黒譜の民編 77話 封じる者の影
白紙市リュネアで、リシアは黒譜を破ろうとする者たち、破譜派と出会った。
破譜派のイゼルは、姉の言葉が黒譜に綴じられることを恐れ、黒譜紙を燃やそうとしていた。
リシアは短い歌で、黒譜の線と紙に残った言葉の痕を分ける。
燃やすか、残すか。
その選択は、持ち主自身に残された。
ノエルもまた、自分の未許可記録を抱えたまま広場に現れ、リシアの行動を「少しだけ、まし」と評した。
その直後、リュシカの文字で「破る者も、記録に値する」と書かれた紙が舞い降りる。
黒譜の民の内部にある、綴じる者、破る者、そしてどこにも属したくない者の違いが見え始めていた。
火鉢の火は、まだ消されていなかった。
赤い炭が静かに息をし、時折、細い火の粉が上がる。黒譜紙を燃やすために用意された火は、今は広場の中央で所在なさげに揺れていた。
イゼルたちは、火鉢の周りに座り込んでいる。
燃やすはずだった黒譜紙は、いくつかの束に分けられていた。黒譜が深く食い込んでいるもの。まだ分けられるかもしれないもの。持ち主が分かるもの。持ち主が分からないもの。
紙屋たちも手伝い始めている。
誰も明るい顔ではない。
けれど、さっきまでの「すべて燃やす」という張りつめた空気は、少しだけほどけていた。
リシアは膝の上に歌詞帳を置き、息を整えていた。
黒譜線を剥がす歌は短かったが、何度も繰り返すものではない。紙の痕を壊さないように、黒譜だけを分けるには細い集中がいる。
歌いすぎれば、紙に残る言葉まで揺らしてしまう。
歌わなければ、黒譜は残る。
その境目を探る作業だった。
シルはリシアの隣で、前足を丁寧に舐めている。
黒譜線そのものには触れていないはずなのに、何度も避けさせたせいか、疲れているようだった。
「少し休もう」
リシアが言うと、シルは顔を上げた。
ちい。
まだいける、と言いたげな声だった。
「いけるのと、休まなくていいのは違うよ」
シルは不満そうに耳を伏せた。
そのやり取りを見て、破譜派の少年が小さく笑った。
イゼルがそれに気づき、少しだけ目を細める。
笑うな、とは言わなかった。
この広場に、笑いが少し戻ったことを、彼自身も悪いとは思っていないのかもしれない。
ノエルは広場の端に立っていた。
まだ去っていない。
自分の未許可記録を外套の内側に抱えたまま、紙束と火鉢とリシアを、少し離れた場所から見ている。
手伝うつもりはない。
けれど、見届けずに背を向けるつもりもない。
その距離が、今のノエルらしかった。
リシアは彼女へ声をかけようとして、やめた。
必要な時だけでいい。
踏み込みすぎたばかりなのだから。
その時、広場の紙暖簾が一斉に止まった。
風がやんだのではない。
水路の水は流れている。
火鉢の火も揺れている。
けれど、白い紙暖簾だけが、ぴたりと空中で固まった。
市場の人々が顔を上げる。
次の瞬間、紙の音が消えた。
白紙市リュネアから、紙鳴りだけが抜き取られたようだった。
リシアは立ち上がる。
シルも身を低くした。
ノエルの目が細くなる。
「来た」
彼女が低く言った。
広場の北側から、灰色の紐を肩にかけた人々が歩いてきた。
黒い外套ではない。
白い外套でもない。
灰色の旅装に、口元を覆う薄布。胸元には、五線を丸く封じたような印がある。
破れた五線ではない。
綴じられた帳面でもない。
円の中に閉じ込められた譜線。
リシアは直感した。
封じる者たち。
先頭にいたのは、長身の男だった。
年は三十代半ばほど。黒髪に灰色の目。表情は穏やかだが、穏やかすぎて温度がない。
男は広場の中央で足を止めた。
「火を消しなさい」
声は大きくない。
だが、不思議なほどよく通った。
イゼルが立ち上がる。
「誰だ」
「封譜派、ロアム」
男は名乗った。
「黒譜を燃やす者も、綴じる者も、同じ過ちを繰り返している。声を動かすから、傷が動く。傷が動くから、黒譜が増える」
リュシカの名前を出さずに、綴じる者を否定した。
同時に、破譜派も否定している。
イゼルが火打ち石を握る。
「封譜派だと? 今さら何を封じる気だ」
「この市の声を」
広場が凍った。
ロアムは淡々と続ける。
「白紙市リュネアはすでに汚染されています。預けられた言葉、燃やされかけた紙、歌術師の歌、黒譜の記録派、破譜派、未登録の声。すべてが混ざりすぎている」
「だから、黙れって?」
ノエルが言った。
声には鋭い棘がある。
ロアムは彼女を見る。
「ノエル・ヴァイス。あなたも封査対象です」
「勝手に対象にしないで」
「あなたの声は不安定です。閉じるべきです」
ノエルの指先に、黒い譜面線が浮かびかけた。
リシアは一歩動きかける。
だが、ノエルは術を放たなかった。
唇を噛み、黒い線を消す。
リシアはそれを見て、胸の奥で少しだけ息をついた。
ロアムは広場の箱へ目を向けた。
まだ書けない言葉の箱。
その周囲には縄が張られている。
「その箱も封じます」
市守が前に出た。
「許可は出していない」
「許可を取っている間に、声は広がります」
ロアムの後ろにいた灰紐の者たちが、細い灰色の札を取り出した。
札には譜線が描かれている。
ただし、音符はない。
譜線の上下を、薄い蝋のような輪が囲んでいた。
ノエルが低く言う。
「封声印」
「知っているんですか」
リシアが聞くと、ノエルは目を逸らさずに答えた。
「無音領域の亜種。歌を消すんじゃない。声が外へ出る前に、喉と紙の間で止める」
「危険ですね」
「安全って顔をしている分、黒譜より嫌い」
その一言に、ノエルの本音が少しだけ滲んでいた。
ロアムが片手を上げる。
灰色の札が空へ投げられた。
札は風に乗らず、まっすぐ箱の方へ落ちる。
リシアは咄嗟に歌詞帳を開いた。
だが、ノエルが叫ぶ。
「歌わないで!」
リシアは手を止めた。
灰色の札が箱の縁に貼りつく。
その瞬間、広場から声が消えた。
誰かが悲鳴を上げようとした。
だが、音にならない。
口は開いている。
喉も動いている。
けれど、声が出ない。
市場の人々が次々に喉を押さえる。
市守がロアムへ怒鳴ろうとして、声を失った。紙屋の女性が子どもの名を呼ぼうとする。音にならない。イゼルが火鉢を蹴りそうになり、破譜派の仲間が腕を掴んだ。
広場全体が、声のない混乱に包まれる。
リシアの喉にも圧迫感が来た。
歌おうとすれば、声が手前で止まる。
無理に出せば、喉を傷つける。
シルがリシアの肩へ飛び乗り、頬を叩いた。
落ち着いて。
そう言われた気がした。
リシアは深く息を吸った。
歌えない。
なら、まず声以外で止める。
彼女は歌詞帳を開いたまま、声を出さずにページへ手を置く。
静律結界。
怒りや恐怖を消すのではなく、一瞬だけ止める術。
リシアは歌わず、呼吸と指先だけで、ごく小さな結界を広げた。
広場全体ではない。
火鉢の周り。
箱の前。
イゼルと市守、紙屋たちが押し合いになりかけている場所だけ。
空気が一拍、静かになる。
恐怖が消えたわけではない。
怒りが消えたわけでもない。
ただ、動き出す前に一呼吸置けるだけの薄い膜。
イゼルの腕が止まる。
紙屋の女性が子どもを抱きしめる。
市守が剣へ伸ばした手を止める。
リシアは声が出ないまま、口元に手を当てて、ゆっくり息をする仕草を見せた。
吸って。
吐いて。
もう一度。
何人かが、それに合わせる。
声がなくても、呼吸はできる。
その時、イゼルの胸の奥から心歌が聞こえた。
『姉の名前だけは、封じるな』
続いて、紙屋の女性からも。
『黙れば安全なんて、そんなのは違う』
リシアはその二つだけを聞いた。
それ以上は拾わない。
今は、混ざりすぎる。
ロアムがリシアを見た。
「歌術師。抵抗は不要です。声を封じれば、黒譜も歌も広がらない」
リシアは声を出そうとした。
喉が痛む。
音にならない。
ノエルが舌打ちした。
「だから嫌いって言ってるの」
彼女の声は出ていた。
ただし、掠れている。
封声印に完全には捕まっていないらしい。
黒譜術への耐性か、拒絶の性質か。
ノエルはリシアの前へ出た。
「声を封じれば傷が止まる? 違う。傷が言えなくなるだけ」
ロアムは表情を変えない。
「言えない傷は広がりません」
「腐るんだよ」
ノエルの声が冷たく落ちた。
その言葉に、リシアはノエルを見た。
ノエルは振り返らない。
けれど、その背中は少し震えていた。
ロアムが灰色の札をさらに取り出す。
「不安定な声は、封じる」
その札が、今度はノエルへ向かって投げられた。
リシアは考えるより先に動いた。
声は出ない。
歌も出ない。
だが、歌詞帳は開いている。
彼女はページへ指を走らせ、浮かび上がった文字を掴むように意識を集めた。
声を閉じるなら、
鍵を奪わないで。
沈黙にするなら、
戻る道を残して。
歌ではない。
まだ声に出せない。
けれど、歌詞帳の文字が光った。
シルが肩から飛び降り、灰色の札の前へ躍り出る。
札はシルに触れる寸前で揺らいだ。
黒譜と同じように、シルを避けようとする。
そのわずかな隙に、ノエルが黒い譜面線を指先に走らせた。
攻撃ではない。
札の輪郭だけを切る。
灰色の札は空中で裂け、音もなく落ちた。
ノエルが低く言う。
「封じるなら、自分の口から先に閉じなよ」
「拒絶核候補は、やはり危険ですね」
ロアムの言葉に、リシアの胸が冷えた。
拒絶核候補。
王都の記録で見た言葉。
ノエルがその呼び方をされたことを、封譜派も知っている。
ノエルの顔から表情が消えた。
リシアは喉を押さえながら、一歩前へ出た。
声はまだ戻らない。
それでも、歌詞帳の文字は残っている。
リシアは無理に歌おうとしなかった。
代わりに、足元の白紙を拾う。
そこへ羽ペンで大きく書いた。
声を返す鍵は、持ち主へ。
それを掲げる。
市場の人々が読む。
読める。
声はなくても、文字は届く。
紙の町だからこそ、今は文字が声になる。
イゼルがリシアの掲げた紙を見る。
彼は自分の胸元から、姉の手紙を取り出した。
黒譜を剥がしたが、まだ読んでいない紙。
それを握りしめ、声の出ない口で何かを言う。
音はない。
だが、唇の形は分かった。
姉のものだ。
その瞬間、イゼルの喉元に貼りついていた灰色の光が少しだけ薄れた。
彼自身の声の持ち主を、彼が示したからだ。
紙屋の女性も、自分の胸元へ手を当てる。
口を動かす。
まだ、書けない。
箱の中の紙が、かすかに沈む。
封声印の輪が揺れる。
リシアは息を吸った。
ほんの少しだけ、声が戻っている。
完全ではない。
でも、一音なら出せる。
無理に歌えば喉を傷つける。
だから、歌ではなく、呼吸に近い短い旋律にした。
「ん……」
声にならない音。
それはエマが選んだ一音を、少しだけ思い出させた。
水鈴町で、沈黙の中から選ばれた一音。
リシアはその一音を、広場へ押しつけなかった。
ただ、自分の喉の鍵を確かめるように響かせる。
すると、歌詞帳の文字が淡く広がった。
声を閉じるなら、
鍵を奪わないで。
沈黙にするなら、
戻る道を残して。
人々はその文字を見た。
声が出ないまま、胸元や紙片や自分の喉に手を当てる。
自分の声は、自分のものだと示すように。
灰色の封声印が、少しずつ薄れていく。
ロアムの目が細くなった。
「歌わずに、声の所在を戻す」
彼はリシアを見た。
「危険な技術です」
リシアは喉の痛みをこらえ、かすれた声で答えた。
「奪う方が、危険です」
声は小さい。
それでも、確かに出た。
ノエルが横目でリシアを見る。
「今の、歌?」
「たぶん、歌になる前のものです」
「曖昧」
「曖昧なまま必要な時もあります」
ノエルはふん、と鼻を鳴らした。
けれど、否定はしなかった。
封声印は完全には消えていない。
箱の縁に灰色の輪が残り、市場のあちこちにも薄い気配がある。
ロアムはそれを回収することなく、踵を返した。
「今日の封査は中断します」
イゼルが声を取り戻しかけた喉で叫ぶ。
「逃げるのか」
「封じられなかった声は、次に徴収します」
ロアムは振り返らずに言った。
「白紙市は、声を持ちすぎている」
灰紐の者たちは、静かに広場を去っていく。
紙暖簾が再び動き始めた。
さらさらと、白紙市の音が戻る。
同時に、人々の声も少しずつ戻った。
咳き込む者。
泣き出す子ども。
誰かの名を呼ぶ母親。
市守が荒い息を吐き、紙屋たちが箱の周りへ駆け寄る。
イゼルは姉の手紙を胸に押し当てたまま、うつむいていた。
リシアは喉を押さえた。
痛む。
無理に声を出さなかったとはいえ、封声印に触れた影響は残っている。
シルが心配そうに肩へ戻る。
リシアの喉元に前足を置き、ちい、と小さく鳴いた。
「大丈夫」
声は掠れていた。
シルは納得していない顔をした。
ノエルが近くに立っている。
「大丈夫って、簡単に言わないで」
その言葉は、冷たい。
けれど、今のノエルには、少しだけ別の響きもあった。
心配に似たもの。
もちろん、本人は絶対に認めないだろう。
リシアは小さく頷いた。
「少し、痛いです」
「最初からそう言えばいい」
「はい」
ノエルは目を逸らした。
それから、広場の北側を見る。
「封譜派はしつこい。リュシカより面倒」
「あなたは、封譜派とも敵対しているんですか」
「どことも仲良くない」
ノエルはそう言った。
短く。
でも、それは本当なのだろう。
綴じる者からも、破る者からも、封じる者からも、ノエルはどこか外れている。
外れた場所で、自分の記録を抱えている。
リシアはその姿を見て、少しだけ胸が苦しくなった。
追わない。
踏み込まない。
でも、見捨てもしない。
その距離を、まだ探している。
広場の端に、灰色の札が一枚落ちていた。
ロアムが残したものだろう。
市守が拾おうとしたが、リシアは首を横に振った。
「触らないでください」
札には、封じられた譜線の印があり、その下に細い字が書かれていた。
未封声一覧、作成開始。
対象。
歌術師リシア・フェルミナ。
拒絶核候補ノエル・ヴァイス。
破譜派イゼル。
白紙市リュネア、未読箱。
リシアは札を見つめた。
声を綴じる者。
声を破る者。
声を封じる者。
それぞれが、それぞれの正しさで動いている。
そして今、リシアたちはその全員から、記録され、試され、封じられようとしている。
シルが低く鳴いた。
ちい。
リシアは掠れた声で答えた。
「うん。まだ終わってない」
白紙市の空には、午後の光が差していた。
紙暖簾はまた風に鳴っている。
だが、その音の下に、封じられかけた声の余韻がまだ薄く残っていた。
今回は、黒譜の民の別派閥として、封譜派が現れました。
記録派は、声を綴じて残そうとする。
破譜派は、黒譜に利用されるくらいなら燃やそうとする。
そして封譜派は、声そのものを封じようとする。
どれも、傷を広げないための考えではあります。
けれど、どれも行きすぎれば、誰かの選ぶ力を奪ってしまいます。
リシアは今回は、歌として完成する前の一音と、文字を使って、人々が自分の声の所在を取り戻す時間を作りました。
歌うこと。
歌わないこと。
書くこと。
声を持つこと。
白紙市リュネアでの問いは、さらに深まっていきます。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




