星見台追跡編 66話 旧星見道へ
灰鐘修道院で記憶の断章を得たリシアは、山道の野営地でアイシャとの過去を思い出した。
初めての遠征前夜、アイシャは見張り台の柱に「行ってきます」と刻んだ。
帰れると約束するためではなく、帰りたい場所を持っていくために。
現在のリシアは、灰鐘の記録から見つかった旧星見台跡イオラへの道を進むことを決める。
セレナとユーディは灰鐘の記録を王都へ持ち帰り、リシアとシルは北東の道へ向かった。
まだ答えは揃っていない。
だから、リシアは「行ってきます」と胸の奥で告げ、次の旅へ進む。
北東へ続く道は、王都へ戻る街道よりも細かった。
踏み固められた土の上に、ところどころ白い石が埋め込まれている。最初はただの目印かと思ったが、歩いているうちに、それが星の形に並べられていることにリシアは気づいた。
五つの小石。
少し間を空けて、また五つ。
夜でも道を見失わないようにするためのものだろうか。
あるいは、ここを歩いた誰かが、空ではなく地面に星を置いたのかもしれない。
シルは白い石を一つずつ確認するように跳ねていた。
最初は楽しそうだった。
けれど、三つ目の星印を越えたあたりで、彼は急に足を止めた。
鼻先を地面へ近づける。
耳がぴんと立つ。
「どうしたの?」
リシアが膝をつくと、シルは前足で白い石のひとつを叩いた。
石の端に、黒い線がついていた。
泥ではない。
焦げ跡にも似ているが、火で焼けたものとは違う。細い譜面線のように、石の表面へ浅く刻まれている。
黒譜の痕。
リシアはすぐには触れなかった。
手袋越しに石の周りの土を払う。黒い線は星形の石の一部だけに入り込み、まるで星の角を一つ欠けさせているように見えた。
エルバが通ったのか。
あるいは、黒譜の民の別の誰かか。
リシアは灰鐘で写した道筋の紙を広げた。
旧星見台跡イオラ。
その名は、灰鐘の切り取られた記録の端に残っていた。
アイシャの名簿と直接繋がっているかは、まだ分からない。だが、エルバが持ち去ったページの流れがこの道へ向かっているなら、追わないわけにはいかなかった。
シルが石から一歩離れる。
嫌がっている。
それだけで、リシアは石を持ち上げるのをやめた。
「持っていかない。見ただけにするね」
ちい。
シルは小さく鳴いた。
それでいい、と言うような声だった。
昼前になると、道の先に小さな休み場が見えた。
低い屋根の下に長椅子が置かれ、隣には水場がある。旅人のための休憩所だろう。柱には古い札がいくつも吊るされていた。
星見台まで半日。
夜道は避けよ。
星石を持ち帰るな。
どの札も、文字が少し古い。
しかし、その中に一枚だけ新しい札があった。
星が鳴る夜は、歌うな。
リシアはその札の前で足を止めた。
字は乱れている。
急いで書いたようにも、怯えながら刻んだようにも見える。
シルが肩に戻ってきた。
首元のリボンが風に揺れる。
リシアは札に触れようとして、途中で止めた。
灰鐘で学んだばかりだ。
残されたものへ、すぐに歌で触れてはいけない。
まず見る。
次に考える。
必要なら、その時に聞く。
休み場の奥から、人の声がした。
「その札、読めるのかい」
振り返ると、背の曲がった老人が水桶を運んでいた。
旅人の休み場を管理しているのだろう。腰には古い鍵束が下がり、肩には擦り切れた布をかけている。
「はい。星が鳴る夜は、歌うな、と」
「読めるなら、守った方がいい」
老人は桶を置き、リシアの徽章を見る。
その目が一瞬だけ細くなった。
恐れというより、困ったものを見つけた時の顔だった。
「歌術師さんか」
「はい」
「なら、なおさらだ。悪いことは言わん。星見台へ行くなら、昼のうちに見て、夕方には戻りなさい」
リシアは礼をしてから尋ねた。
「星見台で何かあったんですか」
老人はすぐには答えなかった。
水桶の取っ手を直し、札の揺れを目で追っている。
その沈黙の奥で、リシアは短い心歌を聞いた。
『また、誰かが星に連れていかれる』
リシアは息を呑みかけた。
けれど、顔には出さないようにした。
心歌は、聞こえてしまうことがある。
でも、それをすぐ本人へ突きつけていいわけではない。
老人は自分の言葉で話すまで、少し時間が必要な人に見えた。
リシアは水場の縁へ腰を下ろす。
「急ぎません。話せるところだけで大丈夫です」
老人はちらりとリシアを見た。
それから、長椅子にゆっくり腰を下ろす。
「昔はな、あの星見台は祭りの場所だった」
「祭りですか」
「ああ。星見台と言っても、学者だけの場所じゃない。旅人も、子どもも、恋人同士も、年寄りも、晴れた夜には上まで登った。石の台に寝転んで、星を見た。歌う者もいた」
老人の声は少し柔らかくなった。
「星へ願いを投げる歌だ。大した術じゃない。魔力のない、ただの歌がほとんどだった」
リシアは黙って聞いた。
ただの歌。
その言葉に、アイシャの食堂の歌がかすかに重なる。
「でも、今は歌わない方がいいんですね」
老人は頷いた。
「いつの頃からか、星見台で歌うと、返ってくるようになった」
「返ってくる?」
「自分の声じゃない声でな」
風が休み場の札を揺らした。
かたかた、と小さな音がする。
「願い歌を歌うと、忘れたはずの声が返る。死んだ家族の声。別れた相手の声。昔の自分の声。最初は、奇跡だと言う者もいた」
老人はそこで言葉を切る。
次の心歌は、もっと小さかった。
『聞きたい声ほど、帰れなくなる』
リシアは膝の上で指を握った。
心歌は二度目だ。
それ以上は追わない。
「帰れなくなる人がいたんですね」
リシアがそう言うと、老人はゆっくり頷いた。
「夜明けまで石の上に座ったまま、動かなくなる者が出た。呼んでも返事をしない。眠っているわけではない。泣いているわけでもない。ただ、星を見ている」
「その人たちは」
「連れ戻した者もいる。戻らなかった者もいる」
老人は水桶の中の水を見た。
「だから、今は誰も夜に登らん。星見台へ向かう道も、ほとんど使われなくなった」
リシアは、灰鐘の鐘下室を思い出した。
眠れば苦しくない。
聞きたい声を返す。
どちらも、最初は救いに見える。
けれど、本人が選べない形になれば、それは鎖になる。
黒譜の痕が、この道にあった。
エルバがここを選んだ理由が、少しだけ見えた気がした。
「最近、誰か通りましたか。青い髪の少女や、薄い笑みの男を見ませんでしたか」
老人の顔が強張った。
答えは、声より先に表情へ出た。
「男は見た」
「いつですか」
「三日前だ。夕方だった。星見台へ行くなら夜になると言ったが、笑っていたよ。夜の方が都合がいいと」
エルバだ。
リシアはそう思ったが、口にはしなかった。
「他には?」
「青い髪の娘は見ていない。ただ」
老人は休み場の柱に目を向けた。
そこには、小さな切れ込みがあった。
細い刃物で刻まれた印。
黒くはない。
けれど、譜面の休符に似ていた。
「その男が通った後、柱にこれが残っていた。わしにはただの傷に見えるが、気味が悪くてな」
リシアは立ち上がり、柱の前へ行った。
触れない。
目で見る。
休符のような印の下に、ごく小さな文字が刻まれていた。
聞きたいなら、登れ。
リシアの背筋に冷たいものが走った。
エルバからの誘いだ。
それも、リシアに向けたものだけではない。
この道を通り、失った声を抱えた人なら、誰でも引き寄せられる。
老人が低く言った。
「今夜は上がるな」
その声は忠告だった。
同時に、願いでもあった。
「歌術師さん。あんたの事情は知らん。だが、あそこは、聞きたい声を持っている人ほど危ない」
リシアは返事をしようとして、少しだけ遅れた。
聞きたい声。
アイシャの声。
灰鐘で聞かなかった続きを、もし星見台が返してくるなら。
そう考えた瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。
シルが肩の上で、リシアの頬に前足を当てた。
温かい。
リシアは息を吐いた。
「ありがとうございます。夜に無理はしません」
老人は少し安心したように見えた。
ただ、それだけでは終わらなかった。
休み場の奥の道から、若い女性が一人走ってきた。旅装ではない。近くの集落の人だろう。息を切らし、手には小さな布袋を握っている。
「おじいさん、弟を見ませんでしたか」
老人が立ち上がる。
「また星見道へ?」
「朝からいなくて。昨日、星見台の話を聞いてから様子がおかしくて。母の声が聞けるかもしれないって」
女性の声が震えていた。
リシアは言葉を挟まなかった。
けれど、その胸の奥から、短い心歌がこぼれる。
『お願い、もう誰も連れていかないで』
今度は、聞こえた瞬間に分かった。
これはリシアに向けられたものではない。
星見台へ向けた叫びだ。
女性はリシアを見る。
徽章に気づいたのだろう。
「歌術師さんですか」
「はい」
「私、サリアといいます。お願いです。弟を探してください。私一人じゃ、上まで行けない。あの子、母が亡くなってからずっと、声を聞きたがっていて」
老人が険しい顔になる。
「夜になる前に戻れればいいが」
太陽はまだ高い。
しかし、山道は長い。
迷えば、夕暮れにかかる。
リシアは道の先を見た。
白い星石が、木々の間へ続いている。
エルバの印。
星が返す声。
母の声を聞きたい少年。
これは、旧星見台跡へ向かうためのただの導入ではなくなった。
すでに誰かが、星見台に引き寄せられている。
リシアは老人と女性へ向き直る。
「弟さんの名前を教えてください」
「トーリです」
新しい名を聞いた瞬間、リシアはその名を胸の中で一度だけ繰り返した。
トーリ。
勝手に歌へ変えない。
まず名前として持つ。
「分かりました。探します。ただ、私は声を聞かせるために行くわけではありません。戻ってこられるように行きます」
女性は何度も頷いた。
その目には、すがるような光がある。
リシアはその光を受け止めすぎないように、少しだけ視線を外した。
必要なのは、約束ではなく準備だ。
「弟さんがよく持っているものはありますか」
女性は布袋を開く。
中には、星形の小さな木札が入っていた。
「母が作ったものです。あの子、片方をいつも持っています。これは私の分で」
リシアは木札を受け取らなかった。
「あなたが持っていてください。呼ぶ時に必要になるかもしれません」
「私が?」
「はい。あなたの声で」
女性は唇を結んだ。
怖いのだろう。
それでも、木札を握り直した。
リシアは歌詞帳を開かないまま、肩のシルに目を向ける。
「行ける?」
ちい。
シルは白い星石の道を見据えた。
怖がってはいない。
ただ、警戒している。
それが頼もしかった。
老人が水袋を渡してくれた。
「星見道は途中から石段になる。欠けている段も多い。右手に大きな二股杉が見えたら、そこから先は声が返りやすい」
「声が返りやすい?」
「誰かと一緒に歩いている気がしても、振り返るな」
女性が青ざめる。
リシアは静かに頷いた。
「分かりました」
休み場を出る前に、リシアはもう一度、柱の印を見た。
聞きたいなら、登れ。
エルバの挑発は、リシアの奥へ確かに届いている。
聞きたい。
それは本当だ。
アイシャの声を。
灰鐘の続きを。
あの日、帰れなかった理由を。
でも、今この道で最初に探すべきなのは、アイシャの答えではない。
トーリという少年だ。
リシアは胸元の歌詞帳に触れた。
まだ開かない。
けれど、閉じたまま逃げるわけでもない。
星石の道へ足を踏み出すと、木々の影が少し濃くなった。
白い石は、昼の光の中でも淡く光って見える。
シルが肩の上で、低く鳴いた。
ちい。
その視線の先に、星形の石が一つ落ちていた。
石ではない。
木札だった。
半分に割れている。
表面には、子どもの字で名前が刻まれていた。
トーリ。
リシアはそれを拾わなかった。
地面に膝をつき、まず周囲を見る。
足跡がある。
小さな靴の跡。
そして、その横にもう一つ。
大人の足跡ではない。
靴跡ですらなかった。
譜面線のような黒い跡が、少年の足跡に寄り添っている。
まるで、誰かが隣を歩いていたかのように。
リシアは息を整えた。
心歌を聞きに行くのではない。
でも、聞こえた時に、無視もしない。
木々の奥から、かすかな声がした。
『母さん』
それはトーリの心歌なのか。
星見台が返した声なのか。
まだ分からない。
リシアは顔を上げた。
星見道は、静かに山の奥へ続いていた。
今回から、旧星見台跡イオラへ向かう新しい編が始まりました。
灰鐘修道院で見つかった記録の端。
エルバが残した黒譜の痕。
そして、星見台で「聞きたい声」が返ってくるという噂。
リシアは、アイシャの声を知りたい気持ちを抱えながらも、まずは星見道へ入った少年トーリを探すことになります。
聞きたい声がある人ほど危ない場所。
旧星見台跡イオラには、まだ見えていない何かが眠っています。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




