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星降りの窪地編 85話 声を閉じない石

リシアとシルは、星見の石橋を越えた先で、祈り石の場所へたどり着いた。

そこは、返事を求めない祈りを石へ置く場所だった。

橋で名を失いかけたユアンは、妹ラウナへの石を置き、「返事はほしい。でも、しなくていい」と自分の言葉で告げる。

祈り石の番をしているネリオは、落星跡へ行ったまま戻らない母への怒りを初めて口にした。

彼女は母の名を書けないまま、小さな星だけを刻んだ石を置く。

その瞬間、落星跡の奥から低い震えが返ってきた。

シルが拾った銀色の石片には、声ではないものが残っていた。

返せない。

閉じない。

ただ、沈めている。

リシアはそれを歌詞帳や封書とは別の小袋に入れ、エリュナの落星跡へ向かう。


 祈り石の場所を離れると、道はゆるやかに下り始めた。


 エリュナの落星跡は、遠くから見ると大きな窪地だった。


 だが、近づくにつれて、ただ地面が落ち込んでいるだけではないことが分かってくる。


 斜面には白い草が生え、ところどころに星混じりの石が突き出している。石の表面は昼の光を受けて淡く光り、まるで地面に星屑が埋まっているようだった。


 風はある。


 けれど、その音はまだ薄い。


 草が揺れても、葉擦れが耳へ届く前にどこかでほどけてしまう。


 リシアは何度も自分の足音を確かめた。


 橋の上ほどではない。


 祈り石の場所よりは、少し遠い。


 音はある。


 だが、自分のそばに残らない。


 その感覚が、落星跡へ近づくほど強くなっていた。


 シルは肩の上で、薄い焼き菓子を大事そうに抱えている。


 祈り石の場所を少し離れた時、ようやく一枚食べた。ぱり、と音がして、それがちゃんとリシアの耳に届いた時、シルは深く頷いた。


 この場所は信用できる。


 そんな顔だった。


 けれど今は、また包みを閉じている。


 窪地の奥へ進むにつれて、焼き菓子をかじる音まで遠くなっていくのが気に入らないらしい。


「無理にここで食べなくてもいいよ」


 リシアが言うと、シルは焼き菓子を抱きしめたまま、短く鳴いた。


 ちい。


 そうする。


 珍しく素直な返事だった。


 道の途中に、小さな観測小屋があった。


 石造りの古い建物で、屋根の半分は落ち、壁には白い蔦が絡んでいる。入口には扉がなかった。風が通っているはずなのに、中から音は聞こえない。


 リシアは足を止めた。


 胸元の歌詞帳が、かすかに震えている。


 強い反応ではない。


 けれど、ここを素通りしてはいけないと告げるような震えだった。


「少し見ていこう」


 シルが頷く。


 観測小屋の中は、ほとんど空だった。


 壁際に崩れた棚があり、床には古い石板の欠片が散らばっている。机だったものは脚が折れ、天板だけが斜めに残っていた。その上に、星図らしきものが刻まれた石片が置かれている。


 リシアは石片に触れようとして、すぐには触れなかった。


 残響歌は、物に残った過去の想いを聞く。


 けれど、聞きすぎれば過去の痛みが自分の中へ流れ込む。


 白紙市で学んだこともある。


 読めるから読むのではない。


 聞こえるから聞くのではない。


 リシアはまず、石片の周囲を見た。


 埃の上に、最近触れたような跡がある。


 誰かがここへ来た。


 旅人か、ネリオの母か、それとも別の誰かか。


 机の下には、細い布の切れ端が引っかかっていた。白でも黒でもない、淡い灰色の布。


 封譜派の灰とは違う。


 リュシカの白とも違う。


 古い観測衣の残りかもしれない。


 リシアは布を拾わず、目だけで確認した。


 シルが机の上へ飛び乗り、石片の端を前足でそっと押さえる。


 触れても大丈夫だとでも言いたげだった。


「分かった。少しだけ」


 リシアは布越しに石片へ触れた。


 瞬間、冷たいものが指先から胸へ上がってくる。


 景色が揺れた。


 残響歌。


 けれど、いつものように人の声や悲鳴が流れ込んでくるわけではなかった。


 広い夜空。


 星がとても近い。


 窪地の底には、輪のように並んだ石がある。


 その中央に、大きな銀色の石。


 周囲に立つ人々。


 白い衣の者。


 黒い外套の者。


 王国の紋章をつけた者。


 そして、誰かが震える声で言う。


『返事にしてはならない』


 別の声が答える。


『だが、閉じれば失われる』


『なら、閉じずに沈める』


 景色が途切れる。


 次に見えたのは、手だった。


 細い指。


 羽ペン。


 古い記録紙。


 そこに書かれた文字は、途中で欠けている。


 星詠み試験片。


 声保持石。


 返声化、危険。


 沈声層へ移行。


 観測者――


 そこで文字が削れていた。


 観測者の名が、まるごと裂けている。


 リシアの胸が嫌なふうに跳ねた。


 A・R。


 白綴じ書庫で見た、あの未唱記録の気配。


 けれど、ここにも名前はなかった。


 ただ、欠けた跡だけがある。


 リシアは反射的に深く読み取ろうとした。


 その瞬間、シルが彼女の手首に前足を置いた。


 ちい。


 短い声。


 でも、強かった。


 リシアは息を吸い、石片から手を離した。


 残響が切れる。


 観測小屋の崩れた壁が目に戻る。


 指先が冷たい。


 喉の奥に、石の粉を吸い込んだような感覚が残っていた。


「ありがとう、シル」


 シルは胸を張らなかった。


 ただ、リシアの顔をじっと見ている。


 心配している。


 リシアは素直に認めることにした。


「少し、深く聞きそうになった」


 ちい。


 そうだろう、と言いたげな声だった。


 リシアは石片をもう一度見た。


 今見えたものが、どこまで事実なのかは分からない。


 残響歌は、過去をそのまま記録する力ではない。


 物に残った想いや恐怖が、断片として見えるだけだ。


 けれど、いくつかの言葉は確かだった。


 返事にしてはならない。


 閉じれば失われる。


 閉じずに沈める。


 声保持石。


 沈声層。


 リシアは胸元の小袋に入れた銀色の石片を意識した。


 返せない。


 閉じない。


 ただ、沈めている。


 祈り石で拾った震えと、今の残響が繋がる。


 落星跡には、声を閉じない石がある。


 ノエルはそう置いていった。


 でも、声を閉じない石とは、ただ自由にする石ではないのかもしれない。


 返事になってしまう危険な声を、閉じずに、消さずに、どこかへ沈める。


 それが、この場所の古い仕組みだったのだろうか。


 観測小屋の外から、かすかな足音がした。


 リシアは顔を上げる。


 入口に、オルザが立っていた。


 橋守の老女だ。


 杖をつき、息を少し乱している。


「やはり、ここに寄ったか」


「オルザさん」


「星見の石橋を渡る旅人は、だいたいここで足を止める。ここは、落星跡へ入る前に人の迷いを拾う場所だ」


 オルザは小屋の中へ入り、石片を見た。


「触ったのかい」


「少しだけ」


「深く聞いたら危ない」


「シルに止められました」


 シルは当然のように胸を張った。


 オルザはその様子を見て、薄く笑う。


「良い相棒だね」


「はい」


 リシアは素直に頷いた。


 オルザは崩れた棚の前に立ち、腰の石札を一つ外した。


 それを床へ置く。


 石札は何の音も立てなかったが、小屋の空気が少しだけ落ち着いた。


「この小屋は、昔の観測者たちが使っていた場所だ」


「星を観測していたんですか」


「星だけではない。声もだよ」


 オルザは窪地の方を見る。


「エリュナに落ちた星は、ただの石ではなかった。人の声を閉じない。だが、返しもしない。ここへ置かれた祈りは、返事にならず、消えもせず、長い時間をかけて沈む」


「沈む先が、沈声層ですか」


 オルザの目がわずかに鋭くなった。


「そこまで見たのか」


「言葉だけです」


「なら、それ以上は今は持たない方がいい」


 リシアは頷いた。


 知りたい。


 だが、今ここで深く見れば、A・Rの裂け目や差出人不明の封書まで反応しそうな気がしていた。


 鞄の中の封書は、白紙市でリュシカから渡されたままだ。


 黒い糸で閉じられている。


 まだ開けていない。


 今、鞄の奥でその封書がわずかに震えている気がした。


 リシアは手を伸ばさなかった。


 オルザはそれに気づいたように言う。


「持っているね。まだ開けてはいけないものを」


「はい」


「なら、ここでは開けるな。エリュナは、開けたいものを開けさせる場所ではない。むしろ、開けずに持っていられるかを試す場所だ」


 その言葉は、白紙市の未読箱を思い出させた。


 待つ記録。


 本人が望むまで開かないもの。


 リシアは鞄から手を離す。


「分かりました」


 オルザは、観測小屋の奥へ向かった。


 壁の崩れた場所に、古い階段が隠れている。


 地中へ下りる階段ではなく、窪地の側面に沿って下へ向かう細い道だった。


「落星跡へ行くなら、この道を使う。正面の白い道は見えやすいが、声を持っていかれやすい」


「声を持っていかれる?」


「道に立っている石が、呼び声を拾う。悪意があるわけじゃない。ただ、昔からそういう役目を持たされた」


「役目……」


 リシアは観測小屋で見た残響を思い出す。


 返声化、危険。


 沈声層へ移行。


 誰かが、祈りや声を返事にしないため、石に別の役目を与えた。


 それが今、歪んでいるのだとしたら。


 ユアンの祈り石が鳴ったことも、ネリオの石に落星跡が震えたことも、偶然ではない。


「オルザさん」


「何だい」


「ネリオさんのお母さんは、この仕組みを調べていたんですか」


 オルザはすぐには答えなかった。


 杖の先で床の埃を払う。


 やがて、静かに言った。


「あの子の母は、声を閉じない石が弱っていると言っていた」


「弱っている」


「祈りが返事になりかけている。沈むべき声が、浮かび上がっている。誰かが石の輪から、ひとつ持ち出したのではないか、と」


 リシアは小袋の中の銀色の石片を思い出した。


 シルが拾ったもの。


 あれは、石の輪の欠片なのだろうか。


「持ち出した石は、どこに?」


「分からない」


 オルザの声が重くなる。


「だが、あの子の母はそれを追って落星跡へ入った。そして戻らなかった」


 小屋の中が静かになった。


 音が薄いせいだけではない。


 誰かの不在が、壁に染み込んでいるようだった。


 リシアはネリオの泣き顔を思い出した。


 母の名前を書けないまま、小さな星だけを刻んだ石。


 怒っていると初めて言えた声。


「助けに行かなかったんですか」


 口にしてから、リシアは少しだけ後悔した。


 オルザの顔が、わずかに硬くなる。


 だが、彼女は怒らなかった。


「行ったさ」


 短い答えだった。


「何度もね。でも、落星跡の奥へ入るほど、自分が何を探しているのか分からなくなる。あの人の名も、顔も、声も、だんだん遠くなる。気づけば、空の石を握って戻っていた」


 空の石。


「名前を忘れるんですか」


「忘れるのとは違う。名前は頭に残っている。でも、呼ぶ理由が薄くなる。探す理由が、沈む」


 リシアは息を呑んだ。


 それは、白紙市の封声印とも違う。


 星見台の返り声とも違う。


 声が奪われるのではなく、声を持つ理由が沈む。


 祈りが重くなりすぎた時、沈める仕組みは救いになるのかもしれない。


 だが、行きすぎれば、人は大切なものへ手を伸ばす理由まで失ってしまう。


「だから、落星跡へ入るなら、持っていく声を決めておきな」


 オルザは言った。


「何を探すのか。誰のために行くのか。返事を求めないとしても、何を忘れたくないのか」


 リシアは黙った。


 星の断章。


 A・Rの裂け目。


 アイシャ。


 ノエルの紙片。


 差出人不明の封書。


 声を閉じない石。


 全部を持っていこうとすれば、きっと沈む。


 全部を一つの答えにしようとすれば、星見台と同じ間違いになる。


 だから、今この場所で持つ声を決めなければならない。


 リシアは胸元の歌詞帳へ手を置いた。


「私は、星の断章を探しています」


 オルザは黙って聞いている。


「でも、今ここで全部の答えを欲しがるつもりはありません。アイシャのことも、A・Rの記録も、封書も、今は開けません」


 自分に言い聞かせるような言葉だった。


 それでも、言葉にする必要があった。


「今、私が忘れたくないのは……ネリオさんが母に怒っていると言えたことです。ユアンさんが、返事はほしいけれど、しなくていいと言えたことです。祈りは綺麗じゃなくても、置いていいということです」


 シルが肩の上で、静かに鳴いた。


 ちい。


 その声は小さかったが、今度はちゃんとリシアの耳元に残った。


 オルザは少しだけ目を細める。


「それなら、まだ入れる」


「まだ、ですか」


「落星跡は、欲しがる者を沈める。持ちすぎる者も沈める。でも、今の一つを持っている者なら、少しは歩ける」


 リシアは頷いた。


 観測小屋の外へ出る。


 斜面の下には、石の輪が見え始めていた。


 まだ遠い。


 けれど、確かにそこにある。


 白い草の中に、星混じりの大きな石がいくつも並んでいる。


 その中央に、ひときわ淡い銀色の石がある。


 声を閉じない石。


 それが、たぶんあれだ。


 だが、リシアはそこで足を止めた。


 中央の石の一部が欠けていた。


 遠目でも分かるほど、はっきりと。


 欠けた場所から、薄い黒ではなく、沈んだ藍色のような線が地面へ伸びている。


 黒譜術の黒とは違う。


 けれど、自然な石の色でもない。


 沈んだ声の色。


 そう思った瞬間、リシアの胸元の歌詞帳が強く震えた。


 鞄の中の封書も、黒い糸を一度だけ鳴らすように震えた。


 音はしない。


 でも、リシアには分かった。


 開けるな。


 けれど、持っていろ。


 矛盾したような感覚が、胸の中に残る。


 シルが焼き菓子の包みをリシアの鞄へ押し込んだ。


 これから先は食べている場合ではない。


 そういう判断らしい。


「ありがとう」


 リシアが言うと、シルは少しだけ名残惜しそうに鞄を見る。


 でも、すぐに前を向いた。


 オルザは石の輪を見下ろし、低く呟いた。


「また欠けが広がっている」


「以前より?」


「ああ」


 彼女は杖を握り直した。


「あの人が消えた夜から、少しずつね」


 リシアは斜面を下り始めた。


 足音はさらに遠くなる。


 呼吸も遠い。


 けれど、完全には消えていない。


 シルの小さな爪が肩布を掴む感触。


 胸元の歌詞帳の震え。


 鞄の奥で眠る封書。


 小袋の中の銀色の石片。


 それらが、自分がまだ何かを持っていることを教えてくれる。


 石の輪へ近づくにつれて、心歌ではない声が聞こえ始めた。


 人の本音ではない。


 物の残響でもない。


 もっと沈んだ、層のようなもの。


 返して。


 返さないで。


 覚えていて。


 忘れていい。


 閉じないで。


 開けないで。


 いくつもの矛盾した願いが、声にならないまま沈んでいる。


 リシアは耳を塞ぎたくなった。


 でも、塞がなかった。


 聞きすぎないように。


 けれど、聞こえないふりもしないように。


 石の輪の手前で、オルザが立ち止まる。


「ここから先は、中央の石に触れるな」


「触れたら?」


「自分が返したかった声と、返されたくなかった声が混ざる」


 リシアは中央の銀色の石を見た。


 欠けた部分が、脈を打つように淡く光る。


 シルが低く鳴いた。


 ちい。


 警戒。


 リシアは頷いた。


「触れません」


 その時、石の輪の向こう側で、何かが動いた。


 人影だった。


 白い外套ではない。


 灰色の旅装でもない。


 黒い外套でもない。


 古い観測衣のような、色の抜けた布をまとっている。


 背は高くない。


 髪は肩まであり、風がないのに静かに揺れていた。


 その人物は、中央の石の欠けた部分へ手を伸ばしていた。


 オルザが息を呑む。


「まさか……」


 リシアの喉が乾いた。


 その人影の周囲には、音がなかった。


 足音も、衣擦れも、呼吸もない。


 けれど、心歌だけがかすかに届く。


『まだ、返してはいけない』


 リシアは一歩踏み出しかけた。


 オルザが腕を掴む。


「近づくな」


「あの人は」


「分からない」


 オルザの声が震えていた。


「でも、あの姿は……」


 その人影が、ゆっくりとこちらを向いた。


 顔はよく見えない。


 目元だけが影になっている。


 だが、その手には、欠けた銀色の石片が握られていた。


 リシアの小袋の中の石片が、同時に強く震える。


 まるで、同じ石の欠片同士が呼び合っているように。


 歌詞帳のページが、鞄の中で勝手に開こうとした。


 リシアはそれを押さえる。


 まだ開かない。


 まだ歌わない。


 ここで歌えば、沈んだ声たちを一斉に浮かび上がらせてしまう。


 人影は、声にならない声で言った。


『星は、返事ではない』


 リシアの胸が跳ねた。


 星見台で得た言葉と重なる。


 星は答えではない。


 願いを映す、遠い鏡。


 だが、人影の声はそこで途切れた。


 次の瞬間、石の輪の中央から、低い震えが広がる。


 地面が揺れる。


 祈り石の場所で聞いたものより、ずっと深い。


 沈められた声の層が、眠りの中で寝返りを打ったような震えだった。


 シルがリシアの肩から飛び降りようとする。


 リシアは咄嗟に彼を抱き止めた。


「待って」


 シルは暴れなかった。


 ただ、中央の石を見つめている。


 人影は、もう一度欠けた石へ手を伸ばす。


 その輪郭が、少しずつ薄れていく。


 消えようとしているのか。


 それとも、沈もうとしているのか。


 オルザが掠れた声で呟いた。


「ネリオには、まだ見せられない」


 リシアはその言葉で悟った。


 あれが、ネリオの母なのかもしれない。


 あるいは、その残響なのかもしれない。


 どちらかは分からない。


 ここで決めつけてはいけない。


 リシアは歌詞帳を押さえたまま、声を出さずに唇だけを動かした。


 まだ、名前にしない。


 まだ、答えにしない。


 その小さな決意が届いたのか、人影の動きが止まった。


 顔の見えない影が、リシアの方を見る。


 そして、石を握った手を胸元へ引いた。


 返せない。


 閉じない。


 ただ、沈めている。


 その震えが、もう一度リシアへ届く。


 人影は、石の輪の奥へ沈むように薄れていった。


 完全には消えない。


 ただ、見えなくなる。


 中央の石の欠けた部分には、藍色の線だけが残った。


 落星跡に、静けさが戻る。


 リシアは息を吐いた。


 いつの間にか、呼吸を止めていた。


 シルが腕の中で小さく鳴く。


 ちい。


 今のは何だ。


 そう問われた気がした。


「分からない」


 リシアは正直に答えた。


「でも、まだ答えにしちゃいけない気がする」


 オルザは中央の石を見つめたまま、長く黙っていた。


 やがて、かすかに言う。


「あの人が本当に残っているのなら」


 言葉が途切れる。


 リシアは続きを待った。


 オルザは首を横に振った。


「いや。今は私も、答えにしない方がいいね」


 その声には、橋守としての強さではなく、ひとりの人間の揺れが混じっていた。


 リシアは中央の石へ近づかなかった。


 ただ、石の輪の手前で、歌詞帳を胸に抱いた。


 歌わないことも、選択だ。


 読まないことも、待つことも。


 そして、名前を決めつけないことも。


 落星跡の空は、まだ昼なのに、どこか夜の底を含んでいた。


 星は見えない。


 けれど、地面の下でたくさんの声が沈んでいる。


 それを閉じるでもなく、返すでもなく、抱えている石がある。


 リシアは、ようやく声を閉じない石の前に立った。


 だが、それに触れるには、まだ早かった。


今回は、エリュナの落星跡にある「声を閉じない石」へ近づく回でした。


声を閉じない石は、声を自由に返す石ではありませんでした。


返事にしてはいけない声。


閉じれば失われてしまう声。


そのどちらでもないものを、沈めておくための石。


そんな仕組みの一端が見え始めます。


リシアは観測小屋で過去の残響に触れましたが、深く読みすぎる前にシルが止めました。


そして落星跡の中央で、ネリオの母かもしれない人影を見ます。


けれど、まだ名前にはしません。


まだ答えにはしません。


この場所では、急いで返事を求めることそのものが危ういからです。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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