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星降りの窪地編 83話 星見の石橋

リシアとシルは、白紙市リュネアを離れた。

白紙市では、記録派リュシカ、破譜派イゼル、封譜派ロアム、そしてノエルと向き合い、声を綴じること、破ること、封じること、それぞれの危うさを知った。

ノエルは去り際に、次の道標として「星降りの窪地」「エリュナの落星跡」という地名を残す。

白紙市を出たリシアは、旅の途中で薄い焼き菓子を抱えるシルと小休止を取り、旅商人から古い地図を受け取った。

その地図には、星見の石橋と、エリュナ旧道が記されていた。

星見の石橋を越えた先に、声が返らない場所、エリュナの落星跡があるという。

リシアは、ノエルの紙片、差出人不明の封書、A・Rに関わる裂け目、そして星の断章の気配を抱えたまま、エリュナ旧道へ向かう。


 エリュナ旧道へ入ると、道の音が少し変わった。


 最初に気づいたのは、シルだった。


 リシアの肩の上で、包み直した薄い焼き菓子を抱えたまま、ぴんと耳を立てる。尻尾が首元で揺れ、彼はしばらく何もない草むらを見つめていた。


「どうしたの?」


 リシアが尋ねると、シルは小さく鳴いた。


 ちい。


 いつもの鳴き声だった。


 けれど、その声が妙に近くで止まった。


 山道なら、声は草の間を抜けて少し先へ転がる。木立があれば葉に触れ、谷があれば下へ落ち、石壁があれば遅れて返る。


 だが、今の声は違った。


 シルの口から出た瞬間、その場で吸い込まれたように消えた。


 リシアは足を止める。


 風は吹いている。


 草は揺れている。


 遠くで鳥が飛ぶのも見える。


 けれど、鳴き声は聞こえなかった。


 鳥が鳴いていないのではない。嘴が動いているのに、その音だけが届かないように見える。


「ここから、もう変なんだね」


 リシアは胸元の歌詞帳へ手を添えた。


 歌詞帳は静かだった。


 まったく反応していないわけではない。革表紙の奥で、薄い紙が一枚だけ呼吸しているような気配がある。けれど、星見台の時のように強く震えたり、白紙市のように文字を欲しがったりはしなかった。


 待っている。


 そんな反応だった。


 エリュナ旧道は、思っていたよりも古い道だった。


 石畳は半分以上が土に埋もれ、残った石も角が丸くなっている。道の脇には、星形に削られた小さな道標が一定の間隔で立っていた。かつては旅人や巡礼者が多く通った道なのだろう。


 けれど今は、人通りが少ない。


 草は伸び、ところどころ木の根が石畳を持ち上げている。


 リシアは古地図を開いた。


 白紙市を出た後、旅商人にもらった地図だ。地図の端には、かすれた文字でこう書かれている。


 返らぬ声を、星へ投げるな。


 星は沈黙を返さない。


 何度読んでも、不思議な言葉だった。


 返らない声。


 沈黙を返さない星。


 白紙市で学んだ「読まない」「待つ」とも似ているが、どこか違う。


 白紙市の沈黙は、人が守るものだった。


 けれどエリュナの沈黙は、もっと古く、大きい。


 人が選ぶ前からそこにある、空のようなものに感じられた。


 昼過ぎ、旧道の先に石橋が見えてきた。


 星見の石橋。


 古地図にそう記されていた橋だ。


 橋は、深い窪地の手前にかかっていた。


 谷というほど鋭くはない。けれど、地面が大きくすり鉢状に沈み、その底へ向かって草と石が斜めに落ち込んでいる。橋はその縁を越えるために造られたものらしい。


 石は白に近い灰色で、表面には細かな銀の粒が混じっていた。光を受けるたび、星屑のようにちらちらと光る。


 橋の手前には、小さな祠があった。


 木ではなく、同じ星混じりの石でできている。祠の前には細い紐と紙片が結ばれていた。


 名を書く紙。


 何も書かれていない紙。


 丸い石。


 欠けた鈴。


 小さな匙。


 誰かがここへ置いていったものたち。


 その横に、古い札が立っている。


 橋を渡る者は、呼び声を投げるな。


 返事を望まぬ祈りのみ、石へ置け。


 リシアは札の文字を見つめた。


「声を出してはいけない、ということではないんだ」


 閉じるな。


 でも、返事を求めて投げるな。


 その違いを、この橋は求めているのかもしれない。


 シルが肩から降りた。


 祠の前まで歩き、置かれている欠けた鈴を覗き込む。


 星見台に残した鳴らない鈴を思い出しているのだろうか。


 けれど、この鈴は違った。


 舌はある。


 振れば鳴るはずの形をしている。


 なのに、鈴の内側に小さな綿のようなものが詰められていた。音が鳴らないように、誰かが塞いでいる。


 鳴らない鈴ではない。


 鳴らさない鈴。


 リシアは胸の奥に小さな違和感を覚えた。


 星見台は、声を返して人を惑わせた。


 白紙市は、声を綴じ、破り、封じようとする者たちの場所だった。


 ここは、また違う。


 声を返さない。


 けれど、声を閉じるのとも違う。


「旅の人かい」


 背後から声がした。


 リシアは振り返る。


 橋のたもとに、一人の老女が立っていた。


 背は低く、灰色の髪を布でまとめている。手には長い杖。腰には小さな石札がいくつも下がっていた。服は旅装というより、この道を守る者のような質素なものだった。


「はい。エリュナの落星跡へ向かっています」


「なら、この橋を渡ることになるね」


 老女はリシアの胸元の徽章と、肩に戻ったシルを順に見た。


「歌魔術師か」


「リシア・フェルミナです」


「橋守のオルザだよ」


 橋守。


 リシアは改めて橋を見る。


「この橋を守っているんですか」


「守っているというより、間違えて渡る人を止めているだけさ」


 オルザは祠の横へ歩き、札の傾きを直した。


「星見の石橋は、声を返さない。昔からそういう橋だ。ここで名前を呼んでも、返事はない。歌っても、反響はない。泣いても、泣き声は橋の向こうへ届かない」


「危険なんですか」


「声が消えるわけじゃない」


 オルザは橋の中央を見た。


「ただ、投げた声が戻ってこない。返事を待っている人間ほど、それを怖がる」


 リシアは何となく分かった。


 返事がないこと。


 それは、時に救いにもなる。


 けれど、返事がないと突きつけられることは、ひどく残酷でもある。


「昔はね」


 オルザは祠に置かれた紙片を一枚見た。


「返事を求めない祈りを置く場所だった。亡くなった人に、もう返事をしなくていいと伝える。別れた人に、自分の言葉を押しつけないと決める。そういうための橋だった」


「今は違うんですか」


「最近、橋の向こうへ投げた声が、投げた人の中まで戻らなくなっている」


 リシアは眉を寄せた。


「中まで?」


「言ったはずの言葉を、自分でも持てなくなる。呼んだ名前が、喉の奥で欠ける。祈りを置きに来たはずなのに、何を祈りたかったのか分からなくなる」


 オルザの声は静かだった。


 恐怖を煽る言い方ではない。


 何度も同じことを見てきた人の、疲れた声だった。


「だから、夕方以降は渡らせない。夜は特に悪い」


「何かがいるんですか」


「何もいない」


 白紙市で出会った旅商人と同じ答えだった。


 オルザは続ける。


「何もいないから、人は自分の声を遠くへ投げたくなる。星になら届くんじゃないか、とね」


 リシアは橋の向こうを見た。


 落星跡へ向かう道は、橋を渡った先で窪地の縁に沿って続いている。昼の光の中でも、どこか白く霞んで見えた。


 シルがリシアの肩で身じろぎする。


 彼は焼き菓子の包みを抱えたまま、橋をじっと見ている。


「シル、ここで食べるんだったよね」


 リシアが言うと、シルは一度頷いた。


 けれど、すぐには包みを開けなかった。


 さっきまであれほど大事にしていた焼き菓子を、今は迷うように抱えている。


 橋の上で食べると決めていた。


 でも、この橋が思っていたより静かすぎる。


 そんな顔だった。


 オルザがシルを見て、少しだけ口元を緩めた。


「その子は賢いね。橋の上で大きな音を立てない方がいい」


「焼き菓子の音もですか」


「音はいい。ただ、誰かに返ってきてほしくて鳴らす音は避けた方がいい」


 シルはますます真剣な顔になった。


 リシアは笑いそうになるのをこらえる。


 焼き菓子をかじる音に、そこまで深い意味はない。


 たぶん。


 そう思った時、橋の向こうから人影が見えた。


 若い男だった。


 旅人らしい外套を着ているが、足取りが不安定だ。片手に丸い石を握りしめ、もう片方の手で胸元を押さえている。


 オルザの顔色が変わった。


「またか」


 男は橋の中央まで進み、欄干へ身を乗り出した。


 リシアは嫌な予感を覚えた。


 男の心歌が、まだ遠いのに細く届く。


『返事がないなら、諦められると思った』


 リシアは息を呑む。


 男が橋の下へ向かって口を開いた。


「ラウ――」


 オルザが叫ぶ。


「呼ぶな!」


 けれど、遅かった。


 男は名を呼びかける。


 声は橋の下へ落ちた。


 落ちたはずだった。


 しかし、音がしない。


 反響もない。


 風にほどけることすらない。


 ただ、口から出た名の途中だけが、空中で切り取られたように消えた。


 男の顔が強張る。


 彼はもう一度口を開く。


「ラ……」


 続きが出ない。


 喉を押さえる。


 呼ぼうとしているのに、名が出ない。


 彼の心歌が乱れた。


『違う。忘れたいんじゃない。返事がないなら、もう待たなくていいと思いたかっただけなのに』


 リシアは走り出していた。


 オルザも杖をつきながら橋へ向かう。


 シルは肩から飛び降り、石橋の縁を駆けた。


 橋に入った瞬間、リシアは自分の足音が薄くなるのを感じた。


 靴底が石を叩いている。


 確かに走っている。


 なのに、その音が自分の後ろに残らない。


 呼吸も近い。


 心臓の音まで、少しだけ遠い。


 星見台の返り声とは反対だった。


 あそこでは、欲しい声が余計に返ってきた。


 ここでは、自分の出した音が自分へ戻らない。


 それだけで、こんなにも不安になるのか。


 男は橋の中央で膝をついていた。


 喉を押さえ、必死に何かを言おうとしている。


 リシアは彼の前に膝をついた。


「無理に言わないでください」


 男は目を見開く。


「……っ、……」


 声にならない。


 リシアは歌詞帳に手を伸ばしかけ、止めた。


 ここで歌うのは危険だ。


 歌もまた橋の下へ落ち、戻らないかもしれない。


 だが、何もしなければ、男は呼びかけた名前の欠片を失ったままになる。


 リシアは男の胸元を見る。


 握りしめた丸い石。


 そこに、細い文字が刻まれていた。


 ラウナ。


 おそらく、彼が呼ぼうとした名前。


 リシアはその石を指差した。


「その名前は、まだここにあります」


 男の目が石へ落ちる。


 リシアは続けた。


「声で呼べなくても、消えたわけではありません。まず、息を戻しましょう」


 男は震えながら頷く。


 オルザが隣に膝をつき、男の背へ手を添えた。


「投げた声を追うんじゃない。胸に残っている息を探しな」


 リシアは小さく息を吸った。


 歌にするか迷った。


 これは男の名前ではない。


 彼の悲しみを暴く歌でもない。


 ただ、橋の下へ落ちかけた呼吸を、喉ではなく胸へ戻すための、ごく短い歌なら。


 リシアは声を低くした。


 石橋へ響かせない。


 男一人にだけ届くくらいの、小さな旋律。


「落ちた名を、追わないで。


 胸の奥の息を、ひとつ。


 返らない声を待つ前に、


 まだある石に、手を置いて。」


 歌は橋の上で広がらなかった。


 すぐ近くに落ちた。


 だが、消えなかった。


 男の手が、石を強く握る。


 喉の奥で詰まっていた息が、少しずつほどける。


「……ラ」


 まだ続かない。


 けれど、声は出た。


 男は泣きそうな顔で石を見る。


「……ラウナ」


 今度は、かすれた声だったが、最後まで言えた。


 その名は橋の下へ落ちなかった。


 男の手元の石に、そっと沈んだように聞こえた。


 オルザが大きく息を吐く。


「危なかったね」


 男は泣きながら頷いた。


「返事がないなら、諦められると思ったんです」


 声は震えていた。


「でも、呼べなくなるのは違った。忘れたいんじゃなかった。返事がなくても、呼びたかった」


 リシアは何も言わなかった。


 その言葉は、彼が自分で取り戻したものだった。


 代わりに、シルが男の膝元へ近づき、小さく鳴いた。


 ちい。


 男は涙の残る顔でシルを見る。


「……リス?」


「相棒です」


 リシアが言うと、男はなぜか少し笑った。


 泣きながらの、短い笑いだった。


 その時、シルが抱えていた焼き菓子の包みが、少し傾いた。


 中の一枚が、ぱり、と小さな音を立てて割れる。


 シルが固まった。


 橋の上に、薄い欠片が落ちる。


 音はしなかった。


 シルは信じられない顔で欠片を見た。


 割れたのに、音が返らない。


 いや、音そのものが消えた。


 シルはそろそろと欠片を拾い、リシアを見る。


 その目には、この橋への深い不信が宿っていた。


「あとで、橋を渡りきってから食べようか」


 ちい。


 シルは力強く頷いた。


 オルザはその様子を見て、初めて少し笑った。


「この橋で笑う者を見るのは、久しぶりだよ」


 リシアは橋の下を見た。


 窪地へ向かって、白い草が揺れている。


 音は返らない。


 声も返らない。


 けれど、今の男の名は消えなかった。


 その違いを、リシアは胸の中で確かめる。


 オルザは男を橋の手前まで連れて戻ると言った。


 リシアも一度戻ろうとしたが、歌詞帳が胸元で淡く震えた。


 橋の向こう。


 エリュナの落星跡へ続く道の方から、細い光が一瞬だけ走った気がした。


 まだ早い。


 でも、呼ばれている。


 そんな感覚だった。


「私は、少しだけ先を見てきます」


 リシアが言うと、オルザは厳しい顔になった。


「夕方までには戻るか、向こう側で休みな。橋の上で夜を迎えるんじゃない」


「はい」


「それから、橋の上で誰かの名を空へ投げないこと」


「分かりました」


 オルザはリシアをしばらく見た。


「歌魔術師」


「はい」


「歌も、投げ方を間違えると返らないよ」


 その言葉は、静かに胸へ残った。


「覚えておきます」


 リシアは答えた。


 シルは焼き菓子の欠片を抱え直し、リシアの肩へ戻る。


 今度は、包みをしっかり抱きしめていた。


 橋を渡りきると、道の空気がさらに薄くなった。


 音がないわけではない。


 ただ、すべての音が少しだけ遠くに置かれている。


 振り返ると、星見の石橋は白く光っていた。


 橋の手前では、オルザが男を祠の前に座らせている。


 彼は丸い石を両手で持ち、まだ泣いていた。


 けれど、ラウナという名は、彼の手の中に戻っている。


 リシアはそれを見届け、前を向いた。


 橋の向こうには、小さな石碑があった。


 星混じりの石でできた、古い石碑。


 表面には、風化しかけた文字が刻まれている。


 声を閉じるな。


 ただ、返ることを求めるな。


 リシアはその文字を指でなぞった。


 胸元の歌詞帳が、今度ははっきりと震えた。


 ページを開くと、白紙の端に淡い星の形が浮かんでいた。


 まだ歌詞ではない。


 断章でもない。


 道標だけが、またひとつ増えた。


 シルが肩の上で、ちい、と鳴く。


 その声も、少しだけ近くに残った。


 橋の上よりは、戻ってきた。


「ここから先は、返らない声じゃなくて、返さない星なんだね」


 リシアは呟いた。


 答えはなかった。


 ただ、落星跡へ続く白い道が、静かに窪地の奥へ伸びていた。



今回から、星降りの窪地編に入りました。


最初の舞台は、星見の石橋です。


星見台が「欲しい声を返してしまう場所」だったのに対し、この橋は「声を返さない場所」として描いています。


返事がないことは、時に必要でもあります。


けれど、返らないことにすがりすぎると、自分の中に残っていた名前まで手放してしまうかもしれません。


リシアは今回は大きな歌ではなく、橋の下へ落ちかけた呼吸を、持ち主の手元へ戻すための短い歌を使いました。


そして、橋の向こうにあった言葉。


声を閉じるな。


ただ、返ることを求めるな。


星降りの窪地、エリュナの落星跡へ向かう道が、少しずつ開き始めます。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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