旅路小休止編 63話 はじめて歌を褒められた日
灰鐘修道院の鐘下室で、リシアたちは戦死扱いにされた者たちの記録と向き合った。
アイシャは戦死日後に灰鐘修道院へ運ばれ、幼いノエルの前に立って第二眠処理に異議を唱えていた。
さらに、アイシャは鐘の舌を外し、鐘下室で行われていた処理を止めていたことが分かった。
リシアは、すべてを急いで知るのではなく、まだ分からないまま残すことを選ぶ。
そして、記憶の断章を手に入れた。
灰鐘修道院は、鳴らなかった鐘の下に、消されなかった名前を残したまま遠ざかっていった。
灰鐘修道院を離れても、リシアの耳にはしばらく鐘のない音が残っていた。
山道を下りる風の音。
馬車の車輪が小石を踏む音。
ユーディが荷を直す時に鳴る革紐の音。
どれも確かに聞こえているのに、その奥に、鳴らなかった鐘の気配が沈んでいる。
リシアは何度か胸元の歌詞帳へ手を伸ばし、そのたびに途中で止めた。
記憶の断章は、もうそこにある。
けれど、読み返すにはまだ早い気がした。
アイシャの手紙も、鞄の中にある。
こちらも同じだった。
しまい込むのではなく、すぐ取り出せる場所へ移した。けれど、読むことはできない。今のリシアには、それくらいの距離がちょうどよかった。
セレナは何も言わなかった。
灰鐘を出てから、彼女は必要なことだけを話している。道の確認、王都へ送る報告の手順、名簿の扱い。どれも短く、感情を挟まない。
それでも、リシアには分かっていた。
セレナもまた、鐘下室から完全には戻れていない。
夕方近く、一行は山裾の小さな宿に入った。
宿というより、旅人に部屋と湯を貸す茶屋に近い。屋根は低く、軒先には干した薬草が吊るされている。店先には、旅人が残していった古い木札がいくつも下がっていた。
灰鐘へ向かう者が通る宿なのだろう。
だが、宿の中は思ったより明るかった。
土間では火が焚かれ、鍋から湯気が上がっている。奥の部屋では、宿の子どもらしい女の子が、木の皿を並べていた。
その子はリシアの肩にいるシルを見つけると、ぱっと顔を明るくした。
「白いリス」
シルは白ではない、と言いたげに耳を動かした。
リシアは小さく笑う。
「銀色、かな」
「銀色のリス」
女の子は言い直し、満足そうに頷いた。
シルも、それならいいという顔をした。
宿の女将が奥から出てきて、少し慌てたように子どもを呼んだ。
「こら、旅の方にいきなり」
「いいんです」
リシアは首を振った。
女の子はシルをじっと見て、それから小さな干し果物を一つ差し出した。
「食べる?」
シルはリシアを見た。
許可を求める顔だったが、尻尾はすでに期待で揺れている。
「一つだけね」
ちい。
シルは両前足で干し果物を受け取った。
すぐに口へ運びかけ、ふとリシアを見上げる。
少し迷った後、干し果物を半分に割ろうとした。
固かった。
割れない。
シルは真剣な顔で何度か力を込めたが、干し果物はびくともしなかった。
女の子が笑った。
「リスさん、半分こしたいの?」
ちい。
シルは少しだけ不満そうに鳴いた。
リシアは女の子から小さな包丁を借り、干し果物を半分に切った。片方をシルへ、もう片方を自分の手のひらに乗せる。
甘酸っぱい匂いがした。
灰鐘からずっと重かった胸が、その匂いで少しだけ現実へ戻ってくる。
女の子はリシアの胸元の徽章を見て、首を傾げた。
「お姉ちゃん、歌の人?」
宿の女将がまた慌てる。
「すみません。この子、旅の歌い手さんが好きで」
「大丈夫です」
リシアは徽章へ触れた。
旧歌術隊の徽章。
誇りであり、傷でもあるもの。
それを見て歌を嫌がる人もいた。
怖がる人もいた。
けれど、目の前の子どもはただ、歌を好きなものとして見ている。
「歌術師です。でも、今は旅の途中です」
「歌ってくれる?」
女の子は、まっすぐに言った。
悪気も、期待の重さもない。
ただ、好きなものを見つけた子どもの声だった。
リシアはすぐに答えられなかった。
女将が子どもの肩に手を置く。
「無理を言うんじゃないよ」
リシアは首を横に振った。
「歌術じゃなくてもいい?」
女の子は少し考えた。
「うん。眠くならない歌がいい」
その注文に、リシアは少しだけ目を丸くした。
「眠くならない歌?」
「今寝たら、ご飯食べられないから」
ユーディが小さく笑いをこらえた。
セレナも、表情はほとんど変わらないが、目元だけがわずかに柔らかくなっている。
リシアは息を吸った。
歌術ではない。
誰かを癒やすためでも、立たせるためでも、眠らせるためでもない。
ただ、食事の前に少しだけ場を明るくする歌。
そんな歌を、今の自分が歌ってもいいのだろうか。
答えは出なかった。
けれど、女の子が火のそばに腰を下ろし、シルが半分の干し果物を抱えたままこちらを見上げている。
リシアは小さく息を吐き、声を出した。
旋律は短い。
魔力は乗せない。
旅の道で靴が濡れたこと。
火のそばに座ると湯気が立つこと。
鍋の蓋が鳴る前に、匙を持って待つこと。
そんな、どうでもいい歌だった。
女の子は途中で笑った。
シルは干し果物を抱えたまま、なぜか胸を張った。自分も歌に出てくると思ったのかもしれない。
歌い終えると、宿の中に小さな拍手が起きた。
女の子の手。
女将の手。
ユーディの控えめな手。
セレナは拍手こそしなかったが、湯気の向こうで静かに頷いていた。
リシアは少しだけ照れて、視線を落とした。
その瞬間、遠い日の雨音が胸の奥で開いた。
まだ歌術隊に入る前のことだ。
リシアは十二歳で、歌うことが少し怖かった。
声を出すと、誰かの感情が近くなることがあった。泣いていた子が急に黙る。怒っていた大人が、気まずそうに目を逸らす。何が起きているのか分からないまま、リシアは自分の歌が人の心へ勝手に触れてしまうのではないかと怯えていた。
その日は雨だった。
町の古い集会所の裏に、小さな物置がある。雨漏りする屋根と、使わなくなった椅子、壊れた譜面台が置かれた場所。リシアはそこに一人で入り、誰にも聞こえないくらいの声で歌っていた。
歌ったのは、雨の歌だった。
窓の外で跳ねる雫。
濡れた靴。
帰り道の窓に灯る、小さな明かり。
ただそれだけの歌だ。
誰かを励ますつもりも、慰めるつもりもなかった。
自分が怖くないように、声を少しだけ外へ出していただけ。
歌い終えた時、物置の扉が開いた。
リシアは椅子から飛び上がりそうになった。
そこに立っていたのは、雨で髪を濡らしたアイシャだった。
木剣を背負い、片方の靴紐がほどけている。いかにも走ってきた姿だった。
「ごめん。聞こえた」
アイシャはそう言って、悪びれた様子もなく中へ入ってきた。
リシアは顔を赤くした。
「聞いてたの?」
「聞こえたんだって。扉の前を通ったら」
「変だった?」
その問いは、思ったより小さく出た。
アイシャは椅子の上に腰を下ろし、濡れた前髪を指で払った。
「変じゃないよ」
「本当に?」
「うん」
アイシャは少し考えるように天井を見た。
雨漏りの雫が、床の桶に落ちる。
ぽつん、と音がした。
「上手いかどうかは、私よく分かんない」
リシアは少し肩を落とした。
「そこは嘘でも上手いって言うところじゃない?」
「嘘ついたら分かるでしょ、リシアは」
そう言われて、リシアは何も返せなかった。
アイシャは笑った。
「でも、好き」
リシアは顔を上げる。
「好き?」
「うん。今の歌、好き」
その言葉は、不思議なくらいまっすぐ入ってきた。
上手いでも、役に立つでも、すごいでもない。
好き。
ただ、それだけだった。
アイシャは桶へ落ちる雨水を見ながら続けた。
「なんか、帰りたくなる」
「帰りたく?」
「うん。雨って嫌だけど、家の明かりが見えるとちょっと嬉しいでしょ。そういう感じ」
リシアは、自分の手を見た。
歌った後なのに、誰かを黙らせてしまった感じはなかった。
アイシャは普通に話している。
普通に濡れて、普通に靴紐をほどいたまま、普通にリシアの歌を好きだと言っている。
「私の歌、怖くなかった?」
リシアが聞くと、アイシャは首を傾げた。
「怖い歌だったの?」
「分からない。私が歌うと、たまに人が静かになるから」
「雨の日に物置で歌ってる子を見たら、静かに聞くでしょ」
「そういうこと?」
「たぶん」
アイシャは胸を張った。
たぶんで胸を張るところが、彼女らしかった。
リシアは思わず笑ってしまった。
その笑い声に、アイシャが嬉しそうな顔をする。
「今の方がいい」
「何が?」
「歌い終わった後の顔。さっきまで、怒られる前みたいな顔してた」
「怒られると思ったから」
「怒らないよ。私、リシアの歌好きだもん」
また、好きと言った。
リシアはその言葉をどう受け取ればいいのか分からず、胸の前で指を握った。
アイシャは急に立ち上がった。
「私も歌う」
「え?」
「雨の歌でしょ。私も作る」
止める間もなく、アイシャは歌い出した。
雨の日は靴が重い。
でも走ればたぶん勝てる。
水たまりは敵じゃない。
飛び越えれば、たぶん勝てる。
ひどい歌だった。
旋律はずれているし、歌詞はほとんど勝負の話になっている。
リシアは最初、我慢しようとした。
しかし、途中で耐えきれずに笑ってしまう。
アイシャも笑った。
雨漏りの音と、二人の笑い声が物置の中に混ざった。
その時のリシアは、まだ知らなかった。
その日、アイシャが何気なく言った「好き」が、ずっと先の自分を支える言葉になることを。
現在へ戻ると、宿の鍋がことこと鳴っていた。
女の子はリシアの歌が気に入ったのか、自分なりに真似している。歌詞はところどころ間違っていて、途中から鍋と匙の戦いになっていた。
シルはその歌を聞きながら、半分の干し果物を大事そうに食べている。
リシアは少しだけ笑った。
灰鐘の後で、こんなふうに笑えるとは思っていなかった。
セレナが隣に立つ。
「何か思い出したか」
リシアはすぐには答えなかった。
火の明かりが、セレナの横顔を淡く照らしている。
「アイシャに、初めて歌を好きだと言われた日のことを」
セレナは目を伏せた。
「そうか」
「上手いとは言われませんでした」
「らしいな」
その返事に、リシアは少し驚いてセレナを見る。
セレナは鍋の方を見たまま、淡々と言った。
「あいつは、褒め言葉を飾るのが下手だった。だが、嘘は少なかった」
リシアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
痛みとは違う。
悲しみとも違う。
まだ触れると少し怖いが、それでも消したくない温度だった。
食事の後、リシアは部屋でアイシャの手紙を取り出した。
全部は読まない。
ただ、封を開き、一番最初の行だけを見る。
リシアへ。
その文字を見た。
それだけで、今日は十分だった。
手紙を畳み直す。
鞄の奥には戻さなかった。
歌詞帳の隣へ置く。
シルがベッドの上からそれを見て、小さく頷いた。
ちい。
リシアは窓の外を見た。
山裾の宿の明かりが、夜のガラスに映っている。
雨の日の物置で、アイシャが言った言葉がまだ耳に残っていた。
好き。
上手いでも、役に立つでも、救われたでもなく。
ただ、好き。
リシアはその言葉を胸の奥に置き、静かに目を閉じた。
今回は、灰鐘修道院を離れた後の小休止でした。
重い記録と鐘の記憶から少し離れ、リシアがアイシャとの昔の出来事を思い出します。
アイシャが初めてリシアの歌を「好き」と言ってくれた日。
上手いからでも、役に立つからでもなく、ただ好きだと言ってくれたことが、今のリシアの中にも残っています。
灰鐘で得た記憶はまだ重いままですが、消したくない記憶もまた、確かにそこにあります。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




