灰鐘修道院編 58話 鳴らない鐘楼
リシアたちは、灰鐘修道院へ向かうため王都を出た。
ノエルが告げた「アイシャは戦死日後も生きていた」という言葉は、リシアにとって単純な希望ではなく、これまでの悲しみを揺さぶる傷でもあった。
道中、リシアはアイシャの手紙を読み返せないまま、セレナやユーディとともに北西の山道を進む。
宿場では、固いパンをスープにつける何気ない仕草から、アイシャの短い日常歌を思い出した。
そして翌日、灰鐘修道院の敷地を示す古い石標を越えた先に、鳴っていないはずの鐘楼が見え始めた。
灰鐘修道院は、山の斜面に半ば埋もれるように建っていた。
遠くから見えた鐘楼は、近づくほど細く、頼りなく見えた。灰色の石を積んだ塔は、ところどころ苔に覆われている。屋根の一部は欠け、そこから伸びた蔦が、古い傷口を縫う糸のように垂れていた。
鐘は吊るされている。
だが、揺れていない。
風はある。木々の枝も、修道院の外壁に絡む蔦も、わずかに動いている。それなのに鐘だけは、風の中で沈黙していた。
リシアは門の前で足を止めた。
鉄の門扉は閉じているが、鍵はかかっていない。鎖は錆び、中央で切れていた。切断面は古くない。最近、誰かがここを通ったのだ。
セレナが屈み、鎖の断面を確認する。
「黒譜で切った跡ではない。刃物だな」
ユーディが周囲を見回した。
「人の気配は……ありませんね」
その声は、静かな場所に遠慮するように小さかった。
リシアは門扉に触れないまま、中を見た。
石畳の参道が、礼拝堂へ向かって伸びている。左右には低い建物が並び、窓には板が打たれていた。敷地の奥に鐘楼があり、その下には小さな中庭がある。
荒れている。
けれど、完全な廃墟ではない。
誰かが片づけた跡が、ところどころに残っていた。
倒れた木の枝は参道の脇へ寄せられている。雨水を受ける桶は割れていたが、ひとつだけ新しい位置に置き直されていた。礼拝堂の扉の前には、枯れ葉が吹き溜まっているのに、中央だけ薄く空いている。
通った人がいる。
リシアは鞄の留め具へ指をかけた。
中にはアイシャの手紙がある。
読むためではなく、そこにあることを確かめるために触れた。
シルが肩の上で低く鳴く。
ちい。
「うん」
リシアは小さく頷き、門の中へ足を踏み入れた。
修道院の敷地に入った瞬間、音が少し遠くなった。
鳥の声は聞こえている。
木の葉の擦れる音もある。
それなのに、耳の奥だけが薄い布で覆われたように感じる。ルゼットの静音符のように音を奪う沈黙ではない。もっと古く、長く放置された沈黙だった。
誰かが話すのをやめた場所。
誰かが聞かれるのを待つことをやめた場所。
リシアはその考えを追いかけそうになり、途中でやめた。
まだ、見てもいない。
まだ、聞いてもいない。
決めつけるには早い。
セレナが参道の右手を指した。
「治療棟はあちらだ。礼拝堂と記録室は奥にある」
「覚えているんですね」
「一度来た場所だ」
返事は短かった。
けれど、迷いなく歩き出す背中は、記憶に従っているように見えた。
治療棟の扉には、閉鎖済みを示す古い札が貼られていた。
王宮歌術研究局。
軍務局。
二つの印が重なっている。
その下に、日付が書かれていた。戦後まもない頃の日付だ。インクは薄れているが、字はまだ読める。
セレナが扉を開けた。
蝶番が重く軋む。
中へ入ると、乾いた薬草の匂いと、古い布の匂いがした。
寝台が並んでいる。
数は多くない。十台ほどだろうか。白かったはずの布は灰色に沈み、枕元の棚には空の薬瓶が置かれている。窓は板で塞がれているが、隙間から差す細い光が、埃の粒を浮かび上がらせていた。
リシアは入り口近くの寝台の前で足を止めた。
枕元に、小さな金属板が取り付けられている。
名前札だ。
しかし、名前は削られていた。
鋭いもので何度も擦ったように、文字のあった場所だけが白く荒れている。
隣の寝台も同じだった。
その隣も。
十台すべての名札が削られている。
ユーディが息を呑んだ。
「どうして、名前を……」
誰もすぐには答えなかった。
リシアは一枚の名札へ指を伸ばしかけ、止めた。
触れれば何かが聞こえるかもしれない。
でも、ここで聞くべきかは分からない。
彼女は指を下ろし、代わりに目で名札の傷を追った。
削り方は乱暴だった。
時間をかけて丁寧に消したのではない。急いで、しかし強い力で、名前だけを潰している。文字の端が一部だけ残っているものもあるが、読めるほどではない。
セレナは部屋の奥へ進んだ。
そこには、小さな机がある。引き出しはすべて開けられ、中身はない。机の上には、割れた陶器の水差しが置かれていた。
セレナの手が、その水差しの前で止まる。
「前に来た時も、ここに水差しがあった」
「同じものですか」
「分からない。ただ、私が見たものは割れていなかった」
リシアは水差しを見た。
乾いている。
中に水は残っていない。
だが、注ぎ口の周りだけが、少し黒ずんでいた。黒譜の痕ではない。煤のようにも見える。誰かが火に近づけたのかもしれない。
シルが肩から降り、机の上にそっと乗った。
彼は水差しへ近づき、鼻を動かした。
ちい。
嫌そうな声だった。
「何か匂う?」
シルは水差しではなく、机の下を見た。
リシアが屈むと、床板の隙間に小さな紙片が挟まっていた。
セレナが短剣の先で慎重に取り出す。
紙片には、かすれた文字がある。
名前ではない。
数字でもない。
短い一文だけだった。
鳴る前に、耳を塞げ。
リシアは紙片を見つめた。
筆跡はアイシャのものではない。
ノエルの字でもない。
もっと硬く、震えを押し殺したような字だった。
ユーディが小さく言う。
「鐘のこと、でしょうか」
セレナは紙片を布に包み、懐にしまった。
「おそらくな」
リシアは窓の板の隙間から、外の鐘楼を見た。
鐘はやはり揺れていない。
鳴っていない。
それなのに、さっきから胸の奥に低い響きが残っている。
音ではない。
音になる前の震えだけが、体の内側に触れてくる。
リシアは歌詞帳へ手を伸ばさなかった。
ここで開けば、鐘の残響に引き寄せられる。
そう感じた。
治療棟の奥には、個室が三つある。
一つ目は空だった。
二つ目には、壁に古い拘束具が残っていた。革紐は切られている。誰かを縛るためのものだったのか、それとも発作で自分を傷つけないようにするためのものだったのか、見ただけでは分からない。
三つ目の部屋だけ、扉が内側から傷つけられていた。
リシアは扉の前に立つ。
爪跡。
いや、爪ではない。
何か硬いもので、何度も内側から叩いた跡だ。
セレナが扉を押し開ける。
中は狭かった。
寝台がひとつ。
椅子がひとつ。
壁には、歌術紋を封じるための白い布が貼られていた。布は古び、端が剥がれている。
寝台の枕元には、名札がない。
代わりに、壁の低い位置へ傷が刻まれていた。
横線が五本。
少し離れて、また五本。
数を数えた跡のようだった。
リシアはその傷を見て、息を止めた。
誰かが日数を数えていたのか。
あるいは、鐘が鳴った回数か。
それとも、夜を越えた数か。
シルがリシアの袖を引いた。
小さな力だったが、はっきりとした動きだった。
リシアは我に返る。
部屋の奥へ入りすぎていた。
「ありがとう」
リシアは一歩下がった。
心歌は聞こえない。
聞こえないのではなく、聞かないようにしている。
それでいい。
今はまだ、部屋の記憶を開く時ではない。
治療棟を出ると、外の空気が少し冷たく感じられた。
中庭には枯れた薬草畑がある。
木枠だけが残り、土は硬くなっていた。畑の端には、古い木札がいくつも刺さっている。薬草の名が書かれていたはずだが、ほとんど読めない。
ひとつだけ、文字が残っていた。
眠り草。
その札だけが、不自然に新しい向きへ立て直されている。
リシアは近づかなかった。
セレナが礼拝堂へ向かう。
正面扉は半分開いていた。
内部には長椅子が並んでいる。天井は高く、奥に小さな祭壇がある。旧聖歌院ほど大きくはないが、壁にはかつて歌札が掛けられていた跡が残っていた。
今は、ほとんど外されている。
釘だけが残り、四角く日焼けした壁の跡が、そこに何かがあったことを示していた。
祭壇の上には、灰色の布が掛けられていた。
セレナが布をめくる。
下には何もない。
ただ、木の表面に丸い跡があった。
何か重いものが、長い間置かれていた跡。
リシアはその形を見て、鐘の舌を思い浮かべた。
鐘の内側で音を生む金属の塊。
だが、それがここにあったと決めるには早い。
ユーディが礼拝堂の奥を調べていた。
「こちらに扉があります」
祭壇の横に、低い木扉があった。
扉の上には、かすれた文字で記録室と書かれている。
錠は壊れていた。
しかも、最近壊されたものだった。
セレナの顔が険しくなる。
「先を越されたな」
扉を開けると、狭い階段が地下へ続いていた。
空気が重い。
紙の匂いと湿気。
そして、わずかに金属の匂い。
リシアは階段の前で足を止めた。
下から、声がしたわけではない。
それでも、聞こえた気がした。
『呼ばないで』
たったそれだけ。
リシアは目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
心歌なのか、残響なのか、ただ自分の不安なのかは分からない。
分からないものを、すぐに確信へ変えない。
彼女は目を開ける。
「行きます」
地下の記録室は、思ったより広かった。
壁一面に棚があり、木箱と記録簿が並んでいる。多くは空になっていた。箱の蓋は外され、棚札は剥がされている。
だが、すべてが持ち去られたわけではない。
部屋の中央に、大きな机がある。
その上に、布に包まれたものが置かれていた。
誰かが置いたばかりのように、周囲の埃だけが払われている。
セレナが手で制した。
「私が見る」
彼女は布へ触れ、慎重にめくった。
中から現れたのは、黒ずんだ金属の塊だった。
鐘の舌。
リシアはそう思った。
重く、冷たい金属。
先端に、細い鎖が残っている。切れた鎖だ。鐘楼に吊るされた鐘から外されたものだろう。
つまり、灰鐘は鳴らないのではない。
鳴らせないようにされている。
その鐘の舌の下に、一冊の記録簿が敷かれていた。
表紙は湿気を吸って波打っている。
それでも、墨の文字は読めた。
戦死扱い名簿。
灰鐘修道院第三綴。
リシアの呼吸が止まる。
手を伸ばしそうになり、止めた。
記録簿の上には鐘の舌が置かれている。
まるで、名前の上に音が眠っているようだった。
セレナも動かない。
ユーディは声を出しかけて、飲み込んだ。
シルがリシアの足元へ降り、記録簿の方へ近づこうとして、途中で止まった。彼もまた、触れてはいけないものを感じているようだった。
リシアは鞄の中の白い紙を取り出した。
昨夜書いた紙ではない。
新しい紙だ。
そこへ、震える手で短く書いた。
今から見る。
勝手に決めないために。
書き終えてから、紙を机の端に置く。
それからようやく、リシアは記録簿へ視線を戻した。
開くのは、次だ。
名簿の表紙は、閉じたまま沈黙していた。
けれど、鳴らないはずの鐘の響きが、リシアの胸の奥で一度だけ低く震えた。
灰鐘修道院に到着しました。
そこは、完全な廃墟ではなく、誰かが通った痕跡や、残されたままの病室、削られた名札が静かに残る場所でした。
鳴っていない鐘。
名前を消された寝台。
扉の内側から刻まれた傷。
そして、地下の記録室に置かれていた戦死扱い名簿。
リシアはすぐに記憶へ触れず、まず自分で見る準備をしました。
次回も読んでいただけると嬉しいです。




