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王都の記録編 53話 名前を鍵にしない

王宮譜庫で第七封鎖記録を調べる中、リシアは、自分が「共鳴核候補」として記録されていたことを知った。

さらに、ノエル・ヴァイスも「拒絶核候補」として王国の記録に残されていた。

アイシャはその記録の中で、ノエルの拒絶反応を「欠陥ではなく防衛反応」と書き残していた。

また、ノエルはアイシャの魔力を乗せない短い歌だけは拒絶しなかったことも分かる。

そして旧保管庫に戻された紙片には、黒い譜面とともにこう記されていた。

開く声は見つけた。

閉じる声は、もうこちらにある。

リシアは、自分もノエルも役割ではなく、一人の人間として名前を取り戻さなければならないと感じ始めていた。


 開く声は見つけた。


 閉じる声は、もうこちらにある。


 その一文を読んだ瞬間、譜庫の空気が変わった。


 ただの脅しではない。


 エルバは第七封鎖記録を知っている。


 リシアを「開く声」と呼び、ノエルを「閉じる声」と呼んだ。


 まるで二人を、人ではなく鍵のように扱っている。


 リシアは胸元の歌詞帳を強く押さえた。


 ページの奥が熱い。


 けれど、その熱は歌いたいという衝動ではなかった。


 怒りに近い。


 自分の名前を、誰かの役割に変えられることへの怒り。


 そして、ノエルの名前まで同じように使われようとしていることへの怒り。


 シルが肩の上で、低く鳴いた。


 ちい……。


 小さな声なのに、そこにははっきりとした不満があった。


 リシアはそっと頬を寄せる。


「うん。嫌だね」


 シルは力強く頷いた。


 セレナが紙片を見下ろしたまま、低い声で言う。


「旧保管庫へ行く」


 その一言で、場の空気が動いた。


 レオンはすぐに頷き、マルセルへ視線を向ける。


「北棟の出入口を押さえてください。ただし、騒ぎは大きくしないように」


「承知しました」


 マルセルは短く答え、ユーディに指示を出す。


 ユーディは緊張した顔で頷いた。


 以前なら、その若い顔にはただ焦りが出ていたかもしれない。


 今は違う。


 怖さを抱えたまま、動くべきことを選んでいる。


 リシアはその姿を見て、少しだけ胸が締めつけられた。


 怖さを消して動くのではない。


 怖さを持ったまま選ぶ。


 アイシャが記録の中で言っていた言葉が、また胸に戻る。


 怖いって言って、それでも選ぶから勇気なんじゃないの。


 リシアは息を吸った。


「私も行きます」


 セレナは振り返る。


「当然だ。だが、走るな」


「え?」


「今のお前は、感情で走り出しそうな顔をしている」


 リシアは言葉に詰まった。


 否定したかった。


 けれど、たぶん当たっている。


 ノエルが危ないかもしれない。


 アイシャの残した記録がまた消されるかもしれない。


 そう思うだけで、胸が先へ行こうとする。


 セレナは続けた。


「行くなとは言わない。知るなとも言わない。ただし、急いで相手の罠に入る必要はない」


「……はい」


「今度は隠さない。だから、お前も一人で抱えて走るな」


 その言葉は、完全な許しには届かない。


 でも、確かに昨日までとは違っていた。


 リシアは頷く。


「分かりました」


 シルが肩の上で、ちい、と鳴いた。


 今の返事は悪くない。


 そんな顔をしていた。


「シル、審査員みたいになってるよ」


 ちい。


 シルは少し得意げに胸を張る。


 重い空気の中で、その姿だけが少し場を柔らかくした。


 旧保管庫は、王宮譜庫からさらに細い階段を下りた先にあった。


 壁は古く、灯火の数も少ない。


 王宮の中にある場所とは思えないほど空気が冷えている。


 普段、人が出入りしない場所なのだろう。


 石床には薄く埃が積もり、足跡だけが新しく残っていた。


 レオンが屈んでそれを確認する。


「最近のものです」


 セレナが壁に手を当てる。


「昨日か、今朝か」


 エルネアが頷く。


「旧保管庫の封は、今朝までは異常なしと報告されていました。戻された原本箱が見つかったのは、昼前です」


「なら、相手は王宮内の動きを知っている」


 マルセルの声が硬い。


 リシアは周囲を見渡した。


 ここには歌が少ない。


 譜庫のように多くの記録が残響を帯びているわけではない。


 むしろ、歌が押し込められ、音を奪われた場所のようだった。


 閉じられた記録。


 見なかったことにされた声。


 聞かなかったふりをされた言葉。


 それらが埃のように床へ積もっている。


 旧保管庫の扉は半開きになっていた。


 木製の扉には王国印が押されているが、その上から黒い線が一本、傷のように走っている。


 シルの毛が逆立った。


 ちいっ。


「黒譜ですね」


 リシアが言うと、エルネアが小さな鏡のような道具を取り出して扉を調べた。


「薄いですが、確かに残っています。封を破ったというより、一度内側から開けたような反応です」


「内側から?」


 ユーディが不安そうに繰り返す。


 セレナが扉の隙間を見た。


「つまり、鍵を持つ者か、記録そのものに封を開けさせた者がいる」


 リシアは胸元の徽章に触れた。


 自分の知らないところで、歌が鍵にされていた。


 ならば、他にも似たものがあるのかもしれない。


 ノエルの拒絶反応。


 アイシャの観測記録。


 それらもまた、誰かに鍵として使われている可能性がある。


 レオンが剣の柄に手を置いた。


「入ります」


 中は暗かった。


 灯火を掲げると、壁一面に古い保管箱が並んでいる。


 木箱、鉄箱、紙箱。


 その多くには封印紙が貼られていた。


 しかし、中央の机の上だけが不自然に片づいている。


 そこに、一つの黒い箱が置かれていた。


 箱の蓋には、王国の保管番号が刻まれている。


 第七封鎖記録関連原本箱。


 消えていたはずの箱だ。


 戻されたというより、見せつけるように置かれていた。


 エルネアが息を呑む。


「これです」


 リシアは近づこうとして、足を止めた。


 箱から、声が漏れている。


 音ではない。


 心歌に近いもの。


 けれど、誰か一人の声ではなく、何人もの声が重なり、細く絡まっている。


『見ないで』


『見て』


『消して』


『消さないで』


『名前を呼ばないで』


『名前を奪わないで』


 リシアは胸を押さえた。


 声が多い。


 それも、傷ついたまま閉じられていた声だ。


 不用意に開けば、一気に流れ込んでくる。


 セレナがリシアの表情を見て、すぐに言った。


「無理に聞くな」


「はい」


 リシアは答えた。


 以前なら、聞こえたからには聞かなければと思ったかもしれない。


 今は違う。


 聞くにも準備が必要だ。


 声を受け止める器がなければ、聞くことも暴力になる。


 ルゼットで人々が紙に書いたことを思い出す。


 声にならない声を、まず紙へ置いた。


 リシアは鞄から白い紙を数枚取り出した。


 旅の途中で買った、ルゼットの紙だ。


 薄くて丈夫で、灯りにかざすと繊維が綺麗に見える。


「ここに、聞こえたことを書きます」


 エルネアが頷く。


「記録としても残せます」


「でも、全部は書きません。必要なことだけ」


 リシアは自分にも言い聞かせるように言った。


「誰かの痛みを、全部ここで開くためじゃないから」


 レオンが静かに頷いた。


「それでいいと思います」


 セレナは箱の封を確認した。


「開けるぞ」


 エルネアが補助の術式を置く。


 レオンとマルセルが周囲を警戒する。


 ユーディは入口の近くに立ち、震える手を握りしめていた。


 シルはリシアの肩から机の上へ降り、白い紙の端を前足で押さえた。


 風もないのに紙が揺れる。


 それを止めるつもりらしい。


「ありがとう、シル」


 ちい。


 シルは誇らしげに鳴いた。


 ただし、もう片方の前足では黒糖胡桃の袋も押さえている。


 大事なものが多い。


 リシアは少しだけ笑った。


 セレナが箱を開けた。


 中には、記録簿の束と、黒い譜面片が入っていた。


 記録簿は何冊もある。


 ただし多くはページを抜かれ、穴だらけになっていた。


 表紙には、こう記されている。


 対象N第一次聴取。


 護衛観測者A申立記録。


 前線離脱処理。


 星詠み断章反応試験。


 リシアの指先が冷える。


 まさに失われていた原本だ。


 戻された。


 だが、完全ではない。


 必要な箇所だけ抜かれている。


 あるいは、必要な箇所だけ残されている。


 どちらにしても、相手の意図がある。


 セレナが護衛観測者A申立記録を手に取る。


「アイシャの記録か」


 ページを開くと、黒い染みが広がっていた。


 文字は半分ほど潰れている。


 それでも、いくつかの言葉は読めた。


 対象Nへの過剰歌術接触に抗議。


 拒絶反応を欠陥とする分類に反対。


 共鳴核候補Rとの接触制限に異議。


 リシアは最後の一文を見つめた。


 共鳴核候補R。


 自分のことだ。


 アイシャは、ノエルだけでなく、リシアとの接触制限にも反対していた。


 彼女は二人を会わせようとしていたのだろうか。


 それとも、逆に研究のために会わせられることを止めようとしていたのか。


 まだ分からない。


 エルネアが別の記録を開く。


「対象N第一次聴取。ここに、当時の反応記録があります」


 リシアは紙と筆を構えた。


 直接読まず、エルネアが必要な箇所だけ読み上げる。


 個人の詳細は避ける。


 そう決めた。


 エルネアは息を整えてから、低く読み始めた。


「対象N、慰撫歌に対し拒絶反応。術者三名、痛覚反響。対象N、発声困難を訴える。発言記録」


 そこでエルネアは少し止まる。


 リシアは頷いた。


「読んでください」


 エルネアは続けた。


「歌わないで。聞こえすぎる。入ってこないで」


 その言葉が、部屋の空気を震わせた。


 リシアの胸が痛む。


 ノエルの声としては聞こえない。


 ただ、記録上の文字だ。


 それでも、ルゼットで聞いた彼女の問いと重なる。


 あなたはまた、聞きたくない人に歌を聞かせるの。


 あの問いの根は、ここにあったのかもしれない。


 エルネアは次の行を読む。


「護衛観測者A、聴取室へ入室。術式歌唱の停止を要求。記録官、制止。護衛観測者A、発言」


 セレナが目を閉じる。


 リシアは手紙を握る。


 エルネアは読んだ。


「その子は壊れてるんじゃありません。痛いから押し返してるだけです」


 リシアの喉が詰まった。


 アイシャの言葉だ。


 記録の中でも、彼女はまっすぐだった。


 エルネアはさらに読む。


「護衛観測者A、非術式短旋律を使用。対象N、拒絶反応低下。発言記録」


 そこでページが破れていた。


 次の文字は欠けている。


 リシアは思わず身を乗り出しかけた。


 シルが紙の上から前足でリシアの指を押さえる。


 ちい。


 落ち着いて。


 そう言っているようだった。


「ありがとう」


 リシアは小さく言う。


 エルネアがページの断片を慎重に繋ぐ。


 わずかに読める言葉があった。


 パン。


 固い。


 スープ。


 勝てる。


 リシアは瞬きをした。


 その言葉を見た瞬間、胸の奥に昔の歌がよみがえる。


 今日のパンは少し固い。


 でもスープにつければ勝てる。


 アイシャがよく歌っていた、意味のない小さな歌。


 魔力もない。


 励ましの力もない。


 ただ、日常を少し笑わせるだけの歌。


 それを、ノエルは拒まなかった。


 リシアの目に涙が滲む。


 アイシャは、きっと分かっていたのだ。


 歌術では届かない場所があることを。


 力を乗せた優しさが、相手には痛みになることがあることを。


 だから彼女は、ただの歌を置いた。


 固いパンとスープの、どうでもいい歌を。


 リシアは紙に書いた。


 ノエルは、歌をすべて拒んだわけではない。


 魔力を持たない、日常の短い歌には反応が低下。


 アイシャは、それを知っていた。


 書きながら、胸が震える。


 その時、箱の中の黒い譜面片がかすかに動いた。


 シルが鋭く鳴く。


 ちいっ!


 黒い線が、記録簿の隙間から伸びた。


 リシアの紙へ向かうのではない。


 リシアの胸元の歌詞帳へ向かっている。


 セレナが即座に短剣を抜き、黒い線を切ろうとする。


 しかし、刃は線をすり抜けた。


 物理的なものではない。


 リシアは歌詞帳を押さえる。


 黒い線がページへ触れた瞬間、耳の奥で声がした。


『開け』


 低く、甘い声。


 エルバの声だ。


『閉じられた声を、君なら開けられる』


 リシアの視界が揺れる。


 旧保管庫の暗い部屋が、遠くなる。


 代わりに、別の場所が見えた。


 白い壁。


 細い窓。


 椅子に座る少女。


 薄い青髪。


 幼いノエル。


 彼女は両手で耳を塞ぎ、唇を噛んでいる。


 周囲では、白衣の歌術研究官たちが何かを記録している。


 誰かが歌う。


 優しいはずの旋律。


 落ち着いて。


 怖くない。


 大丈夫。


 けれど、少女の顔は苦痛に歪む。


『入ってこないで』


『やめて』


『私の中を見ないで』


 リシアは息を呑んだ。


 見てはいけない。


 これはノエルが見せたい記憶ではない。


 エルバの黒譜が、リシアの共鳴を利用して無理やり開こうとしている。


 ここで深く聞けば、ノエルの閉じた傷へ踏み込んでしまう。


 リシアは歌詞帳を握りしめた。


「開かない」


 声に出して言った。


 黒い線が震える。


『君は歌術師だろう』


 エルバの声が囁く。


『聞こえた声を、聞かずにいられるのか』


 リシアの胸が痛む。


 聞こえる。


 ノエルの心歌が、確かに聞こえる。


『痛い』


『歌わないで』


『でも、あの人の歌は痛くなかった』


『アイシャ』


 その名に、リシアの心が揺れた。


 もっと聞きたい。


 アイシャとノエルの間に何があったのか知りたい。


 アイシャがどこへ行ったのか、その手がかりがあるかもしれない。


 聞けば分かるかもしれない。


 でも。


 それは、ノエルの傷を勝手に開く理由にはならない。


 リシアは目を閉じた。


「ノエル」


 名前を呼んだ。


 呼び寄せるためではない。


 開くためでもない。


「あなたを、鍵にはしない」


 黒い線が大きく揺れる。


 リシアは続けた。


「あなたの名前を使って、あなたの傷を開かない」


 シルが机の上で飛び跳ね、黒い譜面片に体当たりした。


 小さな体なのに、迷いがない。


 黒い線が一瞬だけ乱れる。


 その隙に、セレナが術式封印の札を叩きつけた。


 エルネアが補助詩を低く唱える。


 レオンが剣を抜き、黒い線の中心に刃を置く。


 それぞれの力が重なり、黒い譜面片が裂け始めた。


 だが、完全には消えない。


 その奥から、ほんの一瞬だけ、別の声が聞こえた。


『……リシアさん?』


 ノエルの声だった。


 今のノエルか、記録の中のノエルか分からない。


 でも、確かに聞こえた。


 リシアは息を止める。


 追いかけたい。


 返事をしたい。


 けれど、今は魔力で返してはいけない。


 黒譜の線を通じて返事をすれば、エルバにまた利用される。


 リシアは目の前の白い紙に、急いで一文を書いた。


 あなたの名前は、鍵ではない。


 その文字を、黒い譜面片の前に置く。


 歌ではない。


 共鳴詩でもない。


 ただ、リシア自身の字。


 黒い線がその文字に触れた瞬間、ぱちりと小さく弾けた。


 譜面片が焦げるように縮む。


 エルバの声が低く笑った。


『面白い選び方をする』


「あなたに選ばせません」


 リシアは言った。


『では、彼女が選ぶといい』


 黒い声はそこで途切れた。


 譜面片は灰のように崩れ、机の上に黒い粉を残した。


 部屋に息が戻る。


 リシアは膝が揺れ、机に手をついた。


 シルが慌てて駆け寄る。


 ちいっ。


「大丈夫」


 リシアは息を整えながら答える。


「今度は、本当に大丈夫」


 シルは疑わしそうにリシアを見た。


 かなり信用されていない。


 リシアは苦笑しようとして、うまく笑えなかった。


 セレナがリシアの前に立つ。


「何を聞いた」


 その問いに、リシアは少しだけ迷った。


 ノエルの痛みをすべて話すべきではない。


 でも、危険に関わることは共有しなければならない。


 リシアは言葉を選ぶ。


「エルバは、私の共鳴でノエルの記録を開かせようとしました」


「やはりか」


「でも、今のノエル本人に繋がったのか、記録の残響に触れただけなのかは分かりません」


 レオンが眉を寄せる。


「声は聞こえたのですか」


「はい。一瞬だけ」


 リシアは紙に書いた一文を見る。


 あなたの名前は、鍵ではない。


「あれが届いたかどうかも、分かりません」


 エルネアが黒い粉を慎重に小瓶へ移す。


「この譜面片は、通信にも誘導にも使われていたようです。エルバはこちらの反応を測っていた可能性があります」


「つまり、私たちが何を選ぶか見ていた」


 リシアが言うと、エルネアは頷いた。


「はい。そして、リシアさんが無理に開かないことも見た」


 それが何を意味するのか。


 すぐには分からない。


 エルバにとって失敗だったのか。


 それとも、それすら次の罠の一部なのか。


 セレナは戻された記録簿を閉じた。


「ここにあるものは持ち出させない。エルネア、保全を」


「はい」


「レオン殿」


 セレナがレオンへ向く。


「王都外周の旧聖歌院について、王宮側で確認をお願いしたい」


 リシアが顔を上げる。


「旧聖歌院?」


 エルネアが説明する。


「かつて王宮歌術研究局が使っていた施設です。今は閉鎖されています。古い歌札や、使用禁止になった歌術具を一時保管していた場所でもあります」


「閉じられた歌の保管場所……」


 リシアは呟く。


 嫌な予感がした。


 エルバが歌を壊す材料を探しているなら、そこは格好の場所だ。


 そして、ノエルの閉じる力を利用しようとしているなら。


 レオンはすぐに頷いた。


「確認します。マルセル」


「すぐ手配します」


 マルセルが動く。


 ユーディも後に続こうとして、ふとリシアを見る。


「リシアさん」


「はい」


「さっきの言葉、ノエルさんに届くといいですね」


 真っ直ぐな言葉だった。


 リシアは少し驚き、それから頷いた。


「はい」


 届いたかどうかは分からない。


 でも、届いてほしいとは思う。


 歌ではなく、鍵でもなく、ただの言葉として。


 旧保管庫を出る前、リシアはもう一度、白い紙を見下ろした。


 あなたの名前は、鍵ではない。


 その文字の下に、黒い粉が小さく残っている。


 リシアは新しい紙を取り出し、同じ言葉をもう一度書いた。


 今度は丁寧に。


 それを鞄にしまう。


 いつかノエルに直接渡せるように。


 その夜。


 王都の外れにある廃れた礼拝堂で、薄い青髪の少女が目を開けた。


 崩れかけた天井の隙間から、月明かりが落ちている。


 床には黒い譜面が幾重にも広がり、古い歌札が壁一面に貼られていた。


 ノエルは耳に手を当てる。


 今も、微かな言葉が残っていた。


 あなたの名前は、鍵ではない。


 声ではなかった。


 歌でもなかった。


 それなのに、なぜか消えなかった。


「……余計なことを」


 ノエルは小さく呟く。


 その声に、礼拝堂の奥から笑いが返った。


 エルバだった。


 黒い外套をまとい、古い祭壇の前に立っている。


「届いたのか」


「あなたが勝手に繋いだのでしょう」


「だが、彼女は開かなかった。興味深いね」


 ノエルは冷たい目でエルバを見る。


「私の記録を、勝手に使わないで」


「記録は王国が作った。私は拾っただけだ」


「詭弁です」


「君がそれを言うのか」


 エルバは笑う。


「君も王国に名前を奪われた。だから黒譜を選んだ。違うか」


 ノエルは答えない。


 床の黒譜が、彼女の足元で静かに揺れる。


 エルバは祭壇の上に置かれた古い歌札を撫でた。


「開く声は、無理に開かなかった。ならば次は、閉じる声が何を選ぶかだ」


「私は、あなたの道具にはなりません」


「道具という言葉が嫌いなら、役目と言い換えよう」


「どちらも嫌いです」


 ノエルの声は静かだった。


 だが、その手はわずかに震えている。


 壁に貼られた古い歌札の一枚が、かすかに光った。


 そこには、アイシャの字に似た文字で短い一節が残っていた。


 固いパンも、スープにつければ勝てる。


 ノエルはそれを見て、ほんの一瞬だけ目を伏せた。


 エルバはその反応を見逃さなかった。


「その歌だけは、まだ閉じられないのか」


 ノエルは答えない。


 ただ、リシアから届いた言葉を胸の奥で押し返そうとした。


 あなたの名前は、鍵ではない。


 それでも言葉は消えなかった。


 月明かりの下で、古い礼拝堂の黒譜が静かに鳴り始める。


 閉じられた歌が、また誰かの名前を呼ぼうとしていた。


今回は、旧保管庫に戻された原本箱を調べる回でした。


リシアたちは、ノエルの痛みを勝手に暴かないよう、必要な範囲だけを確認することを選びました。


記録から、アイシャがノエルに歌術ではなく、魔力を乗せない日常の短い歌を届けていたことが分かります。


また、エルバはリシアの共鳴を利用して、ノエルの閉じられた記録を無理に開かせようとしました。


リシアはそれを拒み、「あなたの名前は、鍵ではない」という言葉を残します。


そして最後に、ノエルは王都外れの旧聖歌院らしき場所にいることが示されました。


次は、閉じられた歌が集まる場所へ向かっていきます。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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