旅路小休止編 72話 星形菓子と返らない声
リシアは旧星見台跡イオラで、黒譜に歪められていた返り声をほどいた。
星見台は、失った人の声を返す場所ではなく、本来は人の願いを映すための場所だった。
トーリとサリアは、返ってきた声を答えにするのではなく、今ここにいる声を忘れないことを選ぶ。
リシアは星見台を壊さず、鳴らない鈴をそこへ返した。
その後、星見台を離れた道端で、リシアは薄い青の染みがついた紙片を見つける。
そこには、「返らない声の方が、ましな夜もある」と書かれていた。
筆跡から、リシアはノエルの気配を感じる。
星見台を離れてから、シルは妙に静かだった。
いつもなら、朝の道では肩の上で尻尾を揺らしたり、道端の木の実を見つけて身を乗り出したりする。危なっかしいのでリシアが外套の襟を押さえると、不満そうに鳴く。そういうやり取りが、旅の朝には当たり前のようにあった。
けれど今朝のシルは、リシアの肩に座ったまま、両前足で星形の焼き菓子を抱えている。
食べていない。
ただ、抱えている。
蜂蜜の甘い匂いがする菓子を前にして、シルが食べずにいるというのは、リシアにとってかなり大きな異変だった。
「食べないの?」
リシアが聞くと、シルは菓子を抱え直し、ちい、と小さく鳴いた。
あとで。
そんな顔だった。
「あとで食べるなら、鞄に入れておこうか」
シルは即座に首を横へ振った。
それはだめらしい。
「じゃあ、持っていたいんだ」
ちい。
シルは頷く。
リシアは少しだけ笑った。
星見台で彼は、ずっと見張っていた。
返り声の坂でも、石舞台でも、黒譜の線に向かって小さな体で立っていた。あの星形の焼き菓子は、トーリからもらったものだ。シルにとっては、ただの甘いものではないのかもしれない。
もちろん、甘いものでもある。
その証拠に、時々鼻先が菓子へ近づいている。
リシアは気づかないふりをした。
昼前、二人は小さな道の駅に着いた。
道の駅といっても、大きな町ではない。街道沿いに木造の休憩小屋が並び、旅人用の井戸と、馬を休ませる柵と、簡単な市があるだけだった。
市では、干し果物、薬草束、古い地図、旅用の針と糸、紙片を束ねた帳面などが売られている。星見台に近いせいか、星の形をした飾りや、星紋の入った布も多い。
リシアが足を止めたのは、紙を扱う露店の前だった。
薄い紙が紐で吊るされ、風に揺れている。白、灰色、薄青、淡い黄。色はさまざまだが、どの紙にも細い罫線が入っていた。
店主らしい年配の女性が、皺の多い手で紙束を整えている。
「旅の方、手紙紙はいかがですか」
「手紙紙?」
「出す手紙にも、出さない手紙にも使えますよ」
不思議な言い方だった。
リシアが少し首を傾げると、女性は慣れた様子で笑った。
「このあたりではね、星見台へ行く前に願いを書く人が多かったんです。昔は楽しい願いも多かった。旅の安全、恋が叶いますように、明日の雨が止みますように。けれど近頃は、出せなかった手紙を書く人が増えました」
「出せなかった手紙」
「亡くなった人へ。別れた人へ。謝れなかった相手へ。返事が来ないと分かっている手紙です」
リシアは胸元の歌詞帳へ手を添えた。
返らない声の方が、ましな夜もある。
ノエルの紙片が、鞄の中で重みを持った気がした。
店主の女性は、吊るされた紙を一枚外した。
「返事がないから書けることもあります。返ってきたら、崩れてしまう気持ちもある」
その言葉の奥で、微かな心歌が聞こえた。
『返ってこないから、まだ怒っていられる』
リシアは店主を見た。
女性は何も知らない顔で紙を整えている。
その心歌が誰に向けたものなのか、リシアには分からない。亡くなった人か、去っていった人か、それとも昔の自分か。
聞こうとは思わなかった。
心歌は、聞こえたからといって、すぐ手を伸ばしていいものではない。
「一枚、いただけますか」
「はいよ。何色にします?」
リシアは少し迷い、薄い青の紙を選んだ。
ノエルの紙片の染みに似た色だった。
店主は紙を包みながら、ふとリシアの肩のシルを見た。
「あら、星の番をしているみたいな子ですね」
シルは星形菓子を抱えたまま、胸を張った。
「番をしているんですか?」
リシアが聞くと、シルは得意げに鳴いた。
ちい。
どうやら、そういうことになったらしい。
店主はくすりと笑った。
「では、番人さんにおまけを」
そう言って、小さな木の実を一粒差し出した。
シルの目が揺れた。
両前足には星形菓子がある。
新しい木の実を受け取るには、どちらかを手放さなければならない。
シルは真剣に悩んだ。
リシアは横で見守る。
店主も見守る。
通りかかった子どもまで足を止めた。
やがてシルは、星形菓子を片前足と胸で必死に押さえ、もう片方の前足を伸ばして木の実を受け取ろうとした。
無理だった。
星形菓子がころりと転がる。
シルが慌てる。
木の実も転がる。
子どもが笑った。
シルは両方を追いかけようとして、どちらへ行くべきか分からず、その場で小さく回った。
「シル、落ち着いて」
リシアは笑いをこらえながら、星形菓子と木の実を拾った。
シルは恥ずかしそうに尻尾で顔を隠す。
子どもが近づいてきた。
「リスさん、星を守ってるの?」
シルは顔を上げ、今度こそ胸を張った。
ちい。
「すごい」
子どもの素直な声に、シルはすっかり機嫌を直した。
その子は七つくらいだろうか。髪を二つに結び、手には小さな紙風車を持っている。リシアの胸元の徽章に気づくと、目を輝かせた。
「お姉さん、歌の人?」
リシアは少しだけ息を止めた。
歌の人。
その呼び方には、恐れも警戒もなかった。
ただ、珍しいものを見つけた喜びがある。
「うん。歌魔術師です」
「じゃあ、星のリスさんの歌、歌える?」
店主が慌てる。
「こら、急にお願いしないの」
「だって、星を守ってるんだよ」
子どもは真剣だった。
シルも、なぜか真剣な顔になっている。
リシアは困ったように笑った。
星見台の後で歌うことには、まだ少し怖さがあった。
歌えば、何かが返ってくるのではないか。
歌えば、どこかで誰かの声を材料にしてしまうのではないか。
そんな感覚が、胸の奥に残っている。
けれど、ここは星見台ではない。
目の前の子どもは、答えを求めているわけでも、失った声を呼んでいるわけでもない。
ただ、星形菓子を抱えた銀色のリスが面白いから、歌にしてほしいと言っている。
リシアはシルを見た。
「歌ってもいい?」
シルは少し考えた。
そして、星形菓子を抱えたまま頷いた。
許可が出たらしい。
リシアは息を吸った。
魔力は乗せない。
心へ触れにいかない。
ただ、道端の小さな歌として。
「星を抱えたリスがいる。
甘い星を守ってる。
食べたいけれど、守ってる。
守っているけど、たぶん食べる」
子どもが吹き出した。
店主も肩を震わせた。
シルは最初、誇らしげに聞いていたが、最後の一行で抗議するように鳴いた。
ちいっ。
「食べない?」
リシアが聞くと、シルは星形菓子を見た。
少し沈黙。
それから、小さく端をかじった。
子どもが大笑いした。
「食べた!」
シルは気まずそうに耳を伏せる。
リシアも笑った。
歌は、ただその場に転がった。
誰かを立たせるためでも、泣かせるためでもない。
でも、子どもが笑い、店主が笑い、シルが少し照れている。
それだけで、歌は今、ここにいてよかったのだと思えた。
その瞬間、リシアはアイシャの声を思い出した。
『リシアの歌って、戦うためだけじゃないでしょ』
騎士団時代の、ある昼下がりだった。
訓練場の隅で、リシアが進軍詩の基礎旋律を繰り返していた時、アイシャは木剣を肩に担いでそう言った。
『ご飯がおいしくなる歌とか、眠くなる歌とか、雨がちょっと嫌じゃなくなる歌とか、そういうのもあるじゃん』
『そんな歌、歌術隊の訓練には出ないよ』
『じゃあ私が訓練相手になる』
『何の訓練?』
『お昼ご飯がおいしくなる歌の訓練』
リシアは呆れた。
けれど、アイシャは本気だ。
結局その日、二人は食堂へ向かう道で、昼食の豆煮込みを少しだけ楽しみにする歌を作った。歌というより、献立への希望と文句を混ぜたものだった。
それでも、アイシャは笑っていた。
『ほら、こういう歌も大事だよ。戦う前だけ歌うなんて、もったいない』
今なら、その言葉が少しだけ分かる。
歌は危うい。
歌は人を縛ることがある。
それでも、歌が全部そうなるわけではない。
道端で子どもを笑わせる歌もある。
星形菓子をかじるリスを、少しだけ誇らしくする歌もある。
リシアは歌詞帳には書かなかった。
これは残すための歌ではなく、今ここで笑って消えていい歌だと思ったからだ。
店主の女性は、包んだ薄青の紙をリシアへ渡した。
「今の歌、よかったですよ」
「ありがとうございます。かなり即興でしたけど」
「即興だからいいんです。返事を待たない歌もありますから」
リシアはその言葉を受け取った。
返事を待たない歌。
返らない声。
返る声を答えにしないこと。
星見台で得たものが、少しずつ別の形にほどけていく。
道の駅を出る前、リシアは井戸のそばの長椅子に座り、ノエルの紙片を取り出した。
返らない声の方が、ましな夜もある。
何度読んでも、冷たい言葉だった。
けれど、冷たいだけではない。
痛みを守るために、あえて返事を求めない夜もある。
星見台で返ってきた母の声にトーリが引かれたように、返ってくることで壊れるものもある。
ノエルは、それを知っているのだろう。
知りすぎているのかもしれない。
リシアは買った薄青の紙を一枚取り出した。
何かを書こうとして、羽ペンを止める。
ノエルへ返事を書くべきか。
けれど、どこへ送ればいいのか分からない。
それに、これは返事を求める紙片ではなかったのかもしれない。
リシアは少し考え、薄青の紙へ一行だけ書いた。
返らない声も、消えた声ではない。
書いてから、息を吐いた。
これはノエルへの答えではない。
リシア自身が、今忘れないための一行だ。
紙を折り、ノエルの紙片とは別に小袋へしまう。
同じ場所には入れない。
混ぜないために。
シルは星形菓子を半分ほど食べ終え、残りを大事そうに抱えていた。
「半分残すの?」
ちい。
「トーリにまた会った時のため?」
シルは少し迷い、頷いた。
リシアは微笑んだ。
「じゃあ、ちゃんと包んでおこう」
今度はシルも素直に菓子を渡した。
リシアは布で丁寧に包み、鞄の中の潰れない場所へ入れる。
その時、先ほどの紙屋の店主が誰かと話している声が聞こえた。
「また北の市で、黒い譜面紙を買い集めている連中が出たらしいよ」
「黒譜の民かい?」
「さあね。ただ、前に来た男とは違うそうだよ。薄笑いの男じゃなく、白い外套の女だったって」
リシアの手が止まる。
薄笑いの男。
おそらくエルバのことだ。
白い外套の女。
聞き慣れない存在だった。
「黒譜の民が、黒譜を買い集めるんですか」
思わず尋ねると、店主たちはこちらを見た。
紙屋の女性が少し声を落とす。
「詳しくは知りませんよ。ただ、北の白紙市で妙なことが起きているらしいです。黒い譜面紙を破って回る者と、集めて綴じ直す者がいるとか」
「破る者と、綴じ直す者」
「黒譜の民も、一枚岩じゃないんでしょうね」
店主は肩をすくめた。
「歌を壊したい者もいれば、歌を閉じ込めたい者もいる。紙を扱っていると、そういう噂は流れてくるんです」
リシアは胸の奥が重くなるのを感じた。
エルバは、星見台で言っていた。
黒譜の民の中にも、完成を願う者、壊したい者、封じたい者、記録したい者がいると。
あれはただの揺さぶりではなかったのかもしれない。
白紙市。
黒譜を破る者。
綴じ直す者。
そして、ノエルの紙片。
線が繋がり始めている。
リシアは礼を言い、道の駅を後にした。
街道は北へ伸びている。
白紙市へ向かうには、途中で川沿いの道へ入る必要があるらしい。店主から聞いた道筋を、リシアは頭の中で確かめる。
シルは肩の上で、今度こそ眠そうに目を細めていた。
星形菓子を半分食べたことで、ようやく緊張がほどけたのかもしれない。
リシアは歩きながら、先ほどの小さな歌を思い出した。
星を抱えたリスがいる。
甘い星を守ってる。
守っているけど、たぶん食べる。
シルが薄目を開ける。
聞こえていたらしい。
リシアは笑った。
「歌詞、直す?」
ちい。
シルは小さく鳴いた。
直さなくていい。
そんな顔だった。
空は高く晴れている。
星は見えない。
それでも、鞄の中には半分残った星形菓子があり、小袋にはノエルの紙片と、自分で書いた薄青の紙がある。
返らない声の方が、ましな夜もある。
返らない声も、消えた声ではない。
その二つは、まだ答えにはならない。
けれど、次の道へ向かうには十分な灯だった。
夕方が近づく頃、街道の先に川の音が聞こえ始めた。
白紙市へ続く分かれ道は、その川沿いにあるという。
リシアは足を止め、道標を見上げた。
古い木の板に、薄れた文字が刻まれている。
北、白紙市リュネア。
その下に、誰かが新しく細い字を書き足していた。
声を綴じる者に、歌を渡すな。
リシアはしばらく、その文字を見つめた。
筆跡はノエルのものではなかった。
エルバのものでもない。
また別の誰か。
黒譜の民の中にいる、別の声。
シルが肩の上で目を開ける。
ちい。
今度の鳴き声には、眠気がなかった。
リシアは道標から視線を外し、川沿いの道へ足を向けた。
歌を渡すな。
その言葉が、風の中で冷たく揺れていた。
今回は、星見台追跡編の後の小休止でした。
星形菓子を抱えてなかなか食べられないシル。
道の駅で出会った紙屋。
そして、子どもに頼まれて歌った、星を抱えたリスの小さな歌。
重い出来事の後でも、歌が誰かを少し笑わせることはあります。
リシアもまた、歌が戦場や救済だけのものではなかったことを、少し思い出しました。
一方で、ノエルの紙片と、白紙市リュネアの噂が次の道を示します。
返らない声。
綴じられる声。
黒譜の民の中にある、いくつもの考え。
リシアはまた、答えのない場所へ向かいます。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




