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王都の記録編 49話 閉じられた譜庫の鍵

紙燈町ルゼットでは、黒譜の札である静音符が人々に使われていた。

それは苦しい歌や記憶を遠ざけ、眠れない夜を越えるためのものだった。

しかし、札にはエルバの罠が仕込まれており、紙燈祭の夜、町の人々から声そのものを奪い始める。

リシアは人々に今言いたいことを紙へ書いてもらい、その声を守るために歌った。

ノエルもまた、声を奪うやり方を否定し、一時的にリシアと協力する。

ルゼットは、歌う者も、歌えない者も、聞きたくない者も責めないことを選んだ。

そしてノエルは去り際に、王都に近い場所でエルバが動く可能性を告げる。

リシアは、王国の記録へ向かう必要を感じ始めていた。


 王都の尖塔が見えた時、リシアは無意識に足を止めていた。


 高い城壁。


 白い石で組まれた門。


 遠くからでも分かる王城の屋根。


 それらは以前と変わらず、晴れた午後の光を受けて静かに立っている。


 けれど、リシアの中でだけ、その景色は少し違って見えた。


 勇者レオンが帰ってきた町。


 進軍詩を裁くのではなく、帰るための歌へ変えた町。


 そして、リシアがずっと目を逸らしてきた記録の眠る場所。


 王都は、旅の始まりの場所でもある。


 歌わないことを選んだ朝。


 慰霊の丘で歌詞帳が震え、シルと出会った場所。


 あの時の自分は、ただ逃げるように王都を離れたのかもしれない。


 今は違う。


 逃げるためではなく、知るために戻ってきた。


 そう思おうとしても、足は重かった。


 肩の上で、シルが小さく鳴く。


 ちい。


 リシアは少しだけ笑う。


「大丈夫。緊張してるだけ」


 ちい。


「本当だよ」


 ちい。


「……少し怖いのも本当」


 正直に言うと、シルはリシアの頬へ前足を当てた。


 柔らかい。


 小さな温度が、張りつめた心を少し緩める。


 そして、その前足には黒糖胡桃の欠片がついていた。


「シル」


 ちい?


「慰めてくれるのは嬉しいけど、頬に黒糖がついた気がする」


 シルは慌てて前足を引っ込めた。


 ごまかすように王都の門を見つめる。


 かなり分かりやすい。


 リシアは指で頬を拭い、ほんの少し笑った。


 笑えるなら、まだ歩ける。


 そう思えた。


 門へ近づくと、衛兵たちが旅人の荷を調べていた。


 戦後の王都は以前より警戒が強くなっている。


 それでも、勇者の名前編の頃に比べると空気はわずかに柔らかい。


 焦りや熱狂に満ちた「勇者様」の声は、もうそこまで大きくない。


 代わりに、家族を迎えに来た人々の声や、荷を運ぶ商人の愚痴、子どもたちの笑い声が混じっていた。


 リシアは門の前で名前を告げた。


「リシア・フェルミナです。王宮歌術師エルネア・フィリスさんから、王宮譜庫への呼び出しを受けています」


 衛兵は目録を確認し、すぐに顔を上げた。


「リシア殿ですね。話は通っています」


「ありがとうございます」


「それと、マルセル隊長から伝言が。城門内の詰所で待つようにとのことです」


「マルセルさんが?」


 レオンの護衛隊長の名を聞き、リシアは少し驚いた。


 王都に戻れば、いずれ会うとは思っていた。


 けれど、門で待っているとは思わなかった。


 衛兵が道を開ける。


 リシアが門をくぐると、王都の匂いが押し寄せてきた。


 焼いたパン。


 馬車の油。


 石畳に残った雨の匂い。


 人の多さから生まれる熱。


 そして、その奥に、かすかに歌の残り香がある。


 遠くの広場で、誰かが鼻歌を歌っていた。


 何でもない日常の歌。


 その穏やかさに、リシアは胸の奥が少し痛んだ。


 歌が怖い町もある。


 歌に救われる町もある。


 歌を利用した記録が眠る町もある。


 どれか一つだけを見て、歌の答えを決めることはできない。


 詰所の前には、マルセルが立っていた。


 相変わらず背筋が伸び、鎧には隙がない。


 だが、以前よりほんの少し表情が柔らかく見えた。


 彼の隣には、ユーディもいる。


 若い騎士はリシアに気づくと、顔を明るくした。


「リシアさん!」


「ユーディさん。お久しぶりです」


 リシアが頭を下げると、ユーディは慌てて姿勢を正した。


「お、お久しぶりです。あの、妹に木彫りを渡せました」


「リリちゃんに?」


「はい。少し歪んでいましたけど、喜んでくれました」


 ユーディの声には、照れと誇らしさが混じっている。


 自分を盾にすることしか考えていなかった若い騎士が、妹との約束を持って帰ってきた。


 その変化が嬉しくて、リシアは自然と微笑んだ。


「よかったです」


「はい」


 ユーディは頷き、それから少し声を落とす。


「でも、王宮譜庫の件は、あまり良い話ではなさそうです」


 マルセルが引き継ぐように口を開いた。


「セレナ殿とエルネア殿が、旧歌術隊記録の封鎖棚を開けた」


「封鎖棚……」


「進軍詩の運用記録より古いものも含まれているらしい。王国印と歌術隊印の両方で閉じられていた棚だ」


 リシアの胸が重くなる。


 王国印。


 歌術隊印。


 その二つが重なる記録。


 そこには、きっと戦場だけではない歌の使われ方が残されている。


 マルセルはリシアの顔色を見た。


「無理に今日行く必要はない。長旅の後だろう」


「いえ。行きます」


 リシアはすぐに答えた。


 怖い。


 でも、後回しにすれば楽になる種類の怖さではない。


 ルゼットで見た静音符。


 ノエルが告げたエルバの行き先。


 それらが王都の記録に繋がっているのなら、急がなければならない。


 ユーディが心配そうに言う。


「レオン様も、後で顔を出すと言っていました」


「レオンさんも?」


「はい。王宮内での確認があるので、すぐには来られませんが」


 レオン。


 王都に残ることを選んだ勇者。


 彼は今、この町で勇者様としてではなく、レオンとして歩こうとしている。


 その彼も、また記録に向き合うことになるのだろう。


 リシアは頷いた。


「分かりました」


 マルセルは案内のために歩き出した。


 城門から王宮へ向かう道は、相変わらず広い。


 両側には白い石柱が並び、ところどころに戦後の修復跡が残っている。


 石畳の一部は新しく、色が少し違う。


 王都は傷を隠そうとしているわけではない。


 けれど、見える場所から順に整えているのだと分かった。


 人の心も、そう簡単に整えられたらよかったのに。


 そんなことを思ってしまう。


 途中、訓練帰りらしい騎士たちとすれ違った。


 彼らはリシアの徽章に気づき、小さく会釈する。


 その中の一人から、かすかな心歌が聞こえた。


『あの歌で立てた』


『でも、夜になると足が震える』


『感謝している』


『恨んでもいる』


 リシアは足を止めかけた。


 けれど、その騎士は何も言わずに通り過ぎる。


 リシアも追いかけなかった。


 聞こえたからといって、すぐに拾い上げていいわけではない。


 ルゼットで、カヤから言われた言葉を思い出す。


 歌って、聞こえない声まで拾うから。


 それは救いにもなる。


 でも、踏み込みすぎれば傷にもなる。


 リシアは胸元の歌詞帳を押さえ、歩き続けた。


 王宮譜庫は、城の北棟の地下にある。


 階段を下りるほど、空気は冷たくなった。


 石壁には灯火が並び、薄い黄色の光が長い廊下を照らしている。


 紙と革表紙と古いインクの匂い。


 その奥に、歌魔術特有の微かな残響がある。


 歌われた歌。


 書き留められた歌。


 使われた歌。


 失われた歌。


 それらが薄い層となって、譜庫の空気に沈んでいた。


 扉の前には、エルネアが待っていた。


 王宮歌術師らしい整った服装だが、目元には疲れが見える。


 昨夜も遅くまで記録を読んでいたのだろう。


「リシアさん」


「エルネアさん」


 リシアが頭を下げると、エルネアは少しだけ安堵した顔をした。


「来てくださってありがとうございます」


「状況は?」


「よくありません」


 その一言だけで、胸の奥が冷える。


 エルネアは扉を開けた。


 中には高い書架が並んでいる。


 奥の閲覧机には、セレナが立っていた。


 リシアの師。


 元王国騎士団直属歌術隊隊長。


 進軍詩の記録に署名を残した人。


 セレナはリシアを見ると、いつものように静かに頷いた。


「来たか」


「はい」


 それだけのやり取り。


 でも、その短さの奥に、言えないものがいくつもある。


 リシアの耳へ、セレナの心歌がかすかに触れた。


『また、この子に見せるのか』


『隠して守ったつもりだった』


『守ったのは、誰だった』


 リシアは胸が痛んだ。


 けれど、その心歌を口にはしない。


 セレナが今、自分で言葉を選ぶまで待つ。


 閲覧机の上には、古い記録簿が三冊置かれていた。


 どれも革表紙が傷み、金具が錆びている。


 一冊目には、進軍詩運用記録。


 二冊目には、凱旋讃歌改訂草案。


 そして三冊目には、見慣れない題が刻まれていた。


 静律補助符試験記録。


 リシアは息を止めた。


「静律……補助符?」


 エルネアが頷く。


「歌魔術の反響を弱めるための札です。名前は違いますが、ルゼットで使われた静音符に近い構造があります」


 リシアの指先が冷える。


 静音符は、黒譜の民だけが作り出したものではない。


 少なくとも、原型に近い研究が王国側にもあった。


 セレナが静かに言う。


「本来は、戦場帰りの兵が眠れるようにするための補助具だった」


「眠るため……」


「進軍詩や警戒歌の残響で、夜に眠れない者が増えた。歌を完全に消すのではなく、一時的に遠ざける。そういう目的で始まった」


 リシアはルゼットの人々を思い出す。


 眠りたい。


 聞きたくない。


 遠ざけたい。


 同じだ。


 最初の願いは、たぶん悪意ではなかった。


 けれど、悪意ではなかったものが危険にならないとは限らない。


 エルネアが記録簿を開く。


 古い文字が並んでいた。


 実験記録。


 被験者の名前。


 使用した歌。


 反応。


 副作用。


 リシアは思わず目を背けそうになる。


 そこに人の夜が、数字のように記録されていた。


「読んでもいいですか」


 リシアが尋ねると、セレナは少し間を置いて頷いた。


「そのために呼んだ」


 リシアは記録へ目を落とした。


 眠れぬ兵士に対し、静律補助符を使用。


 進軍詩の反響、三割低下。


 悪夢、軽減。


 翌朝、恐怖申告の減少。


 そこまでは、まだ理解できる。


 次の行で、リシアの喉が詰まった。


 悲嘆申告、減少。


 帰還不能者名の想起、鈍化。


 戦場復帰意欲、上昇。


 リシアは記録から顔を上げた。


「これは……休ませるためではなく、戻すために使われていたんですか」


 セレナは答えない。


 エルネアが苦しそうに目を伏せる。


「途中から、目的が変わっています」


「誰が」


「まだ調査中です。ただ、王国側の軍務局と、旧歌術隊の一部が関わっています」


 旧歌術隊。


 リシアの喉が乾く。


「セレナさんは?」


 問いは自然に出た。


 責める声にしたくない。


 けれど、責めの響きが完全に消えたとは思えなかった。


 セレナは逃げなかった。


 机の向こうで、まっすぐリシアを見る。


「初期の運用制限案には署名した」


「制限案」


「眠れない兵への短期使用。本人の同意。戦場復帰の判断材料にしない。記録にそう明記した」


 エルネアが別紙を差し出す。


 そこには確かに、セレナの署名があった。


 筆跡も知っている。


 リシアが何度も見た、師の字だ。


 だが、その下に別の文書が重ねられている。


 運用拡大案。


 士気維持のため、恐怖反応の軽減に転用。


 悲嘆反応の抑制。


 集団歌唱時の混乱防止。


 そこにも、セレナの署名があった。


 ただし、筆圧が違う。


 文字の形も、ほんの少し硬い。


 リシアは目を細めた。


「これは……」


「私の字ではない」


 セレナは言った。


 声は低い。


「だが、私の印が押されている」


 沈黙が落ちた。


 偽造。


 それとも、印の流出。


 いずれにしても、王国の中で誰かがセレナの名を使った。


 リシアの中に怒りが湧いた。


 けれど、その怒りはすぐに別の痛みにぶつかる。


 たとえ後半の署名が偽造でも、最初の研究に王国側が関わっていた事実は消えない。


 休ませるための札が、戻すための札へ変わった。


 眠りたい人の夜が、戦場へ再び向かわせる道具に変えられた。


 ルゼットの静音符と同じだ。


 聞きたくない夜を守るはずの札が、声を奪う罠に変わった。


 リシアは記録簿へ手を伸ばしかけた。


 触れていいか、すぐには分からない。


 残響歌を使えば、ここに残る声が聞こえるかもしれない。


 けれど、聞くことは痛みを連れてくる。


 セレナが言った。


「聞くなら、私も同席する」


 リシアは師を見た。


「いいんですか」


「これは、お前だけの責任ではない」


 その言葉に、リシアの胸が詰まる。


 もっと早く、その言葉を聞きたかった。


 でも、今聞けたこともまた、意味があるのかもしれない。


 リシアは頷き、記録簿の端に指を置いた。


 残響歌を開く。


 深く入りすぎない。


 紙に残る声へ、そっと耳を近づける。


 最初に聞こえたのは、疲れた兵士の息だった。


『眠りたい』


『歌がまだ鳴っている』


『立てって、まだ聞こえる』


『もう立ってるのに』


 次に、別の声。


 治療士だろうか。


『せめて今夜だけでも眠らせたい』


『恐怖を消すのではなく、遠ざけるだけなら』


『明日、自分で話せるように』


 そこには、確かに優しさがあった。


 だが、ページをめくるように残響が変わる。


 軍務官らしき声。


『泣く者が増えれば隊が崩れる』


『帰還不能者の名を口にするな』


『恐怖反応を抑えれば、次の進軍に間に合う』


 リシアの指が震える。


 さらに奥で、若い兵の心歌が重なる。


『怖いって言ったはずなのに』


『朝になったら、怖さが遠い』


『遠いなら、行けると思ってしまう』


『これは自分の勇気なのか』


 リシアは息を吸う。


 指を離そうとした。


 その瞬間、別の声が聞こえた。


 明るい、よく知った声。


『それは違うでしょ』


 リシアの心臓が跳ねる。


 アイシャ。


 残響の中で、若いアイシャの声がした。


『怖さを消して進ませるのは、勇気じゃない。怖いって言って、それでも選ぶから勇気なんじゃないの』


 リシアは目を見開いた。


 記録簿の文字が滲む。


 アイシャの声は、すぐに遠ざかる。


 誰かが低く言う。


『護衛騎士アイシャ・リーヴェルト、記録外発言。削除』


 リシアは指を離した。


 息が乱れていた。


 シルが肩から飛び降り、リシアの手に前足を置く。


 ちい。


「大丈夫」


 リシアは言った。


 でも、声は震えていた。


 セレナが表情を強張らせている。


「何を聞いた」


 リシアはすぐには答えられない。


 アイシャの声。


 記録外発言。


 削除。


 それが何を意味するのか。


 彼女はただ戦っただけではなかった。


 記録の運用に異議を唱えていた。


 少なくとも、この残響の中では。


「アイシャの声が」


 リシアはようやく言った。


 セレナの顔色が変わった。


 エルネアも息を呑む。


「この記録に、アイシャが関わっていたんですか」


 セレナはすぐに答えなかった。


 その沈黙が、答えに近かった。


 リシアの耳に、セレナの心歌が細く届く。


『そこまで残っていたのか』


『消したはずではない』


『いや、消させたのは私ではない』


 リシアは立ち上がる。


「セレナさん」


 声が、思ったより静かに出た。


「アイシャは、この記録を知っていたんですね」


 セレナは目を閉じた。


 長い沈黙。


 そして、低く答える。


「一部だけだ」


「なぜ、私に」


「言えば、お前は止まらなかった」


「止まらなかったら、いけなかったんですか」


「当時のお前は、まだ歌術隊の中で守られる側だった」


 リシアの胸に、鋭い痛みが走る。


「守られる側」


「そうだ」


「私の歌は、戦場で使われていたのに?」


 セレナの顔が歪む。


 リシアは続けた。


「私の歌は使われて、でも私は知らなくてよかったんですか」


 声を荒げたわけではない。


 それでも、言葉は譜庫の冷たい空気を震わせた。


 セレナは拳を握る。


「知らなくてよかったとは言わない」


「でも、知らせなかった」


「ああ」


「なぜですか」


 セレナはリシアを見た。


 師の目には、疲れと後悔があった。


「お前が折れると思った」


 短い答えだった。


「アイシャは違うと言った。リシアなら知って、それでも歌う形を探すと言った。だが私は、そうは思えなかった」


 アイシャ。


 リシアなら知って、それでも歌う形を探す。


 その言葉が胸に刺さる。


 アイシャは、自分を信じていた。


 セレナは、守ろうとした。


 どちらが正しかったのか、簡単には言えない。


 でも、リシアの中に取り残された痛みは確かにある。


「私は、知りたかったです」


 リシアは言った。


 セレナは目を伏せる。


「そうだな」


 それだけだった。


 謝罪としては足りないのかもしれない。


 けれど、言い訳で覆われるよりはよかった。


 エルネアが、静かに机の端から一枚の紙を取り出した。


「もう一つ、見ていただきたいものがあります」


 リシアは息を整える。


「何ですか」


「この静律補助符試験記録の末尾に、封鎖された添付資料がありました」


 紙は古く、端が焼けている。


 表題だけが残っていた。


 第七封鎖記録。


 星詠み断章関連調査。


 リシアの心臓が、静かに跳ねた。


 星詠み断章。


 エルネアの声が硬くなる。


「閲覧者名簿に、あなたの名前はありません。セレナ殿の名前も、正式には残っていません」


「では、誰が?」


 エルネアは紙をリシアへ向ける。


 そこには、複数の名前が並んでいた。


 軍務局高官。


 王宮歌術研究官。


 そして。


 リシアの視線が、一つの名前で止まった。


 アイシャ・リーヴェルト。


 手が冷たくなる。


 その横に記された日付を見て、息が止まった。


 リシアが知っているアイシャの戦死日より、三日後。


 リシアは紙を見つめたまま、動けなかった。


 死んだはずの日の後に、アイシャの名前がある。


 誤記かもしれない。


 偽造かもしれない。


 けれど、偶然だとすぐには思えなかった。


 歌詞帳が胸元で強く震える。


 シルが毛を逆立てた。


 譜庫の奥の封鎖棚から、微かな歌声のようなものが漏れる。


 それはリシアの記憶の中のアイシャの声に、少しだけ似ていた。


 リシアは、かすれた声で呟く。


「アイシャ……?」


 王宮譜庫の灯火が、小さく揺れた。


 閉じられていた記録の奥で、失われたはずの名前が、まだ消えずに残っていた。



今回から王都の記録編に入りました。


ルゼットで見た静音符の問題が、王国側の古い研究と繋がり始めています。


最初は眠れない兵を休ませるためだったものが、やがて恐怖や悲嘆を抑え、再び戦場へ向かわせるために使われていく。


その危うさに、リシアは王国側も向き合わなければならないと知りました。


そして最後に、アイシャの名が戦死日の後の記録に残っていることが分かりました。


リシアにとって、避けて通れない記録が開き始めています。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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