王都の記録編 55話 名前は鍵ではない
リシアたちは、王都外れにある旧聖歌院へ向かった。
そこは、かつて王宮歌術研究局が使っていた施設で、閉じられた歌札や禁じられた歌術具が保管されていた場所だった。
旧聖歌院にはノエルとエルバがいた。
エルバは、リシアを「開く声」、ノエルを「閉じる声」として扱い、閉じられた歌を無理やり開き、同時に閉じることで王都から歌の残響を消そうとしていた。
リシアは歌わず、ノエルに言葉を書いた紙を差し出す。
あなたの名前を、役目に渡しません。
その言葉を受け、ノエルは「私の名前は閉じる声じゃない」と口にした。
しかし旧聖歌院には、王国が隠していた星詠み断章の試験盤が残されていた。
試験盤はリシアとノエルの反応を無理やり引き寄せ、閉じられた歌を起こし始める。
星詠み断章の試験盤が、黒く光った。
旧聖歌院の床に刻まれた円形の譜面が、古い歯車のように動き出す。
石床の隙間から黒い線が伸び、壁一面の歌札へ絡みついた。
閉じられていた歌が、眠りを破られる。
ひとつ。
またひとつ。
紙の端が震え、古いインクが滲み、礼拝堂の空気に、音になりきらない旋律があふれた。
リシアは歌詞帳を胸に押し当てた。
熱い。
まるで内側から開かれようとしている。
歌詞帳が勝手にページをめくろうとするのを、両手で必死に押さえた。
肩の上のシルが、毛を逆立てて鳴く。
ちいっ。
その声だけが、混ざり合う歌の中で鮮明に聞こえた。
ノエルは祭壇の前で膝をつきかけていた。
足元の黒譜が彼女を支えているのか、縛っているのか分からない。
片手には、リシアが書いた紙。
あなたの名前を、役目に渡しません。
もう片方の手は、アイシャの歌札の方へ伸びかけたまま止まっている。
その表情は苦しげだった。
聞きたい。
聞きたくない。
閉じたい。
消したくない。
その全部が、彼女の中でぶつかっているように見えた。
エルバは祭壇の奥で笑っていた。
「さあ、始めよう」
彼の声だけが、礼拝堂の歌に呑まれず響く。
「王国が試し、恐れ、隠したものだ。星詠み断章の力は、ただ想いを返すだけではない。開き、閉じ、選別し、不要な響きを処理できる」
「人の想いを、処理と言わないでください」
リシアは息を切らしながら言った。
エルバは愉快そうに目を細める。
「王国の記録はそう書いていた。君も読んだだろう。共鳴核候補。拒絶核候補。護衛観測者。どれも、人を機能として扱うための言葉だ」
リシアの胸が痛む。
その言葉は、嘘ではない。
王国もそう呼んでいた。
自分を。
ノエルを。
アイシャを。
だからこそ、余計に腹が立つ。
誰かが間違ったからといって、その間違いを真実のように使っていいわけではない。
セレナが一歩前へ出た。
「その試験盤は、王宮歌術研究局が破棄したはずだ」
「破棄?」
エルバが笑った。
「違う。隠したのだよ。王国はいつもそうだ。危険だから閉じる。都合が悪いから封じる。けれど、本当に捨てはしない。いつか役に立つかもしれないからだ」
セレナの顔が険しくなる。
反論できない部分があるのだろう。
リシアはその横顔を見た。
師は旧歌術隊の隊長だった。
王国の中で、何かを守ろうとしてきた人だ。
けれど、その王国が隠してきたものが、今こうして目の前で牙をむいている。
レオンが剣を構え、試験盤へ近づこうとした。
しかし、床の譜面が黒く光り、見えない壁のようなものが彼の前に立ちはだかる。
刃を当てると、甲高い音が響いた。
金属ではない。
歌と黒譜が重なった結界だ。
マルセルも別方向から近づくが、同じように弾かれる。
ユーディが焦った声を上げた。
「物理的には近づけません!」
「なら、術式を切る」
セレナが低く言い、旧歌術隊の徽章を取り出した。
徽章に魔力を込めると、青白い光が走る。
だが、試験盤はそれに反応した。
光が吸い込まれ、床の譜面がさらに回転する。
エルバが楽しそうに言う。
「旧歌術隊印も認証された。ありがたい」
セレナが歯を食いしばる。
王国の権限すら、試験盤を止める鍵ではなく、動かす燃料にされている。
リシアは周囲を見る。
壁の歌札から、無数の心歌が流れ込んでくる。
『開けないで』
『聞いて』
『忘れたい』
『忘れられたくない』
『誰かを救いたかった』
『誰かを傷つけた』
『もう名前を呼ばないで』
多すぎる。
相反する声が、同時に胸へ入ってくる。
聞き取ろうとすれば、ひとつひとつに手を伸ばしたくなる。
でも、今それをすれば、エルバの狙い通りになる。
リシアの共鳴が全てを開き、ノエルの拒絶が全てを閉じる。
その衝突で、歌の残響ごと壊される。
王都から声が消える。
リシアは歌詞帳を押さえたまま、奥歯を噛んだ。
『知りたい』
『でも、今じゃない』
『聞きたい』
『でも、勝手に開きたくない』
自分の心歌が揺れる。
アイシャの行方に繋がる歌も、ここにあるかもしれない。
ノエルの過去も、ここにあるかもしれない。
星詠みの歌の真実も。
でも、だからといって、今この場で全部をこじ開けていい理由にはならない。
シルがリシアの肩から胸元へ降り、歌詞帳の表紙に前足を置いた。
ちい。
小さな前足。
小さな声。
けれど、リシアの手の震えが少し止まる。
「ありがとう」
リシアは囁いた。
そして、ノエルを見た。
彼女の足元では、黒譜が試験盤へ向かって吸い込まれている。
閉じる力を引き出されているのだ。
ノエルは抵抗している。
でも、抵抗すればするほど黒譜が強く反応し、彼女自身を締めつけているようだった。
リシアは声を上げた。
「名前で呼んでもいいですか」
ノエルの目がリシアへ向く。
苦しそうに細められた瞳。
「……今、そんなことを聞くんですか」
「はい」
「変な人ですね」
「よく言われます」
ノエルは少しだけ息を詰まらせた。
笑ったわけではない。
けれど、ほんのわずかに緊張が揺れた。
「一度だけなら」
その返事を聞いて、リシアは頷いた。
大きく息を吸う。
「ノエル・ヴァイス」
その名を、はっきり呼んだ。
役割ではなく。
候補者ではなく。
拒絶核ではなく。
一人の少女の名として。
ノエルの足元の黒譜が、ほんの一瞬、波打った。
リシアの歌詞帳も震える。
試験盤が二人の名を解析しようとするように、黒い文字を浮かべた。
共鳴核候補R。
拒絶核候補N。
リシアはその文字を睨む。
「違う」
ノエルも、低く言った。
「違う」
その声は小さかった。
けれど、二つの否定が重なった瞬間、試験盤の譜面がわずかに乱れた。
エルバの表情が初めてわずかに変わる。
「名を呼べば役目が消えるとでも?」
「消えません」
リシアは答えた。
「でも、役目だけにはしません」
ノエルが手元の紙を握る。
「私は、閉じる声じゃない」
彼女はもう一度言った。
今度は先ほどより少し強く。
「聞きたくないものを拒むのは、私の防衛です。あなたの道具じゃない」
黒譜が彼女の足元で震える。
痛みが返っているのだろう。
ノエルの顔が歪む。
それでも彼女は声を止めなかった。
「私は、全部を閉じたいわけじゃない」
その言葉に、礼拝堂の歌札が揺れた。
リシアはノエルの方へ一歩踏み出す。
「私は、全部を開きたいわけじゃない」
歌詞帳が熱くなる。
試験盤は二人の反応を引き出そうと、さらに黒い線を伸ばした。
リシアの足元へ。
ノエルの足元へ。
二つの線が祭壇の中心で絡み合う。
エルバが声を低くした。
「中途半端な意志など、試験盤の前では意味がない。開くか、閉じるか。それだけだ」
「それだけじゃありません」
リシアは言った。
「近くに置くことも、遠くに置くことも、今は触れないことも、選べます」
「綺麗ごとだ」
「そうかもしれません」
リシアは否定しない。
「でも、人の心は、開くか閉じるかだけでできていません」
その時、アーチの奥で古い歌札がまた一枚震えた。
アイシャの字が残る小さな紙片。
固いパンも、スープにつければ勝てる。
シルがそれを抱えていた。
先ほどリシアが守った歌札を、今度は小さな体でしっかり押さえている。
黒譜が近づくたび、シルは毛を逆立てて威嚇した。
ちいっ。
あまりに小さな抵抗。
けれど、それを見たノエルの目が揺れた。
リシアは歌札を見て、ノエルへ言う。
「それは、今聞かなくていいです」
ノエルの唇が震える。
「……聞いたら、思い出します」
「はい」
「聞かなかったら、忘れそうで怖い」
「はい」
「どっちも嫌です」
「それも、ノエルの声です」
ノエルは目を伏せる。
その心歌が、細く届いた。
『アイシャ』
『なぜ、あんな歌を歌ったの』
『痛くなかった』
『だから怖かった』
リシアは、その先を聞こうとしなかった。
聞こえかけた心歌の扉に、自分で手を置く。
今は開かない。
ノエルが自分で話す時まで。
リシアは歌詞帳を開いた。
ページには、言葉が浮かんでいた。
しかし、まだ歌わない。
まず、礼拝堂の中にいる者たちへ言う。
「聞きたくない人は、耳を塞いでください。これは、閉じた歌を開く歌ではありません」
セレナがこちらを見る。
レオンも、マルセルも、ユーディも、静かに耳を傾けている。
「これは、開けられたくない歌を守るための歌です」
リシアはゆっくり息を吸った。
歌は小さく始まった。
旧聖歌院の石壁に反響するほど大きくはしない。
歌札の中へ無理に入り込まないように。
聞きたくない者を追いかけないように。
ただ、試験盤が勝手に開こうとする手を止めるために。
「名前は、扉を開ける鍵ではない」
リシアの声に、歌詞帳が淡く光る。
「誰かの役目に括る札ではない」
試験盤の文字が揺れる。
共鳴核候補R。
拒絶核候補N。
その文字に、細い亀裂が入った。
「呼ばれた時に、自分で振り向くための灯り」
ノエルが黒譜を広げた。
それは黒く、冷たい。
けれど、ルゼットでエルバが使ったような、声を奪う黒譜ではなかった。
薄い幕のように、歌札と試験盤の間へ滑り込む。
閉じるため。
しかし、消すためではない。
「私は閉じる」
ノエルが言った。
「今は聞かなくていい場所を作るために」
リシアの歌が、その黒譜に触れる。
反発が返る。
痛い。
胸に鋭い痛みが走った。
でも、拒絶ではない。
境界だ。
ここから先は踏み込まないで、と示す線。
リシアはその線を越えず、線の手前で歌う。
「閉じた扉を、責めないで」
ノエルが続ける。
「開かない心を、壊さないで」
リシアは目を見開いた。
ノエルが歌っているわけではない。
旋律はない。
けれど、言葉を置いた。
リシアの歌の隣に。
「聞きたくない夜を、奪わないで」
リシアが受け取る。
「消したくない声を、沈めないで」
試験盤が激しく震えた。
エルバの顔から笑みが消える。
「やめろ。共鳴と拒絶は、同じ場所に立つものではない」
「立てます」
リシアは歌の合間に言った。
「同じに混ざらなくても、隣に立つことはできます」
ノエルは苦しそうに息を吐きながら、黒譜を維持する。
「あなたと隣に立ったつもりはありません」
「今だけでも」
「今だけです」
「はい」
シルがアイシャの歌札の上で、ちい、と鳴いた。
その様子に、ユーディが思わず小さく言う。
「シルも今だけ協力してるみたいです」
この状況でそんなことを言う余裕があるのか、とマルセルが一瞬だけ横目で見た。
しかし叱らなかった。
シルは誇らしげに胸を張っている。
アイシャの歌札を守る小さな番人のようだった。
リシアは歌を続けた。
「名前は、閉じ込めるためにあるのではない」
歌札の震えが少しずつ収まっていく。
「開かされるためでも、消されるためでもない」
セレナが旧歌術隊の徽章を掲げる。
今度は試験盤へ魔力を流さなかった。
ただ、徽章を床へ置く。
「旧歌術隊隊長、セレナ・アーヴェルトとして告げる」
その声は強い。
命令ではなく、証言のようだった。
「この試験は無効。記録に残された役割名は、人の名に優先しない」
試験盤がさらに軋む。
王国の印が、王国の過ちを認める言葉に反応しているのかもしれない。
レオンも一歩前へ出た。
「レオン・グランツとして、証言します」
勇者ではなく、名前で。
「ここにいる者を、歌の部品として扱うことを認めません」
ユーディが続く。
「ユーディ・カルムとして、リシアさんとノエルさんの名前を証言します!」
声が少し上ずっていた。
マルセルが一瞬だけ目を閉じる。
それから、低く言った。
「マルセル・グレン。証言する」
短い。
けれど、確かな声だった。
リシアの胸が熱くなる。
呼ばれる名前。
証言される名前。
役割ではない名前。
それが試験盤の文字を少しずつ削っていく。
エルバは怒りに顔を歪めた。
「名前など、ただの記号だ!」
「違う」
ノエルが言った。
彼女はアイシャの歌札を見た。
まだ手は伸ばさない。
でも、逃げなかった。
「少なくとも、あの人は、私を記号として呼ばなかった」
リシアは息を呑む。
あの人。
アイシャのことだ。
ノエルは続ける。
「私は、まだあなたを信じません」
これはリシアへ向けた言葉だった。
「王国も信じません。歌術師も信じません。星詠みの歌も、信じません」
「はい」
「でも」
ノエルは手にした紙を強く握った。
「エルバ、あなたにも私の名前は渡しません」
その言葉が落ちた瞬間、ノエルの黒譜が形を変えた。
試験盤へ吸い込まれるはずだった拒絶の力が、逆に試験盤の譜面線を押し返す。
閉じる。
だが、すべてを消すためではない。
エルバが作った回路だけを閉じる。
リシアはその流れを見た。
今なら、届く。
開くためではなく、切り離すために。
彼女は歌った。
「ここにある歌よ、今は眠れ」
礼拝堂の歌札が静かに光る。
「呼ばれる時を、自分で選べ」
古い歌札が一枚ずつ壁へ戻っていく。
「誰かの命令で開かず」
ノエルの黒譜が、エルバの線を遮る。
「誰かの恐れで消えず」
リシアの歌が、その遮られた線の手前に灯りを置く。
「名を持つ者のそばで、遠く灯れ」
試験盤に大きな亀裂が入った。
エルバが咄嗟に黒譜を伸ばす。
しかし、レオンがその前へ出た。
剣が白く光り、黒譜の流れを受け止める。
完全に切ることはできない。
それでも、一瞬止めた。
マルセルとユーディが左右から飛び込み、祭壇へ絡みつく黒い譜面の支柱を切り払う。
セレナが床に置いた徽章へ手を当て、低く言った。
「終わりだ」
試験盤が砕けた。
大きな音ではなかった。
むしろ、古い紙が破れるような静かな音だった。
円形の譜面台に亀裂が走り、黒い光が消えていく。
壁の歌札が、ひとつずつ静かになった。
完全に浄化されたわけではない。
閉じられた歌は、閉じられたままだ。
けれど、無理やり起こされることは止まった。
リシアの歌詞帳も熱を失い、胸元で静かになる。
ノエルはその場に膝をついた。
リシアも力が抜け、床へ手をつく。
シルが慌てて駆け寄り、リシアの手にしがみついた。
ちいっ。
「大丈夫」
リシアは息を切らしながら言う。
「今回は、シルが歌札を守ってくれたから」
シルは胸を張った。
かなり誇らしそうだった。
ただ、その後すぐにアイシャの歌札が無事か確認しに戻った。
やはり心配らしい。
エルバは祭壇の奥に立っていた。
試験盤が砕けても、彼の表情に絶望はない。
むしろ、何かを確かめたように薄く笑っている。
「なるほど。混ぜるのではなく、境界を置いたか」
リシアは立ち上がろうとする。
しかし足に力が入らない。
レオンがエルバへ剣を向ける。
「ここで逃がしません」
「逃げるとも」
エルバはあっさり言った。
「今日の目的は達した。開く声は、自分で開かない選択をした。閉じる声は、自分で閉じる場所を選んだ。記録にはない反応だ」
「あなたのために選んだわけじゃありません」
リシアは言った。
「知っている。だから面白い」
エルバの足元に黒い譜面が広がる。
レオンが踏み込む。
だが、礼拝堂の床に残っていた黒譜が霧のように立ち上がり、一瞬だけ視界を遮った。
セレナが術式を放つ。
マルセルも動く。
しかし黒い霧が晴れた時、エルバの姿は祭壇の前にはなかった。
代わりに、砕けた試験盤の中央に、小さな黒い欠片だけが残っている。
その欠片には、文字が浮かんでいた。
星はまだ、閉じたままではいられない。
リシアはその文字を見つめた。
何を意味しているのか、まだ分からない。
ただ、エルバが諦めたわけではないことだけは確かだった。
ノエルが立ち上がろうとして、ふらついた。
リシアは反射的に手を伸ばしかける。
けれど、途中で止めた。
助けていいか、分からない。
ノエルはその手を見て、少しだけ目を細める。
「触らないんですね」
「触っていいか聞く前に、触らない方がいいと思いました」
「本当に面倒な人です」
「よく言われます」
ノエルは短く息を吐いた。
それが笑いに近かったのか、ただの疲れなのかは分からない。
彼女は床に置かれたアイシャの歌札を見た。
固いパンも、スープにつければ勝てる。
シルがその上に座って守っている。
ノエルはシルを見る。
「それを、少し借りてもいいですか」
シルはぴくりと耳を動かした。
そしてリシアを見る。
「シル。それは食べ物じゃないから、貸してあげて」
ちい。
シルは少し不満そうに鳴いた。
食べ物でなくても、自分が守ったものには所有感があるらしい。
それでも、彼は歌札から降りた。
ノエルはゆっくり近づき、歌札を拾う。
指先が震えていた。
リシアは何も言わない。
ノエルは歌札を見つめ、長い沈黙の後で、小さく言った。
「今は聞きません」
「はい」
「でも、捨てません」
「はい」
ノエルは歌札を胸元にしまった。
その仕草は、まるで傷に触れるのを先延ばしにするようでもあり、大切なものを失わないように抱えるようでもあった。
ノエルはリシアを見た。
「私は、王宮には行きません」
セレナが眉を寄せる。
レオンも静かにノエルを見る。
リシアは頷いた。
「分かりました」
「止めないんですか」
「止めたい理由はあります。でも、無理に連れて行けば、また同じになります」
ノエルは目を伏せる。
「私は、あなたたちを信じません」
「はい」
「でも、エルバの道具にもなりません」
「はい」
「次に会った時、私はあなたの敵かもしれません」
「それでも」
リシアは少し迷い、言った。
「あなたの名前を鍵にはしません」
ノエルは答えなかった。
ただ、リシアが渡した紙を握ったまま、礼拝堂の出口へ向かう。
誰もすぐには追わなかった。
ノエルは扉のところで足を止めた。
振り返らずに言う。
「アイシャさんは」
リシアの胸が跳ねる。
「私を逃がしました」
礼拝堂の空気が止まる。
ノエルは続けた。
「その後、王国に捕まったのか、黒譜の側へ向かったのか、私は知りません」
リシアは息を呑む。
「でも、生きていました」
ノエルの声は静かだった。
「少なくとも、あなたが戦死日だと思っていた日の後に」
それだけ言って、ノエルは森の方へ歩き出した。
今度こそ、誰も止めない。
リシアはその背中を見つめたまま、動けなかった。
生きていた。
少なくとも、戦死日の後に。
分かっていた可能性が、誰かの口から形を持った。
希望ではある。
けれど、軽く喜べるものではない。
その後に何があったのかは、まだ分からないのだから。
シルがリシアのそばへ戻り、そっと手に前足を乗せた。
ちい。
リシアは涙が滲むのを感じながら、頷いた。
「うん」
旧聖歌院の中は、少しずつ静けさを取り戻していた。
消された静けさではない。
閉じるべき歌が、今は閉じることを許された静けさ。
リシアは胸元の歌詞帳を開く。
ページには新しい言葉が刻まれかけていた。
断章にはまだならない。
でも、確かに歌の形をしている。
名前は、鍵ではない。
扉を開けるための記号ではない。
役目に括る札ではない。
呼ばれた時に、自分で振り向くための灯り。
閉じた扉を責めないで。
開かない心を壊さないで。
聞きたくない夜を奪わないで。
消したくない声を沈めないで。
リシアはその文字を見つめた。
星詠みの歌が、人を救うのか。
人を壊すのか。
まだ分からない。
けれど、今日ひとつだけ選べたことがある。
名前を、鍵にしない。
リシアも。
ノエルも。
アイシャも。
誰かが記録の中で役割に変えた名前を、もうそのままにはしない。
崩れた礼拝堂の天井から、朝の光が差し込んでいた。
その光の中で、閉じられた歌札たちは、静かに眠っている。
いつか開くかもしれない。
開かないままかもしれない。
それを決めるのは、エルバでも、王国でも、試験盤でもない。
リシアは歌詞帳を閉じた。
遠くで、森の鳥が一羽だけ鳴いた。
旧聖歌院に、音が戻ってきた。
今回は、旧聖歌院で星詠み断章の試験盤が動き出し、リシアとノエルが「開く声」「閉じる声」として利用されそうになる回でした。
リシアはすべてを開くことを拒み、ノエルはすべてを閉じることを拒みました。
二人は完全に信頼し合ったわけではありません。
それでも、自分の名前を役割に渡さないという一点では、同じ方向を向きました。
また、ノエルの口から、アイシャが戦死日とされた後も生きていたことが語られました。
まだ真相は分かりませんが、リシアが追うべき道が少しずつ形を持ち始めています。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




