黒譜の民編 76話 破る者たち
リシアは白綴じ書庫で、記録派のリュシカと向き合った。
リュシカは、歌われなかった声や書けなかった言葉を保存しようとする者だった。
だが、その保存は本人の許可とは関係なく行われる。
その時、ノエル・ヴァイスの未許可記録が開きかけた。
リシアはノエルの過去を知りたい気持ちを抱えながらも、本人不在で読むことを拒み、短い歌で記録を閉じる。
現れたノエルは、自分の記録に「未許可」「読むな」と書き、自分で持つことを選んだ。
燃やすのでも、リュシカに綴じられるのでもなく、今は自分で持つ。
そしてリシアは、書庫の奥にアイシャ・リーヴェルトを思わせる未唱記録の影を見る。
白綴じ書庫を出ても、紙の匂いはしばらくリシアの服に残っていた。
乾いた白紙。
古い糊。
黒い糸。
閉じられた封書。
それらの匂いが、胸の奥に小さな重みを残している。
リシアは市場へ戻る途中、何度か鞄へ手を伸ばしかけた。
中には、差出人不明の白い封書がある。
黒い糸で閉じられ、端に淡い青の染みがある封書。
リュシカは、一人では開けない方がいいと言った。
記録が、リシア一人の声を欲しがるかもしれないから。
その言葉を思い出すたび、リシアの指は鞄の手前で止まった。
今は開けない。
そう決めたはずなのに、開けないと決めたものほど、存在が大きくなる。
シルは肩の上でじっとしていた。
星形菓子を包んでいた紐は、ノエルの記録を結ぶために渡してしまった。だから今のシルは、少しだけ空になった前足を見つめている。
「紐、よかったの?」
リシアが聞くと、シルは小さく鳴いた。
ちい。
よかった。
そう言っている顔だった。
けれど、少し寂しそうでもある。
リシアは指先でシルの頭を撫でた。
「ありがとう」
シルは照れたように耳を伏せた。
市場の中央へ戻ると、先ほどまでの騒ぎは一応収まっていた。
「まだ書けない言葉の箱」の周囲には縄が張られ、市守が二人立っている。紙屋たちは集まって話し合いをしていた。箱を封鎖するのか、別の場所へ移すのか、それとも今まで通り広場に置くのか。
誰もすぐには決められない顔だった。
それでいいのかもしれない。
急いで決めると、誰かの言葉をまた置き去りにする。
リシアがそう思った時、広場の端で人が集まっているのが見えた。
怒号ではない。
けれど、低く押し殺した声が重なっている。
その中心にいたのは、前に黒譜紙を破ろうとして市守に捕まった若い男だった。
彼は、散らばっていた黒譜紙を集めていた。
市守へ渡すためではない。
火鉢の前に置いている。
周囲には、同じように黒い紙片を持った人々が数人いた。年齢も服装もばらばらだ。紙職人らしい者、旅装の女、腕に包帯を巻いた男、まだ若い少年。
彼らの手元には、同じ印があった。
裂けた五線。
五本の譜線が、中央で断ち切られた形。
リシアはその印を見て、足を止めた。
若い男が火打ち石を持つ。
「やめてください」
リシアは声をかけた。
男は振り返る。
目の下に濃い疲れがある。
「またあんたか」
「燃やすつもりですか」
「見れば分かるだろ」
彼は火打ち石を握りしめた。
「リュシカに綴じられるくらいなら、ここで灰にする」
その声の奥から、心歌が漏れた。
『姉の声を、誰かの本にされるくらいなら』
リシアは胸が痛んだ。
姉。
前に、彼は言っていた。
箱に姉の言葉があると。
死ぬ前に書こうとして、書けなかった紙だと。
「あなたの名前を聞いてもいいですか」
「今それが必要か?」
「呼ぶために必要です」
男は少しだけ眉を寄せた。
それでも、答えた。
「イゼル」
「イゼルさん」
リシアは火鉢から少し距離を置いたまま言う。
「燃やしたい気持ちは分かります。でも、その紙には黒譜だけでなく、誰かの言葉の痕が混ざっているかもしれません」
「だから燃やすんだ」
イゼルの声が荒くなる。
「痕なんか残るから、あいつらに拾われる。残っているから綴じられる。だったら残さない方がいい」
周囲の数人が頷いた。
紙職人らしい女が、黒い紙片を握りしめる。
「白紙市は、預ける町だった。でも、預けたものを勝手に開かれるなら、預けない方がいい」
包帯の男も言う。
「黒譜紙は燃やす。綴じさせない。それが破譜派のやり方だ」
破譜派。
リシアはその名を胸の中で繰り返した。
綴じるリュシカ。
破る者たち。
ノエルは、どこにも属したくないと言った。
黒譜の民の内側で、それぞれが違う方法で歌と声に向き合っている。
イゼルは火打ち石を打とうとした。
シルが肩から飛び降りる。
ちいっ!
小さな体で火鉢の前に立つ。
イゼルが目を見開いた。
「リスまで止めるのか」
シルは胸を張った。
しかし、火鉢の熱が少し怖いのか、尻尾はリシアの方へ逃げている。
その姿に、周囲の少年が一瞬だけ笑いかけた。
だが、すぐに表情を戻す。
笑える状況ではないと、自分で思い直したようだった。
リシアは火鉢の前へ一歩進んだ。
「紙を見せてください」
「触るな」
「触れません。見ます」
「歌術師が見ると、歌になる」
イゼルの言葉は鋭かった。
リシアはそれを否定しなかった。
「だから、歌にしないようにします」
「信じろって?」
「信じなくていいです。見張っていてください」
イゼルは唇を噛んだ。
やがて、黒譜紙の一枚を地面に置いた。
リシアは膝をつき、手を伸ばさずに紙を見た。
黒い譜面線。
端に残る淡い文字。
何度も折られた跡。
これは、ただの黒譜紙ではない。
もともとは手紙紙だった。
誰かが何かを書こうとして、途中でやめた紙。
そこへ後から黒譜の線が入り込んでいる。
リシアは残響歌を深く開かないように、ほんの表面だけに耳を澄ませた。
指では触れない。
心でも踏み込みすぎない。
紙の端に残る、ごく薄い温度だけを拾う。
雨の夜。
震える手。
書き出しだけが見える。
イゼルへ。
その先は黒く潰れていた。
リシアは息を止めた。
見てしまった。
けれど、読んだのは一行だけだ。
それ以上は追わない。
「これは、あなた宛ての手紙だった可能性があります」
リシアが言うと、イゼルの顔色が変わった。
「読むな」
「読みません」
「今読んだだろ」
「宛名だけです。内容は読みません」
イゼルの手が震える。
火打ち石を握る指が白くなる。
彼の心歌が、また微かに聞こえた。
『読みたい。読みたくない。燃やしたい。燃やせない』
リシアはその心歌を言葉にしなかった。
ただ、火鉢と紙の間に立つ。
「黒譜だけを剥がせるか、試させてください」
破譜派の女が眉を寄せる。
「そんな都合のいいことができるの?」
「必ずとは言えません」
「失敗したら?」
「その時は、あなたたちが選んでください。燃やすか、残すか」
イゼルがリシアを見る。
「今すぐ燃やさない理由が、どこにある」
「黒譜に奪われたものを、黒譜ごと消す前に、一度だけ分けられるか確かめたい」
リシアは静かに言った。
「それでも燃やすなら、あなたの選択です」
周囲が沈黙した。
イゼルは火打ち石を下ろした。
「一度だけだ」
リシアは頷いた。
歌詞帳を開く。
広場の紙が、わずかに震えた。
市場の人々が身構える。
リシアはその反応を見て、自分の歌がこの町でどれだけ警戒されているかを改めて感じた。
当然だ。
ここでは、声も紙も奪われかけている。
歌がそこへ触れれば、誰かはまた奪われると思う。
だから、強く歌ってはいけない。
リシアは息を吸い、小さく歌った。
「燃えろとは言わない。
消えろとも言わない。
黒く絡んだ線だけ、
紙の白さから、指をほどいて。
残るものが痛みなら、
痛みのまま、持ち主へ返して。」
歌は短かった。
炎を消す歌ではない。
怒りを鎮める歌でもない。
黒譜の線と、もとの紙の痕を分けるための歌。
守護詩に近い。
紙を守るのではなく、持ち主が選ぶための一呼吸を守る歌だった。
黒い譜面線が紙の上で震えた。
広場にいる者たちが息を呑む。
黒譜線は嫌がるように波打ち、紙の繊維から少しだけ浮き上がった。
その瞬間、シルが前足で紙の端を押さえた。
黒い線はシルの前足を避ける。
細い隙間ができる。
リシアは歌詞帳のページを片手で押さえながら、もう片方の手で布を取り、黒譜線だけを慎重につまんだ。
冷たい。
指先が痺れる。
だが、紙の奥まで食い込んでいたわけではない。
剥がせる。
少しずつ。
リシアは息を乱さないように、歌の余韻を細く保つ。
黒譜線が剥がれるたび、紙の文字がかすかに見えた。
読まない。
内容へ目を落とさない。
宛名以外は、イゼルのものだ。
黒い線をすべて剥がすと、紙は白く戻ったわけではなかった。
ところどころ墨が滲み、文字も欠けている。
完全には戻らない。
それでも、黒譜の冷たさは消えていた。
リシアは紙を畳まず、イゼルの前へ差し出した。
「読めるかどうかは分かりません」
イゼルは動かない。
「読みたくなければ、読まなくていいです」
彼の喉が鳴った。
手を伸ばす。
途中で止まる。
また伸ばす。
紙に触れた瞬間、イゼルの顔が歪んだ。
彼は読まなかった。
ただ、紙を胸に押し当てた。
声は出なかった。
周囲の破譜派たちも黙っている。
紙職人の女が、自分の黒譜紙を見る目を変えた。
「全部、分けられるの?」
リシアは首を横に振った。
「分かりません。黒譜が深く入り込んだものは、無理かもしれません。分けようとして、壊してしまうものもあると思います」
「それでも」
女は紙を握りしめる。
「燃やす前に、分けられるか見たい」
その声に、ほかの者たちも少しずつ頷いた。
火鉢の前にあった黒譜紙が、一枚ずつ地面へ置かれる。
燃やすためではなく、確かめるために。
リシアは深く息を吐いた。
これは解決ではない。
作業が増えただけだ。
苦しみも消えない。
読めない紙も、読まない紙も、燃やしたい紙も残る。
でも、火に投げ込む前の一呼吸が生まれた。
それは小さくても、今は必要なものだった。
その時、市場の屋根の上から声がした。
「ずいぶん面倒なことをするのね」
リシアは顔を上げた。
ノエルが屋根の縁に座っていた。
外套の下に、薄茶の紐で結ばれた帳面を抱えている。
自分の未許可記録。
彼女はそれを持ったまま、広場を見下ろしていた。
「燃やせば早い」
ノエルは言った。
イゼルが睨む。
「お前も黒譜の民だろ」
「だったら?」
「なら、降りてきて謝れ」
ノエルの目が冷える。
「誰に」
「黒譜に傷つけられた全員にだ」
場の空気が硬くなる。
リシアは二人の間へ視線を動かした。
ノエルの胸の奥から、短い心歌が漏れた。
『私も、その全員の中にいる』
リシアはその声を聞いた。
でも、言わなかった。
ノエル自身が口にしない限り、それはリシアが代わりに掲げていい言葉ではない。
ノエルは屋根から飛び降りた。
着地は静かだった。
彼女はイゼルへ近づく。
「謝れと言われて謝るくらいなら、歌なんて憎んでない」
「何だと」
「あなたは燃やしたい。リュシカは綴じたい。エルバは試したい。みんな、自分の痛みの扱い方を他人にも押しつける」
ノエルの視線がリシアへ向く。
「歌術師も、気を抜けば同じ」
リシアは頷いた。
「はい」
ノエルは少しだけ眉を寄せた。
その素直な返事が、気に入らなかったらしい。
「でも、今日は分けた」
ノエルはイゼルの手元の紙を見る。
「燃やす前に、黒譜と紙を分けた。それは……少しだけ、まし」
イゼルは何も言わなかった。
怒りは消えていない。
だが、彼もまた、ノエルがただ加害側に立っているわけではないことを、少しだけ感じ取ったのかもしれない。
リシアはノエルの腕の中の帳面へ目を向けた。
「持っているんですね」
「見るな」
「見ていません」
ノエルは帳面を外套の内側へ隠した。
「まだ燃やしてないだけ」
「はい」
「読んでもない」
「はい」
「重い」
最後の一言だけ、少しだけ子どものようだった。
リシアは胸が痛くなったが、笑わなかった。
「持つのは、重いです」
ノエルは目を逸らす。
「あなたに言われなくても分かってる」
その時、広場の端で紙が一枚舞い上がった。
白い紙。
黒い線で短い文が書かれている。
リシアは身構える。
紙はゆっくりと火鉢の上を通り、イゼルの足元に落ちた。
イゼルは拾わなかった。
リシアも触れない。
シルが低く鳴く。
紙に書かれていたのは、リュシカの文字だった。
破る者も、記録に値する。
市場の奥。
白い紙暖簾が一瞬だけ揺れた。
リュシカの姿はない。
けれど、彼女が見ていることだけは分かった。
ノエルが舌打ちする。
「本当に嫌な女」
イゼルが紙を睨む。
「記録するな」
彼の声は低かった。
リシアは紙を見つめる。
綴じる者。
破る者。
どこにも属したくない者。
そして、その間で歌をどう使うかを問われているリシア。
黒譜の民編は、まだ始まったばかりだ。
火鉢の火は、まだ消えていない。
けれど、その前に積まれた紙は、燃やされるのを少しだけ待つことになった。
リシアは歌詞帳を閉じる。
今日の歌は、誰かを救いきったわけではない。
ただ、燃える前に、一度だけ分ける時間を作った。
それで十分なのかは分からない。
けれど、何もしないよりは、少しだけましだと思えた。
シルがリシアの肩へ戻ってくる。
その前足は、黒譜線を避け続けたせいか、少し震えていた。
リシアはそっとその足に触れる。
「頑張ったね」
ちい。
シルは小さく鳴いた。
今度の声には、少しだけ疲れが混じっていた。
今回は、黒譜を綴じる者とは別に、黒譜を破ろうとする者たちが登場しました。
破譜派。
彼らは黒譜に傷つけられ、声を綴じられるくらいなら燃やした方がいいと考えています。
けれど、黒譜紙の中には、誰かの手紙や言葉の痕が混ざっていることもあります。
リシアは今回は短い歌を使い、黒譜の線と紙そのものを分ける時間を作りました。
燃やすか、残すか。
その選択は、リシアではなく、持ち主に残されます。
ノエルもまた、自分の記録を抱えたまま、破る者たちと向き合いました。
綴じること。
破ること。
持つこと。
どれが正しいのか、まだ答えは出ていません。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




