灰鐘修道院編 60話 鐘の下の部屋
リシアたちは、灰鐘修道院の地下記録室で戦死扱い名簿を開いた。
名簿には、死亡確認がないまま戦死扱いにされた者たちの名が並んでいた。
その中に、アイシャ・リーヴェルトの名前が残されていた。
搬入日は、リシアが知っている戦死日の三日後。
記録には、アイシャが意識ありの状態で灰鐘修道院へ運ばれたこと、対象Nと記されたノエルと同室観察されていたことが示されていた。
さらに、アイシャは単独聴取の後、鐘下室という場所へ移されたらしい。
リシアは名簿を一度閉じ、すべてを急いで知ろうとする自分を抑えた。
そして、記録室の奥にある隠し通路へ向かう。
記録室の奥には、古い木箱が積まれていた。
中身のない保管箱ばかりだ。箱の側面には管理番号が残っているものもあったが、ほとんどは剥がされていた。わざわざ空箱を重ね、壁の一部を隠している。
セレナが一つ目の箱をどかした。
湿気を吸った木が、鈍い音を立てる。
ユーディが反対側から手を貸した。若い騎士の顔は少し青いが、動きは慎重だった。焦っていない。それが今はありがたかった。
リシアは机のそばに立ったまま、閉じた名簿を見ていた。
表紙の上には、自分の書いた紙が二枚ある。
今から見る。
勝手に決めないために。
まだ、全部は見ない。
その二枚を置いたことで、名簿はただの記録簿に戻ったわけではない。重さは残っている。それでも、リシアは自分の足で少し離れることができた。
シルが肩の上で、小さく体を寄せる。
いつもより軽いはずの重みが、今日ははっきり分かった。
木箱が最後の一つまで退けられると、石壁に細い縦線が現れた。
扉だ。
壁と同じ石で作られているが、中央に小さな取っ手がある。取っ手は黒く錆び、長い間使われていなかったように見える。だが、足元の埃は薄く乱れていた。
最近、開けられている。
セレナが扉の上部を調べた。
そこには、かすれた文字が刻まれていた。
鐘下室。
ユーディが息を飲む。
「本当に、ありましたね」
セレナは短く頷いた。
「図面にはなかった」
その声は低い。
怒りを押し殺しているというより、まだ感情の置き場所を決めていない声だった。
リシアは扉を見つめる。
地下の奥へ続くはずの扉。
名簿に記されたアイシャの行き先。
ここを開けば、何かが分かる。
その思いが、指先を急かした。
けれど、リシアは動かなかった。
セレナが扉に手をかける前に、リシアは小さく言った。
「少しだけ、待ってください」
セレナは振り返る。
リシアは鞄から白い紙を一枚取り出した。
何を書くか迷い、すぐには筆が動かなかった。
長い言葉は要らない。
自分のための言葉でいい。
彼女は短く書いた。
開ける。
でも、奪わない。
その紙を扉の脇に置いた。
シルが紙を覗き込み、静かに鳴いた。
ちい。
リシアは頷く。
「行きましょう」
セレナが扉を開けた。
重い石扉は、予想より簡単に動いた。内側から何かで支えられていた形跡はない。古い空気が、冷たい息のように流れ出す。
階段があった。
幅は狭い。
一人ずつしか通れない。
壁には灯りを置く窪みがあるが、今は何も燃えていない。セレナが携帯灯を掲げ、先に下りた。ユーディが続き、リシアはその後ろへ入る。
階段を下りるにつれ、音が減っていった。
足音はしている。
服が擦れる音もある。
けれど、その音が壁に吸われていく。
地下深くに沈むのではなく、鐘の内側へ入っていくようだった。
途中でリシアは、無意識に喉へ手を当てていた。
痛みはない。
ただ、声を出す前の場所が少し冷たい。
シルが首元に近づき、リシアの手の甲へ鼻先を当てた。
それだけで、リシアは手を下ろせた。
階段の先は、円形の部屋だった。
天井は高くない。
しかし中央だけが筒状に抜け、上へ伸びている。おそらく鐘楼の真下に繋がっているのだろう。見上げても、上部は暗くて見えない。
部屋の壁は灰色の石でできている。
石の継ぎ目には、細い譜面線が刻まれていた。王国歌術の紋にも見えるが、所々で削られ、別の線が上から加えられている。黒譜ではない。少なくとも、今見える限りでは黒くない。
ただ、どこか不自然だった。
歌を響かせるためではなく、響きを逃がさないための線に見えた。
円形の部屋の周囲には、椅子が六脚並んでいる。
寝台も三つあった。
治療棟のものより低く、固定具はない。代わりに、寝台の脇には小さな鐘形の器具が取り付けられていた。鐘の形をしているが、音を鳴らすためのものには見えない。
ユーディが近づきかけ、すぐに足を止めた。
「触らない方がいいですよね」
「そうだな」
セレナが答える。
リシアは部屋の中央へ視線を向けた。
丸い床板の中央に、穴がある。
穴の周りには鎖の跡が残っていた。上の鐘と繋がっていたのかもしれない。記録室に置かれていた鐘の舌は、ここから外されたものだろう。
鐘は上にある。
舌は下にあった。
音は外へ鳴るのではなく、この部屋へ落とされていた。
リシアはそう思ったが、口にしなかった。
決めつけるにはまだ早い。
部屋の奥には小さな机があった。
上には薄い記録紙が数枚残されている。湿気で端は丸まり、読める部分は多くない。
セレナが灯りを近づける。
リシアは少し距離を取って立った。
記録紙には、項目だけが残っていた。
第一眠。
反響鎮静。
悪夢軽減。
第二眠。
記憶反応低下。
名前呼称反応。
帰還意思。
その先は、黒く滲んで読めない。
ユーディが眉を寄せる。
「眠らせる処置、なんですか」
「眠りという言葉を使っているだけかもしれない」
セレナの声は硬い。
リシアは紙面を見た。
言葉は整っている。
処置。
反応。
低下。
確認。
どれも冷たい。
そこにいた人の顔を、遠ざけるための言葉だった。
リシアは記録紙へ触れなかった。
代わりに、部屋を見た。
寝台の脇に置かれた水杯。
椅子の脚に残った擦り傷。
壁の低い位置に引かれた短い線。
誰かがここに座った。
誰かがここで待った。
誰かが、鐘の下で眠らされた。
そういう形だけが残っている。
それ以上は、まだ開かない。
シルが肩から降り、三つある寝台のうち一つへ近づいた。
彼は寝台そのものではなく、床の隙間を覗き込んでいる。
リシアはそちらへ向かった。
寝台の下には、古い布切れが挟まっていた。
シルが前足で引き出そうとして、うまくいかない。
「待って」
リシアは膝をつき、布をそっと引いた。
細い飾り紐だった。
白と金の糸が混じっている。泥と埃で汚れているが、結び目だけは形を保っていた。
リシアには見覚えがあった。
護衛騎士の剣帯に使われていた飾り紐。
そして、この結び方。
少しだけ雑で、最後の輪が大きい。
アイシャはいつも、こういう結び方をした。
急いで結ぶから、左右が揃わない。
セレナが隣に屈む。
飾り紐を見た瞬間、彼女の目が細くなった。
「アイシャの癖だ」
リシアは紐を握らない。
手のひらに乗せるだけにする。
そこから残響が流れ込むことはなかった。
流れ込ませなかった。
ただ、布の重さを感じる。
小さな証拠。
消されなかったもの。
リシアの喉が震えた。
声は出さない。
代わりに、飾り紐を布へ包み直した。
「持っていてもいいですか」
セレナは少しだけ目を伏せた。
「お前が持っていろ」
リシアは頷き、鞄の中へ丁寧にしまった。
アイシャの手紙とは別の場所へ。
重ならないように。
寝台の枠には、小さな傷があった。
最初は木目かと思った。
だが、灯りを近づけると、文字だった。
浅く刻まれている。
指先でなぞらなければ読めないほど細い。
リシアは触れず、目だけで追った。
選ばせて。
それだけだった。
誰の字かは、分からない。
アイシャの字に似ている気もする。
でも、寝台に刻まれた文字は歪み、筆跡とは言い切れなかった。
リシアはその言葉を声にしなかった。
セレナも黙って見ている。
ユーディは少し離れた場所で、視線を伏せていた。
選ばせて。
この部屋で、その言葉が刻まれた。
それだけで十分だった。
奥の机に、もう一枚だけ記録紙が残っていた。
他の紙より新しい。
いや、新しいのではない。
大事に折り畳まれていたため、傷みが少ないのだ。
セレナが開く。
見出しには、処理保留者と書かれていた。
そこに、アイシャの名があった。
アイシャ・リーヴェルト。
第二眠処理、保留。
本人希望、未確認。
対象Nへの処理実施に対し、強く異議。
以後、鐘下室留置。
リシアは目を閉じた。
長くは閉じなかった。
逃げるためではなく、息を整えるために。
アイシャはここで、何かに反対していた。
自分自身への処理だけではない。
ノエルへの処理にも。
だが、その後どうなったのかは、この紙にはない。
セレナは紙を折り直さず、布の上に置いた。
「持ち帰る」
「はい」
リシアは頷いた。
その時、部屋の上部で何かが鳴った。
音は小さい。
金属が触れ合っただけのような、短い響き。
全員が顔を上げる。
中央の筒状の空間の奥で、鎖が揺れていた。
風はない。
誰も触れていない。
鎖はゆっくりと揺れ、二度目の音を立てた。
今度は少し長かった。
リシアの胸元で歌詞帳が震える。
セレナが灯りを上へ向ける。
暗い筒の奥に、黒い線が走っていた。
細く、薄く、しかし確かにそこにある。
エルバの黒譜。
ユーディが剣に手をかける。
「罠ですか」
セレナは答えない。
彼女はすぐに階段の方へ視線を向けた。
「戻る」
その判断は早かった。
だが、階段の入口にも黒い線が浮かび始めていた。
石壁の譜面線が、内側から染まるように黒く変わっていく。
閉じ込められた。
リシアはそう思った。
けれど、声にはしなかった。
鐘の舌は記録室に置いてきたはずだ。
上の鐘には、音を生むものがない。
それなのに、頭上から三度目の響きが落ちてくる。
今度は、鐘の音に近かった。
まだ完全には鳴っていない。
でも、鳴る前の音が部屋の中に満ち始めている。
シルがリシアの肩へ戻り、強く服を掴んだ。
リシアは歌詞帳に手を置いた。
開かない。
まだ、開かない。
この部屋が何を起こそうとしているのか、歌で先に答えを出してはいけない。
セレナが低く言った。
「リシア、耳を塞げ」
治療棟で見つけた紙片が、胸をよぎる。
鳴る前に、耳を塞げ。
リシアは両手を上げかけた。
その瞬間、寝台の枠に刻まれた言葉が目に入る。
選ばせて。
耳を塞ぐか。
聞くか。
逃げるか。
残るか。
誰かに命じられるのではなく、自分で選ばなければならない。
リシアは片手だけで耳を塞いだ。
もう片方の手は、歌詞帳の上に置いた。
開くためではない。
閉じたまま支えるために。
鐘下室の中央で、灰色の響きがゆっくりと降りてきた。
鳴らないはずの鐘が、ようやく最初の音を探し始めていた。
今回は、灰鐘修道院の地下に隠されていた鐘下室へ入りました。
そこには、眠りという言葉で処理されていた記録や、鐘の響きを部屋の中へ落とすような構造が残されていました。
リシアは、アイシャのものと思われる飾り紐と、寝台に刻まれた「選ばせて」という言葉を見つけます。
さらに、アイシャが第二眠処理を保留され、対象Nへの処理にも異議を唱えていたことが分かりました。
けれど、鐘下室にはまだ黒譜の罠が残されていました。
鳴らないはずの鐘が、少しずつ音を探し始めています。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




