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王都の記録編 52話 候補者と呼ばれた少女

第七封鎖記録には、リシアが「共鳴核候補」として扱われていた記録が残されていた。

アイシャは、リシアの歌を研究名で呼ばないでほしいこと、リシアに知る権利と選ぶ権利を残してほしいことを、セレナ宛の手紙に書いていた。

さらに、リシア宛の手紙には、泣いていいこと、怒っていいこと、そして星詠みの歌を完成させることだけを目的にしないでほしいという願いが綴られていた。

アイシャは死亡確認されたのではなく、所在不明から戦死扱いに移された可能性が浮かび上がる。

その直後、封鎖記録の最後の封筒から、ノエル・ヴァイスの名が記された黒譜適合候補者記録が見つかった。


 ノエル・ヴァイス。


 その名前は、黒い線で閉じ直された記録紙の中にあった。


 薄い灰色の紙。


 端に残る黒譜の痕。


 そこに並ぶ文字は、どれも冷たかった。


 歌術反応、拒絶型。


 心歌接触時、強い反発。


 黒譜共鳴、確認。


 第七封鎖記録との関連、要観察。


 リシアは、その文字から目を離せなかった。


 ルゼットの紙干し場で、ノエルは言っていた。


 歌は聞こえすぎることがある、と。


 励ましの歌ほど逃げ場がない、と。


 あの時のノエルの声は、ただの理屈ではなかった。


 自分の内側にある何かを、ひどく静かに押し殺した声だった。


 今、その名前が王国の記録にある。


 しかも、人の名としてではなく、候補者として。


 リシアの胸に、冷たい怒りが広がった。


『ノエルは、候補者じゃない』


『私も、共鳴核なんかじゃない』


『アイシャも、観測者なんかじゃない』


 心の中で浮かんだ声は、思ったより強かった。


 シルが机の上で低く鳴く。


 ちい……。


 小さな相棒も同じものを感じ取っているのか、尻尾の毛を逆立てて記録紙を睨んでいた。


 リシアはそっとシルの背を撫でる。


「うん。嫌な書き方だね」


 ちい。


 シルは強く頷いた。


 その反応があまりにも真剣で、リシアは少しだけ息を吐けた。


 レオンが記録紙を覗き込み、眉を寄せる。


「黒譜適合候補者記録……。王宮側の正式記録ですか」


 エルネアは紙面の印を確認しながら答えた。


「正式記録の形式ではあります。ただ、通常の保管系統とは違います。王宮歌術研究局の印があるのに、管理番号は軍務局のものです」


「つまり、表に出せない共同記録か」


 セレナの声が低くなる。


「可能性があります」


 エルネアは慎重に頷いた。


「それに、この封筒は一度開けられています。おそらく、エルバか、彼に近い者が内容を確認したあと、黒譜で封じ直した」


 リシアは封筒に残る黒い線を見る。


 エルバ。


 ルゼットで人々の声を奪おうとした男。


 彼がこの記録を読んだのなら、ノエルの過去を知っている可能性がある。


 あるいは、ノエル本人よりも詳しく。


 それが、ひどく嫌だった。


 誰かの痛みを本人より先に記録で知り、それを使う。


 それは、リシア自身が今されていることにも近い。


 だからこそ、慎重でなければならなかった。


 リシアはエルネアを見る。


「この記録、全部読む必要がありますか」


 エルネアは少し驚いたように瞬きをした。


「リシアさん?」


「ノエルがここにいないのに、私たちが勝手に全部読むのは……違う気がします」


 譜庫に沈黙が落ちた。


 セレナが静かにリシアを見る。


 リシアは続ける。


「もちろん、危険があるなら調べなければいけません。エルバが狙っているなら、なおさら。でも、ノエルの痛みをただの情報として開くのは、したくありません」


 言いながら、リシアは自分自身にも刺さるのを感じていた。


 では、アイシャの記録はどうなのか。


 自分は読んだ。


 手紙も、処理記録も、残響も。


 そこにはアイシャ本人の許しがあった部分もある。


 でも、すべてではない。


 知ることと暴くことの境目は、いつも明確ではない。


 レオンが小さく頷いた。


「必要な範囲を決めましょう」


 彼は机の上の記録紙へ視線を落とす。


「今必要なのは、ノエルさんがどんな傷を負ったかを詳しく知ることではなく、エルバが何を狙っているか、そして第七封鎖記録とどう繋がるかです」


「はい」


 エルネアが表情を引き締める。


「では、個人の詳細記述は飛ばし、分類と関連項目だけ確認します」


 セレナも頷いた。


「それでいい」


 リシアは少しだけ胸を撫で下ろした。


 勝手に読まれることの痛みを、今の自分は知っている。


 だから、ノエルに対して同じことをしたくなかった。


 それが十分かどうかは分からない。


 でも、せめてそう決めたかった。


 エルネアは記録紙を慎重にめくった。


 黒く塗りつぶされた箇所が多い。


 名前。


 年齢。


 出身地。


 保護施設名。


 関係者。


 ほとんどが伏せられている。


 しかし、伏せられていない箇所もあった。


 リシアは机に身を乗り出しすぎないよう気をつけながら読む。


 対象N。


 歌術反応、拒絶型。


 心歌接触時、共鳴詩を弾く傾向あり。


 慰撫歌、励起歌、沈静歌、いずれも逆反応。


 歌術師側に痛覚反響あり。


 エルネアが眉を寄せる。


「共鳴詩を弾く……。かなり特殊です」


「普通はどうなるんですか」


 レオンが尋ねる。


 エルネアは少し考えてから答えた。


「心歌に触れられた側が拒絶することはあります。でも、その場合は歌が届かない、または歌術師に軽い反動が返る程度です。ここに書かれているのは、もっと強い拒絶です」


「歌そのものを押し返すのか」


「はい。しかも、痛みとして」


 リシアはノエルの言葉を思い出す。


 あなたはまた、聞きたくない人に歌を聞かせるの。


 あれは、理屈だけの問いではなかった。


 ノエルは本当に、歌が体へ痛みとして届くのかもしれない。


 あるいは、歌を押し返すたびに、自分も痛んでいるのかもしれない。


 次の行に、リシアの目が止まった。


 拒絶反応は欠陥ではなく、防衛反応の可能性あり。


 その一文だけ、筆跡が違っていた。


 硬い研究記録の中に、急に人の温度が混じったような字。


 リシアは息を呑む。


「これ……」


 セレナが身を乗り出す。


 しばらく見つめた後、低く言った。


「アイシャの字だ」


 譜庫の空気が揺れた。


 アイシャ。


 また、その名が記録の中から現れる。


 リシアはその一文を見つめた。


 拒絶反応は欠陥ではなく、防衛反応の可能性あり。


 ノエルを壊れたものとして扱う記録の中で、誰かがそう書き残していた。


 アイシャが。


 リシアの胸が苦しくなる。


 アイシャは、リシアだけを守ろうとしていたのではない。


 ノエルのことも、人として見ようとしていたのかもしれない。


 セレナの手が、机の縁を強く握る。


 リシアには、師の心歌がまた届いた。


『あいつは、どこまで見ていた』


『私より先に』


『私より深く』


 リシアは何も言わない。


 セレナ自身が向き合うべき痛みだった。


 エルネアはさらに記録を確認する。


「次の項目に、第七封鎖記録との関連があります」


 声が緊張していた。


 リシアも息を整える。


 そこには、図のようなものが描かれていた。


 中央に、星詠み断章と書かれた円。


 その片側に、共鳴核候補。


 もう片側に、拒絶核候補。


 共鳴核候補の下には、リシア・フェルミナ。


 拒絶核候補の下には、対象N。


 つまり、ノエル。


 リシアの喉が詰まった。


 人の名前を、また役割へ変えている。


 共鳴核。


 拒絶核。


 まるで、何かの装置の部品のように。


 エルネアは苦しげに説明した。


「仮説として書かれています。星詠み断章を安定させるには、閉じられた想いを聞き取る共鳴側と、過剰に開きすぎる想いを遮断する拒絶側が必要だと」


「開く声と、閉じる声」


 リシアは呟いた。


 ルゼットで見つけた言葉が胸に戻る。


 近すぎる歌は、少し遠くで灯ればいい。


 遠ざけた声も、なくさなくていい。


 星詠みの歌が、失われた想いを返す歌なら。


 それをただ開くだけでは、人を壊す。


 閉じる力も必要なのかもしれない。


 聞きすぎないための力。


 届きすぎないための力。


 それはノエルの黒譜が持つ可能性に似ている。


 しかし、記録はそれを人の形で見ていなかった。


 リシアを共鳴核として。


 ノエルを拒絶核として。


 利用しようとしていた。


 レオンが静かに言う。


「正しく使えば、選べる歌に近づく可能性がある。だが、悪用すれば」


「すべての想いを無理やり開かせるか、すべての声を閉じさせるか」


 セレナが言葉を継いだ。


 その声は重い。


 リシアは黒譜の核を思い出す。


 ルゼットで、声を奪った静けさ。


 エルバが目指しているものが、少し見えた気がした。


 歌を壊す。


 声を消す。


 痛みの根を断つ。


 もし彼が拒絶側の記録を手に入れているなら、静音符よりもっと強いものを作ろうとしているのかもしれない。


 エルネアがページの端を指した。


「ここに追記があります」


 小さな文字だった。


 黒塗りの下に、かろうじて残っている。


 対象N、護衛観測者Aとの接触時のみ、歌術反応の低下を確認。


 リシアは瞬きをした。


「護衛観測者A……」


 セレナがすぐに答える。


「アイシャだ」


 エルネアがさらに読む。


「対象Nは、護衛観測者Aの発声を拒絶せず。歌術ではなく、非術式の短旋律に対して安定反応」


「非術式の短旋律?」


 ユーディが小さく呟いた。


 騎士としては聞き慣れない言葉なのだろう。


 エルネアは説明する。


「魔力を乗せない鼻歌や短い旋律のことです。歌魔術ではない、ただの歌」


 ただの歌。


 その言葉に、リシアの胸が震えた。


 ノエルは歌を拒絶する。


 歌術に痛みを返す。


 けれど、アイシャのただの歌だけは拒まなかった。


 なぜ。


 アイシャが何を歌ったのかは分からない。


 明るい行進歌だろうか。


 子どもに向けた短い鼻歌だろうか。


 それとも、リシアが昔から知っている、あの何気ない適当な歌だろうか。


 リシアは幼い頃のアイシャを思い出した。


 鍛錬帰りに、彼女はよく意味のない歌を歌っていた。


「今日のパンは少し固い」


「でもスープにつければ勝てる」


「明日の訓練こそ寝坊しない」


「たぶんしない、きっとしない」


 あまりに適当で、リシアはいつも笑ってしまった。


 歌術でも何でもない。


 魔力も、意味深な旋律もない。


 ただ、日常を少し柔らかくする歌。


 ノエルが拒まなかったのは、そういう歌だったのかもしれない。


 リシアは目を伏せる。


 歌術師としての歌ではなく、人として口ずさむ歌。


 それが、歌を拒む少女のそばに届いた。


 その事実が、なぜかとても大きく思えた。


 エルネアが次の行を読み、声を止めた。


「どうしました」


 レオンが尋ねる。


 エルネアは迷うようにリシアを見る。


「読み上げます」


 彼女は静かに言った。


 対象N、護衛観測者Aの同行後、記録室より一時離脱。


 回収班、追跡失敗。


 以後、対象Nの所在不明。


 護衛観測者A、単独聴取後、前線離脱。


 リシアの心臓が強く鳴った。


 ノエルが、記録室から離脱。


 その後、所在不明。


 アイシャが、その後に単独聴取を受け、前線離脱。


 まるで、二つの失踪が繋がっているように見える。


 セレナの顔が険しくなる。


「アイシャがノエルを逃がした可能性がある」


 誰もすぐには否定しなかった。


 リシアは手紙を握りしめる。


 アイシャなら。


 そう思ってしまう。


 記録の中で候補者として扱われていた少女を見て、ただ命令に従う人ではなかった。


 欠陥ではなく、防衛反応だと書いた人だ。


 ノエルを逃がしたとしても、不思議ではない。


 ただ、その後に何が起きたのか。


 なぜアイシャが戻らなかったのか。


 なぜ戦死扱いにされたのか。


 まだ分からない。


 レオンが低く言う。


「エルバは、この繋がりを知っているのかもしれません」


「だからノエルを利用している?」


 ユーディが苦しそうに言った。


「利用というより」


 エルネアは記録紙を見つめる。


「ノエルさん自身も、この記録の一部を知っている可能性があります。自分がどう扱われていたか。王国が何をしたか。その怒りが、黒譜側へ向かわせたのかもしれません」


 リシアはノエルの顔を思い出す。


 王国は都合の悪い歌をよく隠す。


 あの言葉は、ただの推測ではなかったのかもしれない。


 彼女は知っていた。


 少なくとも、何かを。


 そして、その記録の奥にアイシャがいることも知っていたのだろうか。


 リシアは胸元の歌詞帳を開いた。


 先ほど浮かんだ一文が、まだ残っている。


 『名前を記録に奪われた者たち』


 その下に、新しい文字が滲むように現れた。


 『開く声だけでは、傷になる』


 『閉じる声だけでは、消えてしまう』


 リシアはその言葉を見つめた。


 胸が苦しい。


 でも、少しだけ分かりかけている。


 リシアの歌は、聞く。


 ノエルの黒譜は、閉じる。


 それは敵同士の力としてぶつかってきた。


 けれど、本来は対になるものなのかもしれない。


 ただし、それを記録の通りに使えば、人は部品になる。


 リシアも、ノエルも。


 誰かが星詠みの歌を完成させるための材料にされる。


 それだけは、絶対に違う。


「ノエルに会わないと」


 リシアは小さく言った。


 セレナがすぐに顔を上げる。


「危険だ」


「分かっています」


「エルバもノエルを追っている可能性がある」


「だからです」


 リシアは記録紙を見る。


「ノエルがこの記録を知っているのか、知らないのかは分かりません。でも、エルバがこれを利用するなら、彼女も危ない」


「ノエルがお前の話を聞くとは限らない」


「はい」


「むしろ拒絶するだろう」


「たぶん」


 シルがちい、と鳴いた。


 なぜか少し自信ありげだった。


 リシアは肩の上の相棒を見る。


「シルは、ノエルが黒糖胡桃を食べると思う?」


 ちい。


「そこは自信あるんだ」


 ちいっ。


 譜庫の重い空気の中で、ユーディが小さく笑いをこらえた。


 マルセルが横目で見たが、叱りはしなかった。


 レオンも少しだけ口元を緩める。


 その小さな緩みが、リシアにはありがたかった。


 重すぎる記録の中でも、シルはシルだ。


 それは、リシアが人としてここに立つために必要なものだった。


 セレナはしばらく黙っていたが、やがて言った。


「探すなら、記録から足跡を追う」


「はい」


「感情だけで飛び出すな」


「気をつけます」


「それから」


 セレナは一度、言葉を切った。


「今度は、私も隠さない」


 リシアは師を見る。


 セレナの表情は硬い。


 けれど、その言葉は確かに差し出されていた。


 リシアはすぐには笑えなかった。


 まだ、すべてを許せたわけではない。


 それでも、頷くことはできた。


「お願いします」


 セレナは静かに頷いた。


 その時、譜庫の扉が慌ただしく叩かれた。


 エルネアが扉を開けると、王宮書記官の青年が息を切らして立っていた。


「失礼します。旧保管庫で異変が」


 レオンの表情が引き締まる。


「何があった」


「消えていたはずの原本箱の一つが戻されていました。ただ、中身が」


 書記官は震える手で、小さな紙片を差し出した。


 そこには、黒い譜面の欠片が貼りついている。


 そして、その横に一行だけ文字があった。


 開く声は見つけた。


 閉じる声は、もうこちらにある。


 リシアの背筋に冷たいものが走った。


 エルバの字だろうか。


 それとも、別の誰かか。


 ノエルが彼のもとにいるという意味なのか。


 それとも、ノエルの黒譜だけを指しているのか。


 まだ分からない。


 ただ一つ、はっきりしたことがある。


 エルバは、第七封鎖記録の仮説を知っている。


 そして、リシアを「開く声」と見ている。


 ノエルを「閉じる声」と見ている。


 人としてではなく。


 記録が呼んだのと同じように、役割として。


 リシアはアイシャの手紙を胸に押し当てた。


 リシアはリシアです。


 私が保証します。


 その言葉が、震える心を支える。


「私は、開く声なんかじゃない」


 リシアは静かに言った。


 譜庫の中の全員が彼女を見る。


「ノエルも、閉じる声なんかじゃない」


 シルがリシアの肩で力強く鳴いた。


 ちいっ。


 リシアは記録紙を見つめる。


 名前を奪われた者たち。


 その名前を、役割から取り戻さなければならない。


 アイシャが守ろうとしたもの。


 ノエルが拒絶してきたもの。


 リシアが今、選ばなければならないもの。


 王宮譜庫の奥で、閉じられた記録はまだ震えていた。


 そしてその震えは、もう過去だけのものではなかった。


今回は、ノエルの名前が残された黒譜適合候補者記録を確認しました。


ノエルは「拒絶型」として記録され、リシアは「共鳴核候補」、ノエルは「拒絶核候補」として、星詠み断章の仮説の中に組み込まれていました。


しかし、アイシャはその記録の中で、ノエルの拒絶反応を「欠陥ではなく防衛反応」と書き残していました。


また、ノエルはアイシャの魔力を乗せない短い歌だけは拒絶しなかったことも分かりました。


最後に、エルバが第七封鎖記録の内容を知っており、リシアとノエルを「開く声」「閉じる声」として見ていることが示されました。


リシアは、自分もノエルも役割ではなく一人の人間として名前を取り戻す必要があると感じ始めています。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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