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灰鐘修道院編 57話 灰鐘へ向かう道

旧聖歌院には、王国が隠していた星詠み断章の試験盤が残されていた。

エルバはその試験盤を使い、リシアを「開く声」、ノエルを「閉じる声」として利用しようとした。

リシアはすべてを開くことを拒み、ノエルはすべてを閉じることを拒んだ。

二人は完全に信頼し合ったわけではなかったが、自分の名前を役割に渡さないという一点では、同じ方向を向いた。

試験盤は砕け、閉じられた歌札は再び眠りについた。

しかし、エルバは逃げ去り、旧聖歌院の地下には新たな手がかりが残されていた。

灰鐘修道院。

戦死扱いの名は、鐘の下で二度眠る。

そしてノエルは去り際に、アイシャがリシアの知る戦死日の後も生きていたことを告げた。


 王都を出る朝、リシアはアイシャの手紙を鞄の奥へしまった。


 何度も読み返したわけではない。


 むしろ、読めなかった。


 夜のうちに一度だけ封を開き、最初の数行で手が止まった。紙の端に触れた指先が冷たくなり、文字の続きを追う前に、彼女は手紙を畳んでしまった。


 泣いていい。


 怒っていい。


 その言葉を、今はまだまっすぐ受け止められなかった。


 手紙をしまった鞄の上で、シルが丸くなっている。いつものように胡桃袋を抱えてはいたが、今朝は催促するように鳴かなかった。ただ、リシアが鞄へ手を伸ばすたび、小さな耳だけを動かす。


「起こした?」


 リシアが囁くと、シルは片目を開けた。


 ちい。


 眠ってはいなかったらしい。


「ごめんね」


 シルは起き上がり、鞄の口を前足で押さえた。


 閉じておけ、と言っているようにも見えたし、必要なら自分が守ると言っているようにも見えた。


 リシアは返事の代わりに、鞄の留め具をそっと掛けた。


 朝の王都は、まだ人の声が少ない。


 石畳には夜露が残り、城門へ向かう荷馬車の車輪だけが乾いた音を立てていた。市場の方からパンを焼く匂いが漂ってきたが、リシアの空腹は動かなかった。


 北門の前には、セレナがいた。


 旅装に着替えている。歌術隊の正装ではなく、濃い灰色の外套に、短剣と携行用の譜具を身につけていた。


 その少し後ろに、ユーディ・カルムが立っている。


 若い騎士は緊張した顔で荷を背負っていた。以前より背筋は伸びているが、目の下には少し疲れが残っている。


「おはようございます、リシアさん」


「おはようございます。ユーディさんも一緒に?」


「はい。マルセル隊長から、同行を命じられました」


 そう言ってから、ユーディは少しだけ視線を逸らした。


「正確には、僕が志願しました。レオン様と隊長は、王宮側の記録照合に残られます」


 リシアは北門の内側へ目を向けた。


 レオンとマルセルは、見送りには来ていない。


 それでよかったのだと思う。


 王都には王都の後始末がある。旧聖歌院の封鎖、軍務局旧保管庫の調査、第七封鎖記録の保全。すべてを置いてリシアと一緒に行くわけにはいかない。


 レオンは昨夜、短い言葉だけを残した。


 無理に希望へ寄せないでください。


 その言葉は、リシアの中にまだ残っている。


 セレナが歩き出した。


「灰鐘までは馬車で二日。途中から山道に入る。急ぐが、無理な強行はしない」


「はい」


 リシアは頷いた。


 その返事を聞いて、セレナは一度だけこちらを見た。


 確認するような目だった。


 一人で走らないか。


 感情だけで残響へ触れないか。


 言葉にはされていないが、伝わる。


 リシアは鞄の留め具に触れた。


「急ぎます。でも、開く前に止まります」


 セレナはしばらく黙った後、小さく頷いた。


「それでいい」


 王都を出ると、空気が少し変わった。


 城壁の内側にあった熱が背中へ遠ざかり、北西へ伸びる街道には、薄い朝霧が漂っていた。道端には白い小花が揺れ、遠くの丘には羊の群れが見える。


 平和な景色だった。


 それがかえって、リシアには落ち着かなかった。


 鞄の中には、灰鐘修道院への地図が入っている。


 地図の裏に書かれた言葉も。


 戦死扱いの名は、鐘の下で二度眠る。


 その一文は、何度思い出しても意味が掴めない。


 二度眠る。


 一度目は、戦死扱い。


 二度目は、灰鐘。


 それとも、別の何か。


 考えるほど、アイシャの名前がその言葉の下へ沈んでいく気がした。


 リシアは足を止めかけた。


 その前に、シルが肩の上で身じろぎした。


 ちい。


 小さく短い声。


 リシアは息を吐く。


「大丈夫。歩いてる」


 シルはそれ以上鳴かなかった。


 ただ、尻尾をリシアの首元へ軽く巻きつけた。


 街道を進む間、ユーディは必要以上に話しかけてこない。


 何か言いたそうにする時は何度かあった。


 しかし、そのたびに言葉を飲み込み、荷の紐を直したり、周囲を確認したりした。


 それが、今のリシアにはありがたい。


 昼前、街道沿いの小さな祠で休憩を取った。


 祠には旅人のための水場があり、古い木の札がいくつも吊るされている。多くは安全祈願の札だったが、その中に一枚だけ、鐘の絵が描かれた古い札が混じっていた。


 灰色の小さな鐘。


 リシアが指先を近づけると、札は風もないのにかすかに揺れた。


 触れなかった。


 手を止めたまま、ただ見た。


 セレナが隣に立つ。


「灰鐘へ向かった者が残した札だろう」


「修道院へ行く人は多かったんですか」


「戦時中はな」


 セレナは水場の縁に手を置いた。


「負傷者、歌術反応の強い者、眠れなくなった兵、歌を聞くと倒れる者。前線に戻すために送られた者もいれば、戻さないために隠された者もいた」


 リシアは札を見つめた。


 それ以上の説明はなかった。


 セレナは語ろうと思えば、もっと語れたのかもしれない。


 しかし、語らなかった。


 今はその余白が重い。


 リシアは水を一口飲んだ。


 冷たさが喉を通る。


「セレナさんは、灰鐘へ行ったことがあるんですか」


「ああ」


 返事は短かった。


 リシアは続きを待った。


 セレナはすぐには言わない。


 水場の向こうで、ユーディが馬の具合を見ている。シルは祠の石段に腰を下ろし、水袋へ映る自分の顔を覗き込んでいた。


 やがて、セレナが口を開いた。


「一度だけだ。戦後に」


「戦後……」


「閉鎖手続きの確認で行った。だが、その時には主要な記録は移されていた。病室も、礼拝室も、ほとんど空だった」


「誰もいなかったんですか」


「いるはずがないことになっていた」


 リシアはその言い方に顔を上げる。


 セレナは札ではなく、水面を見ていた。


「だが、寝台が一つだけ乱れていた。机の上に、飲みかけの水があった。古いものではなかった」


 リシアの胸が小さく鳴る。


「誰かがいたんですね」


「その可能性はある」


「報告は?」


「した」


 セレナの声は変わらない。


「だが、灰鐘はすでに閉鎖済みとして処理されていた。確認に回された記録は、空室確認と備品整理だけだった」


「それで終わったんですか」


「終わらせられた」


 リシアは水場の縁を握った。


 古い石の感触が指に残る。


 ここで怒るのは簡単だった。


 なぜもっと調べなかったのか。


 なぜ探さなかったのか。


 そう言いたい気持ちはある。


 けれど、言葉はすぐには出なかった。


 セレナもまた、その時の自分を許していないのだと分かったからだ。


 リシアは、祠に吊るされた鐘の札へ視線を戻した。


 札には名前がなかった。


 誰が残したものか分からない。


 ただ、裏側に小さな傷がある。


 爪で引っかいたような、細い跡。


 リシアはそれを読もうとしなかった。


 触れれば、何かが聞こえるかもしれない。


 けれど、今はまだ道の途中だ。


 彼女は手を下ろした。


 セレナはその動きを見ていたが、何も言わなかった。


 午後、街道はゆるやかに山へ向かって曲がり始めた。


 村は少なくなり、畑も途切れがちになる。風には土よりも石の匂いが混じり、北西の空には薄い雲がかかっていた。


 途中の宿場で一泊することになった。


 宿は小さく、客も少ない。食堂には古い暖炉があり、壁には色褪せた旅人の地図が貼られている。


 夕食に出されたスープは、少し塩が強かった。


 パンは固い。


 リシアはそれを指で割ろうとして、手を止めた。


 固いパンも、スープにつければ勝てる。


 アイシャのふざけた歌が、声にならずに胸の内側を通り過ぎた。


 リシアはパンをスープへ浸した。


 柔らかくなるまで待つ。


 それだけの時間が、思ったより長く感じられた。


 向かいに座っていたユーディが、何かに気づいたように視線を落とした。


「リシアさん」


「はい」


「僕、妹に木彫りを渡した時、あまりうまく話せませんでした」


 突然の話に、リシアは少し瞬きをした。


 ユーディは照れたように笑う。


「リリは喜んでくれたんです。でも、僕は戦場のことも、怖かったことも、ほとんど話せなかった。ただ、帰ってきたって言うだけで精一杯で」


 リシアは黙って聞いた。


「でも、話せなかったことが嘘になるわけじゃないんですよね」


 その言葉は、リシアに向けた慰めというより、ユーディ自身が確かめているものに聞こえた。


 リシアはゆっくり頷く。


「たぶん、そうです」


「いつか話せるかもしれない。話せないままかもしれない。でも、帰ってきたことだけは本当で」


 ユーディはそこで言葉を止め、慌てたように顔を上げた。


「すみません。今する話じゃなかったかもしれません」


「いいえ」


 リシアはスープの中のパンを見る。


 柔らかくなったパンは、匙で簡単に崩れた。


「聞けてよかったです」


 ユーディはほっとしたように息を吐いた。


 シルはテーブルの端で、パンの欠片をじっと見ていた。


 いつもなら前足を伸ばしている頃だ。


 でも今日は、リシアの様子を見ている。


「少しだけね」


 リシアが小さな欠片を置くと、シルは両前足で受け取った。


 すぐには食べない。


 まず匂いを嗅ぎ、それから半分に割って、片方をリシアの方へ押し返した。


「半分こ?」


 ちい。


 リシアはその小さな欠片を受け取った。


 食べると、塩気の強いスープの味がする。


 涙が出るほどではなかった。


 ただ、喉の奥が少し詰まった。


 その夜、リシアは宿の窓辺で地図を広げた。


 灰鐘修道院は、明日の昼過ぎには見える距離にある。


 地図の裏の文字は、宿の灯りの下でも黒く沈んでいた。


 戦死扱いの名は、鐘の下で二度眠る。


 リシアはその文字の横に、アイシャの手紙を置いた。


 並べただけで、読まなかった。


 窓の外では、山からの風が細く鳴っている。


 その音が一瞬だけ鐘の音に聞こえ、リシアは顔を上げた。


 宿場に鐘楼はない。


 少なくとも、この宿の近くにはない。


 それなのに、耳の奥に低い響きが残った。


 リシアは歌詞帳へ手を伸ばしかける。


 途中で止めた。


 開けば、何かが分かるかもしれない。


 けれど、それは今この部屋で開くべきものではない気がした。


 リシアは代わりに、白い紙を一枚出した。


 そこへ短く書く。


 明日、見る。


 今夜は開かない。


 書いた紙を地図の上に置く。


 それだけで、胸のざわめきが少しだけ静まった。


 ベッドの端で丸くなっていたシルが、ゆっくりこちらへ来る。彼は紙の文字を覗き込み、うなずくように一度鳴いた。


 ちい。


 それから、地図の上ではなく、アイシャの手紙の上に座った。


「そこ、座る場所じゃないよ」


 ちい。


 シルは動かなかった。


 守っているつもりなのかもしれない。


 リシアはしばらくその姿を見ていた。


 小さな背中。


 銀色の毛。


 青いリボン。


 旅の始まりからずっとそばにいる相棒。


 リシアは手紙を無理に取ろうとはせず、椅子へ背を預ける。


 夜は長かった。


 眠れたのか、眠れなかったのか分からないまま、朝が来た。


 翌日、山道に入ると空気が急に冷える。


 道は細くなり、馬車は途中の小屋に預けることになった。そこからは徒歩で進む。


 木々の間に、古い石標が立っていた。


 灰鐘修道院。


 文字の一部は欠けている。


 その下に、別の文字が削られた跡があった。


 リシアは近づいて、膝をついた。


 削られた文字は読めない。


 だが、完全に消えたわけではなかった。


 石の溝に、ほんの少しだけ墨の跡が残っている。


 名前だったのかもしれない。


 番号だったのかもしれない。


 祈りの言葉だったのかもしれない。


 リシアは指でなぞらなかった。


 見るだけにした。


 セレナが隣に立つ。


「ここから先は、灰鐘の敷地だ」


 リシアは立ち上がる。


 山道の先に、森が開ける場所が見えた。


 その奥に、細い鐘楼が立っている。


 灰色の石で組まれた塔。


 上部には、古びた鐘が吊るされていた。


 鐘は揺れていない。


 風もほとんどない。


 それなのに、リシアの胸元で歌詞帳がわずかに震えた。


 鳴っていない鐘の音を、体だけが聞いたような感覚だった。


 シルが肩の上で低く鳴く。


 リシアは地図を畳み、鞄へしまった。


 歌詞帳はまだ開かない。


 アイシャの手紙も、まだ読まない。


 まず、扉の前に立つ。


 そう決めて、リシアは灰鐘修道院へ続く最後の道を歩き出した。



今回から、灰鐘修道院へ向かう新しい旅が始まりました。


アイシャが生きていたかもしれない。


その言葉は、リシアにとって単純な希望ではなく、これまで抱えてきた悲しみや記憶を揺さぶるものでもあります。


まだ手紙を読み返せないまま、それでもリシアは灰鐘へ向かいます。


鳴っていないはずの鐘が、少しずつ物語の奥で響き始めています。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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