星見台追跡編 70話 星を壊さない選択
リシアは旧星見台跡イオラの中心へたどり着いた。
そこに現れたのは、アイシャの姿をした返り声だった。
その声は、リシアが一番欲しかった言葉を返してくる。
帰れなくてごめん。
リシアのせいじゃない。
もう迷わなくていい。
けれどリシアは、その声が本物のアイシャではなく、自分の願いに合わせて作られたものだと気づく。
星見台は、訪れた人々の聞きたい声を黒譜で縫い合わせ、より本物らしい返り声を作っていた。
リシアは返声盤の奥に、星形の金属板を見つける。
それに触れた瞬間、エルバの声が響いた。
壊すか、歌うか。
それとも、また見ないふりをするか。
リシアは選択を迫られていた。
鳴らない鈴が、リシアの手の中で震えていた。
音はしない。
けれど、その震えは確かに掌へ伝わり、指の骨の奥まで細かく響いた。
石舞台の中央では、アイシャの姿をした影が薄く揺れている。そこに重なるように、エルバの輪郭が滲んでいた。
本人ではない。
遠くから黒譜を通して映した影だ。
それでも、声だけははっきりしている。
「壊すか、歌うか。それとも、見ないふりをするか」
エルバの声は、面白がっていた。
選択肢を差し出しているようで、どれを選んでも罠になる形をしている。
壊せば、星見台そのものを失う。
歌えば、返声盤はリシアの歌を覚える。
見ないふりをすれば、また誰かが聞きたい声に呼ばれる。
リシアは星形の金属板を掴んだまま、息を整えた。
金属板の表面には、黒譜の線が絡みついている。
その下に、古い銀色の星紋が見えた。王国歌術の紋ではない。もっと古く、もっと素朴なものだ。願いを星へ届けるために刻まれた、祈りに近い模様。
壊してはいけない。
そう思った。
この星見台は、最初から人を奪うために作られた場所ではない。
願い歌を返す場所だった。
自分の声を少し遅れて聞き直す場所だった。
誰かに答えをもらうためではなく、自分が何を願っているのかを知るための場所だったのだろう。
黒譜は、そこを歪めている。
なら、壊すべきなのは星ではない。
リシアの足元へ、黒い譜面線が這い寄る。
床の星紋を伝い、靴の先へ絡もうとしていた。
シルが飛び出し、黒い線の前へ立つ。
小さな体で低く構え、鋭く鳴いた。
ちいっ!
黒い線が一瞬だけ避ける。
けれど、すぐ別の方向からリシアの手へ伸びてくる。
エルバが笑った。
「その小さな獣は、ずいぶん都合よく黒譜を嫌うね。やはり、ただの相棒ではないらしい」
シルの耳が伏せられる。
リシアはその言葉に反応しそうになり、こらえた。
今はシルの正体を考える時ではない。
エルバは、こちらが揺れる場所を知っている。
アイシャ。
星詠みの歌。
シル。
どれもリシアが知りたいことだ。
だからこそ、今ここで拾わない。
「リシア」
アイシャの影が、また声を変えた。
先ほどよりも弱く、頼りなく。
「お願い。私を置いていかないで」
リシアの胸が痛んだ。
痛む。
分かっていても痛む。
星見台が作った声だと見抜いても、その声がアイシャに似ていることは変わらない。
リシアの心の奥から、また小さな声が浮いた。
『今度こそ、手を伸ばしたい』
それはリシア自身の願いだった。
黒譜がその願いへ触れる。
足元の線が濃くなる。
返声盤の壁が、ささやくようにリシアの言葉を繰り返す。
手を伸ばしたい。
今度こそ。
今度こそ。
リシアは奥歯を噛んだ。
心歌は、他人のものだけではない。
自分の中にある声も、時には聞こえる。
それをなかったことにすれば、星見台はさらに深く入り込む。
リシアは声に出した。
「手を伸ばしたい」
アイシャの影が微笑む。
エルバの気配も、わずかに楽しげに揺れた。
だが、リシアは続けた。
「でも、あなたにじゃない」
返声盤の囁きが止まる。
「本物のアイシャに手を伸ばしたい。だから、あなたで代わりにしない」
アイシャの影の表情が崩れた。
笑みでも、悲しみでもない。
形を保てなくなった顔だった。
リシアは星形の金属板を見た。
黒譜線は、金属板の表面に貼りついているだけではなかった。細い糸のように壁の穴へ伸び、そこから願い札の断片へ繋がっている。
返り声の材料にされていた声。
母を呼ぶ声。
謝りたかった声。
もう一度だけ聞きたかった声。
それらが、黒譜に縫われている。
リシアの指先へ、また心歌が触れた。
『忘れたくない』
『でも、進めない』
『声だけでも返して』
ひとつひとつは、悪い願いではない。
悲しみの中で当然生まれる願いだった。
だから、切り捨てることはできない。
だが、材料にされていい願いでもない。
リシアは歌詞帳を開いた。
ページが強く揺れる。
星見台が反応する。
石壁の穴が、待ち構えるように光った。
リシアの歌を拾うために。
だが、リシアは歌わなかった。
声に旋律を乗せない。
魔力も乗せない。
ただ、歌詞帳の白い余白へ、持っていた筆で一行を書いた。
返る声は、答えではない。
書いた瞬間、歌詞帳の震えが少しだけ変わった。
外へ広がろうとしていた響きが、内側へ留まる。
リシアはもう一行書く。
聞きたい声を、誰かの鎖にしない。
黒譜の線が金属板の上で暴れた。
エルバの声が低くなる。
「歌わないつもりか」
「歌わない」
「では、どうやって剥がす」
リシアは答えなかった。
星見台は歌を待っている。
ならば、歌わずに言葉を置く。
声ではなく、記録として。
灰鐘で学んだことだった。
全部を開かず、記録を残す。
今も同じだ。
リシアは星形の金属板の横へ、休み場で老人から借りた小さな布を敷いた。
その上に、黒譜に縫われた願い札の断片を一つずつ外していく。
引き剥がすのではない。
ほどく。
絡まった糸を外すように。
時間がかかる。
黒譜線は指先へ絡み、何度もリシアの中へ声を押し込もうとした。
『母さん』
『帰ってきて』
『置いていかないで』
そのたびに、リシアは息を吐き、歌詞帳の余白へ短い印をつけた。
聞いた。
でも、奪わない。
ひとつ外す。
またひとつ外す。
シルはリシアの手元に寄り添い、黒い線が濃くなったところを小さな前足で押さえた。
押さえられた線は、直接シルに触れようとせず、逃げるように細くなる。
エルバの声がわずかに乱れた。
「面白いな。やはりその獣は」
「黙って」
リシアは短く言った。
自分でも驚くほど、冷たい声だった。
エルバは一瞬だけ沈黙する。
リシアは願い札の断片を外し続けた。
これは戦いではない。
少なくとも、剣を振るような戦いではない。
誰かの悲しみを、黒譜の縫い目からほどいていく作業だった。
それは地味で、遅くて、痛い。
だが、リシアにはそれしかできなかった。
星見台の壁が、時折アイシャの声を返す。
「リシア、痛いよ」
手が止まりそうになる。
「私を忘れるの?」
息が詰まる。
「また置いていくんだね」
涙がこぼれそうになる。
そのたびに、シルがリシアの袖を引いた。
ちい。
ここにいる。
そう言っているようだった。
リシアは頷く。
「忘れない」
誰に向けた言葉か分からなかった。
アイシャにか。
自分にか。
この星見台に声を残した人たちにか。
それでも、言葉は出た。
「でも、返り声に閉じ込めない」
最後の願い札を外した時、星形の金属板を覆っていた黒い線が大きく揺れた。
銀色の星紋が、初めてはっきり見える。
古い文字が刻まれていた。
星は答えを下ろさない。
ただ、願いを映す。
リシアはその文字を見て、胸の奥が静かになるのを感じた。
やはり、ここは答えを与える場所ではなかった。
願いを映す場所。
自分が何を求めているのかを、少し離れた声で知るための場所。
それを黒譜は、失った声を返す装置に変えていた。
エルバの輪郭が薄く揺らぐ。
「なるほど。壊さないのか」
「壊さない」
「歌わないのか」
「歌わない」
「では、何を選んだ?」
リシアは金属板へ手を置いた。
今度は、恐れずに触れた。
「返す場所を、返します」
その言葉と同時に、鳴らない鈴が震えた。
今度は音がした。
小さな、本当に小さな音だった。
鈴の舌はない。
それなのに、空気の奥で、ちりん、と澄んだ響きが生まれた。
星見台全体が、その音へ反応する。
半円の壁の穴から、溜め込まれていた声が一斉に流れ出した。
母さん。
ごめん。
会いたい。
忘れたくない。
ありがとう。
それらはリシアへ向かってこなかった。
石壁の中で反響し、星の空へ抜けていく。
答えにはならない。
形ある再会にもならない。
ただ、誰かの願いとして、星見台に残るべき場所へ戻っていく。
黒譜線が焼けるように薄れていった。
アイシャの影も、星明かりの中で崩れ始める。
最後まで、顔はアイシャに似ていた。
だから、リシアは目を逸らさなかった。
偽物だから見ないのではない。
偽物を本物にしないために、最後まで見る。
影が消える直前、口を開いた。
「リシア」
声は、もうほとんど返声盤の歪みだった。
それでも、どこかに本物の残響が混じっているのかもしれない。
リシアには分からなかった。
分からないまま、聞いた。
「まだ、星を信じるの?」
それは問いだった。
エルバの声ではない。
アイシャの声とも言い切れない。
星見台に残った、誰かの問い。
リシアは少しだけ考えた。
「信じるかどうかは、まだ分かりません」
影が薄くなる。
「でも、壊して答えにするのは違うと思う」
それを聞いたのかどうか、影は分からないまま消えた。
石舞台に静けさが戻る。
エルバの輪郭だけが、まだ壁の黒い線の残りに揺れていた。
「君は本当に、面倒な選び方をする」
「あなたが用意した選択肢を選ばなかっただけです」
「そうだね。だから面白い」
エルバは楽しげに笑った。
だが、その笑いには、ほんの少しだけ苛立ちが混じっていた。
「今回は、十分だ。君がどの声に揺れるかも、どの言葉を拒むかも、よく分かった」
リシアは金属板を押さえる手に力を込める。
「また使うつもりですか」
「使う? 違うよ。学んだだけだ」
エルバの声は、すっと低くなった。
「星詠みの歌は、人の想いを束ねる歌だ。なら、どの想いが人を動かし、どの声が人を止めるのか、知っておく必要がある」
「星詠みの歌を完成させたいんですか」
エルバは笑った。
「完成? それは王国の言葉だ。黒譜の民の中にも、そう願う者はいる。壊したい者も、封じたい者も、記録したい者もいる」
リシアは眉を寄せる。
黒譜の民は一枚岩ではない。
これまでにも感じていたことが、言葉として近づく。
「あなたは?」
「私は、確かめたい」
「何を」
「歌が人を救うという物語が、どこまで壊れずにいられるか」
その声に、冷たさが混じった。
「そして、君がいつまで歌を小さな灯だと言っていられるか」
リシアは答えなかった。
エルバの輪郭が薄れていく。
「星の断章は、そこにはないよ」
リシアの胸が跳ねる。
エルバは最後に、楽しそうに告げた。
「そこにあるのは、星を映す古い器だ。本物の星は、まだ君の歌を待っていない」
黒い線がぷつりと切れた。
エルバの気配が消える。
星見台には、リシアとシル、そして静かに光る星形の金属板だけが残った。
リシアは膝をついた。
力が抜ける。
シルが慌てて駆け寄り、リシアの手に前足を置いた。
「大丈夫」
リシアはそう言った。
けれど、声は少し震えている。
星の断章ではなかった。
それでよかったと思う気持ちと、少しだけ落胆する気持ちがあった。
星の断章ではない。
でも、星へ近づくための器。
星詠みの歌に関わる手がかり。
リシアは歌詞帳を開いた。
新しい断章は刻まれていない。
ただ、記憶の断章の次の空白に、薄い星の光だけが滲んでいる。
言葉にはならない。
まだ歌にはならない。
それでいい。
今はまだ、星そのものに手を伸ばす時ではない。
リシアは星形の金属板を外さなかった。
その場へ残した。
代わりに、周囲へ散らばった願い札の断片を布に包み、返声盤の下にあった古い箱へ納める。
星見台に来た人々の願いを、黒譜の材料ではなく、願いとして戻すために。
最後に、鳴らない鈴を星形の金属板の前へ置いた。
借りたものだ。
だが、今はここに置くのが正しい気がした。
星見守の鈴。
声の向きを確かめるためのもの。
再び誰かがここへ来た時、この鈴が道しるべになるかもしれない。
シルが鈴を見て、少しだけ寂しそうに鳴いた。
「返せるなら返せばいいって言われたけど」
リシアは鈴を見つめた。
「ここに返すのも、返すことだと思う」
ちい。
シルは納得したように頷いた。
星見台を下りる頃、空には本物の星が出ていた。
白い星石は、もうリシアを呼ばなかった。
ただ、足元を照らしている。
休み場に戻ると、老人とサリア、トーリが待っていた。
トーリは眠っている。
サリアの膝に頭を乗せ、片手には星形の木札を握っていた。
サリアがリシアを見て立ち上がる。
「星見台は」
「黒譜は剥がしました。少なくとも、今夜すぐ誰かを呼ぶことはないと思います」
老人が深く息を吐いた。
「壊さなかったのか」
「はい」
「そうか」
老人は少しだけ目を細めた。
「壊さずに済んだか」
その声には、安堵があった。
長い間、恐れていた場所。
けれど、かつては人々が星を見上げた場所。
壊されずに済んだことを、この老人は喜んでいる。
リシアはそれを見て、選び間違えなかったのだと少しだけ思えた。
「鈴は、星見台に置いてきました」
老人は静かに頷いた。
「なら、帰る場所を見つけたんだな」
リシアは礼をした。
その夜、休み場で少しだけ眠る。
夢は見なかった。
アイシャの声も聞こえなかった。
それが寂しいようで、少しほっとする。
夜明け前、リシアは目を覚ました。
シルが隣で丸くなっている。
外へ出ると、東の空が淡く明るくなり始めていた。
星はまだいくつか残っている。
リシアは胸元の歌詞帳に触れた。
星の断章は、まだない。
けれど、星見台で得たものはある。
本物の声と、欲しい声は違う。
聞きたいからといって、その声を本物にしてはいけない。
壊さず、歌わず、見ないふりもしない選び方がある。
リシアはそのことを、忘れないように胸へ置いた。
その時、歌詞帳の空白に、短い文字が浮かぶ。
星は答えではない。
願いを映す、遠い鏡。
文字はすぐに消えた。
断章ではない。
けれど、次の星へ続く小さな道標だった。
リシアは空を見上げる。
まだ夜の名残を抱いた星が、ひとつだけ淡く瞬いていた。
今回は、星見台の黒譜を剥がす回でした。
リシアは、星見台を壊しませんでした。
歌って押し返すこともしませんでした。
そして、見ないふりもしませんでした。
かつて願い歌を返していた場所を、黒譜の材料にされていた声から少しずつほどき、本来の姿へ戻すことを選びました。
アイシャの姿をした返り声は、本物ではありませんでした。
けれど、それが痛まないわけではありません。
本物の声と、欲しい声は違う。
そのことを抱えながら、リシアはまだ見つからない星の断章へ、少しだけ近づいていきます。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




