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王都の記録編 54話 閉じられた歌の礼拝堂

旧保管庫に戻された原本箱から、ノエルに関する記録が見つかった。

リシアたちは、ノエルの痛みを勝手に暴かないよう、必要な範囲だけを確認することを選ぶ。

記録には、ノエルが強い歌術拒絶反応を示していたこと、そしてアイシャがそれを「欠陥ではなく防衛反応」と書き残していたことが記されていた。

さらに、アイシャはノエルに対して、魔力を乗せない日常の短い歌を届けていた。

その後、エルバはリシアの共鳴を利用し、ノエルの閉じられた記録を無理に開かせようとする。

リシアはそれを拒み、「あなたの名前は、鍵ではない」という言葉を残した。

そしてその夜、ノエルは王都外れの旧聖歌院らしき場所にいることが示された。


 王都の外れにある旧聖歌院は、地図の上ではもう施設として扱われていなかった。


 かつては王宮歌術研究局の分院として使われ、古い歌札や儀礼歌の写本、使用を禁じられた歌術具が一時的に置かれていた場所だという。


 けれど、十年以上前に閉鎖され、今は王宮管理地の片隅に残る廃墟という扱いになっている。


 人が近づく理由はない。


 だからこそ、隠れるには向いていた。


 リシアは王都北門を出て、まだ朝霧の残る石道を歩いていた。


 隣にはセレナ。


 少し後ろにレオンとマルセル、ユーディ。


 エルネアは王宮譜庫に残り、記録の保全と照合を続けている。


 本当なら、リシアも譜庫に残って記録を読みたかった。


 アイシャの手紙。


 ノエルの記録。


 星詠み断章の仮説。


 まだ知るべきことは多い。


 けれど、旧聖歌院にノエルがいる可能性がある。


 エルバがそこにいる可能性もある。


 ならば、今は記録よりも、そこにいる人の名前を守らなければならなかった。


 肩の上で、シルが布袋を抱えている。


 いつもの胡桃袋とは別に、カヤからもらった黒糖胡桃の紙袋も鞄の中にある。


 だが、今のシルは食べ物をねだらなかった。


 王都を出てからずっと、鼻をひくひく動かし、耳を立てている。


 黒譜の匂いを追っているのだろう。


 リシアは小さく声をかけた。


「何か分かる?」


 ちい。


 シルは短く鳴き、前方を指すように尻尾を揺らした。


 その先には、霧の中に沈む古い森がある。


 旧聖歌院は、その森の奥に建っているらしい。


 ユーディが少し緊張した声で言った。


「本当に、ここにノエルさんがいるんでしょうか」


「可能性が高いだけです」


 リシアは答えた。


「でも、エルバは旧聖歌院の歌札を使うかもしれません」


「歌札を?」


「閉じられた歌が多く残っている場所です。黒譜術と組み合わせれば、ルゼットの静音符より強いものを作れるかもしれない」


 自分で言って、胸が冷えた。


 ルゼットでは、人々が自分で選んだ札を罠にされた。


 ここでは、誰にも選ばれず閉じられた歌そのものが使われるかもしれない。


 歌を封じた場所。


 使われなかった歌。


 使ってはならないと判断された歌。


 そこには、人のために閉じたものもあれば、都合が悪いから隠したものもあるだろう。


 その境目は、きっと綺麗ではない。


 セレナがリシアを横目で見る。


「無理に全部聞こうとするな」


「分かっています」


「今の返事は、分かっている者の返事ではない」


 リシアは言葉に詰まった。


「そんなに分かりやすいですか」


「分かりやすい」


 セレナは即答した。


 シルも、ちい、と鳴いた。


 同意らしい。


「シルまで」


 ちい。


 リシアは少しだけ肩の力を抜いた。


 重い話の途中でも、こうして小さく足元を引き戻してくれる存在がいる。


 それがありがたかった。


 セレナは前を向いたまま続ける。


「旧聖歌院に残る歌は、すべてが聞かれることを望んでいるわけではない」


「はい」


「閉じられたままでなければならない歌もある」


「はい」


「だが、閉じた理由を誰かが勝手に決めた歌もある」


 セレナの声は苦かった。


 王国側にいた人間として、その言葉を口にするのは簡単ではないのだろう。


 リシアは頷いた。


「だから、まず確かめます。開くためではなく、何が起きているかを」


 セレナはそれ以上言わなかった。


 森へ入ると、空気が一気に冷えた。


 木々の枝が頭上で重なり、朝の光が細く砕けて落ちている。


 落ち葉は湿っていて、踏むたびに鈍い音を立てた。


 鳥の声がない。


 風の音も少ない。


 静かすぎる。


 ルゼットの静音符に似た、不自然な静けさだった。


 レオンが剣へ手を添える。


「この静けさ、普通ではありませんね」


「はい」


 リシアは耳を澄ませた。


 音が消えているのではない。


 音が出る前に押さえ込まれている。


 木の葉が揺れようとして止まる。


 小枝が折れようとして音を飲む。


 森そのものが、息を潜めさせられているようだった。


 その奥から、かすかな心歌が届いた。


『歌わないで』


『起こさないで』


『ここに置いていって』


『もう使わないで』


 人の声ではない。


 歌札の残響。


 閉じられた歌たちの、薄い声だった。


 リシアは胸を押さえる。


 聞こえる。


 でも、踏み込まない。


 今は、ひとつずつ。


 旧聖歌院は、森の切れ間にあった。


 石造りの小さな礼拝堂。


 屋根の一部は崩れ、壁には蔦が絡んでいる。


 正面の扉は朽ちかけていたが、その上には古い歌術紋が残っていた。


 中央に大きな輪。


 その周囲を囲むように、いくつもの小さな譜面線。


 本来は調和を示す紋章なのだろう。


 けれど今は、黒い線がその上を這い、輪の中心へ向かって絡みついている。


 シルが毛を逆立てた。


 ちいっ。


 リシアも息を呑む。


 黒譜は、もう礼拝堂全体へ広がっている。


 セレナが低く言った。


「遅かったか」


「まだです」


 リシアは即座に答えた。


 何がまだなのか、自分でも分からない。


 でも、そう言いたかった。


 ノエルがまだ完全に使われていないことを。


 閉じられた歌がまだ全部奪われていないことを。


 自分たちがまだ、選べる場所にいることを。


 レオンが扉へ近づこうとする。


 その瞬間、黒い線が扉の上で脈打った。


 礼拝堂の中から声が聞こえる。


 歌ではない。


 祈りのようで、命令のようで、泣き声のようでもある。


「入らないで」


 女の子の声だった。


 ノエルに似ている。


 けれど、今のノエルではない。


 幼い残響。


 レオンが足を止める。


 リシアは一歩前へ出た。


「ノエル」


 声をかける。


 返事はない。


 代わりに、礼拝堂の壁に貼られた古い歌札が一斉に震えた。


 中の様子は見えない。


 それでも、何かがこちらを見ている気配があった。


 リシアは鞄から白い紙を取り出した。


 昨日、旧保管庫で書いた言葉。


 あなたの名前は、鍵ではない。


 同じ言葉を丁寧に書いた紙だ。


 それを扉の前に置く。


 歌わない。


 魔力も込めない。


 ただ置く。


 しばらく何も起きなかった。


 ユーディが息を止めている。


 マルセルは周囲を警戒している。


 セレナはリシアの横に立ち、いつでも動けるようにしていた。


 やがて、扉の内側から細い黒い線が伸びた。


 紙へ触れる。


 その瞬間、黒い線が小さく震えた。


 紙の文字が消えることはなかった。


 むしろ、黒い線の方が迷っているように見えた。


 リシアは静かに言った。


「ノエル。開けなくていい。話したくなければ、話さなくていい」


 礼拝堂の中で、何かが揺れる。


「でも、あなたの名前を、エルバに鍵として使わせたくありません」


 リシアの声は大きくない。


 けれど、森の静けさの中ではよく響いた。


「あなたが私の歌を拒むことも、私を信じないことも、あなたのものです。でも、あなたの拒絶を誰かの道具にはしたくない」


 返事はない。


 ただ、扉の奥でかすかな心歌が届いた。


『信じない』


『でも、あの言葉は消えない』


『鍵ではない』


『なら、私は何』


 リシアは胸が痛くなる。


 答えたい。


 でも、リシアが決めていいことではない。


「それは、私が決めることじゃない」


 リシアは言った。


「ノエルが決めることです」


 黒い線が大きく脈打った。


 その直後、礼拝堂の扉が内側から開いた。


 重い音を立てて、朽ちかけた扉がわずかに隙間を作る。


 中は暗い。


 けれど、その奥に薄い青髪が見えた。


 ノエルだった。


 顔色は悪い。


 片手は耳元へ添えられ、もう片方の手には黒い譜面が巻きついている。


 彼女の足元から、礼拝堂の床一面へ黒譜が広がっていた。


 だが、その黒譜はノエルだけのものではない。


 壁に貼られた古い歌札からも、黒い線が伸びている。


 閉じられた歌と、ノエルの拒絶反応が結びつけられている。


 その中心に、エルバがいた。


 祭壇の前で黒い外套をまとい、楽しそうにこちらを見ている。


「来たか。開く声」


 その呼び名に、リシアの胸が冷たくなる。


 セレナが一歩前に出ようとするが、リシアは手で制した。


 今は、挑発に乗らない。


「リシアです」


 リシアは言った。


「あなたが勝手に付けた名前ではありません」


 エルバは笑う。


「名前など、役目を分かりやすくするための札にすぎない」


「違います」


「違わない。王国もそうしてきた。共鳴核候補。拒絶核候補。護衛観測者。記録とは便利だ。人の名から余分な感情を削ぎ落とし、必要な機能だけを残せる」


 その言葉に、ノエルの肩がわずかに震えた。


 リシアはノエルを見る。


 彼女はリシアを見ていない。


 床の黒譜を見つめている。


 その心歌が、細く届く。


『嫌だ』


『でも、王国もそう呼んだ』


『黒譜も同じなら』


『私はどこへ行けばいい』


 リシアは息を吸った。


「ノエル」


「呼ばないでください」


 ノエルの声は冷たい。


 でも、完全に閉じてはいない。


 リシアは頷く。


「分かりました。今は呼びません」


 ノエルがわずかに目を上げる。


 その反応は小さい。


 でも、リシアは見逃さなかった。


 エルバが面白そうに口元を歪める。


「優しいね。だが、その優しさで何をする。ここには閉じられた歌が集まっている。王国が危険だと判断して封じた歌。都合が悪くて隠した歌。忘れたくて置き去りにした歌」


 壁の歌札が震える。


 古い文字が黒く滲み、音にならない声が礼拝堂に満ちた。


『使わないで』


『聞いて』


『忘れて』


『忘れないで』


『誰のために閉じたの』


 リシアは思わず一歩踏み込みかける。


 セレナの手が肩に置かれた。


 止める手。


 強いが、押さえつける手ではない。


 リシアは踏みとどまる。


 そうだ。


 今、全部を聞こうとすればエルバの思うつぼだ。


 閉じられた歌を一気に開かせたいのだろう。


 リシアの共鳴で。


 ノエルの拒絶で。


 開かれ、閉じられ、壊れる瞬間を作ろうとしている。


 エルバは祭壇の上の黒い譜面へ手を置く。


「閉じる声は、もうここにある。あとは開く声が触れればいい。閉じられた歌は一度すべて開き、同時にすべて閉じる。そうすれば、この王都から歌の残響は消える」


 レオンの表情が険しくなる。


「王都全体に影響を出すつもりか」


「歌に縛られた都には、ふさわしい静けさだ」


「人の声まで奪うことになる」


「声など、痛みを運ぶ道具だ」


 エルバの言葉に、礼拝堂の黒譜が強く鳴った。


 ノエルが苦しそうに顔を歪める。


 彼女の手に巻きついた黒い譜面が、さらに締まる。


 リシアは一歩前へ出た。


 今度はセレナも止めなかった。


「ノエルの拒絶を使うのはやめてください」


「彼女は望んだ。聞きたくない歌から耳を守りたいと」


「声を奪うことは望んでいません」


「君が決めるのか」


 エルバが笑う。


「さっき、彼女自身に決めさせると言ったばかりだろう」


 リシアは言葉に詰まった。


 その通りだ。


 リシアがノエルの代わりに、何を望んでいるかを決めてはいけない。


 だから、リシアはノエルへ向き直った。


 名前を呼ばない。


 今は、呼ばないと決めたから。


「あなたは」


 リシアは慎重に言葉を選ぶ。


「このまま、全部の歌を閉じたいですか」


 ノエルは何も言わない。


 黒譜が彼女の足元で揺れる。


「閉じたいなら、私は止める理由を探します。でも、まず聞きます」


 ノエルの目が、ようやくリシアへ向いた。


 その瞳には怒りがあった。


 疲れもあった。


 そして、長い間閉じてきた痛みがあった。


「聞かないでください」


「分かりました」


「でも、答えろと言うんでしょう」


「答えたくなければ、答えなくていいです」


「なら、どうするんですか」


 ノエルの声が少し震えた。


「あなたは歌術師でしょう。聞かないで、歌わないで、どうやって止めるんですか」


 リシアは胸元の歌詞帳に触れた。


 歌わないで止める。


 聞かないで寄り添う。


 それは、とても難しい。


 でも、できないと決めたら、ノエルの問いに負ける。


 リシアは鞄から、もう一枚の紙を取り出した。


 そして、その場で短く書く。


 今、聞かれたくないなら、聞きません。


 今、歌われたくないなら、歌いません。


 でも、あなたの名前を役目に渡しません。


 その紙を、扉の内側へ滑らせた。


 ノエルの足元で止まる。


 ノエルはそれを見下ろした。


 すぐには拾わない。


 でも、黒譜がその紙を消すこともなかった。


 エルバが不快そうに眉を寄せる。


「また文字か。歌術師が歌を避けてどうする」


「歌わないことも、歌術師の選択です」


 リシアは答えた。


「歌えば届くと思う方が、ずっと危ない」


 セレナが、ほんの少し目を伏せた。


 その言葉は王国歌術隊にも向けられている。


 リシア自身にも。


 エルバは笑みを消した。


「ならば、こちらから歌わせよう」


 彼が指を鳴らす。


 壁一面の歌札が一斉に光った。


 閉じられた歌が、無理やり起こされる。


 礼拝堂の中に、無数の旋律があふれ出した。


 戦意を高める歌。


 悲しみを抑える歌。


 眠りを誘う歌。


 記憶を鈍らせる歌。


 愛する者を呼び戻す歌。


 使われなくなった歌。


 使ってはならないと封じられた歌。


 それらが一斉にリシアへ流れ込んでくる。


 心歌も混じる。


『私を使うな』


『私を閉じるな』


『もう一度だけ歌って』


『誰かを壊したくない』


『誰かを救いたかった』


 リシアの膝が揺れる。


 多すぎる。


 あまりに多い。


 歌詞帳が熱くなる。


 共鳴が勝手に開きかける。


 聞いてしまう。


 拾ってしまう。


 今ここで全部を受け止めれば、リシア自身が壊れる。


 その瞬間、シルがリシアの耳元で力いっぱい鳴いた。


 ちいっ!


 小さな声が、無数の歌の中をまっすぐ抜けてきた。


 ただの鳴き声。


 魔力もない。


 意味もない。


 でも、リシアにとっては確かな声だった。


 リシアははっと息を吸う。


 そうだ。


 全部を聞かなくていい。


 今聞くべき声を、選ぶ。


 全部を開くのではなく、今ここにいる人の声を見る。


 リシアは歌詞帳を閉じた。


 両手で強く押さえる。


「今は、開かない」


 自分に言い聞かせる。


「私は、全部を聞くために来たんじゃない」


 声に出す。


「名前を鍵にしないために来た」


 礼拝堂の歌が一瞬、揺らいだ。


 エルバの表情が険しくなる。


 ノエルが紙を見下ろしたまま、唇を噛んでいる。


 黒譜が彼女の手を締めつける。


 リシアはノエルへ向けて、歌わずに言った。


「あなたが今、何を選ぶかを私が決めることはできません。でも、エルバの譜面があなたの手を縛っているなら、それはあなたの選択ではないと思います」


 ノエルの手が震える。


 黒い譜面が食い込む。


 彼女の心歌が一瞬だけ漏れた。


『痛い』


『でも、外したら聞こえる』


『全部、聞こえる』


『アイシャの歌まで』


 リシアの胸が痛む。


 ノエルは、アイシャの歌を閉じていた。


 忘れたくないのに、聞くと痛いから。


 リシアはルゼットのカヤを思い出す。


 ノルの声を消したくない。


 でも聞くと怖い。


 同じではない。


 でも、似た痛みがある。


 リシアは静かに言う。


「全部聞かなくていい」


 ノエルが目を上げる。


「近すぎるなら、少し遠くでいい。今は聞きたくないなら、聞かなくていい。でも」


 リシアは紙を指した。


「聞かないために、自分の名前まで渡さなくていい」


 ノエルの瞳が揺れた。


 その時、祭壇の奥から古い歌札が一枚、剥がれ落ちた。


 ひらりと床に舞う。


 それは他の歌札より古く、端が破れている。


 紙面には、丸みのある勢いの強い字が残っていた。


 固いパンも、スープにつければ勝てる。


 アイシャの字。


 ノエルの表情が崩れた。


 ほんの一瞬。


 彼女は手を伸ばしかけ、すぐに引っ込めた。


 黒譜がそれを許さないように締まる。


 エルバが微笑む。


「それを聞きたいか、ノエル」


 ノエルは肩を震わせる。


「やめて」


「聞けばいい。閉じる声が、自分だけ閉じたままでいられると思うな」


 エルバが歌札へ黒譜を伸ばす。


 アイシャの小さな歌が、無理やり引き出されようとしていた。


 リシアの中で何かが切れた。


 歌うのではない。


 走った。


 礼拝堂の中へ飛び込み、床の歌札へ手を伸ばす。


 セレナが叫ぶ。


「リシア!」


 黒譜が足元へ絡む。


 レオンが剣で黒い線を払う。


 マルセルとユーディが続く。


 シルはリシアの肩から飛び、歌札の上へ小さな体を投げ出した。


 ちいっ!


 黒い譜面がシルへ迫る。


「シル!」


 リシアは歌札ごとシルを抱き上げた。


 黒譜が腕を掠める。


 冷たい痛みが走った。


 それでも、歌札は守れた。


 リシアはノエルへ向き直る。


「これは、あなたが聞くかどうかを決めるものです」


 歌札を差し出す。


「エルバが鳴らすものじゃない」


 ノエルは動けない。


 その手は黒譜に縛られている。


 リシアは床へ膝をつき、歌札をノエルの前へ置いた。


 無理に渡さない。


 押しつけない。


 ただ、届く場所に置く。


「今聞かなくてもいい」


 リシアは言った。


「でも、奪わせない」


 その瞬間、ノエルの手に絡んでいた黒譜が大きく震えた。


 ノエルが奥歯を噛む。


 そして、震える声で言った。


「私の名前は」


 エルバの目が細くなる。


 ノエルは息を吸った。


「閉じる声じゃない」


 黒譜がひび割れた。


 彼女の手を縛っていた譜面が、細い破片となって散る。


 完全に解けたわけではない。


 足元の黒譜はまだ礼拝堂全体に広がっている。


 エルバもまだ祭壇の前にいる。


 けれど、ノエルの右手だけは自由になった。


 彼女はその手で、床の紙を拾った。


 リシアが書いた紙。


 あなたの名前を、役目に渡しません。


 ノエルはそれを握りしめる。


 そして、アイシャの歌札を見た。


 まだ触れない。


 でも、目を逸らさなかった。


 エルバが低く笑う。


「いいだろう。閉じる声が揺らいだなら、揺らいだまま使えばいい」


 祭壇の奥で、黒い譜面が開いた。


 その中心に、古い装置のようなものが現れる。


 円形の譜面台。


 王国の紋章と、黒譜の線が絡み合っている。


 セレナが息を呑む。


「星詠み断章の試験盤……。なぜここに」


「王国が捨てたものだ」


 エルバは楽しそうに言う。


「捨てたつもりで、隠していただけだが」


 試験盤が黒く光る。


 リシアの歌詞帳が強く震えた。


 ノエルの足元の黒譜も呼応する。


 開くものと、閉じるもの。


 記録が勝手にそう呼んだ二つの反応が、無理やり引き寄せられる。


 リシアは歌詞帳を押さえた。


 ノエルも黒譜を押さえる。


 二人の間に、見えない線が生まれる。


 エルバが静かに告げた。


「では始めよう。星詠みの歌が、人を救う歌か、人を壊す歌か。試してみようじゃないか」


 礼拝堂の床が震えた。


 壁の歌札が一斉に浮かび上がる。


 閉じられた歌が、夜でもないのに目を開こうとしていた。


 リシアはノエルを見る。


 ノエルも、ほんの一瞬だけリシアを見た。


 敵ではない。


 味方とも言えない。


 けれど、今この瞬間、二人の名前は同じ罠に絡め取られようとしている。


 リシアは小さく言った。


「あなたを鍵にはしない」


 ノエルは答えなかった。


 ただ、握りしめた紙を離さなかった。


今回は、リシアたちが王都外れの旧聖歌院へ向かいました。


そこにはノエルとエルバがいて、閉じられた歌札が黒譜によって利用されようとしていました。


リシアはノエルに対し、歌わず、無理に心を開かず、ただ言葉を紙に置くことで向き合いました。


ノエルもまた、自分は「閉じる声」ではないと口にします。


けれど、旧聖歌院には王国が隠していた星詠み断章の試験盤が残されていました。


リシアとノエルの反応が、エルバによって無理やり引き寄せられ始めます。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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