黒譜の民編 81話 綴じない声
白紙市リュネアは、封譜派ロアムによる声源封査を退けた。
リシアは人々が自分の声のありかを示すのを待ち、そのうえで短い守護詩を使い、声が封査盤へ奪われないよう支えた。
イゼルは姉の手紙をまだ読まず、まだ燃やさず、持つことを選ぶ。
リュシカは記録の中に「待つ記録」という分類を加えた。
ノエルもまた、自分の未許可記録を燃やさず、少し緩い紐で結び直して持ち続けている。
白紙市は未読箱をなくさず、守り方を変えて残すことを選んだ。
そしてリシアは、A・Rに関わる記録を今は読まないと決めた。
白紙市リュネアを出る日は、よく晴れていた。
水路に朝の光が落ち、白い紙暖簾が風に揺れている。
さらさらと鳴る紙の音は、初めてこの町へ来た時よりも少し不揃いだった。ところどころに怖さが残り、ためらいが混じっている。それでも、音は消えていなかった。
リシアは市場の広場に立っていた。
中央にあった未読箱は、もう広場にはない。
ただし、なくなったわけではない。
広場の東側、紙屋通りへ向かう角に、小さな保管堂を建てる準備が始まっていた。まだ柱が立ったばかりで、屋根もない。けれど、そこには白紙市の人々が一枚ずつ持ち寄った紙片が結ばれている。
名前のある紙。
名前のない紙。
手形だけの紙。
折り目だけの紙。
それらが、朝の風に小さく揺れていた。
箱は、誰か一人の判断で開けられないようになる。
市守、紙屋組合、預け人の代表。
三つの鍵が揃わなければ開かない。
そして、返してほしいと望んだ人には、読まずに返す。
開けないことを守るための場所。
白紙市は、それを選んだ。
リシアはその柱を見上げ、静かに息を吐いた。
歌で決めたのではない。
リシアが正解を置いたのでもない。
町の人々が怖がりながら、迷いながら、それでも自分たちで決めた。
だからこそ、この柱はまだ細くても、簡単には折れないように見えた。
シルはリシアの肩で、いつもより少し眠そうにしている。
この数日、黒譜線や封声印の前へ何度も飛び出したせいだろう。朝食の干し果物も食べたが、いつもの勢いはなかった。
「今日は移動したら、早めに休もうね」
リシアが言うと、シルは目を閉じたまま鳴いた。
ちい。
その声は、小さかった。
返事というより、聞こえているという合図に近い。
広場の端では、イゼルが破譜派の仲間たちと黒譜紙の束を整理していた。
火鉢はない。
代わりに、紙を分けるための白い台が置かれている。
黒譜が深く食い込んでいて危険なもの。
まだ分けられるもの。
持ち主が分かるもの。
分からないもの。
それぞれに札がつけられていた。
破譜派は、黒譜を燃やす者たちだった。
けれど今は、燃やす前に分ける者たちにもなりつつある。
もちろん、すぐに全員が変わったわけではない。怒りもある。恐れもある。燃やした方が早いと思う声も残っている。
それでも、火鉢の前に立つ前の一呼吸が生まれた。
リシアは、それで十分だと思った。
イゼルが彼女に気づき、こちらへ歩いてくる。
胸元には、あの手紙がある。
姉が彼へ書こうとしたかもしれない手紙。
まだ読まれていない。
まだ燃やされてもいない。
イゼルはリシアの前で立ち止まった。
「もう行くのか」
「はい。白紙市は、もう町の人たちで進めると思います」
「ずいぶん信用するんだな」
「信用というより、ここから先まで私が決めることではないので」
イゼルは少しだけ目を伏せた。
「それ、最初からできれば楽だったんじゃないか」
「そうですね」
リシアは苦笑する。
「でも、私はよく間違えます」
「歌術師でも?」
「歌術師だから、かもしれません」
イゼルはその答えを聞いて、ふっと息を漏らした。
笑ったというより、肩から少し力が抜けたような音だった。
彼は胸元の手紙へ手を当てる。
「これは、まだ読まない」
「はい」
「燃やす日も、たぶんまだ来ない」
「はい」
「でも、いつか読むかもしれない。読まないかもしれない」
彼は自分で言いながら、面倒そうに顔をしかめた。
「本当に面倒だな」
「はい」
「でも、俺のものだ」
リシアは頷いた。
「はい。あなたのものです」
イゼルはそれ以上言わなかった。
ただ、シルを見た。
「この前の干し果物、助かった」
シルは眠そうだった目を少し開け、得意げに胸を張った。
イゼルはポケットから、小さな包みを取り出した。
「礼だ。白紙市の菓子屋で買った。紙みたいに薄い焼き菓子らしい」
シルの耳がぴんと立つ。
眠気が一瞬で消えた。
リシアは笑いをこらえきれなかった。
「元気になった」
シルは包みをじっと見つめている。
イゼルは包みをリシアへ渡した。
「食べすぎるなよ」
ちい。
シルは明らかに納得していない声で鳴いた。
イゼルは少しだけ笑った。
その笑みは短かったが、昨日より自然だった。
市場の奥から、リュシカが歩いてくる。
白い外套。
白い帳面。
いつも通りの静かな足取り。
だが、今日はその手に黒い糸はなかった。
代わりに、薄茶の紐を何本か持っている。
リシアは思わずそれを見る。
「それは?」
「ほどける紐です」
リュシカは真面目に答えた。
「待つ記録に使用するため、試験的に採用します」
ノエルがいれば、また嫌そうな顔をしただろう。
リシアはそう思って、少しだけ笑った。
「白でも黒でもないからですか」
「それもあります。強く封じるためではなく、持ち主がほどけるようにするための紐です」
リュシカは淡々と言った。
けれど、その言葉には、以前の彼女にはなかった響きがある。
残すために綴じる。
その考えだけではなくなっている。
「リュシカさんは、これからも記録を続けるんですよね」
「はい」
「本人の許可がなくても?」
リュシカは少し黙った。
その沈黙だけで、リシアは彼女が変わったのだと分かった。
以前なら、即答しただろう。
必要なら残す、と。
だが今は、答える前に考えている。
「許可がない記録は、未許可として扱います。開くかどうかは、別の分類にします」
「待つ記録ですか」
「はい」
「それでも、勝手に残されたくない人もいます」
「その場合は、本人拒否を記録します」
リシアは少し眉を下げた。
「全部記録になるんですね」
「記録派なので」
リュシカは真面目だった。
たぶん、冗談ではない。
けれど、その答えに以前ほどの冷たさはなかった。
リシアは頷く。
「なら、ひとつだけお願いします」
「何でしょう」
「記録できないものがあることも、記録してください」
リュシカは目を瞬いた。
周囲の紙鳴りが、小さく揺れる。
「記録できないものを、記録する」
「はい」
「矛盾しています」
「でも、必要だと思います」
リュシカは長く黙った。
それから、白い帳面を開いた。
リシアは少し身構えたが、リュシカはすぐには書かなかった。
空白のページを見つめ、やがて小さく一行だけ記す。
記録不能領域、存在を仮定。
リシアはその文字を見て、少しだけ息を吐いた。
「それでいいんですか」
「現時点では」
リュシカは帳面を閉じる。
「いずれ修正するかもしれません」
「それも、リュシカさんらしいです」
リュシカは首を傾げた。
「褒めていますか」
「たぶん」
「曖昧ですね」
「はい」
シルが小さく鳴いた。
どちらも面倒だと言っているような声だった。
リュシカは今度はシルを見た。
「相棒シルの意見、記録不能」
リシアは慌てて言う。
「そこは本当に記録しなくていいです」
シルはなぜか少し残念そうだった。
昼前、リシアは水路沿いへ向かう。
ノエルがそこにいると、何となく分かっていた。
昨日も、その前も、ノエルは人混みの端にいた。
近づきすぎず、離れすぎず。
白紙市に属していない場所。
でも、白紙市を見渡せる場所。
水路沿いの欄干に、ノエルは立っていた。
薄い青の髪が風に揺れている。
腕の中には、薄茶の紐で結ばれた帳面。
未許可記録。
彼女自身の過去の痕。
リシアは少し距離を置いて立ち止まる。
「出発します」
「報告しなくていい」
「はい」
ノエルは水面を見たまま言う。
「でも、聞こえた」
拒絶ではなかった。
だから、リシアはその場に残った。
しばらく、二人とも話さなかった。
水路を流れる水が、白い紙片を運んでいく。
何も書かれていない紙。
濡れてもすぐには破れず、ゆっくりと橋の下へ消えていった。
ノエルが先に口を開いた。
「白綴じの女に、何か言われた?」
「A・Rに関わる記録の痕跡があると」
ノエルの視線が少し動いた。
「読んだの」
「読んでいません。今は読まないと決めました」
「本当に?」
「はい」
ノエルはしばらく黙った。
その胸の奥から、かすかな心歌が触れる。
『知りたいくせに』
リシアはその通りだと思った。
知りたい。
今すぐにでも。
アイシャに関わるものなら、どんな小さな痕跡でも見たい。
けれど、知りたい気持ちだけで開けば、また誰かの声を自分の都合で奪ってしまう。
「知りたいです」
リシアは言った。
ノエルが少しだけこちらを見る。
「でも、今読めば、きっと私は自分のために読みます。だから、今は読みません」
「綺麗な我慢」
「そう見えますか」
「少し」
ノエルは帳面の紐を指で触る。
「でも、読まないって選ぶのは、読めないよりはまし」
それは、ノエルにしてはかなり大きな譲歩だった。
リシアはそれを茶化さず、静かに受け取った。
「その帳面は、どうしますか」
聞いてから、リシアは少し緊張した。
踏み込みすぎかもしれない。
だが、ノエルは怒らなかった。
「持っていく」
「読むんですか」
「読まない」
即答だった。
それから、少しだけ間を置いて続ける。
「今は」
リシアは頷いた。
「はい」
「燃やすかもしれない」
「はい」
「川に沈めるかもしれない」
「はい」
「白綴じの女に投げ返すかもしれない」
「それは、少し困りそうですね」
「困ればいい」
ノエルの声はいつも通り冷たい。
けれど、帳面を持つ手は以前より少しだけ穏やかだった。
薄茶の紐は、きつく結ばれていない。
ほどこうと思えば、ほどける。
閉じたまま持つこともできる。
リシアはその結び目を見て、胸の奥が少し温かくなった。
ノエルは視線を水路へ戻す。
「あなたの歌、まだ嫌い」
「はい」
「歌術師も嫌い」
「はい」
「でも」
ノエルは言葉を止めた。
言うべきか迷っているようだった。
リシアは待つ。
急かさない。
先に補わない。
ノエルは長い沈黙の後、低く言った。
「封じられるよりは、まし」
リシアは静かに息を吸った。
それは和解ではない。
信頼でもない。
けれど、以前のノエルなら言わなかった言葉だった。
「覚えておきます」
「歌にしないで」
「しません」
「記録もしないで」
「リュシカさんに言ってください」
「もう言った」
リシアは少しだけ笑った。
ノエルは不満そうに睨む。
「何」
「いえ。ちゃんと言ったんですね」
「言うでしょ。あの女、言わないと全部書く」
その言い方があまりに本気で、シルが小さく鳴いた。
ちい。
少しだけ笑っているような声だった。
ノエルはシルを見る。
「あなたも、調子に乗らないで」
シルは胸を張る。
ノエルはため息をついた。
それから、外套の内側から小さな紙片を取り出した。
薄い青の染みがある紙。
リシアは一瞬、星見台で拾った紙片を思い出した。
返らない声の方が、ましな夜もある。
ノエルはその紙片をリシアへ差し出さず、欄干の上に置いた。
「これは、あなたに渡すわけじゃない」
「はい」
「でも、置いていく」
「見てもいいですか」
「勝手にすれば」
それは、ノエルなりの許可だった。
リシアは紙片へ目を落とす。
そこには短く書かれていた。
星が落ちた場所に、声を閉じない石がある。
リシアの歌詞帳が、胸元で震えた。
シルも肩の上で体を起こす。
「星が落ちた場所」
リシアが呟くと、ノエルは水面を見たまま言った。
「白綴じの女は、星の古い記録って言ったんでしょ」
「はい」
「なら、たぶんそこ」
「どこですか」
「星降りの窪地。古い地図では、エリュナの落星跡」
聞いたことのない地名だった。
だが、歌詞帳の震えが強くなる。
星見台で見つけた星形金属板。
鳴らない鈴。
星は答えではない。
願いを映す、遠い鏡。
それらが一本の細い線でつながっていく。
「なぜ、それを私に?」
リシアが聞くと、ノエルは少しだけ目を細めた。
「別に」
「ノエル」
「封譜派も、記録派も、破譜派も、その場所を探してる。エルバもたぶん知ってる」
リシアの胸が重くなる。
星の断章。
星詠みの歌の核心。
そこへ、黒譜の民の派閥が集まり始めている。
ノエルは続けた。
「あなたが行かなくても、誰かが行く。だったら、あなたが見た方が、少しだけまし」
「それは、信用ですか」
「違う」
即答だった。
「消去法」
「分かりました」
「分かるの早いのも嫌い」
「すみません」
ノエルはため息をついた。
その横顔は、どこか疲れている。
リシアはふと、ノエルの心歌に触れそうになった。
でも、触れなかった。
今は、聞かない方がいい。
その代わり、リシアは自分の声で言った。
「ありがとう」
ノエルは答えなかった。
紙片を欄干に置いたまま、歩き出す。
リシアは追わない。
だが、ノエルは数歩進んでから、振り返らずに言った。
「次に会ったら、味方だと思わないで」
「はい」
「敵だと思っても、面倒」
「では、どう思えばいいですか」
ノエルは少し黙った。
「その時考えて」
それだけ言うと、彼女は白紙市の路地へ消えていった。
リシアはしばらく、ノエルの消えた方を見ていた。
シルが肩の上で、ちい、と鳴く。
行こう。
そう言っているようだった。
リシアは欄干の紙片を拾った。
歌詞帳には挟まない。
ノエルの言葉は、まだ歌にしない。
けれど、捨てもしない。
小袋へ入れ、鞄の奥にしまう。
出発前、広場に戻ると、紙屋の子どもたちが数人集まっていた。
以前、星形菓子のリスの歌を喜んだ子どもとは違う子たちだ。
そのうちの一人が、リシアを見上げる。
「歌の人、もう行くの?」
「うん」
「白紙市の歌、歌って」
近くの大人が慌てて止めようとした。
けれど、リシアは子どもの目を見た。
怖がっていない。
ただ、町が昨日から少し変わったことを、何かの形で覚えておきたいのだろう。
リシアは広場の人々を見た。
歌っていいか。
そう尋ねるように。
市の長が頷く。
紙屋の女性も頷いた。
イゼルは腕を組んだままだったが、止めない。
リュシカは帳面を開きかけ、ノエルがいないことに気づき、少し迷ってから閉じた。
リシアは小さく笑った。
歌詞帳は開かない。
魔力も乗せすぎない。
これは断章を得る歌ではない。
町に答えを与える歌でもない。
ただ、白紙市が自分たちで選んだものを、そっと見送るための歌だ。
リシアは短く歌った。
「白い紙は、白いままでいい。
まだ書けないなら、風に揺れていい。
閉じるなら、鍵を選んで。
開くなら、朝を選んで。
破る日も、残す日も、
あなたの手が覚えていればいい。
声にならない声も、
綴じないまま、ここにいていい。」
広場に、静かな風が通った。
白い紙片が揺れる。
子どもたちは黙って聞いていた。
大人たちも、声を出さなかった。
泣く者もいない。
笑う者もいない。
ただ、それぞれが自分の喉や手や胸元の紙に触れていた。
歌は、誰かを前へ押したわけではない。
白紙市を救ったわけでもない。
けれど、町の選んだものの隣に、小さく置かれた。
それでいい。
リシアは歌い終え、深く頭を下げた。
市の長が静かに言う。
「白紙市は、この歌を町の決まりにはしません」
リシアは頷いた。
「はい」
「けれど、今日の朝に聞いた歌として、覚えておきます」
「ありがとうございます」
その言葉が、リシアには嬉しかった。
決まりではなく、記録でもなく、断章でもなく。
ただ、朝に聞いた歌。
それくらいの残り方が、今の白紙市には合っている。
リシアは町の門へ向かった。
イゼルが手を振る。
紙屋たちが頭を下げる。
リュシカは白い帳面を胸に抱え、少しだけ会釈した。
ノエルの姿はない。
けれど、水路の橋の欄干に、薄茶の紐が一本結ばれていた。
白でも黒でもない紐。
ほどこうと思えば、ほどける結び目。
リシアはそれを見て、胸の中で小さく頷いた。
門を出ると、道は北東へ伸びていた。
星降りの窪地。
エリュナの落星跡。
星の断章がそこにあるとは限らない。
むしろ、簡単にあると思わない方がいい。
星は答えではない。
願いを映す、遠い鏡。
リシアはその言葉を思い出しながら、鞄の中の封書に手を触れた。
まだ開けていない封書。
A・Rの裂け目。
ノエルが置いていった紙片。
どれも、今すぐ答えになるものではない。
でも、道標にはなる。
シルが肩の上で、イゼルにもらった薄い焼き菓子の包みを抱えている。
いつ食べるのかと思ったが、今はまだ開けないらしい。
「それも待つ記録?」
リシアが冗談めかして言うと、シルはきっぱり首を横に振った。
ちい。
これは後で食べるもの。
そういう顔だった。
リシアは笑った。
白紙市の紙鳴りが、背後で遠ざかっていく。
綴じない声。
破らない声。
封じられなかった声。
それらは、白紙市に残る。
リシアはその音を背中に聞きながら、次の道へ歩き出した。
白紙市リュネアでの黒譜の民編は、今回で一区切りです。
この編では、黒譜の民が一枚岩ではないことが見えてきました。
声を綴じて残そうとする記録派。
黒譜ごと燃やそうとする破譜派。
声が傷を広げる前に封じようとする封譜派。
そして、どこにも属したくないノエル。
どの考えにも痛みがあり、どの考えも行きすぎれば誰かの選択を奪ってしまう。
リシアはその中で、歌うことだけでなく、読まないこと、待つこと、当事者の手へ返すことを選びました。
白紙市は、未読箱をなくさず、守り方を変えて残します。
イゼルは姉の手紙をまだ読まず、まだ燃やさず、持つことを選びました。
リュシカは「待つ記録」を加えます。
ノエルは自分の未許可記録を抱えたまま、次の星の道標を残しました。
次の道は、星降りの窪地、エリュナの落星跡へつながります。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




