「汚くても、あなたの祈りです」


 ネリオは泣きながら笑った。


 その笑いは、痛そうだった。


「歌魔術師さんって、もっと綺麗なことを言う人だと思っていました」


「前は、そうだったかもしれません」


 リシアは自分の胸元の徽章に指を添えた。


「でも、綺麗にしすぎると、こぼれる声があります」


 ネリオは石を見る。


 何も刻まれていない石。


 母の名も、自分の怒りも、まだどこにもない。


 彼女は彫り針を握った。


 リシアは止めなかった。


 ネリオは石に、母の名を書かなかった。


 代わりに、小さな星をひとつだけ刻んだ。


 線は少し歪んでいる。


 形も整っていない。


 けれど、確かに彼女の手で刻まれた星だった。


「名前は、まだ書けない」


 ネリオは言った。


「でも、置きます」


 彼女は石を台の隅に置いた。


 返事はいらない。


 そうは言わなかった。


 戻ってきて。


 とも言わなかった。


 ただ、石を置いた。


 その瞬間、石場の奥から低い震えが起きた。


 リシアは身構える。


 今までの石の鳴りとは違う。


 地面の下。


 窪地の奥。


 落星跡の方から、深くて遠い音が上がってくる。


 音というより、石と石が長い時間をかけて思い出を擦り合わせているような震えだった。


 シルがリシアの肩で体を起こす。


 ちい。


 警戒の声。


 歌詞帳が強く震えた。


 ページが勝手に開きかける。


 リシアは両手で押さえた。


 まだ。


 ここで開けば、ネリオの祈りとユアンの祈りを一緒に巻き込んでしまう気がした。


 リシアは歌詞帳を胸に抱えた。


 ネリオは青ざめている。


「今の……」


「落星跡の方からです」


 リシアは答えた。


 石場の奥、白い道の先。


 そこに、低く沈んだ土地が見える。


 星降りの窪地。


 エリュナの落星跡。


 昼の光の中で、その底だけが少し暗かった。


 ユアンが不安そうに尋ねる。


「また、石が鳴ったんですか」


「いいえ」


 リシアは首を横に振った。


「今のは、返事ではないと思います」


 では何なのか。


 その答えは、まだ分からない。


 ただ、歌詞帳の震えが収まらない。


 ネリオが自分の石を置いたことで、何かが反応した。


 返事を求めない祈り。


 怒りを隠さない祈り。


 名前を書けないまま置かれた星。


 それが、落星跡の奥にある何かへ触れたのかもしれない。


 シルが突然、肩から降りた。


 石場の中央へ歩いていく。


 そして、置かれた石たちの間に落ちていた小さな欠片を拾った。


 白でも灰でもない、淡い銀色の欠片。


 星の粒が集まったような石片だった。


 シルはそれを前足で抱え、リシアの方へ持ってくる。


 リシアが受け取ろうとした瞬間、石片の表面に細い線が浮かんだ。


 文字ではない。


 でも、どこか見覚えのある曲線。


 歌詞帳のページに浮かぶ、断章の前触れに似ていた。


 石片から、声ではないものが伝わる。


 返せない。


 閉じない。


 ただ、沈めている。


 その三つだけだった。


 リシアは石片を握りしめた。


「沈めている……?」


 何を。


 誰の声を。


 星の断章なのか。


 それとも、星の断章へ近づくための器なのか。


 分からない。


 けれど、これ以上ここで開いてはいけない気がした。


 リシアは石片を布で包み、歌詞帳とは別の小袋へ入れた。


 ノエルの紙片とも、差出人不明の封書とも、A・Rの裂け目とも混ぜない。


 それぞれの声を、勝手に一つの答えへ束ねないために。


 ネリオはリシアを見る。


「落星跡へ行くんですか」


「はい」


「私も」


「今は、やめた方がいいと思います」


 ネリオの顔に反発が浮かぶ。


 だが、リシアは続けた。


「行きたい気持ちを止めたいわけではありません。ただ、今のあなたは石を置いたばかりです。祈りがまだ手から離れていない」


 ネリオは自分の手を見る。


 彫り針を握っていた指先が、まだ震えている。


「落星跡へ行くなら、明日以降、オルザさんか、ここを知っている人と一緒に。今日は、置いた石のそばにいてください」


 ネリオは唇を噛んだ。


 しばらく黙る。


 やがて、小さく頷いた。


「……分かりました」


 ユアンも、ラウナの石の前に座り込んだままだった。


 彼はもう、橋へ戻って名を投げようとはしていない。


 ただ、置いた石を見ている。


 それでいい。


 今は、それでいいのだろう。


 リシアは石場を離れ、白い道の先を見た。


 空はまだ明るい。


 けれど、窪地の底は夕方のように静かだった。


 シルが肩へ戻る。


 焼き菓子の包みを抱え直し、今度こそ一枚を取り出した。


 そして、石場を少し離れたところで、ぱり、とかじる。


 音がした。


 ちゃんと、リシアの耳に届いた。


 シルは目を丸くした後、満足そうに頷いた。


「ここなら大丈夫?」


 ちい。


 シルは真剣に頷く。


 リシアは少し笑った。


 その笑い声も、今度は自分の胸へ戻ってきた。


 完全ではない。


 けれど、橋の上よりは近い。


 声は場所によって、返り方を変える。


 返ってくることが救いになる時もある。


 返らないことが必要な時もある。


 そして、返事を求めないまま置くことで、ようやく自分の手から少し離れる祈りもある。


 リシアは小袋の中の銀色の石片を意識した。


 返せない。


 閉じない。


 ただ、沈めている。


 その言葉にならない震えが、まだ指先に残っている。


 落星跡へ向かう道は、静かに続いていた。


 その奥で、何かが待っている。


 答えではない。


 たぶん、返事でもない。


 それでも、リシアは歩き出した。


 シルの焼き菓子の軽い音を、確かに隣に聞きながら。



今回は、星見の石橋を越えた先にある、祈り石の場所を描きました。


そこは、返事を求めない祈りを置く場所です。


けれど、返事はいらないと言いながら、本当は返事がほしい夜もあります。


忘れたいわけではない。


でも、相手に返事を強いたいわけでもない。


そんな中途半端で、きれいに整わない祈りを、リシアは否定しませんでした。


ユアンは妹ラウナへの石を置きました。


ネリオは、母の名を書けないまま、小さな星だけを刻んだ石を置きました。


そして、落星跡の奥から不思議な震えが返ってきます。


返せない。


閉じない。


ただ、沈めている。


星降りの窪地の奥には、まだ大きな何かが眠っているようです。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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