黒譜の民編 75話 ノエル・ヴァイスの白紙
リシアは白紙市リュネアの白綴じ書庫で、黒譜の民の記録派、白綴じのリュシカと出会った。
リュシカは、歌われなかった声や、書けなかった言葉を保存しようとする者だった。
だが、その保存は本人が望んだかどうかに関係なく行われる。
リシアは、残すことと奪うことの境目を問い、リュシカは、歌術師の歌もまた人の心歌を形にしているのではないかと問い返した。
その時、書庫の奥で一冊の帳面が落ちる。
表紙に浮かんだ名は、ノエル・ヴァイス。
帳面はひとりでに開きかけ、ノエルに似た声が漏れ出した。
リシアは、本人がいない場所でその記録を読んでいいのか、選択を迫られる。
白い帳面は、床の上でゆっくりと開いていった。
黒い糸がほどけ、表紙が浮き上がる。
ノエル・ヴァイス。
その名が、白い表紙の上に淡く滲んでいる。
リシアは動けなかった。
知りたい。
その気持ちは、確かにあった。
ノエルがなぜ歌を憎むのか。
なぜ黒譜の民にいたのか。
なぜリシアの歌を、命令より残酷だと言ったのか。
ずっと分からなかった問いの一部が、今、目の前で開こうとしている。
けれど、ノエル本人はここにいない。
彼女が渡した記録ではない。
彼女が読んでほしいと差し出したものでもない。
それを読むことは、リシアがこれまで学んできたものと真逆の行為だった。
帳面のページから、冷たい風が漏れる。
紙の匂い。
雨の匂い。
古い薬草と、煤のような匂い。
そして、少女の声。
『歌なんて、なければよかった』
リシアの胸が痛んだ。
ノエルの声に似ている。
けれど、本物かどうかは分からない。
記録は、声に似たものを作れる。
星見台がそうだった。
白綴じ書庫も、同じ危うさを持っている。
リュシカは机の前に立ったまま、帳面を見ていた。
表情はほとんど動かない。
だが、先ほどよりも目が細い。
彼女にとっても、この帳面が勝手に開くのは予定外なのだろう。
「記録が、先に開こうとしている」
リュシカは静かに言った。
「未綴じのまま、これほど強く反応するのは珍しい」
「閉じてください」
リシアは言った。
声は思ったより硬かった。
リュシカがリシアを見る。
「読まないのですか」
「読みません」
「あなたは、知りたがっていた」
「知りたいことと、読んでいいことは違います」
帳面のページが一枚めくれた。
誰も触れていない。
白い紙の上に、黒い文字ではなく、灰色の影が浮かぶ。
細い雨。
木の扉。
幼い手。
誰かの背中。
場面になる前の断片が、紙の上を滑っていく。
リシアは目を逸らしかけた。
だが、完全に逸らすと、何が起きているか分からない。
見ないふりをするのとも違う。
読むためではなく、止めるために見る。
その距離を保とうとして、彼女は両手を握った。
ページの奥から、また声が漏れた。
『大丈夫って、歌わないで』
リシアは息を呑んだ。
その一言だけで、ノエルの傷の形が少し見えてしまう。
大丈夫。
励ましの言葉。
誰かを支えるはずの言葉。
けれど、それがノエルには刃になった。
もっと聞けば、分かるかもしれない。
もっと読めば、彼女を理解できるかもしれない。
そう思った瞬間、リシアは自分の危うさに気づいた。
理解したいという気持ちも、相手の扉をこじ開ける理由になる。
リシアは一歩下がった。
シルが足元へ寄り添う。
青いリボンが白い書庫の中で小さく揺れた。
「リュシカ」
リシアは帳面から目を離さずに言う。
「この記録は、どうやって作ったんですか」
「私が作ったものではありません」
「では、誰が」
「破棄された黒譜紙の断片です。複数の場所で拾われた、同じ声の痕を仮に束ねました」
「本人の許可は」
「ありません」
リュシカは隠さなかった。
その正直さが、かえって恐ろしかった。
「許可がないなら、開くべきではありません」
「許可を待っている間に、失われる声もあります」
「失われることと、奪って残すことは違います」
リュシカは少しだけ首を傾けた。
「あなたは、失われた声を探す旅をしている」
「はい」
「それでも、失われる前に保存することを拒むのですか」
「保存する人を、本人以外が勝手に決めることを拒んでいます」
リシアの声は震えていた。
リュシカの問いは、簡単に退けられるものではない。
彼女は残酷なだけの敵ではない。
消される声を、本気で恐れている。
勝者の歌だけが残ることを、誰よりも嫌っている。
だからこそ、危うい。
正しい痛みを抱えた人ほど、他人の痛みを自分の方法で守ろうとしてしまう。
リシア自身もそうだった。
帳面のページがさらにめくれた。
今度は、幼い少女の手が見えた。
薄い青の髪。
濡れた袖。
扉の向こうから聞こえる歌。
『夜明けまで、耐えよう』
声は大人たちのものだった。
優しい旋律。
けれど、どこか硬い。
逃げるための歌ではない。
踏みとどまるための歌。
その一節だけで、リシアは喉の奥が詰まるのを感じた。
見てはいけない。
これ以上は。
ノエルが自分で語るまで、リシアが勝手に過去の輪郭を作ってはいけない。
リシアは歌詞帳を取り出した。
リュシカの目がわずかに動く。
「歌いますか」
「少しだけ」
リシアは答えた。
「でも、読むためじゃありません。閉じ込めるためでもありません」
歌詞帳を開く。
白い書庫の空気が、すぐに反応した。
棚の封書がかすかに震える。
未唱記録の帳面たちが、歌術師の声を待つように静まった。
リシアはそれが怖かった。
歌えば、この場所は必ず拾おうとする。
ならば、歌は短く。
届かせる先を、帳面ではなく、境界にする。
ページに、細い文字が浮かぶ。
まだ、名を閉じない。
まだ、声を決めない。
持ち主の手へ戻るまで、
白紙は白紙のままでいい。
リシアはその四行だけを、小さく歌った。
旋律は低く、短い。
救う歌ではない。
慰める歌でもない。
帳面の中身を消すための歌でもない。
ただ、開きかけた扉の前に、手を置くような歌だった。
白い書庫に、柔らかな沈黙が落ちる。
帳面のページの動きが止まった。
漏れ出していた声が、少しずつ遠ざかる。
『歌なんて』という声も。
『大丈夫って』という声も。
雨の匂いも、扉の影も、すべて紙の奥へ戻っていく。
消えたわけではない。
閉じ込めたわけでもない。
ただ、今はここで開かないと決めた。
帳面の表紙が、静かに閉じる。
黒い糸は勝手には結ばれなかった。
代わりに、表紙の上へ新しい文字が浮かんだ。
本人未許可。
開封不可。
返却待ち。
リシアは息を吐いた。
リュシカが帳面を見つめている。
初めて、彼女の表情に明確な戸惑いがあった。
「返却待ち」
彼女はその文字を読み上げる。
「記録に、待つという分類はありません」
「今できました」
リシアは歌詞帳を閉じた。
シルが誇らしげに鳴く。
ちい。
リュシカは帳面へ手を伸ばそうとした。
リシアは一歩前へ出る。
「触らないでください」
「ここは私の書庫です」
「でも、その記録はあなたのものではありません」
リュシカはリシアを見る。
白い書庫の中で、二人の視線がぶつかった。
静かな対立だった。
剣も、怒号もない。
けれど、どちらも譲れないものがある。
リュシカは、声が消えることを恐れている。
リシアは、声が本人から奪われることを恐れている。
どちらも、声を軽んじているわけではない。
だからこそ、簡単には交われない。
その時、書庫の扉が音もなく開いた。
冷たい風が入る。
リシアは振り返った。
入口に、ノエルが立っていた。
薄い青の髪が、白い紙暖簾の向こうから差し込む光を受けて、少しだけ透けて見える。
ノエルは書庫の中央を見た。
床の上の帳面。
その表紙の自分の名。
そして、リシア。
ノエルの目が細くなる。
「読んだの」
短い問いだった。
その声には怒りがある。
だが、怒りだけではない。
恐れもあった。
リシアはすぐに答えた。
「開きかけたところだけ見えました。でも、読みませんでした」
「見えたなら同じ」
「同じではありません」
言ってから、リシアは言葉を選び直した。
「同じに感じるなら、そうかもしれません。あなたにとっては、少し見られただけでも踏み込まれたことになると思います」
ノエルの眉がわずかに動く。
リシアは続けた。
「だから、謝ります。止めるために見ました。でも、あなたが望まないものを見たことには変わりありません」
ノエルは黙っていた。
リュシカが静かに言う。
「この記録は、あなたの声の痕です」
「私が渡した覚えはない」
「拾われたものです」
「盗まれたものを、拾ったって言うの?」
ノエルの声が冷たくなる。
書庫の棚がかすかに震えた。
リュシカは動じない。
「捨てられた黒譜紙の断片でした」
「捨てたのは私じゃない」
ノエルは一歩、帳面へ近づいた。
シルが低く鳴く。
ノエルは彼を一瞥したが、足を止めなかった。
帳面の前に立つ。
表紙に浮かんだ文字を読む。
本人未許可。
開封不可。
返却待ち。
ノエルの口元が、ほんの少しだけ歪んだ。
「変な分類」
「私もそう思います」
リュシカが真面目に言った。
リシアは少しだけ困った顔になった。
ノエルは帳面へ手を伸ばした。
リュシカが止める。
「そのまま持てば、記録が崩れる可能性があります」
「崩れればいい」
「崩れれば、あなたの声の痕は失われます」
「失われた方がましな声もある」
ノエルの言葉に、リシアは鞄の中の紙片を思い出した。
返らない声の方が、ましな夜もある。
ノエルは本当に、そう思っている。
けれど、その胸の奥から、別の心歌がかすかに漏れた。
『消したい。でも、なかったことにはされたくない』
リシアは息を止めた。
それは、ノエルが口にした言葉ではない。
聞こえてしまった心歌だ。
今ここで言えば、また踏み込むことになる。
リシアはその心歌を、歌にしなかった。
言葉にも変えなかった。
ただ、自分の中に置いた。
ノエルは帳面を見つめたまま言う。
「焼く」
リュシカが即座に答える。
「許可できません」
「私の記録でしょ」
「記録は一度発生すれば、個人だけの所有物ではありません」
「最低」
ノエルの声に、鋭い棘が宿る。
リュシカは静かだった。
「そう記録して構いません」
「記録、記録って」
ノエルの手元に黒い譜面線が浮かびかけた。
リシアは身構える。
しかし、ノエルは術を放たなかった。
拳を握りしめ、黒い線を消す。
その動きに、リシアは少し驚いた。
ノエルは力で奪うこともできたはずだ。
でも、しなかった。
少なくとも今は。
リシアは静かに言った。
「焼くか、綴じるかだけではなく、持つという選択もあります」
ノエルがリシアを見る。
「持つ?」
「あなたが持つ。読むか、読まないか。残すか、破るか。今すぐ決めなくてもいい」
「それを、あなたが決めるの?」
「決めません。提案です」
ノエルは目を細める。
「歌術師の提案って、だいたい綺麗な檻」
リシアは頷いた。
「そうならないように、今、言葉を選んでいます」
ノエルは黙った。
その沈黙は、拒絶ではある。
けれど、完全に閉じた沈黙ではなかった。
リュシカが帳面を見下ろす。
「記録の保全上は、書庫で管理する方が適切です」
「本人が拒んでいます」
リシアが言うと、リュシカは淡々と返す。
「本人は破棄を望んでいます」
「今は、です」
「未来の意思を推測するのは危険です」
「だから、待つんです」
リュシカはまた黙った。
待つ。
彼女の分類にはなかった言葉。
リシアは床に膝をつき、帳面の横に薄青の紙を一枚置いた。
前の道の駅で買った紙だ。
まだ何も書いていない。
リシアは羽ペンをノエルの方へ差し出した。
「書くかどうかは、あなたが決めてください」
ノエルは羽ペンを見た。
「何を」
「開けるな、でも。焼くな、でも。私のもの、でも。何も書かない、でも」
リシアは少しだけ間を置く。
「白紙のまま挟むこともできます」
ノエルはリシアを見た。
その目にはまだ疑いがある。
だが、怒りの奥に迷いもあった。
長い沈黙の後、ノエルは羽ペンを取った。
薄青の紙の前にしゃがみ込む。
しばらく、何も書かなかった。
書庫の紙鳴りが、静かに続く。
やがて、ノエルは一言だけ書いた。
未許可。
それ以上は書かなかった。
名前も、理由も、感情も。
ただ、その三文字だけ。
リシアは頷いた。
「それで十分です」
ノエルは羽ペンを返さなかった。
そのまま、もう一つ小さく書き足した。
読むな。
文字は強かった。
線の終わりが少し震えている。
リュシカがその紙を見る。
「本人意思。未許可。開封拒否」
彼女は小さく呟いた。
「記録上、採用可能です」
「採用って言わないで」
ノエルが冷たく言う。
リュシカは少し考えた後、訂正した。
「尊重します」
ノエルはまだ不満そうだったが、反論はしなかった。
薄青の紙を帳面の表紙に重ねる。
黒い糸は使わない。
リシアは白い紐を差し出した。
ノエルはそれを見て、一瞬だけ嫌そうな顔をした。
「白も嫌い」
「では、別の紐にします」
リシアは鞄の中を探した。
シルが肩から降り、何かをくわえて戻ってくる。
それは、星形菓子を包んでいた薄茶の細い紐だった。
リシアは目を瞬く。
「それ、使っていいの?」
ちい。
シルは真剣に頷いた。
ノエルは紐を見た。
「……菓子の紐?」
「たぶん、星形菓子の」
「変なの」
そう言いながら、ノエルはその紐を受け取った。
白でも黒でもない、薄茶の紐。
それで帳面を結ぶ。
強く縛りすぎず、ほどこうと思えばほどける結び方で。
リシアはその結び目を見て、少しだけ息をついた。
閉じ込めるためではない。
持ち主が持つための結び目。
ノエルは帳面を抱えた。
その手は震えていないように見えたが、指先には力が入っている。
リュシカは静かに言った。
「持ち出し記録が必要です」
ノエルが睨む。
リュシカは続ける。
「内容ではありません。帳面が本人へ返却された事実のみです」
ノエルはしばらく黙った。
「名前は書かないで」
「では、本人へ返却、とだけ」
「それなら」
リュシカは白い台帳を開き、短く記した。
未許可記録一冊、本人へ返却。
内容未読。
開封拒否。
リシアはその文字を見た。
内容未読。
その記録が残ることに、少しだけ救われた気がした。
読まなかったことも、記録できる。
開けなかったことも、ただの空白ではなく、選択として残せる。
ノエルは帳面を外套の中へしまった。
そして、リシアを見る。
「全部読まなかったって、信じたわけじゃない」
「はい」
「でも、今日は燃やさない」
「はい」
「あなたの歌のおかげじゃない」
「分かっています」
ノエルは少しだけ眉を寄せた。
リシアの答えが気に入らないのか、気に入ったのか分からない顔だった。
「さっきの短い歌」
ノエルが言った。
リシアは身構える。
「気持ち悪かった」
リシアは黙った。
ノエルは続ける。
「でも、押してこなかった」
それだけ言うと、彼女は書庫の扉へ向かった。
リシアは追わなかった。
ただ、背中へ声をかける。
「ノエル」
ノエルは立ち止まる。
「何」
「その帳面を開ける日が来ても、来なくても。あなたが決めてください」
ノエルは振り返らなかった。
「言われなくても」
短い返事。
けれど、拒絶だけではなかった。
彼女はそのまま書庫を出ていった。
薄い青の髪が、白い紙暖簾の向こうへ消える。
書庫に残ったのは、リシアとシル、そしてリュシカだった。
リュシカは台帳を閉じる。
「興味深い」
「何がですか」
「記録を読まないことが、記録を保存した」
リシアは疲れたように息を吐いた。
「何でも記録にするんですね」
「記録派ですから」
シルが小さく鳴いた。
呆れた声だった。
リュシカはシルを見て、少しだけ首を傾げる。
「その相棒の行動も、記録しておくべきでしょうか。菓子の紐による封緘補助」
「やめてください」
リシアは即答した。
シルはなぜか胸を張った。
記録されてもいいと思っているらしい。
リシアは苦笑しかけたが、すぐに表情を戻した。
白綴じ書庫の奥。
棚の一角に、まだ黒い糸で結ばれていない帳面がいくつかある。
その中の一冊に、ほんの一瞬だけ、文字が浮かんだ。
A・R。
リシアの呼吸が止まる。
だが、瞬きする間に、その文字は消えた。
見間違いだったのかもしれない。
白い紙の影だったのかもしれない。
でも、リシアには分かった。
アイシャ・リーヴェルト。
その未唱記録が、どこかにある。
リュシカは棚を見なかった。
いや、見なかったふりをしたのかもしれない。
「リシア・フェルミナ」
彼女は静かに言った。
「あなたに渡した封書。開ける時は、一人ではない方がいい」
リシアは鞄の中の白い封書を思い出した。
淡い青の染み。
黒い糸。
差出人不明。
「なぜですか」
「記録が、あなた一人の声を欲しがるかもしれないからです」
その言葉を最後に、リュシカは奥の棚へ向かった。
白い外套が、書庫の白さに紛れていく。
リシアはしばらく動けなかった。
シルが足元へ来て、前足で靴先を叩く。
ちい。
帰ろう。
そう言っているようだった。
リシアは頷いた。
白綴じ書庫を出ると、市場の音が戻ってきた。
紙の音。
水の音。
人の声。
その中に、ノエルの姿はもうなかった。
ただ、風に揺れる紙暖簾の向こうで、薄茶の紐の結び目だけが、リシアの記憶に残っていた。
白でも黒でもない。
ほどこうと思えばほどける結び目。
それは、今日リシアが守れた、ほんの小さな境目だった。
今回は、ノエル・ヴァイスの記録が開きかける回でした。
リシアは、ノエルの過去を知りたい気持ちを抱えながらも、本人がいない場所で読むことを選びませんでした。
短い歌を使ったのは、記録を暴くためではなく、開きかけたものを本人の手へ戻すためです。
そしてノエルは、自分の記録に「未許可」「読むな」と書き、自分で持つことを選びました。
燃やすのでも、リュシカに綴じられるのでもなく、今は自分で持つ。
それはまだ和解ではありません。
けれど、ノエル自身が選んだ小さな一歩でした。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




