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灰鐘修道院編 61話 灰鐘が鳴る時

リシアたちは、灰鐘修道院の地下記録室の奥に隠されていた鐘下室へ入った。

そこには、眠りという言葉で処理されていた記録や、鐘の響きを部屋の中へ落とすような構造が残されていた。

リシアは、アイシャのものと思われる飾り紐と、寝台に刻まれた「選ばせて」という言葉を見つける。

さらに、アイシャが第二眠処理を保留され、対象Nへの処理にも異議を唱えていたことが分かった。

しかし、鐘下室には黒譜の罠が残っていた。

階段は黒い線に塞がれ、鳴らないはずの鐘が、少しずつ音を探し始めていた。


 最初の音は、鐘の音に似ていなかった。


 石の奥で、冷えた水が動くような響きだった。


 それが中央の筒を伝い、鐘下室へ落ちてくる。空気が震えるのではない。胸の内側に置かれた古い器が、外から触れられたように揺れる。


 リシアは片手で耳を塞いだまま、もう片方の手を歌詞帳の上に置いていた。


 開かない。


 そう決めていたはずなのに、歌詞帳の表紙は指の下で熱を持つ。誰かに呼ばれているような感覚が、手首から腕へ上がってくる。


 セレナが階段の入口へ向かった。


 黒い線は石壁の譜面線に沿って広がり、出口を薄い膜のように塞いでいる。セレナが短剣を当てると、黒い線は刃を避けるように沈み、すぐ元の形へ戻った。


 ユーディが息を飲む。


「閉じ込められたんですか」


「まだ断定するな」


 セレナはそう言ったが、声は硬かった。


 上から二度目の響きが落ちた。


 今度は、はっきりと鐘に近かった。


 ただし、外へ広がる音ではない。部屋の内側だけを満たし、そこにいる者の体へ染み込む音だ。リシアの視界の端で、寝台が揺らいだ。


 古い寝台に、人影が重なる。


 誰かが横たわっている。


 顔は見えない。


 傍らに座る修道士らしき影が、水杯を差し出している。別の影が記録紙へ何かを書き込んでいる。


 幻ではない。


 残響だ。


 けれど、リシアが開いたものではなかった。


 鐘が、勝手に部屋の記憶を起こしている。


 彼女は目を閉じなかった。


 目を閉じれば、耳の奥へ音だけが深く入ってくる気がした。


 見える範囲だけを見る。


 聞こえるものへ飛び込まない。


 そう自分に言い聞かせる。


 シルがリシアの肩で、服を強く掴んだ。


 小さな爪の感触が、今ここにいる体へ意識を戻してくれる。


 ユーディがふらついた。


 彼の手が剣の柄から離れ、胸元へ向かう。何かを探すような動きだった。


「ユーディ」


 セレナが名を呼ぶ。


 返事が遅れた。


 若い騎士は、一瞬だけ遠くを見るような目をしていた。


「……はい」


「自分の名を言え」


 ユーディは唇を開く。


 声がすぐに出ない。


 鐘の響きが、彼の言葉の前に薄い灰を置いているようだった。


 リシアは歌詞帳を握りしめる。


 歌えば支えられるかもしれない。


 けれど、今この部屋で歌えば、鐘がその歌を拾う。支えの歌が、処理の譜面へ繋がるかもしれない。


 ユーディは喉を震わせ、ようやく声を出した。


「ユーディ・カルムです」


 セレナが頷く。


「妹の名は」


「リリ」


 今度は早かった。


 その名を言った瞬間、ユーディの目が戻る。彼は自分の手を見て、何が起きかけていたのかを理解したように顔を青くした。


 リシアは息を吐いた。


 名前が、まだ彼をこちらへ引き戻す。


 説明する必要はなかった。


 その場にいた全員が、今の一瞬を見ていた。


 上から三度目の音が降りる。


 部屋の中央にある穴の周りで、黒い線が輪を描いた。石床の譜面線がひとつずつ黒く染まり、寝台の脇の小さな鐘形の器具が震え始める。


 リシアの耳に、初めてはっきりとした声が触れた。


『眠れば、苦しくない』


 誰の声かは分からない。


 優しい声だった。


 だからこそ、嫌だった。


 リシアは耳を塞ぐ手に力を込める。


 その声は、相手を乱暴に脅しているのではない。休ませるように、慰めるように、そっと心の近くへ置かれる。


 ルゼットの静音符と同じだ。


 最初は、眠りたい人を救うためのものだったのかもしれない。


 けれど、この部屋で鳴る鐘は、眠りたいかどうかを確かめない。


 眠らせる。


 その形になっている。


 セレナが寝台の枠に刻まれた文字を見る。


 選ばせて。


 彼女の表情が歪んだ。


 短い一瞬だった。


 リシアは見逃さなかった。


 その言葉は、セレナにも刺さっている。


 守るつもりで知らせなかったこと。


 選ばせなかったこと。


 ここに刻まれた傷は、過去の誰かだけのものではなかった。


 黒い線が、机の上に残された記録紙へ伸びた。


 処理保留者。


 アイシャ・リーヴェルト。


 その文字がある紙へ、黒い線が触れる。


 リシアは反射的に手を伸ばしそうになった。


 だが、シルが先に動いた。


 肩から飛び降り、机の上へ駆ける。小さな体で記録紙の端を押さえ、黒い線に向かって鋭く鳴いた。


 ちいっ!


 黒い線は一瞬だけたじろぐ。


 その隙に、セレナが記録紙を引き寄せた。


 黒い線は紙ではなく、今度はリシアの鞄へ向かう。


 アイシャの飾り紐。


 アイシャの手紙。


 そこに引かれている。


 リシアは鞄を胸へ抱いた。


 鐘の音が、急に近くなる。


 部屋の景色が揺れた。


 リシアの目の前に、別の光景が重なる。


 鐘下室。


 同じ部屋。


 だが、今より新しい。


 寝台には薄い青髪の少女が座っている。まだ幼さの残る顔で、両手を膝の上に置いていた。耳を塞いではいない。ただ、誰かの声を聞かないように、体全体を固くしている。


 その隣に、左肩を包帯で巻いたアイシャが立っていた。


 顔色は悪い。


 それでも、背筋は伸びている。


 彼女の剣帯から、白と金の飾り紐が垂れていた。結び目の最後の輪が、少しだけ大きい。


 リシアは息を止める。


 見たい。


 聞きたい。


 でも、これは鐘が無理に起こした記憶だ。


 飛び込めば、次の記憶も、その次の記憶も、すべて引きずり出される。


 リシアは歌詞帳を押さえたまま、視線だけを保った。


 記憶の中で、灰色の衣を着た男が書類を持っている。


「第二眠は、対象Nの拒絶反応を安定させるためです」


 男の声は平坦だった。


「処理後、歌術反応は低下します。悪夢も減ります。本人の苦痛も軽くなる」


 アイシャが言う。


「本人に聞きましたか」


 男は少し黙った。


「判断能力が不安定です」


「だから聞かないんですか」


「必要な処置です」


 アイシャは少女の前へ立つ。


 守るように。


「必要かどうかを、あなたが先に決めないでください」


 少女が顔を上げる。


 ノエルだ。


 今より幼いノエルは、アイシャの背中を見ている。信じている顔ではない。助けを求めている顔でもない。ただ、その背中が自分の前にあることを、まだ理解できないように見つめている。


 男が別の書類を出した。


「護衛騎士アイシャ・リーヴェルト。あなたも処理対象です。第七封鎖記録に関する過剰接触、命令違反、前線離脱。記憶反応の安定化が必要と判断されています」


 アイシャは笑わなかった。


 怒鳴りもしなかった。


 ただ、静かに言った。


「私にも聞いていませんね」


 その声が、リシアの胸を深く打った。


 アイシャらしい、と言えばそうかもしれない。


 でも、明るく笑い飛ばすいつもの彼女ではなかった。


 傷ついて、疲れて、それでも相手の言葉をそのまま受け入れない人だった。


 男は鐘の方へ視線を向ける。


「鐘が鳴れば、眠れます」


「眠りたい時は、自分で言います」


「苦しみが減る」


「選べないなら、減った苦しみも私のものじゃない」


 リシアの手が震えた。


 その言葉を追いかけそうになる。


 もっと聞きたい。


 この後、何があったのか。


 アイシャはどうしてノエルを逃がせたのか。


 自分の名前を戦死扱いにしたのは誰なのか。


 問いが次々に胸を叩く。


 鐘の音が、それに合わせるように深くなる。


 もっと見せてやる。


 そう言われている気がした。


 リシアは奥歯を噛んだ。


 見たいからこそ、止まる。


 それが今の自分にできる唯一の抵抗だった。


 彼女は鞄から、前に書いた紙を取り出した。


 まだ、全部は見ない。


 その紙を、床の中央へ置く。


 ただ置くだけでは、すぐ黒い線に呑まれる。


 リシアは歌詞帳を開かなかった。


 代わりに、アイシャの飾り紐を紙の上に重ねた。


 白と金の汚れた紐が、震える紙を押さえる。


 鐘の音が少し乱れた。


 記憶の中のアイシャが、ほんの一瞬こちらを見たように見えた。


 あり得ない。


 これは過去だ。


 残響だ。


 それでも、リシアは息を止めた。


 アイシャの唇が動く。


 声は聞こえない。


 しかし、口の形だけは分かった。


 まだ。


 リシアは目を見開いた。


 まだ。


 それは、見ないでという意味なのか。


 まだ来るなという意味なのか。


 まだ終わっていないという意味なのか。


 分からない。


 分からないまま、記憶は揺らぎ始めた。


 黒い線が焦れたように広がる。


 エルバの声が、鐘の奥から滲んだ。


「君は本当に不便な歌術師だ。望んだ記憶を前にして、なぜ開かない」


 リシアは答えなかった。


 声を返せば、鐘に拾われる。


 エルバの声は続く。


「そこに君の答えがあるかもしれない。アイシャが何を選んだか。なぜ戻らなかったか。君は知りたいはずだ」


 知りたい。


 その通りだった。


 リシアは知りたかった。


 胸が痛いほど。


 けれど、知りたいことと、奪っていいことは同じではない。


 リシアは床に置いた紙を見た。


 まだ、全部は見ない。


 その文字は、弱い。


 黒譜を切る力などない。


 それでも、リシア自身が選んだ言葉だった。


 セレナがリシアの横に立つ。


 彼女も記憶を見ていたのだろう。顔色は悪く、唇は強く結ばれている。


「リシア」


 セレナが低く言う。


「私は見たい」


 リシアは驚いて師を見た。


 セレナの目は、鐘の残響へ向いたままだった。


「何を見落としたのか。何を隠されたのか。知りたい」


 その声は、隊長の命令ではなかった。


 一人の人間の声だった。


「だが、今ここで全部を開けば、あの男の罠に乗る」


 リシアは頷く。


 セレナは短剣を握り直した。


「だから、お前が止まるなら、私はその時間を作る」


 次の瞬間、セレナは階段入口の黒い線へ向かった。


 切れなくてもいい。


 破れなくてもいい。


 黒譜の流れを一瞬でも乱すために、彼女は短剣と譜具を重ねる。


 ユーディも立ち上がった。


 まだ顔色は悪い。


 それでも、自分の名を確かめた後の目をしていた。


「僕もやります」


「無理をするな」


「帰るためにやります」


 セレナは一瞬だけ彼を見る。


 それから頷いた。


 二人が出口の黒譜へ向かう間、リシアは中央に残った。


 シルが戻ってきて、飾り紐の横に座る。


 小さな相棒は紙を押さえたまま、リシアを見上げた。


 リシアはようやく、歌詞帳を少しだけ開いた。


 全てのページではない。


 最初の一枚だけ。


 そこには、まだ断章ではない言葉が薄く浮かんでいた。


 見るために、奪わない。


 閉じるために、消さない。


 リシアはそれを歌わなかった。


 声にもしなかった。


 ただ、目で読んだ。


 その文字を読んだ瞬間、胸の奥で鐘の音が一度だけ遠ざかる。


 黒い線がわずかに緩んだ。


 歌わなかったことが、歌詞帳に届いた。


 そんな不思議な感覚だった。


 リシアは、残響の中のアイシャへ目を向ける。


 今見えるのは、ここまで。


 それ以上は、まだ見ない。


 そう決めた時、記憶の景色が少しだけ澄んだ。


 男の姿は薄れ、部屋の壁も消えかける。


 最後に残ったのは、アイシャとノエルだけだった。


 幼いノエルは、アイシャの背中に向かって小さく何かを言った。


 声は聞こえない。


 アイシャは振り返り、ほんの少し笑った。


 疲れた笑み。


 それでも、確かに笑っていた。


 そして、口だけで何かを歌った。


 固いパンも、スープにつければ勝てる。


 声はない。


 けれど、リシアには分かった。


 ノエルの肩がわずかに下がる。


 その瞬間、残響が崩れた。


 鐘の音が途切れる。


 部屋を満たしていた灰色の圧が、ふっと軽くなった。


 セレナの譜具が階段入口の黒い膜を裂く。ユーディがそこへ剣を差し込み、隙間を広げた。


「今です!」


 リシアは床の紙と飾り紐を拾った。


 シルを肩へ戻す。


 歌詞帳を閉じる。


 それから階段へ走った。


 背後で鐘が、ようやく一度だけ鳴った。


 低く、深い音。


 だが、その音はもうリシアを引き戻さなかった。


 鐘下室を出る直前、リシアは振り返った。


 円形の部屋の中央に、灰色の光が残っている。


 その中で、寝台に刻まれた文字だけがはっきり見えた。


 選ばせて。


 リシアはその言葉を胸に刻み、階段を上がった。


 記録室へ戻ると、名簿は閉じたまま机の上にあった。


 その表紙の上で、リシアの紙が小さく震えている。


 まだ、全部は見ない。


 黒い線は、もうその紙へ近づかなかった。


 リシアは床に膝をついた。


 息が荒い。


 腕も足も震えている。


 けれど、頭の奥は不思議なほど静かだった。


 見た。


 でも、全部は見なかった。


 知った。


 でも、決めつけなかった。


 その境目に、今のリシアは立っている。


 セレナが階段の入口を封じ直し、ゆっくりこちらへ戻ってきた。


 ユーディは壁にもたれ、深く息を吐いている。


 シルはリシアの肩から降り、名簿の前へ行った。


 そして、閉じた表紙の上に前足を置く。


 まるで、今はここまでだと言っているようだった。


 リシアは飾り紐を布へ戻した。


 その手つきは、さっきより少しだけ落ち着いていた。


 鐘下室の奥で何があったのか。


 アイシャがその後どうなったのか。


 まだ分からない。


 でも、ひとつだけ見た。


 アイシャは、ノエルの前に立っている。


 そして、自分にも、ノエルにも、選ぶことを求めていた。


 その事実だけで、今は十分だった。




今回は、灰鐘が鳴り、鐘下室に残された記憶が起こされる回でした。


リシアは、アイシャの記憶をすべて見たい気持ちを抱えながらも、そこで踏み込みすぎないことを選びました。


鐘下室で見えたのは、アイシャがノエルの前に立ち、第二眠処理に異議を唱えていた一場面だけです。


まだすべては分かりません。


けれど、アイシャが何かを選ぼうとしていたこと、そしてノエルのために立っていたことは、リシアの中に確かに残りました。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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