↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
70/139

星見台追跡編 69話 本物の声と欲しい声

リシアは、星見道へ入り込んだトーリをサリアとともに連れ戻した。

星見台は、失った人の声をただ返す場所ではなく、聞きたい声を持つ人の願いに触れ、その人を上へ呼ぶ場所になっていた。

休み場に戻ったリシアは、星見守が使っていたという鳴らない鈴を老人から預かる。

旧星見台跡イオラは、かつて願い歌を返す穏やかな場所だったが、今は黒譜に歪められていた。

再び星見道を登ったリシアは、返り声の中を進み、星見台本体へたどり着く。

そこに現れたのは、アイシャの姿をした影だった。

本物の声と、欲しい声。

リシアは、その違いを見極めなければならない。


 石舞台の中央に立つ影は、アイシャの姿をしていた。


 夕暮れの星明かりが、輪郭を淡く縁取っている。


 肩にかかる髪。


 少し片足へ重心をかける立ち方。


 呼ぶ時に、ほんの少しだけ語尾が明るくなる声。


 どれも、リシアの記憶にあるアイシャだった。


 違う、と頭では分かっている。


 それでも、胸は先に反応していた。


 リシアは鳴らない鈴を握りしめる。


 鈴は冷たい。


 手のひらの中で、音もなく沈黙している。


「リシア」


 影が言った。


 その声は、半円の石壁に開いた無数の穴から遅れて返ってくる。


 リシア。


 リシア。


 リシア。


 同じ名前が、いくつもの距離で重なった。


 まるで、どこから呼ばれているのか分からなくするために。


 シルが石舞台の縁で毛を逆立てていた。


 いつものように飛びかかることはしない。けれど、前足は低く構え、青いリボンが小さく震えている。


 リシアは一歩も動かなかった。


 影は少し寂しそうに笑う。


「そんな顔しないで。やっと会えたのに」


 会えた。


 その言葉だけで、胸の奥が強く痛んだ。


 会いたかった。


 ずっと。


 灰鐘で、名簿にアイシャの名前を見た時から。


 いや、それよりずっと前から。


 戦死扱いだと聞かされた日から。


 遺体が見つからなかったと知った日から。


 手紙を読めずにしまい込んだ夜から。


 リシアの心の底に沈んでいた声が、ふいに浮かぶ。


『どうして、帰ってこなかったの』


 それは誰の心歌でもない。


 リシア自身の奥にあった声だった。


 星見台は、その小さな揺れを見逃さなかった。


 影が一歩、こちらへ近づく。


「ごめんね」


 リシアの息が止まる。


「帰れなくて、ごめん」


 言ってほしかった言葉だった。


 ずっと。


 自分では認めたくなかったけれど、リシアはその言葉を待っていたのかもしれない。


 アイシャに謝ってほしかったのではない。


 ただ、帰れなかったことを、アイシャ自身の声で認めてほしかった。


 そうすれば、自分の中の時間が少しだけ進む気がした。


 影は優しく続ける。


「リシアのせいじゃないよ」


 その瞬間、リシアの指が震えた。


 鳴らない鈴が、手の中で少しだけ傾く。


 前ではない。


 右でも左でもない。


 下へ。


 足元へ重さが落ちる。


 リシアは目を伏せた。


 違う。


 今の言葉は、近すぎる。


 アイシャが言いそうな言葉ではある。


 でも、今リシアが一番欲しい言葉でもある。


 欲しい言葉だからこそ、すぐには信じられない。


 影はリシアの沈黙を見て、さらに声を柔らかくした。


「進軍詩のことも、灰鐘のことも、何もかも。リシアは悪くない。もう苦しまなくていい」


 石壁がその言葉を繰り返す。


 悪くない。


 苦しまなくていい。


 もういい。


 そのたびに、黒い譜面線が星見台の壁を静かに走った。


 壁の穴が、リシアの呼吸を測るように淡く光る。


 エルバの紙片に書かれていた言葉がよみがえる。


 聞き分けてごらん。


 本物の声と、欲しい声を。


 君が間違えれば、星はもっと上手に歌える。


 リシアはゆっくり息を吸った。


 この星見台は、答えをくれる場所ではない。


 欲しい答えを探り、形にして返す場所だ。


 影がまた近づく。


 石舞台の中央から、あと数歩。


「ねえ、リシア。こっちに来て。全部話すから」


 全部。


 その言葉は、また胸に触れた。


 灰鐘で見なかった続き。


 アイシャがノエルを逃がした後、何があったのか。


 なぜ戦死扱いのままになったのか。


 どうして戻らなかったのか。


 この影は、それを話すと言っている。


 たとえ嘘でも、聞いてしまいたい。


 リシアは、そんな自分を否定できなかった。


 シルが鋭く鳴く。


 ちいっ。


 リシアはその声で、足が半歩だけ動いていたことに気づいた。


 影の方へ。


 自分で選んだつもりの一歩。


 けれど、選ばされていた一歩。


 リシアはその足を戻した。


「アイシャ」


 初めて、リシアは影へ呼びかけた。


 声が石壁へ返る。


 アイシャ。


 アイシャ。


 アイシャ。


 影は嬉しそうに微笑む。


「うん」


「ひとつ、聞いてもいい?」


「もちろん」


 その返事は早すぎた。


 生前のアイシャなら、内容を聞く前に胸を張って頷き、あとで困ることはあった。


 でも、今の影の早さには、迷いがない。


 質問に答える準備をしているのではない。


 リシアが望む返事を探す準備をしている。


「私の歌、好きだった?」


 リシアは静かに尋ねた。


 影は少し目を細める。


「好きだったよ」


 すぐに答えた。


 リシアの胸が痛む。


「どうして?」


「優しくて、人を救える歌だったから」


 石壁がその言葉を返す。


 人を救える歌。


 優しい歌。


 リシアは目を伏せた。


 違う。


 間違ってはいない。


 でも、違う。


 あの日、雨の物置でアイシャはそう言わなかった。


 上手いかどうかも分からないと言った。


 でも、好きだと言った。


 帰りたくなる、と言った。


 誰かを救えるから好きだなんて、言わなかった。


 リシアはもう一つ尋ねる。


「食堂のパンの歌、覚えてる?」


 影は笑った。


「覚えてるよ。固いパンも、スープにつければ勝てる」


 リシアの心臓が跳ねた。


 その言葉は合っている。


 灰鐘でも見た。


 ノエルの前で、アイシャが口だけで歌っていた。


 影は続ける。


「リシアを励ますために歌ったんだよね」


 リシアは静かに首を横へ振った。


「違う」


 影の笑みが、ほんの少しだけ止まった。


「違う?」


「あれは、私を励ますためだけじゃなかった」


 リシアは、当時の食堂を思い出す。


 固いパン。


 薄いスープ。


 豆が少ないと文句を言うアイシャ。


 笑い出す周囲の隊員たち。


「あれは、ただパンに勝つ歌だった」


 シルが少しだけ耳を動かした。


 影は黙る。


 半円の壁が、その沈黙を拾い損ねたように小さく軋んだ。


 リシアは続ける。


「アイシャは、私を救おうとして歌ったんじゃない。たぶん、私が落ち込んでるのは分かってた。でも、あの時の歌はもっと雑で、もっと変で、もっと何でもない歌だった」


 影の表情が少しだけ揺らいだ。


 それは怒りではない。


 困惑でもない。


 空白だった。


 返すべき言葉を探している。


 星見台が、リシアの記憶をなぞり直しているのが分かる。


 壁の穴から、小さな囁きが漏れた。


 パン。


 スープ。


 勝てる。


 豆。


 断片がばらばらに返る。


 影はすぐに笑みを戻した。


「そうだったね。変な歌だった」


 今度は、先ほどより本物に近い。


 リシアは胸が痛んだ。


 この星見台は学ぶ。


 間違いを直し、リシアの反応に合わせて、よりアイシャらしくなる。


 だから、長く話してはいけない。


 リシアが問いを重ねるほど、影は本物に近づいてしまう。


 シルがリシアの足元に寄った。


 小さな前足で、鳴らない鈴を指す。


 リシアは鈴を握り直した。


 重さはまだ下へ落ちている。


 この影の声は、どこからでもなく、リシア自身の欲しい場所へ落ちている。


「もうひとつだけ」


 リシアは言った。


 影は微笑む。


「いいよ」


「アイシャなら、今の私に、星詠みの歌を完成させろって言う?」


 その問いに、影は一瞬だけ止まった。


 ごく短い間だった。


 だが、リシアは見逃さなかった。


 星見台が答えを探している。


 リシアの欲しい答え。


 エルバが欲しい答え。


 黒譜が利用できる答え。


 その三つの間で迷ったような沈黙だった。


 やがて影は、優しく言った。


「完成させて」


 リシアの背筋が冷える。


「リシアならできる。星詠みの歌を完成させれば、失った声を全部返せる。私のことも、みんなの記憶も、悲しみも。きっと全部、正しい形に戻せる」


 星見台の壁がその言葉を増幅する。


 完成させて。


 全部返せる。


 正しい形に。


 黒い譜面線が、石舞台の床を走った。


 リシアの足元へ近づく。


 まるで、その答えに頷けば、舞台そのものが次の歌を始めるように。


 リシアは息を止めた。


 星詠みの歌を完成させれば、失った想いを返せる。


 それは、リシアの旅の先にあるかもしれない答えだ。


 完全な嘘ではない。


 だからこそ危険だった。


 影は手を差し出す。


「ねえ、リシア。もう迷わなくていいよ。私がそう言ってるんだから」


 その一言で、リシアの中の何かが静かになった。


 私がそう言ってるんだから。


 アイシャの姿をしている。


 声も似ている。


 記憶も学んでいる。


 けれど、その言葉は違う。


 アイシャは、リシアに考えるなとは言わなかった。


 怖いなら怖いまま持っていけばいいと言った。


 帰りたいなら、その場所を置いていかないために行ってきますと言えばいいと言った。


 選べないなら楽になる、とは言わなかった。


 迷わなくていい、と奪うようには言わなかった。


 リシアはようやく、まっすぐ影を見た。


「あなたは、アイシャの声じゃない」


 影の笑みが止まる。


 石壁の囁きも、一瞬だけ途切れた。


 リシアは続けた。


「アイシャに似た声。私が欲しかった答え。星見台が返したもの」


「どうして、そんなこと言うの」


 影の声が震えた。


 その震え方まで、よく似ている。


 リシアの胸は痛んだ。


 痛まないわけではない。


 でも、もう一歩も動かなかった。


「あなたは、私に選ばせない」


 返り声が乱れる。


 石壁の穴から、別々の声が漏れた。


 選ばせない。


 選ばせて。


 選ばせて。


 灰鐘の寝台に刻まれていた言葉が、星見台の壁に反響する。


 リシアは鈴を胸の前へ持ち上げた。


 鳴らない鈴は、音を出さない。


 けれど、手の中で下へ落ちていた重さが、少しだけ右へ傾いた。


 右の壁。


 エルバの紙片があった場所。


 その奥で、黒譜の線が濃く集まっている。


 核は、アイシャの影ではない。


 影は囮だ。


 リシアの反応を集め、声を学ぶための表。


 本体は、返声盤の壁の奥にある。


 シルが同じ場所へ走った。


 壁の穴の一つへ前足をかけ、鋭く鳴く。


 ちいっ!


 黒い線がシルを避ける。


 完全に逃げるわけではない。


 触れたくないものへ触れないように、線が歪む。


 リシアはその隙を見た。


 歌詞帳を開く。


 今度は、必要だった。


 歌うためではない。


 黒譜の流れを見るために。


 ページに浮かんだ文字は短い。


 声は、欲しい形に歪められる。


 名は、欲しい答えのために使われる。


 リシアはそれを声にしなかった。


 ただ、目で読み、胸の中で意味を掴む。


 影が叫ぶ。


「リシア、行かないで」


 その声に、足が止まりそうになる。


 まただ。


 今度は、帰ってこなかったアイシャではなく、置いていかれるアイシャの声を使ってくる。


 リシアの中の痛みを、星見台は次々に探る。


 シルが壁の前で鳴いた。


 ちいっ、ちいっ。


 リシアは一歩踏み出した。


 影ではなく、右の壁へ。


 アイシャの姿をした影が背後で言う。


「私を見捨てるの?」


 その声は鋭かった。


 リシアの背中に刺さる。


 彼女は一度だけ目を閉じた。


 見捨てたくない。


 もし本当にアイシャがそこにいるなら。


 もし今度こそ手を伸ばせるなら。


 けれど、これはその願いを使う声だ。


 リシアは振り返らずに言った。


「本物のアイシャを、あなたで終わらせたくない」


 石舞台の空気が震えた。


 影が何かを言う前に、リシアは壁へ向かって走った。


 シルが指している穴の奥に、黒い紙片が詰め込まれている。


 その紙片には、細かい文字がびっしりと書かれていた。


 名前。


 願い。


 失った人の呼び名。


 おそらく、ここを訪れた人々が残した願い札の断片だ。


 それらを黒譜で縫い合わせ、返声盤へ貼りつけている。


 人々の聞きたい声を材料にして、星見台は返り声を作っていた。


 リシアは紙片へ手を伸ばした。


 触れた瞬間、声が一斉に流れ込む。


『母さん』


『帰ってきて』


『謝りたかった』


『忘れたくない』


『もう一度だけ』


 いくつもの心歌が、黒譜に絡まっている。


 リシアは歯を食いしばった。


 聞きすぎると、自分の感情と混ざる。


 分かっている。


 でも、今は完全に閉じるわけにもいかない。


 彼女は歌詞帳を片手で押さえ、もう片方の手で黒い紙片の端を掴んだ。


 剥がす。


 紙片が抵抗するように震える。


 石壁の穴から、アイシャの声が何度も返る。


 リシア。


 やめて。


 聞いて。


 お願い。


 その声は、リシアの手を止めるために、どんどん弱く、悲しげになる。


 リシアの目に涙が滲んだ。


 それでも、手を離さなかった。


「あなたは、私の答えじゃない」


 紙片を引く。


 黒い譜面線が指先に巻きついた。


 冷たい。


 皮膚の下へ入り込もうとする感覚がある。


 シルが飛びつき、リシアの袖を強く引いた。


 引き戻すのではなく、踏ん張るために。


 小さな体で、リシアの腕が持っていかれないよう支えている。


 リシアは息を吸う。


 歌わない。


 返り声に自分の歌を渡さない。


 ただ、言葉を置く。


「返して」


 短い声だった。


 歌ではない。


 命令でもない。


「その人たちの声を、あなたの材料にしないで」


 黒い紙片が裂けた。


 石壁の穴から、風が抜けるような音がした。


 アイシャの影が揺らぐ。


 輪郭が崩れ、星明かりの中でかすれていく。


 けれど、完全には消えない。


 床の黒譜線が、今度は舞台の中央へ集まり始める。


 剥がした紙片の奥に、もう一つ何かがあった。


 小さな星形の金属板。


 古い。


 黒譜に覆われているが、その下に薄い銀色が見える。


 星見台の核。


 あるいは、返声盤の中心。


 リシアがそれを見た瞬間、歌詞帳が強く震えた。


 火、沈黙、名、雪、境界、記憶。


 その断章たちの奥で、まだ空白だった場所が、かすかに光る。


 星。


 リシアは息を止めた。


 星の断章。


 そう思った瞬間、背後の影が低く笑った。


 アイシャの声ではない。


 エルバの声だった。


「惜しいね。見つけるのが、少し早い」


 石舞台の中央に、黒い譜面線が立ち上がる。


 アイシャの影がほどけ、その向こうに、薄くエルバの輪郭が重なった。


 本人ではない。


 黒譜を通した遠い映像だ。


「でも、触れてくれて助かったよ。君の揺れは、やはりよく響く」


 リシアは星形の金属板から手を離さなかった。


 シルが低く唸る。


 エルバの声は楽しげだった。


「次は、もっと本物に近づける」


 その言葉と同時に、星見台の床が強く光った。


 剥がしたはずの黒譜線が、舞台の中央から再び広がり始める。


 リシアは星形の金属板を掴んだまま、奥歯を噛んだ。


 このまま引き抜けば、何かが壊れる。


 しかし、今ここで壊していいものなのか分からない。


 星見台はもともと、人の願いを返す場所だった。


 壊すべきは黒譜か。


 それとも、返声盤そのものか。


 迷った一瞬、エルバの声が甘く落ちる。


「さあ、選んでごらん。壊すか、歌うか。それとも、また見ないふりをするか」


 リシアの手の中で、鳴らない鈴が初めて震えた。


 音はしない。


 けれど、その震えは確かに、リシアの掌へ伝わった。


今回は、アイシャの姿をした返り声とリシアが向き合いました。


返り声は、リシアが一番欲しかった言葉を与えようとします。


帰れなくてごめん。


リシアのせいじゃない。


もう迷わなくていい。


けれどリシアは、その声がアイシャ本人ではなく、自分の願いに合わせて作られたものだと気づきます。


本物の声と、欲しい声。


その違いを見極めようとした先で、リシアは星見台の奥にある星形の金属板を見つけました。


そこに何が眠っているのか。


そして、エルバが何を狙っているのか。


星見台の夜は、まだ終わっていません。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。