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星見台追跡編 68話 返り声の坂

リシアは、母の声を聞きたいと願って星見道へ入った少年トーリを追った。

姉サリアとともに石段を登る途中、サリア自身も亡き母の声に呼ばれ、足を止めかける。

星見台は、ただ声を返す場所ではなかった。

聞きたい声を持つ人の願いに触れ、その人を上へ呼んでいく場所だった。

トーリは母の声を追い、星見台へ向かおうとしたが、サリアの「私はここにいる」という声によって立ち止まる。

リシアは歌わず、シルも小さな体で道を塞ぎ、トーリは姉の腕の中で泣き出した。

しかし、リシアの耳にもアイシャに似た声が届く。

今は振り返らない。

そう決めて、リシアはまだ見えない星見台を見上げた。


 トーリは、しばらく泣き止まなかった。


 石段の途中にしゃがみ込み、サリアの服を両手で握っている。声を上げて泣くのではなく、息を詰まらせながら、何度も何度も涙をこぼしていた。


 サリアは弟の背を撫で続けた。


 うまい言葉は出てこない。


 母の声はもう本物ではないと言うこともできない。


 星見台が返した声を偽物だと切り捨てれば、トーリが聞きたかったものまで踏みつけてしまう。


 だから彼女は、ただ弟を抱きしめていた。


「帰ろう」


 ようやくサリアが言った。


 トーリは小さく首を横に振りかけた。


 その唇が、星見台の方へ向く。


 リシアは身構えた。


 だが、トーリは上を見なかった。


 代わりに、石段に落ちた星形の木札を見つめる。


「母さん、怒らないかな」


「怒らないよ」


 サリアはそう言いかけて、少しだけ言葉を止めた。


 それから、言い直す。


「怒るかどうかは、もう聞けない。でも、私は怒らない」


 トーリの目が揺れる。


「姉ちゃんが?」


「うん。私は怒らない。泣いてもいい。聞きたくなってもいい。でも、一人で行かないで」


 リシアはその言葉を静かに聞いた。


 答えを母に預けない。


 今ここにいるサリア自身の言葉として、弟へ渡した。


 それが、この場所では何より大事だった。


 トーリは石段の木札を拾おうとする。


 リシアは止めなかった。


 少年の指が木札へ触れる。


 割れた星の片割れ。


 トーリはそれを胸に抱き、サリアの手の中にあるもう片方と見比べた。


 二つを合わせれば、少しいびつな星になる。


 欠けたところは戻らない。


 けれど、形は分かる。


 トーリの胸の奥から、小さな心歌がこぼれた。


『帰ったら、母さんの声が遠くなる』


 リシアはその痛みに触れすぎないよう、目を伏せた。


 遠くなるのが怖い。


 それは当然だった。


 聞きたい声を手放すことは、もう一度別れることに近い。


 リシアにも分かる。


 分かってしまう。


 だからこそ、ここで自分の言葉を重ねすぎてはいけなかった。


「下りましょう」


 リシアは短く言った。


「ここは、立ち止まるには危ないです」


 サリアは頷き、トーリの手を握った。


 下りる道は、登る時より長く感じた。


 星見台の方からは、もう母の声は聞こえない。だが、その沈黙がかえって怖かった。呼び声が消えたのではなく、こちらが弱るのを待っているような気配がある。


 シルはリシアの肩ではなく、少し前を歩いた。


 白い星石を一つずつ確認し、黒い線が濃い場所では立ち止まって、リシアに合図する。小さな相棒の動きは真剣で、トーリも途中からその後ろ姿をじっと見ていた。


「そのリス、怖くないのかな」


 トーリが小さく言った。


 シルは振り返り、胸を張った。


 ちい。


 怖くない、と言ったように見える。


 しかし次の瞬間、黒い星石のそばを大きく避けて歩いた。


 トーリが少しだけ笑った。


「怖いんじゃん」


 ちいっ。


 違う。


 シルは抗議するように鳴いた。


 サリアの口元にも、わずかな笑みが浮かんだ。


 その小さな笑いだけで、道の空気が少し変わった。


 星見道は人の悲しみに触れる。


 けれど、悲しみ以外のものが全くないわけではない。


 弟を笑わせるリス。


 それを見て少し笑う姉。


 泣いた後で、まだ歩ける子どもの足。


 そういうものも、ここには確かにある。


 二股杉を過ぎる時、トーリは一度だけ上を振り返りそうになった。


 サリアが手を強く握る。


 リシアは何も言わなかった。


 トーリは唇を噛み、そのまま前を向いた。


 振り返らないことを、誰かに命じられたからではなく、自分で選んだ。


 それを見届けてから、リシアは少しだけ息を吐いた。


 休み場へ戻る頃には、空の色が傾き始めていた。


 老人は水場のそばで待っていた。


 遠くからトーリの姿を見つけると、深く息を吐く。安堵の表情はすぐに消えたが、肩から力が抜けたのは分かった。


「戻ったか」


 サリアが何度も頭を下げる。


「ありがとうございます。リシアさん、本当に」


「まだ終わっていません」


 リシアは静かに言った。


 サリアは顔を上げる。


 トーリも木札を握ったまま、リシアを見る。


「星見台の上に、黒譜の仕掛けが残っています。トーリさんを呼んだ声も、まだ消えたわけではありません」


 老人の顔が険しくなった。


「今から上がる気か」


「はい」


「日が傾いている。夜に近づけば、返り声は強くなる」


「だから、今行きます。完全な夜になる前に、せめて何が置かれているのか見ます」


 老人はすぐには頷かなかった。


 長い沈黙の後、彼は休み場の奥へ行き、古い布包みを持って戻ってきた。


 中には、鈍い銀色の小さな鈴が入っていた。


 鈴といっても、舌はない。


 振っても鳴らない。


「星見守が使っていたものだ」


「星見守?」


「昔、星見台の管理をしていた者たちだ。祭りの日に迷った子を探し、酔った大人を下ろし、願い歌が長くなりすぎた者を止める役目だった」


 老人は鈴をリシアへ渡した。


「これは鳴らん。だが、持っていると、自分の声がどちらを向いているか分かると言われていた」


 リシアは鈴を手のひらに乗せた。


 冷たい。


 小さいが、不思議と重みがある。


「どう使うんですか」


「分からん」


 老人はあっさり言った。


 リシアは思わず瞬きをする。


「分からないんですか」


「わしは星見守ではない。ただの休み場番だ。だが、昔の守り道具を捨てずに預かっていた」


 老人は少しだけ目を逸らす。


「誰かがまた必要とするかもしれんと思ってな」


 リシアは鈴を握った。


「お借りします」


「持っていけ。返せるなら返せばいい」


 その言い方に、リシアは胸の奥が少し痛んだ。


 帰ってこい、とは言わない。


 でも、返せるなら返せばいい。


 それは、この場所の人が言える精一杯の祈りなのかもしれない。


 サリアがトーリの肩を抱いたまま、リシアへ向き直った。


「私たちは」


「ここにいてください」


 リシアはすぐに言った。


「もう一度上がれば、同じ声が聞こえるかもしれません。今は、戻ってきたことを離さない方がいいです」


 サリアは悔しそうな顔をした。


 トーリも何か言いかける。


 だが、サリアは弟の手を見て、ゆっくり頷いた。


「分かりました」


 リシアはトーリの前に膝をついた。


「木札を、サリアさんと合わせて持っていてください」


「なんで?」


「上からの声がまた聞こえた時、ここにある声を忘れないためです」


 トーリは木札を見る。


 それから、サリアの手の中の片割れへ自分の木札を合わせた。


 いびつな星ができる。


 トーリは小さく頷いた。


「リスも行くの?」


 シルが胸を張る。


 ちい。


「気をつけて」


 トーリは真剣に言った。


 シルは少し得意げに尻尾を振った。


 リシアは休み場を出る前に、老人から星見台のことをもう少し聞いた。


 昔、星見台には返声盤と呼ばれる石の円盤があったこと。


 願い歌を歌うと、声が星見台の壁に反響し、自分の願いを少し遅れて返してくれる仕組みだったこと。


 魔術ではなく、音と石の構造による遊びに近かったこと。


 だが、戦争の後、その仕組みに歌術の残響が絡み始めたこと。


 そして近年、黒譜の痕が現れるようになってからは、返ってくる声が本人の記憶に似すぎるようになったこと。


 リシアはその話を聞きながら、星見台が最初から人を奪う場所ではなかったのだと知った。


 願いを映す場所。


 声を少し遅れて返す場所。


 それが今は、聞きたい声を餌にして人を招く場所へ変えられている。


 まただ、とリシアは思った。


 静音符も、灰鐘も、最初から悪意だけで生まれたものではなかった。


 眠りたい夜に、音を遠ざけるもの。


 苦しみを鎮めるためのもの。


 星へ願いを投げて、少しだけ自分の声を聞き直すもの。


 救いだったものが、選ぶ力を奪う形へ変えられていく。


 黒譜は、その隙間に入り込む。


 リシアは鈴を胸元の紐へ結び、シルを肩へ乗せた。


「行こう」


 ちい。


 二度目の星見道は、先ほどより暗く見えた。


 日が傾いているせいだけではない。


 白い星石の光が、少し強くなっている。昼の光を受けて輝いていたのではなく、石そのものが淡く光り始めているのだ。


 風がないのに、木々の葉がかすかに鳴る。


 その中に、声のようなものが混じる。


 リシア。


 リシアは足を止めなかった。


 振り返らない。


 そう決めて歩く。


 だが、声は一度で終わらなかった。


 リシア、こっち。


 アイシャの声に似ている。


 いや、似すぎている。


 雨の日の物置で笑った時の明るさ。


 食堂で変な歌を歌った時の調子。


 遠征前夜、見張り台の柱のそばで「帰る場所を置いていかないため」と言った時の少し照れた響き。


 声は、その全部を少しずつ混ぜてくる。


 リシアは鈴を握った。


 鳴らない鈴は、冷たいままだ。


 けれど、手のひらの中でほんの少しだけ重さが偏る。


 左。


 声がする方へ、鈴の重みが引かれているように感じた。


 リシアは右足を意識して踏み出す。


 道はまっすぐ上へ続いている。


 声は左の木立の奥から聞こえる。


 そちらに道はない。


 シルがリシアの頬を軽く叩いた。


 ちい。


「うん。違う方から聞こえてる」


 声はまた変わった。


 リシアさん。


 今度は、エマの声に似ていた。


 水鈴町で声を失っていた少女。


 ほんの一音を選んだ子。


 続いて、別の声が重なる。


 歌術師さん。


 トーリの声だ。


 いや、トーリ本人は下にいる。


 返り声だ。


 星見台は、リシアが知っている声を探っている。


 記憶を使って、足を止めさせようとしている。


 リシアは歌詞帳へ触れた。


 開かない。


 今開けば、星見台はもっと多くの声を拾う。


 それが分かる。


 だが、心の奥に別の衝動があった。


 もし本物が混ざっていたら。


 その問いが、足元へ絡みつく。


 返ってくる声の中に、本当にアイシャの残響が一つでも混ざっていたら。


 聞かずに進んでいいのか。


 灰鐘で見なかった続きが、ここにあるなら。


 その心の揺れを見透かしたように、声が近づいた。


 リシア。


 今度は、すぐ背後だった。


 シルが毛を逆立てる。


 リシアは振り返りそうになった。


 足が止まる。


 喉の奥が震える。


 その時、鳴らない鈴が、音ではなく重みで知らせた。


 後ろではない。


 声は背後から聞こえる。


 でも、鈴の重みは足元へ落ちている。


 つまり、声は方向を持っていない。


 耳の中へ直接置かれている。


 リシアは深く息を吸った。


「今の声には、足音がない」


 声に出して言った。


 自分へ聞かせるために。


「息もない。近くにいるなら、風が動く。だけど、動いていない」


 シルが小さく頷くように鳴いた。


 リシアは再び歩き出す。


 背後の声は、少しだけ遠ざかった。


 石段は二股杉を越え、さらに上へ続く。


 トーリを見つけた広場を過ぎると、空が少し開けた。木々の枝の隙間から、夕方の星がひとつ見え始めている。


 まだ夜ではない。


 それなのに星が見える。


 リシアは足を止め、空を見上げた。


 星の光が早すぎる。


 自然な空ではないのかもしれない。


 白い星石が、同じ光で薄く光っていた。


 その先に、古い石門が現れた。


 門といっても扉はない。


 二本の石柱が立ち、その上に割れた横石が渡されているだけだ。柱には星の彫刻があり、そこへ黒い譜面線が絡みついていた。


 星見台入口。


 かすれた文字が残っている。


 石門の奥には、平らな広場が見えた。


 円形の石舞台。


 その周囲に半円状の壁。


 壁には無数の小さな穴が開いている。


 老人が言っていた返声盤の仕組みだろう。


 声を遅らせ、少し変えて返すための音の穴。


 かつては祭りの遊びだったはずの場所。


 今、その穴の一つ一つに黒い線が入り込んでいる。


 リシアが石門の前に立った瞬間、半円の壁が一斉に囁いた。


 リシア。


 リシアさん。


 歌術師さん。


 お姉ちゃん。


 勇者様を助けた人。


 変な歌術師。


 声は重なり、混ざり、別々の方向から返ってくる。


 リシアは耳を塞がなかった。


 塞げば、内側で大きくなる気がした。


 代わりに、鈴を握る。


 鳴らない鈴は、今度ははっきり重かった。


 前へ。


 石舞台の中央へではない。


 右の壁沿いへ。


 そこに、黒譜の中心がある。


 シルが肩から降り、石門の内側を睨んだ。


 壁の右端に、黒い紙片が貼られている。


 紙片は風もないのに揺れていた。


 リシアは慎重に近づく。


 紙片には、エルバの字があった。


 聞き分けてごらん。


 本物の声と、欲しい声を。


 その下に、もう一行。


 君が間違えれば、星はもっと上手に歌える。


 リシアの背筋が冷えた。


 星見台は、リシアに聞かせようとしているだけではない。


 リシアの反応を覚えようとしている。


 どの声に揺れるか。


 どの言葉で足を止めるか。


 どの記憶なら、歌術師の心へ届くか。


 それを学び、返り声をより本物に近づける。


 リシアは紙片へ手を伸ばさなかった。


 触れれば、エルバの思惑に繋がる気がした。


 その時、石舞台の中央に光が差した。


 夕陽ではない。


 上空の早すぎる星が、円形の床へ落ちている。


 その光の中に、人影が立った。


 輪郭は曖昧だ。


 でも、髪の長さ。


 立ち方。


 少しだけ片足に重心をかける癖。


 リシアは息を止めた。


 アイシャに見えた。


 シルが鋭く鳴く。


 ちいっ!


 人影が笑った。


 声が、石壁のすべての穴から返る。


「リシア、遅かったね」


 それは、リシアが一番聞きたかった声だった。


 同時に、一番聞いてはいけない声でもあった。


 リシアは鈴を握りしめる。


 鳴らないはずの鈴は、手の中で冷たく沈黙していた。


 石舞台の中央で、アイシャの姿をした影が手を差し出す。


「こっちへおいで。今度こそ、聞かせてあげる」


 リシアは一歩も動かなかった。


 けれど、胸の奥だけが、確かにその声へ向かって揺れた。



今回は、トーリとサリアを休み場へ戻し、リシアが改めて星見台へ向かう回でした。


星見台は、かつては願い歌を返す穏やかな場所でした。


けれど今は、黒譜によって「聞きたい声」を探り、人の心を上へ引き寄せる場所に変えられています。


リシアは、星見守の鳴らない鈴を手に、返り声の中を進みます。


そして星見台の中央に現れたのは、アイシャの姿をした声でした。


本物の声と、欲しい声。


その違いを、リシアは見極めなければなりません。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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