↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
71/140

星見台追跡編 70話 星を壊さない選択

リシアは旧星見台跡イオラの中心へたどり着いた。

そこに現れたのは、アイシャの姿をした返り声だった。

その声は、リシアが一番欲しかった言葉を返してくる。

帰れなくてごめん。

リシアのせいじゃない。

もう迷わなくていい。

けれどリシアは、その声が本物のアイシャではなく、自分の願いに合わせて作られたものだと気づく。

星見台は、訪れた人々の聞きたい声を黒譜で縫い合わせ、より本物らしい返り声を作っていた。

リシアは返声盤の奥に、星形の金属板を見つける。

それに触れた瞬間、エルバの声が響いた。

壊すか、歌うか。

それとも、また見ないふりをするか。

リシアは選択を迫られていた。


 鳴らない鈴が、リシアの手の中で震えていた。


 音はしない。


 けれど、その震えは確かに掌へ伝わり、指の骨の奥まで細かく響いた。


 石舞台の中央では、アイシャの姿をした影が薄く揺れている。そこに重なるように、エルバの輪郭が滲んでいた。


 本人ではない。


 遠くから黒譜を通して映した影だ。


 それでも、声だけははっきりしている。


「壊すか、歌うか。それとも、見ないふりをするか」


 エルバの声は、面白がっていた。


 選択肢を差し出しているようで、どれを選んでも罠になる形をしている。


 壊せば、星見台そのものを失う。


 歌えば、返声盤はリシアの歌を覚える。


 見ないふりをすれば、また誰かが聞きたい声に呼ばれる。


 リシアは星形の金属板を掴んだまま、息を整えた。


 金属板の表面には、黒譜の線が絡みついている。


 その下に、古い銀色の星紋が見えた。王国歌術の紋ではない。もっと古く、もっと素朴なものだ。願いを星へ届けるために刻まれた、祈りに近い模様。


 壊してはいけない。


 そう思った。


 この星見台は、最初から人を奪うために作られた場所ではない。


 願い歌を返す場所だった。


 自分の声を少し遅れて聞き直す場所だった。


 誰かに答えをもらうためではなく、自分が何を願っているのかを知るための場所だったのだろう。


 黒譜は、そこを歪めている。


 なら、壊すべきなのは星ではない。


 リシアの足元へ、黒い譜面線が這い寄る。


 床の星紋を伝い、靴の先へ絡もうとしていた。


 シルが飛び出し、黒い線の前へ立つ。


 小さな体で低く構え、鋭く鳴いた。


 ちいっ!


 黒い線が一瞬だけ避ける。


 けれど、すぐ別の方向からリシアの手へ伸びてくる。


 エルバが笑った。


「その小さな獣は、ずいぶん都合よく黒譜を嫌うね。やはり、ただの相棒ではないらしい」


 シルの耳が伏せられる。


 リシアはその言葉に反応しそうになり、こらえた。


 今はシルの正体を考える時ではない。


 エルバは、こちらが揺れる場所を知っている。


 アイシャ。


 星詠みの歌。


 シル。


 どれもリシアが知りたいことだ。


 だからこそ、今ここで拾わない。


「リシア」


 アイシャの影が、また声を変えた。


 先ほどよりも弱く、頼りなく。


「お願い。私を置いていかないで」


 リシアの胸が痛んだ。


 痛む。


 分かっていても痛む。


 星見台が作った声だと見抜いても、その声がアイシャに似ていることは変わらない。


 リシアの心の奥から、また小さな声が浮いた。


『今度こそ、手を伸ばしたい』


 それはリシア自身の願いだった。


 黒譜がその願いへ触れる。


 足元の線が濃くなる。


 返声盤の壁が、ささやくようにリシアの言葉を繰り返す。


 手を伸ばしたい。


 今度こそ。


 今度こそ。


 リシアは奥歯を噛んだ。


 心歌は、他人のものだけではない。


 自分の中にある声も、時には聞こえる。


 それをなかったことにすれば、星見台はさらに深く入り込む。


 リシアは声に出した。


「手を伸ばしたい」


 アイシャの影が微笑む。


 エルバの気配も、わずかに楽しげに揺れた。


 だが、リシアは続けた。


「でも、あなたにじゃない」


 返声盤の囁きが止まる。


「本物のアイシャに手を伸ばしたい。だから、あなたで代わりにしない」


 アイシャの影の表情が崩れた。


 笑みでも、悲しみでもない。


 形を保てなくなった顔だった。


 リシアは星形の金属板を見た。


 黒譜線は、金属板の表面に貼りついているだけではなかった。細い糸のように壁の穴へ伸び、そこから願い札の断片へ繋がっている。


 返り声の材料にされていた声。


 母を呼ぶ声。


 謝りたかった声。


 もう一度だけ聞きたかった声。


 それらが、黒譜に縫われている。


 リシアの指先へ、また心歌が触れた。


『忘れたくない』


『でも、進めない』


『声だけでも返して』


 ひとつひとつは、悪い願いではない。


 悲しみの中で当然生まれる願いだった。


 だから、切り捨てることはできない。


 だが、材料にされていい願いでもない。


 リシアは歌詞帳を開いた。


 ページが強く揺れる。


 星見台が反応する。


 石壁の穴が、待ち構えるように光った。


 リシアの歌を拾うために。


 だが、リシアは歌わなかった。


 声に旋律を乗せない。


 魔力も乗せない。


 ただ、歌詞帳の白い余白へ、持っていた筆で一行を書いた。


 返る声は、答えではない。


 書いた瞬間、歌詞帳の震えが少しだけ変わった。


 外へ広がろうとしていた響きが、内側へ留まる。


 リシアはもう一行書く。


 聞きたい声を、誰かの鎖にしない。


 黒譜の線が金属板の上で暴れた。


 エルバの声が低くなる。


「歌わないつもりか」


「歌わない」


「では、どうやって剥がす」


 リシアは答えなかった。


 星見台は歌を待っている。


 ならば、歌わずに言葉を置く。


 声ではなく、記録として。


 灰鐘で学んだことだった。


 全部を開かず、記録を残す。


 今も同じだ。


 リシアは星形の金属板の横へ、休み場で老人から借りた小さな布を敷いた。


 その上に、黒譜に縫われた願い札の断片を一つずつ外していく。


 引き剥がすのではない。


 ほどく。


 絡まった糸を外すように。


 時間がかかる。


 黒譜線は指先へ絡み、何度もリシアの中へ声を押し込もうとした。


『母さん』


『帰ってきて』


『置いていかないで』


 そのたびに、リシアは息を吐き、歌詞帳の余白へ短い印をつけた。


 聞いた。


 でも、奪わない。


 ひとつ外す。


 またひとつ外す。


 シルはリシアの手元に寄り添い、黒い線が濃くなったところを小さな前足で押さえた。


 押さえられた線は、直接シルに触れようとせず、逃げるように細くなる。


 エルバの声がわずかに乱れた。


「面白いな。やはりその獣は」


「黙って」


 リシアは短く言った。


 自分でも驚くほど、冷たい声だった。


 エルバは一瞬だけ沈黙する。


 リシアは願い札の断片を外し続けた。


 これは戦いではない。


 少なくとも、剣を振るような戦いではない。


 誰かの悲しみを、黒譜の縫い目からほどいていく作業だった。


 それは地味で、遅くて、痛い。


 だが、リシアにはそれしかできなかった。


 星見台の壁が、時折アイシャの声を返す。


「リシア、痛いよ」


 手が止まりそうになる。


「私を忘れるの?」


 息が詰まる。


「また置いていくんだね」


 涙がこぼれそうになる。


 そのたびに、シルがリシアの袖を引いた。


 ちい。


 ここにいる。


 そう言っているようだった。


 リシアは頷く。


「忘れない」


 誰に向けた言葉か分からなかった。


 アイシャにか。


 自分にか。


 この星見台に声を残した人たちにか。


 それでも、言葉は出た。


「でも、返り声に閉じ込めない」


 最後の願い札を外した時、星形の金属板を覆っていた黒い線が大きく揺れた。


 銀色の星紋が、初めてはっきり見える。


 古い文字が刻まれていた。


 星は答えを下ろさない。


 ただ、願いを映す。


 リシアはその文字を見て、胸の奥が静かになるのを感じた。


 やはり、ここは答えを与える場所ではなかった。


 願いを映す場所。


 自分が何を求めているのかを、少し離れた声で知るための場所。


 それを黒譜は、失った声を返す装置に変えていた。


 エルバの輪郭が薄く揺らぐ。


「なるほど。壊さないのか」


「壊さない」


「歌わないのか」


「歌わない」


「では、何を選んだ?」


 リシアは金属板へ手を置いた。


 今度は、恐れずに触れた。


「返す場所を、返します」


 その言葉と同時に、鳴らない鈴が震えた。


 今度は音がした。


 小さな、本当に小さな音だった。


 鈴の舌はない。


 それなのに、空気の奥で、ちりん、と澄んだ響きが生まれた。


 星見台全体が、その音へ反応する。


 半円の壁の穴から、溜め込まれていた声が一斉に流れ出した。


 母さん。


 ごめん。


 会いたい。


 忘れたくない。


 ありがとう。


 それらはリシアへ向かってこなかった。


 石壁の中で反響し、星の空へ抜けていく。


 答えにはならない。


 形ある再会にもならない。


 ただ、誰かの願いとして、星見台に残るべき場所へ戻っていく。


 黒譜線が焼けるように薄れていった。


 アイシャの影も、星明かりの中で崩れ始める。


 最後まで、顔はアイシャに似ていた。


 だから、リシアは目を逸らさなかった。


 偽物だから見ないのではない。


 偽物を本物にしないために、最後まで見る。


 影が消える直前、口を開いた。


「リシア」


 声は、もうほとんど返声盤の歪みだった。


 それでも、どこかに本物の残響が混じっているのかもしれない。


 リシアには分からなかった。


 分からないまま、聞いた。


「まだ、星を信じるの?」


 それは問いだった。


 エルバの声ではない。


 アイシャの声とも言い切れない。


 星見台に残った、誰かの問い。


 リシアは少しだけ考えた。


「信じるかどうかは、まだ分かりません」


 影が薄くなる。


「でも、壊して答えにするのは違うと思う」


 それを聞いたのかどうか、影は分からないまま消えた。


 石舞台に静けさが戻る。


 エルバの輪郭だけが、まだ壁の黒い線の残りに揺れていた。


「君は本当に、面倒な選び方をする」


「あなたが用意した選択肢を選ばなかっただけです」


「そうだね。だから面白い」


 エルバは楽しげに笑った。


 だが、その笑いには、ほんの少しだけ苛立ちが混じっていた。


「今回は、十分だ。君がどの声に揺れるかも、どの言葉を拒むかも、よく分かった」


 リシアは金属板を押さえる手に力を込める。


「また使うつもりですか」


「使う? 違うよ。学んだだけだ」


 エルバの声は、すっと低くなった。


「星詠みの歌は、人の想いを束ねる歌だ。なら、どの想いが人を動かし、どの声が人を止めるのか、知っておく必要がある」


「星詠みの歌を完成させたいんですか」


 エルバは笑った。


「完成? それは王国の言葉だ。黒譜の民の中にも、そう願う者はいる。壊したい者も、封じたい者も、記録したい者もいる」


 リシアは眉を寄せる。


 黒譜の民は一枚岩ではない。


 これまでにも感じていたことが、言葉として近づく。


「あなたは?」


「私は、確かめたい」


「何を」


「歌が人を救うという物語が、どこまで壊れずにいられるか」


 その声に、冷たさが混じった。


「そして、君がいつまで歌を小さな灯だと言っていられるか」


 リシアは答えなかった。


 エルバの輪郭が薄れていく。


「星の断章は、そこにはないよ」


 リシアの胸が跳ねる。


 エルバは最後に、楽しそうに告げた。


「そこにあるのは、星を映す古い器だ。本物の星は、まだ君の歌を待っていない」


 黒い線がぷつりと切れた。


 エルバの気配が消える。


 星見台には、リシアとシル、そして静かに光る星形の金属板だけが残った。


 リシアは膝をついた。


 力が抜ける。


 シルが慌てて駆け寄り、リシアの手に前足を置いた。


「大丈夫」


 リシアはそう言った。


 けれど、声は少し震えている。


 星の断章ではなかった。


 それでよかったと思う気持ちと、少しだけ落胆する気持ちがあった。


 星の断章ではない。


 でも、星へ近づくための器。


 星詠みの歌に関わる手がかり。


 リシアは歌詞帳を開いた。


 新しい断章は刻まれていない。


 ただ、記憶の断章の次の空白に、薄い星の光だけが滲んでいる。


 言葉にはならない。


 まだ歌にはならない。


 それでいい。


 今はまだ、星そのものに手を伸ばす時ではない。


 リシアは星形の金属板を外さなかった。


 その場へ残した。


 代わりに、周囲へ散らばった願い札の断片を布に包み、返声盤の下にあった古い箱へ納める。


 星見台に来た人々の願いを、黒譜の材料ではなく、願いとして戻すために。


 最後に、鳴らない鈴を星形の金属板の前へ置いた。


 借りたものだ。


 だが、今はここに置くのが正しい気がした。


 星見守の鈴。


 声の向きを確かめるためのもの。


 再び誰かがここへ来た時、この鈴が道しるべになるかもしれない。


 シルが鈴を見て、少しだけ寂しそうに鳴いた。


「返せるなら返せばいいって言われたけど」


 リシアは鈴を見つめた。


「ここに返すのも、返すことだと思う」


 ちい。


 シルは納得したように頷いた。


 星見台を下りる頃、空には本物の星が出ていた。


 白い星石は、もうリシアを呼ばなかった。


 ただ、足元を照らしている。


 休み場に戻ると、老人とサリア、トーリが待っていた。


 トーリは眠っている。


 サリアの膝に頭を乗せ、片手には星形の木札を握っていた。


 サリアがリシアを見て立ち上がる。


「星見台は」


「黒譜は剥がしました。少なくとも、今夜すぐ誰かを呼ぶことはないと思います」


 老人が深く息を吐いた。


「壊さなかったのか」


「はい」


「そうか」


 老人は少しだけ目を細めた。


「壊さずに済んだか」


 その声には、安堵があった。


 長い間、恐れていた場所。


 けれど、かつては人々が星を見上げた場所。


 壊されずに済んだことを、この老人は喜んでいる。


 リシアはそれを見て、選び間違えなかったのだと少しだけ思えた。


「鈴は、星見台に置いてきました」


 老人は静かに頷いた。


「なら、帰る場所を見つけたんだな」


 リシアは礼をした。


 その夜、休み場で少しだけ眠る。


 夢は見なかった。


 アイシャの声も聞こえなかった。


 それが寂しいようで、少しほっとする。


 夜明け前、リシアは目を覚ました。


 シルが隣で丸くなっている。


 外へ出ると、東の空が淡く明るくなり始めていた。


 星はまだいくつか残っている。


 リシアは胸元の歌詞帳に触れた。


 星の断章は、まだない。


 けれど、星見台で得たものはある。


 本物の声と、欲しい声は違う。


 聞きたいからといって、その声を本物にしてはいけない。


 壊さず、歌わず、見ないふりもしない選び方がある。


 リシアはそのことを、忘れないように胸へ置いた。


 その時、歌詞帳の空白に、短い文字が浮かぶ。


 星は答えではない。


 願いを映す、遠い鏡。


 文字はすぐに消えた。


 断章ではない。


 けれど、次の星へ続く小さな道標だった。


 リシアは空を見上げる。


 まだ夜の名残を抱いた星が、ひとつだけ淡く瞬いていた。



今回は、星見台の黒譜を剥がす回でした。


リシアは、星見台を壊しませんでした。


歌って押し返すこともしませんでした。


そして、見ないふりもしませんでした。


かつて願い歌を返していた場所を、黒譜の材料にされていた声から少しずつほどき、本来の姿へ戻すことを選びました。


アイシャの姿をした返り声は、本物ではありませんでした。


けれど、それが痛まないわけではありません。


本物の声と、欲しい声は違う。


そのことを抱えながら、リシアはまだ見つからない星の断章へ、少しだけ近づいていきます。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。