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灰鐘修道院編 59話 戦死扱いの名簿

リシアたちは、北西の山中にある灰鐘修道院へ到着した。

そこは完全な廃墟ではなく、誰かが通った跡や、置き直された桶、削られた名札のある寝台が残る場所だった。

治療棟には、名前を消された寝台、内側から傷つけられた扉、そして「鳴る前に、耳を塞げ」と書かれた紙片があった。

礼拝堂の奥から地下の記録室へ進むと、そこには外された鐘の舌と、一冊の記録簿が置かれていた。

表紙には、こう記されていた。

戦死扱い名簿。

灰鐘修道院第三綴。

リシアはすぐに残響へ触れず、「今から見る。勝手に決めないために」と紙へ書いてから、名簿へ向き合うことを選んだ。


 鐘の舌は、見た目よりも重かった。


 セレナとユーディが両側から慎重に持ち上げる。黒ずんだ金属は机から離れる時、低く鈍い音を立てた。


 その音は、鐘の音ではなかった。


 ただの金属が木を擦る音だ。


 それでもリシアの胸の奥は、ほんの少し震えた。


 鳴っていないはずの鐘が、どこかで目を覚ましそうになる。


 シルが机の端に立ち、尻尾を固くしていた。いつものように前足を伸ばして何かを触ろうとはしない。銀色の小さな体が、記録簿とリシアの間に半歩だけ入り込んでいる。


 リシアはその背中を見て、息を整えた。


 机の端に置いた紙には、自分の字が残っている。


 今から見る。


 勝手に決めないために。


 その字は少し震えていた。


 セレナが鐘の舌を床へ下ろす。


 金属は床板を軋ませ、部屋の空気をさらに沈めた。


「開くぞ」


 セレナの声に、リシアは頷いた。


 自分で開けるべきか、一瞬迷う。


 けれど、手は動かなかった。


 今はそれでいいと思った。


 セレナが表紙に手をかけ、ゆっくりと名簿を開く。


 古い紙が湿気を含んで波打っている。ページの端は黒ずみ、ところどころ指で擦れた跡があった。


 最初のページには、管理項目が並んでいた。


 氏名。


 所属。


 搬入日。


 収容理由。


 処理区分。


 死亡確認。


 備考。


 リシアの視線は、自然とその一行で止まった。


 死亡確認。


 欄がある。


 つまり、ここに載っている人たちすべてが、死亡を確認されたわけではない。


 セレナも同じ場所を見ていた。


 表情は変わらない。


 だが、指先だけがわずかに強張っている。


 ユーディが小さな声で言った。


「戦死扱い名簿なのに、死亡確認の欄があるんですね」


 誰もすぐには答えなかった。


 答えは、紙の中にある。


 セレナが次のページをめくる。


 一人目の名は黒く塗りつぶされていた。


 所属も削られている。


 搬入日だけが残り、処理区分には戦死扱いと記されていた。


 死亡確認の欄は空白。


 備考には、短い文字がある。


 鐘下へ。


 リシアは喉の奥が冷えるのを感じた。


 次の行も同じだった。


 名前の一部が読めない。


 所属は消されている。


 処理区分は戦死扱い。


 死亡確認は空白。


 備考は、鐘下へ。


 ページをめくるたび、同じような記録が続いた。


 ただし、全員ではない。


 中には死亡確認ありと記された者もいる。


 遺体搬送済み。


 家族通知済み。


 慰霊名簿へ転記。


 そう書かれた行もあった。


 だからこそ、空白の欄が目立つ。


 死を確認された者と、確認されないまま処理された者が、同じ名簿に並んでいる。


 リシアは記録簿へ手を伸ばしかけた。


 紙の奥から、何かが聞こえそうだった。


 だが、指先はページに触れる前で止まる。


 シルが机の上で、じっとリシアを見ていた。


 止められたわけではない。


 ただ見ている。


 その視線が、今のリシアには支えになった。


「読んでください」


 リシアはセレナに言った。


「私が触る前に、文字で分かることを」


 セレナは一度だけ頷いた。


 それから、名簿をゆっくり追う。


「搬入理由に、歌術反応過多、悪夢、発声困難、記憶混濁。似た項目が多い」


「戦場帰りの人ですか」


 ユーディが尋ねる。


「兵もいる。だが、民間人らしき者も混じっている」


 セレナは一つの行で止まった。


「年齢欄が残っているものがある。十六、十九、十二」


 ユーディが息を呑む。


 リシアは目を閉じかけ、すぐに開いた。


 かわいそう、という言葉でまとめてはいけない。


 ここにいた人たちのことを、今リシアはまだ知らない。


 知らないまま、感情だけで名を奪ってはいけない。


 彼女は白い紙をもう一枚出し、分かることだけを書いた。


 死亡確認なし。


 鐘下へ。


 民間人も含む。


 手が震えたが、文字は読める形になった。


 セレナはさらにページを進めた。


 途中、破られたページがあった。


 根元だけが残り、本文は切り取られている。破れ方は古いものではない。紙の繊維がまだ明るく、最近抜かれたことが分かる。


「ここも先に見られている」


 セレナが低く言う。


 エルバ。


 名前を出さなくても、全員が同じ人物を思い浮かべた。


 リシアは机の上の鐘の舌を見る。


 名簿を隠すために置かれていたのではない。


 見せるために置かれていた。


 おそらく、リシアたちがここへ来ることを見越して。


 それでも、読むしかない。


 紙の角が、また一枚めくられる。


 そこでセレナの手が止まった。


 空気が変わったのを、リシアは感じた。


 セレナは何も言わない。


 ただ、目だけが一行に落ちている。


「セレナさん」


 リシアの声は、思ったより小さかった。


 セレナはすぐには答えなかった。


 代わりに、記録簿をリシアの方へ向ける。


 見ろと言われたわけではない。


 けれど、逃げるなとも言われている気がした。


 リシアはページを見る。


 護衛騎士。


 アイシャ・リーヴェルト。


 文字は残っていた。


 塗りつぶされていない。


 削られてもいない。


 他の多くの名前が消されている中で、その名だけが、妙に静かにそこにあった。


 リシアは息を止めた。


 搬入日。


 リシアが知っている戦死日の三日後。


 所属。


 王国騎士団直属護衛班。


 収容理由。


 第七封鎖記録関連聴取後、前線離脱。左肩裂傷。歌術反応軽度。意識あり。


 意識あり。


 その四文字が、リシアの胸に落ちた。


 ノエルの言葉は、嘘ではなかった。


 少なくとも、この名簿では、アイシャは戦死日後にここへ運ばれ、意識があったことになっている。


 リシアは涙が出ると思った。


 けれど、出なかった。


 涙より先に、体の奥が静かになっていく。


 静かすぎて、自分が何を感じているのか分からない。


 ユーディが、何か言おうとしてやめた。


 セレナも黙っている。


 シルだけが、机の上からそっとリシアの手元へ近づいた。


 前足が、リシアの指先に触れる。


 温かかった。


 その温度で、ようやく息が戻った。


「続きは」


 リシアは言った。


 声はかすれていた。


「続きも、読んでください」


 セレナは頷いた。


 備考欄へ視線を落とす。


「同行者、対象N。記録上の接触制限を無視。護衛騎士本人の強い希望により同室観察」


 対象N。


 ノエルのことだ。


 リシアはページから目を離せなかった。


 アイシャはノエルと同じ場所にいた。


 しかも、接触制限を無視して。


 ノエルが言った通り、アイシャは彼女を逃がしたのかもしれない。


 いや、まだ決めない。


 リシアは息を吸う。


 決めないために見ている。


 セレナが次の行を読む。


「二日後、対象N所在不明。護衛騎士アイシャ・リーヴェルト、単独聴取。以後、灰鐘長判断により鐘下室へ移送」


 鐘下室。


 先ほどから備考欄にあった、鐘下へという言葉。


 それが場所の名として現れた。


 ユーディが周囲を見回す。


「鐘下室……この修道院の地下に、さらに部屋があるんですか」


「私は知らない」


 セレナの返事は硬かった。


 リシアはセレナを見る。


 嘘ではない。


 少なくとも、今の顔は知らなかった人のものだ。


「閉鎖確認の時も?」


「聞かされていない」


 セレナの声が低くなる。


「記録室が地下にあることは知っていた。だが、鐘下室という区画は見ていない。図面にもなかった」


 リシアは名簿の備考欄を見る。


 鐘下室へ移送。


 その下に、小さな文字がある。


 第二眠処理、保留。


 二度眠る。


 エルバが残した言葉が、ここで繋がる。


 戦死扱いの名は、鐘の下で二度眠る。


 一度目は、記録上の戦死。


 二度目は、鐘下室。


 そう読めてしまう。


 だが、第二眠処理とは何か。


 死を意味するのか。


 記憶を閉じることか。


 歌を封じることか。


 リシアは答えを急ぎそうになる自分を止めた。


 紙へ書く。


 鐘下室。


 第二眠処理、保留。


 アイシャ、意識あり。


 書いている途中で、筆先が止まった。


 意識あり。


 その文字を書いた瞬間、やっと涙が一滴落ちた。


 紙には落ちなかった。


 机の端に落ち、すぐに古い木目へ吸い込まれていく。


 セレナは見ていたが、何も言わなかった。


 ユーディも、視線を伏せている。


 リシアは袖で目元を拭い、名簿へ戻った。


「その後は」


 セレナはページをめくる。


 次のページの上半分は切り取られていた。


 残っているのは下の数行だけだ。


 護衛騎士アイシャ・リーヴェルト。


 鐘下室移送後、記録閲覧制限。


 王都戦死名簿へ転記済み。


 家族通知、不要。


 リシアの手が止まる。


 家族通知、不要。


 なぜ不要なのか。


 アイシャに家族がいなかったからか。


 それとも、戦死扱いがすでに通達されていたからか。


 その下に、別の筆跡で追記があった。


 本人希望、未確認。


 短い一文。


 だが、その一文だけ筆圧が違う。


 リシアは身を乗り出した。


「この字……」


 セレナが目を細める。


「アイシャの字ではない」


「ノエルでもないと思います」


 硬く、整った字だ。


 記録官の字にも見える。


 ただ、その一文だけが、他の冷たい文言から少し浮いている。


 本人希望、未確認。


 誰かが、手続きに疑問を残した。


 アイシャ本人が望んだのか、確認されていない。


 その記録を、消さずに残した者がいた。


 名前はない。


 けれど、完全に塗り潰されなかった声だ。


 リシアはその一文を紙へ写した。


 手が止まらなかった。


 写している間、歌詞帳は静かなままだ。


 それがありがたかった。


 今は歌ではなく、記録として残したい。


 セレナが名簿をさらに調べる。


 アイシャの項目の横に、小さな挟み紙が残っていた。


 湿気で張りつきかけている。


 エルバが見落としたのか、あるいはわざと残したのかは分からない。


 セレナは慎重に剥がした。


 そこには、灰鐘修道院の簡略図が描かれていた。


 礼拝堂。


 治療棟。


 記録室。


 鐘楼。


 そして、鐘楼の真下に、図面にはない小さな空白がある。


 何も書かれていない。


 ただ、その空白の横に、細い線が引かれていた。


 線は、記録室の奥から伸びている。


「隠し通路か」


 セレナが呟く。


 ユーディが地下室の壁を見る。


「記録室の奥……あちらですね」


 棚の向こう側。


 古い木箱が積まれている場所だった。


 リシアは立ち上がろうとして、足に力が入らなかった。


 すぐに座り直す。


 シルが心配そうに鳴いた。


 ちい。


「大丈夫」


 いつもの言葉が口から出かけて、止まった。


 リシアは少しだけ首を振る。


「少し、待って」


 そう言うと、シルは前足を下ろした。


 急かさなかった。


 セレナも、ユーディも動かなかった。


 地下記録室には、古い紙と金属の匂いが満ちている。


 机の上には、戦死扱い名簿が開かれている。


 そこに、アイシャの名がある。


 生きていた証拠に近い記録がある。


 同時に、その先で何が起きたのかは、まだ分からない。


 リシアは鞄を開けた。


 アイシャの手紙を取り出す。


 読まなかった。


 封の上から、ただ手を置いた。


 紙の向こうにいる人へ、今すぐ答えを求めないために。


「行きます」


 少しして、リシアは言った。


「でも、鐘下室に入る前に、名簿はここで閉じます」


 セレナがリシアを見る。


「いいのか」


「開いたまま進むと、戻ってきた時に、続きを急いで読んでしまいそうなので」


 それは弱さの告白だった。


 でも、必要なことだった。


 セレナは短く頷く。


「分かった」


 リシアは名簿へ手を伸ばした。


 今度は触れた。


 ただし、残響を開くためではない。


 表紙を閉じるために。


 古い紙が、静かに重なる。


 アイシャの名前は、ページの内側へ戻った。


 消えたわけではない。


 閉じただけだ。


 リシアはその表紙の上に、先ほど書いた紙を置いた。


 今から見る。


 勝手に決めないために。


 そして、その横にもう一枚置く。


 まだ、全部は見ない。


 鐘の舌は床に沈黙している。


 鐘楼の鐘も鳴っていない。


 けれど、記録室の奥から、かすかな冷気が流れてきた。


 棚の向こう。


 図面にない空白。


 鐘下室。


 リシアは鞄を閉じ、立ち上がった。


 今度は足が動いた。


 シルが肩へ戻る。


 小さな相棒は、何も鳴かなかった。


 ただ、リシアの首元へ尻尾を軽く巻きつけた。


 その温度を感じながら、リシアは記録室の奥へ向かった。



灰鐘修道院の地下記録室で、戦死扱い名簿が開かれました。


そこには、アイシャ・リーヴェルトの名が残されていました。


戦死日とされた日の後、灰鐘修道院へ運ばれていたこと。


意識があったこと。


そして、鐘下室という場所へ移されたこと。


リシアはすべてを急いで知ろうとはせず、名簿を一度閉じました。


名前が消えていなかったこと。


けれど、まだ何も分からないこと。


その両方を抱えたまま、彼女は鐘の下へ向かいます。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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