王都の記録編 56話 生きていたという傷
旧聖歌院には、王国が隠していた星詠み断章の試験盤が残されていた。
エルバはそれを使い、リシアを「開く声」、ノエルを「閉じる声」として利用しようとする。
リシアはすべてを開くことを拒み、ノエルはすべてを閉じることを拒んだ。
二人は信頼し合ったわけではなかったが、自分の名前を役割に渡さないという一点では同じ方向を向く。
試験盤は砕け、閉じられた歌札は再び静かに眠った。
しかしエルバは逃げ去る。
そしてノエルは去り際に、アイシャがリシアの知る戦死日の後も生きていたことを告げた。
生きていた。
その言葉は、喜びより先に痛みになった。
旧聖歌院の崩れた天井から差し込む朝の光の中で、リシアはしばらく動けなかった。
ノエルの姿は、もう森の奥へ消えている。
追おうと思えば、追えたのかもしれない。
レオンも、マルセルも、セレナもいた。
けれど、誰もすぐに動かなかった。
ノエルは捕まえる相手ではない。
問い詰めれば答えを出す道具でもない。
そのことを、全員が分かっていた。
リシアは胸元の歌詞帳を押さえる。
指先が震えている。
アイシャは生きていた。
少なくとも、戦死日とされた日の後に。
その事実は、閉じていた扉を開く鍵ではなかった。
むしろ、閉じていた傷の上に、もう一つ傷を重ねるものだった。
『生きていたなら、どうして』
『どうして帰ってこなかったの』
『どうして私に言わなかったの』
『どうして、死んだことにされたの』
心歌が胸の奥で暴れる。
リシアはそれを歌にしなかった。
声にもできなかった。
ただ、そこにあるまま抱える。
シルが床から駆け寄ってきた。
小さな体でリシアの足元へよじ登り、膝にしがみつく。
ちい。
大丈夫か、と言っているような声だった。
「……大丈夫じゃないかも」
リシアは小さく答えた。
シルは目を丸くする。
いつもなら、大丈夫と答えるところだったからだろう。
リシアは少しだけ笑おうとして、うまく笑えなかった。
「でも、倒れない」
ちい。
「うん。シルもいるし」
シルは真剣な顔で頷いた。
その後、ちらりと自分の布袋を見た。
胡桃もあるし。
そんな顔だった。
リシアは今度こそ、ほんの少しだけ笑えた。
「胡桃も頼りにしてるね」
ちいっ。
シルは胸を張った。
旧聖歌院では、セレナとレオンが試験盤の破片を調べていた。
砕けた円形の譜面台は、黒い光を失っている。
けれど完全に無害になったわけではないらしく、近づくと歌詞帳がわずかに震えた。
壁の歌札たちは、静かに戻っている。
剥がれかけたものもあったが、無理に外されることはもうない。
眠ることを許された歌のように、紙片は朝の光の中でじっとしていた。
マルセルが礼拝堂の出入口を確認し、ユーディは床に散った黒譜の欠片を慎重に集めている。
若い騎士の顔は青い。
それでも、手は止まっていなかった。
レオンがリシアの方へ来た。
「腕を見せてもらえますか」
「腕?」
言われて、リシアは自分の左腕を見た。
黒譜が掠めた場所に、細い黒い痕が残っている。
痛みは鈍い。
けれど、皮膚の下で冷たいものがわずかに動いているような感覚があった。
シルがその痕を見た瞬間、毛を逆立てた。
ちいっ。
「そんなに怒らなくても」
ちいっ。
「うん。怒るよね」
レオンは小さく頷き、携帯していた治療布を取り出した。
「応急処置だけです。後で王宮の治療士に診てもらってください」
「ありがとうございます」
「こちらこそ。旧聖歌院に入る前に止められず、すみません」
リシアは首を横に振る。
「私が走りました」
「それでも、守ると言った者としては反省が残ります」
その言い方に、リシアは少しだけ目を細めた。
レオンはもう、自分を勇者として大きく見せようとしていない。
守れなかったことを、勇者の失敗ではなく、一人の人間の反省として口にしている。
王都で彼が選んだ道は、少しずつ形になっているのだろう。
治療布が腕に巻かれる。
黒い痕は完全には消えなかったが、冷たさは少し和らいだ。
「アイシャさんのことですが」
レオンは慎重に切り出した。
リシアの体が少し強張る。
レオンはそれに気づき、言葉を選ぶように続けた。
「ノエルさんの証言は重要です。ただし、彼女もすべてを知っているわけではないと言っていました」
「はい」
「今は、確かめる必要があります。アイシャさんが生きていた時期、どこへ向かったのか、誰が戦死扱いにしたのか」
「分かっています」
リシアは頷いた。
分かっている。
でも、心が追いついているわけではない。
生きていた。
その一言だけで、何度も胸が揺れる。
嬉しいと呼ぶには苦しすぎる。
苦しいだけと呼ぶには、どこかに消せない灯りがある。
レオンはリシアを見つめた。
「急がなくていい、とは言えません。エルバが動いている以上、時間は限られている」
「はい」
「けれど、急ぎすぎて自分を壊さないでください」
リシアは少しだけ驚いた。
レオンは静かに言う。
「僕は、それをやりかけました。勇者の名を取り戻したくて、早く答えを出したくて、自分以外の声を聞けなくなりかけた」
「レオンさん……」
「だから、今のあなたに言っておきたい。アイシャさんを探すことと、アイシャさんが戻らなかった理由を自分のせいにすることは、同じではありません」
その言葉に、リシアの胸が熱くなる。
すぐに受け取れるわけではない。
でも、聞こえた。
リシアは小さく頷いた。
「ありがとうございます」
レオンは穏やかに頷き、試験盤の方へ戻っていった。
入れ替わるように、セレナが近づいてくる。
彼女の手には、旧聖歌院の壁から剥がれ落ちた古い封印札があった。
表情は険しい。
ただし、リシアを見る目はいつもより少し柔らかかった。
「腕は」
「レオンさんが応急処置をしてくれました」
「後で治療士に診せろ」
「はい」
短いやり取り。
それでも、今はその短さがありがたかった。
セレナはリシアの隣に立ち、壊れた試験盤を見る。
「ノエルの言葉を聞いたな」
「はい」
「アイシャが生きていたという言葉を、お前がどう受け止めるか、私には決められない」
リシアは目を伏せる。
「生きていたなら、嬉しいはずなのに」
声が小さくなる。
「嬉しいだけじゃないんです」
「当然だ」
セレナの返事は早かった。
「死んだと思って弔ってきた相手が、死んでいなかったかもしれない。その事実は、希望であると同時に、これまでの悲しみを揺さぶる」
「はい」
「怒ってもいい」
リシアは顔を上げる。
セレナはまっすぐ前を見ている。
「アイシャに怒ってもいい。私に怒ってもいい。王国に怒ってもいい。自分に怒る前に、怒るべき相手はいくらでもいる」
その言葉に、リシアは泣きそうになった。
アイシャの手紙にも、同じことが書いてあった。
泣いていい。
怒っていい。
その言葉を、今度はセレナが口にしている。
リシアは唇を噛む。
「私は、セレナさんにも怒っています」
「ああ」
「隠されたことも、知らされなかったことも、まだ全部は許せません」
「許さなくていい」
セレナの声は低いが、逃げなかった。
「許してもらうために話すわけではない。これ以上、お前から選ぶ権利を奪わないために話す」
リシアは深く息を吸った。
胸の奥の絡まりが、少しだけほどける。
完全ではない。
でも、少しだけ。
「セレナさんは、アイシャがノエルを逃がしたと思いますか」
「思う」
返事は短かった。
リシアは少し驚く。
セレナは続ける。
「あいつは、そういうことをする」
その声には、苦さと、懐かしさが混じっていた。
「命令に反しても、目の前で壊されそうな者を見捨てない。しかも、後で怒られると分かっていて、まず動く」
リシアは小さく笑った。
「アイシャらしいです」
「ああ。厄介なほどにな」
セレナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
しかしすぐに、表情は戻る。
「だが、その後が分からない。ノエルを逃がした後、アイシャは単独聴取を受けている。そこで何を話したか、まだ記録がない」
「旧保管庫にも?」
「抜かれている。あるいは、エルバが先に持ち出した」
リシアは拳を握る。
「エルバは、アイシャのことも知っているんでしょうか」
「可能性は高い」
セレナの声が重くなる。
「そして、おそらくノエルは、アイシャについて少なくとも一部を知っている」
リシアは森の方を見た。
ノエルはもういない。
追わなかったことを後悔しそうになる。
でも、無理に追っていたら、今の会話はできなかった。
ノエルもまた、選ぶ途中なのだ。
そう思うしかなかった。
礼拝堂の奥で、ユーディが声を上げた。
「セレナ殿、こちらに地下扉があります」
全員がそちらへ向かう。
祭壇の裏。
崩れた石板の下に、古い木扉が隠されていた。
扉には王宮歌術研究局の印と、軍務局の印が重ねられている。
さらに、その上から黒譜の痕が走っていた。
エルバが使ったのだろう。
マルセルが扉を引き上げる。
地下へ続く階段が現れた。
湿った空気が上がってくる。
水の匂い。
紙の匂い。
そして、少しだけ焦げた歌札の匂い。
シルが鼻をひくひく動かし、リシアの肩から身を乗り出した。
ちい。
「下に何かある?」
ちい。
シルは前足で階段の奥を指した。
レオンが灯火を掲げ、先に下りる。
マルセルが続き、セレナ、リシア、ユーディが後に続いた。
地下室は狭かった。
天井は低く、壁には水の染みがある。
古い保管棚がいくつか倒れ、床には破れた歌札が散らばっていた。
中央の机には、最近置かれたらしい黒い封筒が一つ残されている。
また罠かもしれない。
全員が身構えた。
リシアはすぐに触れず、まず距離を取って見た。
封筒の上には、白い字で一言だけ書かれている。
灰鐘。
ユーディが読み上げる。
「はいがね……?」
「灰鐘」
セレナの声が低くなった。
リシアはセレナを見る。
「知っているんですか」
「北西の古い修道院だ。正式には灰鐘修道院。戦時中は、負傷者と歌術反応の強い者を一時的に収容していた」
「歌術反応の強い者……」
リシアの胸が嫌な音を立てる。
ルゼットの静音符。
ノエルの拒絶反応。
旧聖歌院の試験盤。
その流れの先にある場所。
セレナは続ける。
「戦後、閉鎖されたと聞いている」
レオンが封筒を調べる。
「黒譜の罠は薄い。伝言のようです」
「エルバから?」
「おそらく」
レオンは慎重に封を開けた。
中には、古い地図の切れ端が入っていた。
王都から北西へ伸びる街道。
途中に山道があり、その先に小さな鐘楼の印がある。
灰鐘修道院。
そして、地図の裏には文字があった。
戦死扱いの名は、鐘の下で二度眠る。
リシアの背筋が冷えた。
アイシャのことだ。
そう直感した。
証拠はない。
けれど、エルバがリシアに見せるために残したのなら、そう思わせる意図がある。
セレナの表情も硬い。
「誘いだ」
マルセルが言う。
「罠ですね」
ユーディの声が震える。
レオンは地図を見つめたまま言った。
「罠でしょう。ですが、完全な嘘とは限らない」
その言葉に、リシアは頷いた。
エルバは人の痛みを使う。
だからこそ、痛みのない嘘だけを置くとは思えない。
半分の真実を混ぜる。
そうすれば、追う者は立ち止まれなくなる。
リシアは手紙の入った鞄に触れた。
アイシャの手紙。
リシアを守るなら、リシアから選ぶ権利を取らないで。
今、選ぶ時なのだろう。
追うか。
追わないか。
罠だと分かっていても。
灰鐘へ向かうか。
リシアはしばらく黙っていた。
誰も急かさない。
セレナも、レオンも、シルも。
シルはただ、リシアの肩で静かに座っている。
珍しく胡桃の袋も開けなかった。
リシアはやがて顔を上げた。
「行きます」
声は震えていた。
でも、言葉ははっきりしていた。
「アイシャがそこにいると決めつけるわけではありません。エルバの言葉を信じるわけでもありません。でも、戦死扱いにされた名前が、そこに繋がっているなら、確かめたい」
セレナは静かに頷いた。
「分かった」
「ただ」
リシアは続けた。
「急いで一人では行きません」
セレナの眉がわずかに上がる。
「それが聞けて安心した」
「私も、少しだけ成長しました」
ちい。
シルが同意した。
たぶん、少しだけと言っている。
リシアは苦笑した。
「シル、そこは大きく成長したって鳴いてもよかったんだよ」
ちい。
シルは首を傾げた。
正直な相棒である。
地下室の重い空気の中で、ユーディが少し笑った。
レオンも口元を緩める。
ほんの小さな笑いだったが、今はそれだけで十分だった。
旧聖歌院を出る頃には、昼近くになっていた。
森には鳥の声が戻っている。
最初に来た時の不自然な静けさは、もうない。
閉じられた歌札は礼拝堂に残されたままだが、エルバに無理やり起こされることは止まった。
セレナは王宮へ報告し、旧聖歌院を正式に封鎖し直す手続きを進めると言った。
ただし、今度は隠すためではない。
何が閉じられ、なぜ閉じられたのかを記録し直すために。
それは時間のかかる作業になるだろう。
王国が自分の過去を見直すには、痛みも抵抗もあるはずだ。
でも、始めなければならない。
リシアは礼拝堂を振り返った。
崩れた屋根の下、古い歌札が光を受けている。
アイシャの小さな歌札は、もうそこにはない。
ノエルが持って行った。
今は聞かない。
でも、捨てない。
そう言って。
リシアはその言葉を思い出す。
もしかしたら、自分も同じなのかもしれない。
アイシャの生存の可能性を、今すぐ希望として聞くことはできない。
でも、捨てることもできない。
今は、抱えて歩く。
聞ける日が来るまで。
シルが肩の上で、そっと頬に前足を当てた。
今度は黒糖胡桃の欠片はついていなかった。
「ありがとう」
ちい。
リシアは王都へ戻る道を見た。
その先に、さらに北西へ伸びる道がある。
灰鐘修道院。
戦死扱いの名は、鐘の下で二度眠る。
その言葉が何を意味するのかは分からない。
けれど、リシアはもう、知らないまま歌わない。
知らないまま閉じない。
自分で知り、自分で選ぶ。
アイシャが残した言葉の通りに。
王都の鐘が遠くで鳴った。
その音を聞きながら、リシアは歩き出す。
生きていたという言葉は、まだ傷のままだ。
けれど、その傷の奥にある名前を、もう誰かの記録だけには預けない。
今回は、旧聖歌院の後始末と、ノエルが残した「アイシャは生きていた」という言葉をリシアが受け止める回でした。
その言葉は単純な希望ではなく、これまでの悲しみや怒りを揺さぶる傷でもあります。
また、地下室に残された手がかりから、北西の灰鐘修道院へ繋がる道が見えてきました。
エルバの誘いであり、罠である可能性も高い場所です。
それでもリシアは、アイシャの名前を戦死扱いの記録だけに預けないため、確かめることを選びました。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




