旅路小休止編 65話 行ってきますの練習
山裾の宿を出たリシアたちは、王都へ向かう道を進んでいた。
宿でもらった固いパンをきっかけに、リシアは歌術隊時代の食堂を思い出す。
入団したばかりの頃、訓練で落ち込んでいたリシアに、アイシャは「今日のパンは少し固い。でもスープにつければ勝てる」と即興の歌を歌った。
その歌は上手なものではなかったが、リシアにとっては近すぎない場所から届く歌だった。
現在の旅路でも、シルやユーディが固いパンと格闘し、リシアはアイシャとの日常を少しだけ笑って思い出した。
夕方、リシアたちは古い野営地へ着いた。
山道と王都へ続く街道が交わる少し手前にある、石囲いの小さな広場だった。地面は踏み固められ、中央には古い焚き火跡がある。周囲には背の低い木々が並び、北側には崩れかけた見張り台の柱が一本だけ残っていた。
セレナは荷を下ろし、周囲を確認した。
「ここで休む。明日の朝には分かれ道に出る」
「分かれ道……」
「王都へ戻る道と、北東へ抜ける道だ」
リシアは頷いた。
灰鐘修道院で見つけた記録は、王都へ持ち帰らなければならない。戦死扱い名簿、鐘下室の処理記録、アイシャの名が残された証拠。それらはセレナとユーディが王都へ運ぶことになっていた。
リシアも一緒に王都へ戻ることはできる。
だが、灰鐘の記録の一部に、もうひとつの地名が残っていた。
旧星見台跡イオラ。
切り取られたページの端に、かろうじて残っていた文字だ。エルバが持ち去った記録と関わっている可能性が高い。星詠みの歌そのものに近い場所かどうかは、まだ分からない。
ただ、黒譜の線がそこへ伸びている。
それだけは確かだった。
焚き火の準備をしている間、シルは見張り台の柱へ登ろうとしていた。
柱は古く、表面が少し崩れている。リシアが止める前に、シルは半分ほど登り、そこで足場に困って固まった。
「シル、無理しないで」
ちい。
無理ではない、と言いたげな声だった。
だが、次の一歩が出ていない。
ユーディが下から両手を伸ばす。
「降りますか?」
シルはしばらく迷った後、何事もなかったようにユーディの手へ飛び降りた。
そして、すぐにリシアの肩へ戻ってくる。
負けていない顔だった。
「勝ったの?」
ちい。
勝ったらしい。
リシアは小さく笑い、柱を見上げた。
古い見張り台の柱。
そこに、細い傷がいくつも残っている。
名前。
日付。
短い言葉。
遠征へ向かう騎士や歌術隊員が、ここに何かを刻んでいったのだろう。多くは風雨で読めなくなっていたが、ひとつだけ目に止まる文字があった。
行ってきます。
不格好な字だった。
刃物で刻んだのか、線が少し曲がっている。最後のすの字だけが大きい。
リシアは息を止めた。
見覚えがある。
字そのものではない。
最後だけ大きくなる癖。
アイシャの字だ。
リシアの指が、柱へ伸びかける。
触れなかった。
触れずに、ただ見た。
行ってきます。
その言葉が、夕暮れの光の中で静かに浮かんでいる。
リシアは、ずっと昔の夜を思い出した。
まだ歌術隊に入って間もない頃だった。
初めての遠征前夜、リシアはこの野営地にいた。
遠征といっても、大きな戦ではない。国境近くの村へ向かい、避難民の誘導と治療班の支援を行う任務だった。歌術隊の新人にとっては、実地訓練の意味もあった。
それでも、リシアは眠れない。
夜の野営地には、火の番をする騎士たちの低い声があった。鍋を片づける音。馬が鼻を鳴らす音。誰かが鎧の留め具を直す音。
全部が、これから始まる任務の音に聞こえた。
リシアは見張り台の柱のそばで、膝を抱えて座っていた。
歌詞帳は膝の上にある。
まだ今ほど使い込まれていない。革の表紙も新しく、開くたびに少し固かった。
明日、誰かの心歌を聞くかもしれない。
怖がっている人。
怒っている人。
泣けない人。
助けてと言えない人。
その全部に、自分はどこまで近づいていいのか分からない。
昼間、セレナからは何度も言われていた。
歌は命令ではない。
救助活動で、焦って共鳴詩を使うな。
不安を消そうとするな。
相手の言葉が出る余地を残せ。
頭では分かっている。
けれど、明日その場に立った時、自分が止まれるかは分からなかった。
「また難しい顔してる」
声がして、リシアは顔を上げた。
アイシャが立っていた。
護衛班の軽装備を着ている。背中には木剣ではなく本物の剣があり、髪はいつもよりきちんと結ばれていた。
ただ、結び目だけはやはり少し雑だった。
「眠らないの?」
リシアが聞くと、アイシャは肩をすくめた。
「眠る前に、これやろうと思って」
彼女は腰の小刀を抜き、見張り台の柱を指した。
「何を?」
「行ってきますって書く」
「柱に?」
「うん」
「怒られない?」
「小さく書けば大丈夫」
「大丈夫かな」
「たぶん」
アイシャのたぶんは、いつも少し危うい。
リシアは止めようか迷ったが、アイシャはすでに柱へ向かっていた。
小刀の先で、ゆっくりと文字を刻み始める。
行。
っ。
て。
き。
ま。
最後のすだけ、少し大きくなった。
アイシャは満足そうに頷く。
「できた」
「本当に書いた……」
「リシアも書く?」
「私はいい」
「どうして」
リシアは柱の文字を見た。
行ってきます。
その言葉が、少し怖かった。
言ってしまえば、帰ってこなければならない気がする。
帰ってこられなかった時、その言葉だけが取り残される気がする。
「言えないかもしれないから」
リシアは小さく答えた。
アイシャは隣に座る。
すぐには笑わなかった。
ふざけると思っていたリシアは、少し意外だった。
「帰ってこられないかもしれないから?」
リシアは頷いた。
「それもあるし……帰ってきたいって思っていいのかも分からない」
「どうして?」
「歌術隊は、支える側だから。怖いとか、帰りたいとか、そういう気持ちを先に持っていたら、誰かを支えられない気がする」
アイシャはリシアをじっと見た。
それから、少し眉を寄せた。
「それ、変」
「変?」
「うん。帰りたい人の方が、帰りたい人の気持ち分かるでしょ」
リシアは言葉に詰まった。
アイシャは柱の文字を指で軽く叩く。
「私は帰りたいよ」
「アイシャは、怖くないの?」
「怖いよ」
あっさり言われた。
リシアは驚いて彼女を見る。
アイシャは空を見上げていた。
星は雲に隠れ、少ししか見えない。
「怖いけど、行く。行くけど、帰りたい。だから行ってきますって言う」
「言ったら、必ず帰れるわけじゃないよ」
「うん」
「じゃあ、どうして」
「帰る場所を、置いていかないため」
アイシャは、自分で言って少し照れたような顔をした。
「今の、ちょっと格好つけた」
「うん」
「そこは否定してよ」
「でも、アイシャらしい」
リシアがそう言うと、アイシャは笑った。
それから、少しだけ声を落とす。
「絶対帰るって約束は、怖い時がある。でも、帰りたいって言うのは、嘘じゃないでしょ」
リシアは柱の文字を見る。
行ってきます。
それは勝利の言葉ではない。
強さの言葉でもない。
帰る場所を捨てずに持っていくための、小さな言葉。
「リシアは、明日歌うの怖い?」
アイシャが聞いた。
「怖い」
「じゃあ、怖いって持っていけばいいよ」
「持っていく?」
「置いていくと、どこかで迎えに来るから」
アイシャは真面目な顔で言った。
「怖さって、置いていったふりしても、あとで走って追いかけてくると思う」
「すごく足が速そう」
「たぶん速い」
二人は少し笑った。
その笑いが、夜の野営地に小さく溶ける。
アイシャは柱の下にしゃがみ込み、もう一行だけ小さく刻んだ。
ただいまは、帰ってから。
「これでいい」
リシアはその文字を見る。
「帰ってから?」
「うん。先に書いたら、なんかずるいから」
「ずるい?」
「ただいまは、ちゃんと戻ってから言うものだし」
アイシャは立ち上がり、小刀をしまった。
「だから、明日は行ってきますだけ。戻ったら、ここでただいまって言う」
リシアは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
「私も言っていい?」
「もちろん」
「書かないけど」
「そこは書こうよ」
「怒られそうだから」
「私だけ怒られるじゃん」
「アイシャが書いたんでしょ」
「正論が痛い」
アイシャは大げさに胸を押さえた。
リシアは笑った。
その時、背後から声がした。
「何をしている」
二人は同時に固まった。
セレナだった。
夜の外套を羽織り、手には見回り用の灯りを持っている。
アイシャは柱の前に立ち、何も隠せていないのに、隠すような姿勢を取った。
「夜の、見張り台の、確認です」
「小刀を持ってか」
「文字の……強度確認を」
「意味が分からん」
セレナは柱を見る。
行ってきます。
ただいまは、帰ってから。
灯りがその文字を照らす。
リシアは叱られると思った。
だが、セレナはしばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「明朝、出発前に消せ」
「はい」
アイシャはすぐ返事をした。
セレナは続ける。
「ただし」
二人は息を止める。
「ただいまは、帰ってからでいい」
それだけ言うと、セレナは背を向けた。
アイシャがぽかんとする。
リシアも同じ顔をしていたと思う。
セレナは数歩進んでから、振り返らずに言った。
「明日は早い。寝ろ」
「はい」
二人の声が重なった。
セレナが去った後、アイシャは小さく拳を握った。
「隊長公認」
「消せって言われたよ」
「でも、ただいまは帰ってからでいいって」
「それは言ってた」
「つまり公認」
「違うと思う」
二人はまた笑った。
翌朝、文字は消さなかった。
消そうとしたアイシャの小刀が、なぜかうまく入らなかったのだ。
時間もなく、結局そのまま出発になった。
その遠征から戻った日、二人は野営地で柱の前に立った。
アイシャは少し疲れた顔で、それでも誇らしげに言った。
「ただいま」
リシアも小さく続けた。
「ただいま」
柱は何も答えなかった。
それでも、その時の二人には、ちゃんと帰ってきた気がした。
現在の野営地に夜が降りていた。
リシアは柱の前に立っている。
刻まれた文字は、まだ残っていた。
行ってきます。
ただいまは、帰ってから。
消されずに残っていることが、少しおかしくて、少し苦しかった。
アイシャは、あの後も何度も行ってきますを言った。
ただいまを言えた日もあった。
言えなかった日もある。
リシアはその事実を、まだまっすぐ見られない。
けれど、灰鐘で知った。
アイシャは最後まで、誰かに選ばせるために立っていた。
帰ってこなかった理由を、リシアが勝手に決めることはできない。
セレナが背後に立つ。
「残っていたか」
「はい」
「消したと思っていた」
「消えていませんでした」
セレナは柱の文字を見た。
その横顔に、遠い記憶が過ぎる。
「当時は、規律違反だと思った」
「はい」
「今でも、規律違反ではある」
リシアは少し笑った。
「そうですね」
セレナはしばらく黙った。
それから、低く言う。
「だが、悪くない言葉だった」
リシアは胸が詰まる。
セレナがそれを言うまでに、どれだけの時間が必要だったのかは分からない。
でも、その言葉は今のリシアに届いた。
焚き火の方では、ユーディが湯を沸かしている。シルはその横で、今日の残りのパンを見張っていた。誰も取らないのに、真剣な顔をしている。
明日の朝、セレナとユーディは王都へ向かう。
リシアとシルは、北東の旧星見台跡イオラへ向かう。
同じ道ではない。
けれど、完全に別れるわけでもない。
それぞれが持ち帰るものを持って、次の場所へ進むだけだ。
リシアは柱の前に立ち、小さく息を吸った。
「行ってきます」
声は大きくなかった。
誰かに聞かせるためではない。
それでも、焚き火の前にいたシルがこちらを見た。
ちい。
セレナも、何も言わずに頷いた。
リシアは柱へ触れなかった。
ただ、文字を見た。
ただいまは、帰ってから。
今はまだ、その言葉を言わない。
言える日が来るかどうかも分からない。
それでも、帰りたい場所を捨てずに持っていくことはできる。
夜、リシアは焚き火のそばでアイシャの手紙を開いた。
今日は、最初の行だけではなく、もう少し先まで読んだ。
泣いていい。
怒っていい。
私を探すかどうかも、リシアが選んで。
そこまで読んで、手を止めた。
続きは、まだ読まない。
でも、手紙を閉じる時、前より少しだけ指が震えなかった。
シルが膝の上へ乗ってきた。
銀色の小さな体が丸くなる。
リシアはその背を撫でる。
「明日から、また行こうね」
ちい。
シルは目を閉じたまま鳴いた。
焚き火が小さくはぜる。
遠くの空には、雲の切れ間から星が見えた。
リシアはその星を見上げ、胸元の歌詞帳に触れた。
火、沈黙、名、雪、境界、記憶。
集めた断章は増えた。
けれど、答えはまだ揃っていない。
だから、進む。
急がずに。
決めつけずに。
それでも、行ってきますと言えるだけの場所を胸に残して。
翌朝、分かれ道で、セレナは記録を収めた革筒を背負っていた。
ユーディも王都へ戻る準備を整えている。
彼は少し緊張した顔で、リシアに頭を下げた。
「王都で、ちゃんと伝えます。名簿のことも、灰鐘のことも」
「お願いします」
「それと、リリにも」
ユーディは照れたように笑った。
「怖かったことから、少しずつ話します」
リシアは頷いた。
セレナはリシアへ小さな紙片を差し出した。
灰鐘の記録から写した、旧星見台跡イオラへの道筋だった。
「エルバが持ち去ったページと繋がるなら、危険はある」
「分かっています」
「一人で全部を開くな」
リシアはセレナを見た。
その言葉は命令ではなかった。
心配でもあり、過去への反省でもあり、今のリシアへの信頼でもあった。
「はい」
リシアは答えた。
「開く前に、止まります」
セレナは頷いた。
シルがリシアの肩で胸を張る。
自分が止める、と言いたげだった。
ユーディがそれを見て、少し笑う。
「シルさんも、お願いします」
ちい。
任せろ、という顔だった。
分かれ道で、セレナとユーディは王都へ向かった。
リシアは北東の道へ足を向ける。
振り返ると、二人の背中は朝の光の中で少しずつ小さくなっていく。
リシアは胸の奥で、もう一度だけ言った。
行ってきます。
そして、まだ言わない言葉を、そっと未来へ残した。
今回は、旅路小休止編の締めとして、歌術隊時代の野営地で交わされた「行ってきます」の記憶を描きました。
帰れると約束するのではなく、帰りたい場所を持っていくための言葉。
アイシャが刻んだその言葉は、今のリシアにも静かに残っています。
灰鐘修道院で記憶の断章を得たリシアは、すべてを知ったわけではありません。
それでも、分からないまま進むための小さな灯を持って、次の道へ向かいます。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




