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黒譜の民編 73話 白紙市リュネア

星見台追跡編を終えたリシアは、星形菓子を抱えたシルとともに道の駅へ立ち寄った。

そこで出会った紙屋の女性から、返事が来ないと分かっている手紙を書くための紙の話を聞く。

リシアは、ノエルが残したと思われる紙片「返らない声の方が、ましな夜もある」を読み返し、自分でも「返らない声も、消えた声ではない」と書き留めた。

一方、北の白紙市では、黒い譜面紙を破る者と、集めて綴じ直す者がいるという噂が流れていた。

さらに道標には、「声を綴じる者に、歌を渡すな」と書き足されていた。

リシアは、黒譜の民の別の気配を感じながら、白紙市リュネアへ向かう。


 白紙市リュネアは、川沿いに広がる町だった。


 町というより、市そのものが町になったような場所だ。細い水路がいくつも通り、そこに小さな橋がかかっている。橋の欄干には白い紙片が結ばれ、風が吹くたび、さらさらと乾いた音を立てていた。


 紙の音。


 水の音。


 遠くで荷車が軋む音。


 それらが混ざり合い、町全体が薄い帳面の中にあるように感じられる。


 リシアは入口の門で足を止めた。


 門の上には、古びた木札がかかっている。


 白紙市リュネア。


 書く前の紙を売る市。


 書かれなかった言葉を預かる町。


 その文言の下に、別の紙が貼られていた。


 黒い譜面紙の売買、持ち込み、隠匿を禁ず。


 違反者は市守へ引き渡す。


 紙は新しい。


 墨もまだ濃い。


 最近貼られたものだろう。


 シルがリシアの肩で身を乗り出した。


 青いリボンが風に揺れる。


「黒譜の紙、ここに集まっているみたいだね」


 ちい。


 シルは短く鳴いた。


 町の中へ入ると、紙の匂いが強くなった。


 乾いた木の繊維、糊、墨、古い書庫のような空気。市場の左右には、帳面屋、手紙紙屋、封蝋屋、筆屋、古文書の写しを扱う店などが並んでいる。


 だが、賑わいの中に妙な緊張があった。


 店の者たちは客へ笑顔を向ける。


 けれど、黒い布を巻いた包みを持つ者が通ると、一瞬だけ視線が集まる。すぐに逸らされるが、完全には無関心になれない。


 黒譜。


 その言葉が、町のどこかで紙鳴りのように隠れている。


 リシアは胸元の徽章を外套で少し隠した。


 歌術師だとすぐ分かれば、警戒されるかもしれない。


 けれど、完全に隠すつもりはなかった。


 自分が何者であるかを、必要な時に言えるようにしておきたい。


 市場の中央には、白紙の束を積んだ大きな台があった。


 そこでは、町の人々が一枚ずつ紙を選び、何も書かずに箱へ納めている。


 箱の蓋には、こう書かれていた。


 まだ書けない言葉の箱。


 リシアはしばらく、その箱を見ていた。


 誰かが何かを書こうとして、書けなかった紙。


 あるいは、最初から書かないために選んだ紙。


 白紙のまま預けるという行為が、この町では認められているのだろう。


 その静けさは、星見台の「返る声」とは反対のものに思えた。


 返さない。


 綴じない。


 でも、捨てもしない。


 リシアは、胸の奥に小さな痛みを感じた。


 鞄の中には、ノエルの紙片がある。


 返らない声の方が、ましな夜もある。


 その言葉は、この町の空気に少し似ていた。


 不意に、広場の奥で怒声が上がった。


「離せ! それは売り物じゃない!」


 人々が振り返る。


 リシアも声の方へ向かった。


 紙束を扱う店の前で、若い男が市守らしき二人に腕を掴まれている。男の足元には、黒く縁取られた譜面紙が散らばっていた。


 黒譜紙。


 ただし、リシアがこれまで見てきたものとは少し違う。


 黒い譜面線はあるが、紙全体を侵すような嫌な冷たさは弱い。古く、乾いて、力を失いかけているように見える。


「黒譜紙の持ち込みは禁止だ」


 市守が低く言った。


「これは黒譜じゃない。黒譜だったものだ」


 若い男は必死に言い返す。


「私はこれを破りに来た。売りに来たんじゃない」


「破るなら市守に届ければいい」


「届けたら、綴じ直される!」


 その言葉で、周囲がざわめいた。


 綴じ直される。


 道の駅で聞いた噂と同じ言葉だった。


 リシアは足元の黒譜紙を見た。


 紙の端に、細い切れ目が入っている。


 誰かが一度、破ろうとしたのだ。


 けれど破りきれず、市場へ持ち込んだ。


 若い男の胸の奥から、心歌が漏れた。


『また本にされる前に、燃やさないと』


 リシアは眉を寄せる。


 本にされる。


 ただの黒譜紙ではない。


 集められ、綴じ直され、何かの本にされる。


 市守の一人がリシアに気づいた。


「旅人は下がってください」


「すみません。その紙、少し見せてもらえますか」


「関係者以外は」


 若い男がリシアの徽章を見つけた。


 外套の隙間から見えていたのだろう。


 彼の顔色が変わる。


「歌術師……?」


 周囲の空気が一段冷えた。


 市場の人々の視線が、リシアへ向く。


 恐れ。


 警戒。


 好奇心。


 そして、ひとつだけ違う声。


 『歌に渡すな』


 誰の心歌か分からなかった。


 リシアは一歩も踏み込まず、両手を見える位置に上げた。


「無理に触れません。ただ、黒譜の痕を追って旅をしています」


「歌術師に黒譜が分かるものか」


 若い男は吐き捨てた。


「歌があるから、黒譜が生まれたんだ」


 市守が男を押さえる手に力を込める。


「余計なことを言うな」


「余計じゃない!」


 男は声を荒げた。


「この町は、書けない言葉を預かる町だった。なのに今は、黒い譜面紙を集める連中がうろついている。破っても破っても、誰かが拾う。燃やしても、燃え残りを綴じる。声を綴じる者が来てから、町がおかしくなったんだ」


 リシアは道標の文字を思い出した。


 声を綴じる者に、歌を渡すな。


「声を綴じる者、というのは誰ですか」


 リシアが尋ねると、男は一瞬黙った。


 言うべきか迷っている。


 その迷いの奥に、心歌が触れた。


『言えば、また消される』


 リシアはそれ以上近づかなかった。


「名前を言わなくてもいいです」


「白い外套の女だ」


 男はそれでも言った。


 声は少し震えていた。


「黒譜の民だ。だが、エルバとは違う。あいつは笑わない。歌を憎んでいるようにも見えない。ただ、声を集める。破れた黒譜も、捨てられた手紙も、言えなかった言葉も、全部拾って綴じる」


「何のために」


「知らない。だが、あいつが通った店では、白紙が勝手に黒く滲む」


 市場のざわめきが大きくなる。


 市守が男を引き立てようとした。


 その時、風が吹いた。


 白紙が一斉に揺れる。


 広場の中央にある「まだ書けない言葉の箱」の蓋が、かたりと音を立てた。


 リシアは振り返る。


 箱の隙間から、黒い線が一本、細く伸びていた。


 譜面線。


 黒譜の線だ。


 けれど、それは人を襲うように伸びているのではない。


 箱の中の白紙を、一枚ずつ繋ごうとしている。


 まるで、まだ書けない言葉を無理に一冊へ綴じようとしているように。


 リシアは息を呑んだ。


 シルが肩から飛び降りる。


 ちいっ!


 鋭い声が広場に響いた。


 黒い線はシルを避けるように揺れたが、完全には止まらない。


 箱の中から、紙が一枚浮いた。


 白紙だったはずの紙に、薄い文字が滲み始める。


 ごめん。


 言えなかった。


 帰ってこないで。


 待っている。


 忘れたい。


 忘れたくない。


 いくつもの言葉が、重なるように浮かび上がる。


 市場の人々が後ずさった。


「箱から離れてください!」


 リシアは声を張った。


 市守たちが慌てて人々を下がらせる。


 若い男も、市守の手を振りほどいて箱の方へ走ろうとした。


「やめろ、それは預けられた言葉だ!」


 リシアは彼の前へ出た。


「今触れたら、あなたの言葉も綴じられます」


「じゃあ、どうするんだ。歌うのか」


 男の目には怒りがあった。


 同時に、恐れもある。


 歌術師なら、どうせ歌でねじ伏せるのだろう。


 そう思っている目だった。


 リシアは首を横に振った。


「まだ歌いません」


「まだ?」


「これは、誰かが書けなかった言葉です。まず、誰のものかを確かめます」


 黒い線は箱の周りで増えていく。


 紙が次々に浮き、文字になりかけては滲み、また別の言葉に変わる。


 声ではない。


 だが、心歌に近い。


 文字になれなかった心歌。


 リシアの耳の奥に、細い旋律が触れ始める。


『読まないで』


『読んで』


『閉じて』


『捨てないで』


 相反する声が混ざる。


 聞きすぎれば危ない。


 リシアは歌詞帳に手を置いた。


 開くか迷った。


 その時、背後から冷たい声がした。


「開かない方がいい」


 リシアは振り返る。


 市場の屋根の影に、一人の少女が立っていた。


 薄い青の髪。


 灰がかった瞳。


 黒い外套ではなく、町人に紛れるような薄色の旅装。


 それでも、リシアにはすぐ分かった。


「ノエル」


 ノエル・ヴァイスは、リシアをまっすぐ見ていた。


 久しぶりに会ったという挨拶もない。


 敵意を剥き出しにするわけでもない。


 ただ、そこにいる。


 歌を憎む少女として。


 黒譜の民の側にいた少女として。


 そして今は、白紙市の異変を見ている一人として。


「歌詞帳を開けば、あれはあなたの言葉も欲しがる」


 ノエルは言った。


「白い外套の女は、声を綴じる。歌術師の声なら、なおさら欲しがる」


 リシアは箱の黒い線を見た。


「あなたは、それを止めに来たんですか」


「違う」


 ノエルは即答した。


「見に来ただけ」


「見に?」


「歌がなくても、人は声を奪う。黒譜がなくても、人は言葉を綴じて隠す。あなたがそれをどう見るか、見に来た」


 リシアは言葉を返せなかった。


 ノエルの言い方は冷たい。


 だが、完全な嘲りではない。


 試している。


 それも、エルバのように面白がっているのではなく、確かめようとしているように見えた。


 若い男がノエルを見る。


「お前、黒譜の民か」


 ノエルは彼を一瞥した。


「そう見えるなら、そうなんでしょう」


「ふざけるな!」


 男が詰め寄ろうとする。


 だが、その足元へ黒い線が伸びた。


 リシアは咄嗟に手を伸ばす。


 歌ではなく、声を置いた。


「下がって!」


 男が立ち止まる。


 黒い線は彼の靴先をかすめ、箱へ戻った。


 ノエルはその様子を見て、低く言った。


「声は、命令になる」


「今のは止めるためです」


「だから危ない」


 リシアは唇を結んだ。


 その通りだった。


 止めるための声も、相手の足を奪うことがある。


 けれど、今言わなければ、彼は黒譜に触れていた。


 正しさが一つに決まらない場所。


 ここも、そういう場所だった。


 箱の中の白紙が、さらに浮き上がる。


 黒い線がそれらを束ねようとしている。


 市守の一人が震えた声で言った。


「箱を壊せば」


「だめだ!」


 若い男が叫ぶ。


「それは預けられた言葉だ。壊すな!」


 市場の人々がざわめく。


 預けた者たちもいるのだろう。


 顔を青くした女性が、胸元を押さえていた。老人が、杖を握りしめている。少年が母親の袖に隠れている。


 誰もが箱を見ている。


 怖がりながら。


 それでも、壊せとは簡単に言えない顔で。


 リシアは深く息を吸った。


 ここで歌えば、黒譜を押し返せるかもしれない。


 だが、箱に預けられた言葉ごと揺らしてしまう。


 心歌を聞けば、誰の言葉か分かるかもしれない。


 でも、混ざりすぎている。


 黒譜はそれを狙っている。


 歌術師に読ませ、歌わせ、その声ごと綴じる。


 ノエルは腕を組んだまま言った。


「どうするの、歌魔術師」


 リシアはノエルを見た。


「手伝ってください」


 ノエルの眉がわずかに動く。


「私に?」


「あなたは、黒譜を閉じる方法を知っているはずです」


「知っているから、使うと思う?」


「思いません。でも、聞きます」


 ノエルは黙った。


 市場の紙鳴りが、やけに大きく聞こえる。


 やがて、ノエルは目を逸らした。


「歌わないなら」


「はい」


「箱の蓋を閉じる。けれど、押さえ込むんじゃない。中の紙が、自分で沈む隙間を作る」


「どうやって」


「読み上げない。暴かない。名前を探さない。ただ、まだ書けないなら書けないままでいいと、町の人間が認める」


 ノエルの声は淡々としていた。


 けれど、その言葉には実感があった。


 リシアは市場の人々を見た。


 町の箱。


 町の言葉。


 町の沈黙。


 なら、町の人々が選ばなければならない。


 リシアは箱の前に立った。


 歌詞帳は開かない。


 ただ、市守と店主たち、そして周囲の人々へ向かって言った。


「この箱に預けた言葉を、今ここで読む必要はありません」


 市場が静まる。


「誰のものか探す必要もありません。謝りたかった言葉も、怒りも、忘れたい気持ちも、今ここで正しい形に直さなくていい」


 黒い線が少し揺れた。


 リシアの声を拾おうとしている。


 リシアは声に魔力を乗せなかった。


 歌にしない。


 ただ、人として話す。


「この町が、まだ書けない言葉を預かる町なら。今は、読まないと決めてください」


 誰もすぐには答えなかった。


 最初に動いたのは、紙屋の女性だった。


 前の道の駅の店主ではない。


 白紙市の店主の一人だろう。


 彼女は箱へ向かって歩き、距離を取ったまま膝をつく。


「私の紙も、その箱にあります」


 市場がざわつく。


 女性は続けた。


「読まないでください。まだ、読まれたくありません」


 その言葉に、箱の中の一枚が静かに沈んだ。


 次に、杖をついた老人が言った。


「わしのもある。読まんでいい」


 また一枚、沈む。


 若い母親が子どもの手を握りながら言った。


「私のも。まだ、書けないままでいいです」


 紙が沈む。


 一枚ずつ。


 黒い線がほどけていく。


 リシアは何も歌わなかった。


 ノエルも何も言わなかった。


 ただ、市場の人々が、自分たちの言葉を読まないと選んでいく。


 それだけで、箱の黒譜線は少しずつ弱まった。


 若い男が立ち尽くしていた。


 彼の足元には、破りかけの黒譜紙がある。


 リシアは彼を見た。


 男は唇を噛み、やがて低く言った。


「私の姉の言葉も、あの箱にある」


 声が震える。


「死ぬ前に書こうとして、書けなかった紙だ。だから、黒譜なんかに綴じられたくなかった」


 リシアは頷いた。


「読まないと、あなたが言ってください」


 男は箱を見た。


 長い沈黙の後、言った。


「読むな」


 乱暴な言葉だった。


 けれど、そこには祈りがあった。


「姉の言葉を、誰の本にもするな」


 箱の中で、最後に浮いていた紙が沈んだ。


 黒い譜面線が、ふっと薄れる。


 完全には消えない。


 箱の縁に、焦げ跡のような黒が残っている。


 それでも、紙を束ねる力は消えていた。


 市場に、長い息が広がる。


 リシアはようやく肩の力を抜いた。


 シルが駆け寄り、リシアの足元で胸を張る。


 自分も見張っていたと言いたげだった。


「ありがとう、シル」


 ちい。


 シルは当然だという顔をした。


 ノエルは黙ってその場を離れようとしていた。


 リシアは追いかけた。


「待ってください」


 ノエルは振り返らない。


「なぜ?」


「話したいことがあります」


「私はない」


「紙片を見ました」


 ノエルの足が止まった。


 返らない声の方が、ましな夜もある。


 その一文を思い出しながら、リシアは続ける。


「星見台に、あなたも来ていたんですね」


 ノエルは横顔だけを見せた。


「返り声が嫌いなだけ」


「誰の声が返ってきたんですか」


 言った瞬間、リシアは踏み込みすぎたと気づいた。


 ノエルの目が冷える。


「そういうところ」


 短い声だった。


「歌術師は、聞けると思うとすぐ聞く」


 リシアは息を呑む。


 ノエルは続けた。


「今の箱では踏み込まなかった。少しは学んだのかと思った。でも、結局同じ」


 リシアは言葉を失った。


 ノエルの言葉は痛い。


 けれど、外れてはいなかった。


「すみません」


 リシアは頭を下げた。


「今のは、聞いていいことではありませんでした」


 ノエルは少しだけ目を細めた。


 謝罪を受け取ったのかどうかは分からない。


 ただ、すぐには去らなかった。


「白い外套の女に気をつけて」


 ノエルは低く言った。


「彼女は、エルバみたいに人を試さない。笑わない。壊しもしない。ただ、残す」


「残す?」


「声を、綴じて、残す。本人が望んだかどうかに関係なく」


 リシアは喉の奥が冷えるのを感じた。


「名前は?」


 ノエルは少し黙った。


「リュシカ」


 その名を聞いた瞬間、市場の紙が一斉に小さく鳴った気がした。


「白綴じのリュシカ。黒譜の民の記録派」


 記録派。


 エルバが言っていた派閥のひとつ。


 歌を壊したい者。


 封じたい者。


 記録したい者。


 その一人が、この白紙市にいる。


「あなたは、どの派なんですか」


 リシアが聞くと、ノエルは振り返った。


 灰がかった瞳が、リシアを見据える。


「どこにも属したくない」


 その声は、初めて少しだけ揺れていた。


「でも、どこにも属さない人間を、黒譜の民は放っておかない」


 ノエルはそれだけ言い、今度こそ歩き出した。


 リシアは追わなかった。


 追えば、また踏み込みすぎる。


 ただ、その背中を見送る。


 薄い青の髪が人混みに紛れ、やがて見えなくなった。


 市場には、まだざわめきが残っている。


 市守たちは箱の周囲に縄を張り、紙屋たちが相談を始めていた。若い男は散らばった黒譜紙を拾い集め、市守に渡している。先ほどまでの怒りは消えていないが、少なくとも一人で燃やそうとはしていなかった。


 リシアは胸元の歌詞帳に触れた。


 今日、断章は生まれていない。


 歌も歌わなかった。


 けれど、町は少し変わった。


 書けない言葉を、読まないまま守るという選択をする。


 それはリシアの歌ではなく、町の声だった。


 シルが肩へ戻ってくる。


 その前足には、いつの間にか星形菓子の残りが握られていた。


「また持ってきたの?」


 ちい。


 忘れていない。


 そんな顔だった。


 リシアは小さく笑いかけたが、すぐに表情を引き締めた。


 白紙市リュネア。


 声を綴じる者。


 白綴じのリュシカ。


 そして、どこにも属したくないと言ったノエル。


 黒譜の民は、もう遠くから見ているだけではない。


 リシアの歩く道の上で、それぞれの考えを持って動き始めている。


 市場の奥。


 白い紙の暖簾が揺れた。


 その向こうに、一瞬だけ白い外套の背中が見えた気がする。


 リシアが目を凝らした時には、もう誰もいなかった。


 ただ、暖簾の下に一枚の白紙が落ちていた。


 そこには、黒い線で短く書かれていた。


 歌われなかった声ほど、保存に値する。


 リシアは紙を拾わなかった。


 シルが低く鳴く。


 ちい。


 市場の紙鳴りが、また少しだけ冷たくなった。



今回から、白紙市リュネアを舞台にした新しい編が始まりました。


黒譜の民は、ひとつの考えだけで動いているわけではありません。


歌を壊そうとする者。


歌を封じようとする者。


そして、声を綴じて残そうとする者。


白紙市では、まだ書けない言葉を預かる箱が黒譜に触れられ、町の人々の沈黙が勝手に綴じられようとしていました。


リシアは歌わず、町の人々自身が「読まない」と選ぶ時間を作りました。


そして、ノエルとも再び出会います。


次に現れた名は、白綴じのリュシカ。


黒譜の民の記録派です。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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