星見台追跡編 71話 星を映す朝
リシアは旧星見台跡イオラの中心で、アイシャの姿をした返り声と向き合った。
その声は本物ではなく、リシアが欲しかった答えを映したものだった。
星見台は、訪れた人々の願いを黒譜で縫い合わせ、聞きたい声として返していた。
エルバはリシアに、壊すか、歌うか、見ないふりをするかと選択を迫る。
リシアはそのどれも選ばず、願いを材料にしていた黒譜だけをほどき、星見台そのものは壊さなかった。
星形の金属板は星の断章ではなかったが、星へ近づくための古い器だった。
夜明け前、歌詞帳には一瞬だけ「星は答えではない。願いを映す、遠い鏡」という言葉が浮かんだ。
夜明けの星は、思ったより長く空に残っていた。
山の端が白み始めても、薄い青の空に小さな光がひとつ、まだ消えずに瞬いている。昨夜の星見台で見た光よりもずっと遠く、ずっと頼りない。
けれど、リシアにはその方が本物らしく思えた。
近すぎる星は、人を呼ぶ。
遠い星は、ただそこにある。
休み場の軒先で、リシアは湯気の立つ木杯を両手で包んでいた。老人が淹れてくれた薄い薬草茶は少し苦かったが、喉を通ると体の奥から温まる。
シルは隣の長椅子の上で丸くなっていた。
昨夜はほとんど眠っていないはずなのに、彼はまだ完全には寝ようとしない。時々片目だけを開けて、星見道の方を確認している。
見張っているのだ。
小さな体で、まだ終わっていない夜を。
「眠ってもいいよ」
リシアが言うと、シルは薄目のまま、ちい、と鳴いた。
まだ。
そう言っているようだった。
休み場の奥では、サリアが弟のトーリに毛布をかけ直している。トーリは夜のうちに何度か目を覚ましたが、そのたびに木札を握り、姉の手を探してまた眠った。
母の声は、もう聞こえていない。
少なくとも、この休み場までは届いていない。
それだけでも、リシアは少しだけ息をつけた。
老人が水桶を置き、星見道の方を見上げる。
「今朝は静かだ」
「前は、朝も声が聞こえたんですか」
「強い日はな。夜に誰かが上まで行くと、朝まで道がざわついた。名前を呼ぶ声や、泣き声や、歌の切れ端が、石段に残る」
老人は腰に下げた鍵束へ触れた。
「今日は、それがない」
リシアは胸元の歌詞帳に手を添えた。
昨夜、星見台に鈴を置いてきた。
星見守の鳴らない鈴。
手元に残しておけば、今後の旅で役に立ったかもしれない。エルバの返り声や黒譜の方向を見極める助けにもなっただろう。
でも、あれは星見台のものだった。
星見台がもう一度、願いを映す場所に戻るなら、声の向きを見失わないための鈴は、あそこに必要だ。
老人は何も責めなかった。
ただ、「帰る場所を見つけたんだな」と言っただけだった。
その言葉が、まだリシアの中に残っている。
帰る場所。
物にも、歌にも、場所にも、そういうものがあるのだろうか。
サリアがこちらへ歩いてきた。
目元は赤い。
それでも、昨夜より表情は落ち着いていた。
「リシアさん」
「はい」
「トーリが、起きたら星見台に謝りたいって」
リシアは少しだけ目を瞬いた。
「星見台に?」
「母さんの声を返してって、何度もお願いしたから。星見台が悪い場所になったのは、自分みたいな人がたくさんお願いしたせいなのかもしれないって」
サリアの声が少し震える。
「違うって言ったんですけど、うまく言えなくて」
リシアは木杯を置いた。
トーリはまだ眠っている。
寝顔は幼い。
昨夜、母の声を追っていた時の夢を見るような表情ではなく、泣き疲れた子どもの顔だった。
「トーリさんが願ったことは、悪いことではないと思います」
サリアは唇を結ぶ。
「でも、その願いを利用されました」
「はい」
リシアは頷いた。
「だから、願ったことを責めるより、利用された形をほどく方がいいです。昨夜、星見台で少しだけそれをしました」
「少しだけ……」
「全部ではありません。星見台に残っている願いは、きっとまだあります。黒譜は剥がしました。でも、あの場所が本当に元に戻るには、これからここにいる人たちがどう扱うかが大事になると思います」
サリアは星見道の方を見た。
白い星石の道は、朝の光の中ではただの古い道に見える。
昨夜のように呼んではいない。
けれど、何もなかった場所にも戻っていない。
「私たちが」
「はい」
リシアは静かに言った。
「壊さないと決めたなら、残す責任もあります」
その言葉は、自分にも向いていた。
星見台を壊さなかった。
だから、それで終わりではない。
今後また誰かが声を求めるかもしれない。星見台で泣く人もいるだろう。願い歌を歌いたい人も、失った声を返してほしい人も、完全にはいなくならない。
それをすべて禁じれば安全かもしれない。
でも、それはまた別の形で声を閉じ込めることになる。
老人が二人の話を聞いていた。
しばらくして、彼はぽつりと言う。
「星見台を閉じるか、迷っていた」
リシアとサリアが振り返る。
老人は星見道の入口にかかる古い札を見た。
星が鳴る夜は、歌うな。
その文字は朝の光の中でも、どこか鋭く見える。
「わし一人の考えでは決められん。だが、ここ数年は閉じるしかないと思っていた。誰かが上へ行くたび、帰ってこないか、帰ってきても心の一部を置いてきたようになる。なら、道を塞いだ方がいいと」
「それも、ひとつの選択だと思います」
リシアは答えた。
「でも、あなたはそうしなかった」
「できなかっただけだ」
老人は苦く笑う。
「あそこはな、わしの妻と初めて歌を合わせた場所でもある」
リシアは言葉を失った。
老人は照れたように目を逸らす。
「若い頃の話だ。大した歌じゃない。願い歌というより、音程の合わない喧嘩みたいなものだった」
サリアが少しだけ笑った。
老人も、ほんのわずかに口元を緩める。
「星見台を怖がるようになってから、その記憶まで悪いものになりそうでな。それが嫌だった」
リシアは、星見台の石舞台を思い出した。
黒譜に覆われていた壁。
声を材料にしていた願い札。
アイシャの姿をした返り声。
でも、その下には、かつて誰かが歌を合わせた夜もあったのだ。
恋人たちが笑った夜。
子どもが星へ願いを投げた夜。
旅人が自分の声の返りを聞いて、少しだけ明日を信じた夜。
それらまで壊してはいけなかった。
リシアは改めてそう思った。
「札を変えませんか」
サリアが言った。
老人が彼女を見る。
「札を?」
「歌うな、だけだと、怖い場所のままです。でも、何でも歌っていい場所でもない。だから……」
サリアは木札を握りしめる。
トーリの片割れと合わせた星形の木札。
「返る声を、答えにしない。そう書けませんか」
リシアは静かに息を呑んだ。
それは昨夜、リシアが歌詞帳に書いた言葉に近い。
返る声は、答えではない。
サリアはリシアの歌詞帳を見たわけではない。
でも、同じところへ自分で辿り着いた。
老人はしばらく黙っていた。
やがて、古い札の横に吊るしてあった予備の木札を外す。
「書くなら、あんたが書け」
彼はサリアへ小刀を渡した。
サリアは驚いた顔をする。
「私が?」
「弟を連れ戻した声は、あんたの声だ。歌術師さんの声じゃない」
その言葉に、リシアは胸が温かくなるのを感じた。
その通りだった。
トーリを戻したのは、リシアの歌ではない。
サリアの声だ。
母の声を否定せず、それでも「私はここにいる」と言った、姉自身の声だった。
サリアは小刀を受け取り、木札の前に座った。
手は震えている。
けれど、逃げなかった。
ゆっくりと文字を刻む。
返る声を、答えにしない。
ここにいる声を、忘れない。
一字ずつ。
不揃いな線だった。
途中で少し曲がり、最後の「い」が小さくなっている。
それでも、確かにサリアの文字だった。
トーリがいつの間にか起きていた。
毛布を肩にかけたまま、姉の後ろに立っている。
「姉ちゃん」
サリアが振り返る。
「起きたの」
「うん」
トーリは木札を見た。
しばらく何も言わない。
やがて、自分の星形の木札をぎゅっと握り、サリアの隣へ座った。
「僕も、書く」
サリアは小刀を渡すか迷った。
老人が小さく頷く。
トーリは木札の下の余白に、たどたどしい字で刻んだ。
ひとりでのぼらない。
サリアの目から、また涙がこぼれた。
今度は、昨夜の涙とは違っていた。
トーリは照れたように顔を背ける。
「約束だから」
「うん」
「でも、母さんのこと、忘れない」
「忘れなくていい」
サリアは弟を抱きしめた。
その胸の奥から、短い心歌がそっとこぼれる。
『忘れないまま、帰れるんだ』
リシアはその心歌を、ただ静かに聞く。
歌にしなかった。
今はまだ、この姉弟が自分たちの声で立っているところ。
それで十分だった。
新しい札は、古い札の隣に吊るされた。
星が鳴る夜は、歌うな。
返る声を、答えにしない。
ここにいる声を、忘れない。
ひとりでのぼらない。
並ぶと、不思議とどれも必要な言葉に見えた。
怖さから生まれた札。
戻ってきた人が刻んだ札。
どちらか一方では足りない。
リシアはその札を見ながら、昨夜の星見台で聞いた問いを思い出していた。
まだ、星を信じるの?
信じるかどうかは、まだ分からない。
けれど、星を壊して答えにするのは違う。
そう答えた自分の声も、今は少しだけここに馴染んでいるような気がした。
昼前、リシアは出発の支度をした。
星見台へ戻る道は、しばらく老人とサリアたちが見守ることになるという。すぐに祭りを戻すことはない。夜に登ることも禁じる。けれど、完全に封鎖するのではなく、星見台を知る人たちで話し合う場を作ると老人は言った。
「わし一人で閉じるのも、開くのも違うからな」
その言葉に、リシアは頷いた。
星見台の最後の選択は、リシアが決めることではない。
ここで暮らし、ここで願い、ここで失った人たちが決めることだ。
シルは出発前になって、トーリから干した木の実をひとつもらっていた。
最初は澄ました顔で受け取ったが、匂いを嗅いだ瞬間、目が少し輝いた。
トーリが笑う。
「リス、また来る?」
シルは木の実を抱えたまま、リシアを見た。
勝手に約束していいかどうか確認している顔だった。
「いつかね」
リシアが答えると、シルは胸を張って鳴いた。
ちい。
いつか来る。
そういうことらしい。
トーリは嬉しそうに頷いた。
「その時は、ひとりで登らない」
「うん」
サリアが弟の肩に手を置く。
「一緒に行こう。行くなら」
トーリは星見道を見た。
少しだけ寂しそうな顔をした。
けれど、もう上へ走り出す目ではない。
リシアはそれを見届け、胸元の歌詞帳へ触れた。
星の断章は、まだない。
この編で得たのは、断章ではなかった。
けれど、確かに必要なものだった。
本物の声と、欲しい声は違う。
返る声は答えではない。
願いは、誰かを縛る材料にされていいものではない。
それらは、リシアの中でまだ歌詞になりきらず、柔らかい光のまま残っている。
休み場を出る前、老人がリシアへ小さな包みを渡した。
「これは?」
「星見台の古い祭りで配っていた菓子だ。今はもう作る者も少ないが、昨日焼いた分が少し残っていた」
包みの中には、星形の固い焼き菓子が入っていた。
表面に薄く蜂蜜が塗られ、ところどころに木の実が埋まっている。
シルの尻尾が、ふわりと立った。
「シルのじゃないよ」
リシアが先に言う。
シルは驚いた顔をした。
まさか自分のものではないのか、とでも言いたげだった。
老人が笑う。
「一つくらい、やってもいい」
「甘やかすと、全部持っていきます」
「それも星の導きかもしれん」
「違うと思います」
リシアが言うと、サリアが小さく笑い、トーリもつられて笑った。
シルは結局、焼き菓子の欠片を一つだけ受け取る。
とても満足そうだった。
その光景が、リシアには嬉しかった。
星見台の後に、こんなふうに笑える時間がある。
それは、救いというほど大きなものではない。
でも、小さな灯にはなる。
リシアは休み場を後にした。
白い星石の道は、下りの道へ続いている。
振り返ると、新しい札が朝の風に揺れていた。
返る声を、答えにしない。
ここにいる声を、忘れない。
リシアはその言葉を胸に置き、歩き出した。
しばらく進むと、シルが肩の上で急に身を起こした。
口には、まだ星形菓子の欠片をくわえている。
「どうしたの?」
シルは道端の茂みを見た。
そこに、白い紙片が挟まっていた。
リシアは慎重に近づく。
黒譜ではない。
少なくとも、エルバの黒い線とは違う。
紙は白く、端に薄い青の染みがあった。
誰かがここを通った時に落としたのか。
あるいは、意図的に置いたのか。
リシアは手袋越しに紙片を取った。
そこには短い一文だけが書かれている。
返らない声の方が、ましな夜もある。
リシアは息を止めた。
筆跡はエルバのものではない。
もっと細く、整いすぎていて、感情を抑えた字。
ノエル。
名前は書かれていない。
けれど、リシアはそう思った。
薄い青の染み。
歌を憎む少女。
声が返る場所を、彼女が見ていなかったはずがない。
シルが低く鳴いた。
ちい。
警戒ではなく、どこか迷うような声だった。
リシアは紙片を折り、歌詞帳には挟まず、別の小袋へ入れた。
歌詞にはしない。
でも、捨てもしない。
「ノエルも、ここに来たのかな」
答えはない。
風だけが、星見道の方から吹いてくる。
リシアはもう一度、空を見上げた。
昼の光に、星はもう見えない。
けれど、消えたわけではない。
見えない場所で、まだある。
聞こえない声も、そうなのかもしれない。
返らないから消えたのではない。
返ってきたから本物になるのでもない。
リシアは歩き出した。
肩の上でシルが、星形菓子を大事そうに抱え直す。
その小さな重みを感じながら、リシアは次の道へ向かった。
星の断章は、まだ遠い。
でも、遠いからこそ、急いで答えにしてはいけない。
朝の道は静かだった。
その静けさの中に、リシアはまだ歌にならない言葉を抱えていた。
星見台追跡編は、今回で一区切りです。
旧星見台跡イオラは、失った人の声を返す場所になっていました。
けれど、本来は答えを与える場所ではなく、願いを映す場所でした。
リシアは星見台を壊さず、黒譜だけをほどきました。
トーリとサリアも、返ってきた声を答えにするのではなく、今ここにいる声を忘れないことを選びます。
この編でリシアが手に入れたのは、断章ではありません。
けれど、星へ近づくための言葉は残りました。
「星は答えではない。
願いを映す、遠い鏡。
返る声を、本物にしない。
聞こえない声を、消えたことにしない。
ここにいる声を、忘れない」
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




