↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
65/138

旅路小休止編 64話 固いパンとスープの歌

灰鐘修道院を離れたリシアたちは、山裾の小さな宿で夜を過ごした。

宿の女の子は、リシアの肩にいるシルを見て喜び、歌をねだった。

リシアは歌術ではない短い歌を歌う。

それをきっかけに、リシアは幼い頃、雨の日の物置でアイシャに初めて自分の歌を「好き」と言ってもらった日のことを思い出した。

上手いからでも、役に立つからでもなく、ただ好きだと言ってくれたアイシャの言葉は、今もリシアの中に残っている。


 翌朝、宿の女将が包んでくれた旅用のパンは、驚くほど固かった。


 リシアは最初、袋の中に小石が入っているのかと思った。


 けれど、布を開くと、中には丸いパンが三つ並んでいる。表面はしっかり焼かれ、持つとずっしりしていた。旅の途中で潰れにくく、日持ちするように作られているのだろう。


 女将は自信ありげに言った。


「山道用ですからね。ちょっとやそっとじゃ崩れませんよ」


 ちょっとやそっとでは、歯も勝てない気がした。


 リシアがそう思っていると、シルが興味深そうにパンへ近づいた。鼻をひくひく動かし、小さな前歯で端をかじる。


 かち、と音がした。


 シルはその場で固まった。


 それから、何事もなかったようにパンから離れ、リシアの肩へ戻ってくる。


「負けた?」


 ちい。


 負けていない。


 そんな顔だった。


 ただ、もう一度挑む気はなさそうだった。


 ユーディも一つ手に取り、苦笑する。


「これは、剣の柄で割る方が早そうですね」


「食べ物に剣を使うな」


 セレナの声が飛んだ。


 ユーディは慌ててパンを両手で持ち直す。


「すみません」


 セレナはパンを一つ取り、短剣で慎重に切れ目を入れた。刃が苦戦している。切るというより、割るに近い。


 その様子を見て、リシアは思わず笑ってしまった。


 灰鐘を出てから、初めて声を出して笑った気がする。


 セレナが横目で見る。


「何がおかしい」


「いえ。昔、似たようなことがあったなと思って」


「歌術隊の食堂か」


 リシアは少し驚いた。


「覚えているんですか」


「覚えている。あれはうるさかった」


 セレナの返事は短かったが、怒っている声ではなかった。


 リシアは手の中の固いパンを見つめる。


 朝の宿の匂いが、遠い食堂の匂いへ変わっていく。


 焼けた小麦。


 薄いスープ。


 濡れた訓練服。


 磨かれた床の油の匂い。


 リシアが王国騎士団直属歌術隊へ入ったばかりの頃、食堂のパンはよく固かった。


 理由は分からない。


 兵站の都合なのか、保存しやすいからなのか、それとも食堂の焼き手が強い歯を信じていたのか。


 少なくとも、新人だったリシアには試練に近かった。


 その日も、午前の訓練が終わった後だった。


 リシアは食堂の端の席に座り、皿の上のパンを見つめていた。隣には薄い豆のスープがある。湯気は立っているが、具は少ない。


 周囲では、騎士たちや歌術隊員たちが賑やかに食事をしていた。


 鎧を外した音。


 椅子を引く音。


 誰かが訓練で転んだ話。


 午後の予定に文句を言う声。


 どれも普通の食堂の音だ。


 けれど、入団したばかりのリシアには、その普通さが遠かった。


 午前中、彼女は共鳴詩の基礎訓練で失敗した。


 失敗というほど大きなものではない。訓練相手の新人騎士が不安を隠していることに気づき、その心の揺れへ必要以上に寄ってしまっただけだ。


 教官は叱らなかった。


 ただ、静かに言った。


「拾いすぎるな。相手の心を全部持ち帰ろうとするな」


 その言葉が、リシアの中に残っていた。


 拾いすぎる。


 持ち帰ろうとする。


 そんなつもりはなかった。


 けれど、そうなっているのかもしれない。


 リシアはパンへ手を伸ばし、少しだけ力を込めた。


 割れない。


 もう一度力を込める。


 やはり割れない。


 食堂の騒がしさの中で、自分だけがパンにも負けている気がした。


 その時、向かいの席に勢いよく誰かが座った。


 椅子が派手に鳴る。


「その顔、パンに負けてる顔だ」


 アイシャだった。


 護衛班の訓練服を着て、髪を後ろで雑に束ねている。頬には小さな擦り傷があり、片方の手首には包帯が巻かれていた。


 それでも、本人は少しも気にしていない様子だった。


「負けてない」


 リシアは反射的に答える。


「じゃあ割ってみて」


「……今から」


 リシアはもう一度パンへ力を込めた。


 やはり割れない。


 アイシャは胸を張った。


「こういう時はね、正面から戦っちゃだめなんだよ」


「パンと?」


「パンと」


 彼女は自分のパンを取り、豆のスープに沈めた。


 そして、真剣な顔で待つ。


 リシアも思わず見守った。


 しばらくして、アイシャは匙でパンの端を押した。柔らかくなった部分が、あっさり崩れる。


 アイシャは満足そうに頷き、即興で歌い出した。


「今日のパンは少し固い。でもスープにつければ勝てる。歯でだめなら匙で行け。匙でだめなら、もう少し待て」


 リシアは固まった。


 周囲の数人がこちらを見る。


 アイシャは気にせず続ける。


「焦ったパンはまだ固い。待ったパンならたぶん勝てる。豆が少ないのは気にするな。明日の豆に期待しよう」


「ちょっと待って」


 リシアは慌てて止めた。


「何、その歌」


「パンに勝つ歌」


「勝ってるの、スープじゃない?」


「細かいことを気にしてると、午後の訓練で負けるよ」


「それは関係ある?」


「たぶんある」


 リシアは耐えきれずに笑ってしまった。


 隣の席の騎士も笑った。


 その向こうの歌術隊員も、匙で自分のパンをスープへ沈めながら小さく口ずさみ始める。


 今日のパンは少し固い。


 でもスープにつければ勝てる。


 歌というほどのものではない。


 旋律も雑で、歌詞もその場しのぎだ。


 それでも、食堂の空気が少しだけ軽くなった。


 リシアは自分のパンをスープへ入れた。


 すぐには食べず、待つ。


 待っている間、アイシャは自分の皿を覗き込んでいた。


「豆、やっぱり少ないな」


「歌で期待した明日の豆に期待しよう」


「リシア、意外と根に持つよね」


「今のはアイシャの歌詞でしょ」


「じゃあ責任重大だ」


 アイシャは真面目な顔をした後、すぐに笑った。


 リシアは匙で柔らかくなったパンを崩した。


 さっきまで手に負えなかったものが、湯気の中でほどけていく。


 その様子を見ているだけで、午前中の失敗が少し遠くなった。


 なくなったわけではない。


 教官の言葉も、自分の踏み込みすぎた感覚も、胸のどこかに残っている。


 けれど、食事の間だけは、それを握りしめなくてもよかった。


 アイシャが、ふと声を落とした。


「午前、落ち込んでたでしょ」


 リシアは匙を止めた。


「見てたの?」


「見えた」


「そんなに分かりやすかった?」


「リシアは、顔に出る」


「アイシャほどじゃないと思う」


「私は出してるからいいの」


 アイシャは胸を張った。


 それから、少しだけ真面目な顔になる。


「リシアの歌って、たぶん近いんだと思う」


「近い?」


「うん。心のそばまで来る感じ。だから、助かる人もいると思う。でも、急に近くに来られたらびっくりする人もいる」


 リシアは匙を見つめた。


 午前中、教官に言われたことと似ている。


 けれど、アイシャの言い方は少し違った。


「じゃあ、どうすればいいのかな」


「知らない」


「知らないの?」


「私は歌術師じゃないし」


 あまりにあっさり言われて、リシアはまた笑いそうになる。


 アイシャはパンを崩しながら続けた。


「でも、近い歌だけじゃなくて、遠くから聞こえる歌もあったらいいんじゃない?」


「遠くから」


「そう。食堂の隅で誰かが変な歌を歌ってるな、くらいの歌。聞いてもいいし、聞かなくてもいい。気づいたらパンがちょっと食べやすくなってるようなやつ」


 リシアはアイシャを見た。


 彼女は本当に何気なく言っている。


 難しい理屈を語っているつもりはないのだろう。


 ただ、スープに浸したパンを食べながら思いついたことを口にしている。


 それなのに、その言葉はリシアの中に残った。


 近い歌。


 遠くから聞こえる歌。


 聞いてもいいし、聞かなくてもいい歌。


 リシアは、自分の皿の中で柔らかくなったパンを見た。


「アイシャのパンの歌は、遠くから聞こえる歌?」


「うん。近くで聞くと歌詞がひどいから」


「自覚あるんだ」


「あるよ」


 アイシャは得意そうに頷いた。


 その時、食堂の入口にセレナが現れた。


 場が少しだけ静まる。


 まだ若い隊員たちにとって、セレナ隊長は近寄りがたい存在だった。無駄口を叩けば、すぐ見抜かれる。姿勢が崩れていれば、何も言わずに視線だけで直される。


 アイシャも一瞬だけ背筋を伸ばした。


 しかし、皿の中のパンはまだスープに沈んでいる。


 セレナは食堂を見渡し、リシアとアイシャの席で目を止めた。


 そして、こちらへ歩いてきた。


 リシアは反射的に立ち上がろうとする。


「座って食べろ」


 セレナは短く言った。


 リシアは中途半端に腰を浮かせたまま、また座る。


 アイシャは口の中のパンを慌てて飲み込んだ。


 少しむせた。


 セレナは二人の皿を見た後、言った。


「食堂で術式歌を使うな」


 リシアは慌てて首を横に振る。


「使っていません」


「ならいい」


 それだけだった。


 叱られると思っていたリシアは、少し拍子抜けした。


 セレナはアイシャを見る。


「護衛班。午後の訓練に遅れるな」


「はい」


「歌術隊。午後は距離の訓練だ」


 リシアは顔を上げる。


「距離、ですか」


「届かせる訓練ではない。届かせすぎない訓練だ」


 セレナはそれだけ言うと、食堂を出ていった。


 アイシャが小さく息を吐く。


「隊長、絶対聞いてたよね」


「たぶん」


「パンの歌も?」


「たぶん」


 二人はしばらく黙った。


 それから、同時に笑い出す。


 午後の訓練は難しかった。


 リシアは何度も失敗した。


 届かせようとすれば近すぎる。


 遠ざけようとすれば、歌がほどける。


 けれど、昼にアイシャが言った「食堂の隅で聞こえるくらい」という言葉は、奇妙な目印になった。


 相手の心の真ん中へ入らない。


 扉の前にも立たない。


 少し離れた場所に、灯りだけ置く。


 その感覚を、リシアは初めて少しだけ掴んだ。


 現在へ戻ると、山道の途中で湯が沸いていた。


 昼の休憩だった。


 ユーディが宿でもらった固いパンをスープへ浸し、真剣に柔らかくなるのを待っている。


 シルも小さな欠片を木の皿に入れ、湯気を見つめていた。


 リシアはその光景に、また少し笑った。


 セレナが横に腰を下ろす。


「思い出していたな」


「はい」


「食堂の歌か」


「はい。あの時、セレナさんが距離の訓練をしてくれました」


「必要だったからな」


 セレナは干し肉を薄く切り、スープへ入れた。


 手つきは無駄がない。


「お前の歌は、近かった」


「今も、近すぎますか」


 問いは自然に出た。


 セレナはすぐには答えなかった。


 湯気の向こうで、彼女はしばらくリシアを見ていた。


「近くなりそうな時に、自分で止まるようになった」


 それは褒め言葉なのか、評価なのか、ただの観察なのか分からなかった。


 けれど、リシアは素直に受け取った。


「まだ、止まれない時もあります」


「ああ」


「でも、灰鐘では止まれました」


「ああ」


 セレナは短く頷いた。


 それ以上は言わなかった。


 その静けさが、リシアにはちょうどいい。


 ユーディがスープの中のパンを匙で押した。


「柔らかくなりました」


 少し誇らしげな声だった。


 シルも自分の欠片を押す。


 まだ固い。


 もう一度押す。


 やはり固い。


 彼はリシアを見た。


「もう少し待とうね」


 ちい。


 シルは不満そうに鳴いたが、皿の前で待つことにした。


 その姿を見て、ユーディが小さく口ずさむ。


「今日のパンは少し固い。でもスープにつければ勝てる……でしたっけ」


 リシアは驚いて彼を見る。


「聞こえてました?」


「昨日の宿で、リシアさんが少しだけ」


 無意識に口にしていたのだろうか。


 リシアは少し恥ずかしくなった。


 セレナが淡々と言う。


「歌詞はもう少し長かった。豆が少ない件も入る」


「隊長、覚えているんですか」


 ユーディが目を丸くする。


 セレナは表情を変えなかった。


「うるさかったからな」


 リシアは笑った。


 シルが、ようやく柔らかくなったパンを口に運ぶ。


 今度は勝てたらしい。


 満足そうに目を細めている。


 山の風が、木々の間を抜けていく。


 灰鐘の響きは、まだ完全には消えていない。


 アイシャの行方も分からない。


 名簿の中の未確認の名前たちも、これから向き合わなければならない。


 それでも、スープに浸したパンを待つ時間がある。


 誰かの変な歌を、思い出して笑う時間がある。


 リシアは匙で柔らかくなったパンをすくった。


 口に入れると、少し塩気が強い。


 でも、悪くなかった。


 夕方には、王都へ向かう道の途中にある古い野営地へ着く予定だった。


 そこは、かつて歌術隊と護衛班が遠征前に使っていた場所だと、セレナは言う。


 リシアはその名を聞いた時、手の中の匙を少しだけ止めた。


 思い出すことは、まだある。


 でも今は、目の前のスープが冷める前に食べる。


 アイシャなら、たぶんそう言った。


 リシアはもう一口、パンをすくった。



今回は、歌術隊時代のリシアとアイシャの日常を描きました。


固いパンと薄いスープ。


訓練で落ち込むリシア。


そして、それを深刻な言葉ではなく、少し変な歌でほどいてくれるアイシャ。


アイシャの歌は、上手なものではありませんでした。


けれど、リシアにとっては、近すぎない場所から届く歌でした。


重い記憶だけではなく、こうした何気ない時間も、リシアの中に残っています。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。