旅路小休止編 64話 固いパンとスープの歌
灰鐘修道院を離れたリシアたちは、山裾の小さな宿で夜を過ごした。
宿の女の子は、リシアの肩にいるシルを見て喜び、歌をねだった。
リシアは歌術ではない短い歌を歌う。
それをきっかけに、リシアは幼い頃、雨の日の物置でアイシャに初めて自分の歌を「好き」と言ってもらった日のことを思い出した。
上手いからでも、役に立つからでもなく、ただ好きだと言ってくれたアイシャの言葉は、今もリシアの中に残っている。
翌朝、宿の女将が包んでくれた旅用のパンは、驚くほど固かった。
リシアは最初、袋の中に小石が入っているのかと思った。
けれど、布を開くと、中には丸いパンが三つ並んでいる。表面はしっかり焼かれ、持つとずっしりしていた。旅の途中で潰れにくく、日持ちするように作られているのだろう。
女将は自信ありげに言った。
「山道用ですからね。ちょっとやそっとじゃ崩れませんよ」
ちょっとやそっとでは、歯も勝てない気がした。
リシアがそう思っていると、シルが興味深そうにパンへ近づいた。鼻をひくひく動かし、小さな前歯で端をかじる。
かち、と音がした。
シルはその場で固まった。
それから、何事もなかったようにパンから離れ、リシアの肩へ戻ってくる。
「負けた?」
ちい。
負けていない。
そんな顔だった。
ただ、もう一度挑む気はなさそうだった。
ユーディも一つ手に取り、苦笑する。
「これは、剣の柄で割る方が早そうですね」
「食べ物に剣を使うな」
セレナの声が飛んだ。
ユーディは慌ててパンを両手で持ち直す。
「すみません」
セレナはパンを一つ取り、短剣で慎重に切れ目を入れた。刃が苦戦している。切るというより、割るに近い。
その様子を見て、リシアは思わず笑ってしまった。
灰鐘を出てから、初めて声を出して笑った気がする。
セレナが横目で見る。
「何がおかしい」
「いえ。昔、似たようなことがあったなと思って」
「歌術隊の食堂か」
リシアは少し驚いた。
「覚えているんですか」
「覚えている。あれはうるさかった」
セレナの返事は短かったが、怒っている声ではなかった。
リシアは手の中の固いパンを見つめる。
朝の宿の匂いが、遠い食堂の匂いへ変わっていく。
焼けた小麦。
薄いスープ。
濡れた訓練服。
磨かれた床の油の匂い。
リシアが王国騎士団直属歌術隊へ入ったばかりの頃、食堂のパンはよく固かった。
理由は分からない。
兵站の都合なのか、保存しやすいからなのか、それとも食堂の焼き手が強い歯を信じていたのか。
少なくとも、新人だったリシアには試練に近かった。
その日も、午前の訓練が終わった後だった。
リシアは食堂の端の席に座り、皿の上のパンを見つめていた。隣には薄い豆のスープがある。湯気は立っているが、具は少ない。
周囲では、騎士たちや歌術隊員たちが賑やかに食事をしていた。
鎧を外した音。
椅子を引く音。
誰かが訓練で転んだ話。
午後の予定に文句を言う声。
どれも普通の食堂の音だ。
けれど、入団したばかりのリシアには、その普通さが遠かった。
午前中、彼女は共鳴詩の基礎訓練で失敗した。
失敗というほど大きなものではない。訓練相手の新人騎士が不安を隠していることに気づき、その心の揺れへ必要以上に寄ってしまっただけだ。
教官は叱らなかった。
ただ、静かに言った。
「拾いすぎるな。相手の心を全部持ち帰ろうとするな」
その言葉が、リシアの中に残っていた。
拾いすぎる。
持ち帰ろうとする。
そんなつもりはなかった。
けれど、そうなっているのかもしれない。
リシアはパンへ手を伸ばし、少しだけ力を込めた。
割れない。
もう一度力を込める。
やはり割れない。
食堂の騒がしさの中で、自分だけがパンにも負けている気がした。
その時、向かいの席に勢いよく誰かが座った。
椅子が派手に鳴る。
「その顔、パンに負けてる顔だ」
アイシャだった。
護衛班の訓練服を着て、髪を後ろで雑に束ねている。頬には小さな擦り傷があり、片方の手首には包帯が巻かれていた。
それでも、本人は少しも気にしていない様子だった。
「負けてない」
リシアは反射的に答える。
「じゃあ割ってみて」
「……今から」
リシアはもう一度パンへ力を込めた。
やはり割れない。
アイシャは胸を張った。
「こういう時はね、正面から戦っちゃだめなんだよ」
「パンと?」
「パンと」
彼女は自分のパンを取り、豆のスープに沈めた。
そして、真剣な顔で待つ。
リシアも思わず見守った。
しばらくして、アイシャは匙でパンの端を押した。柔らかくなった部分が、あっさり崩れる。
アイシャは満足そうに頷き、即興で歌い出した。
「今日のパンは少し固い。でもスープにつければ勝てる。歯でだめなら匙で行け。匙でだめなら、もう少し待て」
リシアは固まった。
周囲の数人がこちらを見る。
アイシャは気にせず続ける。
「焦ったパンはまだ固い。待ったパンならたぶん勝てる。豆が少ないのは気にするな。明日の豆に期待しよう」
「ちょっと待って」
リシアは慌てて止めた。
「何、その歌」
「パンに勝つ歌」
「勝ってるの、スープじゃない?」
「細かいことを気にしてると、午後の訓練で負けるよ」
「それは関係ある?」
「たぶんある」
リシアは耐えきれずに笑ってしまった。
隣の席の騎士も笑った。
その向こうの歌術隊員も、匙で自分のパンをスープへ沈めながら小さく口ずさみ始める。
今日のパンは少し固い。
でもスープにつければ勝てる。
歌というほどのものではない。
旋律も雑で、歌詞もその場しのぎだ。
それでも、食堂の空気が少しだけ軽くなった。
リシアは自分のパンをスープへ入れた。
すぐには食べず、待つ。
待っている間、アイシャは自分の皿を覗き込んでいた。
「豆、やっぱり少ないな」
「歌で期待した明日の豆に期待しよう」
「リシア、意外と根に持つよね」
「今のはアイシャの歌詞でしょ」
「じゃあ責任重大だ」
アイシャは真面目な顔をした後、すぐに笑った。
リシアは匙で柔らかくなったパンを崩した。
さっきまで手に負えなかったものが、湯気の中でほどけていく。
その様子を見ているだけで、午前中の失敗が少し遠くなった。
なくなったわけではない。
教官の言葉も、自分の踏み込みすぎた感覚も、胸のどこかに残っている。
けれど、食事の間だけは、それを握りしめなくてもよかった。
アイシャが、ふと声を落とした。
「午前、落ち込んでたでしょ」
リシアは匙を止めた。
「見てたの?」
「見えた」
「そんなに分かりやすかった?」
「リシアは、顔に出る」
「アイシャほどじゃないと思う」
「私は出してるからいいの」
アイシャは胸を張った。
それから、少しだけ真面目な顔になる。
「リシアの歌って、たぶん近いんだと思う」
「近い?」
「うん。心のそばまで来る感じ。だから、助かる人もいると思う。でも、急に近くに来られたらびっくりする人もいる」
リシアは匙を見つめた。
午前中、教官に言われたことと似ている。
けれど、アイシャの言い方は少し違った。
「じゃあ、どうすればいいのかな」
「知らない」
「知らないの?」
「私は歌術師じゃないし」
あまりにあっさり言われて、リシアはまた笑いそうになる。
アイシャはパンを崩しながら続けた。
「でも、近い歌だけじゃなくて、遠くから聞こえる歌もあったらいいんじゃない?」
「遠くから」
「そう。食堂の隅で誰かが変な歌を歌ってるな、くらいの歌。聞いてもいいし、聞かなくてもいい。気づいたらパンがちょっと食べやすくなってるようなやつ」
リシアはアイシャを見た。
彼女は本当に何気なく言っている。
難しい理屈を語っているつもりはないのだろう。
ただ、スープに浸したパンを食べながら思いついたことを口にしている。
それなのに、その言葉はリシアの中に残った。
近い歌。
遠くから聞こえる歌。
聞いてもいいし、聞かなくてもいい歌。
リシアは、自分の皿の中で柔らかくなったパンを見た。
「アイシャのパンの歌は、遠くから聞こえる歌?」
「うん。近くで聞くと歌詞がひどいから」
「自覚あるんだ」
「あるよ」
アイシャは得意そうに頷いた。
その時、食堂の入口にセレナが現れた。
場が少しだけ静まる。
まだ若い隊員たちにとって、セレナ隊長は近寄りがたい存在だった。無駄口を叩けば、すぐ見抜かれる。姿勢が崩れていれば、何も言わずに視線だけで直される。
アイシャも一瞬だけ背筋を伸ばした。
しかし、皿の中のパンはまだスープに沈んでいる。
セレナは食堂を見渡し、リシアとアイシャの席で目を止めた。
そして、こちらへ歩いてきた。
リシアは反射的に立ち上がろうとする。
「座って食べろ」
セレナは短く言った。
リシアは中途半端に腰を浮かせたまま、また座る。
アイシャは口の中のパンを慌てて飲み込んだ。
少しむせた。
セレナは二人の皿を見た後、言った。
「食堂で術式歌を使うな」
リシアは慌てて首を横に振る。
「使っていません」
「ならいい」
それだけだった。
叱られると思っていたリシアは、少し拍子抜けした。
セレナはアイシャを見る。
「護衛班。午後の訓練に遅れるな」
「はい」
「歌術隊。午後は距離の訓練だ」
リシアは顔を上げる。
「距離、ですか」
「届かせる訓練ではない。届かせすぎない訓練だ」
セレナはそれだけ言うと、食堂を出ていった。
アイシャが小さく息を吐く。
「隊長、絶対聞いてたよね」
「たぶん」
「パンの歌も?」
「たぶん」
二人はしばらく黙った。
それから、同時に笑い出す。
午後の訓練は難しかった。
リシアは何度も失敗した。
届かせようとすれば近すぎる。
遠ざけようとすれば、歌がほどける。
けれど、昼にアイシャが言った「食堂の隅で聞こえるくらい」という言葉は、奇妙な目印になった。
相手の心の真ん中へ入らない。
扉の前にも立たない。
少し離れた場所に、灯りだけ置く。
その感覚を、リシアは初めて少しだけ掴んだ。
現在へ戻ると、山道の途中で湯が沸いていた。
昼の休憩だった。
ユーディが宿でもらった固いパンをスープへ浸し、真剣に柔らかくなるのを待っている。
シルも小さな欠片を木の皿に入れ、湯気を見つめていた。
リシアはその光景に、また少し笑った。
セレナが横に腰を下ろす。
「思い出していたな」
「はい」
「食堂の歌か」
「はい。あの時、セレナさんが距離の訓練をしてくれました」
「必要だったからな」
セレナは干し肉を薄く切り、スープへ入れた。
手つきは無駄がない。
「お前の歌は、近かった」
「今も、近すぎますか」
問いは自然に出た。
セレナはすぐには答えなかった。
湯気の向こうで、彼女はしばらくリシアを見ていた。
「近くなりそうな時に、自分で止まるようになった」
それは褒め言葉なのか、評価なのか、ただの観察なのか分からなかった。
けれど、リシアは素直に受け取った。
「まだ、止まれない時もあります」
「ああ」
「でも、灰鐘では止まれました」
「ああ」
セレナは短く頷いた。
それ以上は言わなかった。
その静けさが、リシアにはちょうどいい。
ユーディがスープの中のパンを匙で押した。
「柔らかくなりました」
少し誇らしげな声だった。
シルも自分の欠片を押す。
まだ固い。
もう一度押す。
やはり固い。
彼はリシアを見た。
「もう少し待とうね」
ちい。
シルは不満そうに鳴いたが、皿の前で待つことにした。
その姿を見て、ユーディが小さく口ずさむ。
「今日のパンは少し固い。でもスープにつければ勝てる……でしたっけ」
リシアは驚いて彼を見る。
「聞こえてました?」
「昨日の宿で、リシアさんが少しだけ」
無意識に口にしていたのだろうか。
リシアは少し恥ずかしくなった。
セレナが淡々と言う。
「歌詞はもう少し長かった。豆が少ない件も入る」
「隊長、覚えているんですか」
ユーディが目を丸くする。
セレナは表情を変えなかった。
「うるさかったからな」
リシアは笑った。
シルが、ようやく柔らかくなったパンを口に運ぶ。
今度は勝てたらしい。
満足そうに目を細めている。
山の風が、木々の間を抜けていく。
灰鐘の響きは、まだ完全には消えていない。
アイシャの行方も分からない。
名簿の中の未確認の名前たちも、これから向き合わなければならない。
それでも、スープに浸したパンを待つ時間がある。
誰かの変な歌を、思い出して笑う時間がある。
リシアは匙で柔らかくなったパンをすくった。
口に入れると、少し塩気が強い。
でも、悪くなかった。
夕方には、王都へ向かう道の途中にある古い野営地へ着く予定だった。
そこは、かつて歌術隊と護衛班が遠征前に使っていた場所だと、セレナは言う。
リシアはその名を聞いた時、手の中の匙を少しだけ止めた。
思い出すことは、まだある。
でも今は、目の前のスープが冷める前に食べる。
アイシャなら、たぶんそう言った。
リシアはもう一口、パンをすくった。
今回は、歌術隊時代のリシアとアイシャの日常を描きました。
固いパンと薄いスープ。
訓練で落ち込むリシア。
そして、それを深刻な言葉ではなく、少し変な歌でほどいてくれるアイシャ。
アイシャの歌は、上手なものではありませんでした。
けれど、リシアにとっては、近すぎない場所から届く歌でした。
重い記憶だけではなく、こうした何気ない時間も、リシアの中に残っています。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




