黒譜の民編 80話 声を持つ責任
白紙市リュネアに、封譜派のロアムが再び現れた。
ロアムは、声が動けば傷も動き、黒譜が広がると考え、声になる前の場所を封じる声源封査を行う。
リシアはすぐに歌で押し返すのではなく、人々が自分の声のありかを示すのを待った。
そのうえで短い守護詩を使い、それぞれの声が封査盤へ奪われないよう支えた。
ノエルもまた、自分の未許可記録を開くか閉じるかは自分が決めると声にし、封査の線を退ける。
封譜派は退いたが、ロアムは去り際に、声を持つ責任を示せと言い残した。
白紙市の声は封じられなかった。
だが、それぞれが声をどう持つのかという問いは、まだ残っていた。
声源封査が退いた翌朝、白紙市リュネアには、いつもの紙鳴りが戻り始めていた。
完全ではない。
風が通るたび、店先の白紙や紙暖簾はさらさらと揺れる。けれど、その音はまだどこか慎重だった。大きく鳴りすぎないように、町そのものが自分の喉を確かめているようだった。
市場の人々も同じだった。
挨拶は交わされる。
品物の値段も告げられる。
子どもたちの声も戻っている。
それでも、誰かが少し大きな声を出すと、周囲が一瞬だけ振り向いた。声が出ることを喜びながら、同時に、その声がまた奪われるかもしれないと覚えている。
リシアは宿の食堂で、温かい湯をゆっくり飲んでいた。
喉の痛みは、昨日より和らいでいる。
だが、完全には消えていない。
声源封査に抗った時、無理に歌わなかった。それでも、喉の奥に灰色の輪が残っているような違和感がある。
シルはテーブルの上に座り、干し果物を一粒だけ前足で転がしていた。
食べるでもなく、遊ぶでもなく、ころころと右へ、左へ。
「食べないの?」
リシアが尋ねると、シルはちらりとこちらを見た。
ちい。
先に食べろ。
そんな顔だった。
リシアは湯の器を両手で包み、少しだけ笑った。
「心配してくれてるんだ」
シルは慌てて干し果物を口に入れた。
心配していたわけではない、とでも言いたげだった。
だが、尻尾は落ち着かずに揺れている。
リシアはもう一口、湯を飲んだ。
歌えなくなるかもしれない。
昨日、その恐怖が一瞬だけ胸をよぎった。
声を失うこと。
歌詞帳が開いても、歌えないこと。
誰かの心歌を聞いても、それに応える声を出せないこと。
それは、歌魔術師であるリシアにとって、ただ不便というだけではなかった。
自分の一部が、根元から閉じられるような感覚だった。
だからこそ、ロアムの考えが完全に分からないわけではない。
声は危うい。
歌は誰かを動かしてしまう。
記録は誰かを縛ってしまう。
破ることも、消すことも、封じることも、痛みを広げないための方法として選ばれることがある。
けれど、昨日の市場でリシアが見たのは、それだけではなかった。
声を奪われそうになった人々が、自分の喉や手や紙に触れ、自分の声のありかを取り戻そうとする姿。
ノエルが、自分の記録を閉じるのは自分だと言った声。
イゼルが、姉の手紙を今は読むとも燃やすとも決めず、持つことを選んだ手。
それらはすべて、危うくても手放してはいけないものだった。
食堂の扉が開いた。
イゼルが入ってくる。
昨夜より少し顔色は良いが、目の下の影は濃い。胸元には、例の手紙が入っているのだろう。服の上からでも、彼がそこへ無意識に手をやるのが分かった。
「ここにいたのか」
「おはようございます」
「声、戻ったんだな」
「少し掠れますけど」
リシアが答えると、イゼルは椅子を引いて向かいに座った。
注文もせず、しばらく黙っている。
シルが干し果物を抱えて、じっと彼を見た。
イゼルはその視線に気づき、苦い顔をした。
「何だよ」
ちい。
シルは短く鳴いた。
「たぶん、何か食べた方がいいと言っています」
「リスにまで心配されるほどの顔か」
「少し」
リシアが正直に答えると、イゼルはため息をついた。
やがて、給仕に粥を頼む。
それだけでも、少し前進なのかもしれない。
食事が来るまでの間、イゼルは胸元から手紙を取り出した。
黒譜を剥がした後も、紙はまだ傷んでいる。端は焦げたように黒ずみ、文字もところどころ潰れている。
けれど、確かに手紙だった。
誰かが誰かへ向けて書こうとしたもの。
イゼルはそれをテーブルに置かなかった。
両手で持ったまま、低く言う。
「読んでない」
「はい」
「燃やしてもいない」
「はい」
「それでいいのか分からない」
リシアはすぐには答えなかった。
正解を出すべき場面ではない。
イゼルは手紙を見つめたまま続ける。
「姉が何を書こうとしたのか、知りたい。でも、知ったら、俺の中で姉の最後が決まる気がする」
手紙を握る指に力が入る。
「読まなければ、まだ途中のままだ。燃やせば、何もなかったことにできる。なのに、どっちもできない」
その奥から、心歌が微かに聞こえた。
『まだ姉を終わらせたくない』
リシアはその声を胸の中だけで受け止めた。
歌にはしない。
イゼルの代わりに言わない。
「持っているだけでも、選択だと思います」
リシアは静かに言った。
「読むことだけが向き合うことではないですし、燃やすことだけが手放すことでもないと思います」
「都合のいい言い方だな」
「そうかもしれません」
「でも、今はそのくらいが助かる」
イゼルは苦い笑みを浮かべた。
それは、本当にわずかな笑みだった。
給仕が粥を運んでくる。
イゼルは手紙を丁寧にしまい、匙を取った。
ひと口食べる。
顔をしかめる。
「薄い」
「喉には優しいと思います」
「俺は喉を封じられたわけじゃない」
「でも、昨日たくさん怒鳴ろうとしていました」
イゼルは反論しかけ、やめた。
シルが干し果物をひと粒、イゼルの器の横へ置く。
イゼルは目を瞬く。
「くれるのか」
シルは胸を張った。
リシアは少し驚いた。
「珍しい」
「そんなに珍しいのか」
「かなり」
イゼルは干し果物を見つめ、少しだけ笑った。
「ありがとな」
シルは満足そうに鳴いた。
その時、宿の外から鐘のような音がした。
正確には鐘ではない。
木板を叩く音だ。
市守が人々を広場へ集めている合図だった。
イゼルは匙を置いた。
「未読箱の件だな」
「決めるんですか」
「市の長と紙屋たちが話すらしい。俺も呼ばれてる」
「行きましょう」
リシアが立ち上がると、イゼルは少し驚いた顔をした。
「来るのか」
「見届けます。決めるのは町の人たちですけど」
イゼルは短く頷いた。
広場には、すでに多くの人が集まっていた。
未読箱は中央に置かれている。
その周りには、昨日人々が重ねた白紙や折り目の紙、手形の紙が整えられていた。封譜派の灰色の札は、市守の透明な保管箱に入れられている。
燃やされてはいない。
白綴じ書庫へ移されてもいない。
誰もが見える場所に置かれていた。
市の長が前へ出た。
白髪の小柄な女性だった。背は低いが、声はよく通る。
「昨日、この市は声を封じられかけました」
広場が静まる。
「私たちは、未読箱をどう扱うか決めなければなりません。これまでのように広場に置くのか、封鎖するのか、書庫へ移すのか。あるいは、箱そのものをなくすのか」
ざわめきが起きる。
箱をなくす。
その選択肢に、リシアは胸が少し痛んだ。
しかし、それを否定することはできない。
箱があるから狙われた。
そう考える人がいても当然だった。
紙屋の女性が前に出る。
「私は、箱を残したいです」
声は震えていた。
けれど、途中で止まらなかった。
「でも、今までと同じにはできません。預けた紙を誰が守るのか、どこまで誰が見ていいのか、何も決めずに置いていたから、リュシカにも封譜派にも触れられた」
リュシカは広場の端にいた。
その言葉に反論しなかった。
ただ、静かに聞いている。
紙屋の女性は続ける。
「未読箱は、読まない箱です。だけど、読まないなら何もしなくていいわけではありません。読まないために、守る決まりが必要です」
市守が頷く。
「市守が管理する。だが、市守だけでは不十分だ。預けた人、紙屋、町の代表、それぞれが鍵を持つ形にしたい」
「鍵?」
誰かが尋ねる。
市守は箱の蓋を示した。
「ひとりの判断で開けられないようにする。預けた人が返却を望んだ時だけ、複数人の立ち会いで返す。誰かが勝手に読むことは禁じる」
リュシカが静かに言った。
「記録上、妥当です」
ノエルが広場の端から言う。
「あなたが言うと不安になる」
「不安も記録できます」
「しないで」
短いやり取りに、数人が小さく笑った。
白紙市で、リュシカに向けて笑いが起きるのは、きっと珍しいことなのだろう。
リュシカ本人は、少しだけ不思議そうにしていた。
市の長が話を戻す。
「箱を残すかどうか、ここで決めます。残すなら、今言った新しい管理の形にします。なくすなら、中の紙は希望者へ返し、受け取り手のないものは封をしたまま保管します」
誰もすぐには答えなかった。
リシアは広場の人々を見る。
不安。
迷い。
怒り。
それでも、逃げずに考えようとしている空気。
そこに、昨日よりも少し強いものを感じた。
シルが肩の上で、リシアの頬を軽くつつく。
何もしないのか、というように。
リシアは小さく首を振った。
「決めるのは、町の人たち」
シルは頷いた。
それでも、リシアは歌詞帳へ手を添えた。
歌うためではない。
必要なら、迷いに呑まれそうな人々が自分の声を見失わないよう、支えるために。
最初に手を挙げたのは、昨日子どもの手を握っていた母親だった。
「残してほしいです」
彼女は子どもの肩を抱きながら言った。
「私は、まだ書けない紙を入れました。いつか返してほしいと思うかもしれない。ずっと返してほしくないと思うかもしれない。でも、箱がなくなったら、私はそのどちらも選べなくなる」
次に、老人が手を挙げた。
「わしも残す方に」
紙職人の若い男が続く。
「管理は厳しくした方がいい。でも、なくすのは違うと思う」
少しずつ、声が増える。
残す。
怖いけれど残す。
今までと同じではなく、守り方を変えて残す。
一方で、なくしたいという声もあった。
「また狙われるなら怖い」
「子どもの紙が勝手に読まれたらと思うと、残せない」
「箱がある限り、黒譜も封譜派も来る」
それらも正しい声だった。
リシアは、それを否定しなかった。
市の長も否定しなかった。
ひとつずつ聞き、紙屋たちが記録していく。
リュシカが記録したそうにしていたが、ノエルがじっと睨んでいるため、手を出さなかった。
やがて、市の長がまとめた。
「箱は残します。ただし、広場に置いたままにはしません。見える場所に、小さな保管堂を建てます。鍵は三つ。市守、紙屋組合、預け人の代表が持つ。返却以外で開けることを禁じます」
広場は静かだった。
全員が納得したわけではない。
それでも、町としての選択が置かれた。
リシアはその場で、小さく息を吐いた。
歌わずに済んだ。
それは逃げではなく、町が自分たちで声を重ねられたということだ。
イゼルが横で呟く。
「俺は、箱を壊す方に寄ってた」
「今は?」
「まだ少し思ってる。でも、姉の手紙を燃やしてない俺が、他人の箱を壊せとは言いにくい」
彼は苦笑した。
「面倒だな、声を持つって」
「はい」
リシアは頷いた。
「とても」
その後、リシアは白綴じ書庫へ向かった。
リュシカが、話があると言ったからだ。
白綴じ書庫は相変わらず白かった。
封書も帳面も、棚に静かに並んでいる。
以前より少しだけ、白さが怖くなくなった気がした。
リュシカは中央の机に、白い台帳を置いた。
「待つ記録、という分類を仮登録しました」
リシアは瞬きをした。
「本当に作ったんですか」
「必要になりましたので」
台帳には、いくつかの項目が書かれている。
本人未許可。
開封不可。
返却待ち。
本人保留。
未読保管。
待つ記録。
リシアはそれを見て、静かに息を呑んだ。
リュシカは続ける。
「記録派は、残すことを優先してきました。けれど、残すために待つという扱いを正式に持っていなかった」
「それを、変えるんですか」
「変えるのではありません。追記します」
リュシカらしい言い方だった。
だが、そこには確かな変化があった。
「記録は、すぐ開くためだけにあるのではない。そういう分類も必要だと判断しました」
「それは、リュシカさん自身の判断ですか」
「はい」
リュシカは短く答えた。
その声に、初めて少しだけ人間らしい迷いが混じっていた。
「ただし、私は記録をやめません」
「分かっています」
「あなたも歌をやめないでしょう」
「はい」
二人はしばらく向き合った。
完全に分かり合ったわけではない。
たぶん、これからも何度もぶつかる。
それでも、リュシカは「待つ」ことを記録に加えた。
それは小さくても、大きな変化だった。
リュシカは机の引き出しから、細い白紙を一枚取り出した。
「もうひとつ」
リシアは身構えた。
「A・Rの未唱記録についてです」
胸の奥が、静かに冷える。
シルが肩の上で体を硬くした。
リュシカはその反応を見て、すぐに紙を伏せた。
「開きません」
その一言に、リシアは少しだけ息を吐いた。
「存在しているんですね」
「正確には、存在の痕跡があります。完全な記録ではありません。裂け目に近い」
「裂け目」
「複数の記録から、同じ名の断片が欠けています。欠けているのに、欠けた跡だけが残っている」
リシアの指が震えた。
アイシャ。
戦死扱い。
灰鐘。
王都の記録。
欠けた名。
「その記録は、どこにありますか」
「ここにはありません」
リュシカは答える。
「白紙市にあるのは、痕跡だけです。実際の裂け目は、おそらく星に関わる古い記録の中にあります」
「星」
リシアの歌詞帳が、胸元でかすかに震えた。
星見台で得た言葉が蘇る。
星は答えではない。
願いを映す、遠い鏡。
リュシカは伏せた紙を、リシアには渡さなかった。
「今は、これ以上渡しません」
「なぜですか」
「あなたが今読むと、声を背負いすぎます」
ロアムの言葉と似ていた。
歌術師の声は、いずれ全員の声を背負いすぎて潰れる。
リシアは反射的に反論しそうになった。
けれど、できなかった。
今の自分は、喉も心も少し疲れている。
アイシャの名を見れば、冷静でいられる自信がない。
リュシカは静かに言った。
「待つ記録です」
リシアは唇を結ぶ。
悔しさもあった。
知りたい。
今すぐに。
けれど、白紙市で学んだばかりだ。
開けないことも、選択になる。
待つことも、逃げではない。
「分かりました」
リシアは言った。
「今は、読みません」
リュシカは頷いた。
「その判断を記録します」
「それは、していいです」
リュシカはほんの少しだけ目を瞬かせた。
意外だったのかもしれない。
それから、台帳へ短く書いた。
A・R関連裂け目。
歌術師リシア・フェルミナ、現時点での開示保留を受諾。
シルがリュシカをじっと見た。
まるで、その記録の一文字でもおかしければ抗議するつもりのようだった。
リュシカは真面目に付け加えた。
相棒シル、監視。
「そこは書かなくていいです」
リシアが言うと、リュシカは首を傾げた。
「事実です」
シルは胸を張った。
リシアは苦笑した。
白綴じ書庫を出ると、夕方の光が白紙市を淡く染めていた。
広場では、未読箱を一時的に移す準備が進んでいる。
イゼルは破譜派の仲間とともに、黒譜を分ける作業を手伝っていた。
ノエルは水路沿いの欄干に寄りかかっている。
未許可記録は、まだ彼女の腕の中にある。
リシアは近づきすぎない距離で足を止めた。
ノエルは振り返らずに言う。
「読まなかったんだ」
「何をですか」
「白綴じの女が持ってた紙」
リシアは少しだけ驚いた。
見ていたのだろうか。
それとも、気配で察したのか。
「はい。今は読みません」
「ふうん」
ノエルは水面を見たまま言う。
「少しは覚えたんだ」
「まだ、よく間違えます」
「知ってる」
その返事は早かった。
リシアは小さく笑いそうになったが、こらえた。
ノエルは帳面の紐を指で触る。
「これ、まだ重い」
「はい」
「でも、昨日よりは少しだけまし」
「それは、よかったです」
「あなたの歌のおかげじゃない」
「はい」
ノエルは少しだけこちらを見る。
「でも、あのリスの紐は悪くなかった」
シルが肩の上で、得意げに鳴いた。
ちい。
ノエルはそれを見て、すぐに目を逸らした。
「調子に乗らないで」
シルはさらに胸を張った。
リシアは今度こそ少し笑った。
白紙市の夕方に、紙鳴りが戻っている。
完全ではない。
傷も恐れも残っている。
でも、町は箱をなくすのではなく、守り方を変えて残すことを選んだ。
イゼルは手紙を持ち続けることを選んだ。
リュシカは待つ記録を加えた。
ノエルは帳面を燃やさず、少し緩い紐で結び直した。
リシアは、A・Rの記録を今は読まないと決めた。
声を持つ責任とは、すぐに声を出すことだけではない。
黙ること。
待つこと。
持つこと。
開けないこと。
それらを、自分で選び続けることなのかもしれない。
リシアは喉に手を当てた。
まだ少し痛い。
でも、声はある。
歌はある。
そして、歌わない選択も、まだ自分の中にある。
水路を渡る風が、白い紙を揺らした。
さらさらと、白紙市が小さく鳴る。
その音は昨日より少しだけ、町自身の声に近かった。
今回は、声源封査の後の白紙市を描きました。
未読箱をなくすのか。
残すのか。
残すなら、どう守るのか。
リシアが答えを出すのではなく、白紙市の人々自身が話し合い、箱を残しながら守り方を変えることを選びました。
イゼルは、姉の手紙をまだ読まず、まだ燃やさず、持つことを選びます。
リュシカは、記録の中に「待つ記録」という分類を加えました。
ノエルも、自分の未許可記録を抱えたまま、少しだけ軽くなったことを認めます。
そしてリシアは、A・Rに関わる記録を今は読まないと決めました。
声を持つ責任とは、声を出すことだけではない。
待つこと、持つこと、開けないこともまた、ひとつの選択なのかもしれません。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




