黒譜の民編 78話 未封声一覧
白紙市リュネアに、黒譜の民の封譜派が現れた。
封譜派のロアムは、声が動くから傷が動き、傷が動くから黒譜が増えると語り、町の声を封じようとする。
彼らが使った封声印によって、広場の人々は一時的に声を失った。
リシアは無理に歌わず、文字と歌になる前の一音を使い、人々が自分の声の所在を取り戻す時間を作る。
ノエルもまた、封譜派の札を切り裂き、声を封じるやり方へ拒絶を示した。
ロアムは去り際に、未封声一覧という札を残す。
そこには、リシア、ノエル、イゼル、白紙市の未読箱が対象として記されていた。
未封声一覧。
灰色の札に書かれたその文字は、広場の火鉢のそばに置かれていた。
誰も拾わない。
誰も破らない。
けれど、誰も目を離せない。
札はただの紙に見えた。黒譜紙のように黒い線がうねっているわけでも、リュシカの白い記録紙のように静かな圧を持っているわけでもない。
灰色。
薄く、乾いて、音を吸う色。
そこに、細い字で対象が並んでいる。
歌術師リシア・フェルミナ。
拒絶核候補ノエル・ヴァイス。
破譜派イゼル。
白紙市リュネア、未読箱。
リシアは喉に手を当てた。
声は戻っている。
ただ、まだ少し痛む。封声印に直接触れたわけではないが、声を出そうとした瞬間に喉を押さえ込まれた感覚が残っていた。
シルは肩の上で、灰色の札を睨んでいる。
小さな体なのに、まるで今にも札へ飛びかかりそうだった。
「触らないでね」
リシアが掠れ気味の声で言うと、シルは不満そうに鳴いた。
ちい。
分かっているけど気に入らない。
そういう顔だった。
イゼルは腕を組んだまま、札を見下ろしている。
「燃やす」
彼は短く言った。
紙屋の女性が顔を上げる。
「またそれ?」
「これは燃やしていいだろ。誰かの手紙じゃない。封譜派の札だ」
確かに、その札は誰かの預けた言葉ではない。
ロアムたちが残したものだ。
だが、リシアはすぐに頷けなかった。
「燃やしたら、対象が消えるとは限りません」
「残しておけば、あいつらに目印を渡すだけだ」
「だから、確かめます」
「確かめている間に封じられる」
イゼルの声には苛立ちがあった。
その奥で、心歌が短く揺れる。
『姉の紙みたいに、また奪われる前に』
リシアはその声を聞いた。
でも、返さない。
イゼル自身が姉の手紙を胸に抱えている。その重みを、リシアが歌に変える必要はない。
広場の端では、市守たちが市の長を呼びに走っていた。紙屋たちは箱の周囲を囲み、誰も近づかないようにしている。封声印の影響を受けた子どもが、母親の服を掴んで小さく咳をしていた。
声は戻った。
だが、声を出すことへの怖さまでは戻っていない。
ノエルは火鉢から少し離れた場所に立っている。
未許可記録を抱え、灰色の札を冷たい目で見ていた。
「燃やしても、たぶん無駄」
ノエルが言った。
イゼルが睨む。
「どうして分かる」
「封譜派は、札を残して対象を決めるんじゃない。対象を決めたから、札が残る」
「同じことだろ」
「違う。札は目印じゃなくて、控え」
ノエルは灰色の札を指す。
「本書は別にある。これを燃やしても、封譜派の帳面には残る」
広場に沈黙が落ちた。
リシアはロアムの言葉を思い出す。
未封声一覧、作成開始。
作成開始。
つまり、この札は始まりにすぎない。
封じる対象は、これから増える。
紙屋の女性が喉を押さえながら言った。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
誰もすぐには答えなかった。
その時、白い紙暖簾の向こうから、リュシカが現れた。
白い外套。
白に近い灰色の髪。
手には、いつものように白い帳面を持っている。
市場の空気がさらに複雑になる。
リュシカを恐れる者。
怒る者。
頼りたいと思ってしまう者。
それぞれの視線が、白綴じの女へ向いた。
リュシカは広場に残された灰色の札を見下ろした。
「封譜派の副控えですね」
「記録するなよ」
イゼルが低く言う。
「既に記録されています」
「そういう意味じゃない」
リュシカは少し考える。
「では、追記します」
「やっぱり記録するんじゃないか」
「記録はします。ただし、封譜派の分類をそのまま残す必要はありません」
リシアはリュシカを見た。
「どういうことですか」
「記録は、追記によって性質が変わります。封譜派はこれを未封声と分類した。ならば、それが不正確であることを本人たちが追記すればいい」
ノエルが冷たく言う。
「本人の声を封じる連中に、本人の追記が通ると思う?」
「完全には通りません」
「じゃあ意味ない」
「意味がない記録はありません」
リュシカは淡々と返した。
ノエルは嫌そうな顔をする。
リシアは二人の間に入り、灰色の札を見た。
「本人が追記する」
それは、昨日ノエルが自分の記録に「未許可」「読むな」と書いたことに近い。
封譜派が勝手に分類した声へ、持ち主が自分の意思を追記する。
完全に消せなくても、封譜派だけの記録にはしない。
「できますか」
リシアが尋ねると、リュシカは頷いた。
「危険はあります。札は声に反応します。名前を書けば、対象としての輪郭も強まる」
イゼルが舌打ちした。
「やっぱり罠じゃないか」
「ただし、声の所在を本人側へ戻すこともできます」
リュシカはリシアを見る。
「先ほど、あなたが文字と一音で行ったことと似ています」
リシアは喉の痛みを思い出した。
封じられかけた声を、持ち主へ戻す。
歌ではなく、文字。
声ではなく、手。
紙の町だからできる方法かもしれない。
リシアは市守へ声をかけた。
「白紙を用意できますか。なるべく厚い紙を」
市守は戸惑いながらも頷いた。
紙屋たちがすぐ動く。
白紙市の人々は、紙のことになると早かった。厚手の白紙、薄青の手紙紙、丈夫な麻紙、封蝋、白と茶色の紐。次々に広場へ運ばれてくる。
シルはその中から、なぜか薄茶の紐を一本くわえてきた。
リシアは少し笑いそうになる。
「また紐?」
ちい。
必要。
シルは真剣だった。
ノエルがその紐を見て、少しだけ目を逸らす。
自分の記録を結んだ菓子の紐を思い出したのだろう。
リシアはシルから紐を受け取り、灰色の札の横へ置いた。
「これは、封じるための紐ではありません。ほどけるように結ぶための紐です」
リュシカがすぐに帳面へ何かを書こうとした。
ノエルが睨む。
「今のも記録する気?」
「重要な定義です」
「やめて」
リュシカは少し考え、帳面を閉じた。
「では、後で」
「後でもやめて」
シルが小さく鳴いた。
どこか呆れているようだった。
その短いやり取りで、広場の緊張がほんの少しだけ緩む。
リシアは灰色の札の前に膝をついた。
「まず、私から書きます」
イゼルが止めようとした。
「危ないんじゃないのか」
「危ないです」
リシアは正直に答えた。
「でも、私の名前がもう書かれています。なら、封譜派だけの言葉にしない方がいい」
羽ペンを持つ。
灰色の札へ直接書くのではなく、白紙へ書いた。
リシア・フェルミナ。
この声は、封じる対象ではない。
歌う時も、歌わない時も、私が選ぶ。
書いた瞬間、灰色の札がかすかに震えた。
リシアの喉に、再び圧迫感が戻る。
シルが鋭く鳴いた。
ちいっ。
リシアは息を吸い、焦らず吐いた。
歌わない。
まだ。
封声印は声を狙う。
だからまず、呼吸を整える。
歌詞帳が胸元でかすかに温かくなる。
ページを開かなくても、今は分かった。
自分の声を急いで証明しなくていい。
声は、そこにある。
リシアの喉の圧迫感が少し薄れる。
灰色の札の「歌術師リシア・フェルミナ」の文字の横に、小さな白い点が浮かんだ。
消えたのではない。
追記された印だ。
リュシカが目を細める。
「通りましたね」
「本書にも届いたと思いますか」
「少なくとも、反応はしたでしょう」
次に、イゼルが前へ出た。
彼は姉の手紙を胸元に入れたまま、白紙を受け取る。
しばらく何も書かなかった。
「何て書けばいい」
「あなたの言葉で」
リシアが言うと、イゼルは苦い顔をした。
「それが一番困る」
彼は羽ペンを握り直す。
何度も書き出そうとして、止めた。
やがて、短く書く。
イゼル。
姉の声は、俺が読むまで誰にも渡さない。
読みたくなる日まで、燃やさない。
燃やす日が来ても、俺が決める。
書き終えた後、彼は深く息を吐いた。
灰色の札がまた震える。
今度は火鉢の火が揺れた。
封譜派の札は、イゼルの追記を嫌がっているように見えた。
だが、文字は消えなかった。
「破譜派イゼル」の横に、白い点が灯る。
イゼルはそれを見て、何とも言えない顔をした。
「……燃やす日が来ても、俺が決めるって、変だな」
「変じゃありません」
リシアは言った。
「燃やさないと決めたわけではなく、今は決めないと決めたんです」
イゼルは少しだけ目を伏せる。
「面倒な言い方だ」
「はい」
「でも、今はそのくらいでいい」
彼は火鉢から少し離れた。
ノエルは、白紙を受け取ろうとしなかった。
リシアも無理に差し出さない。
ただ、灰色の札の中にある「拒絶核候補ノエル・ヴァイス」の文字が、じわりと濃くなっているのが見えた。
本人が追記しないなら、封譜派の分類が強まる。
そういう仕掛けなのかもしれない。
ノエルも気づいている。
唇を噛み、外套の内側の帳面を握っていた。
リシアは声をかけるか迷った。
急かせば、封じる側と同じになる。
でも、何も言わなければ、札はノエルを対象として固めていく。
その時、ノエルの胸の奥から、かすかな心歌が聞こえた。
『名前を書いたら、また捕まる』
リシアは息を止めた。
そうか。
ノエルにとって、名前を書くことは自分を示すことではない。
捕まることなのだ。
王都の記録。
拒絶核候補。
対象N。
記録に書かれた名前が、彼女を救わなかった。
むしろ、追い詰めた。
リシアは白紙を一枚取り、自分の前に置いた。
「名前を書かなくてもいいと思います」
ノエルがリシアを見る。
リュシカも少し顔を上げた。
「分類に対抗するには、本人識別が必要です」
「本人が名前を書きたくないなら、別の印でもいいはずです」
「精度が落ちます」
「封じられるよりいい」
リシアは短く返した。
ノエルは黙っている。
リシアは白紙をノエルの方へ滑らせた。
「書かなくてもいいです。破ってもいい。持っていくだけでもいい」
ノエルはしばらくその白紙を睨んでいた。
やがて、羽ペンを取らずに、指先で紙の端を折った。
一度。
もう一度。
小さな折り目ができる。
文字ではない。
名前でもない。
けれど、彼女が自分でつけた印だった。
ノエルはその折り目の入った白紙を、灰色の札のそばへ置く。
「これでいい」
リュシカが何か言いかけた。
リシアが先に言う。
「はい」
灰色の札が震えた。
「拒絶核候補ノエル・ヴァイス」の文字が、濃くなりかける。
だが、折り目の入った白紙から、薄い光がふっと浮いた。
文字ではない。
音でもない。
拒絶の形に近い、静かな線。
灰色の札の文字の横に、白い点ではなく、小さな折り目の印が現れた。
ノエルは目を細める。
「……通った」
リュシカが小さく呟く。
「非文字印による本人意思表示。要記録」
「しないで」
ノエルが即座に言う。
リュシカはほんの少し残念そうに帳面を閉じた。
次は、未読箱だった。
これは人ではない。
だが、札には対象として記されている。
白紙市リュネア、未読箱。
町そのものの声を封じるための対象だ。
市守、市の長、紙屋たちが集まる。
誰が書くのか。
誰が町の意思を示すのか。
その場で少し揉めかけた。
市の長は、自分が書くと言う。
紙屋たちは、箱に紙を預けた人々の同意がいると言った。
イゼルは、また待っている間に封じられると苛立った。
リシアは静かに聞いていた。
ここでリシアが決めてはいけない。
町の箱は、町の人々が決めるものだ。
やがて、紙屋の女性が言った。
「一枚ずつ、白紙を重ねましょう」
「一枚ずつ?」
「箱に預けた人が名乗れるなら名乗る。名乗れない人は、紙だけ置く。市の長は、その上に町の保管印を押す。市守は、箱を守る印を添える」
市の長は少し考え、頷いた。
「時間がかかる」
イゼルが言う。
紙屋の女性は答える。
「この町は、時間がかかる言葉を預かる町です」
その一言で、広場が静かになった。
リシアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
星見台でサリアが札を書いた時と同じだ。
リシアが出した答えではない。
町の人が、自分たちの言葉で決めた。
白紙が一枚ずつ箱の前に置かれていく。
名前を書く人もいる。
何も書かない人もいた。
折り目だけつける人もいた。
封蝋を落とす人も、子どもの手形を押す人もいた。
市の長が最後に、町の保管印を押す。
市守がその横に、守護の印を添える。
リシアはその様子を見ながら、喉の奥に残る痛みを感じていた。
歌うなら、今だと思った。
人々が自分で意思を置いた。
リシアの歌は、その上から答えを与えるものではなく、それぞれの印が封譜派の札に奪われないよう、一時的に守るものならいい。
彼女は歌詞帳を開いた。
今度は、広場の人々も身構えなかった。
少しだけ不安そうではある。
でも、耳を塞ぐ人はいない。
リシアは短く歌う。
「名を書ける人に、名を。
名を書けない人に、余白を。
声にできる人に、声を。
声にできない人に、手の印を。
誰かの札が決める前に、
あなたの場所を、あなたのそばへ。」
歌は広がりすぎないようにした。
広場全体を包むのではなく、白紙の束と灰色の札の間だけに置く。
守護詩。
人々の意思表示を、封譜派の分類から一呼吸だけ守る歌。
灰色の札が強く震えた。
対象の文字が滲む。
歌術師リシア・フェルミナ。
拒絶核候補ノエル・ヴァイス。
破譜派イゼル。
白紙市リュネア、未読箱。
その横に、白い点、折り目、保管印、手形が浮かぶ。
封譜派の分類だけでは、もう読み切れない。
札の灰色が薄くなっていく。
燃えたわけではない。
消えたわけでもない。
ただ、封譜派の一方的な一覧ではなくなった。
リュシカが静かに言った。
「未封声一覧、分類不成立」
ノエルが少しだけ口元を歪める。
「いい気味」
イゼルは灰色の札を見下ろし、火鉢へ投げ込もうとして、止めた。
リシアを見る。
「これは?」
「燃やすかどうかは、町とあなたたちで決めてください」
市の長が言った。
「保管する。封譜派の札としてではなく、この市が拒んだ記録として」
リュシカが反応しかける。
市の長が先に釘を刺した。
「白綴じ書庫ではなく、市守の公開保管庫に置く。誰でも存在を確認できるが、勝手に持ち出せない場所だ」
リュシカは少しだけ黙った。
「妥当です」
イゼルは不満そうだったが、火鉢へ投げ込むことはしなかった。
ノエルは折り目の入った白紙を回収した。
「持っていくんですか」
リシアが尋ねると、ノエルは睨む。
「私のだから」
「はい」
ノエルはその返事にまた少し不満そうな顔をした。
だが、紙を捨てずに外套へしまった。
広場に少しずつ声が戻る。
話し合いの声。
紙を運ぶ音。
子どもの笑い声。
火鉢の炭が崩れる音。
シルはリシアの肩で力を抜いた。
歌の途中から、ずっと前足で歌詞帳の端を押さえていたらしい。
「ありがとう」
リシアが言うと、シルは目を細めた。
ちい。
その時、空から一枚の細い灰紙が落ちてきた。
誰も投げていない。
風もない。
紙はリシアの足元に落ちる。
そこには、ロアムのものと思われる細い字があった。
分類不成立を確認。
次回、声源を直接封査する。
ノエルがその紙を見て、舌打ちした。
「しつこい」
イゼルが拳を握る。
「直接来るってことか」
リュシカは静かに言う。
「封譜派は、一覧が使えないなら本人へ向かいます」
リシアは喉に手を当てた。
痛みはまだ残っている。
次にロアムが来る時は、札ではなく、声そのものを封じに来るかもしれない。
白紙市の人々は、自分たちの声の所在を示した。
だからこそ、次はその声を狙われる。
リシアは歌詞帳を閉じた。
ここで終わりではない。
むしろ、白紙市リュネアは今、自分たちの声を持つと決めたばかりなのだ。
シルが低く鳴く。
ちい。
リシアは頷いた。
「うん。守るためじゃなく、選べるように」
ノエルが横で小さく言った。
「綺麗ごと」
リシアは彼女を見る。
ノエルは灰紙から目を離さない。
「でも、封じられるよりはまし」
その一言だけを残し、ノエルは広場の人混みの中へ歩いていった。
リシアは追わなかった。
ただ、その背中が完全に消えるまで見送った。
白紙市の紙鳴りは、夕方の風に揺れている。
さっきよりも少し、音が戻っているように聞こえた。
まだ弱い。
まだ怖がっている。
でも、封じられてはいない。
その音を聞きながら、リシアは次に来る封譜派の影を待つ覚悟を、静かに胸の中へ置いた。
今回は、封譜派が残した「未封声一覧」をめぐる回でした。
封譜派は、人の声を危険なものとして分類し、封じようとします。
それに対して、リシアたちは札を燃やすのではなく、持ち主自身の追記によって、封譜派だけの分類にしない道を選びました。
名前を書ける人は名前を。
書けない人は余白を。
声にできる人は声を。
声にできない人は手の印を。
リシアの歌は、その選択を押しつけるためではなく、それぞれの印が奪われないよう守るために使われました。
けれど、封譜派はまだ諦めていません。
次は、声源を直接封査する。
白紙市の声をめぐる対立は、もう少し続きます。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




