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旅路小休止編 82話 薄い焼き菓子と星の道

白紙市リュネアでの出来事は一区切りを迎えた。

記録派のリュシカは、本人が望むまで開かない「待つ記録」という分類を加えた。

破譜派のイゼルは、姉からの手紙をまだ読まず、まだ燃やさず、持つことを選んだ。

封譜派のロアムは退いたが、声を持つ責任という問いを残していく。

ノエルは自分の未許可記録を抱えたまま、リシアへ星降りの窪地、エリュナの落星跡という次の道標を残した。

リシアはA・Rに関わる記録を今は読まないと決め、白紙市を後にする。

次の道は、星へ向かっていた。


 白紙市リュネアを出てしばらく、リシアは背後を振り返らなかった。


 振り返れば、白い紙暖簾がまだ見える気がした。


 水路に揺れる白紙。


 未読箱の保管堂に結ばれた、名前のある紙とない紙。


 イゼルが胸元にしまった手紙。


 リュシカの白い帳面。


 ノエルが橋の欄干に残した、薄茶の紐。


 それらが、足を止めればすぐに追いついてくるような気がした。


 だからリシアは、しばらく前だけを見て歩いた。


 道は北東へ続いている。


 白紙市の水路から離れるにつれ、川の音は少しずつ細くなり、代わりに草の匂いが濃くなっていった。初夏に近い風が、道端の背の低い草を揺らしている。


 シルは肩の上で、イゼルにもらった薄い焼き菓子の包みを抱えていた。


 白紙市の菓子屋で作られたものらしい。


 紙のように薄く、手に持つだけでぱりぱり割れそうな焼き菓子。


 出発前からずっと抱えているのに、シルはまだ開けていなかった。


「食べないの?」


 リシアが尋ねると、シルは包みを見下ろし、少しだけ胸を張った。


 ちい。


 あとで。


 そんな顔だった。


「また待つ記録?」


 シルは即座に首を横に振った。


 ちいっ。


 これは記録ではない。


 食べ物だ。


 その主張ははっきりしていた。


 リシアは笑った。


「じゃあ、後で食べる食べ物だね」


 シルは満足そうに頷いた。


 けれど、しばらくすると包みの角を鼻先でつつく。


 またしばらく歩くと、前足で少し押す。


 そのたび、紙の包みがかさりと鳴った。


「気になるなら食べたら?」


 シルは悩む顔をした。


 食べたい。


 でも、今開けると全部食べてしまうかもしれない。


 だから待ちたい。


 しかし待つのはつらい。


 小さな体の中で、かなり大きな葛藤が起きているらしかった。


 リシアはその真剣さに、白紙市で見た人々の悩みを思い出しそうになり、慌てて首を振った。


 さすがに、薄い焼き菓子と未読箱を同じ重さで考えるのは違う。


 でも、シルにとっては大問題なのだろう。


 昼前、二人は街道沿いの小さな丘で休むことにした。


 丘の上には、風除けの石積みと古い道標がある。


 道標には、三つの地名が刻まれていた。


 南西、白紙市リュネア。


 北、石橋町メルド。


 北東、エリュナ旧道。


 リシアは最後の文字を指でなぞった。


「エリュナ」


 ノエルが残した地名。


 星降りの窪地。


 落星跡。


 星が落ちた場所に、声を閉じない石がある。


 歌詞帳は、道標の前でほんの微かに震えた。


 強い反応ではない。


 けれど、無関係ではないと告げる程度の、小さな震え。


 リシアは胸元に手を当てた。


「まだ、答えじゃない」


 そう呟く。


 星見台でもそうだった。


 星形金属板は、星の断章ではなかった。


 星は答えではない。


 願いを映す、遠い鏡。


 ならばエリュナの落星跡も、すぐに断章をくれる場所ではないのかもしれない。


 むしろ、すぐに答えを求めないために向かう場所なのだろう。


 シルが肩から降り、石積みの上に包みを置いた。


 そして、リシアを見る。


 開ける。


 そういう顔だった。


「どうぞ」


 リシアが許可すると、シルは慎重に包みをほどき始めた。


 薄茶の紐をほどく手つきが、いつもより丁寧だった。


 ノエルの帳面を結んだ紐を思い出しているのかもしれない。


 紙包みが開く。


 中には、薄い焼き菓子が三枚入っていた。


 白紙のように薄く、端だけが淡く焼けている。よく見ると、表面に小さな星の模様が押されていた。


 シルの目が輝く。


 リシアは一枚を手に取った。


「本当に薄いね」


 口に入れると、ぱり、と軽い音がした。


 蜂蜜の甘さと、少しだけ塩気がある。


 焼き菓子は舌の上であっという間に崩れた。


「おいしい」


 その一言で、シルは安心したように自分の一枚へかじりついた。


 ぱり。


 音が丘の上に小さく響く。


 シルは驚いた顔で自分の口元を押さえた。


 思ったより大きな音がしたのだろう。


 リシアは笑ってしまった。


「声みたいだね」


 シルは焼き菓子を抱えたまま、首を傾げる。


「薄くて、すぐ割れて、でもちゃんと音がする」


 ちい。


 シルは少し考えるように鳴いた。


 それから、残りをさらに小さくかじる。


 今度は、さっきよりも控えめな音だった。


 その様子を見て、リシアは騎士団時代のことを思い出した。


 食堂の片隅。


 訓練後の昼。


 まだ入団して間もない頃、リシアは配られた薄焼きパンを前にして、アイシャに半分取られていた。


『半分って言ったでしょ』


『半分だよ』


『それ、半分より大きい』


『リシアの目が優しいから、私に大きく見えてるだけ』


『そんな言い訳ある?』


 アイシャは本気の顔で頷いていた。


 そして、薄焼きパンをぱりぱりと割りながら言った。


『でも、こういうのってさ、急いで食べるとすぐなくなるんだよね』


『当たり前だよ』


『だから、少しずつ食べる。待つ練習』


『食べ物で?』


『食べ物でできないことは、返事でもできない』


 リシアはその時、意味が分からず首を傾げた。


 アイシャは少し照れたように笑って、薄焼きパンの欠片をリシアへ返した。


『誰かの返事って、すぐほしいじゃん。でも、すぐ返せない人もいる。だから、待ってる間に全部食べちゃわない練習』


『やっぱり食べ物の話だよね』


『大事な話だよ』


 あの時は、ただの冗談のように思えた。


 けれど今は、少し違って聞こえる。


 待つこと。


 開けないこと。


 返ってこない声を、無理に返させないこと。


 リシアは焼き菓子の欠片を手のひらに乗せた。


 アイシャは、ずっと前からそういう小さなことを知っていたのかもしれない。


 明るく笑いながら。


 半分より少し大きい欠片を取りながら。


 それでも、人の返事を急がせないことを、どこかで大事にしていた。


 シルがリシアの手のひらを覗き込む。


 最後の欠片を狙っている顔だった。


「これは私の」


 ちい。


「アイシャなら、たぶん取ってたけど」


 ちいっ。


 それなら自分も、と言いたげにシルが身を乗り出した。


 リシアは慌てて欠片を口に入れる。


 シルは間に合わず、前足を空中で止めた。


 しばらく固まる。


 それから、信じられないものを見る目でリシアを見た。


「ごめん」


 ちい。


 抗議の声は小さいが、長かった。


 丘の下から、荷車の音が聞こえてきた。


 リシアが振り向くと、老いた旅商人が荷車を引いて坂を上がってくるところだった。荷台には乾燥豆、布、古地図、旅用の針、簡単な保存食が積まれている。


 旅商人は丘の上で足を止め、リシアに軽く頭を下げた。


「先客がいたか」


「どうぞ。広いですから」


「助かるよ」


 旅商人は石積みの反対側に腰を下ろした。


 彼は道標を見上げると、目を細める。


「エリュナへ行くのかい」


 リシアは少し間を置いて頷いた。


「そのつもりです」


「珍しい。最近はあっちへ行く者は少ない」


「危ない場所なんですか」


「危ないというより、静かすぎる」


 旅商人は水筒を開け、一口飲んだ。


「エリュナの落星跡は、声が返らない場所だ。谷でも洞でもないのに、叫んでも響かない。歌っても、反響しない。石が声を飲む、と言う者もいる」


 リシアは星見台を思い出した。


 星見台は声を返した。


 欲しい声を返し、人を引き寄せた。


 その反対に、エリュナは声を返さない。


「声を閉じる場所、ということですか」


「いや」


 旅商人は首を横に振った。


「閉じるのとは違うらしい。あそこでは、声が消えるんじゃない。戻ってこないだけだ。だから昔は、返事を求めない祈りを置きに行く場所だったそうだよ」


 返事を求めない祈り。


 リシアは白紙市の未読箱を思い出す。


 返ってこなくても、消えたわけではない声。


 読まれなくても、捨てられていない紙。


 それらと、どこか似ている。


 旅商人は荷台から古びた地図を一枚取り出した。


「今の街道地図には載っていないが、旧道はまだ残っている。途中に、星見の石橋という古い橋がある。そこを越えれば、窪地までは半日だ」


「星見の石橋」


「ああ。ただし、夜は渡らない方がいい」


 リシアは顔を上げる。


「何か出るんですか」


「何も出ない」


 旅商人は言った。


「だから怖い」


 その答えに、リシアは黙った。


 何も出ないことが怖い。


 声が返らないことが怖い。


 それは、返り声に惑わされた星見台とは違う恐ろしさだった。


 旅商人は地図をリシアに差し出した。


「持っていくといい。古いものだから、道が変わっているかもしれないが」


「いいんですか」


「代わりに、その薄い菓子を一欠片くれないか」


 シルが即座に焼き菓子を抱え込んだ。


 旅商人は目を丸くする。


 リシアは苦笑した。


「これはシルの大事なものなので」


 シルは大きく頷く。


 リシアは鞄から別の干し果物を取り出した。


「こちらではだめですか」


「十分だよ」


 旅商人は笑って干し果物を受け取った。


 シルはほっとしたように焼き菓子を抱え直す。


 その時、旅商人の胸の奥から、かすかな心歌が聞こえた。


『返事のいらない場所なら、置いていけるかもしれない』


 リシアは旅商人を見た。


 彼は何事もなかったように地図をたたんでいる。


 きっと、彼にも何か置きたい言葉があるのだろう。


 だが、それを尋ねることはしなかった。


 白紙市を出たばかりだ。


 聞こえたからといって、開けていいとは限らない。


 リシアはただ、地図を受け取って礼を言った。


「ありがとうございます」


「気をつけてな。あそこは、答えをくれる場所じゃない」


「はい」


「でも、答えをくれない場所が必要な時もある」


 旅商人はそう言って、荷車を引き始めた。


 坂を下りる背中を、リシアはしばらく見送った。


 シルが肩へ戻ってくる。


 焼き菓子の最後の一枚を抱えたまま、真剣な顔をしていた。


「それ、いつ食べるの?」


 シルは空を見上げた。


 少し考える。


 それから、包み直した。


 ちい。


 星見の石橋で食べる。


 そんな顔だった。


「場所を決めたんだ」


 シルは頷いた。


 リシアは笑う。


「じゃあ、それまで割らないようにしないとね」


 その言葉を聞いたシルは、急に不安になったらしい。


 包みを抱え、鞄のどこに入れるのが一番安全か、真剣に悩み始めた。


 結局、リシアの歌詞帳ポーチの横に入れることになった。


 シルは何度も位置を確認し、ようやく納得したように肩へ戻る。


 リシアは地図を広げた。


 白紙市から北東へ。


 途中で石橋町メルドへは寄らず、旧道へ入る。


 星見の石橋。


 その先に、エリュナの落星跡。


 地図の隅には、古い文字で小さく書かれていた。


 返らぬ声を、星へ投げるな。


 星は沈黙を返さない。


 リシアはその一文を見つめる。


 意味はまだ分からない。


 けれど、胸元の歌詞帳は静かに震えている。


 星見台で見た、願いを映す器。


 白紙市で学んだ、読まないことと待つこと。


 ノエルが残した、声を閉じない石。


 それらが、少しずつ同じ方向を指している。


 リシアは地図を畳み、鞄へしまった。


 歌詞帳を開こうとして、やめる。


 今はまだ、歌詞にしない。


 道の上で、もう少し歩いてからでいい。


 それでも、ふと口ずさむように、短い旋律がこぼれた。


「薄い星を、割らないように。


 急ぐ道でも、抱えていこう。


 返らない声があるなら、


 返さない空も、見にいこう。」


 魔力は乗せていない。


 ただの旅歌だった。


 シルが肩の上で、焼き菓子の包みを抱えたまま耳を動かす。


 気に入ったのか、気に入らなかったのか分からない顔だ。


 リシアは笑った。


「焼き菓子の歌じゃないよ」


 ちい。


 シルは不満そうに鳴いた。


 自分の菓子の歌だと思っていたらしい。


 リシアは歩き出した。


 白紙市の余韻は、まだ胸の中にある。


 けれど、重さは少し変わっていた。


 綴じない声。


 待つ記録。


 読まない紙。


 そして、返事を求めない祈り。


 次の場所で、それらが何につながるのかは分からない。


 ただ、今はシルの焼き菓子が割れないように歩く。


 それくらいの小さな注意が、旅には必要だった。


 空は高く、昼の星は見えない。


 けれど、道標の先にあるエリュナの名だけが、リシアの胸の奥で静かに光っていた。



今回は、白紙市リュネアを出た後の小休止でした。


イゼルからもらった薄い焼き菓子。


それをいつ食べるか真剣に悩むシル。


そして、白紙市で学んだ「待つこと」や「開けないこと」の余韻。


重い出来事の後でも、旅は続いていきます。


道中でリシアは、エリュナの落星跡についての話を聞きました。


そこは、声が返らない場所。


返事を求めない祈りを置く場所。


星見台とは違う形で、星と声に関わる土地のようです。


次の道も、リシアとシルの旅を見守っていただけたら嬉しいです。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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